2023年ノベル大賞 選評/三浦しをん
小説は感性/センスに任せて書けばいいものではないと、これまでの経験から、私は確信している。
作者それぞれの持ち味と書きたい世界観があることが感じられ、最終候補作のいずれも、好感を抱きつつ拝読した。悩んだすえ、『レディ・ファントムと灰色の夢』と『やんごとなき日々』に、相対的にやや高い点をつけたが、ほかの作品に対する評価も自分のなかでは僅差だった。
まず、拝読して気づいた、最終候補作の過半数に当てはまる「短所」について述べる。
もちろん応募作にかぎらず、どんな創作物にも短所はある。短所のない人間がいないのと同じように。だから、「短所=悪いところ」ではなく、かけがえのない個性とも言えるし、私が短所と感じた点も、ほかのひとにとっては長所に感じられる、ということは充分にありえる。
ただ今回、私が気になったのは、そういう個性云々にまつわるような事柄ではない。「単語の選びかたが、なんかおかしい作品が散見される」ということなのだ。
これは作品にとって明確な「短所」、「見かたを変えれば長所に……」といったフォローをちょっとしにくい、ド直球の欠点であり問題点であると思う。
たとえば、「勘弁してくれ」と「観念してくれ」はべつの意味を持っているわけだが、「勘弁」を使うべき局面で「観念」という単語が選ばれている、といった具合だ。単なるキーボードの打ちまちがいが原因かなと最初は思ったのだが、全編にわたって微妙に的をはずした単語選びがなされているため、「キーボードのミスタッチに起因するのではなく、作者がいろんな単語の意味を正確にとらえていないのだ」と判断した。
単語選びだけではなく、慣用句や文法の誤り、同音異義語の使い分けができていない(これは誤変換なのかもしれないが、それにしてもたとえば、「検討」と「見当」のちがいに無頓着なひとが多すぎる)など、最終候補作の多くに、(日本語の)言語力に関する課題があると見受けられた。
言葉は生き物なので、時代によって単語の意味や使われかたが変化することは多い。また、母語ではない言語で小説を書くかたももちろんいて、これまで画期的かつすぐれた作品が多く生みだされてきた。
だが、私がここで言っている「言語力」とは、そういうレベルの話ではなく、もっと基本的なことだ。作品で述べようとしている真意が伝わってきにくいほど、単語選びや文法がまちがっており、いくらなんでも言語表現として洗練されていないと感じられる。
言語とは、思考や感覚をある程度共有するためのツールだ。いくら「言葉は生き物で、各々が自由に使えばいいもの」だとはいえ、単語の意味や基礎的な文法という、最低限の「お約束」すら把握せずに無軌道ぶりを発揮してしまっては、他者との思考や感覚の共有は不可能である。「勘弁」と「観念」を取りちがえていては(この二つの単語の意味のちがいを認識していないままでは)、他者と話が正確に通じあわない、ということだ。
なぜこういう事態が発生するのか、考えてみた。あくまでも推測だが、「読む量がたりていない」という原因があるのではないか。
しゃべったり聞いたりするには充分な言語力があり、文章を書くことにも慣れている(近年はメールやLINEなど、文章を書く機会が格段に増えたためだろう)。だが、会話のなかでなんとなく聞き流してしまったり、精度よりも即時性のほうが重視される文章ばかりを読んだりしているため、単語や慣用句や文法のまちがいに気づけないままになってしまっているのではないだろうか。
こんな小姑みたいなことを言って恐縮だが、「うる覚え」ではなく「うろ覚え」だ(耳で聞いて、まちがって覚えたのだろうと推測される例)。また、たとえばネットのニュースの見出しなど、校閲的に考えたら、文法や単語選びの誤り、誤字脱字の嵐だなと個人的には感じることがある(即時性が重視される文章の例)。
べつに「うろ覚え」が「うる覚え」になったって死にゃあしないし、日常的な口語/会話レベルでは問題ないと思う。文章にはそれぞれ要求される役割があるので、即座に情報を伝えなきゃならないニュースの原稿に、細かく目くじら立てる必要もまったくないと思う(文章がちゃんとしてるネットニュースももちろん多い)。
