僕の恋、思い出と勝負するのは分が悪すぎる 第四回
6
それから数日後の午後、僕はやはり公園にいた。
家を出た時は晴れていたのだが、だんだん雲が広がってきた。これは一雨来るかもしれない、と思った時、向こうから歩いてくる彼女と出くわした。手には赤い傘と紙袋を持っている。
「あ、こんにちは」
やはり彼女の方から先に挨拶をされた。
「こんにちは。なんだか降りそうですね。夜まで持つかな~とも思ったんですが」
天気の話なら、すらすら口から出てくる。当たり障りない話題の最たるものだからか。
「こないだ人に貸した傘が、ちょうど戻ってきたところだから、降り出しても大丈夫だけどね」
彼女はそう言って傘を振り、笑った。
その経緯は知っている。何日か前にも夕立があって、急な雨に困っているおじいさんに傘を差し出している彼女を見た。彼女はそのまま走って帰ってしまい、僕はそれを遠目に見送るだけで何も出来なかった。追いかけたところで、僕も傘は持っていなかったからだ。
「不思議なんだけど、傘を買って帰ると、決まってそのあとに雨が降り出すの。で、これまた決まって人に貸しちゃうから、自分が使わずじまいになることが多いんだけどね。今回は戻ってきたわ。ついでにお菓子ももらっちゃった」
こうやって笑うところはとても子供っぽく見えるが、二年前に二十六歳で亡くなった鷹取一真と同い年ということは、今二十八歳。僕より四つ年上だ。
しかしこの調子では、雨の日に拾った犬や猫が家にたくさんいるのではないか――ふとそんなことを思った。その時、
「お兄ちゃん!」
皐月の声が背中から飛んできた。
「こんなところで何やってるの!? 担当さんから聞いたよ、全然小説の原稿進んでないって!」
一歩遅れて榊さんも走ってきた。
「見つけた! この期に及んで、吞気に散歩してる余裕なんてあると思ってるの!? イラストさん待たせてるんだから、さっさと原稿書きなさいよ!」
突然の騒ぎに目を丸くしている彼女に、
「あ……明理さん。すみません。ちょっと兄の仕事のことでごたごたしてまして」
皐月がぺこりと頭を下げ、すぐにまた僕の方を睨む。
「真面目に原稿書いてるのかと思ってたら、まさか毎日ふらふら散歩してるだけで、何も書いてなかったなんて、担当さんから聞いてびっくりだよ!」
「書けない、で済めば担当編集は要らないのよ! そこを書かせるのがこっちの仕事、締め切り守るのがそっちの仕事、デッドを超えたらどうなるか、わかってるでしょうね――」
「大体、あんなとんでもないところで『つづく』にしといて、書けない、ってどういう料簡!? 無責任すぎるでしょ! 待ってる読者の気持ちがわからないの!?」
「そうよ、待ってる編集の気持ちもわからないの!?」
「いや、あの……その……」
榊さんと皐月の迫力に僕が本気でたじろいでいると、不意に横から腕を引っ張られた。
「待ってください」
彼女が僕を庇うように前へ出た。
「書けないものは書けない――そういうこともあります。わかってあげてください」
彼女の言葉に、榊さんがにべもなく答える。
「ごめんなさい、部外者は黙っていてもらえますか。これは仕事の話なので」
「……確かに部外者ですけど、そういう仕事のことは私もよくわかるので、黙って聞いていられません」
「どういう意味ですか?」
彼女は息を呑むようにひとつ間を置いてから、きっぱりと言った。
「私、漫画を描く仕事をしているので。仕事には締め切りがあることも、待っている読者がいることも、描けない時は描けないのも、よく知っています」
「明理さん……漫画家さんだったんですか!? 教えてくれればよかったのに!」
皐月が白々しい演技で驚いてみせると、彼女は苦笑いした。
「わざわざ言うようなことじゃないし……私も今、皐月ちゃんのお兄さんと同じような感じだし……」
「え、明理さんもスランプなんですか?」
「……そうね。もう長くスランプで、各方面に迷惑かけっぱなしね……。だから、描けない辛さと、それを待ってくれてる人への申し訳なさは、痛いほどわかるの……」
彼女は伏し目がちに答え、庇われた僕はひたすら感心していた。
――すごい。計画通りだ。
皐月と榊さんの計算では、彼女の前でふたりが僕の急ブレーキを悪し様に責めれば、彼女は僕を庇うはず、その流れで彼女の口から漫画家であること、スランプ中であるという発言も引き出せるはず、とのことだった。僕としては、そう上手く行くものか、大いに不安と懐疑を抱いていた。
