僕の恋、思い出と勝負するのは分が悪すぎる 第三回

   4

 くして僕は、翌日から毎日公園を散歩するように命じられた。
 さかきさんと皐月さつきが代わる代わる物陰に潜んで僕を見張っており(そんな暇があったら仕事なり勉強なりした方がいいのでは、という僕の指摘は無視された)、彼女が現れたら合図をして知らせよとの命令だった。
 彼女が公園にやって来る時間は、日によってまちまちである。それは僕も同じで、原稿に集中している時は何日も家から出なかったりするし、散歩するにしても毎日同じ時間というわけではない。だから見ない時は何週間も彼女の姿を見かけなかったりする。
 とにかく毎日、時間を変えて公園をぶらついていたある日の午前中。ちょうど榊さんが見張り番の時、彼女が現れた。買い物帰りなのか、長ネギの頭が覗いたマイバッグを提げて歩いている。
 声を掛けることはせず、右手で二回、左手で三回、頭をいた。それが『カノジョ、アラワル』の合図である。すぐに榊さんからのメッセージがスマホに返ってきた。
『どの人?』
『買い物袋に長ネギが覗いてる人』
『了解! これから彼女を追いかけるから、弥生くんは帰って待ってて』
 指示通りに家で待っていると、しばらくして榊さんと皐月が揃ってやって来た。
「この人で間違いない?」
 と言って見せられたスマホの画面には、皐月の後ろに彼女が写り込んだ写真があった。
「このご時世、盗撮もいろいろ難しいから、急いで皐月ちゃんを呼び出して、姉妹の振りをして写真を撮り合ってるていで、上手く写り込ませたのよ」
「こんな隠し撮りなんかしなくても
「もし人違いだったら困るでしょ。確認のためよ」
「こっそり尾行したら、公園向こうの高級マンションに入ってった。普段、働いてる風でもないんでしょ? 家がお金持ちなのかな」

 僕の住むマンションと公園を挟んだ反対側には、高層マンションが建っている。家賃的に、ちょっと僕には手の出ない住まいであることは間違いない。
「まあとにかく、顔はわかったから、次の作戦にGO!」
 皐月はそう言って、数日後にとんでもないものを手に入れてきた。
はい、これ、彼女の名前と携帯の番号」
 渡されたメモを見て、僕は眼をいた。
「どうやってこんなものを!?」
「さっき、公園で彼女を見かけたから、近くでおろおろ歩き回って、財布を落とした振りをしたの。本当に親切な人だったよ。一緒に財布を捜してくれて、まあ嘘なんだから見つからないのは当然で、家に帰る電車賃がないって言ったらお金を貸してくれて。ちゃんとお金は返したいから連絡先を教えてくださいでゲットしたのがこれ」
 我が妹ながら、凄腕すごうで
「なんていうか、いい人だけどガードがゆるいっていうか、ちょっと心配になっちゃう人かもしれないね、あの人。だまされやすい人かも
 おまえが腹黒いだけだ。
 という言葉をみ込み、改めてメモに目を落とす。
はなみやあかさん」
 れいな名前だ。
「とりあえず、名前と連絡先がわかれば、この先はどうとでもなるよね」
「どうとでも、って?」
 僕が問い返すと、皐月の目が「このポンコツ兄貴」と口ほどに物を言った。
「だから、私がお金を返しに行く時、近くについでがあったからとか言って、一緒に待ち合わせ場所へ来ればいいじゃん。それで、奇遇ですね~とかっておしゃべりして距離を縮めれば。そうすればこの先、公園で彼女を見かけた時、この間は妹がどうも、とかって会話のきっかけが出来るじゃん」
「なるほど
 中学生の妹にこんな指南を受けている僕は一体と情けなくならないでもないが、彼女のことをもっと知りたいという気持ちにはあらがえない。話が出来る機会を得られるなら、願ってもないことだ。
「待ち合わせの時間と場所が決まったら、また連絡するから」
 と言って皐月は帰っていった。
 その夜のことだった。
