雑誌『Seventeen』での
2019~2021年にわたる連載が
待望の書籍化!
書籍化のため大友花恋が
書き下ろした
完全新作中編
“続・自伝”を収録!
大友花恋
1999年10⽉9⽇⽣まれ、群⾺県出⾝。雑誌「Seventeen」(集英社刊)で8年間専属モデルを務め、現在は「MORE」(集英社刊)専属モデルとして活動中。「今⽇、好きになりました。」(ABEMA)ではレギュラー⾒届け⼈を務める。
近年はドラマ「正しい恋の始めかた」(EX系/2023年)で主演を務め、ドラマ「フィクサーSeason3」(WOWOW/2023年)、「トークサバイバー2」(Netflix/2023年)、「厨房のありす」(NTV系/2024年などに出演。
「ハナコイノベル。」
発売を記念して
ここでしか読めない
書き下ろし短編小説を特別公開!
新ハナコイノベル「持ちきれない」
「田中さん、うちの正社員になりませんか?」
店舗責任者の高橋さんに言われた。
意外だった。
私は大学1年の夏から2年とちょっと、この本屋でアルバイトをしている。
本の虫なんてほどではないが、スマートフォンの虫である同級生よりは本を読む自覚があり、始めたバイトだった。
一人暮らしのマンションからは片道30分。自転車とバスの道のりは決して近くはないが、休んだことはない。
週に3日、1日4時間。最低限度でシフトを組んでもらい、盛大なミスをすることもトラブルを起こすこともなく(また、人間関係を深めることもなく)、淡々とこなしてきた。
高橋さんは、真四角の細いリムのメガネが示すように、読書命の本ラバー。本の虫を通り越して、本の動物である(虫の上位互換は定かではないので、大きくしただけだ。しかし、生き物のサイズを大きくしていくこの戦法だと、次は人間がそれにあたり、本の人間になる。そうなると、ただの人で、それって一体どうなの?と思う)。
高橋さんは私より15歳くらい年上のおじさんだが、清潔感と真面目さがあり、この春から新たにバイトに入った高校生ギャルのミハルちゃんからは「はっしー」なんて呼ばれて慕われている。
しかし、私と同様、人とがっつり関わるタイプではなく必要な会話しかしたことがないさっぱりした人だった。
私に対して何の感想もないと思っていた高橋さんが、少なくともバイトから正社員になったらどうかと考えるほどには、私のことを見ていたことが意外だったのだ。
「田中さん、いつも真面目に仕事してくれてるし。確か、そろそろ就職活動が始まる時期だと思うので、選択肢の一つに入れてもらいたいな、と思いまして」
「はあ」
「無理にではないです。急ぎでもないです。少し考えてみてください」
「はあ、あ、はい」
もう一度、意外だなあと思った。
正社員に誘われたことに、そして、とんでもなく喜んでいる自分に。
バスを降りて、自転車を漕ぐ。
夏の暑さが和らぎ、月に照らされながら自転車を走らせる帰路は爽快である。
夏は辛かった。サドルは太陽光を吸収してとんでもなく熱いし、ハンドルにはよくわからない触覚の虫が付いているし、街には夏というだけで馬鹿みたいに浮かれた人の塊がゴロゴロあった。
「田中さん、真面目に仕事してくれてるし」
先ほど、高橋さんからもらった言葉を口の中で転がす。
「真面目に仕事してくれてるし〜」
ちょっとメロディなんてつけてみる。
「田中さんは真面目だしー!」
少しばかり大声になっても、大丈夫だ。
だって、まだ残っている蝉や、せっかちな秋の虫に紛れるし、私は真面目だから。
家の鍵を下駄箱の上に投げ、コンビニの袋(あ、エコバッグです)をローテーブルにぺんっとおく。
今日は遠回りして、大きなコンビニに寄って帰ってきた。
いつもは、ワンルームの小さな台所で、細々と料理をして、何かに遠慮しながらモソモソ夕食をとる。
でも、正社員に誘われた夜くらいはコンビニで好きなものを買ったっていい。
一口サイズのからあげがコロコロ入ったやつとか、苦くてシュワシュワするのどごしのやつとか。
プシュッと開けて350mlに口をつけながら、コンビニ購入品を取り出して、机に並べていく。
からあげー、形ばかりの野菜スティックー、チンするドリアー、ロールケーキー、白くて無地の便箋ー。
そうだ、真ん中に生クリームが入ったロールケーキまで買ったのだ。大奮発だ。
シュワシュワがうまいな。
スマートフォンが鳴る。大学で、連絡を取り合うような友人はいないので、珍しいことだ。
親かなと思いつつ、画面に触れる。
ミハルちゃんからである。おお、初めてのことだ。もっと珍しい。
「はっしーから聞きましたー!正社員になるんすね!」
あんまり話したことはないけれど、ミハルちゃんは良い子なんだと思う。爪はクマくらい長いし、まつ毛はハンドルについてたあの虫の触覚みたいだけど、バイトはちゃんとしている。
やはり本が好きで「〇〇さんの新刊、マジやばいっすよ」などと、常連さんと話している。バイトを始めて半年足らずで、私以上にコミュニケーションを取っている。そもそも、私は取る気がないのだが。
「マジ尊敬です!」
「てか、」
「どうやったんすか?!」
ピコンピコンピコン。小分けにすな。
最後にはてなマークを浮かべたクマのスタンプが来て、ひとまずは、止んだ。
ってかクマ。爪はやはりクマを参考に?
