2026年ノベル大賞 選評/似鳥 鶏
ウェブ媒体でのランキングと新人賞の公募は性質が違うので、もっと好き勝手をしていただいて結構です。
本来、他人に言うことではないのですが、ノベル大賞の選考会が終わると毎年、ぐったりします。長時間の集中、他人の人生に関わる責任からくる緊張、この結論で本当によかったのか、間違った判断をしていないかという不安、単純に何時間も座ったまま力を抜けない物理的疲労等があり、終了と同時に粘液塊になります。粘液塊になって椅子から垂れ落ち、部屋の隅をつたって排水口に流れ込み、下水管から下水道へ到達してそこに生息する微生物やネズミや地下に適応して白くなったワニ等に捕食されて彼らと融合、融合後も集団思考により統一された意思を有し続けているので九月頃にはこれら捕食者を逆に操り、瘴気を発しながら地上に侵攻して千代田区を崩壊に導くのが毎年のお約束なのですが、今年はあまりそういうことはなく元気でして、結果として千代田区は救われました。例年になく、すんなり結論が出たからです。
すんなり結論が出る場合、おおむね「一つだけ圧倒的な作品があった」か「各選考委員の間で評価が分かれない作品が多かった」のどちらかのようですが、今年は後者。美点も難点もわりと明確であり、次に進みやすい結果だったかもしれません。もちろん応募する側からすれば乾坤一擲の応募原稿のはずですから「簡単に『次』なんて言うな」という話になるでしょうが、プロの人たちだって渾身かつ会心の一作が担当編集者にまったくウケずに没、という程度のことは日常茶飯事ですので……慣れてください。まあ、たとえ慣れなかろうが打ちひしがれようが「結局書いてしまう」人たちの集まる世界ですので、あまり心配はしていないというか、それで書くのをやめられるのなら、もしかしたらその方が幸せ、という可能性もありますので……。
候補作全体の傾向を見ると、キャラ同士のやりとりは軽妙で面白い一方、特に地の文での「日本語の間違い」が多い作品が目立ちました。単純な視点のブレ、主語述語の対応ズレ等に加えて言葉の誤用、とりわけ「日常会話では使われない文芸的な慣用句」の誤用が目立ちました。たとえば「ブラック労働で身を粉にされた」は間違いですし、「花粉症で双眸から涙が止まらない」とは普通、言いません。こういった感じのミスです。
これは読書量の不足、より具体的にはウェブ上の文章ばかり読んでいて、きちんと一つにまとまった文芸作品をあまり読んでいないのが原因なのではないか、と推測されます。読んでいるなら「ん? この言葉こう使って大丈夫か? こういう使い方って見たことあったっけ?」と立ち止まれるはずだからです。原則的に校正を入れないまま発表されるウェブ上の文章においては、前述のような間違いはそのままスルーされることが多く、スルーされているうちに「間違いである」ということすら認識されなくなっていくので、それに慣れてしまうとたいへん不利です。ウェブ上の文章は、「訓練のための読書」という観点においては「バランスの取れた食事」に対する「サプリ」程度のものだととらえておくべきでしょう。
また、これも推測ですが「架空の読者に対する先回りの配慮」が裏目に出ているのではないか、という作品もありました。ハッピーエンドでないとウケないのではないか。先の展開が予想できないと、相方が若いイケメンでないと人気が出ないのではないか――そういった「配慮」から、作品の尖った、あるいはもっと尖らせられるはずの部分が失われてしまうのは勿体ないです。ウェブ媒体においては「売れ」の部分まで自分で管理しなければなりませんが、プロの世界では、そういうことは編集者がやってくれます。作者が考えるのは「面白いかどうか」だけでいいです。少なくともノベル大賞においては、「いい作品だが売れなそう」で不利になることはありません。ウェブ媒体でのランキングと新人賞の公募は性質が違うので、もっと好き勝手をしていただいて結構です。
では以下、読んだ順(つまりランダム)に個々の作品について。作者名は敬称略とさせていただきましたことに加え、選評という性質上、ネタバレを含んでいること、後に刊行された場合は指摘された内容が修正されていることをお断りしておきます。
『稜線の彼方』豆倉炎々
文章力と人物造形のうまさが圧倒的でした。飲酒する際に「自分を薄めたい時はこれが一番てっとり早い」と書いたり、整形をやめられない主人公がSNSを見て「見えないならまだしも、目の前に人参をぶら下げられては走るしかなかった」と語るとか、95頁の「期待で膨らんだシャボン玉が弾けて洗剤になったような」等も地味に効いており、華麗な比喩や珍しい慣用句等を使わなくても「この言葉をそこに持ってくるか!」というさりげない上手さで魅せてきます。会心の一文なのに「さあこれから会心の一文が来ますよ!」「ここが会心の一文でした! いかがですか?」と鳴り物を入れてしまわない抑制もきいていて、能ある鷹はなんとやら、という感じがします。山に行った時の感覚も実感的で、職場でのシーンも「会社員感」がすごくありました。
※応募原稿を見ると、実は「会社員の描写」の上手い/下手にかなり差があります。自分と同僚、あるいは同じ部署の先輩か後輩、それから直属の上司くらいまでは誰でも書きますが、もっと会社員感を出すには主人公の勤める会社の規模をきちんと設定し、「他部署との関係」「親会社または子会社との関係」「出入りの業者との関係」まで設定を考え、視野に入れて書くとよいです。オフィスがどういうビルのどこに入っているか、等も大事。本作ではここがきちんと書かれていました。
