2025年ノベル大賞 選評/似鳥 鶏

大賞受賞作はどちらも既存のジャンルに収まりきらないものでした。それは裏を返せば個性があり唯一無二だということです。


 不思議なことですが、新人賞の関係者は口を揃えて「波がある」と言います。何年にもわたって大賞が出ない年が続いた後、まるでその間「溜め」てたんですと言わんばかりに受賞者がどっと出る。ノベル大賞も例外ではありませんでした。三年ぶりの大賞、そしてなんと、コバルト・ノベル大賞創設(一九八三年!)から振り返っても史上初の「二作同時受賞」です。候補作を読んでいる段階から「なんか今年、雰囲気違くない?」という感覚がありまして、仕事部屋の隅に置かれた段ボール箱 ※[1]から異様なオーラがゴゴゴゴゴと出ておりました。じゃあこれまでは不作だったのか? と言われると昨年までだって「いい原稿が複数来て選びきれない!」と(もだ)えていたわけでして、別にそんなことはないのですが、今年が豊作だったのは確かな模様。この記録的猛暑にもかかわらず大変たくましいことで、新人作家は暑さにも渇水にも強いようです。異常気象ばかりの現代になんと頼もしいことでしょうか。
 ちなみに大賞の二作だけがずば抜けていた、というわけでもなく、今年は残り三作もレベルが高く、それぞれに推しどころがあり作者のセンスを感じるものでした。以下、読んだ順に各論を。

*1 最終候補作の原稿は紙に出力され、段ボール箱に詰められて届く。事前に時期が告知されてはいるが、出版社からズシッとした「箱」が届くのはけっこう衝撃である。

()(とう)の告白』
 ダブル大賞の一作目です。とにかく文章力、描写力が圧倒的で、描かれている人間たちに、目の前にいるようなリアリティがありました。古き良き児童文学の安定した筆致で、するすると読めるけど流れてしまわずにところどころ刺さりもする、という、いい文章の典型です。視点が変わる直前に一行で「その段のまとめ」を入れる手法が繰り返され、これはやりすぎると「書き手だけがかっこいいと思っている」痛い状態になりがちなのですが、本作ではこれが毎回うまく、うまいがゆえにさりげなくも見え、滑らずにやり通していました。佐藤母が主人公になる三章など、筋立て的には「主人公が直面する問題」をあまり解決していないはずなのですが、91頁の「男に振られたことぐらい、私もある。」という一行のパワーでもやもやしたものを強引に押し流してしまっており、「文章力は全てを解決する」を見せられたようです。
 また、本作の文章力はただリズムや表現がうまいというだけでなく、登場人物たちの言動やそれを見た時の心理の動きが極めて自然でリアリティがありました。一章の主人公である「()()(がわ)ひなの」も、冷静に見たらかなり(とっ)()ではた目には「やべー奴」なのですが、読んでいるうちにその突飛な心理に寄り添えるようになっており、これも心理描写の正確さと()(みつ)さによるものでしょう。21頁、授業をする教員のボケに合いの手のようなツッコミを入れる生徒と、それを見て「どうして相手が狙う通りの反応を示してしまうのだ」と思う場面とか、80頁でいきなり息子から進路の話を切りだされた佐藤母の「なんで朝の時間のない時にこんな話をするのだ」等、誰もが体験したような日常の一コマをさりげなく表現する箇所が多く、「何も起こらない授業中の描写」が面白いというのも、よく少年漫画について言われる「力のある漫画家は『修行のシーン』を面白く描ける」に通じるものを感じます。二章の主人公である(おか)(もと)教諭が生徒から教師につけられる渾名を「本人に向かって言える(あだ)()」と「隠れて呼ぶ渾名」に分類し、自分の「オカジュン」は前者だから大丈夫だとランク付けしているとか、母子家庭で息子を育てる三章の佐藤母がすぐ「男親だったら話しやすかった?」という方向に考えてしまうとか、実感的でありながら「このキャラならこういうふうに考えるだろうな」という形で人物像をよく表現していました。
 一方で人間の悪意の表現もうまく、21頁で回ってきた手紙に『ああいうのって、ウツるんかな?』と、あえて「誰の何が」を書かない卑劣さや、職員会議でLGBTQ関連の授業を前倒しで行っては、という提案に「下手に取り上げて『俺もスカート履きたいとか、トイレがどうとか言われてもややこしいでしょう』」と()(やく)した話を出して反対する(+そもそも「ややこしい」は具体的にどういうことでどう困るのか、についてはぼかす)とか、「まっとうでないことをする人間はそのことに関して自覚があり、それゆえ自分の言動に必ず言い訳を用意するものである」という心理をリアルに表現しています。誰しも覚えがあるはずのこうした心理をきちんと描写できるという点で作者の、平素からの洞察の深さが(うかが)えます。
 このように文章が素晴らしく、ただ読んでいるだけで面白いという水準に達している一方で、一本の長編としてのまとまりのなさが気になりました。これは長編ではなく短編集で、作者が「今、書けるものを書いて集めただけ」という印象です。たとえば一章の長谷川ひなのはキャラがめちゃくちゃ面白く、ラブレターをジップロックに入れて渡し、しかも後でそれをさんざん(こす)られるところなど爆笑ものだったのですが、それゆえに彼女の出てくる部分だけ妙にコミカルで、一章が浮いている印象がありました。二章の岡本教諭パートも主人公が無力感を覚えて終わっているのですっきりと「解決」しておらず(もっとも、岡本教諭の(ひょう)(へん)を「痛快な解決」扱いしなかったのはいい掘り下げ方なのですが)、三章の佐藤母も本人の心理としてはふっきれたとはいえ、そこに辿(たど)り着くまでに筋立て的な工夫がなく、そもそも四章のどんでん返しと考え合わせると彼女の悩み自体が独り相撲(ずもう)でしたということになり、筋立て上、三章が同じ作品の四章に後ろから撃たれるような形になってしまっているのが残念なところです。四章の解決は清涼なのですが、結局本人たちの決意だけですし、二章の岡本教諭の心理がやや唐突に変化しすぎに見えるのも枚数が足りなかったせいではないかと思え、それぞれ短編として書いたものを無理矢理詰め合わせて長編にしたのではないか、と思えます。肉じゃがとミートボールとハンバーグと唐揚げがあった! 全部押し込んだらお弁当箱が埋まったからこれでヨシ! というようなもので、肉じゃがもミートボールもハンバーグも唐揚げも驚くほどおいしいけど一つのお弁当としてはどうか? 肉ばっかだし主食は? あとお弁当箱の仕切りのサイズと各おかずの比率が合ってない! と悩ましいです(現実のお弁当なら充分がんばっている方なのですが)。
 ただ、この点に関しては選考会で「それは別によくない?」という意見が出ました。このお弁当には他所では食べられないようなおいしい肉じゃがとミートボールとハンバーグと唐揚げが入っているのだから、あとは小売店の方で「おかずセット」として売り出すなり、食べる人が白ごはんを別に用意して好きな部分だけ食べるなり、いくらでもやりようがある(※といったことをもっと的確な言葉で表現していた)わけで、この作品を全体としてのまとまりとか筋立ての不備で減点するのはおかしいのではないか。一作としてのまとまり、というなら、タイトル通り「佐藤の告白」から周囲に広がる波紋を描いた作品である、と考えればいいだけではないのか。そう言われるとこれはけっこう反省するところでして、もともと私がミステリという「基本的に筋立てで見せるエンタメ」の出身であることもあって、筋立てのまとまりを必要としないタイプの作品にまでそれを求めてしまってはいなかったか、と悩みました。また、本作の魅力はリアリティにあるところ、筋立て的にうまくまとめようとすればするほど、どうしても都合よく「きれいに解決」させることになってしまうわけで、そういう人工性はかえって本作の魅力を()ぐのではないか。そう考えると確かに、これは「そうすっきりとはいかない現実」を描いた作品である、ととらえる方がまっとうなのかもしれないと思いました。また、あくまで「全体としてのまとまりを見るとどうか」という話だけで、筋立てそのものは面白い点もあるのです。65頁のように、いじめの元加害者と元被害者が意外な形で「(たい)()」するとか、109頁のように加害者が友達に対しては別の顔を見せることもあるとか、ただなんとなく話が転がっていく、というだけでない発想もありました。そのあたりも考えれば、大賞受賞には異論はありませんでした。
 というわけで、作者におかれましては、筋立てとか分量とか一冊のまとまりとかはあまり考えなくていいので、とにかくご自身の「書ける」題材、面白いと思う題材を好きなように深堀りして書いていただくのがよろしいかと思います。本作の長谷川ひなのを見る限り、どこにでもいる普通の人だけでなく、ぶっとんだキャラを書いていただいても面白そうです。次に何を書かれるのか楽しみです。このタイプの作家は好不調の波が激しく、執筆ペースの維持が難しく、スランプにも陥りがちなのですが、その分「当たり年のワイン」みたいな傑作も出やすいです。今後、大変な時期があるかもしれませんが頑張ってくださいませ。


