【入選】NAME WAR ―呼称戦争記―(著:青乃家)
あれはまだ日本が平和だった頃、いや、既に精神面では暴発の一歩手前まで進んでいた頃の話だ。
大学一年生の夏。僕達クイズ研究会、略してクイ研の面々は、秋以降の活動内容を相談するために、食堂横のラウンジに集まっていた。クイ研は人気サークルで、過去にはテレビでクイズ王と呼ばれる先輩を輩出したこともある名門だ。それだけに、一癖も二癖もある多士済済が集まっており、理屈っぽいので会議もなかなか進まなかった。
「だからさ、部長権限を乱用しないでくれる?」
と、副部長の朝比奈さんが言う。理知的を絵に描いたような女性で、赤いフレームの眼鏡が似合っていた。
「僕がいつ乱用したんや。心外やな」
と返すのが部長の道明寺さんだ。大阪出身でインテリのうえに筋肉質。高校生の時にチーム制のクイズ番組にリーダーで出場し、準優勝の経験がある猛者である。部長を務めるにふさわしい経歴だろう。
「一年の意見も聞こうよ。勅使河原君はどう思うの?」
急に話を振られて、僕はたじろいだ。合宿に行くか行かないかを延々と議論しているのだが、正直僕はどちらでも良かった。
「いや、僕はどっちでもいいです…」
なにしろ先週の天王山、思い切った告白を経て、僕は同学年の女の子と付き合い始めたばかりなのだ。今はそちらのデートの段取りの方が重要事項だった。
「はい、私は関西以外なら行きたいです!」
と、声を上げた一年生が、まさに僕の彼女である五百城いずみだ。同じクイ研で、最初に会った時からその関西特有の明るいノリに惹かれていた。清水の舞台から飛び降りる覚悟で告白したら、あっさり「ええよ」と言われて、嬉しくて転げ回った。ただ、愛想が良すぎるのが心配だ。なるべく僕とのデートを優先してほしい。
「五百城さんは兵庫やんな。そら、僕も大阪やから地元にわざわざ行くんはつまらんわ」
「勝手なことばかり言わないでくれる?」
部長と副部長がいよいよ険悪な空気になった時、ラウンジの入口から「おーい」という声が聞こえた。皆が目を向けると、二年の伊集院さんが大きな紙袋を抱えて入ってくる。
「みんな揉めてるようじゃっで、甘かもんでも食べて、一休みしたもんせ」
鹿児島出身の彼は九州男児にしては気が利く性格だ。今日も一人で会議を抜け出して何かと思ったら、差し入れを買ってきたらしい。
「ほら、熱々やっど」
と角刈りに笑顔の伊集院さんが配るのは、よくスーパーや屋台で売られているあんこの入った和菓子だ。
「お、御座候か」
道明寺部長がお菓子を手にして言った。それが、元々煮詰まっていた会議が暴発する合図だった。
「なにそれ?今川焼きでしょ」
と、朝比奈さんが言う。「そんな変な名前じゃないわ」と、言わなくていいことを続けた。眼鏡の奥の瞳が冷たく光っている。
「これは御座候やろ。変な名前とはなんや。聞き捨てならんな」
「変だから変って言ったのよ。それって台詞でしょ?勝手に企業が付けた商品名で、正統性がないわ。今川焼よこれは」
「何を言うてんねん。これは御座候や。近畿圏はそうや。なあ、五百城さん」
いずみはさすがに険悪すぎる空気を慮っていたが、それでも自分の意見を通した。
「御座候…だと思います」
「なにそれ。部長権限のパワハラじゃない」
朝比奈さんが抗議する。そこへお菓子を持ってきた当人の伊集院さんが口を挟んだ。
「どっちも違うど。こら回転焼きって言うんだど。回転させて焼くから回転焼き。正しかでしょう?」
これが口火となって、喧々囂々、ラウンジは大論争になった。大判焼きだ、いや北海道ではおやきなんだと皆が譲らない。これはクイズ研究会という「一つの正解」を求める気質が災いしたのだろうか。事態は収拾がつかなくなっていった。