 リビングで雑誌を読みながら、付けっぱなしにしていたテレビにふと目を向けた時、思いがけない人物の顔を発見して驚いた。
 あの人だ。彼女の彼氏
 それは何かのバラエティ番組の、イケメン俳優を特集したコーナーだった。そこで、事故死した伝説のイケメン俳優として紹介されていたのが、彼女花宮明理さんとツーショットで写真に納まっていた男性だった。
 あの時、「カッコイイ彼氏ですね」と口走ったのは、実際に写真の男性がみずぎわった美形だったからだ。それもそのはず、人気のイケメン俳優だったのか
 僕は芸能人にはまったくうとく、アイドルもイケメン俳優と言われる人々も皆同じ顔に見える。けれど彼の顔に関しては、あの写真を見たせいで、びっくりするほど克明な記憶がのうに焼きついていた。
 慌ててテレビにかじりつくと、彼たかとりかずきょうねん二十六歳)は、モデルとしてデビューしたあとに映画やドラマに引っ張りだことなり、全国的な人気を博したが、二年前に海外のロケ先で交通事故にって亡くなったとのことだった。
 もういない、と彼女が言ったのは、まさに言葉通り、もうこの世にいないということ。そして僕が「カッコイイ彼氏ですね」と言った時に複雑な表情を見せた理由もわかった。
 あのはっきりと彼の顔が写ったツーショット写真を見られたことにまず警戒し、けれど僕が彼を芸能人だと気づいていなかったことに、それはそれで戸惑ったのだろう。そして、「これ、俳優の鷹取一真さんですね!」ではなく、ごく素直に恋人同士だと判断した僕の反応が、彼女の胸をいたのかもしれない。
 そんなことを考えていると、榊さんから電話が来た。
『皐月ちゃんから聞いたわよ! 名前と連絡先ゲット出来たんだってね』
「うん。それと、たった今とんでもない事実が発覚して
『え、何、どしたの?』
 今テレビで見たもののことを話すと、
『鷹取一真!? うそ! え~!? 恋人いたの!? ファンだったのにー!』
 一頻り叫んだあと、榊さんははたと我に返ったように訊いてきた。
『ねえそれほんとの話? 彼女のツーショット写真、ほんとに鷹取一真だった?』
「間違いないよ。アップの写真もあったし、ほくろの位置も一致してた」
 頭には彼女とお揃いの変な帽子を載せていたものの、顔は隠れていなかった。スタイルの良い長身と、精悍せいかんに整った顔立ち、左目の下の泣きぼくろが印象に残るイケメンだった。モデルで俳優と言われたら、納得するしかないヴィジュアルだ。
『じゃ、じゃあさ、彼女が鷹取一真のファンで、たまたま彼のロケ先で遭遇そうぐうして、一緒に写真撮ってもらっただけとかじゃないの? ちょうどファンサ強化の神対応月間で、写真断らなかっただけとかさ』
「いくら神対応月間でも、行きずりのファンとお揃いの指輪をして写真撮る?」
『うっゆ、指輪!?』
 木の実をさいした玩具おもちゃの指輪だったけれど、それが見えるように撮られた写真もあった。
『くぅッ』
 榊さんは無念のうなり声を漏らし、続いて深いため息を吐いた。
『そりゃあね鷹取一真の熱愛発覚! なんて記事はしょっちゅう出てたけど、ほとんどが封切り前の映画の共演相手とかで宣伝丸出しだったし本命はまさかの一般女性パターンかー
榊さん、そんなに彼のファンだったの?」
 意気消沈ぶりがさすがに心配になって訊ねると、大声の力説が返ってきた。
『あのねえ! 鷹取一真といったら、あの鷹取グループのおんぞうなの! 資産どんだけあるのかわからない大金持ちの家に生まれて、英才教育を受けて名門大学を出て、スポーツも万能で脱いだらすごくて、あの顔面なのよ! それがテレビや映画のスクリーンに垂れ流されてて、玉の輿こしを夢見ない女がいる!?』
 榊さん、思った以上に俗物ぞくぶつだった
 でも、そのれつきわめる椅子取りゲームの勝者こそ、彼女だったというのか?