果たして、蓋を開けてみれば、見事に策が嵌まった。
ということは、この先も計画通りに進めるつもりなのか――と思った時、皐月がこっそりこちらへ目配せしてから口を開いた。
「じゃあ明理さん、ちょっと兄の話を聞いてあげてもらえませんか?」
「え?」
「私たちだと、どうしても早く書け書けって急かすだけになっちゃうし、同じ状況の人同士で話したら、何か違う心境になれるかもしれないし」
「そうね――マイナス掛けるマイナスはプラスになる。スランプ同士で同病相憐れんで、それでエンジンがかかるってこともないではないかも? とにかく一縷の望みでも、賭けてみるしか――!」
「え? え?」
皐月と榊さんに両側から詰められ、彼女は目をぱちぱちさせる。
「お願いします! ちょっとそこの喫茶店でも行って、スランプ談義でパーッと盛り上がってもらえませんか」
「ほら、ちょうど雨もパラパラ降ってきたし、雨宿りと思って! 私たちは退散するので、どうぞ作家同士で編集の悪口でもなんでも愚痴を言い合ってください。それで原稿が上がるなら本望なんで! はい、これ私の名刺です。弊社の名前で領収書もらってくださいね!」
ふたりにぐいぐい押されて公園から押し出され、そのまま僕と彼女は近くの喫茶店へ入ったのだった。
7
かなりの力業だったが、とりあえずは皐月と榊さんが立てた作戦通りに進んでいる。
小さな喫茶店の片隅で、彼女と向かい合って座りながら、
「小説家さんだったんですね」
「あ……はい、知る人ぞ知る感じでやらせてもらってます」
「私もそうですよ」
「いやいや、そんな」
僕は上の空で受け答えをしていた。心の内では会話の段取りを考えるのに必死だった。
今日、僕に課されたミッションは、自分のことばかり話さない、彼女の話を聞く、ということだ。けれど、どんどん彼女の方から問いかけられてしまう。
「もしかして、前に泣いてた時って、原稿が書けなくて?」
「や、あの、あれは、そういうわけでは……あの時点では大丈夫だったというか」
「そうなの? でもあの時はちょっとびっくりしたというか、あんまり綺麗に泣いてるから、映画でも撮ってるのかと思って咄嗟にカメラ探しちゃったけど、ないみたいだったから近づいてみたんだけど」
「……そうですか、すみません紛らわしくて」
同じことを榊さんにも言われたが、僕の泣き方はそんなに特徴的なのだろうか。自分の泣き顔を自分で見る趣味はないので、よくわからない。
……って、いや、だから今日は僕のことを話す日じゃない。
姉さんは事情を訊かれたくないわけじゃない、むしろきっかけさえあれば話したいはずなんだ――というのは弟くんの弁だった。だから、僕に原稿を書かせるため、と言いながら、その実、今日のこれは彼女のためのお膳立てなのだ。
同じ作家と呼ばれる職業で、続き物の続きを書けなくなっていて、追い詰められている人間。それを目の前に置かれれば、彼女の口の滑りも良くなるだろう、という目論見である。
ただし、力強い進行役が退散してしまった今、ひたすら僕がひとりで頑張るしかない。詮索が苦手だとかなんとか言っている場合ではない。
聞く覚悟があるなら、訊ねれば姉さんはきっと素直に答えるよ――と弟くんは言った。その覚悟とはどういう意味なのか、不安はあったが、もうここまで来たら肚を括るしかない。
注文した飲み物が来たところで、僕は改めて切り出した。
「あの、僕はこういう状態になったのが初めてで――原因が何なのかもわからず、ただ書けないと言うしかなくて、この有様なんですが」
普段ならば、ここで言葉を切るか、自分のどうしようもなさを延々と語り出すところ、頑張って「あなたは?」と問いを繋げた。
「原因不明?」
彼女はまずそこに反応してから、
「私の場合は、描けなくなった原因がはっきりしてるから……ちょっと状況が違うかもしれないわね」
とつぶやいた。僕はその発言に喰い下がることにした。
「書けない原因さえわかればなんとか対処が――と思ったのですが、原因がわかっていても、なんともならないものですか?」
「なんとも――ならないのよね。……私の場合は」
彼女は苦笑した。
なぜなんともならないのかは、知っている。恋人が死んだからだ。作家は、作品の中で登場人物の生死を自由に出来ても、現実世界で死者を生き返らせることは出来ない。
