2025年ノベル大賞 選評/三浦しをん

荒ぶる魂の手綱を取り、情熱を「小説」という形に結晶させられているか、という観点で最終候補作を拝読した。


 今回の最終候補作はとてもレベルが高かった。受賞に至らなかったかた、最終候補に残らなかったかたも、あまりお気を落とされることなく、小説を書いていっていただければと思う。

 最終候補作を拝読しながら、情熱と理性のどちらが大切なのか、ということを考えていた。結論としてどちらも大切なのだが、情熱は、デビューしてプロとなって書いていくうちに、多少は摩耗する。だとすると、新人賞で重視したほうがいいのは、情熱の総量が多いひとかどうか、ということだろう。しかし情熱が有り余りすぎて、作品の制御がきかないほどとなると、それもまた問題だ。野獣のごとく荒ぶる魂が書いた小説は、大半の人類にとって、万全には受け止めきれないものだからだ。
 荒ぶる魂の()(づな)を取り、情熱を「小説」という形に結晶させられているか、という観点で拝読した。そのうえで私は、『()(とう)の告白』を一番に推した。

『佐藤の告白』は、中学二年生の佐藤くんが(すず)()くんに告白した、という噂が駆けめぐり、さまざまな波紋が起きる、という話だ。具体的には、佐藤くんに恋するひなのちゃん、鈴木くんとひなのちゃんの担任の(おか)(もと)先生、佐藤くんの母、鈴木くん、それぞれの視点から、出来事が語られていく。
 各章の人物の語り分けがとてもうまく、全編にユーモアがあふれている。心情描写も楽しいうえに繊細だ。もちろん、「だれがだれに告白したか」とか「だれがだれに恋心を抱いているのか」といった事柄は、本来は当事者だけが知っていればいいことだ。それが噂となって、勝手にみんなの話題に上っているのだから、これはけっこう深刻な事態で、いやなことを言うやつも出てくるし、居心地の悪い思いをさせられているひともいる。
 けれど登場人物たちはそれぞれに、自分の心や相手と向きあい、思いを言葉にしたり、少しだけ行動に移したり、自身の内面で折りあいをつけたりする。ほんの()(さい)な動きなのだが、そこにたしかなドラマがあり、私たちの日常と心とはこういうものなのだ、と感じさせてくれる説得力が生じている。
 各話にオチがないというご意見もあったが、私はオチなどなくていいと思った。我々の人生にオチがないのと同様に、登場人物の毎日にもオチはないのだ。ただ生きて、感じて、勇気を出して少しだけ行動し、相手や自分の心と対話する。それだけでいいのではないだろうか。それに、登場人物たちは各話でちゃんと、小さいかもしれないが大切な一歩を踏みだしている。その「変化」を描くことが、小説にとって重要なのではないかと思う。私にとっては、本作は十二分にドラマティックな話であると感じられた。
 LGBTQは昨今、いやな言葉でいえば「はやり」で、小説やドラマでも取りあげられることが増えた。かれらの存在を「ないもの」のように無視するよりは、状況は好転しているのかなと思うが、「はやり」だからとネタのように扱う姿勢が垣間見えると、腹立たしいものである。だが本作は、男子から男子への告白をネタとして扱っているのではなく、作者自身が深く考え、各登場人物に寄り添い、なりきって書いているのが伝わってくる。私はそこに胸打たれたし、思わず爆笑してしまいながら登場人物たちを応援した。
 たとえば、「先生が鳥ならいいのに」というセリフがある。ここだけ抜きだすと、なんかいい感じのセリフに思えると思うが、前後の文脈を加味すると、まったく異なる様相を(てい)してきて、切実さに笑ってしまうのだ。そういうシーンが多々あるので、本作が刊行された暁に、ぜひお読みいただきたいと願う。
 気になったのは、章タイトルの「佐藤の告白」は、「母の告白」としたほうが、総タイトルの効果が増すのではないかなという点だ(『佐藤の告白』という総タイトルなのに、佐藤自身が語り手となる章はない、というのが肝だと思うので)。ほか、岡本先生は鈴木の担任なのではとか(だれがどのクラスで、なんの部活に入っているのか、作者自身がもう一度整理し、ちゃんと把握したほうがいい)、電車の「折り返し」の使いかたが変なのではとか(終着駅から折り返し運転をしているのに、帰路の途中で「もう折り返しを過ぎていた」とは、どういう意味なのか)、細かく引っかかるところはある。
 だが、作者および登場人物の情熱が作中に満ちており、しかし、作者自身は情熱に溺れきらず、周到に小説を構築してもいて、とてもすぐれた作品だと感じ入った。