『洋菓子店ニュイ・ブランシュ』
 洋菓子店のお仕事小説、という非常にベタな題材でしたが、「大手チェーンの進出により親の店を(つぶ)された主人公」という設定が面白く、これからどう転がるのか期待が膨らみました。顧客の想い出に合わせた「オーダーメイドのお菓子」や「野球選手がブルペンで食べるためのお菓子」等、お菓子そのもののアイディアも「そういうのもあるのか」という面白いものがありました。
 一方で、どうも設定が一貫していないというか、現実の洋菓子店の経営と、そこで働くことについてのイメージができていないのではないか、という点が非常に問題でした。架空の洋菓子店を出すならば、その店の収支(仕入れ額はいくらで一日の売上はいくらで、毎月の地代はいくらで看板商品が何個くらい出て従業員が何人いて給料がいくらで、イートインがあるなら何席で何回転してどのくらいの経営状態なのか?)・店舗(どういう地域にあって平日と休日のどの時間帯にどういうお客さんが見込めて、建物のサイズはどのくらいで内装はどうなっているのか?)・シフト(何曜日の何時から何時を何人で回していて、どの時間帯のどの業務を誰がやっているのか? バイトは何人いてどの時間帯に来てくれるのか?)は、きっちり裏設定を作っておいた方がいいです。もちろん必ずこれらすべてを細かく決めておかなくてはいけない、というわけではありませんが、決めておいた方がいいのは間違いないです。これをやるとやらないでは結果的に細部のリアリティにかなり差が出ますし、やっておけば「前後の描写が矛盾している」「店内のシーンのイメージがどうもふわふわしている」といったことも起こりません。もちろん「設定を細かく決めすぎたせいで不自由になる」なんて心配は無用です。この設定が邪魔でこの展開ができない、となったら、設定のその部分を変えればいいだけですし、動かせない設定のせいでやりたい展開ができなかった場合、「この展開がそもそも不自然だからなのか?」と再考するきっかけにもなります。そしてこれは「手間さえかければできること」でして、プロを目指すなら、「手間さえかければできること」は原則的にすべてやるべきです。
 本作ではこれをしていないがゆえに、また、現実のパティシエの仕事についての取材が足りないがゆえに、色々とおかしな点がでてきてしまいました。主人公たちはしばしば開店中の店内で長々と話し合っていますが、レジには誰か立っていないのでしょうか。バイトの()(ひろ)はどういうシフトで時給いくらで入っているのか全く分からないし、そもそも高校生のアルバイトには親の許可が必要な(はず)なのに、彼女がどうやって取ったのでしょうか。67頁から69頁は早朝から会話をしているだけでいつの間にか三尋が出勤してくる午後四時になっており、時間泥棒にでも遭ったのか、と困惑してしまいます。お仕事小説を書く場合、そのお仕事に就いている人の「一日のイメージ」を掴むのが大事です。何時に起きてどんな準備をして出勤し、朝のルーティンは何で、午前中どんな業務があって昼食はどこでどの時間帯にとって、午後の業務は何で何時頃にどんな作業をして一日を締めるのか。帰宅途中や帰宅後にすることは何か。これがイメージできていないと常に周囲にもやがかかったような状態で書くことになり、そもそも書き手が大変です。
 こうした基本設定ができていないせいで、シナリオ上も違和感のある展開になってしまっていました。開店直後はわりと好調だったはずなのに、四章でいきなり常連と「よっ、空いてるかい?」「見たらわかるだろ。誰もいねえよ」と会話をする状態になってしまっているし、開店三ヶ月でバースデーケーキの注文が一件もない、というのは通常考えにくく、これではよほど評判の悪い「何かあった店」だということになってしまいます。終盤、パティシエである(みず)(しま)が失踪した時に店の営業をほとんど心配していないのも(しかもクリスマス前に)、失踪した水嶋に対し連絡を取る手段をほとんど探していないのも(平素から給料の支払はしているし、少なくとも不動産関連の契約をしているわけで、その方面の資料を探す、等はするはず)、実際に店をひとつ経営するにはどういう手続がいるのか、という点をあまり取材していないがゆえでしょう。
 また、現実の人間の言動としてもいろいろと違和感がありました。前出の常連との会話にしても、ああした会話は長いこと顔見知り同士であった人間同士がするものであり、常連とはいえ会って半年も経っていない人間同士、しかも店員と客でするものではないでしょう。常連を「布団屋」「包丁屋」などと呼ぶのも「長年のつきあいであるおっさんたちがすること」です。さらにいえば水嶋と主人公だって「小学校の頃、同じ学校にいた(と水嶋側が主張している)」というだけの関係なのに、いきなりバディめいて俺お前になっているのも妙です。
 何より「家が洋菓子店で、小学校の頃、手伝っていた」というだけで製菓学校にすら行っておらず、大学卒業後はずっとコンビニバイト、という職歴の主人公が「俺がケーキ屋という仕事からどうしても離れられないことも」とか「こうしていると自分の本来いるべき場所に帰ってきたような感覚を覚えずにはいられなかった」とか考えるのも変ですし、雇い主である水嶋に対して「こいつに経営は任せられない」とか洋菓子についての「価値観が合う」とか、まるで有名店で二十年修業した元一流パティシエ(演:()(むら)(たく)())みたいな態度なのもおかしく、読みながら毎回引っかかってしまいました。やりとり自体は軽妙でよく、やりたいことも分かるのですが、こうした「こなれた雰囲気」を描きたいなら、主人公は最低でも四十代でそれなりの経歴がある設定にしないと成り立ちませんし、店の方も「長年その商店街にあるお店」でないとちぐはぐになってしまうわけで、そこの選択ミスが残念でした。
 一方で、お菓子を作る過程についてはかなり詳細に書き込まれており、プロっぽい雰囲気も出ているとか、架空の「チャリオット社」の設定がいかにもありそうなこととか(もっとも、「イギリスの老舗百貨店」であれば社名はHarrodsとかFortnum&Masonとか創業者の名前になるのが普通ですが)、ちゃんと作り込んでいるところはかなり見事にできているので、「取材が足りない」というより「何を取材すべきかを把握していない」の方が近いのかもしれません。こういうところを詳細に書いてそれっぽく見せるべきだ、という、いわば「ハッタリをきかせるべきポイント」が分かっている、という点にはセンスを感じるので、あとは「知らない業界を題材にする時は、まずひととおり(本なら二、三冊程度)その業界について全体的にざっと調べてしまう」という癖をつけるとよろしいかと思います。