けれど今は、何も知らない振りをして、どうして坊やになるしかない。
「どうしてなんともならないのか、訊いてもいいですか? ――いや、あの、参考までに! 僕の書けない原因がもしわかった時、参考になるかもしれないというか!」
小心者ゆえ、質問に言い訳を付け足してしまう僕に、彼女は「う~ん」と唸った。
「私の状況は、あんまり参考にはならないと思うけど……」
「それでも、もしよかったら! 聞かせてもらえませんか。……本当に、これまで書けなくなったことなんてなくて、藁にも縋りたい気持ちというか……いえ、あなたが藁だと言いたいわけじゃないんですが……!」
ここまでお膳立てされて、何の収穫もなく帰ったら、僕はきっと皐月と榊さんから袋叩きにされる。そんな恐怖と怯えの表情を彼女はどう受け取ったのか、ひとつため息を吐いてから答えた。
「あのね――二年前、恋人が死んだの。彼をモデルにヒーローのキャラを作ったから、その作品のことを考えると、彼を思い出して辛いの。だから描けないの」
同じことを弟くんから聞いていた。けれど、彼女自身の口からこうも端的に言われると、また違う衝撃が僕の胸を貫いた。
「こんなの、原因がわかっていたってどうにもならないでしょう? 死んだ人は生き返らない。もう彼の声を聞くことは出来ない。……でもヒーローの台詞を考えようとすると、彼の声が耳に蘇ってきて、それが幻だと我に返る度、涙が溢れて考えがまとまらなくなる。何も描けなくなるのよ――」
彼女の目が赤く潤んでいる。これ以上、彼女に辛いことを話させたくない気持ちと、そこまで彼女の中に強く残り続ける鷹取一真という男のことをもっと知りたい気持ちが、僕の中でせめぎ合っていた。
「……ずっと、忘れられないんですか。その人のことが」
「忘れる必要はないと思ってる」
彼女は即答した。
「彼のことを忘れたいというより、吹っ切りたいと思ってる。彼とのことを消してしまうんじゃなくて、それはもうそれとして、大切な過去の宝物として、前を向いて生きたいと思ってるの。――でも、彼をモデルにした作品に向き合う度、彼を思い出してしまう。彼と過ごしたいろんな時を思い出して、吹っ切れなくなるの」
くちびるを震わせて彼女は続ける。
「――許されるなら、もう描きたくない。投げ出してしまいたい、と思う。でも、この作品が私を出世させてくれた。私自身、大好きな作品だし、描けるものなら描きたい、とも思う。続きの展開はずっと先まで考えてあるし、大勢の読者がその続きを待ってくれている。そんな読者のことを思うと、自分の感情的な理由だけで打ち切りには出来ない――。編集部の方も、私の心の整理が出来るまで待つと言ってくれてはいるけれど、そろそろどうですか、と訊かれても、頭の中はずっとごちゃごちゃのままで――」
描きたい。描きたくない。覚えていたい。思い出したくない。吹っ切りたい。吹っ切れない。様々な思いが渦を巻いて、出口が見えない。そんな状況が目に見えるような彼女の表情だった。
「あの写真の人ですよね? 手帳に挟まってた――。僕、芸能人に疎くて、あの時はわからなかったんですが、あとでテレビで見かけて……」
「ああ、気づいちゃった? あの時は、気づかれなくてラッキー、って思ったんだけど」
彼女は肩を竦めて微笑った。僕もそれを真似て微笑った。
「大丈夫です。週刊誌に売ったりしませんから。――ところで」
僕は思うところがあり、確認した。
「描けないのは彼をモデルにした作品だけで、別の作品は描ける、ということでしょうか?」
「……うん、漫画は大好きだから。描いてないと死んじゃうくらい」
「死んじゃうくらい、ですか」
僕はまた微笑ってみせた。
あの日、弟くんの登場で彼女の正体がわかったあと、皐月の蔵書にずらりと並ぶ五條レイト作品を見せられた。何十巻と続くヒロイックファンタジー『カンパネラ』シリーズと、それと並行して描かれている学園ラブコメ作品多数、そんな中に交ざって『まさかの真坂さん』と『あり得ない有江さん』というタイトルが気になったが、四コマギャグ漫画らしい。作風に幅のある五條レイト先生である。
「じゃあ、ひとつ提案ですが――僕が原作を書くというのはどうでしょう」
「えっ?」
彼女が目を丸くして僕を見た。
「原作?」