「あなたはどうなの!一年勅使河原君!」
と、朝比奈副部長が名指しする。ずっと喋ってなかった僕がとうとう標的になった。同じ東京出身で今川焼派だと思ったのもあるだろう。視線が集中する中、僕は正直に答えた。
「いや…名前、別にどうでもいいかなって」
僕の反応に嵐のような批判が起こった。
「それがクイ研所属の態度か」
「正解は一つなんだよ」
「自主性がなさすぎる!」
いずみでさえふがいない男を見るようなまなざしだった。これは辛い。けど、そんなにお菓子の名前が大事なことなのだろうか。ふと隣を見ると、同じ一年部員の宇賀神が、僕と同じように何も言わず黙って座っていることに気付いた。彼は普段から寡黙な男で、さらに痩せていて蚊を思わせるような風貌だったから、存在感が薄い。けれども博識だったので、その面では一目置かれていた。
「宇賀神君はどうなの?」
彼の出身地は知らないのだが、居心地の悪さを少しでも改善しようと僕は尋ねた。
「いや…僕のところは…****」
声が小さくて聞き取れない。けど押し黙っているにも関わらず、彼の目には青く暗い炎が燃えているように感じたことを覚えている。
こうして最後には皆、怒って解散してしまった。残された「名前の定まらないお菓子」を、僕は一口齧った。ふわりとした感触を期待したのだが、長い会議の時間を経て、それは冷たく固まっていた。あんこの甘さも、温かいうちならもっと美味かったんだろうなと思えた。
僕達が大学を卒業する頃から、世の中は急速にきな臭くなっていった。多様性の時代と言いながら、人々はアイデンティティを求めて衝突を始め、直接的な暴力を伴った事件へと発展することがいくつもあった。SNSでは同じ日本人へのヘイトが溢れ、それが個人レベルから地方共同体レベルへ拡大されて、最後にはそれぞれの地域が独立するべしという機運が高まった。
その象徴として扱われたのが「あのお菓子」である。地域によって呼称の違う存在は、それぞれの民族性を主張するのに好都合だったからである。
「君、これを何と呼ぶ?」
と、貿易関係の商社に入社した僕に上司が聞いてきた。スマホの画面に映っているのは「あのお菓子」だ。
「いや、別に名前はどうでもよくないですか?」
「何を言う。一番大事なことじゃないか。そんな事じゃこれからの時代やっていけないぞ」
仕方なく、僕は「今川焼き」と答えた。無難な答えだと思っていた。しかし次の日に僕は会社を解雇された。務めていた商社は本社が静岡県にあり、そこは「今川焼き」派と「大判焼き」派が激しく争っている地域だったのだ。そして株主総会で「今川焼き」派の東京出身社長は更迭されることとなり、代わりに「大判焼き」派の地元出身社長が実権を握った。その結果がこの人事であった。
「仕事クビになってどないすんの。やっていかれへんやん」
「うるさいな、ちょっと黙っててくれよ」
いずみが不安そうに言うので、つい僕もきつい言葉で返してしまった。付き合って四年、就職も出来たし、そろそろプロポーズしようと思っていた矢先に会社をクビになった。なんて世の中だ。それ以前に、東京に残って仕事をしているいずみもまた、世の中の流れに飲み込まれ民族主義の発言が多くなっていた。
「やっぱりテシちゃんは東京の発想やわ。そうやって地方を搾取して、一極集中で発展してきたから傲慢なんや!」
僕らの愛情は時代の渦に飲み込まれて消えてしまった。いずみは故郷の兵庫に戻り、僕は日雇いのアルバイトを始める。建設会社のユニフォームには「あのお菓子」がプリントされ、大きな文字で「今川焼き」と記され、その横に「正しい名前で呼びましょう」という注意書きが印刷されていた。