 なんとなくに落ちなくて僕は考え込んだ。
 人気俳優と極秘交際。彼女のふんから、そんなゴシップの見出しはとても想像がつかなかった。
 なんというかこう、言い方は悪いけれど、『日陰者の恋人』感が全然ない。
 僕にとって彼女は、泣くも笑うも感情のまま、自由に生きている人、というイメージなのだ。恋人から存在を隠されて、こっそり交際することを良しとするようなタイプには見えない。
 それとも、僕も榊さん同様、これは何かの勘違いだと思いたいだけなのか。
 相手がただ顔がいいだけの男ではないと聞いてしまったから。大企業の御曹司で文武両道のイケメン俳優。自分が勝てるところは何ひとつないから。そんな男をこいがたきにしたくないから。現実から目を背けようとしているだけなのか
『あ、そうそう』
 僕が内省にふけっている間に、榊さんは平静を取り戻したようだった。
『ついでに言うと、弊社へいしゃからも鷹取一真の写真集が出てるのよ。まだデビューしたばっかの頃の初々ういういしい姿が拝めるやつ。彼の事故死で記録的な増刷がかかったという伝説付き。今度持ってってあげる』
「え、いいよ。別に見たくない」
 そんな自分の傷口に自分で塩を塗り込むような真似まねはしたくない。
『とにかく、週刊誌の部署に同期がいるから、もっと鷹取一真の情報を仕入れてくるわ。彼の存命中よりはガードが緩くなってるはずだし、彼女との関係が何かわかるかも』
よろしく」
 ふたりの関係の実際を、知りたいような知りたくないような複雑な気持ちで僕は電話を切った。


   5

 それから三日後の午後、僕は皐月と一緒に公園へ向かった。
 彼女花宮明理さんと連絡を取った皐月が、そこで待ち合わせて電車賃を返すことになったからだ。
 約束の場所(小さな噴水の前)でしばらく待っていると、麦わら帽子をかぶった彼女が現れた。
「明理さん! こっちこっち」
 この三日の間にどんなやりとりがあったのか、皐月が親しげに名前を呼んで彼女を手招きした。
「すみません。暑いのに外へ呼び出しちゃって」
「ううん。私は近所だから全然いいんだけど、皐月ちゃんこそわざわざ来てもらっちゃって悪いわ」
 彼女はそう答えながら、皐月の隣にいる僕に視線を移した。それに気づいて皐月が言う。
「あ、兄です。このすぐ近所に住んでるんですけど、私が知らない人から電車賃を借りたって話したら、自分もお礼を言いたいってついてきちゃって」
 待ち合わせ場所がこの公園に決まったので、ついでがあって一緒に来たというよりは、その方が自然だろうということになったのだ。
 皐月は説明しながら後ろ手で僕の腕をつつく。それを受けて僕は慌てて口を開いた。
「そ、そうなんです。電車賃がないなら僕のところへ来ればいいのに、知らない人から貸してもらったと聞いて、申し訳なくて
「へえ皐月ちゃんのお兄さんだったんですね。この間はありがとうございました」
「いえ! こちらこそ、妹がお世話になりましてありがとうございました」
 頭を下げ合う彼女と僕を見て、
「え、ふたりは知り合いだったの?」
 皐月が白々しく驚いてみせる。
「知り合いというか
 どう答えるのが彼女に対して失礼にならないで済むか、僕がくちごもっているうちに、彼女の方があっさりと答えた。
「この公園でお互いに時々見かける、という程度の緩い顔見知りってやつですよね。やっぱりご近所さんだったんですね」
「あ、はい
 時々、というのはどのくらいのひん、回数を指しているのだろう? 泣いている僕の隣に座ってくれた時以前から、僕を認識してくれていたのだろうか? それともそう思うのは自惚うぬぼれの拡大解釈だろうか?