「はい、テキスト素材を僕が作る、というか。ストーリーに関しては、ずっと先までプロットは出来ているんですよね? でも彼の台詞が書けないから、それに絡む他のキャラたちの会話も組み立てられなくて、結果、ネームがまとまらないということですよね? だったら、既刊とプロットを見せていただければ、僕がそれに合わせて彼の台詞を含めたシナリオ形式の原稿を書いて、お渡しすることが出来るかなと思って」
「……え、でも……」
彼女の瞳が戸惑いに揺れる。
「学生時代、漫研の友人に頼まれて、漫画の原作シナリオを書いたりしたこともあるんです。だから書き方の勝手はなんとなくわかるので、内容の方はおかしいところがあれば指摘してもらいつつ、すり合わせていけばなんとかなるんじゃないかと」
「で、でも、あなたも自分の原稿が書けなくて大変なんでしょう。人の原作原稿を書いてる場合じゃないんじゃ」
「僕の場合は、原因不明のスランプなので、何をどうしたら解決するのかとんとわかりませんし――気分転換に普段と全然違うことをしてみるのもいいんじゃないか、って思いついたんです。ただ書けない書けないって唸っていても何も変わらないし、駄目で元々、やってみませんか」
「ダメ元……」
「ええ。やってみてやっぱり駄目だったら仕方ないとして、何もしないでいるよりはお互いマシな時間を過ごせるんじゃないかと思うんです。僕も実際、文章を書くのは好きなので、何か書いていられるのは嬉しいんです」
「……」
「あ、うまいこと連載再開の運びになっても、原作協力のクレジットとか名前出していただかなくて結構ですから。むしろそんなことされてしまうと、僕の方の読者に『自分の原稿書かずに何やってるんだ!』って叱られちゃいますから」
「原作協力……シナリオ……そんな手が……」
彼女は呆然とつぶやく。
「でも……私のためにそんな、やっぱりご迷惑じゃ」
「ありません!」
食い気味に僕は言い切った。
「僕の方は、書けないものは書けないんで、そう言って待ってもらうしかないです。でもあなたの方は、やり方次第でなんとか出来るかもしれない。それに、あなたの描かれる作品にとても興味があります。ぜひ手伝わせてください」
「本当に……? いいの……?」
「はい!」
僕は力強く頷いた。
押しの弱さで定評のある僕が、一生分の押しを使い果たした気がする。
「既刊といっても、すごく長いんだけど……何十冊もあるんだけど」
彼女はまだ躊躇いを見せながら言う。僕はもう、開き直りの境地で訊ねた。
「今さらですが、作品名を伺っていいですか?」
「あ、ごめんなさい。今さら名乗るのも何だけど、五條レイトというペンネームで、『カンパネラ』シリーズというファンタジー漫画を描いていて――」
「あ、それなら知ってます! 読んでます!」
「え、ほんと」
「妹が大ファンなんですよ。それで勧められて読んで、僕もすっかりハマってしまって。続きが気になってたんですよ!」
本当にあれから既刊を全部読んだのだ。本当に読み始めたら止まらなくなり、本当にとんでもないところで中断されていた。本当に続きが気になるので、個人的にも連載再開を待ち望んでいる。
「でも、だったら話は早いですね。これまでのストーリーは知ってますし、あとはこの先のプロットを見せていただいて、それと、出来れば――」
僕はいったん言葉を切り、彼女の表情を窺いながら続けた。
「キャラクターの理解を深めるために、モデルとなった彼について詳しく教えていただけたら嬉しいのですが……やっぱりそれは、辛いですか……?」
すると、彼女は存外あっさりと首を横に振った。
「彼の思い出話をするのはね、別にいいの。それはそこまで悲しくならないの。ただ、彼はもういないのに、彼の分身みたいなキャラの台詞を考えるということが出来なくて。……わかってもらえるかしら、この感覚」
「わかる気がします」
過去を一緒に過ごした人のことを懐かしく思い出すのは苦ではないけれど、その人がもう存在しない未来を想像するのは辛い、考えたくない、というのはわかる。だから、彼がもういない世界で、彼をモデルにしたヒーローの台詞を考えることが出来ないのか。
ならば一層、生前の鷹取一真という人のことをちゃんと教えてもらわなければ、彼女の代わりにこれからの彼を想像することも出来ない。僕にとっては苦行になるだろうが、乗り越えなければならない壁だ。
覚悟を決めて、僕は彼女に思い出話を促した。
【つづく】