人物造形も上手で、ぶっ飛んだ派手さはないものの、キャラが各々「その人らしさ」を存分に発揮しており、「なるほどこの人らしい言い方だな」「この人ならそう考えるだろうな」という、造形の深さがありました。キャラの体幹がしっかりしている、とでもいった感じでしょうか。新田のキャラは面白い上に「服装がいちいちイカツい」という特徴によって「イケメンだけど羨ましくない」という絶妙なラインをついており、御都合主義感が消えています。満島の「ちゃっかりしている人」というキャラも、行動だけで読者に実感させるのは地味に難しいのですが、72頁の振る舞いなどで「なるほどこいつはちゃっかりしている」と納得がいきました。
また、主人公の整形マニアぶりを出す→会社の人に聞かれる→口止めできないか探りを入れたらなぜか山に誘われる→……といった具合に話がテンポよく展開していき、それでいて急展開すぎたりあっさりしすぎてはおらず、退屈させないストーリーテリングが地味ながら見事でした。なんだか毎回「地味に」と言っているようですが、フィギュアスケートで言うなら四回転ジャンプはしないが空中姿勢が美しいとか、技自体は基本的なシットスピンだがこの人のは回転速度がエグい、といった感じで、「通常技に特筆すべき強さがある」というタイプの個性を感じました。山を登っているシーンの途中から主人公がメイク崩れを気にする描写がなくなっていたり、新田が主人公の外見に一切言及していなかったりと、「気付かれないかもしれない伏線」を入れているのも見事で、こうした「読者を信頼した書き方」ができるのは強いです。
一方で、主に指摘されたのは結末の部分でした。この作品は「あらすじ」の形にまとめると「美容整形マニアで美しくなるためには必死に努力を続けなくてはならない、と追い立てられている主人公がイケメンに出会って山に誘われ、その楽しさにハマって自分のこだわりから解放され、イケメンともくっついてハッピーエンド」ということになり、これはあまりに「そのまま」すぎます。実際に読んでみるとそのイケメンの面白さや主人公の感覚のリアリティ等に引き込まれるので「あらすじの形では面白さが伝わらないタイプの作品」なのですが、主人公の抱える問題ははたしてイケメンと結ばれて幸せになれば解決するものなのだろうか、という疑問は残りました。というより、新田は会話をしているだけで充分魅力的なので、別にイケメンである必要はないような。ここを不要なルッキズムととらえるか読者サービスととらえるかは読者次第かもしれませんが。
ただ、そこに至るまでは退屈しないだけでなく、物事の掘り下げもできていました。主人公のルッキズムやそこに対する努力、登山の魅力等が描かれる一方、後のシーンではそれらの「裏の側面」も描かれ、「でも、これってこういうケースもあるよね?」と読者に突きつけてきます。つまり物事の描き方が一面的でないので、そこが非常に魅力的でした。人物についても同様で、主人公は「職場の上司や後輩」や「別部署の友人」相手でペルソナを使い分けていて、あるペルソナのしたことが別のペルソナに意図せず影響して「事件」が起きる、という展開になるので、人物を立体的に見せると同時に無理なく「事件」を起こし、ストーリーがテンポよく進行していました。
人物の行動については「浮気はした方が『悪い』のであって勝ち負けではないのでは?」とか「高尾山は何号路を通るかで必要な装備も体力もだいぶ違うので、山好きが初めて山に登る人を誘うならその説明はするのでは?」とか、ちょこちょこと疑問が出る部分もありましたが、いずれも容易に修正がききそうな部分でもあり、本作の文章力と人物造形の前ではそれほど評価に影響を及ぼすものではなく、準大賞という結果になりました。タイトルだけ見ると山岳小説に見えてしまうのでタイトルは変わるかもしれませんが、それも含め、どうやって売り込んで、「読みさえすれば面白い」本作の世界に読者を呼び寄せるか、編集部の手腕が問われそうです。
『胡桃沢家の三姉妹 これが私の生きる道』中野直
タイトルから想像できる通り同居する独身三姉妹のホームコメディであり、楽しげなことをやろうとしている、というのが伝わる作品でした。いい意味で軽いドタバタ感があり、ポンポン話が展開していくのでするする読めます。
ただ、文章、人物造形、ストーリー、テーマの扱い、場面構成といったあらゆる面において作り込みが足りておらず、掘り下げ不足が顕著なのが痛かったです。動作の表現一つとってもお茶を「ガブッと」飲んだり包装紙を「バリバリと」破ったりと、本当に言葉を吟味した結果それになった、とは思えない大雑把な表現が多く、「お茶らけた」や「さり気なく」などの表記についても、漢字をひらく(ひらがな表記にする)かどうか、ちゃんと検討したのだろうか? という疑問が浮かんでしまいます。67頁の騒動のシーンでも、正太郎が向井妻に「簡単に吹き飛ばされた」り、「よろけた花音が向井の妻にぶつかり、向井の妻は壁に激突した」と、人体どんだけ軽いんだよ『ヒューマン・ホール・フラット*1』か! とつっこみたくなるような表現で、これは「実際の人間の動き」をちゃんと想像しながら書いていないのではないか、と気になりました。胡桃沢家の間取りにしても、キーアイテムになるコタツの横にいきなりテーブルが出てきたり、帰宅した茉美が手も洗わず当然のようにコタツに入ってきていたり、どういう間取りで人間がどう動いているのか、が具体的に浮かばない書き方でした。
この書き込み不足は人物造形や設定、さらにストーリー展開にも及んでおり、こちらの方がより問題かもしれません。茉美が介護の仕事に情熱を注ぐ理由が「ありがとう」と言われる仕事だから、としか書かれておらず、退勤後にキヨさんの部屋を訪れるようになった経緯も「なくてはならない大切な時間となっていた」と簡単に書かれており、花音が引き取られる前に幼い頃の莉子が「この子が貰えるなら、クリスマスのプレゼントは何もいりません」と思うようになった経緯も書かれていません。本来こうした部分はそれのために一エピソードを書くか、少なくとももっと頁数(行数にあらず)を割いて書き込むべきところなのに、読者は「こういう設定なのでよろしく」と、なんだかHOだけ渡されて済まされてしまう感じになっています。この書き込み不足はストーリーの大事な部分にも出てしまっていて、そもそも胡桃沢家の両親が、すでに二人の娘がいるのに花音を特別養子縁組で引き取った理由が不明ですし、花音の不倫にしても、それまで相手をなぜ好きになったのか、どこをどう好きなのかが書かれていないため、そもそも彼女は失恋をしたのか? というところがふわふわしてしまっています。