ついに暴力が列島を覆った。最大のきっかけは千代田区にある「今川橋」跡で起こった騒乱事件だ。今川焼きの語源と言われるこの地は近年民族派の間で「聖地」として崇められていた。そして「今川」にゆかりのある桶狭間の戦いが起こった五月十九日には記念式典が行われる。この最中に、関東で唯一「大判焼き」勢力を保った茨城県民の集団が火炎瓶を投げ込んで妨害行為を行ったのだ。これがきっかけとなって凄まじい乱闘となり、結果的に死者二十三名、重軽傷者百五十六名、逮捕者多数を出す大惨事となった。五・一九「血のあんこ事件」である。
この大事件を契機に、東京都は「関東甲信以外の出身者の追放(ただし茨城人は例外的に追放)」を宣言した。これは東京の圧倒的な財力と人口を背景にした一都九県の日本からの独立を意味しており、もはや旧中央政府にそれを防ぐ力はない。今川焼き派は十三代目・今川善右衛門という今川橋架橋功労者の子孫を探し当て国家元首に据え「今川焼き帝国」を内外に宣言した。
「そんなわけあるかよ馬鹿野郎」
と僕は貰った号外を読みながら建設現場の休憩所でため息をついた。まさかお菓子の呼び名ごときでこんな事態になるとは。今やナショナリズムの象徴として扱われている「あのお菓子」は全国どこでも主食だ。僕は甘ったるさに飽き飽きしながらも会社からの支給なのでそれを頬張った。同じように食べている同僚のおじさんが、ぽつりと言った。
「始まるかもしれないな…」
「何がですか?」と僕は咀嚼しながら返す。
「徴兵制だよ」
日本全国の地域は「今川焼き帝国」誕生をきっかけに雪崩を打って独立へと走った。地域面積では遥かに今川焼き勢力をしのぐ存在となったのが「大判焼き共和国」だ。静岡を本拠地とするこの国家は東北・北陸・中国地方の半分以上と近畿の一部そして四国全土を影響下に置き、今川焼き帝国の最大交戦国となった。しかしあまりにも国土が広大で軍閥も多く統治状態は不安定である。
西では大阪・兵庫・愛知を中心とした「御座候評議会」が誕生する。最も工業化された地域を有する勢力で、「食の正統性」を掲げる保守的軍事国家である。
九州地方は「回転焼き自由圏」として九州焼き文化ルネサンスを掲げた。経済力は大きくないがその情熱と武力は脅威とされている。
北海道は「おやき自治連邦区」となったがその背後には明らかに某国の影があった。寒冷地対応の新型焼き器開発に成功したらしい。
こうして日本は諸勢力が乱立して群雄割拠の内戦状態に突入し、各地で毎日のように武力抗争が頻発する時代になったのである。
「そんなわけあるかよ馬鹿野郎」
もう何度発したかわからない言葉を吐きながら、僕はトイレの便座に腰掛けていた。相変わらず尻が痛い。それというのもトイレロールが配給制の高級品になったからだ。日本のトイレロールは全て国内生産で賄えていたが、その四割を担う静岡県が日本列島最大の激戦地になったからだ。今川焼き軍と大判焼き軍の三島市・沼津市・富士市あたりを巡る攻防戦の結果、製紙工場は無惨に焼け落ちた。その結果、四国にも製紙工場を持つ大判焼き軍以外は慢性的な紙不足に陥り、新聞紙や古雑誌で尻を拭く有り様となったのだ。
「大体こんな暮らし、イカれてるだろう」
僕はトイレ内で独りボヤいた。今川焼き帝国は当初こそ攻勢だったものの、その人口を支えるに足る生産力を持たないため、物資不足に悩まされた。物価は異常なインフレとなり、国民の生活は徐々に圧迫されつつある。
ふと、五百城いずみはどうしているだろうかと考えた。風の噂によると、彼女は道明寺部長と関西で再びめぐり逢い、結婚したという。ほぼ同郷なのでウマが合うのだろう。道明寺さんは今や司令官として御座候評議会の主力を率いているという。流石というべきだ。
