僕の恋、思い出と勝負するのは分が悪すぎる 最終回
8
「私の家は、祖父が合気道の道場を開いているの。私も小さい頃から護身術は仕込まれていたんだけど、小学校二年生の時かな、ある日、立派な黒塗りの車で道場に乗り付けてきた男の子がいて。新しい門下生だ、っておじいちゃんに紹介されたのが、一真くんだった。私とは同い年だったけど、その頃は私の方が背が高くて、まだ子供で手加減も出来なかったから、挨拶代わりに初日から彼を投げ飛ばしちゃったのね」
なんと漫画的な出逢い! これは、この先あんなイベントやそんなイベントが起こらないはずがない。初っ端からこれで、僕のMPが持つだろうか……。
先が思いやられる心地で僕は続く話を聞いた。
「自分を投げ飛ばした女なんて嫌われるかと思いきや、それ以来、まるで親分にくっついてくる子分みたいに一真くんから懐かれちゃってね。学校が同じだったことはないんだけど、なぜかなりゆきで、いじめっ子から一真くんを守ってあげることになったり、誘拐されかけた一真くんを救ける羽目になったりで」
「ゆ、誘拐?」
「一真くんって、鷹取グループのお坊ちゃまなのよね。本家直系の御曹司ってやつ。その関係で子供の頃から身辺が物騒で、うちの道場以外にもいろんなところで武術を習わされてたみたい。一真くんも大きくなってからは自力で対処出来るようになったけど、まだ小さい頃は私も加勢して、なんとか誘拐犯から逃げ出したりしてたものよ」
してたものよ、って――。僕が想像したあんなイベントやそんなイベントをあっさり超えてきた。軽い口調で、子供時代の思い出話が物騒すぎる。
「その後、私が漫画を描くのに夢中になり始めると、デッサンのモデルをしてくれるようになったりしてね。一真くん、中学の後半くらいからぐんぐん背が伸び始めて、漫画みたいな九頭身スタイルになっちゃったものだから、大助かりよ」
確かに鷹取一真は九頭身だった。榊さんに彼の写真集を見せられたから知っているが、あんな人にデッサン人形の代わりをさせていたとは、強すぎる……。
「で、高校生の時、芸能界もののネタを思いついて描いてみようと思ったはいいものの、テレビ局とか撮影現場とかよくわからないな……なんて困ってたら、一真くんがスカウトされて雑誌のモデルをやってみるとか言い出して。ちょうどいいから頼んでみたら、撮影現場の見学に連れてってもらえたの。それで、主人公をモデルということにして、めでたく一作描けたりしてね」
「それは……よかったですね」
もしかして、彼女のためにモデルを始めたのだろうか?
「でも役者が主人公の演技バトル的なものも描いてみたいな~と思ってたら、今度は一真くんがドラマに誘われたっていうから、ぜひ出てみなさいよ~って勧めて、また撮影現場に連れてってもらったりしてね。いろいろネタが拾えたわ」
ほくほくした顔で彼女は言う。確かに五條レイトの初期作品には芸能界ものが多いと皐月も言っていた。
「まさかそれがきっかけで、全国的に顔が売れて、映画やドラマに引っ張りだこになるとは思わなかったけどね。ただ、おうちの方がね……。モデル活動はちょっとしたお遊びだろうと思って許してくれてたみたいなんだけど、俳優として本格的な芸能活動をすると言ったら猛反対されたって。鷹取家としては、一真くんに跡を継いで欲しがってるみたいだったからね」
「それを振り切って、俳優を続けたということですか」
「とりあえず、大学は家の意向に添うところへ進学するということでお互いに妥協したみたい。でも彼にとっては、これもひとつの護身術だったのよ。いっそ芸能人になって有名になれば、家絡みの変な連中も手を出しにくくなるじゃない? 『知る人ぞ知る大企業の御曹司』じゃなくて、『全国的に有名なイケメン俳優にして大企業の御曹司』になるわけだから」
そんな理由で芸能界に入る人がいるというのも驚きだが、それで実際にスターダムに伸し上がれてしまうというのもすごい(実家から反対されていたなら、後ろ盾なしの実力で、ということなのだろう)。