だが、小説を書こうというみなさまは、単語の意味や文法に鈍感でいてはいけないと思うのだ。繰り返しになるが、それだと登場人物の繊細な機微や、作品自体が物語ろうとしていることが、読者に正確に伝わらないからだ。
この「短所」を克服するためには、読む量を増やすしかないと思う。ここで言う「読む」とは、漫然と読書しろということではなく、「考えながら文章を摂取する」ということだ。視覚で文字を追うことにかぎらず、耳で聞いたり点字だったり、各人にとってやりやすい方法で、考えながら読む。
読んで、「こういう局面では、こういう言いまわしをするんだな(慣用句)」とか、「あれ? この作者の単語の選びかた、私の感覚とはちがうな。そもそもこの単語、どういう意味なんだっけ?」と辞書で調べるとか、コツコツと「学習」するしかないと思う。
なぜ学習が効くかというと、これまた繰り返しになるが、言語は思考や感覚を他者と共有するためのツールであり、共有をスムーズに実現するために、言語表現には、「文法」「大多数のひとが、『この単語は、こういう意味だ』と認識している」「この局面で使うのは、こういう慣用句だ」といった「お約束」が存在するからだ。お約束は、学習・習得できる。学習・習得しやすいように、お約束が生みだされたとも言える。
もうちょっと言語力を磨き、単語や文法に敏感になったほうがいいと思う。「なんとなくの感覚で、それらしい雰囲気の文章を書く」のと、「芯をとらえた単語選びに基づいて文章を書く」のとでは、文章を積み重ねた結果がまるで異なる。後者を心がけないと、ストーリーや登場人物がせっかく魅力的でも、小説にこめられた作者(や登場人物)の思いが、正確かつ十全には読者に伝わりきらない。
そこが惜しいし、もったいないなと感じる最終候補作が多かった。
小説は感性/センスに任せて書けばいいものではないと、これまでの(読者として、作者としての)経験から、私は確信している。感性/センスなど、いつかきらめきをなくすし、摩耗する。そうではなく、小説はたゆまぬ学習・思考・試行錯誤によって成り立つものなのだ。だからこそ、小説を書くという行いは追究しがいがあるのであり、センスの有無とは関係なく、だれだって、だれかの胸を打つ小説を書ける可能性を宿している。
たゆまぬ、そして絶え間なき、学習・思考・試行錯誤を実行するのは、たしかに大変だ。そんなことをしなきゃならないぐらいなら、生まれ持った感性/センスで書けると言ってくれたほうがマシだよ、と絶望的な気持ちになるかたもいらっしゃるかもしれない。
だが、大丈夫だ。みなさまは小説を好きだから、小説を書いているはずだ。対象がなんであれ、好きなこと、好きなものについて、「面倒」と感じるなんてことがあるだろうか? 「うわ、こりゃ大変な手間がかかるなあ」と思ったとしても、ご自分のペースでいい。小説を好きなら、面倒がらずに、(小説をはじめとする文章全般を)もっと自覚的/意識的/積極的に読んでみてほしい。読むことを通して、単語や文法や慣用句といった言語の「お約束」を丁寧かつ着実に学び取り、「じゃあ私はどんなふうに、どういう小説を書こうかな」と、楽しく、たゆまず、考えをめぐらせつづけていただければと願う。
『レディ・ファントムと灰色の夢』は、登場人物が非常に魅力的で、食べ物やドレスの描写もいい。三人称神視点(完全な三人称)で小説を書くのは、慣れないうちはむずかしいものだと思うが、作者はかなりなめらかに使いこなしており、文章のカメラワークがうまい(たとえば、「引きで風景を描写したのち、建物の外観から室内へとフォーカスしていき、最終的に登場人物の心情を語る」といった感じに、読者がどこに集中力や想像力を発揮すればいいかを、文章によってスムーズに誘導してくれる)。おかげで作品世界に没入し、楽しく拝読することができた。