『税理士 (さめ)(じま)(きり)()』を次点で推した。
 税理士の仕事ぶりがわかって楽しいし、主人公もそれ以外の登場人物も、みんなキャラ立ちしていて、「だれがだれやら、わからなくなったぞ」ということがない。文章も安定していてうまいと思った。
 ただ、視点がややブレるというか、視点人物の変更が、わりと(ひん)(ぱん)に行われるのが気になった。本作の場合、なるべく鮫島の三人称単一視点で全編を貫くのが効果的ではないだろうか。この問題は、ラストで「お裁き」をするのが、税理士事務所の(なか)(まる)所長であり、その場に鮫島が居合わせない、というシーンに直結してくる。
 読者は当然、鮫島に思い入れを抱き、鮫島の活躍を応援しながら、本作を読む。にもかかわらず、ラスト近辺で「(こう)(いち)の一人語り」→「『私』の一人称=中丸所長のお裁き=鮫島は不在」というのは、視点変更が頻繁すぎるし、ストーリーの語りかたの手法としても洗練されていない気がする。いまと同じストーリーラインのままでいいのだが、なんとか、ほかの大半の箇所と同様、鮫島の三人称単一視点で物語っていったほうがいい。それをやってのけるのが、小説家の工夫であり、手腕の見せどころである。現状だと、「鮫島視点では話を運びきれず、小説を持ちこたえられなかったんだな」と見えてしまって(そう受け取られる隙ができてしまっていて)、作者と作品にとって損だと思う。
 もう一点、気になるところを挙げれば、先述した、「だれがだれやら、わからなくなったぞ」となるところが一切ない、ということだ。つまり、本作はものすごく整理が行き届いており、(ラスト近辺の手つきはややつたないが)構成面も非常に端正だ。だがそれゆえ、「無駄がなさすぎる」のである。言い換えれば、すべてが一直線のストーリーに(しゅう)(れん)されるつくりになっており、(えだ)()の部分がほぼない。幹だけがずどーんと(ちょ)(りつ)しており、余計な葉っぱが繁っていない感がある。
 もちろん、太くしっかりした幹のため、現状でも充分に読みごたえがあるし、読み心地もいいから、それだけでいいとも言える。しかし、作者の筆力がとても高いので、こちらもものすごく高度な要求をしてしまうのだが、実は「無駄」って、小説にとって重要なのだ。「なにこの会話」「なんで出てきたの、この人物やエピソード」ということがあっても、べつにいいし、そこが味わいになることもある。
 本作の場合、ストーリーがものすごく練られ、それに即して過不足なく登場人物が配置されていて、とてもうまいのだが、それゆえ、「鉄筋でできた、すごく風通しのいい建物みたいだな」という印象を受ける(「幹」やら「建物」やら、いろんなたとえを出して申し訳ない)。つまり、隠し部屋とかが一切ない。「こんなところに無駄なスペースが」と発見したときの、もやもやわくわくする感じがなく、登場人物がみんな、風通しも見通しもいい建物内で、振り付けどおりに動いている印象を否めない。しかし、言動にユーモアがあるし、税理士の「お仕事小説」としても、すごく楽しくするすると拝読できるのはまちがいないので、これは過剰な要求なのだが。
 では、どうやって「無駄」を生じさせればいいのか。たとえば、社長の妻の友子を、頑なに「奥様」呼びするコンサルタントが出てくる。友子は会社の経理部長で、バリバリ働いているにもかかわらず、だ。ここで「奥様」呼びすることを、もうちょっと強調したり、逆に「部長なんですけど」とやりこめてやったりすることで、女性をナメてる社会や一部の男性を、さりげなく、もっと深く描くことができるのではないだろうか。
 これは、本作全体のストーリーラインからしたら「無駄」かもしれないが、作品や登場人物に奥行きを与えるためには、決して無駄にはならないと思う。こういう、ちょっとした「無駄/寄り道」が、もう少しだけあってもいいかなと感じた。登場人物それぞれに寄り添い、想像力を最大限に発揮すれば、「無駄」のいい塩梅が必ず見つかるはずなので、試みてみていただきたい。
 とはいえ、「身内にだけ強く出る男、いそう~」とか、そんな男に対して、超長身の鮫島が威圧感を発揮するところとか、作者の目配り、作品への心くばりは、ほぼ完璧だ。休日に鮫島さんが特大パフェを食べているさまを想像し、私も見て見ぬふりで立ち去ることを選ぶな、と笑ってしまった。税理士の鮫島さんに、私も確定申告を依頼したいが、レシート整理が行き届いておらず、絶対に𠮟られる。と、鮫島さんが実在の人物であるかのように、あれこれ空想して楽しんだ。