ある意味もっと出世したのは伊集院先輩である。故郷に帰った伊集院さんは回転焼き自由圏の義勇兵に参加した。そして大判焼き軍との北九州を巡る激戦で、爆弾を抱えて揚陸部隊に突撃し、自爆死したのである。その勇猛果敢な戦いぶりは敵味方なく称賛され、「関門海峡の守護神」として祀られ、銅像まで建てられたのである。あの特徴的な角刈りで、片手に爆弾、片手で「あのお菓子」を頬張り、突撃する伊集院先輩の巨大な黄金像は、門司港のストリートビューで確認できる。
「いや、その場面でお菓子は食べないだろ」
と僕は心のなかでツッコミを入れるのだが、それでも伊集院先輩像の顔は満足そうに見えた。皆、それぞれの場所で信念に基づき戦っている。だが、僕はというと…。
「勅使河原あ!いつまでクソしとるかあ!」
上官の怒声が響く。僕はただの一兵卒として招集され、今川焼き軍でシゴかれていた。
呼称忠誠演習!上官が号令をかけると、新兵は「今・川・焼き」の掛け声とともに演習場のトラックを三十周する。このような理不尽なプログラムが毎日叩き込まれ、僕は今川焼き軍の兵隊として訓練されていた。そんなある日、新兵教育の視察として高級将校が訓練場にやって来た。しかし今川焼きの歴史を二時間も語り続ける髭面の将校よりも、その脇に立っている人物に僕は目を奪われた。
「久しぶりね、勅使河原君」
講演が終わって声をかけられる。やはり間違いなかった。今川焼き帝国・名称検察庁長官代理という肩書で随伴していたのは、クイ研副部長の朝比奈しのぶ先輩だった。
「お久しぶりです、朝比奈先輩」
「キマっているじゃない。ふふっ。卒業以来かしら」
あの特徴的な眼鏡の赤いフレームは黒色に変わり、服装も同じく黒いスーツをばっちりと着こなしている。
「クイ研の皆も敵同士になっちゃったね」
「自分は、兵卒としての仕事を全うするだけであります」
僕が上官に対する教えられた通りの答え方をすると、朝比奈先輩は笑った。
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ。ただ、検察庁の人間として聞かなきゃならないことがあるわ。…これは何?」
彼女の手にしたタブレットには「あのお菓子」が映し出されていた。
「今川焼きであります!」
僕は模範的回答をしたつもりだったが、朝比奈さんの顔は緩むどころか険しくなったように見えた。
「本心からそうだといいんだけど…」
彼女は僕の心を見透かしたようにじっと見つめて言った。
「私は今川焼き帝国が日本を統一することに命をかけるわ。あなたも力を貸してほしい。きっと心から喜べる日が来るわ」
彼女はそう言うと、国民から募集されたスローガンを最後に発した。
「時は今」
「時は今!」
それ明智光秀じゃんというツッコミを飲み込んで僕がそう返すと、朝比奈先輩は踵を返して高級将校に続いて去っていった。もう、学生時代は遠い昔のように思えた。
地獄のような訓練の日々が終わり、僕は兵站部隊の輸送任務に就いていた。トラックの荷台にはもちろん「あのお菓子」がびっしりと詰め込まれている。保存の効くパッケージ型で表面に「IMAYAKI-3式(個包装型)」と記されていた。夜道は暗く、不気味に静かだ。
「しかし退屈っスねえ。俺、前線で戦って大判焼きの奴らぶっ殺したいんっスけど」
「戦線維持のための補給も大事な任務だよ」
助手席で地図を見ながらボヤいているのは水無瀬という補助員だ。まだ二十歳かそこらだが、愛国心に燃えている若者だ。
「あー、撃ってみてえなあ」
自動小銃を見つめる好戦的な水無瀬には悪いが、後方支援はほぼ安全な仕事だ。あまり戦意がないことを表にすると上官に密告される可能性があるので、僕は適当に話を合わせていたが、本当は前線になど出たくなかった。もし後方で危機があるとすればそれは…。