特に素晴らしいなと感じたのは、主人公のクレアが、「女が女を大切にするのは、おかしなこと?」と、自分の気持ちと感情に真摯に向きあい、考えるシーンだ。クレアの誠実で優しい人柄が伝わってきて、ますます彼女を応援したくなる。かといって真面目一辺倒な作品ではなく、むしろ会話のテンポがよく、生き生きしていて、幽霊にまつわる話であるにもかかわらず、全編にユーモアがあふれているのもいいところだ。
ただ、後半に行くに従い、文章と登場人物のラノベ感が増すのが、やや気になった(ラノベっぽいのがいけないのではなく、途中からテイストがラノベ寄りに変化するのが気になる、という意味だ)。
また(ここからネタバレです)、幽霊が何人も殺していた、という謎解きの結末も、個人的には解せない。幽霊の実在を信じるか否かは、読者それぞれの考えがあろうし、少なくとも本作のなかでは実在するのだと、私も受け入れよう。だが、死亡事故と思われていたものもすべて殺人で、しかも下手人が幽霊となると、「いや、幽霊って、物理的な影響力をそこまで発揮できるものなの? そもそも私、幽霊の実在をあんま信じてな……、もごもご」と、つい無粋なことを言いたくなってしまう。つまり、幽霊にすべてを集約させる決着は、ちょっとバランスが悪いというか、ミステリ的に説得力に欠けるのではないかと思った。むろん、幽霊にすべてを集約させる先行作はあるが、本作はそういう結末に持っていくには、やや謎解きの強度がたりない気がする。現状のままでももちろんいいと思うが、その場合はもう少し、幽霊「アンバー」の存在を活かすとか、なんらかの工夫をしてみてはいかがだろう。
もう一点、一考したほうがいいと感じたのは、クレアの双子の兄・クレメンスの特殊能力についてだ。クレアは幽霊の姿を見たり、声を聞いたりできる。それに対して、クレメンスは人の心を読むことができる。だが現状、クレメンスの特殊能力はあまりストーリーに活かされていないし、クレメンスの登場シーン自体が少ない。
もし、クレメンスの登場頻度をこのままにするとしたら、「人の心を読める」という特殊能力は、思いきってナシにしたほうがすっきりするのではないか(その能力については、なんなら続編で明かせばいいだろう)。逆に、もうちょっと双子がそろって活躍するストーリーラインに微修正するとしたら、「クレアは幽霊の姿を見ることができる。クレメンスは幽霊の声を聞くことができる」といった方向で特殊能力を分け持たせるのも手だ。
とにかく現状だと、双子が有する特殊能力の総量と配分が、ストーリー展開・構成にうまく合致していない(見合っていない)のではないかと思われた。
『甘いたぬきは山の向こう』は、かわいくて良質な作品だ。良質であるがゆえに、ややパンチがたりない気もしたが、主人公とテンコが「たぬきケーキ」を探し求める姿を通して、多様性の大切さや、仕事への情熱、ひとの思いはどのように伝えられ、受け継がれていくものなのか、さりげなく表現、象徴されていて、とてもいいと思った。
主人公コンビがいろんなケーキ屋さんをめぐるエピソードは、地道かつ淡々としてはいるが、各店主の人柄や思い、来歴がきちんと描きわけられていたし、ところどころで独創的な比喩が炸裂するのも愉快だ。話運びの段取りも総じてうまいと感じたが、唯一、主人公の妹が現れるシーンだけは、なんとなく取って付けたようなので、もう少し前後の流れと馴染ませるための工夫が必要だろう。
気になったのは、全体的に情報提示のタイミングがやや遅いということと、描写の焦点が合っていないように感じられるところがあるということだ。
情報提示について。たとえば、私は主人公の「葵」をずっと女性だと思って読んでいた。原稿用紙換算で十八枚目に「俺」と出てきてやっと、「あ、男性だったのか」と気づけた。たしかに冒頭、店長が葵を「くん」呼びしているが、女性店員の多和田を呼び捨てにする店長なので、新入りかつ女性の葵のことも「くん」呼びするのだろうと思いこんでしまっていた。
これと関連して、店長はなぜ、自分の妹を結婚後の名字(多和田)で呼んでいるのかという疑問も、後段になって湧いてくる。ふつう、妹のことは下の名で呼ぶのではないか? 職場だから、かしこまって名字なのか? しかし、だとしたらなぜ、葵のことは下の名で呼ぶんだ?