「ありがとう。やらないといけないことをちゃんとやっただけだよ」
シュッ、送信。そのあとに、これは少し嫌味に聞こえるかなと不安に思う。何か緩和できそうなスタンプはあるのか、慌てて探しているうちに既読がサッと付き
「爆笑!」
「たしかにそりゃそうっすよね!」
という返事が来た。
ミハルちゃんは多分良い子だ、絶対に。
高橋さんにミハルちゃん、あと何人かいるバイト仲間。本が好きというだけの、わずかなつながり。
会話はあまりしないけれど、薄く繋がっているあの感じは心地よい。
雑誌に付録をつけて、新商品を並べる。
レジに立って、カバーをサッとかけて渡す。図書カードは、はじめは少し手間取ったが、それも1ヶ月もするとすっかり慣れる。
良い仕事。うん、多分好きな仕事。向いてる仕事。
正社員かー。
「…はははっ」
ワンルームに1人笑い声をこぼして、シュワシュワは飲み込んで、封筒を一枚取り出した。静かな夜だった。
「高橋さん、おはようございます」
「田中さん、おはようございます」
「正社員の話、ありがとうございました。考えました、嬉しかったです」
「じゃあ」
「辞めます」
「え」
「バイト、今日で辞めます。あ、正社員にもなりません」
「えっと」
「2年間ありがとうございました」
私がいつも借りていたエプロンは、洗ってアイロンをかけてきた。ロッカーの中にはそもそも何も置いていない。
ネームタグと、白い無地の封筒に書いた退職届をエプロンの上にそっと置き、スタッフルームを後にする。
さようなら、私の好きなバイト。
通用口をでると、また真夏の日差しが戻っていた。日によって涼しかったり暑かったり、安定しないな。
暗く涼しい室内から、眩しく熱い屋外に体のピントを合わせようとゆっくりとまばたきをする。これをしなければ歩けない。
ようやく歩みを進め始めた時に、後ろからハスキーなくせに若い声が追いかけてきた。
「田中さん!バイト、やめるんすか?!!」
「あ、ミハルちゃん。うん。ありがとうございました」
「なんで?!」
ピコン。あ、なんか通知聞こえる気がする。
「正社員やだったんすか?!」
ピコン。おお、現実でも小分けか!
「正社員断るから、気まずくてバイトもやめるんすか?!」
ピコン。うーん、そうじゃないのよ。
「はっしーはそんなこと気にしないっすよ!」
ピコン。だから、そこじゃないんだよな。
「てかうち、田中さんのクールでテキパキしてることかっこよくって好きです!だからやめるなんて、さみしいっす」
あ、意外。
ミハルちゃんがそう思ってることも、やっぱりめちゃくちゃ嬉しいことも。
ミハルちゃんが言っていることは分かる。それが、世間の常識であることも分かる。私がズレていることも分かる。
でも、この感覚を具現化して世間に合わせる方法は、まだ分からない。
「何でやめるんすか?!」
ダメ押しの通知。
「えっと。んー…。持ちきれないから?」
「持ちきれない?」
「大切なものが、多くなると。持ちきれない。一つ一つにちゃんと向き合いたいのに、その体力が足りなくなる。面倒になる」
ミハルちゃんは、高校生の頭をフル活動させて、私の放った言葉と向き合ってくれている。
それが、私にできないことなんだよな。
「この仕事も、バイト仲間も、好き。だから、これ以上深くなると、私は、向き合いきれない。きっと無理になる」
ミハルちゃんは考えこんで、クマの爪を噛みそうになって、すんでのところで辞めた。ギャルマインド恐るべし。
「わかりました」
ふと、別の場所から声が飛んでくる。
「あ、はっしー。聞いてたんすか!」
「盗み聞きすみません。田中さんの気持ちは分かりました」
「そうですか。分かってもらえたなら、それで」
「でも、田中さんは、今まで、充分に本屋の仕事もバイト仲間も大切にしてくれてましたよ。今までの田中さんだけで、もう充分すぎました。それだけは伝えておきますね」
「はあ」
「うー、私はまだ分かんないっすけど、田中さんは充分かっこいいっす。さみしいけど、お疲れ様でした!」
「はい。ありがとうございました。暑いんで、店内戻ってください。夏のイベントのポップの片付け、お願いします」
ぺこんと頭を下げて振り返ると、バスが見えた。
20分に1本のバス。たたたっと小走りで乗り込む。
そういえば、定期は作らなかった。持ちきれないから。
軽く息を整えて、汗を拭いながら、ガラガラの座席に座る。
なんだか涙がだらだら流れている。
「あーでもなんか。すっきりした」
もう見ることはない、いつもの帰路の景色にひとりごちる。