また、あまりに各シーンが短く、場面転換と視点人物の交替が多すぎるのも残念なところでした。演劇においては場面転換はなるべく少なくすべし、というのが常識であり、それは「場面転換(特に、いったん舞台上を暗くする『暗転』)をすると、客の集中力がゼロに戻ってしまう」からです。これは小説にも同じことが言えます。小説も文章を読ませ続けることで読者を作品世界に引き込まなければならないわけで、場面転換や視点人物の交替が入ると、それまで積み上げた没入感がゼロに戻ってしまいます。場面転換も視点人物の交替も、力の限り減らしましょう。ちなみにこれは「登場人物個人への感情移入」ではなく「作品そのものへの没入感」が削がれる、という問題なので、「群像劇だからいい」という話にもなりません。そもそも群像劇は特定の主人公を追っていくことができないので主人公個人への感情移入が期待できず、読者にはいわば箱推しの状態で主人公チーム全体へ感情移入してもらわなければならないので、もともとけっこう難しい、書くのに覚悟がいるジャンルなのです。
この「場面転換の多さ」の原因も、やはり書き込み不足、掘り下げ不足なのではないかと思いました。マルチ商法の業者と対峙する46頁からの場面も、非常ベルを押して逃げてくるだけでいいのか? と思いますし(そもそも、マルチ商法自体は確かに作中で言われている通り合法ですが、そこには厳密な告知義務等が定められており、作中の業者は明らかに違法です)、生前贈与で得たお金の寄付方法も「手紙を添えて置いてくる」でいいのか? 大人のやり方としてそれでいいのか? となっており、これも展開についてちゃんと掘り下げて考えていないからではないか、と思えます。掘り下げて考えていればもっと各場面を展開させられ、こんなにせわしなく場面転換をしなくてもよくなったはずなのです。一方で、婚活バスツアーの部分は参加者の振る舞いや添乗員の態度などきちんと書き込まれており、だとすれば書き込む能力がないのではなく、(特によく知らない場面において)取材して掘り下げずに飛ばしてしまうという癖が原因なのではないかと思われます。サブタイトルで「この章で起こることのネタバレ」をしてしまう癖と合わせて、どうも急ぎすぎなようです。YouTubeのショート動画ではないので、小説の読者はある程度、作品に付き合ってくれます。焦らなくて大丈夫です。
また、設定についても、もっと掘り下げてよく検討する必要があるように思えます。そもそもが三「姉妹」で住んでいるのが「阿佐ヶ谷」というのは、もう少し考えるべきだったのではないでしょうか。作中に現実のタレント等の名前を出すのは、イメージがタレントにかなり引っぱられる一方、そのタレントに読者が抱くイメージはバラバラになりがちであり、かなり扱いの難しい、リスキーなやり方です(単純に肖像権とかいった問題もありますし)。そもそもがタレントの名前を出すたびに読者は「現実のテレビ」を思い浮かべて、つまり作中世界から現実世界へ戻ってしまうので、没入感や感情移入という点でもだいぶマイナスです。本作ではただ住んでいる地名をそこにしただけなのですが、たとえそうであっても、もっと慎重に検討すべきでした。
そして肝心の点が、「三姉妹」と謳っておきながら、この三姉妹のキャラが似たような方向でまとまっており、あまりそれぞれが立っていないことです。三姉妹がそれぞれの形で報われなさそうな恋愛をしているが……というストーリーを見ても、「読者が期待するもの」に対する注意はちゃんと払われているのですが、それであれば「三姉妹」の「三姉妹感」をもっと出すべきで、三姉妹それぞれにファンがつくように一人一人を立てるべきでした。
これに加え、細かい点ではありますが、作中で示される倫理・道徳観が古く見えないようにするのも大事なところです。読者が「え? これでいいの?」「違わない?」と感じてしまうと以後の感情移入が途切れてしまうので、ここは慎重にすべきでした。なので莉子に19頁で「女の子になった気分だった。守ってもらってしまった。」と言わせたり、「女の子は甘い物が好きだから。」と言わせるなら、これは莉子個人の感覚ですよ、ということが伝わるように書かないと、『ちいかわ』のうさぎばりに「ハァ?」と言う読者が、わりと無視できない割合で出てしまいます。こうした感覚のアップデートは大事です。97頁で「朝の出勤時間は七時です。でも私は、早く子供たちに会いたいので、六時には着いています」というのだって現代の感覚では「やりがい搾取」であり、ただの美談のように書いてしまうべきではないでしょう。62頁の行列割り込みおばさんを「我慢してえらい」で済ませて割り込み犯自身に何のお咎めもないのも、読者からすればモヤモヤする可能性が大きいですし(普通に軽犯罪法違反ですし)、葛城も「正しすぎる人」ではなく、これではほぼ悪質クレーマーであり、これを見て惚れるか? という疑問が出てきてしまいます。読者は倫理・道徳観にはうるさいものなので、本当にこれでいいか、書き方が古くないか、常に気にしていなければなりません。