「というか、子供の頃ならともかく、大人になってもまだ誰かから狙われることがあったんですか?」
「……一真くんには、腹違いのお兄さんがいてね」
彼女は声を潜めて言った。
「一真くんは家を継ぐことに全然興味がなかったんだけど、このお兄さんというのが野心ギラギラタイプでね。しかも、自分が愛人の子供だということに劣等感を持ってて、いろいろこじらせちゃってる面倒臭い人で。一真くんを目の敵にして、裏であれこれ仕掛けてくるのよ」
父の愛人? 異母兄? なんですかそのドラマみたいな相関図は。
「とばっちりで、私も何度か誘拐されたり人質にされたりしたわ~」
「えっ」
「その度に一真くんが救け出してくれるんだけど、そのせいで余計にお兄さんの逆恨みが燃え上がるという悪循環でねぇ……」
ふぅ、と彼女はため息を吐いたが、そんなあっさり語るようなことだろうか。僕はこれまで二十四年生きてきて、誘拐されたこともなければ人質になったこともない。たった一度でもそんなことが起きれば人生の大事件だが、それが何度も?
しかし僕の戸惑いなど意に介さず、彼女は先を続けた。
「まあそんなこんなで、私の方は絵の専門学校へ通いながらなんとかプロデビュー出来たんだけど、それもこれも一真くんのおかげなわけよ。私個人では取材の伝手もないようなところを、一真くんの人脈であちこち覗かせてもらって、それが作品の出来を底上げしてくれたんだから」
人脈。僕には縁のない言葉だ。
「一真くんに何かお礼をしたいと思って、欲しいものを訊いたら、自分をモデルにした漫画を描いて欲しいと言われて。それで作ったのが、『カンパネラ』なの。ヒロインに何があっても救けに来てくれる、最強の騎士アギ・アレール」
「最強の騎士……」
それが彼女にとって、彼のイメージということか。きっと彼も、自分をそんな風に描かれて嬉しかったに違いない。
「実際彼は、あなたに何があっても来てくれる人なんですか?」
「そうなの。まあ、私は別にヒロインって柄じゃないんだけど、一真くんは完全にヒーロー体質よ。どういうセンサーが搭載されてるのかわからないけど、私が猫を救けようとして木から落ちかけた時も、ひったくりを追いかけた勢いで池に落ちそうになった時も、銀行で強盗騒ぎに巻き込まれた時も、うっかり反社組織の怪しい取引を見かけちゃった時も、なぜかその場に現れて救けてくれるの」
それは、彼がすごいのか彼女がすごいのか(事件に巻き込まれすぎだ!)。
「まあそれで、最初は読み切りのつもりで描いた一作だったんだけど、人気が出て、連載が決まって、あれよあれよとアニメ化までされて、ヒーロー役の声優オーディションに一真くんが押し掛けてきた時は驚いたけど、そりゃあ彼をモデルに描いたキャラなんだから、彼が受かっちゃうのは当然と言えば当然の話で」
「……そうですね」
自分から押し掛けてきたのか。それはもちろん、彼女が自分をイメージして描いたキャラクターを、他の男に演じられるのが許せなかった気持ちはわかるが。
けれど今となっては、ヒーローの台詞が彼の声でアニメ作品として残っていることが、彼女を苦しめている。これでは、ヒーローの台詞を考えようとして彼の声が蘇ってくるのは当然だ。
僕が神妙な顔になった時、彼女も少し寂しげな表情を見せてからまた続けた。
「そして、二年前――。新展開で作品の舞台を違う国へ移すことになって、どこかイメージを膨らませてくれる場所はないかな――なんて考えていたら、映画のロケで東南アジアに行ってた一真くんが、こっちなかなかいい感じだよって呼んでくれて」
二年前。ロケ先。話が核心に近づいてきたのを感じて、僕は少し居住まいを正した。