 本作に関して言えば、理性の手綱をもう少しだけ緩め、登場人物の思うとおりに行動させてあげていい瞬間があるのではないか、ということだ。ただ、小説を書くことに慣れてくれば、本作の作者なら絶対にできるので、思いつめすぎなくて大丈夫だ。

『四人のナオちゃん』も、アイディアがおもしろく、表現や()()にいいところがたくさんあって、「どう決着するんだろう」と興味津々で拝読した。なにしろ、同姓同名で顔も同じ「ナオちゃん」が、主人公の人生のあちこちで四人も出没し、それぞれ絶妙にいや~なことをしてくるのだ。つまり「ナオちゃん」は主人公にとって、(やく)(びょう)(がみ)のような存在なのである。いったいなぜ、顔がおんなじ「ナオちゃん」が、いろいろな厄介事を主人公にもたらすのか。私は、「『なぜ』という部分は、きっと(あい)(まい)なまま終わるんだろうな」と予測していたのだが、なんと、ちゃんと原因というか因果関係が判明する。やや力技な気もしたが、本作においては、見事に「オチ」があることに感嘆した。
 作者の筆力は細部でも発揮されており、四人の「ナオちゃん」それぞれの、手に()えなさ、主人公としては困惑し傷つくしかない言動のバリエーションがすごい。「ナオちゃんが実際に一人でもいたら、本当に困るしいやなのに、それが四人も!」と途方に暮れるしかない感じが、実感を伴って我々読者にも伝わってくる。
 気になったのは、主人公があまりにも容姿のことばかり言及する点だ(しかも、しかたがないとはいえ、ナオちゃんの容姿を下げ、自分や娘のことは「目が大きくてかわいい」と言わんばかりである)。また、全体的になんとなく感覚が古い気がして、たとえば、「自分がビールグラスを持っている姿を()()(娘)に見せるのは嫌だし、見せるべきではないと思っている。女は母親だというだけで、誰に言われたのでもなく自然に自分を律するくせがついてしまうのだ」などだ。
 なんでだ、べつに娘のまえで酒飲んだっていいだろう。「飲みたくなる時がある」なら、遠慮なく飲んでほしい。飲酒が可能な年齢ならば、性別や立場を問わず、ひとに迷惑をかけない範囲で飲酒をしていいのであり、この主人公みたいなひとがいるから、私はいつも「女のくせに、がばがば飲んでる」などと肩身の狭い思いをさせられているのではないか、と怒りがこみあげる(そんな声は気にせず、飲むけども)。お母さんだって、好きなときに好きなことをしていい、それがあたりまえのことだと、私は思うのだが。
 さらに、「神様はちゃんと夫を用意していてくれた」「男性(夫)によって守られた私と、男性によって(だま)された道化のナオちゃん。どちらが幸せかなんて考えるまでもない」というくだりに至って、「主人公、ほんっとうにいやな女だな」と私は()(はつ)(てん)をついた。主人公め、自分が専業主婦だからって、なんだその上から目線は。と、ついつい思ってしまったのである。
 つまり、私にとっては「応援できない主人公」であり、「もういっそのこと、この主人公、不幸のどん底に突き落とされればいいのに。娘になにか悲劇が訪れるとかさ」と念じるほどだった。なんの罪もない幼い娘さんに悲劇の到来を願ってしまうとは、私はなんて心が汚いのだろう。本作は、「ひとを悪魔にする小説」とも言えよう。
 問題は、「作者は主人公をいやな女として書いているのか」という点だ。私は、「いやなやつだな~。応援できない」と感じ、そこも含めておもしろく拝読したのだが、もしかしたら作者は主人公を、「いいひと。四人のナオちゃんにひたすら(ほん)(ろう)される悲劇のヒロイン」というつもりで書いているのかもしれない、とも思う。
 後者だとすれば、小説を制御する手綱が(じゅう)(ぜん)にはきいていない、ということになる。私のように受け取る読者(主人公を「いやな女だな~」と感じる読者)は、たぶん少なからずいる。作者が意図するほどには、読み筋を絞りきれていない可能性があるのではないか。
 とはいえ、最後に主人公が悪縁を絶ちきり、ナオちゃんの話を聞いてあげるところ、そしてそのおかげでナオちゃんがという展開に、非常に胸打たれた。人間の善性に光を当てる素晴らしいラストだからこそ、主人公の描きかたは時代に合わせて、ルッキズムから解き放たれ、もう少しだけ自由で自立心のある女性にしてもよかったのではないか、という気がした。