まあとにかく、特段の意図がないのなら、主人公の性別はもっと早い段階で明確にしておいたほうがいいと思う。現実においては性別なんて、なんだっていいのだが、文章のみで伝えるしかない小説の場合、「葵」という(男とも女とも取れる)名前だけでは、読者が脳内で人物像を思い描く手がかりとしては、やや弱い。
描写の焦点について。人間体のテンコは十三、四歳の姿だそうだが、描写からはもっと幼い子のように感じられた。たとえば、流しのまえで歯を磨く主人公の「腰のあたりに」、テンコは突撃してくる。立っている主人公の腰のあたりに頭が来るということは、テンコは六、七歳(?)くらいの背丈しかないのかなと思われたのだ。
ポイントは、お茶漬けを食べていたテンコが、「立ちあがって」主人公にまとわりついたのか、「座ったまま」だったのか、明確な描写がないということだ。そのため私は、テンコは立ちあがって、流しのそばにいる主人公に近づき、まとわりついたのだろうと思い浮かべた。だから、「両者とも立っているのに、主人公の腰のあたりに頭が来るって、テンコはとても背が低いんだな=幼い子みたいだな」という印象を抱いた。しかし作者はもしかしたら、テンコは座ったままだと想定しておられるのかもしれない。描写の焦点が合っていない(描写が微妙に曖昧)と思う所以だ。
これは冒頭の風景描写にも言える。
夜の仕込みの前にごみを捨てようと葵が店の裏に出た時、遠くに見える山の稜線は美しい赤に染まっていた。山に切り取られた夕空も、稜線の赤が溶け入ったような薄紅色をしている。
きれいな風景っぽい気配はするが、なにを言わんとしているのか、すぐにはピンと来なかった。原因は、文章の力点が「夕空」に置かれているのか、「稜線」に置かれているのか、判然としないためだと思う。
稜線が赤く染まっているのは、夕空(夕日)のせいだろう。とすると、夕空のおかげで赤く染まった稜線が切り取る夕空が赤いのは、当然じゃないか? この堂々巡り、たとえるなら、「作用反作用」の方向が「文章の物理法則」に反してる気がして、非常に違和感がある。たぶん作者がおっしゃりたいのは、
仕込みの前にごみを捨てようと葵が店の裏に出た時、遠くに見える稜線は薄紅色に輝き、美しい夕空に溶け入るかのようだった。だが、山のシルエット自体は底知れぬ黒さを増し、迫り来る夜を予感させている。
というようなことではないかと推測するのだが、だとしたら冒頭の文章は描写の焦点が絞りきれておらず、やや練りが甘いと思う(私の例文も練りきれていなくて申し訳ないが)。
適切な情報提示のタイミングを探り、過不足ない手数を費やして描写の精度と練度を上げれば、読者の脳裏にいっそう鮮やかに情景が映しだされるようになるはずだ。加筆修正の際に、ちょっと心がけてみていただきたい。
『私のマリア』は、テクニック的に気になるところがありすぎるほどなのだが、得体の知れぬ引力を放っており、作品世界にぐいぐい惹きこまれてしまった。謎解きに関しても、乱気流に巻きこまれたんじゃないかと思うぐらい危なっかしくて気を揉むも、最終的にはなんとか着陸できていて、作者の腕前はもしかしたらすごいのかもしれない。「すごい」と断言しきれないのは、とにかく力技が多く、味つけが濃すぎるためで、私の正確な判断能力が失われ、舌がしびれている可能性もある、と危惧されるからだ。
全寮制の女子校、複雑な家族関係、「華麗なる一族」の裏の顔、誘拐事件と、舞台設定や道具立ては完璧で、雰囲気満点だ。私はなにかが過剰な創作物が好物なので、作者がお書きになろうとしている世界観、とてもよくわかる気がするなと感じた。
とはいえ(ここからネタバレです)、本作で描かれる強姦、性的虐待、焼き印などなどは、いくらなんでも悪趣味というか露悪的というか、読者の好悪と評価がものすごく分かれるところにちがいない。私は「昔の大映ドラマみたいなものだ」と自身に言い聞かせたが、それでもやはり、やりすぎなのではと感じる点も多かった。