「これまでの舞台がヨーロッパ的な雰囲気だったから、新章はまたガラッと変わってこういうのがいいかも――とあちこち見て回って、時間を見つけては一真くんも付き合ってくれて、土産物屋で玩具みたいな指輪や面白い形の帽子をお揃いで買って、写真を撮ってみたりね。子供の頃、お祭りの夜店でこういうことしたよね、でも今こんなことを日本でしたら、一真くんのファンに殺されちゃうな――なんて私は笑ったんだけど、一真くんは笑ってくれなくて」
いよいよ来た、と直感のようなものが背筋を走った。彼女の声が少し小さくなる。
「……一真くん、大真面目な顔で、とんでもないことを言い出して」
「とんでもないこと?」
「……日本へ帰ったら、本物の指輪を贈りたいって」
「それ、プロポーズじゃないですか」
感情を抑えたせいで棒読みになった僕の言葉に、彼女はまるでその時に戻ったかのように顔を真っ赤にして頭を振った。
「一瞬、何を言われたのかわからなくて、ちょっと考えてから意味がわかって、私、びっくりしちゃって――子供の頃からずっと好きだったって言われて、さらにびっくりして、もう何がなんだかわからなくなっちゃって――」
弟くんが言っていた。「傍から見ていて、なんであのふたり付き合ってないんだ? という感じだった」と。彼の方は完全に、彼女のことしか見ていなかった。いつも彼女のことが一番だった。けれど彼女は、大好きな漫画を描くことに夢中で、自分の恋愛など二の次だった。彼の優しさを、幼なじみへの親切だとしか思っていなかった。
さっき彼女は、自分はヒロインなんて柄ではないと言ったが、この恐るべき鈍感さは、まさにヒロインの資質だ。正統的な少女漫画のヒロインだ。こんな『漫画みたいな人』を初めて見た。
つまり、弟くんが言っていた覚悟とはこれか。物語の神様に愛されているようなヒロイン体質とヒーロー体質のふたりの、漫画みたいな恋物語。それを聞かされる覚悟。その物語に自分が入り込めるわけもないことを思い知らされる覚悟。
だがもうここまで来たら、最後まで聞かせてもらうしかない。
「それで、結局どう答えたんですか?」
「……ちょっと考えさせて欲しい、って答えるのが精一杯だった。一真くんは、待つと言ってくれた。私は原稿の締め切りがあったから、次の日には帰らなきゃならなくて、その帰り道のことだった――」
彼女が言葉を切り、俯いてくちびるを嚙んだ。しばらく間を置いてから、語り出す。
「空港で、何気なく拾った落とし物が何かヤバイ物だったらしくて、地元の犯罪組織らしい連中から追いかけ回されることになっちゃって」
「この状況で、またそのパターンですか」
思わずツッコミを入れてしまった。どんな時もトラブルを引き寄せずにはいられない、ある意味、優等生ヒロインだ。
「拾った物は渡したんだけど、他にもあるはずだ、隠してるだろう、って疑われてしつこくて、逃げてる途中で一真くんが映画ロケをしてるところに行き合って、私に気づいた一真くんが救けに来てくれたんだけど、そこへ敵対してる別の組織みたいなのが現れて、私たちを巻き込んで激しいカーチェイスになって」
それこそ映画のような展開だ。つまり、そこで事故が起きて、彼だけ亡くなったということなのか? と納得しかけたところ、
「ついには銃撃戦にもつれ込んで、私を庇って応戦した一真くんが――」
彼女はそこまで言って両手で顔を覆った。
まさか、と僕のくちびるも震えた。
「撃たれた、んですか……?」
彼女の頭がこくりと縦に動いた。
「……待つって言ったのに。初めて一真くんが私に嘘をついた」
俯いたまま、彼女の目から涙がぽろぽろ落ちた。
「一真くんは待ってくれなかった。私が返事をする前に、この世から旅立ってしまった――」
「え、でも、交通事故で亡くなった、ということになっているのは……?」
「鷹取家の力で、そう処理されたみたい。真相を公表すると、国際的な大人の事情でいろいろ面倒なことになるらしくて」
「……」