※ちなみに、「架空の〇〇」を創作する場合、「AIに投げてしまう」という手も存在します。ですがAIは「一見ありそうだが実際にはありえない」や「一部分だけ明らかに実在のそれのパクリ」を平気で上げてくるので、AIを使っても、AIが上げてきたものをチェックする作業は必須になります。そしてそのチェックをするためには自分自身もそのテーマについてある程度詳しくなければならないわけで、結局、自分が勉強しなければならなかったりします(それなら自分で創った方が楽しい)。AIは「知らないことをかわりに書いてくれる」ものではなく、「自分でもできる作業を高速で代行してくれる」もののようですね。

 ストーリーに関しては出発点はよかったのですが、結局、最初のテーマである「vs量産品」の直接対決という方向に行かず、水嶋との個人的な話になってしまったのが残念でした。途中の四章、五章等も、ただお菓子を作って出すだけでそのまま解決してしまっていたり、店が流行り始めるきっかけが「たまたま顔の広いお客様が来てくれた」という幸運頼みだったり、出発点はよかったのに、それを活かしきれていないのが残念でした。また四章、五章のようなストーリーでは「目標設定→困難→工夫→解決」というプロセスがなければならず、「工夫」の部分には読者の想像を上回るアイディアが必要で、そうしなければ単調な展開になってしまいます。76頁、想い出のお菓子が「こんなにおいしいものではなかった」という感想が出るなど、面白い場面はあったのですが、やはりそれだけでは不足で、「困難」を「工夫」で解決してほしかったところです。また、ストーリー面にしても取材不足・検討不足が出てしまっていて、終盤明らかになる水嶋の計画が「主人公が自分の店に来てくれる」ことを当てにした不確実なものなのに、実行のためには店を一つ用意して潰す必要があるのはあまりにコストに見合わないとか、それをするだけの金銭的余裕があるのかと思えば「高級住宅街の高級アパート」に住んでいた、という記述だけであるとか(そもそも「高級」であれば普通「マンション」と呼称します)、現実にそれをやった場合どうなるのか、という点についての考察不足が見受けられました。
 考察不足は文章に関してもあって、いいリズムでよく流れる文章なのですが、どうもリズムを重視するあまり語句の検討をせずに流してしまっているところがあるようです。13頁の最初の会話や31頁で「本題のチーズスフレ」がいきなり出現したように見える(実際には店に持ち込んでいるのだが、その直接描写がない上に店の描写が1頁以上続くので、読者は「チーズスフレ」の存在を忘れてしまう)ところや、34頁「例のごとく」や43頁のサッカー選手の名前など、事前の説明なしにいきなり出してしまう癖があったり、「作者はよく知っていても読者は初見である」という点をすっ飛ばしがちでした。
 また、「オーブン機能などどいう()(じゃ)()たもの」「あと夏は保冷剤も付く」等の言い回し、あるいは「着こなす」という単語が単に着ているだけのようなところに使われている等、「それは普通なのでは?」というつっこみが出てしまう表現もありました。こなれ感のあるリズムを優先するあまりに「本当にその語句で合っているのか?」という検討が足りず、微妙にずれた言い回しになってしまっています。あるいはこの作者はセンスに恵まれているあまり、見様見真似だけで「こなれ感のある文章」が書けてしまうがために、そこに用いられている語句が日本語的に本当に適切なのか、本当にこの文脈で使うものなのか、検討するプロセスが抜けてしまっているのでは、とも想像しました。少しでも「ここで使って大丈夫だっけ?」という疑問がかすめた単語は都度、辞書を引くなどして確認し、「真の()()」を増やすことをお勧めします。
 また、題材についても、好きな人ならしそうにないミスが散見され、はたしてこの作者は自分の最も好きで得意なもので勝負しているのだろうか? と首をかしげる部分がありました。そもそも(かたき)役であるはずの「大量生産される大手メーカーの菓子」がこんなに不味(まず)いわけがありません。『ジョブチューン』等を観れば分かる通り、大手メーカーの商品というのは大勢の商品開発担当者が工夫に工夫を重ねて練り上げたもので、予算も設備も人手も(けた)が違いますし、失敗すれば巨額の負債が生じる以上、検討に検討を重ねて出したものです。しかも大手メーカーは規模の利益を活かして価格比で考えると普通は釣り合わない素材や工程を使ってきたりするわけで、基本的に大手メーカーの量産品は「すごい」のです。その大手メーカーと対決させるなら、そうした「良さ」をまず書いた上で、それでも大量生産ゆえに足りない部分を攻める、といった戦略が必要で、大手メーカーの量産品はまずいのに売れている、という書き方ではリアリティが出ません。加えて読者心理を考えるなら、「ある商品を否定すると、それを愛好しているユーザーをも否定しているかのように受け取られる」という点に注意が必要です。読者のほとんどは「大手メーカーの量産品」を日常、おいしいと思って食べているのですから、それを否定するなら、それなりの理屈がないと読者はついてきてくれません。「大手メーカーの安い量産品が手に入るようになったらそちらに行ってしまう客」というのは面白い題材であり、主人公の回想も切なさがあるのに、そのテーマをそれほど詰められていないのは残念なところでした。アップルパイが固いからといって「ゴリッ」としたり、ザッハトルテなのに「自分の分を一つ余計に作っておいてくれた」ということもないはずで(ホールで作るものですので)、このあたりは実地で、お店で食べるかせめて実物を見ている人ならしないはずのミスだということを考えると、これは作者自身が普段から洋菓子を愛好しているわけではなく、特に詳しくないけど題材として使った、ということなのではないかと思えます。もし傾向と対策でそうしたならこれは随分もったいないことをしたというべきで、これでは作者本来の力が発揮できず損です。持ち前のセンスを活かすため、次回は是非、ご自分のよく知っている、得意で書きたい題材で応募していただきたいです。