そうした欠点はありましたが、基本的にコタツでの三姉妹のやりとりは軽妙で、何より「スーツの四番」を始めとする脇役たちが面白かったので、するする読み進めることはできました。特にスーツの四番は独創的で面白いだけでなく、「バスツアーなのにバスを降りてからも絡んでくる」という予想外の再登場で思わず爆笑してしまいましたし、その後にもまた出てきて「また出てきた!」と笑えるとか、むこうが莉子を「緑の五番」扱いしているとか、脇役の使い方、再利用の仕方がとてもうまく(早乙女の使い方もそう)、ギャグセンスを感じました。本作ではドタバタのホームコメディというコンセプトはよくても、大事なのはやっぱり「家族」なのか、といったテーマ関連ではあまり道筋がはっきりしておらず、もしかしたら、単に婚活バスツアーに色々変な男が現れる、というシンプルなストーリーにした方が、けっこう面白く書けたのかもしれません。どっかりと腰を据えて、各シーンを今の倍、書き込むつもりで書いていただきたいと思います。
『鍵』なんか毎週ファミレスにいるやつ
珍しく本格ホラーでの応募で、その意気やよし、と第一印象はよかったのですが。
おそらく一番、激論になったのがこの作品で、今回一番の問題作でした。美点と問題点が双方、あまりに際立ちすぎていて、「これは相殺するとどのくらいの評価になるんだ」「いやそもそも相殺するものなのか?」「美点の方は絶対に捨てがたいが問題点の方、直せるのか?」と、読み終えてからずっとぐるぐるしていました。スポーツ漫画とかの第一話で、「その道の過去、凄かった人」がど素人である主人公の動きを見て「こいつは……!」「まだ粗削りだが、可能性を感じる」と驚くシーンがよくありますが、あれの疑似体験です。最大の問題は私が「その道の過去、凄かった人」では全くないところですが、そこは今は措いておくとしまして。
問題点の方は単純で、とにかく日本語の間違いが多すぎる点です。誤用、重複、重言、視点のブレ、視点が不明確なシーン、前後の矛盾などきりがなく、これは読む側にとってかなりの悪印象であり、むしろその悪印象に流されて本作を落とさなかった予選担当者の皆様がグッジョブだったと言ってもいいほどです。日本語の間違いはただ読みにくいというだけでなく、たとえば第一話で窓がなく真っ暗な屋敷のはずなのに部屋に日の光が差していたり、第二話で液体の怪異に追いつめられてから脱出するシーンはいつの間にか小屋の外に出ていたり、ちぎれた土屋の手がどこに行ったのか分からなかったり(ずっとぶら下がってるのかな……と思いながら読みました)、いきなり山全体を見渡していたり(「今、登っている山の広範囲を見渡せる場所」というのは、岩山か何かでない限り通常考えられません)、せっかく盛り上がるシーンなのに「ん? 今、何が起こっているの?」と伝わらなくなっており、作品全体の魅力を削ぐ結果になってしまっていて、これが大変もったいなかったです。
また、ホラーではリアリティより雰囲気が重視される、という点を考慮してもなお、リアリティの面でどうか、という表現もありました。さすがに日本国内で「茶色く濁った海」はないですし、日本の山で「このあたりには熊も猪もいないはず」という場所もまずないです。第一話の商談がそんなにかかるとは思えないとか(ローンを組んでのマンション購入ですら三、四回の打ち合わせで済みましたし……)、特注の新品の金庫に「隙間という隙間から」というほど隙間はないだろうとか、第一話の主人公は施設にいる母親に一度も面会に行かなかったのだろうか? とか、疑問が先にたってしまうため、雰囲気に浸りたくても浸れない、という場面もありました。
一方、この「雰囲気」が本作最大の美点でした。とにかく作品全体に不穏で薄暗い空気が漂っており、シンプルにホラーとしてパンチ力があるのです。
まず挙げられるのが、起こる現象や登場人物の語りに独創性とインパクトがあることです。ホラーに限らず、小説では演出として「自然物に関する印象的な豆知識」が披露されることがあります。「鳴き声が52ヘルツのクジラが時々いて、他のクジラと周波数が合わない」とか「シロクマは白く見えているが、実はその体毛は透明」とかいったものです。本作ではいわゆる「死への羽ばたき」が引用されており、それを人間でやったらどうなるか、というモティーフが大変、印象的でした。第二話の「地中から染み出してくる『人喰い水溜まり』」も面白かったですし、第三話もそう。どこかで見たような気がする、という意見もありましたが(第二話の液体怪異は藤田和日郎の漫画『双亡亭壊すべし』を思わせます)、こうした独創性への挑戦こそ、まさに新人賞で求められるものでして、これを見た瞬間、この作品は無視できないものとなりました。
加えて、どの話にも「絵になる場面」が必ずありました。第三話の「暗い井戸の水面に浮かぶ無数の顔」等、ホラー映画のポスタービジュアルになりそうな、インパクトのある場面が毎話登場し、センスを感じます。
また、それらの登場演出の仕方が実に上手でした。ホラーの場合、主人公が何か「違和感」を覚える(起)→違和感が確定し、主人公への軽い脅威または周囲に被害が発生する(承)→主人公に本筋の脅威が襲いかかる(転)→結末、という進行の仕方をしていくことが多いのですが、この「起」の演出が特に優れていました。第一話の小夜子が鍵のかかっていないはずの玄関なのになぜか「必ずそちらから開けてください」と要求するとか、第一話の父親が唐突に「今思うと、あれはお化けじゃなかったんだなあ」と呟いたり、第三話の先生が不自然に「井戸の中に、先生の顔はあった?」と尋ねてきたり、「何かおかしい」の不穏さが予想外の方向から襲ってきて、引き込まれます。
そして異変が本格的に始まってからも、文章のセンスで気持ち悪さが引き立っていました。日本語がおかしいんじゃなかったのか、と言われそうですが、「日本語はおかしいけど文章のセンスはある」のです。主人公が見たものだけでなく「臭い」「感触」といった五感を駆使して不快感を演出していくところは小説のアドバンテージを活かせていますし(ガムテープを剥がした跡に触れているためベタベタする、といった目配りもきいていました)、全編にわたってずっとじめしめした曇り空の下にいるような空気感がありました。