実のところ、榊さんが週刊誌の記者をしている同期から仕入れた情報として、鷹取一真の事故死には疑惑があるという話は聞かされていた。本当はただの交通事故ではなく、鷹取家の圧力で真相が揉み消されたのだ――と。その闇に葬られた真実とは、こういうことだったのか。
他にも、鷹取家のお家騒動や、鷹取一真の本命は幼なじみ説など、断片的な情報をもらっていた。それを彼女の話で、綺麗に繋げてもらった形になった。
「私……後悔してるの」
嗚咽混じりに彼女が言う。
「あの時、ちゃんと返事をするべきだった。待たされたまま、一真くんは逝ってしまった。彼は、天国でずっと待ち続けるの……? でも私はきっと天国へは行けない。彼を殺してしまったもの……私のせいで彼は死んだんだもの……。私がいつも迷惑ばかりかけるから……私がいつも余計なことをして、変な事件に巻き込むから……」
「彼が亡くなったのは、あなたのせいじゃありませんよ」
僕はきっぱりと首を横に振った。
これまでの話を聞いた限り、彼女は別に興味本位で事件に首を突っ込んで回っているのではない。彼女は純粋に優しく親切な人で、困っている人を見たら放っておけないだけだ。落とし物を拾う、道を訊かれて答える――普通ならその場限りで終わる親切が、なぜか事件に発展してしまうというヒロイン体質に生まれついただけ。そんな彼女を、彼も放っておけなかったのだろう。
彼は絶対、彼女のせいだと思いながら亡くなったのではない。彼はそんな男ではないと、直接は知らない相手なのに確信を持てる。
僕の断固とした否定に、彼女は曖昧に頷きながら続けた。
「……私のせいでもそうじゃなくても、とにかくもう一真くんとは逢えない。待たせた返事をすることは出来ない――」
「返事の言葉は、決まっていたんですか?」
「……わからない。あの時はまだ、よくわからなかった。でも、せめて、厭じゃないって言えばよかった。ありがとう、って言っておけばよかった。そんな後悔ばっかり頭の中をぐるぐる回るの」
「あの時は無理でも、今なら答えられますか?」
どこか感覚がおかしくなっていた。普段ならこんな、自分で自分の傷を抉るような問いは出来ない。現実離れしたドラマのような恋物語に中てられて、作家の本能でその場に嵌まる台詞を選んで喋っている――そんな感覚だった。
「今なら……?」
彼女は遠い目をした。
「彼がいなくなって、気づいたの。木に登って足を滑らせても、スーパーでクレーマーを見かけて店員さんがかわいそうだったから正論を言って割って入ったら逆恨みされて待ち伏せされても、救けに来てくれる人はもういないんだって」
いや、彼がいてもいなくても危ないからそういうことはやめてください――と言いかけて、僕は口を噤んだ。この無邪気な親切心が彼女の良いところで、それに笑って付き合っていたのが鷹取一真という人だったのだろう。
「いつも彼に頼ってた。彼がいてくれるのが当たり前だと思ってた。――彼のことが好きだった。当たり前すぎて、気づいてなかっただけなの。でも、今さら気づいても、もう遅い――」
彼女の涙と競うように、窓の外では大粒の雨が降っていた。
9
「原作協力!?」
「ちょっと弥生くん、人の原稿手伝ってる場合じゃないでしょう!?」
帰宅して皐月と榊さんに首尾を報告すると、待っていたのは予想通りの反応だった。
けれど僕が彼女のために出来ることはこれしかないのだ。彼女の力になりたいのだ。僕が僕の恋のために出来る、ただひとつのことなのだ。
「つまり、明理さんを諦めないってこと?」
「鷹取一真から彼女を奪うつもりってこと? 弥生くんのくせにいい度胸ね」
「奪う、というのとはちょっと……」
「まあ、鷹取一真はもうこの世にいないんだから、奪うも何もないけどさ。彼女の心の中にいる彼を無理矢理にでも消し去って、彼女を自分のものにする気なのか、ってことよ」
「無理だよ、それは……」
僕は苦笑した。
これ以上ない恵まれた境遇に加えて、彼女を庇って死んだ男。そんな相手に、どうやって勝てる?