突然、先頭を走っていた輸送車が爆発した。轟音と共に火球が散らばり付近の林道を明るく照らす。「えっ…」と水無瀬が声を上げた直後、どこかから機関銃の音が鳴り響いた。
「伏せろ!」
僕は叫びながらトラックを急ブレーキで停め身を屈めた。左右の林の中から全身黒尽くめの男たちがなだれ込んでくる。「危機」がまさに訪れたのだ。黒の軍団はたちまち生き残った部隊を取り囲み、リーダーと思わしき人物が「武器を捨てろ!両手を見せろ!」と拡声器で叫んだ。その瞬間、背後からライフルの銃床で殴られ、僕は意識を失った。
気がつくと僕は目隠しをされ、猿轡をされた格好で、トラックの荷台に乗せられていた。同じようにされて数人が連行されているらしい。水無瀬がどうなったのかはわからない。
この鮮やかな襲撃の手口、間違いなくFUMANの仕業だろう。「FUMAN(Federation for the Unfixing of Manju's Assigned Name)」はどこの勢力にも属さず、破壊活動や諜報工作を行うテロリスト集団だ。神出鬼没で、本拠地がどこかもわからない。広大な地下ネットワークを使って日本全土を脅かしており、各国もその対処に苦しんでいた。彼らの主張は「あのお菓子」による象徴性国家そのものの否定であった。
FUMANのアジトは緊張感に満ちていた。おそらく山奥の廃業した旅館の地下を改造して要塞化したのだろう。連れてこられたのは十人弱。今は目隠しも猿轡も外され、長い廊下に並ばされている。薄暗く、蛍光灯の明かりだけが寂しく灯っている。しかしどこかで製造しているのだろう。「あのお菓子」の甘い香りだけは施設全てに充満していた。
黒尽くめの数人が現れる。彼らはなぜか、僕にだけ名前と所属および階級を聞いた。
「勅使河原。第8補給輸送班。二等兵」
僕は正直に答えた。すると男は僕だけを促して別の部屋へ連行する。理由はわからない。廊下には均等に銃を携えた歩哨が立ち、よく訓練された武装組織であることが伝わった。
通された部屋は明らかに空気が違った。室内は簡素な机と椅子が何脚かあるだけだが、部屋一面にモニターと通信機器が張り巡らされ、その中央のデスクで目出し帽の男が一人頬杖をついて座っている。案内した男の敬礼の仕方から、高い身分であることがわかった。
「座れ」
そう言ったきり、男は沈黙した。僕も何も言えず、ただ向かい合ったまま時間が過ぎる。あらゆる通信機器に囲まれた中、なぜか「あのお菓子」が山盛りで皿に積んであった。
微かに外から怒声が聞こえる。「この菓子の名前を言え」と命令しているようだ。しばらくの間があった後、「今川焼き、万歳!」という叫び声がした。あれは、おそらく水無瀬の声だ。次の瞬間、乾いた銃声が一発轟いた。
ここで死ぬのだな、という諦念が僕の心に浮かんだ。目出し帽の男はゆっくりと椅子から立ち上がると、皿の上の「あのお菓子」を一つ手に取り、拳銃を構え、目の前に立った。
「これの名前を言え」
どうせ死ぬのだから、僕は軍人としてではなく、僕個人の言葉を吐き出したくなった。
「名前なんて、どうでもいいよ」
「命が惜しいのか」
「そうじゃない、みんな、くだらない。名前にこだわって、戦争して、馬鹿みたいだ」
男は僕に突きつけていた拳銃を仕舞い、「あのお菓子」を皿に戻した。そしてゆっくりと目出し帽を脱いで顔を顕にした。
「久しぶりだな、勅使河原」
「…お前…宇賀神か」
クイ研一年生の同期で、寡黙で、目立たず、蚊のような印象だった男。宇賀神はFUMANの一員になっていた。いや、扱いからして、一員どころではない。彼はこの国際テロ組織の首領に間違いなかった。