それと同時に、主人公にどの順番でどういう行動をとらせると効果的か、という技術面のセンスもありました。ホラーでは定番の「謎の染み」の正体が分かるタイミングだとか、小夜子が嘘をついていることに気付かせるため主人公をあらかじめ台所に入らせておくとか、先の展開を意識したプロット運びもできていて、おそらく作者はホラーが本当にお好きで、先行作品からたくさん学ばれてきたのだろうと思えました。
これら美点と問題点がぶつかりあった末の結論でした。雰囲気があるため、日本語の間違いは途中から気にならなくなっていく一方で、せっかくの怖さを不適切な語彙で表現しようとしてしまったり(狭い棺の中に閉じ込められているシーンの恐怖感を「脆い崖の先端で、つま先を出して立っているような感覚」と書いてしまっては解放感がありすぎです……)、どうも「それっぽいイメージの単語を並べていけばパワーが増すだろう」という感覚で言葉を足していった結果、逆に伝わらなくなっているような箇所がありました。全体の構成としても、第二話と第三話は完全に無関係の話なのか、となって全体構造があるのかないのか中途半端な印象を受けたりと(この手のものは「分かりすぎると冷める」ケースもあるので難しいですが……)、美点を問題点の方が侵食してしまっている部分もあり、その評価が「佳作」です。
ただ、問題点の方は校正者と編集者が左右から支えればかなり改善できるはずであり、刊行されれば「デビュー」を超えて「注目のホラー作家」になる可能性も期待でき、今のうちに捕まえておくべき作者、という焦りもあったため、個人的には推しました。
『君の声を読む』藤原ライラ
キャラクターが魅力的で、キャラクター同士のやりとりが魅力的で、引っかからずにするする読める……という、王道の長所を備えた作品でした。朗読が得意な主人公と読字障害らしき特性を持ったイケメン、という設定も面白く、キャラの配置も上手。基本的に主人公は好意的な人たちに囲まれているが各所にほどよく悪役もいる、というバランスが優れていたからなのか、悪役がいても辛い雰囲気にならずに読めました。この悪役、というか「嫌な奴ら」は後半、違う面を見せたり改心したりして「味方」になっていくのですが、そこもすごく爽やかです。序盤に出てきたセクハラ爺まで味方のアドバイザーポジションになり、「いやお前はセクハラ爺だろ」と思うのですが、それでもなんとなく許してしまうような、キャラの好感度を高く見せるセンスがありました。
ただ、二十世紀初頭のイギリス? あたりをイメージしているであろう作品世界があまりに現代日本すぎて、どう見ても丸の内あたりにしか思えないのが問題でした。異国情緒のある建物や物品、衣装や食べ物などの描写がなく、逆にしばしば「日本やんけ!」とつっこみたくなる記述があります。ショートケーキは不二家が始めた日本のお菓子ですし、テラス席のあるカフェは昔からあったものの、「ケーキセットはコーヒーか紅茶を選べる」と書くと完全に喫茶室ルノアールになってしまいます。読者はまず「自分の知っているもの」を思い浮かべるので、ここでは「この店はそういう形式らしい」と珍しいことのように書くべきでしたし、ショートケーキはキャロットケーキやタルトにし、積極的に異国情緒をアピールしていくべきでした。大事なのは「実際にはどうか」よりも「読者からはどう見えるか」です。エロ爺からの報酬が「銀貨二枚」なのにリチャードからの報酬が「銀貨三枚」では(実際には仕事内容に比して高額だとしても)高額な感じが出ませんし、主人公の自立の象徴にするなら『王様と金糸雀』は現実世界でも十七世紀から女性作家が活躍している(ゆえに実際にはその方が無理がない)童話よりも、大人向けの小説にした方がよかったでしょう。
登場人物の台詞も現代日本人すぎます。「積ん読」も「寝落ち」も現代日本発のネットミームですし、「作家は経験したことしか書けないって言うしねえ」とか87頁の「勇者」も現代ネットミームの意味合いで使ってしまっており、「日本じゃん」となってしまいます。「そそそ、そんなことないですよ」とか「さむっ!」とかいった口調もこの時代の貴族っぽくなく、そこらの学生に見えてしまいます。時代もの、異国ものは「要はコスプレ」なので、読者が「日本人じゃん」と冷めてしまう瞬間がないように、細心の注意を払いましょう。
※こうしたことに対しては「架空の世界だからいいのでは」という意見がたまに見られますが、そうはいきません。そういう世界があり得るかどうかが問題なのではなく、「現代日本じゃん」と感じてしまうのが問題なのです。登場人物たちが「金髪の鬘をかぶってお互いをジャンとかアリスとか呼びあっている、でも目とか眉毛は黒いままの人たち」みたいに見えてしまっていては、読者は乗れません。だからフィクションにおいては、たとえ架空の世界であっても、モデルとなる時代と地域を設定し、そこに無理のない範囲で要素を足したり引いたりして作っているのです。
たとえば『十二国記』は異世界ですがおおむね秦代以前の古代中国をモデルにし、そこにオリジナルの制度や文化を作り込んでいますし、『SPY×FAMILY』は二十世紀半ばころの東西ドイツを出発点に、イギリスその他の要素を足したり引いたりして作っています。現代日本以外を書くなら、必ずモデルとなる地域と時代を設定し、それについてひととおり調べましょう。これは単なる慣習や教条ではなく、「悪い意味のコスプレ感」を出さないようにするため、また設定間の齟齬による違和感(本が羊皮紙なのに識字率は百パーセント、等)を防ぐための大事な作戦です。それに、読者が体験したことのない、外国や過去の時代や貴族社会等の「異世界」を体験させることにおいては小説に並ぶ表現形式は今のところなく、そのアドバンテージを活かすためにも、世界観と雰囲気をしっかり作り込むことは必要です。カタカナ語を使う時は「これ現代日本語では?」と注意し、キャラクターが何の上に何を着て何を付けているかを意識し、部屋には何が置いてあって食事はどのタイミングでどういうものを食べているのか、設定を作り込みましょう。