「じゃあ、何なわけ? どうしたいわけ?」
榊さんの問いに、僕はぽつぽつと答えを返した。
「――僕は、昔からずっと不思議に思っていたことがあるんだ」
物語の中に時として見る、恋敵を殺して、自分の想いを叶えようとする登場人物。
これが僕にはわからなかった。
邪魔者さえ消せば、相手が自分のものになると、どうして思えるのだろう。相手にも心がある。自分の方を向いてくれるとは限らないではないか。むしろその恋敵がこの世から消え、思い出になって相手の胸に住み着いてしまったら、その方が強敵になるのではないかと思った。一度殺した相手は、もう殺せない。胸ぐらを摑んで殴ることも出来ない。
僕は今まで、恋敵を殺そうと思ったことはないし、そもそもそんな状況になったこともないから、現実としてどうなのかはわからなかったけれど、昔から物語の中にこの手の登場人物を見る度、心がもやもやしていた。
大体、この手を使ってめでたく両想いになれる展開はまずない。最後には悪事の報いを受けて破滅するのがオチだ。
そして今、やはりこの疑問は的を射ていたのではないかと感じている。
人は死んだら思い出になる。
焼かれて灰になってお墓に入って、身体がなくなっても、生きている人間の中に思い出が残る。それは大変なことだ。
自分が死んだあと、思い出となった自分がどんな風に人の中に残るのか。人は死んだあとにこそ、真価を試される。
人の中に、「あいつは厭な奴だった」という思い出しか残さないような生き方はしたくないと思う。もっとも、そんなことを思う時点で、大人物にはなれないことを証明しているのかもしれないが。憎まれっ子世に憚る。そんな言葉を気にしないような人間であれば、僕ももっと違う生き方をしていたのだろうけれど。
「――だから、お兄ちゃんは自分語りが長いの! 結局、何が言いたいわけ!?」
皐月のイライラした声に我を取り戻し、僕は苦笑いして答えた。
「つまり、思い出と勝負するのは分が悪すぎる、ってことだよ」
恋敵が生身の男なら、これから何かやらかしてくれて、彼女に幻滅される可能性もないではない。けれど、死んだ男は思い出の中に美しく彩られるだけで、何もやらかさない。
最強の恋敵――それは思い出の中の恋人だ。
「でも、諦めないってこと? 仕事上の繋がりだけでも、彼女の傍にいたいから、原作を手伝いたいってこと?」
榊さんの言葉に僕は頷いた。
さっき、彼女の話を聞きながら、まるでラブコメ少女漫画のあらすじを聞いているようだと思った。普通、この手の物語は、ドタバタの末にハッピーエンドで連載が終わる。それが、途中で風向きが変わり、ヒーローの死によって物語が空中分解してしまった。
ある意味、これが現実というものなのかもしれないと思った。物語のように盛り上がって結ばれた恋人同士であっても、現実の世界はそこで『最終回』とはならない。時間はその後も進んでゆく。愛を誓い合った恋人同士に、悲劇の未来が訪れないとは限らない。
でも、あんな正統的ヒロイン体質の人を救う役目が、僕みたいなうじうじした男でいいわけがない。空中分解した物語の続きを僕が書くとしても、新しい相手役はもっといい男にする。僕なんか、銃撃戦の場面では真っ先に殺されるモブの通行人だ。ヒロインを庇いながら応戦出来るようなヒーロースキルなど持ち合わせていないのだから。
どう考えても、彼女が彼を忘れて僕を選ぶメリットが見当たらない。
たとえばあの日、公園で泣いていたのが僕ではなく別の人で、そこに彼女がハンカチを差し出したなら、それをきっかけにして思いもかけない大事件に巻き込まれて――なんて展開になっていたかもしれない。だが相手が僕では、何も事件は起こらない。彼女の引きの強さを、僕の引きの弱さが打ち消してしまうのだ。
