【入選】悪食(著:久野友萬)
目が覚めると小方ルミナと目が合った。一気に目が覚めた。
「おはようございます」
と俺は朝の挨拶をする。
俺の部屋は4面、つまり窓と玄関と床の一部を除いて、びっちりと小方ルミナが敷き詰めてある。ルミねえ(小方ルミナのことを尊び、かつ親愛の情を込めて、団員はこう呼ぶ。ちなみに我々はファンではなく団員だ。小方ルミナのために存在する見えない団であり、それゆえに団の名前も伏せられている)の可愛さについて説明することはしない。
説明はしないが、キミが一番カワイイと思う女性の顔を思い浮かべて欲しい。モデルでも芸能人でも同僚でもクラスメイトでもいい。
頭に浮んでいるだろうか?
よろしい。
では今日から、その子はキミの中で2番目だ。
この世は小方ルミナとそれ以外のモブでできている。例外はない。小方ルミナ以外は比べても意味がなく、小方ルミナと比べられるものなどこの地球上にはない。
君の最高にカワイイ女性も、小方ルミナの前ではモブに過ぎない。小方ルミナは万人の上にあり、その下には本物の平等がある。万人がカワイイランキング2位以下というカワイイ平等主義である。モブはモブでしかなく、その中での争い=ランキングは無意味だ。
俺の夢は小方ルミナのマネージャーになることだ。いまだ世に出ていない小方ルミナというキラキラ星を守り、お仕えしたい。
夜、俺は夢の中で何度も同じシーンを見る。
ガラスの箱のベッドの中で小方ルミナが眠っている。
俺は襲ってくる魔物や盗賊から、眠る小方ルミナを守っている。
いつか小方ルミナは目覚めるのか、それともこのまま永遠に眠り続けるのか、俺は知らない。俺がわかっているのは、俺は白馬の王子ではないということだ。白馬の王子が小方ルミナにキスし、彼女が目覚めるまで俺は彼女を守り続ける。
俺の今の仕事は新事業部のセレブミート企画課営業だ。だから芸能事務所勤務であっても、芸能人と接する機会はあまりない。
俺は玄関でネクタイを締めると部屋を振り返り、小方ルミナに
「いってきます」
と挨拶をした。
主な営業先は基本的に芸能事務所だ。セレブミートを販促商品として認めてもらい、契約を結ぶ。
名刺交換の後、相手が向かいに座った。俺はテーブルに出しておいたパンフレットを相手に手渡した。タレント部門統括部長の鏑木は半笑いでパンフレットを受け取った。
「噂は聞いてますよ。アルファさんとこで、ノベルティですか?」
うちの芸能事務所が販促グッズの営業をする=本業の調子が悪いと思われているらしい。そういうのじゃないんだよな、と俺は思う。鏑木がどこまで知っているのか、俺は軽く探りを入れる。
「そうとも言えますね。失礼ですが、鏑木様はお肉は召し上がりますか?」
「ああ、食べますよ。最近は肉がバカ高いですから、昔みたいに毎日というわけにはいきませんけど、まあまあ食べる方じゃないですか」
「失礼ですが、それはどちらの……」
「培養ですよ培養」
人工培養肉市場は、以前の畜産業の同規模まで成長した。
販売当初はグラム2万5000円という何の値段かわからないような超高級食材だったが、技術革新により安いとグラム600円台で売られるようになり、牛豚肉は半分がほぼ培養肉で代替された。特に中近東では培養肉は製造工程で屠殺がないため、パーフェクトなハラール肉として普及している。
市場の急伸には価格以外に機能性精肉が登場したことも大きい。アミノ酸スコア100で吸収がケタ違いにいい上にうま味が強いプロテイン肉や1枚で1日の栄養の半分を補うパーフェクトミート、ゾウの肉やトラの肉と言った絶滅危惧種の細胞を培養したエキゾチックミート、脂質成分を操作してトロのように口の中で溶けるメルティ肉、乳細胞から牛乳や人乳を作ることも始まった。
俺はパンフレットを広げ、そうした培養肉の現状をざっくりと話す。案外と知られていないことも多い。たとえば現在の培養肉の価格破壊は、日本のメーカーが開発した培養液から始まっている。それまで使われていた牛胎児血清の代わりにスポーツドリンクとドッグフードから培養液を作り、製造コストを一気に200分の1まで下げたのだ。