※「傾向と対策」はよく話題になり、気にする方も多いですが、小説の新人賞には「傾向と対策」は基本的に存在せず、あるとしても一般にイメージされるものとは違います。一般にイメージされるのは「受賞作の傾向を参考にして、似た題材を選んで書く」ですが、実はこれは最悪クラスの悪手です。なぜなら過去、受賞作が出たということは、その題材は「すでに先行の商品が存在する」わけです。どうしても出来を比べられることになりますし、選ぶ側は「もうあるからいらない」という方向に考えます(※例外は「題材を詳細に絞った新人賞」で、これは特定の、売れ線の題材の書き手がたくさんほしい時に募集するものです)。ですから「傾向と対策」をやるならば「逆」で、「この賞にはこういう題材の受賞作はないからこれでいこう」と考えるべきです。
 ですが、それ以前に「傾向と対策」で書かれた原稿は不利、という点があります。小説に関しては「好きこそものの上手なれ」が当てはまるので、「自分が心の底から書きたいと思っていて、黙っていても話がどんどん出てくる題材」と「これがウケるっぽいから興味はないけど書いてみた題材」を比べると、後者では80%の力しか出せない、ということになります。新人賞ごとき80%でも()れる、というなら問題はありませんし、実際にそんな感じでデビューし、デビュー後に隠していた牙を出してもうひと化けするような妖怪変化もごろごろいる業界なのですが、普通に考えればわざわざ縛りプレイをする必要はありませんし、編集部的にも選考委員的にも、100%の原稿の方が嬉しいです。受賞すればそれを売るわけですから。
 もちろん、エンタメの賞に純文学を送ったり、ミステリの賞にミステリ要素ゼロのハイファンタジーを送ったりする「カテゴリエラー」は減点される可能性があるので、その点では注意する必要があります(それでも面白ければ出版の打診は来ると思いますが)。ですがこれは前述したレベルのカテゴリ違いでないと起こらないことで、応募要項を読めば100%防げる程度のものですので、安心して下さいませ。
 ちなみにノベル大賞は歴代受賞作を見ても分かる通り、およそカテゴリエラーというものがない賞ですのでおすすめです!


『ガラクタの神様』
 前述の「好きこそものの上手なれ」がはっきり出ている作品、という印象でした。「神が死んだ」世界であるため残された神々の残骸「しん」があちこちにいて溶け込んでいる社会、という設定は、私を含め選考委員全員一致で「面白い」と高評価でしたし、神滓とのやりとりも甘く軽妙で楽しいものでした。海の神滓である(あお)が作り出す「幻の海」や実際の海のシーンなど、読者のイマジネーションを刺激する美しい情景も魅力的。作者の描きたいものがよく伝わってきて、その情熱が作品にとって最も大事な「売り」をくっきり際立たせていました。
 一方で設定の作り込みが甘く、そのせいであちこちに()()が出てしまっているのが残念でした。特殊設定がある世界なら、「社会」もまた、「その特殊設定があることが前提の社会」に変化しているはずです。神滓がそこらじゅうにいる社会なら、それに対応し、現実の日本とは違った形になっているはずなのです。
 一番目立つのが神滓の「人権」の部分。本作の神滓は部分的に「異形」の要素があるにせよ、基本的に人間とほぼ同じ姿で、人間以上に美形の容姿です。知性も人間と同等かそれ以上で、もちろん会話も普通に成立し、野良化した一部の個体を除いて性状も穏やかに描かれています。しかもそれが、少なくとも戦前からいた様子。そうであれば、当然「神滓の権利」について、社会ではさんざん議論がなされ、対立が、政治闘争が、社会運動があったはずなのですが、本作ではペット程度の権利しか認められておらず、事実上「殺処分」である「デコヒーレンス処理」が平然と行われています。公民権運動が、ウーマン・リブが、BLMが展開されていた間、神滓の権利については誰も言及しなかったのでしょうか。特に欧米では、こうした状況は考えにくいでしょう。かといって欧米はすでに進んでいて日本だけがこの状況だというなら、すでに諸外国から「日本は野蛮だ」とさんざん叩かれているはずで、作中の日本人の意識もそれに合わせて変化しているはずです。もちろん読者がここまで具体的に考えるとは限りませんが、「なんで神滓はこんなに嫌われているの?」に対する具体的な説明がないままでは、どうしても首をかしげることになってしまいます。人間同様の知性と容姿を持ち普通に会話できる存在をペット並みに扱っているというのは、要するに古代ローマとかの奴隷制度と同じでして、これは「主人公が優しい」のではなく「この社会の人間がみんなおかしいだけ」ということになってしまいます。これでは主人公に感情移入ができません。
 それだけでなく、主人公も言っていることと行動がちぐはぐになってしまっています。神滓を連れて歩いているだけで白眼視されるような社会にもかかわらず神滓を「家族」として扱う優しい主人公、という設定なのに、なぜか「神滓の人権」については全く言及していないというのは、かなり奇妙に映ります。36頁で「神滓にも人権を」と訴えるデモが出てきて、43頁でも神滓の扱いについて意見を言う人が出てくるのに、主人公は「神滓の人権」についてはなぜか地の文を含めて徹底的にノーコメント。それだけでなく、前述のデモに対しても「どう感じたか」すら全く書かれなくなり、デモ参加者の「狂ったような怒号」や通行人の「ゲンナリした顔」という表現だけが地の文で書かれる、という、まるで主張内容については全く触れずに言い方についてだけ(なん)(くせ)をつける「トーンポリシング」みたいな描写になってしまっています。それに対して神滓である碧が「あいつらは分かっていない」と批判しますが、それを聞いてもなお「神滓の人権」についてはノーコメント。にもかかわらず、主人公は後半では碧を「処理」しにきた執行官が出した令状を見ても「こんな紙切れ、知らない」と抵抗します。これでは「神滓の人権は認めたくないが、自分の家の神滓は『家族』だと主張し、連れていかれることにも抵抗する人」という、一貫しない(というか、これで一貫していると仮定すると、逆にとんでもなくヤバい偽善者だということに)性格になってしまいました。これは主人公の周囲にあるはずの「社会」の設定をちゃんと練っていないために、「主人公は社会についてどう思っているのか」の設定も詰められなかったのでしょう。
 本作では「神滓を人間扱いしない人vs家族として扱う主人公」という構図が必要になるので、解決策としては