作品が醸しだす、やや大時代な設定、雰囲気は大切にしたほうがいいと思うし、作者の好み(性癖?)も尊重されるべきだ。しかしそのうえで、読者に過度の(不必要な)不快を与えていないか、描写に接して傷ついてしまうひとがいないか、精一杯想像をめぐらせるのは、書き手の責務だとも思う。加筆修正に際して、適切な塩梅、ラインを、慎重に探ってみてほしい。
(これまたネタバレです)想像力といえば、もう一点、十本の爪を剝がすのもやりすぎだ。力任せに爪を剝いだら、一本でも筆舌に尽くしがたいほど痛いし、血が噴きだす。爪が剝げ飛んだことのある私が言うのだから、まちがいない。百歩譲って、剝がされるひとが耐えたとしても、剝がすひとはどうだろう。大切な相手が明らかに壮絶に痛がっていて、血もぶーぶー噴きだしてるのに、十本すべての爪を剝いでいくなんて絶対にできない。なぜ古来、「拷問=爪を剝ぐ」なのか、もっと想像したほうがいいだろう。
謎解きに関しては、特に東京駅のシーンに大きな矛盾や穴が生じている気がした。「どうしたら現状のストーリーラインを維持したまま、ミステリとしての洗練度を上げられるか」について、選考委員全員で検討した結果、誘拐事件ではなく失踪事件にすればいいのではないか、というところに落ち着いた。詳細は編集部に聞き、加筆修正の際の参考にしてみてほしい。
『やんごとなき日々』は、どこまで本気かわからない登場人物が生き生きと描かれ、絶妙ののんびりしたユーモアがあって、いいと思った。いや、登場人物はみな、我々と同じように、まっとうかつ本気で日常を暮らしており、しかしだからこそ、期せずしてユーモアが醸しだされる瞬間があったり、周囲からはみだしてしまったり、思わず変な言動をしてしまったりすることがある、ということなのだろう。一見、やや誇張された人物像のようでいて、「現実にもあるなあ」という人間関係や感情の機微を、本作はとてもうまくとらえている。
話の規模感とエピソードの配置も枚数に合っていて、ウェルメイドな一作だと思う。そのぶん、ややパンチに欠けるというか、最終的にどこへ向かってストーリーを推進させているのか(主人公がなにを目指しているのか)が、ちょっと曖昧な印象も受ける。しかし、これは完全に好みの問題になってしまうが、私はストーリーラインがパキッと明確な創作物ばかりじゃなくていいと思っているし、本作のような、「なんだったんだ、この話」という謎の食感がある作品がけっこう好きなので(グミをはじめて食べたときの、「ガムでもゼリーでも飴でもない、なにか」に戸惑いつつ、もぐもぐする感じだ)、好意的に受け止めた。猫のおしゃまっぷもかわいい。
驚いたのは、「こじらせ男子の主人公がダメ人間すぎやしないか」という、ほかの選考委員のご意見がけっこうあったことだ。私は逆に、「主人公がちょっといいひとすぎるし、思ったより有能すぎるんじゃないか」と感じていた。自分のなかで、「ダメ人間」の判定基準がかなり高く設定されており、だからこそ私は、自分ではまっとうにやっているつもりなのに、ひとから「ダメ人間」と言われがちなんだなと気づかされた。つまり、自分に甘い。世の中で「ダメ人間」と言われるひとに対しても、「いやあ、そこまでダメじゃないよ」と思ってしまいがちだ。もうちょっと勤勉にならなきゃいけないと反省した。
でも、こうして「読み」のちがいを選考委員のみなさまと語りあえるのは、とても楽しいことだし、ひとによって主人公への解釈が異なったのも、本作に関して言えば、作者が非常にうまく人物造形しているからだと思う。主人公の右太は、単なる「キャラクター」ではなく、実在する人間のように評価の振れ幅がある、多面的かつ奥行きをもったひととして描かれている、ということだ。
後半、やや駆け足になっているように感じられたことと、ところどころ手数が足りていないように思えるところが、ちょっと気になる。たとえば、主人公がまどかとはじめてデートする電車内で、「楽しくおしゃべりしながら」とあるが、ここは具体的に、どんな会話をしたのか書いたほうがいいだろう。そのほうが、最初は緊張していた右太が、徐々に打ち解け、共通の趣味の話などもして……といったように、二人の距離感の変化を描けるからだ。同様に、紅葉の描写もあったほうがいい。はじめてのデートで高揚する気持ちと、紅葉のうつくしさ(オヤジギャグではない)。右太の目に、色づく葉はどんなふうに映ったのだろう。こういう細部をさりげなく描いてこそ、より心情が際立つし、風景も立体感を持つはずだ。