 頭の中がぐるぐるし始めた僕の腕を皐月がまた突いて言う。
「あの、もし時間あれば、どこかでお茶でも飲みませんか? 兄がおごると言ってるので」
「あ、そうね
 彼女はスマホを取り出して時間を確認し、「じゃあ近くの」と言いかけたところで、その手にあるスマホが鳴り出した。
「ごめんなさい、仕事の電話が来ちゃった! また今度、ゆっくりお茶でもしましょう。じゃ!」
 片手を立てて謝って、彼女は慌ただしく帰っていった。
 その後ろ姿を見送りながら皐月が言った。
「一応、仕事持ってるみたいね」
「そういえば、これまでも電話が来て帰ってくことが多かったし、忙しい仕事なのかな」
「在宅で何かやってるのかもね」
 そう答えてから皐月はじろりと僕をにらんだ。
「それより、お兄ちゃんせっかくの機会に自己紹介もしなかったじゃない。何やってるの!」
「だ、だって
 僕からすれば、あの流れで彼女をお茶に誘える皐月の強引さは異次元の離れわざだ。普段、興味のないことには至ってローテンションで他人にも無関心なくせに、いざ目的があるとなれば、如才じょさいなく立ち回れる妹の行動力がうらやましい。
「これからも毎日散歩して、彼女を見たら挨拶あいさつしなさいよ。私のドジをダシにしていいからさ。もうちょっと親密度上げないと、告白しようもないでしょ」
「親密度
「それとも、もういきなり『ずっと遠くから見てました、好きです!』って言って告白する? それで突撃して振られて終わりにしたいなら止めないけど」
「いやいやいや」
 僕はぶんぶん首を振った。
 そういう告白、漫画で見たことはあるが、実際のところそんな風に告白されたら恐怖でしかないと僕は思う。知らない人に陰からこっそりどれだけ見つめられていたのか、想像するだに恐ろしい話だ。そんな恐怖を彼女に与えたくない。
「お兄ちゃんが押しヨワなのはわかってるけど、でも時間がいくらでも使えるとは思わないでよ。お兄ちゃんはプライベートの問題で仕事相手に迷惑かけてる状態なんだからね、早く問題を解決して、原稿書きなさいよ!」
 妹の言葉にぐうのも出ず、翌日からも僕は毎日公園を散歩することになった。
 そして数日後の夕方近く、彼女と遭遇そうぐうした。
「あ、こんにちは」
 彼女の方から挨拶をしてもらい、僕も慌てて「こんにちは」と返した。
 もっとも彼女は、この公園の常連さんたちとは大抵顔見知りで、誰にでも明るく挨拶をする。僕だけが特別というわけではないのはわかっている。
「先日は、妹がお世話になりました。あ、この間は自己紹介もしなくてすみません。水嶋弥生といいます」
 劇で自分が言う台詞せりふだけをひたすら暗記するように、彼女と会ったらとにかくこれだけは言おうと決めていた挨拶&自己紹介の言葉を吐き出し、ほっとしたのも束の間、ここからどうやって会話をつなげればいいのか? と緊張した時、
「もしかして三月生まれですか?」
 と訊かれた。
「え、ええ。わかりやすいですよね。妹の名前が皐月だと」
「兄妹でそういう繋がりがある名前っていいですよね。風流な感じがして素敵」
 単純な命名法だと思っていたが、初めて親に感謝したくなった。彼女との会話が続くきっかけを作ってくれた。
 並んで歩きながら、僕は苦笑いしてみせた。
「でも、この名前のせいで女の子と間違われてばかりで、子供の頃からいろいろ大変だったんですよ」
「そっか、あんまり男性にはない名前かも?」
 実際、僕のことを女性だと思って手紙をくれる読者もいる。
「小学生の時なんて、同じクラスに女の子で弥生ちゃんって子がいたものだから、余計にややこしくて」
「あらー、それは確かに混乱するかも」
「ある時、弥生ちゃんてのラブレターが僕の机に入ってたことがあったりして」
「あはは、それどうしたの?」
「こっそり弥生ちゃんの方の机に入れておいてあげようとしたら、それをクラスの男子に見られてはやし立てられて、あの時は本当に最悪でした」
 一頻ひとしきり、名前で苦労した話をしながら、僕は内心でため息を吐いた。