①「神滓の人権」については一貫して書かない。なぜかそういうふうに扱われているものであり、皆が受け容れている社会、として描き、デモや意見を言う人なども一切出さない。読者もそこについて疑問をもたないように誘導する。
②「神滓の人権」については皆も主人公と同じ感覚を持っているが、一部の偏った人々や頭の固い政府等がひどい扱いをしており、主人公はそれと対立する。
③「神滓の人権」が認められていないことについては皆が疑問を持っておらず、それには相応の理由がある。神滓が状況次第では平気で人を殺す性質を持っていたり、持っている力が危険なものであったり、等。碧はそれに当てはまらない特殊個体だが、神滓であるというだけで差別的な扱いを受けているとする。

等があります。
 ①はリスキーな力技ですが、「この話はこういうジャンルなんだ」と早めに納得してもらい、読者との間に「そこについては考えないんだね」という共通了解というか共犯意識のようなものを作り上げてしまう、という方法です。もちろん、待てよ、と考えてしまうタイプの読者は離脱してしまいますが、好きな人のための作品です、と貫くのはアリです。
 ②は穏当ですが、話のコンセプトの方が後退してしまい、ピンチの演出も難しくなるため、話を盛り上げるのが難しくなるでしょう。また③を採ると、事前に設定をもっと詰める必要が出てきます。
 このように、いずれも何かしらのコストやリスクがありますが、解決の方法はいくつかあったはずなのです。ここの詰めが甘かったせいで全体的に感情移入にブレーキがかかってしまうのが、最も残念な点でした。そもそもが、一方が他方の生殺与奪を握っている関係性というのは、立場の弱い側がいくら愛を示しても「保身のためのストックホルム・シンドロームでは?」と言い得てしまうわけで、純愛を描くにはけっこうなディス・アドバンテージがある設定です。そういう設定で書くなら、彼我の立場の非対称性を意識させないか、カバーするような書き方が必要になるところで、それをしないと作品全体に疑問符がついてしまいます。
 また個人的には、キャラを立てるという観点からも、前述の③をした方がよかったのでは? と思えました。というのも、せっかく「もともと何の神であったかによって様々な姿や能力を有する『神滓』」という面白い設定があるのに、碧は外見の異形性(肌にフジツボがついている等)も服でおおむね隠せてしまう程度だし、元海の神ゆえの変な性癖等もなく、普通のイケメンお兄さんみたいになっているからです。せっかく「人ならぬイケメン」がいるなら、もっと異形性や人間との性質の違いを出した方が個性もインパクトも出て面白くなるのではないかと思います。ある状況になると狂暴化してしまうとか、食事が人間と違いすぎて食費がすごくかかるとか(毎食ホタテとイカとサバをバケツ一杯食べるとか)、何か「一緒に生活するのが困難になる性質」があれば、日々それを乗り越える主人公の優しさにも、社会的に神滓が白眼視されている理由付けにもなります。碧は主人公に対してはひたすら情愛を注ぎ独占欲を見せる設定で、甘さ盛り盛りの方向性が徹底されているところはいいのですが、ちょっと塩を足すともっと甘さが引き立つのでは、と残念なところでした。
 本作での「社会」の設定不足は他の部分にも現れてしまっており、危うく主人公が死ぬレベルの危機であったのに行政の執行官((くろ)())が一人で来て対応し、部署への報告も現場封鎖もしないまま、マスコミも全く取り上げないまま事件が終わっていたり、事件を起こした野良神滓が喋れる状態のまま、周囲を立入禁止にもされずにそのまま置かれていたり、これまでも同様の事件が日本中で起こっていたはずなのに、その対策はないのだろうか? と疑問に思ってしまいます。これはただ疑問に思う、というだけでなく、たとえばここでもっとたくさん係員が来て、来た人がこちらに分からない言葉でお互いやりとりしといった行政手続をちゃんと描写すれば、「有無を言わさぬ公権力」の感じが出て、より絶望感が出るはずです。細部のリアリティを詰めるのは単なる「うるさ方対策」ではなく、ドラマの盛り上がりに影響する「作品の地力」そのものです。同様に、主人公の退職に関しても「仕組んだ」「陥れられた」と(あい)(まい)に表現するのでなく、どういう経緯で何をされたのかもっと具体的にした方が切実さが出るところでしたし、碧が(なぎさ)に手を貸してしまう、という107頁のシーンにしても、どう(だま)されたのか分からないと読者がついて来にくくなってしまいます。書くのが難しそうに思えるシーンでも、曖昧にして飛ばさずに、きちんと詳細を詰めた方がいいでしょう。

※「社会が描けていない」と言われるけどどうすればいいの? という悩みは創作者にけっこうありがちなやつですが、わりと簡単な解決方法があります。「マスコミ」を頭の中に登場させてみましょう。主人公の周囲で事件が起こった。そこで一時停止して立ち止まり、「では、この世界のマスコミはこの件をどう扱うだろう? どのくらいニュースになり、どういう取り上げ方をするだろう? それに対する視聴者の反応は?」を想像してみるのです。テレビは、ネットニュースは、SNSや新聞やラジオは、配信者その他は、その事件が実際にあったらどう動くでしょうか? それを見た視聴者は、政治はどう動くでしょうか? 海外の反応は?
 一度立ち止まってこれらを想像してみるだけで、「主人公の世界」が「社会」に接続され、作品の視野が広がります。実際にそれを描く必要はないのですが、書き手の頭の中にその意識があるかないかで、作品のリアリティはけっこう影響を受けるので、手軽に「社会」を描く力をつける方法としておすすめです。
 もちろん「社会性がむしろ邪魔になる、ある種の主観性が大事な物語」というのもあるので(純文学などには多いです)、そういう話の時は必要ないのですが、その場合でも「社会性を意識することで逆に、非社会性を出すにはどうすればいいかが見つかる」ようにもなるので、やって損することはないです。