同様に、登場人物は貴族ばかりなのにあまりに貴族っぽさがないため、大きく雰囲気が壊されてしまっているのも問題でした。主人公とリチャードの書店での出会いなど大学生に見えます。まして嫁入り前の女性なら一人で出歩くことは簡単にはできず、親が家を支配していて親の意向を常に窺うものです。なのに41頁で母親が出てくるまではアパートに姉妹で二人暮らしているのかと誤解してしまいました。しかも父親も後になってから健在であると「判明」する。主人公が周囲から全く子爵家の令嬢として扱われないことも含め、やはりもう少し、貴族というものがどういう常識を持ち、どういう生活をしているのかは調べるべきでした。同じように、リチャードが貿易商の跡取り候補なのにやっている業務がいち営業マンに見えてしまう点や、他が(主人公の妹も含めて)英語名なのに主人公だけが「シャルロッテ・ウェルナー」とドイツ語圏の名前である点など、違和感が作品世界への没入を邪魔してしまっています。このあたりについては先輩作家のデビュー作にもお手本になるものがあるので、『レディ・ファントムと灰色の夢』(栢山シキ)や『双蛇に嫁す』(氏家仮名子)等を読み、異世界・異時代にはどうやってリアリティを出すか、王侯貴族というものはどう動き、感情表現をするのか、の参考にされるとよいかと思います。
また、この「貴族っぽさのなさ」は単に雰囲気の問題にとどまらず、「そもそも両親が健在なはずの子爵家の令嬢がエロ爺のところにセクハラされながらアルバイトをしに行く、という状況があり得るのか」とか「長男以外が家を継ぐのは普通に考えて『異常事態』のはずなのに、なぜカールトン家は(隠すような特性のある)次男に継がせようとするのか」といったふうに、そもそもの状況設定に疑問がでてきてしまいました。「家令の本来の仕事は屋敷の運営や使用人の管理」とは書かれているのにエドガーが従僕のようにリチャードにくっついたままで他の仕事はいいのかとか、リバーシは確かに19世紀イギリスで流行っていたけどこれを「東の国で作られた」と書くと日本の(1973年発売の)オセロになってしまうとか、ちぐはぐな部分もありまして、これはおそらく調べものが断片的なせいなので、やはりまず「当時の貴族の常識」全体をざっくり勉強して、現代日本人とは違う彼らの「感覚」を掴む――といった形の調べものをすることをおすすめします。
取材不足は文章力にも影響してしまいます。たとえばリチャードは登場時、「顔のいい」「爽やかな声」「流れるような所作」と褒めちぎられ(ここまでは「シャルロッテの心理を考えれば無理はない」と思えるのですが)、屋敷に着いてからも「全てが洗練されている」「仕立てのいいチェスターコート」と褒められ続けますが、ちょっと褒めすぎではないか、という印象を受けてしまいました。これはリチャード周辺のイメージの「解像度が低い」ために、ストレートで総括的な誉め言葉ばかりが出てきてしまうせいです。たとえばこの世界の貴族は庭園にどんな花を植えているのか、という設定があれば、「全てが洗練されている」で済ませず「庭園の主役はバラとクレマチスで、新興の商家にしては伝統的な作りだったが、一見、自然のままと見せて、バランスが崩れないよう上手に整えられていた」といったふうに書けて、庭園のイメージが浮かぶだけでなく、主のキャラクターや、そこを見抜くシャルロッテの教養(=貴族らしさ)もさりげなく出せて、何より「何でもベタ褒め」の印象になりません。どう「顔がいい」のか、どう「爽やかな声」なのかも、もっと具体的に想像すれば同様になるのですが、そのためにもやはり、下調べは必要になるのです。
ストーリーに関しては、シャルロッテのリチャードに対する態度が、だいぶ親しくなった後なのに急に「結局この人も同じなのだ。今までシャルロッテが出会った、くそじじいやパトリックと同じ」と思ってしまう等、なんで? と感じてしまうちぐはぐな部分がありました。シャルロッテのリチャードに対する態度が、なぜか急に「親密度0」の初期に戻ってしまうのです。
これの原因はおそらく、恋愛ものにおける「ハードル設定の不足」でしょう。お互いの想いを伝えあえばゴール、というタイプの恋愛ものには、簡単にそうならないための仕掛けがあるのが普通です。これは大雑把にいうと
A:両想いは確定しているが、お互いの立場等、外的要因によって引き裂かれている(『ロミオとジュリエット』等)
B:片方または双方の内面に「この人と恋人同士にはなれない」という何らかの理由やこだわりがあり、素直になれない(『シラノ・ド・ベルジュラック』等)
C:この相手には恋愛感情などないと思っていたが、徐々に恋愛感情を自覚していく(『空騒ぎ』等。現代は大部分がこれ)
といった具合に分類できますが、いずれも簡単に恋愛が成就しないよう、内面か外堀にハードルを設けています。本作の場合、シャルロッテには「金を与えて従属させようとしてくる男への嫌悪があるが、リチャードが表面上、同じことをしているように見える」というBタイプのハードルが存在するのですが、これがあまり高くなく、後半になると読者は「この人そんなんじゃないでしょ」と思うのに主人公だけがいつまでもこだわっている、という状態になってしまっています。用意したハードルだけではシャルロッテがずっと素直にならない理由としては弱すぎるため、上がった親密度をリセットすることで「まだくっつかないようにして」しまっている、という印象でした。あるいは前述した「キャラの好感度」が裏目に出てしまい、作者の想定以上に読み手がリチャードの好感度を上げてしまったせいなのかもしれませんが、かといってわざと好感度を下げるのはほぼ確定で悪手なのでやるべきではなく、ハードルの方でもっと高いものを探すべきです。「実はいい人」を書くのが上手なので、あるいはいっそ、キャラの好感度は思いきり発揮した上で、ハードルをAタイプにした作品を書かれるのもよいかもしれません。