「細胞は塊にはなるんですが、とても肉とは呼べなかった。だから当時、最初に市場に出た培養肉はステーキじゃなかったんですよ」
俺が言葉を止めると鏑木がパンフレットから顔を上げた。良かった、興味は続いている。
「では最初にできた食用の培養肉は何だったか、鏑木部長はご存じですか?」
鏑木が右上を見上げた。何を思い出そうとする時、人は右上を見上げるのだと交渉術の本で読んだ。
「クイズで見た気がしたんだがな。なんか内臓じゃなかったですか?」
「私も知らなくて、研修の時に教えてもらったんですが」
「すい臓?」
いい線だけども。
「惜しい。フォワグラです」
「フォワグラかあ」
すい臓は小説か何かだったっけ、と鏑木が呟いた。
「当時は組織を作ることができなかったんだそうです。皮膚や筋肉は層状になっていますよね。あの筋肉の層ができない。そこで細胞が均質で均一に集まっている組織を考え、肝臓なら何とかなると」
レバーパテはレバーを加熱して裏ごしするが、培養した肝臓細胞は結合も弱く、最初から水分の多いパテ状だ。
「フォワグラは高いですしね。細胞培養なので動物はいらない、だから鴨を苦しめていないフォワグラです、とセールスできた」
俺はしゃべりながら、カバンからまな板と包丁を出した。防菌手袋を手にはめる。
鏑木が何か言いたげに俺を見た。
「論より証拠と言いますし、見る前に飛べですか。この場合は見てないで食え、ですかね」
俺はまな板の上に真空パックされたサラミを置いた。一番最初にセレブミートを考えたバイトラボ社が、培養したセレブの筋細胞でサラミを作ろうと提案して以来、人間由来の精肉製品では、サラミはもっとも定番な加工食品となった。
「これは月曜日にアメリカから届いた、シャリーナのサラミです」
スマフォでシャリーナの画像を出し、鏑木に見せると鏑木はのけぞった。
「めちゃくちゃ売れている人じゃないか」
「グラミー賞も2回獲ってますし、めちゃくちゃ売れていますね」
俺はセレブミートの証明書を広げて見せた。セレブミートと細胞提供者のDNA照合結果とウイルス感染や遺伝疾患の有無が一覧になっている。
「すいません、スマフォでこちらのQRコードを……」
俺は鏑木を促し、QRコードをスマフォで認識してもらった。俺はスマフォに見入る鏑木に言った。
「それがシャリーナの細胞採取シーンです」
スマホの中で、シャリ―ナの褐色の太ももに医師が太い針を刺す。針につながった細いチューブの中を黄色の液体が上がって行く。吸引した脂肪細胞だ。
「採取する脂肪細胞は50から100ミリリットルですね」
あとは傷跡も残らない。
iPS化して筋線維細胞に分化させ、培養する。培養タンクの中で細胞がカルス(細胞塊)を作り、目視できるサイズになるのはだいたい1週間から10日後だ。
「肉1キロができるまでおよそ1カ月。そこからは早いんです、細胞が細胞を生んでいくので。倍々ゲームですね。1キロが翌日には2キロ、4キロと増えます。100キロまで1週間ほどしかかかりません」
「シャリーナさん本人の細胞からできてるって証拠は、この映像と証明書?」
「そうなりますね」
たとえば、と鏑木が言った。
「ファン限定で脂肪を採取する様子を映像配信することは可能ですか? 採取できる場所は太ももだけ? お尻とかオッパイでも可能なんです?」
「本人の承諾があれば、体のどこから採取しても問題ありません」
鏑木が考えている間に俺は真空パックを破ってシャリーナのサラミをまな板の上で薄く切った。
「召し上がってみませんか?」
俺は鏑木にサラミを勧め、さきに一枚食べて見せた。
うまいまずいかで言えば、ただのサラミである。普通においしい。イタリア料理屋で前菜で出てくる、ちょっと酸味のある固いサラミだ。他のサラミと厳密には違うのかもしれないが、豚由来と人間由来の違いがわかるような明確な違いは感じられない。
鏑木はまな板の上でスライスされたセレブミートを見て、嫌そうな顔をした。
「人間の細胞でさ、これ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫かと言われますと?」
「なんというの、細胞だから関係なのかもしれないけど人間の肉に変わりはないわけでしょ」
2014年にバイトラボ社がセレブミートを提案した時、細胞培養技術はまだ黎明期で、技術的にもどのようにしたら人間の筋細胞を増殖させ、筋肉を生み出せるのか、暗中模索の状態だった。iPS化による細胞のリセットも限定的で、試験管の中でさえうまく成長させることはできなかった。
バイトラブボ社がセレブミートを発売することはなかったが、ノーライフ社をはじめとする細胞農業の専業メーカーがセレブミートという名前を使って、最初はセレブのための肉という意味で高級和牛の培養肉を売り始めた。
やがて技術がこなれるにつれ、バイトラブ社のキャッチコピー「Don’t Just Watch Your Favorite Actors?Eat Them(好きな俳優を見るだけでなく、彼らを食べよう)」が実現した。
世界初の本物のセレブミート、セレブの細胞を培養して作った培養肉はラッパーのモーガンKの肉で、細胞採取から培養、成型の様子はミュージックビデオになり、1億ダウンロードを超えた。最初のロット(6キロ24本)はオークションにかけられ、81万5000ドルで落札された。
「あの噂って本当なの?」
鏑木はシャリーナのハムを指でつまんだものの、口にする勇気が出ないらしく、サラミをつまんだまま小声で言った。
「動物コロナを培養肉の会社がばらまいたって話」
「ああ」
一時期、ネットでは動物コロナ生物兵器説が流れた。。
動物コロナは異常に安定性が高いウイルスで、200度の熱を加えても氷点下50度に凍らせても破壊できない。唯一の弱点は乾燥だったが、湿度の高い日本ではそれも難しく、ワクチンが完成するまでに地球上の家畜のおよそ2割が死滅した。
このウイルスの特殊性から生物兵器説が流れた。そしてこのことで誰が得をするのか? と黒幕探しを始めた時、培養肉メーカーの株価がストップ高に駆け上がり、翌年には一気にフォーブス100に躍り出た。
「言う人はいますけど、違いますね」
動物コロナの出どころはグリーンランドで確定している。温暖化で氷が解け、地中に眠っていた古代のウイルスが地上で大暴れした。
「そういう噂が出てもおかしくはないですが。なんだかんだでモーガンKのセレブミートでは5億ドル以上が動いたと聞いています。弊社が契約しているノーライフ社もそれで儲かって、セレブミートの事業を本格的に始めたわけですし」
俺はもう一枚、ハムを口に運んだ。咀嚼する俺の口元を鏑木が見ている。
「あと申請はしてあるんですが、弁護士によると今はグレーですね。日本での認可はアメリカに準じる形で、輸入ではないし、規制が難しいみたいですが食品安全基準は満たしているということらしいです」
「狂牛病みたいなことはないの?」
セレブミートからのプリオン汚染を恐れる人は多い。
「脳を食べれば危険性はあるかもしれませんが、元は脂肪ですからね。細胞を管理しているので、プリオン異常のようなことがあれば、すぐにわかります」
意を決したように鏑木がサラミを口に放り込んだ。
「いかがです?」
鏑木は目をつぶってゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
「うまいね」
と鏑木は言った。
鏑木の事務所を出た足で、俺は地下アイドルが出ている代々木のライブハウスへ向かった。一時期はマイナスイメージの強かった地下アイドルだが、今やどっちが地下なのかわからないほど売れている。マスコミに出ないだけで、月に億を売り上げるグループがいくつもある。
「おはようございます」
細い階段を下りて楽屋に入ると、ヘアメイク中のロンダリングリンダの3人が鏡を見たまま、振り返りもせずに、おはようございますと声を合わせた。今日はファンミで物販があり、セレブミートを販売する。食中毒が出たら大変なので、念のために立ち会うことにした。
「ああ、アルファさん、ご苦労様」
楽屋のドアが開き、運営会社を経営する勝田が顔を出した。俺は手を挙げた。
事務所には警備会社から警備員が2名派遣され、レンタルの鍵付き冷凍庫の前に陣取っていた。セレブミートは世界一高価な食品なのだ。