 小説は樹木のようなものでして、原稿に明記され、読者の目に見える枝葉が大きく広がっているなら、それと同等以上の根、つまり裏設定が地中に広がっていないと倒れてしまいます。作中に登場させる人物には、裏設定として「前後(作中冒頭のシーンに至るまでの人生+今後どうする予定か)」と「左右(現在の人間関係+社会とのつながり)」を付属させましょう。たとえば碧は幼少時から主人公のそばにいたわけですから、その間に何があったのかも考えておくべきです。本作ではこれが足りなかったために、碧の能力に主人公がいちいち驚いたり(これまで何度も見ているはずでは?)、ずっと前から(じゅう)(とく)な心疾患を抱えていた母親の申し出に碧がすんなり騙されるはずがない、といったようなシナリオ上の齟齬も生じてしまっていました。例えば107頁の回想シーンでは「神だった頃に水死体は山ほど見た。だから一目でわかった。彼女はもう助からない。」と、きちんと碧の「前」が書かれているため、こちらは「あっさり諦めすぎじゃね?」と思われることがないだけでなく、絶望感が伝わる演出にもなっています。全編この注意力でやっていただければ、と残念なところでした。
 また、本筋についての問題点ではないのですが、統合失調症の描き方にも違和感がありました。いくら母親に苦労をさせられてきた当人だからといって、統合失調症の患者に対し「頭のおかしい人」と連呼する(しかも地の文で)のは問題ありですし、「精神病院の閉鎖病棟」といった言葉遣い等、話の本筋にからむ重要な題材なのに、全体に古い感覚で描写されているのが心配になりました。たとえば本作が商業作品として発表されヒットした場合、これでは確実に炎上します。また、これも「社会」の観点から、主人公に対しては行政の支援がなぜなかったのかが気になります。
 新人賞はプロになるための賞で、受賞すれば(刊行前に直すとはいえ)この原稿が「商品」として全国展開されることになるので、こうした意味での緊張感は持っておいた方がいいと思います。たとえばプロであれば、統合失調症という疾患は偏見と差別に(さら)されてきた長い歴史がある以上、扱う場合「気をつけなければならない題材」だという勘が働きます。働くので、まずはよく調べようとします。そして調べているなら「精神安定剤が切れた」といった描写もしないはずなのです(精神安定剤=抗不安薬は、統合失調症の場合に通常処方される「抗精神病薬」とは全く別の系統のお薬です)。題材として扱うものに関しては、まずひと通り調べる癖をつけましょう。これは公衆に対し発信する者の責任、というだけでなく、作品の評価を意図しないところで下げてしまわないための防御策でもあります。
 もともとの設定のよさに加え、キャラクターが活き活きと動く等(67頁の「奢ってくれるってさ」「よっしゃ」の軽いやりとりなど、意表を突かれて笑いました)、作者のセンスと勢いは感じる一方で、設定の詰め不足や取材不足が目立ってしまいました。プロとして、商品として作品を送り出すなら、勢いだけでは通らない部分もあります。ただ、課題がはっきりしている分、取り組みやすいはずで、今後の成長が期待できる作品でした。