僕のように押しも弱ければ引きも弱い平々凡々な男と一緒にいるより、彼との日々を思い出していた方が百倍賑やかだし、漫画のネタにもなるだろう。
けれど、彼女は言ったのだ。それはもうそれとして、前を向いて生きたいと。彼を忘れようとは思わない。彼の思い出は大切な過去として、忘れるのではなく吹っ切って、これからを生きていきたいのだと。
だったらその手助けをしたいと思った。彼女が胸の中で大切にしているものを、奪うとか消し去るとか、そんな乱暴なことは考えていない。僕にそれが出来るとも思わない。
「ただ僕は、彼のことを忘れないでいる彼女の傍にいることに、耐えられると思う」
余りに分が悪すぎて、勝負にならないのがわかっているから。初めから多くを望める身ではないことがわかっているから。身の程を弁えていることが僕の武器なのだ。
「ドM……!」
榊さんは、バナナの皮に滑って排水溝に嵌まった宇宙人を見るような目で僕を見てから、
「健気すぎて泣けてきたわ」
両目を擦って泣き真似をした。その横で皐月が言う。
「でもお兄ちゃん、相手はもうこの世にいないんだから、生きてるというだけでお兄ちゃんの方が勝ってるとも言えるじゃん。明理さんが泣いてる時に、ハンカチを差し出せるのは、思い出の中の彼じゃなくて、傍にいるお兄ちゃんだよ」
「彼女を泣かせる男は彼だけだけどね」
僕が肩を竦めると、榊さんに断言された。
「弥生くんが女を泣かせる男になるなんて、百万回生まれ変わっても無理だしね!」
10
その後、彼女と彼女の担当編集さんとのやりとりを繰り返し、僕は『カンパネラ』シリーズの再開を目指して原作シナリオを書き進めていった。
エピソードやキャラの台詞を逐一彼女に確認する中で、鷹取一真との思い出話をさらに何度も聞かされることになった。相変わらず、それをそのまま漫画にしてしまえばいいのに、と思うような話ばかりだった。
もうこのふたりは、存在自体がドラマなのだ。物語の神様が気合を入れて生み出した奇跡の恋人同士なのだ。そう思うと、自分の片想いが辛いとか苦しいというより、笑えてきた。無性に自分も物語を生み出したくなって、小説を書きたくなった。現実の世界はままならなくとも、自分が描く物語の世界では、自分こそが物語の神様になれるのだから。
そうして『カンパネラ』シリーズの原作シナリオが数話分書き上がった頃、並行して書いていた自分の原稿も書き上がっていた。
『いつの間に書いたの!?』
原稿を受け取った榊さんは大いに驚き、しばらくしてから今度は泣き声の電話がかかってきた。
『そうだった、弥生くんには泣かされないけど、弥生くんの小説にはいつも泣かされるんだったわ……! もうっ、こんなの書けるなら、もっと早く書きなさいよ! ああっ、急いでイラストの発注しないと! じゃあね!』
とりあえず、原稿はOKのようだった。
続けて、『カンパネラ』の原作シナリオの方にもOKの連絡が入った。ヒーローの台詞がイメージ通りだと彼女も担当さんも喜んでくれていた。
雑誌の連載再開号が一足早く送られてきた時には(原作協力の特権だ!)、ドキドキしながら読んだ。もっとドキドキしたのは読者の反応だったが、アンケートは概ね好評とのことで(皐月の反応も良かった)、ほっと胸を撫で下ろした。
季節はもう秋になっており、彼女を「明理さん」と呼ぶことや、彼女と喫茶店で打ち合わせをする日々にも慣れてきていた。
「本当にありがとう。弥生くんのおかげで連載も再開出来たし、何かお礼がしたいんだけど、何がいい?」