 会話が続いたのはいいものの、なんだかとても実のない話をしている。本当は彼女のことをもっと知りたいのに、話を彼女の方へ向けることが出来ない。
 年齢・職業・趣味・特技・家族構成・僕への印象いろいろ訊きたいことはあるのに、せんさく好きな人、失礼な人、と思われたくなくて訊けない。
 ごく自然に、さりげなくそういう話題に持ってゆくためにはとじっくり考えようとすると会話に変な間がいてしまう。それが怖くて、無理矢理何か喋っていようとすると、先日バナナの皮を踏んで転んだ話とか、失くしたと思って探しまくったテレビのリモコンがソファのすきに挟まっていた話とか、どうでもいい自分の失敗話ばかり話すことになる。皐月は自分をダシにしていいと言ったが、その場にいない人を話題にするのも苦手なので、自分をくさすのが僕にとって一番楽な会話法なのである。
 いや、楽な方へ逃げるのは良くないというのはわかっている。そして作家的見地から言えば、こういうタイプの人間を主人公に据えてしまうと、楽どころかとても書きにくいというのもわかっている。
 知り合ったばかりのあの人は、何か事情を抱えていそうだそう察した場合、どうするか。
 気になることは、無神経なほどずけずけ問い詰めてこそ、そこに事件が発覚する。相手の抱えている悩みが明かされ、物語が始まる。そこで変に遠慮えんりょして何も訊かずにいては、ゲームで言うところのイベントフラグが立たない。物語が展開していかない。
 もちろん、人嫌いで周囲に無関心、というキャラ付けの主人公もいる。そういう場合、一番簡単な解決法は、傍に『おせっかいな友人』を配置することだ。その友人があちこち首を突っ込んで、事件を見つけてきては主人公を巻き込み、結果的に主人公の活躍場面を作れるという塩梅あんばいだ。
 しかし残念ながら、僕にはそのようなお節介な友人はいない。今回に関しては、押しの強い妹と担当編集が協力態勢でいるものの、いざこんな場面で彼女とふたりきりになれば、応援も頼めない。大体にして、僕は主人公というがらじゃない。所詮しょせん僕は台詞もない『公園の通行人D』とかそんなのがお似合いの役どころで、イベントフラグを立てるなんて大役は手に余るんだ
 頭ではそんなことをぐるぐる考えながら、口から出るのはやっぱり自分のどうでもいいドジ話ばかりで、いい加減こいつ、自分のことしか話さない痛い奴だなんて思われていそうで怖い。
 違う。違うんだ。別に「僕が僕が」と自己顕示欲をぶつけてるわけじゃないんだ、ただのコミュ下手べたなんだと頭をきむしりそうになった時、彼女のスマホが鳴った。
「あ、ごめんなさい。仕事の電話! じゃあまた! ああ、お世話になります
 電話に出ながら彼女は慌ただしく帰っていってしまった。
 僕は呆然ぼうぜんとその場に立ち尽くし、改めて脳内反省会を始めた。
 今日はこれまでで一番たくさん彼女と会話が出来た。それはいいが、彼女について何か知ることが出来たかというと、ほぼ収穫はなしだ。
 僕が在宅仕事の自由業だと話した時、「私も」と答えてくれたが、それ以上突っ込んだことは聞き出せなかった。「私も」のあとに仕事の内容を語ってくれる素振りがなかったので、沈黙の間を恐れた僕の方から話題を変えてしまったというのもある。
 もしかして、僕が小説を書く仕事をしていることを正直に明かしていれば、彼女も仕事を教えてくれたのだろうか? でも特に有名でもないし、わざわざ自分から人に言うようなことでもないと思って、基本的に普段から「自由業です」「在宅の仕事です」という表現でやり過ごしているくせが出てしまった。
 ただ、コミュ力のありそうな印象通り、彼女はとても気さくで話しやすいふんの人だった。僕のくだらない自分語りを興味深げに聞いてくれて、「それでそれで?」「そうよねぇ」などと合いの手を入れてくれるので、調子に乗って喋ってしまう。一緒にいて楽しい人だということが改めてわかった。
 そんなことがわかっただけか、このポンコツ野郎! と皐月と榊さんからののしられる未来が見える