勝田が冷蔵庫を指さした。
「確認する?」
「一応」
鍵を開けてもらい、中のサラミに刻印された製造番号をスマフォで読み取り、記録と照合する。俺がひと通りチェックする間、勝田は電子タバコの煙を盛大に吐きながら、
「パーツって知ってます? 知ってるか、専門分野だもんな」
と言った。
「パーツ?」
「あれ、ご存じない? 昨日、ロータリークラブの集まりがあって、そこで培養肉の特許でビル建てた人がいてね、あれは骨や血管なんかも再生できるんだってね」
「元は再生医療の技術ですからね」
「それが最近はパーツが作れるらしいね。血管だけとか皮膚だけとかじゃなくて、腕とか足とか」
俺は作業の手を止めた。
「そんなことできるんかね? ステーキできるんだからできるのかなあ」
勝田は面白そうに言ったが、俺は血の気が引いていた。臓器の再生はノーライフ社の最高機密事項である。
「どうでしょう。食肉用と違って、機能を持たせるわけですし技術的にハードルが高いんじゃないかと思いますけど」
「そういうもの?」
「だって骨付きの培養肉ってないじゃないですか」
「そういえばそうだな」
「違う機能を持つ細胞を同時に培養してひとつの組織にするって神業らしいです。血管だけ、神経だけ、骨だけでも難しいのに、それをまとめて同じ組織で同時に作るわけでしょう」
「無理か」
「研究は進んでいると思いますけど」
いやね、と勝田が身を乗り出した。
「培養肉でサラミもいいんだけど、これ手足やらオッパイやらできたら、それはすごいことになるんじゃないの? と思ったわけですよ」
そりゃなるに決まっている。あこがれのあの子の腕や足を食べるのだ。人肉サラミをあの子と思って食べるにはかなりの想像力が必要だが、並べられた手足や胸、尻、そこに想像力はいらない。
(なんなら食べなくてもいいし)
食べずに何に使うかは推して量るべし。
「いくらぐらいかなと思ってさ」
まだ売り物ではない。
まあいいや、と勝田が言い、電子タバコをポケットにしまった。
「もしそういうパーツみたいのができたら、教えてもらっていいかな」
兵器から家電まで、世の中に出ている技術と研究所で扱っている技術には10年の開きがある。今、市場に出ている技術は、実は10年前に完成していた技術だ。商業化はそれほど難しいという話なのだが、培養肉の技術でもそれは同じだ。
勝田の言ったパーツは、すでにできていた。俺は最初にノーライフ社の研究所でパーツを見た時の衝撃を今も生々しく覚えている。
それはまるで生け花だった。培養槽の中から引き揚げられた腕は女の腕で、どう見ても10代の細い腕であり、腕の付け根を上にして、タンクの中にぶら下がる格好で保存されていた。
研究室には12の小型培養槽があり、それぞれで同一個体の細胞から手足と女性の胸、性器などが作られていた。
研究の責任者である瀬戸山が、腕につながった血管を取り外し、作業台の上に置いた。ほのかな桃色だった腕はみるみる退色し、真っ白な石膏のような色に変わった。
ステンレスの作業台に置かれた白蝋の女の腕は自立し、そこに不意に生えてきたようだった。
美しくも恐ろしかった。
自慢げに腕を見せる瀬戸山の隣りで、俺は見てはいけないものを見ている気がして、うっすらと鳥肌が立った。
「大変だったんだよ。指ばっかできたり、ボロボロ崩れたり。人工心肺もお高いしな」
瀬戸山が言うと周りでアシスタントの研究員たちが笑った。
俺はしかし、蛍光灯の光を受けて作業台から生えている腕から目を離せなかった。 これはいったい何なんだ?
「これだと太ももの丸焼きとか右腕のローストなんかができるわけだ。北京ダック風に皮だけ食べるって言うのもいいよな」
瀬戸山が腕の指先をかじる真似をした。
これが培養肉? これは食用なのか?
(狂ってる)
こんなものはダメだ。世の中に出しちゃだめだ。
それに、と思った。
俺はエンジニアではないが、培養細胞の原理は叩き込まれている。培養に関する基本的な操作も研修で習得した。
どうしても腑に落ちない。
本当にパーツだけを作ることが可能なのか?