「お前はあの時、大学のラウンジでこの菓子の名前で揉めた時から、変わっていないな」
「よく覚えてるな。まさか、お前がこの組織を率いていたなんて…」
宇賀神の顔は昔と同じく極度に痩せていたが、蚊のような弱々しい印象は失せ、狼のような精悍さを称えていた。よっぽどの死線をくぐり抜けてきたのだろう。
「お前が今川焼きと答えたら、躊躇なく撃つつもりだったよ」
そう言うと宇賀神はもう一度皿の上の菓子を手に取り、一つを僕に渡した。
「食えよ。出来立てだ」
宇賀神と共に「あのお菓子」を食べた。かぶりつくと、柔らかい皮の食感が心地よく、粒あんの甘みが口中に広がる。なんでこんな極限状態なのに、美味いのだろうと思った。
「お前も知っている通り、FUMANは名称国家そのものを否定している。お前とは思想的に共鳴する所が大きい。だが、俺はお前を同志には誘わないことにする」
「…同志にせず、殺しもしない。…その理由は何だ」
宇賀神は二つ目の「あのお菓子」に手を伸ばしながら静かに語った。
「あの日、ラウンジで揉めた時、俺は意見が無かったわけじゃない。無かったのは勇気だ。これを、俺の故郷では、夫婦饅頭と言う」
「夫婦饅頭…聞いたことがないな…」
「夫婦饅頭、略してふうまん。これは中国地方、福山市と岡山県の一部でしか使用されてない呼称なのだ。マイノリティだよ」
「それで…FUMAN…」
「そうだ。俺は言っても馬鹿にされるだけ、無視されるだけの全国の呼称民族を集めた。ずんどう焼き、ホームラン焼き、ピーパン…だが、根本にはやはり、ふうまんがあった」
宇賀神の表情が少しだけ、柔らかくなったように見えた。それと同時に、疲労からだろうか、あるいは「あのお菓子」に睡眠薬でも入っていたのだろうか、僕は眠くてたまらなくなった。そのまま突っ伏して寝てしまう直前に、宇賀神は僕に向けてこう言った。
「俺達は所詮、怨念と憎悪で戦いを始めたに過ぎない。だが勅使河原、お前は昔から、意味にとらわれることなく世界の全てを愛すことができる。勅使河原、俺は、お前が羨ましい」
薄れゆく意識の中、宇賀神の顔は寂しげな微笑をたたえていたように思う。眠りに落ちながら、僕は涙を流していたかもしれない。
目を覚ますと、僕は知らない土地の公園のベンチに横たわっていた。日差しが眩しい。目の前には芝生と、特徴的な横長の建物が見える。ここは、おそらく広島の平和記念公園だ。FUMANの施設から遠く離れたこの中立都市まで、宇賀神が運んでくれたのだろう。
広島市はかつて名称戦争で激戦地になりかけたが、国連の仲裁によって「中立特別市」として一時的に統治されている。「二重焼き」という独自の名称を使用する地域だったことも介入を容易にした。現在はPKO部隊が常駐し、各勢力からの難民や脱走兵の避難所にもなっているらしい。
ここでは情報統制が緩いので、様々な一次情報にふれることができる。通りに出ると、号外が配られていた。大きな見出しで『今川焼き 御座候 停戦協定成る』と記されている。事態が大きく動いたのだ。僕はぼろぼろの姿でPKОの野営に助けを求めると、平和維持活動の一環として、数日かけて東京の今川焼き帝国に送還されることになった。
「本当にその後のことは何もわかりません」
尋問官の執拗な問いかけにも、僕はほとんどわからないで通した。部隊が襲撃され、拉致され、気が付いたら広島にいた、それ以外何も喋らなかったし、喋りたくもなかった。僕は帰還兵の再教育センターという所へ収容され、そこで監視下に置かれる。戦場に行かなくていいのなら随分とマシだと思った。
夜、下段ベッドの兵士が、「ねえ、これ観て下さいよ」と上段の僕に呼びかけた。降りてみると、手にした端末に動画が流れている。通信媒体の使用は禁止されていないが、閲覧履歴は徹底して管理される。