 うなれながら僕も帰路にこうとした時、
「このストーカー!」
 聞き覚えのある声が辺りに響いた。皐月の声だった。
「ストーカーはそっちだろ!」
 言い返す声は知らない少年の声で、僕は慌てて声の聞こえる方へ走った。近くの自販機の裏側で、皐月と榊さんが高校生らしい年頃の少年を取り押さえているのが見えた。
「ふたりとも、何事!?」
 駆けつけた僕に、皐月が叫んだ。
「こいつがお兄ちゃんたちの様子をこっそりうかがってたの! 前にも何度か物陰からふたりのこと見張ってたの見たし、もうこれは偶然じゃない!」
「それを見てるってことは、そっちだって同じことしてたってことだろ!」
「それはそうだけど、私は兄を見守ってるだけだもん」
「僕だって姉を見守ってただけだ!」
 左右から少年の腕を捕まえていた皐月と榊さんが顔を見合わせた。
お姉さん?」
「もしかして、花宮明理さんの弟?」
そうだよ」
「本当に? ちょっと失礼
 と言って榊さんは足元に落ちていた少年のかばんを拾い、中を探って何かのプリントを引っ張り出した。
「おい! 勝手に
 少年が榊さんの手から鞄を取り返し、代わりに榊さんの手は僕の方へプリントを向けた。それは塾のテスト用紙らしく、記名らんには『花宮ゆう』と書かれていた。
「本当に弟みたいね」
「なんなんだよあんたたち、姉とどういう関係? なんで姉を追いかけ回すんだ」
 少年はげんそうに僕たちを見た。眼鏡めがねをかけた真面目まじめそうな風貌の少年で、彼女とはあまり似ていない。まあ僕も皐月とは顔が似ていないので、とやかく言えることではないが。
「私たちはお姉さんを追いかけ回してるんじゃなくて、この残念なお兄さんを見守っていると、そこに君のお姉さんが現れちゃうだけなのよ」
 榊さんの説明に、少年はまだ怪訝顔を解かない。当然だ、僕が彼の立場でも、そんな説明で納得出来るわけがない。
「だから、この哀れな片想い男が、明理さんと上手うまく接近出来るかどうか見守ってあげてたってこと」
 皐月の追加説明に、少年は曰く言い難い表情になって僕を見た。
あんた、姉さんのことが好きなのか」
 そう正面から弟くんに訊ねられると、返答に困るのだが。それにその、驚いているような、引いているような、珍しいものを見るようなとにかくなんとも言えない表情は何なのか。
 僕が困惑していると、皐月が代わりに答えた。
「そう。うちの兄が、あなたのお姉さんのことを好きになっちゃったの」
「それで君は、なんでお姉さんを見張ってたわけ? 最近、変な男が接近してるから警戒してってこと? だったら大丈夫よ、この人、全然危険性はないから。むしろ警戒してもらえるようなしょうがあればこっちも苦労してないって話で」
そういうことじゃない」
 少年は投げりな口調で言って視線を足元に落とした。
「じゃあ、どういうこと? お姉さん自身に何か事情があるの? としの離れた弟がいちいち行動を見張ってなきゃならないような?」

 黙秘しようとする少年を、榊さんと皐月が両側からにらみつけた。
「教えて」
「こっちも兄が関わってるんで、明理さんに何かあるなら知っておきたいの」

「あのね、うちの兄は恋わずらいで仕事が手に付かなくなっちゃってるの。周りに迷惑かけちゃってて申し訳ないの。明理さんに何かすごい事情があって、兄を相手にしてる場合じゃないとかいうなら、それはそれで振られたということで諦めがつくし、叶わぬ恋だというならその理由をドーンとこのポンコツ兄貴に突きつけてやって欲しいの!」
 早口に並べた皐月の言葉に、少年がぴくりと反応した。
「仕事が?」
 榊さんがうなずく。
「そう。私はこの人の担当編集なんだけど、恋わずらいで原稿書けないとか言い出されて困ってるの」
「編集作家なのか、あんた」
 少年の視線が僕の方へ向いた。
まあ、一応」
 五月同盟二人組からの散々な言われようの中で、どういう顔をしていいのかわからないまま僕は頷いた。
姉さんもそうなんだ
 少年はぽつりと言った。