その「弥生くん」呼びだけでもう充分です! と答えそうになったところをぐっと抑え、僕は頭を振った。
「お返しなんて要らないですよ。僕の方こそ、新しい刺激をもらえたおかげで、自分の原稿も書けるようになったので、助かりました」
「え、小説の原稿進み始めたの?」
「というか、もう書き上げました」
「え!? 七巻いつ出るの!?」
テーブルに身を乗り出して訊かれ、僕は面喰らった。
「え……あの、僕の作品、読んでくださってたんですか?」
「当然でしょ!」
明理さんは胸を張って答えた。
「弥生くんが小説家だってわかってから、作品買い漁って全部読んだのよ。刊行順に読んでたら、最新刊がもう何あれ、とんでもないところで終わってるから、『早く続き書いてください!』って危うく水嶋弥生先生に恨みのお手紙書いちゃうところだったわ」
「すみません……。一度刊行予定が流れたせいで、イラストさんのスケジュールを押さえ直しになって、たぶん年内に出ればいい方です」
「そうなんだ……。まあ、でも出るならいいわ。楽しみに待つから」
思いがけず、読者がひとり増えた。
「でもスランプを抜け出したなら、やっぱり原作協力のクレジットに弥生くんの名前載せた方がいいんじゃ……」
そうしてもらった方が名前が売れるから、と榊さんには勧められているが、僕にそのつもりはなかった。
「いえ、いつか明理さんは、自分で彼の台詞を書けるようになりますから。それまでのことですし、気にしないでください」
「でも……そんなのいつになるか」
「いいんです。それまではお付き合いしますから」
彼女に僕の協力が要らなくなる日――それこそ僕にとっては望ましい未来だ。彼女が彼との思い出に涙を流さなくなったことを意味するのだから。
僕はひたすらその日を待つ。
正統的なヒロイン気質の彼女は、当然のように鈍感だ。僕の好意にもまったく気づいていないだろう。
早まって告白したところで、玉砕は確実だ。しかもそうなれば、今の関係が崩れ、原作を手伝わせてもらうことも出来なくなり、また連載が止まってしまい、皐月に恨まれるだろう。
今はこのままでいい。傍で、彼女を見ているだけで。
僕は彼とは違う。僕は物語の神様に愛されてはいない。この次の瞬間、何か大きな事件が起きて、それがきっかけで彼女との関係が劇的に変わる――そんな都合のいい展開になるわけはないのだから。
そんなことを思った時、喫茶店の外でパトカーのサイレンが響いた。小心者の僕は一瞬ビクッとしたけれど、そのままサイレンの音は遠ざかっていった。
「そういえば――」
明理さんが窓の外を見ながら言った。
「フランスの田舎に行った時だったかな、一真くんとカフェでお茶を飲んでたら、近所で強盗を働いた犯人が飛び込んできて、立て籠もろうとしたことがあったのよね。危うく私が人質にされそうだったところを、一真くんが犯人を取っ捕まえて警察に突き出したんだけどね」
「さすがですね……」
もう感心する以外、どう反応しろというのか。
僕にはとても出来ない芸当だし、そもそも僕といる時にそんなドラマみたいな事件は起きないだろう。今だって、ここに一緒にいるのが僕じゃなくて彼だったら、あのパトカーが追っている犯人がこの喫茶店に入ってきて、彼女を人質にして――みたいな展開になっていたのかもしれない。けれど残念ながら、僕は引きの弱い男なのだ。
力業スキルを持たない僕に出来るのは、長期戦の覚悟をすることだけ。
思い出と勝負するのは、余りに分が悪い。けれどいつか、彼女が目の前にいる僕を見てくれる日を夢見て。
【おわり】