どの時点で増殖した細胞の塊に血管を接合し、腕として培養できるのか。
何かおかしい。
腕を見た半年後、ノーライフ社が人工子宮の販売を行うと発表した時、俺の中でパーツと人工子宮がつながった。
恐らく間違いない。技術的にできないものはできない。パーツを作ることは、今の培養技術では無理だ。それができたということは、やり方はひとつしかない。
パーツはパーツとして培養されたのではなく、生体から切り出された。体細胞からiPS技術で生殖細胞を作り、人工子宮を使って人間を作った。そしてそれをバラバラにし、パーツごとに培養槽で保存したのだ。
腕を作ったのではなく、人間を作って腕を切った、それが研究所の選択だったのでは? それなら可能だ。それを培養肉と呼べるのかはわからない。脳がある人間を作り、それをバラバラにして保存する。それは殺人ではないのか?
その真偽を確認する機会は、意外と早く訪れた。
小方ルミナが殺されたのだ。
ライブ中、ストーカーに刺された小方ルミナは病院に搬送される途中で死亡した。救急隊員は団員で、死亡した小方ルミナからひそかに細胞を採取した。
ノーライフ社の研究スタッフの中にも団員はいた。団員はあらゆる場所にいる。
「こんなことになるのなら、もっと早くご挨拶しておくべきでした」
俺たちを案内しながら研究員は言った。こういう時に団の隠密性がマイナスに働く。
俺は何度か顔を合わせたことがあったが、名前も知らず団員とも知らなかった。しかし向こうは俺のことを知っていたのだそうだ。
「ライブでご挨拶したこともあります」
これまで研究室の培養槽は瀬戸山に見せられるままに、他の培養槽を覗いたことはなかった。俺はセッティングを任せ、ひとつひとつ培養槽の小窓をのぞいていった。足があり、胸がある。冷静になってみれば、なんとも異様な光景だが、元は細胞なのだ。一種の作物であり、培養肉ビジネスが細胞農業と呼ばれるのも実体に即している。
最後の培養槽には大型の生命維持装置が付けられていた。俺が小窓を覗くと中の女と目が合った。
俺の予想は当たっていた。その培養槽には女の生首が浮かんでいたのだ。人間を作り、それを解体したものがパーツの正体だ。体温ほどの培養液の中でゆらぐ女は、俺を見て瞬きをしたように見えた。
小方ルミナの細胞を培養し、パーツに分ける前の小方ルミナを手に入れること。
俺たちは培養槽のプログラムに介入し、小方ルミナの細胞から生殖細胞を作り出した。遺伝子的には小方ルミナの遺伝子と完全に一致している。
「クローニングとよく似ていますが、違うのは赤ん坊ではないことです。あくまで培養細胞なんです」
通常の生殖細胞であれば、人間の成長速度でゆっくりと成長する。しかしiPS化され、作られた生殖細胞はあくまで培養細胞であり、培養細胞として倍々の速度で細胞が増えていく。大人になるまで1カ月ほどしかかからない。
「持ち出せるのか?」
「無理ですね」
研究員は言った。
「種となる細胞加工を行い、人工子宮で胎児サイズまで培養したら、あとは外で培養を続けるしかありません」
どこで? 全員が俺を見た。俺が親から受け継いだ古い3階建てマンションは、3階には俺しか住んでいない。
この数カ月、俺の部屋には強化アクリル板とアルミ材でできた棺桶サイズの培養槽があり、その中で小方ルミネは眠っている。みかけこそ大人の女だが、自発呼吸はできず、へそにつながった人工心肺で血液を循環させ、酸素と栄養を補給している。
小方ルミネは目覚めない。培養細胞のエラーなのか、脳はできているが、目が覚めないのだ。 人間の数百倍の速度で成長した培養細胞は人間と呼べるのか。それでもここいるのは小方ルミナであり、団員たちは目覚めを待っている。
朝おはようとあいさつをし、夜お休みとあいさつをしながら、俺は小方ルミナとのささやかな同棲生活を楽しんでいた。
その時、俺たちは気づいていなかった。急ごしらえの培養槽からわずかづつ培養液が染み出していたことを。
結局、培養液が切れた小方ルミナは細胞を維持できず、腐敗が始まる前に処分するしかなかった。やむなく俺たち団員は小方ルミナを食べることになるのだが、それはまた別のお話である。
【おわり】