「あれから仕事が手に付かなくなって編集さんが何度も家まで来てくれてるのに、駄目みたいで
「あれから? 編集? 明理さんも作家なの? 小説?」
漫画家だよ」
「漫画家!」
 皐月の瞳がキラリと光った。
「え、どういう漫画描いてるの? ペンネームは?」
「どうせ言ってもわからないだろ」
 少年が横目で皐月の顔を見る。
 外見的に言えば、確かに皐月は「私、漫画なんて読みません参考書しか読みません!」という顔つきをしている。だがその外面そとづらだまされてはいけないのだよ少年。
「いいから教えて! あ、ちなみにうちの兄は水嶋弥生って本名で小説書いてるけど、それこそ知らないでしょ?」
「知らない
 正直だな少年。
「こっちも名乗ったんだから、教えてよ。明理さんは? ペンネーム? 本名?」
じょうレイトってペンネームで
「五條レイト!?」
 腰がくだける様、というのを初めて目の前で見たと思った。皐月がその場にへなへなと座り込んだ。
「明理さんが五條レイト
「え、マジで? 彼女が五條レイトなの?」
 榊さんもにわかにそわそわした風情ふぜいで彼女の住む高層マンションの方角を見た。続けてはっとした顔で皐月を見た。
「もしかして皐月ちゃんがこの前言ってた、中断したまま再開されない少女漫画って、五條レイトの『カンパネラ』シリーズ?」
「そうです。ずっと大好きで
 座り込んだ膝に顔を埋めて皐月はくぐもった声の返事をする。
「え、でも私くらいの世代にはドンピシャだけど、皐月ちゃん世代でも読んでるんだあ、そっか、何年か前にアニメ化されたもんね。それで知ってるのか」
 それだけとも言えない。皐月が漫画好きになったのは、近所に住んでいた十五歳年上の従姉いとこの影響である。勉強を教えてもらうと言って入り浸っては、実は従姉の漫画蔵書を読みあさっていた。だから世代が上の作品もたくさん知っているのだ。その従姉一家が一年前に引っ越してしまい、蔵書の多くをゆずり受けた皐月だったが、親には漫画好きを隠していたため、僕の部屋のなんに運び込み、そこを占拠してしまったというわけである。
 うちの親はそんなにうるさいことを言う人たちではないので、僕が自由業を選んだことにも反対はしなかったし、皐月が漫画オタクを明かしたところで叱りはしないと思うのだが、皐月本人的に、親の前で保ちたいキャラクターというものがあるらしい。それでいて、兄の部屋に蔵書を保管するのはいいらしい。思春期の女の子の考えることはわからない。
「ていうか、待ってよあのアニメでヒーローのアギ・アレール役をやったのが鷹取一真じゃない!」
 榊さんが手を打って言った。
「キャスト発表当時は、声優じゃないのにイケメン俳優が出しゃばるなとか批判的な声もあったけど、いざ放送が始まったら、あんまりにもイメージぴったりで、文句言ってた奴らを黙らせたのよね。え、これがふたりの接点? 原作者とヒーロー役?」
あんたたち、何をどこまで知ってるんだ?」
 少年が気味悪げに僕たちを見た。
「知ってるってほど何も知らないけど、明理さんが鷹取一真とのツーショット写真を宝物みたいにしてるというのは知ってる」
 五條レイトショックから立ち直ったらしい皐月が立ち上がって言う。
「明理さんと鷹取一真って、本当に恋人同士だったの?」

 少年はしばしためらってから口を開いた。
結局は、そういうことになったんだと思う。はたから見てると、一真さんが姉さんを追いかけてて、姉さんはマイペースに好き放題してるだけだったけど」
「なんと! 鷹取一真が彼女を追いかけてた構図!? 何その夢小説! ていうか、君なんで一真さん呼び? まさかすでに家族ぐるみの付き合いが?」
 榊さんに詰め寄られて少年は迷惑そうに答える。
「一真さんは小さい頃からうちに出入りしてて、姉さんとは同い年だし、幼なじみというか」
おんぞうのイケメン俳優と幼なじみ! 前世でどんな徳を積んだらそんな設定に生まれつけるの!? 私も来世で頑張りたい!」
 ひとりでもだえている榊さんを無視して少年は続けた。