『税理士 (さめ)(じま)(きり)()
 何というか、すさまじい完成度でした。「すさまじい完成度」という言い回しはおかしいのですが、毎年、最終候補作の中には「これは即戦力だな」という完成度の高い原稿がある中、ここまでの技術力を感じたのは初めてです。特にシークェンス(「ストーリー」より詳細な、各シーンの流れ)の構成力にプロ顔負けの技術が盛り込まれていて、もうこれはこのまま出していいんじゃないか、と思いました。タイトル通り税理士が探偵役になる連作ですが、各話の構成に全く無駄がなく、各シーン、あるいは行単位ですら「シナリオ上の役割」がきっちり定められていて、流れるような構成です。そして読み終えてみると、全四話+挿話+終話まであるのにたったの117頁におさまっており、舌を巻く手際の良さでした。
 構成だけでなく文章でもその技術力が光っており、7頁「顧問料を払う側と貰う側という関係を気にして言い淀むような線の細さは生憎(あいにく)持たずに生まれてきた」という一行で主人公の性格をびしっと表したり、15頁で主人公が応接室を立ち去った後、「湯呑みからはまだ湯気が立ち上っていた」の一行で「手早く済ませている」「出された茶に手もつけなかった」という事実を同時に示すなど、「老練」とすら感じる技量で、文化部の発表会に顧問の先生が出てきた感じでした。
 また、全編通して読者目線をきちんと意識して作られており、読む側の快適さと分かりやすさに配慮しつつ書かれていました。四つの話の構成が「主人公が客先に行く」→「不審な点を見つけ、隠された真相を看破する」→「相手とのやりとりで解決シーン」→「事務所に戻って甘いもので一息」という繰り返しになっている(最後の「一息」のシーンなどは、刑事ドラマの各話ラストで主人公が行きつけの店で感想戦をするお約束のアレですね)ため、読者に次の展開が分かる点や、一見難しそうな「数字の話」というイメージがある税理士業務について分かりやすく書かれているのも見事です。26頁の事例など、実際にありそうだと思わせるリアリティもありました。また86頁、工場で会話をしているため機械の研磨音で声が遮られる、というふうに、主人公の「周囲」も描けていて、短くシンプルな文章なのに最低限の表現で臨場感を出す工夫もされています。
 同時に、「この話に、あるいはこの展開で、読者が期待するのは何か」もきっちり把握していて、期待に応えてくれているところも見事でした。78頁の飲み会のシーン等、ラストを含め「ここでどんでん返しが欲しい」とか「これは伏線であってほしい」といったシーンが出てくると、必ずその通りになります。ミステリ的にも全話の繋がりなど、面白く読めました。
 ではここまですごいのになぜ佳作かというと、その手際と無駄のなさが徹底されすぎていて、そこが足を引っぱった、と言うしかありません。「うますぎる」からといって、それが理由で減点されるようなことはないのですが(それで減点するなんて滅茶苦茶ですので!)、本作では上手さ、手際のよさばかりが光ってしまい、作品のオリジナリティやパンチ力といった、新人賞に最も求められる点がやや弱かった、という印象がありました。
 たとえば主人公の鮫島桐子。仕事のできるサバサバしたクールビューティー、というキャラは分かりやすく、読者もすんなり飲み込めるのですが、一方でベタすぎるとも言えます。身長が190㎝ある(ゆえにおっさんを相手にしても、若い女性だからとナメられない)、という部分は非常に面白く、オリジナリティもあったのですが、あまり活かされていなかったのが残念。倫理・道徳面から身体的特徴をいじるのを避けたのかもしれないのですが、高身長で知られる冨永愛さんですら179㎝であり、現実に190㎝の女性がいたらもっとリアクションがあるでしょう。甘いもの好きの設定も「キャラ付けのために作ったのだな」とすぐ分かるようになってしまっていて、もっとその設定がストーリーに絡むとか、主人公の人格形成に影響を与えているとか、あるいは甘いものへの愛の示し方が変わっていて笑えるとか、何かそれ以上の「オリジナリティのあるプラスアルファ」が欲しかったところです。各話、事件解決に必ず「経理の視点」が絡んでいるところなど、質の高い作り込みはできており、主人公は「税理士」という立場上、経理上の不正を修正してもらいさえすれば「事件の真相」を暴く必要はない立場であることを利用される等、税理士探偵という設定が設定倒れに終わってはいないという美点はあるのですが、やはりもう一つ、他の名探偵をぶち抜く何かの要素が欲しかったところです。
 また、主人公が真相を見抜くにあたって「一見、関係ないことから真相に気付くきっかけを得る」等、キャラが動くシーンがなく、見ただけで即座に見抜いてしまうため、展開が単調になってしまいがちでした。94頁の推理にしても、無理はないのですが、これだけでは「おかしい」と断言するには材料不足でしょう。「確かにその推理でも無理はないけど」を超えて、「明らかに通常と違う」と言いうる何かが欲しいところでした。ちなみに細かい部分ですが、抗うつ剤は使用するとむしろ眠くなることがある薬であって「ハイになる薬」ではないとか、ドライブレコーダーの常時録画は設置時にあえてその設定にしないといけないもので、普通についているものではないとか、そういったことの確認不足が見えたのも、今後、注意が必要になるでしょう。
 さらに細かい点ですが、四話で出てくる「顔がぐちゃぐちゃに潰れた」といったグロ表現は、使用に注意が必要です。本作は人間の怖さを描いてはいるものの、全体としては名探偵が活躍する爽快な話なので、グロ描写はあまり出さない方がいいように思えます。エロとグロは作者が思っている以上に読者にインパクトを与えてしまう劇薬で、それ一行で本の印象値を下げてしまいかねないので、どのレベルまで描写するか、慎重に検討した方がいいです。
 全体の構成としては、単調にならないよう、(本作の設定では難しいですが)第三話では主人公がプライベートで事件に関わるとか、そういう工夫をして変化をつけてもよかったかもしれません。話がするする進行するのは読みやすい半面、商品として出す以上、読者には「この作品はここが面白かった!」という印象を残さないと第二作を買ってもらえないわけで、やはり「想像を超える一発」が欲しかったところです。「税理士の探偵役が経理の観点から謎を解く」という時点でフックはあるのですが、弁護士探偵、建築士探偵、社労士探偵、はては紙鑑定士探偵まで士業探偵の先行作品がある中(「紙鑑定士」は国家資格ではありませんが)、「デビュー」の先の「ヒット」を目指すにはやや心もとないと言うべきで、「安心して読める☆4」ではなく「唯一無二の☆65535」ぐらいを目指すつもりで書いていただきたいです。そのためにはシークェンスも手際のよさ、無駄のなさだけでなく、必要とあらば多少流れを悪くしても紆余曲折を掘り下げて「色」を出す、といった思いきりのよさが必要になります。本作ではスムーズな進行とテンポのよさを重視するあまり、「低価格の範囲内で軽量性と居住性をぎりぎりまで追求した結果、みんな同じフォルムになってしまった軽ハイトワゴン」とか「狭い敷地でできる限りスペースをとろうと工夫しつくした結果、家具のレイアウトがすべて固定されてしまって模様替えの余地がない部屋」みたいになっており、それ自体は高品質なのに、「遊び」の部分がなくなってしまって評価上、損をしてしまっている感じなのが実に惜しいです。
 とはいえ、その分「品質」には安心できるわけです。完成度と技量で圧倒し、読者を楽しませることに心を砕いたプロ志向の作品でした。今後は多少、フォームが乱れてもいいので、ひたすらパンチ力を鍛え、読者の予想外のもの、見たことないものを狙ってみてください。