『ジャレッド・エドワーズの殺害依頼』は、ヨーロッパの映画のような雰囲気がある。本作の主な舞台は、イギリスっぽいように感じられるが、私はなんとなく、古のフランス・イタリア合作映画みたいだなと思った。重厚さもありつつ、どこか空気が乾いている感じ、そして突如として登場人物の心情やストーリー、描写にファンタジックな飛翔の瞬間(青春感とも言えるかもしれない)が訪れる感じが、特に。
構成、細かい設定や描写、エピソードを展開させていく段取りなど、本作にはまだまだ手慣れていないと思える部分がたくさんある。だが、なによりも大切なのは、作者に書きたいこと、書きたい世界観があるということで、私は本作から、「この作者のかたには、それがあるんだな」とビンビン感じた。テクニック的な面は、今後、先行作に学びつつ、よく考えながら書くよう心がければ、必ず克服できる。
私が素晴らしいと感じたのは、主人公本人ですら自覚できていないような「恋」が、繊細かつうつくしい描写を通して的確に伝わってくるところだ。そしてもうひとつ、主人公とマイケルがフィリピンで詐欺行為を働く一連のシーン。舞台が南の島に飛び、ここだけ不思議な浮遊感と開放感があって、非常に魅力的だった。
構成的に考えるならば(そして、作品内のテイスト統一を第一に考えるならば)、このシーンはカットしたり、せめて同じヨーロッパの、パリっぽい街などにとどめておいたりしたほうがいいのかもしれない。でも私には、やはりこのシーンが輝いているように見える。多少いびつではあるが、そのいびつさこそが魅力だし、創作物がときに現出させる、常識や理性を超えたなにかが凝縮されているように感じられる。
テクニックはもちろん大事だ。身につけておかなければ、自分が書きたいことを自由かつ十全に表現できない。だが、テクニックではどうにもならず、作者の意図や統制が利かなくなるような、不可思議な飛翔の瞬間がまれに起きる。その瞬間を目の当たりにして、「うーん、イイ! これだから小説をはじめとする創作物って、奥深くスリリングなんだよな」と感慨にふけった。作者の心のなかに宿っている、登場人物や作品への熱い思いを、これからもぜひ大切にしていただきたい。
本作の明確な弱点だと思ったのは、構成面でいうと、冒頭とラストが呼応していないことだ。アマンダがジャレッドの死の謎を追う、というつくりなのだから、ラストも当然、死の真相を知ったアマンダの視点、思いで終わらなければ締まらない。
また、探偵の正体が判明する劇的なシーンが、うまく機能していない。この理由は単純で、探偵のことを地の文で、「探偵」「老紳士」など、さまざまに呼称しているからだ(エピソードの配置や、ストーリーがどこで「過去」から「いま」に戻るかといった構成が練りきれていない、という理由もあるにはあるが)。つまり、「探偵=老紳士」なのかどうかがわかりにくく、「えーっと、『探偵=老紳士=○○』ってことなの?」と、一拍おかないと諒解できない。
探偵なら「探偵」と、地の文での呼称をある程度統一させる。思わせぶり、持ってまわった表現をしていいところと、そうじゃなくズバッと明快に、さくさく進めていいところのメリハリをつける。これを心がけてみるといいだろう。文章のみで表現する場合、呼称が一定じゃないと、「だれだっけ?」と読者が混乱する可能性が高いからだ。そういう部分はシステマティックに、「もう『探偵』で行こう」と割り切るのも大事だ。言いまわしや言い換えの多様さは、主に心情表現や描写において発揮したほうがいい。
今回で吉田玲子先生が選考委員を辞される。脚本家の観点からの読みと、「こうすれば作品がもっとよくなるのではないか」というアイディア、いつも新鮮でものすごく勉強になった。本当にどうもありがとうございます。