「一真さんが亡くなって、姉さんは漫画が描けなくなった。正確に言うと、一真さんをモデルにしてた作品だけ描けなくなった。それだけショックだったんだと思う」
「鷹取一真がモデル? アギ・アレールは初めから彼をモデルにして作ったキャラだったってこと? その彼がいなくなっちゃったから、続きが描けなくなったってこと?」
 今度は皐月が少年に詰め寄る。
「描こうとすると、一真さんを思い出してしまって、つらいんだって言ってた。たくさんの読者が続きを待ってるって担当さんから言われても、どうしても原稿に向かえないんだって。漫画を描くのは好きだから、他の作品なら楽しく描けるけど、『カンパネラ』だけは駄目だって。描きたくても頭と手が動かないんだって」
「そんな! 鷹取一真を生き返らせない限り、『カンパネラ』の続きが読めないってこと!?」
 皐月は頭を抱える。それと入れ替わるように榊さんが復活した。
「それで、君がお姉さんをこっそり見張ってるのはなぜなの?」
心配だから」
「何が? お姉さんが彼の後を追いかねない、ってこと?」
 榊さんのとんでもない発言に、僕の心臓が大きく跳ねた。
 あの日、ひとりで涙を流していた彼女の姿を思い出した。普段は明るく振る舞っていても、実は壊れてしまいそうな心を抱えて、不安定な精神状態でいるということなのか。ついさっきまで一緒にいたのに、どうして彼女の危うさを読み取れなかったのかと僕が自己反省会を開きかけた時、少年が首を横に振った。
「違うよ。もう前とは違うのに、これまでみたいな無茶をするんじゃないかと思って心配なんだ」
どういう意味?」
「猫を救けに木を登って、うっかり足を滑らせても、飛んできて抱き留めてくれる人はもういない、ってこと」
以前は、鷹取一真が飛んできて救けてくれたってこと?」
「どういう仕組みになってるのかわからないけど、姉さんの危機には駆けつけてくるんだ、あの人」
「リアルヒーロー!」
 榊さんが感嘆かんたんの声を上げ、少年は僕を見た。
「あんたにそれが出来る?」

 無理だ。高いところから落ちるヒロインをヒーローが抱き留めるという構図は、物語の中ではよくある場面だが、実際に高所から落下してくる人間を受け止めるとしたら、相当に足腰を鍛えていなければ、自分も一緒に転んで怪我けがをするのがオチだ。
「弥生くんはそんな力仕事出来なくていいのよ! 腰は作家の仕事道具なんだから、大事にして!」
そう。お兄ちゃんにはお兄ちゃんなりの、明理さんを救うやり方があるはず」
 皐月が据わった眼を僕に向けた。
「僕なりの?」
「小説家も漫画家も、どっちも作家と呼ばれる身なんだから、話を聞いてあげなよ! ちょうどお兄ちゃんもスランプ状態なんだし、わかり合えるところもあるでしょ。相談に乗って、力になってあげれば、お兄ちゃんの方を向いてくれる奇跡も起こるかもしれないじゃん」
「で、でも、どうやってそんな突っ込んだ話に持ち込めば
 さっきだって、ろくに実のある話も出来ないまま別れたくらいだ。僕は他人様の事情に踏み込むのが苦手なのだ。えんりょに寄り添おうとして、迷惑がられることを想像すると、何もしない方がマシだと思ってしまう。腰抜けの意気地いくじなしなのだ。
「そこは私たちが協力するから! ね、芽生さん!」
「そうね、皐月ちゃん。弥生くんにだって待ってる読者がいるのよ。彼女の心の傷をいやして、弥生くんもハッピーになれる、いっきょりょうとく作戦を狙いましょう!」
 熱い握手を交わすふたりに、少年がぽつりと言う。
「どっちも五月生まれ? で、あんたが三月生まれ? なんか風流だな」
 名前を聞いた反応が彼女と同じで、やはり弟なのかと妙なところで納得した。
「とにかく! 私たちもせっまってるの。悪いようにはしないから、お姉さんのことはひとまずこの人に預けて」
 榊さんに肩を叩かれ、皐月に背中をどつかれ、少年からは疑わしげな目を向けられながら、僕は大変なお役目をあずかってしまったのだった。

【つづく】