『ガラクタの神様』は、作者の情熱が伝わってきたし、比喩や描写もうまいと思った。「(しん)()」という設定もユニークだ。主人公の汐音(しおん)のそばにいつもいて、汐音を支えてくれる神滓の(あお)が、色気があってかっこいい。二人の関係はどうなるのかな、という点に重きを置いて拝読したので、「シュレディンガーの猫が逃げだしたから、神滓が姿を現した」というよくわからない前提も、「まあ、そういうこともあるのかも」とガッツで呑みこむことができた(呑みこみづらいと感じる読者が多くいたとしても、当然だろうとは思うが)。
 気になったのは、主人公のお母さんの描きかただ。実在の精神疾患名が挙げられているが、お母さんの言動と典型的な症状とは異なる気がする。また、現状だと、実際にその病と向きあっておられる当事者や家族に対する、偏見を助長しかねない描写なのではと案じられる。きちんと薬を飲み、ご自身の症状とうまく折り合いをつけて、働いたり日常を営んだりしておられるかたは大勢いらっしゃるわけで、この書きかたは一考すべきではないかと感じた。
 なぜ、病に苦しむお母さんを、周囲のひとはこんなにも白眼視するのだろう。世の中って、こういうものだろうか? だとしても、小説というフィクションのなかで、現実で病に苦しむひとをなおさら苦しめるような書きかたをしすぎることには、慎重になったほうがいいと思う。お母さんは入院するまえにも通院していたようだし、にもかかわらず病状が悪化の一途をたどったのだとしたら、薬が合っていなかったのではないか? と(作中の)医者に対する疑念が湧いてくる。医療や福祉につなげるような描写が、もっとあってもいいのではないだろうか。
 ほかにも、汐音は碧と子どものころから一緒に暮らしているのに、碧の神滓としての力にいちいち驚いているように見受けられるのは、ちょっと変というか矛盾ではないか、と思いもした。また、碧のように、「このひとだ」と思い定めた人間とめぐりあえた神滓は、その人間が死んでしまったあとは、どうなるのだろう。傷心のあまり海や山に還ってしまうのか、二人目、三人目の人間とまた出会える神滓もいるのか、そのあたりも気になった(このへんの設定を突きつめて考えれば、いろんな神滓を主人公にしたシリーズ物にもなりそうだ)。
 また、碧は(がん)(けん)そうだが、肉体労働をするなどして、汐音とは別途、稼いできたりはしないのだろうか。この世界では、神滓は就労できないことになっているのか? だとすると、人権無視(というか神滓権無視)もはなはだしく、もっと早い段階でデモが激化し、全世界的に神滓権を認めるよう訴える声が高まりそうな気もする。
 汐音の現在の仕事だけで、アパートの家賃や二人ぶんの食い扶持(碧はけっこう食べそうだ)を稼ぐのはかなり厳しいのではと気が揉める。汐音や碧の経済観念が、なんとなく曖昧な感じがした。
 個人的には、本作は神滓という設定を活かし、恋愛(未満)物のストーリーに振りきったほうがよかったのではないかと思う。屈強な神滓に守られ、逆に守ったりもしながら、襲いくるほかの神滓とバトルする。二人への試練として、現状のようにお母さんのエピソードがあってもいいが、その場合、(やまい)の描きかたについて一考する。作者ご本人も、「相棒であり、ちょっとラブでもある」二人の関係のほうこそを、お書きになりたかったのではと推測するのだが、いかがだろうか。もし、そうであるならば、お母さんが絡むエピソードのほうの塩梅(あんばい)を、もう少し調整する必要があるのではないかと思う。
 バトルシーンも鮮やかだし、切ない心情表現もとてもいいと思った。だからこそ、情熱をどこに一番傾けたいのかをもう一度考えてみて、それに合った(さじ)加減で、(無用な偏見を生む可能性をなるべく摘みつつ)ストーリーを構築していっていただければと願う。

『洋菓子店ニュイ・ブランシュ』は、お菓子の描写がおいしそうで、そこまで甘いものに興味がない私も食べたくなるほどだった。来店するお客さんが、自分にとっての「なつかしいお菓子/食べたいお菓子」を依頼し、それに応えて主人公たちがいろんなお菓子を作成するという展開も、なるほど、これはいいアイディアだなと思った。客が求めているのはどんなお菓子なのか、と推理する過程も、実際にお菓子を試作してみる工程も、依頼者の人間模様も楽しめて、拝読していて胸(おど)るつくりになっているからだ。
 ただ、基本的に主人公の一人称であるわりに、終盤以外が比較的淡々としているというか、話の展開がやや平板な印象を受ける。情熱がひそんでいることは感じられるのだが、出来事をただなぞっている印象がある、とも言えるかもしれない。