また、本作ではテーマとして「女性の自立と従属」が出てきて、対立軸として「従属」の価値観に生きる主人公の母親が出てきますが、主人公の名前を「シャルロッテ・ウェルナー」にするほどにはこの対立がクローズアップされておらず、結末も「それで、これからどうするの?」といったものなので、中途半端な印象を受けました。たとえば作中、シャルロッテはスカーフの商品開発に才能の片鱗を見せているのですから、もっと「自立」に振って共同経営者になるとか、あるいは数年後まで時間を経過させて小説家として「自立」した状態でリチャードに会うとか、逆にいっそこのテーマは扱わずに、シンプルなシンデレラストーリーにしてしまうとか、いろいろ解決法は考えられるだけに残念なところでした。
とはいえキャラを好感度高く書ける書き手は、他の作品を書いても同じように長所が発揮できるので有利です。問題点は主に取材不足、作り込み不足に由来するものですので、やるべきこともはっきりしており、今後に期待が持てました。
『もし!』海野あきら
模試の制作部署、という非常にマニアックな題材を扱ったニッチ系お仕事小説で、まずはこの地味な題材を書き切ったことに拍手です。
一方で、こうしたニッチを突く作り方には難しい部分があります。
たとえば医療ものでは脳・心臓等の外科や産科、救急科等はよく出てきますが、耳鼻科や眼科はまず見ません。それは何故か? これは言うまでもなく、「命にかかわる緊急事態」が少なく、盛り上げにくいからです。私も最近思い知ったのですが、ニッチな題材には、ニッチになるだけの理由があるのです。
であれば、ニッチで勝負する場合、まずそのディスアドバンテージを取り返すところから始めなくてはならないのですが、本作では「模試制作」というニッチな部署の「地味さ」を払拭し、読者に興味を抱かせるまでには至っていませんでした。そもそも「模試」というのは大半の読者にとって「楽しそうなもの」ではないはずで、その点からも出発点がマイナスな、難しい題材でした。
興味を持ってもらうための常套手段としては、たとえば「へー! そうなんだ。意外!」と言われるような専門的知識を披露する、というのがありますが、本作では「模試の問題文に出てくる実験は実際にやってみる」ということぐらいで、それほど提示できておらず、文章的にも、一部分でいいので実際に問題文を作り、それをそのまま提示する部分があった方がイメージがつかみやすかったのでは、と思えた部分もあり、読者を「模試制作の世界」に引き込むことがうまくできていなかったように思えます。
というより、そもそも話を作れるレベルの面白い材料が見つからなかったのかもしれません。主人公の会社を「模試に関することだけは、この部署がすべてやる」ということにし、本来、法務部がやるような情報漏洩の調査なども主人公たちにさせることで話の縦糸を作る、という形で工夫されてはいるのですが、やはり「法務部案件では?」「模試でなくてもよくない?」となってしまって無理があり、物語が盛り上がるのもそういった法務部案件の部分が主、となると、面白くしようと工夫はこらしているけどそもそも元々の題材が地味すぎた、ということなのかな、と思います。後半、主人公は「模試は〇〇なものなのだ」といった形で、何度も模試制作の意義について語っていますが、これも本来なら直接言わせずに「場面を見せる」ことで伝えるべきところで、やはりどこか、作者も「この題材は地味すぎる」と感じながら書いたのではないか、という印象を受けました。模試制作の意義については実際の模試を見学するシーンの、受験生の真剣な表情の描写等で伝わるのですが、あれだけだと「問題制作をがんばる意義」まで繋げにくいので、悩みどころですね……。書き手として見ると「地味な題材で、よくぞ最後まで書き切った」と、作者の根性に拍手するのですが(実際、プロになればそういう仕事もあるはずなので、これも大事な資質なのですが)、残念ながらそうした作者側の事情は読者には関係ないものであるため、選考ではほぼ考慮されないのです。
内容的にも「読者を意識して目配りはしているけど、今一歩」という点が見られました。たとえば序盤、主人公の「新人感」はよく出ているのですが、主人公の性格を出そうとしているとしてもちょっと我慢できずすぐ口に出しすぎではないか、とか、サブタイトルがネタバレになってしまっていることとか、分かりやすくしようとしすぎて逆に興を削いでいる部分がありました。構成的にも、MT部の他の人視点になるパートは、神宮寺視点の回想があれば他は不要でしょう。なぜか国見パートだけがないのも気になりますし。主人公が二章でミスをして反省し、成長して、三章では実績を作る、という流れはきれいに定石通りになっていていいのですが、二章のこのミスは主人公のミスというより、そんな重要事項を、理由も含めて説明していない指導者のミスでは? と思ってしまったり、後の48頁でも「自分のはっきり物を言ってしまう性格」という認識ではあまり反省していることにならないのでは、等、所々で感覚のズレがあるように思え、気になりました。
※お仕事ものでは、
新人の主人公にミスをさせる
↓
先輩たちにフォローさせる
↓
先輩たちの凄さと、扱う業界の奥深さを見せる