動画には大きな見出しで『生放送 元検察庁官僚が語る呼称戦争の真実』と記されていた。画面に映っているのは朝比奈先輩だった。
「この停戦は正統と秩序への挑戦である」
「停戦派がFUMANと結託したのは明白」
「私達の名前を守る戦いを止めてはならない」
話の内容から、朝比奈さんは停戦協定に反対して左遷されたようだった。そのため、活動の場をネットに移して配信で内情を暴露しているらしい。しかしその髪は乱れ、目にはクマが浮かび、かつての颯爽とした彼女の面影はどこかに消え失せてしまっていた。
「配給に気を付けてください!停戦派の配る今川焼きには記憶操作の成分が入っています!この事実は我々が独自に…あっ!誰っ!止めなさい!私は国民に真実を…!」
動画は途切れた。おそらく踏み込んだ警察に連行されてしまったのだろう。
「なんか、ヤバいもん観ちゃいましたね」
下段の入所兵士が不安そうに漏らす。
「一応履歴を消した方がいい。大丈夫だよ」
僕はベッドに戻って布団を被ると、何も考えないようにして眠りについた。その夜は朝比奈先輩が夢に出てきたが、彼女の眼鏡のフレームは、学生時代の頃のように鮮やかな赤色をしていた。
東京に戻って数週間が過ぎた。街のそこかしこに「祝・停戦協定」と書かれた横断幕がかかっていたが、それを見上げる人間は少なかった。御座候軍とは停戦したが、大判焼き軍とは中部東海を中心に激しい戦闘が継続している。FUMANも活発に行動していた。
僕は再教育センターを出た後も雑役として駐屯地に詰めている。物資は極端に制限され、配給所には長蛇の列ができる。今日もその列に並んでいた。
テントの脇で何か諍いのようなことが起きている。三歳くらいの子どもを連れた女性が、配給所の係員に窘められている感じだ。
「何度来ても、今川焼き帝国の国民証を持っていない者に配給は無い!立ち去れ!」
「もう三日何も食べてないので、せめて子どもの分だけでもいただけませんか」
その横顔に見覚えがあった。
「いずみ…さん?」
こちらを見たその顔に、かつての柔らかな光はなかった。それでも、彼女はいずみだった。
「テシちゃん…勅使河原君」
彼女は目を伏せ、手を強く握っていた。男の子がじっと僕を見つめた。
「道明寺さんは…?」
僕の問いに、彼女は首を振った。
五百城、いや道明寺いずみさんの話によると、夫の道明寺大佐は、御座候評議会の権力争いに巻き込まれ、粛清されてしまったらしい。停戦に反対する反乱分子として警察に連行され、それっきりだという。
「心配せんでええよ。すぐ帰るから」
それが夫の最後の言葉だったらしい。クイ研で部長をやっていた頃の、頼もしい笑顔が脳裏に蘇ってきた。
「私らは裏切り者の家族やから、関西にも居づらくなって、それで、東京に流れてきたんよ…。でも住む場所も、仕事も、配給の権利さえなかったわ」
僕はいずみの手を引いて、配給所の端にあった簡素なベンチに座ると、胸ポケットに仕舞っていた菓子の袋を取り出した。再教育センターでこっそり分けてもらったものだ。
「ほら、食べなよ」
「それ、あなたのでしょう。ええの?」
「いいんだよ。子どもが一番に食べないと」
男の子はそれを受け取ると、一心不乱に齧り付き、頬張った。
「海斗っていうの。あの人が名付けて…」
「解答にちなんだのかな。部長らしいや」
海斗は「あのお菓子」を食べきると、初めて笑顔を見せた。それに釣られて、僕といずみも笑った。菓子の袋には、「暫定和平協定下 焼型圓形餡詰食品」と書かれている。僕はそれを片手でくしゃっと丸めた。
「美味けりゃ、名前なんて、どうでもいい」
【おわり】