『四人のナオちゃん』
 ダブル大賞の二作目で、こちらはオリジナリティとフックの強さでの受賞でした。
 まず「私の人生にはなぜか、『ナオちゃん』と呼ばれて顔もそっくりな何人もの『(かね)()(なお)()』が常に立ちはだかっている」という導入が圧倒的に面白く、思わず「何事?」と身を乗り出します。新人賞に、そして商業小説に求められる「まず興味をひくこと」が冒頭たった4頁でできており、(本になった際にはカバーの内容紹介や帯でもこれができそうなことも含め)応募原稿としてはこの時点で成功していました。新人賞は、そして商業小説は、何より大事なのがこうした「他では見たことがないもの」を提示することです。そしてこの作品の独創性は最初の設定だけにとどまらず、後半、「ナオちゃん」との対決が始まってからも予想外の展開が続き、読者の予想を上回ってきます。このおかげで本作は、「スタート地点が違う」というレベルで強い印象を受けました。
 文章についても表現がうまく、抑制のきいた端的で素直な書きぶりで好印象でした。子供の描写も大人の描写も上手で、作者の精密な人間観察眼が光っています。特に小学校、新卒、幼稚園児の保護者、小学生の保護者という人生の各段階で現れる四人の各「ナオちゃん」の、絶妙にリアルな「嫌さ」。これは小学校を、新卒を、幼稚園児と小学生の保護者を経験した人ならいや、経験していない人でも、思わず「いるいる、こういう人」と頷いてしまいます。実際には自分で直接、見たわけでもないのにです。すぐれた小説は読者に対し、経験していないことを経験しているかのように感じさせるものです。
 文章上の癖として、「現実の風景/主人公の脳内の風景」の転換がいきなり入っていることがあり、52頁のクッキーや80頁の「ダーツ」の想像など、思わず数行戻ってから「あ、主人公の頭の中なのね」と納得する、という羽目にになりましたが、いちいちくどくどと事前説明をせず、「分かるよね? 分からなかったら戻ればいいから!」という読者を信用するスタンスなのは理解できます。もっとも、122頁からのシーンなどはこの「金子直子」が誰なのか(一人目の金子直子の回想かもしれない)、分かるまでかなりかかって混乱したので、もう少し分かりやすく書いて、読者の負担を軽減した方がいいかもしれません。全般に読者を驚かせ、意表をつくことに()けており、このシーンも「どういうこと?」と分からなくさせる演出ともとれるのですが、「わざと読者を混乱させる」という手法は作者の想像以上に読者にストレスを与えるものであり、使用には慎重さが求められます。
 シナリオ的には「どこに着地するか分からないままゆっくり進行するホラー・サスペンス」でありながら、予想外の展開で楽しませてくれます。特に後半、相手の側にも「(かわ)()(まさ)()」が出現している、というところなどは声が出ました。「手紙」の伏線もここでまた使うのか! とびっくり。終盤の解決も、そもそもこれどうやって解決するの? という状況から「声に出して嫌だと伝える」+「相手の声を聴いてあげる」という、強引さはあるもののなんとか納得がいき、しかも優しく爽やかな方法でまとめてあり、なかなかの離れ(わざ)でした。
 もっとも選考会では、シナリオの難点も指摘されました。個人的に気になったのが「『ナオちゃん』による被害の深刻さがいまいち伝わりにくい」という点と「後の『ナオちゃん』になるにつれて脅威度が減っていく」という点です。
 前者は特に一人目(教員)のナオちゃんと二人目(先輩)のナオちゃんです。「私の時だけわざと落とした」とか「いきなり威圧的に指導した」とかいった行為は非常にリアリティがあり(パワハラの加害者は「万が一、被害者が訴え出ても、周囲の人間に信じてもらえないようにするため」ターゲット以外に対してはむしろ人当たりがよいのが普通ですし)、しかもベタでない「作者独自の考え抜かれた嫌がらせ」であることが評価できる反面、「私に対してだけこうだった」という主人公の主観がないと説明できない、という難点があります。リアリティがあるので読者は「ああ、きっとこんな感じで嫌だったんだね」と想像してくれるはずですが、似たようなことをされたことがない等の理由でぴんとこない読者もそこそこの割合でいるはずで、その読者にとっては「何がどう被害なの?」となってしまいます。二人目のナオちゃんの威圧的な指導も、言っていること自体は正論であるため(それゆえ絶妙に訴えにくくなっていて、そこがリアルなのですが)、主人公に感情移入していないと「被害ではなくない?」となってしまいます。
 とするといかに主人公に感情移入させるかが重要になってくるのですが、本作の主人公は、設定上仕方ないとはいえナオちゃんの容姿に何度も言及する一方、自分の容姿は「目が大きい」と表現したり、「なんて痛快! 男性によって守られた私と、男性によって(だま)された道化のナオちゃん」と考える等、好感度を下げる振る舞いが散見されます。ホラーやサスペンスは主人公に感情移入してもらわないと迫力がでないものです。本作でも一度主人公が嫌われてしまうと、一人目のナオちゃんによる被害は「思い過ごしじゃない?」、二人目は「その程度で?」、三人目は「嫌なら断ればいいじゃん」、四人目に至っては「子供相手にかわいそうじゃない?」というふうに読者が「反論」を始めてしまい、「四人のナオちゃんによる被害」自体に疑義が生じてしまいます。主人公はリアルな人物ではあるのですが、読者が自己投影する「普通の主人公」というものは通常、普通よりだいぶ賢くて思いやりのある人物なので、もう少しいい人に書いてあげてよかったところでした。
 また、後のナオちゃんになるにつれて「脅威度」が減っているのも、構成的には苦しいところでした。担任教師→職場の先輩→幼稚園の保護者仲間→娘の友達、と、だんだん主人公が知力体力、さらに立場的にもナオちゃんを上回るようになり、その気になれば被害を避けられる感じになっていきます。主人公が成長して「いまやナオちゃんを怖がる必要はない」となることが本作では重要なのですが、やはりサスペンス・ホラーとして見た場合、脅威は後半にいくほど大きく困難にならないと盛り上がりに欠けてしまいます。また、二人目までのナオちゃんが明確に「加害者」であったのに対し、三人目のナオちゃんは特に加害の意思のない「めんどくさい人」、四人目に至っては主人公をむしろ当てにしている「かわいそうな子供」と言いうるのも、脅威度の減少を手伝ってしまっています。三人目のナオちゃんの「朝早く来て延々手作業をさせられる羽目になった」も四人目のナオちゃんの「子供は留守なのに毎日うちに遊びにくるおともだち」も非常にリアルで、読みながら顔をしかめるほどキツいのですが(実際に四人目のはキツい)、これも経験がない人にはやや想像しにくく、脅威が伝わりにくくなっています。たとえば四人目などは、せっかく主人公に「子供がいる」という新たな弱点があるのでから、「娘に何かされるおそれ」という別種の恐怖を演出した方がよかったのでは、と思えます。ジャングルジムのくだりでそちらに行きかけたのに、何もないまま終わってしまったのは残念なところでした。あるいは、偶然とは思えないほどの事故が連続しているのに、周囲が「子供のすることにそんな目くじら立てないで」と言って助けてくれないというダミアン的恐怖にする方法もあったかもしれません。リアリティのある形で、しかも相手に悪意がなかった、という設定のままやり遂げるのはかなり難しいのですが。
 もっとも、四人目のナオちゃんにいたっては「家に来る」という逃げられなさが追加されている分、出口なし感があり、これまでの経緯から()()する主人公にも納得がいきます。そもそも本作は分類するならば「サスペンス・ホラー」ですが、緊張や恐怖を主眼としたそれらとは違い、主人公の成長を描く物語でもあり、サスペンス・ホラー要素もある独自の小説、と言った方が的確です。そのため結末も爽やかですっきりするハッピーエンドになっており、読後感もいいので、サスペンス・ホラーの観点だけで評価するのも妥当ではないという気もします。最終的に「脅威側の事情」が明らかになっていくにつれて、子供時代から続いていた霧のようなものが晴れ、視野が広くなる場面は爽快で、大人になること、というテーマがよく出ていました。
 応募作の中でも似たような話を見たことがない、という独自性の勝利でした。やはり人間は「他で見ないもの」に惹かれるのだなあ、と納得しました。こうした作品が応募されてくることは、賞にとっても幸せなことです。ありがとうございました。


 というわけで、大賞受賞作はどちらも既存のジャンルに収まりきらないものでした。それは裏を返せば個性があり唯一無二だということです。ジャンルというのは本来、作品が生まれた後に「分類」として後付けされるもので、はじめからジャンルありきで作品を書く必要はないし、こういう話ができてしまったけどこれジャンルは何なんだろう? となった場合はえてして面白いです。
 また、描かれる人間や社会のリアリティが結果を分けたとも言えます。小説を書くには人生経験が、経験していないものを書くには取材が必要で、その重要さをあらためて認識させられる結果でした。赤の他人にお金と時間を費やして読んでもらう原稿を書くのですから、下準備はどんなにやってもやりすぎということはありません。人事を尽くして応募しましょう。