 尺(枚数)に対してエピソードが少なすぎるというわけでもないので、エピソードの配置の問題かなと感じた。私だったら、「客からの依頼に応えてお菓子を作りはじめる」というターンをもうちょっと早く持ってきて、「依頼→客や主人公たちのエピソード→解決」「つぎの依頼→客や主人公たちのエピソード→解決」と若干連作っぽくし、そのさなかにも、本作終盤にかかわる大きなストーリーラインを、少しずつ連動してさりげなく前進させ、クライマックスになだれこむつくりにすると思う。つまり、「お菓子の依頼」という各エピソードで、小さなうねりをいくつか生みだしつつ、そのうねりが、全体を貫く大きなうねりを呼びこむ、というイメージでエピソードを配置する。
 ではなぜ、うねりがうねりを呼びこむつくりが、ややうまくいっていない印象を受けるのか(作者もそういうつくりを意図しておられると思うのだが、ちょっと機能しきっていない感がある)。(わか)()(みず)(しま)の背景事情が練りきれていないというか、作品に反映しきれていないためではないだろうか。
 たとえば、経済事情だ。開店資金はいくらぐらいで、水嶋はそれを何年かけて貯めたのか(腕のいいパティシエとして雇われていたとしても、相当節約しないと店は開けないのではないだろうか?)。また、若葉は月給をいくらもらっているのか(開店準備期間にも給料が発生していたとしたら、水嶋にはその負担ものしかかってくる)。店は月にどれぐらいの売上があるのか。
 すべてを作中で明確に書く必要はないかもしれないが、作者の頭のなかでしっかりと設定してあるだろうか? 開店当初の景気のよさが一段落するタイミングを、もっと前倒しにし、「客からお菓子製作の依頼を受ける」というエピソードに早く突入するためにも、経済面の設定をはっきりさせておくのが肝心な気がする。
 これに関連して、登場人物の年齢の感覚も曖昧な気がした。若葉の父も、水嶋の父も、かなり若くして亡くなっている(たぶん三十代か四十代だろう)。となると、そのあと、若葉の母や水嶋の母は、どうやって生計を営み、それぞれの家庭はどれぐらいの生活レベルだったのだろう。このあたりもはっきりしないため、「店の開店資金として、水嶋の生家から金は出ているのか?」とか、「若葉は専門学校ではなく大学に行ったようだが、学費は大丈夫だったのか? また、なぜ製菓に異様に詳しいのか?(小学生のときに生家の店の手伝いをしただけで、こんなにお菓子づくりの知識と実状を把握できるだろうか? 独学?)」とか、いろいろ気になってくる。
 ちなみに、主人公コンビとは関係ないが、客の一人が「女学校」に行っていたとある。しかし、一九七〇年代に高校に通っていたひとは、「女学校」とは言わないだろう。
 経済や年齢観を具体的に想像し、設定することで、登場人物の来し方や言動に奥行きが出て、それが新たなエピソードを呼び起こすことがある。うねりを生じさせるための小さなコツだ。
 また、作者は文章を比較的するすると書けるかたなのだろうと推測するし、うまいと思うのだが、それゆえ、やや「流れる」箇所がある気がする。「流れる」とはどういうことなのか、感覚を説明するのがむずかしいのだが
 たとえば、「昔潰れたか移転するかした店の、どこを出たとも知れない同業者のレシピを再現することをよく思わない場合もあるだろう」という一文だ。「どこを出たとも知れない」が問題かなと思う。文意としては、「どこの店の出身者かも定かでないパティシエのレシピを、再現することをよく思わない」とか、「出どころ不明なレシピを、同業者であるパティシエの身で、勝手に再現することをよく思わない」とか、そういう感じだろうか。現状だと、なにを言わんとしているのか、ちょっとつかみにくい。ここは、するすると書けたとしても、踏ん張って、より文意を明確にするため、文章を磨きあげたほうがいいだろう。
 小説家の(なか)()(ひで)()は、「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」と書いた。まあ、中井英夫ほどの小説は、(中井英夫以外の)だれにも書けないのだが、しかしこの境地に少しでも近づくべく、私は常に胸に刻んでいる言葉だ。一行、一行を、精密に磨いていく。書き流さないように心がけると、より登場人物たちが輝きを帯び、(やく)(どう)すると思う。
 どうすれば、ストーリーと登場人物をうねらせられるのか、あとほんのちょっとの工夫で劇的に改善すると思うので、試してみていただきたい。