という流れがよく出てきますが、この「ミス」を作るのは、実はちょっと難しいです。主人公の怠慢が原因では主人公の好感度が爆下がりしますし、あまりにひどい凡ミスでは主人公が無能すぎる、と感情移入が切れてしまいますし、どうしても出てしまうような仕方のないミスでは大事になりません。同時に「それは事前に指導していない指導者のミスでは?」という問題もよく発生します。先輩たちが有能なら、新人のやることはちゃんとチェックしているし、大事なところは事前に説明しているはず。「リアリティがあって、なおかつ主人公も先輩たちも責められないようなミス」は、かなり工夫するか調べないと出てこない、難しいポイントなのです。
また、このMT部の男女間の雰囲気がどうにもしっとりしすぎていて、本来「同僚」のはずなのにやたらと恋愛っぽい雰囲気に寄せようとしているところに違和感がありました。異性の同僚の(しかも単身者の)「自宅」を訪ねる機会というのは、そんなにあるものではないのでは。十以上も年上の先輩が女性の新人のことを、内心で「下の名前」で呼んでいたら、普通は嫌悪感があるのではないでしょうか。主人公が神宮寺の頑なな態度に影響を与えたきっかけもあまりはっきりしてはおらず、最後で明かされる「実は子供の頃に会っていた」もやや唐突で、どうも普通に書いていたら恋愛関係にならなそうなところを、イケメンとの恋愛要素が必要だからと力技で持っていったような印象です。キャラ的にいえば神宮寺もイケメンだと明記する必要はなく、このストーリーであれば明確に恋愛関係にならなくても、主人公と神宮寺は「息の合ったコンビ」にとどめ、ちょっとした態度の端々で「もしかして」と匂わせるだけで充分楽しかったのでは、と思え、やはり「余白」を潰しすぎた過剰なサービスが原因に思えます。これは応募作全体にいえることなのですが、イケメンとの恋愛は必須の要素ではありませんし、相手役がイケメンである必要もありません(好感度があればいいです)。その物語に、そのキャラにしっくりくる距離感にしていただいた方が作品としてはよくなります。
加えて本作の場合、神宮寺を「化学界の若王子」にするなら、同僚の嫉妬にも当然、そこ絡みの要素があったはずで、ルッキズムにもきちんと触れた方がよかったのに、とも思いました。神宮寺の過去についても、難治性白血病の治療を「選べない人がいる」が具体的にどういうことなのか分からず、これは神宮寺の人物造形の根幹にかかわることなので、もう少し詰めるべきでした。
これもまた他の応募作にも当てはまることなのですが、倫理・道徳観の古さも気になりました。主人公が神宮寺の自宅で酔っぱらい、覚えていないがセックスをしたと勘違いする場面がありますが、相手に全くその気がないのに酩酊に乗じてセックスをすれば、まず問題になるのは「準強制性交罪」つまりレイプです。ここは主人公に「私は酔うと誰彼構わず抱きつく癖があり、これを神宮寺にやってしまって誤解させたのかもしれない」とでも言わせておけばまだましだったはずなのですが、逆に「酔っ払った私が全面的に悪い」と言わせてしまっており、これは現代の感覚ではセカンドレイプ発言になってしまいます。現実社会に「酔いに乗じてよく分からないうちに性交され、しかも『相手の家で酔っ払ったのだから自業自得』と言われている被害者」がいて問題になっている以上、「主人公がこう思っているだけだから」では通用しません。絶対にこう書けないわけではありませんが、「これはあくまで主人公個人の考えで、しかも一般的な考えとは違います。作者はそれを分かった上で、ここではあえてこう書いています」まで伝わるように書かないと、作品で現実社会の被害者を追いつめることになってしまいます。本作ではそもそも主人公が「セックスをした」と誤解する流れもやや強引であり、やはり無理矢理恋愛要素を入れようとしてやや雑になっている、と言わざるを得ません。97頁の谷崎教頭にしても、これは完全にパワハラであり、谷崎自身や被害者である木崎教諭がそう認識していなくても、作者はこれがパワハラだと分かっている、という書き方をする必要がありました。
そうした点とも絡んで、犯罪調査がらみの場面ではもっと深い検討が必要だったようです。たとえば91頁のように、外部の大人が学校にも保護者にも秘密のまま生徒に接触して資料を手に入れる、という方法は「はっきりとは言い切れないが、危うい」ものであり、誰も指摘しなかったのは少々引っかかります。主人公が一貫して「こんないい人なのに犯人のはずがない」で神宮寺に反発しているのも説得力を欠きますし、追いつめられた木崎が「ナイフで襲いかかってきた」ということは、ナイフを用意していた――つまり、木崎はあらかじめナイフで襲うことを計画していたのでしょうか。このあたり、やりたいことは明確だが、そこに至るまでの道筋の設定がやや強引、という癖があるように思えました。「本当にそうなるか?」「もっと無理のない流れはないか?」と、もう少しじっくり検討すべきだったかもしれません。
総じて、各シーン、または物語全体でやりたいことがはっきりしており、文章の読みやすさも相まって「読者」をきちんと意識している作品で、プロ意識を感じました。ですが、プロットを(おそらく、けっこうきちんと作られる方だと思います)たてて書き始めてからでも「いまいちだな」「しっくりこないな」と思った時は方向転換ができるので、書いている最中の「内部の自分の声」に耳を澄ませて、立ち止まったり調べ直したりができると、もっとよくなるのではないかと思います。
新人賞における「オリジナリティ」の破壊力を見せつけられた選考でした。読者への目配りは必要ですが、そのために作品の形を変えてしまっていいかどうかは難しいところです。作品がその他大勢の「よくまとまってはいるが……」から突き抜けるには、「うるせー私はこれが描きたいんだよ!」の熱が必要です。自分の魂に正面から向きあい、「お前は何のどこで震えるのだ」と対話しつつ、自分にしか書けない一作を。