【入選】山本、誘拐される(著:山田結衣)


 月曜日。朝目を覚ますと、そこは助手席だった。知らない車だ。運転席には市役所総務課の同僚、(はら)()さんがいた。いつもの真っ白なブラウスに、(こん)色のスカート。普通ではない状況なのに、原田さんはごく澄ました横顔をしている。
「えっと、あの、すみません」
 とりあえず謝ってしまった。原田さんはほんの一瞬だけ僕に視線を走らせたけれどすぐにフロントガラスを見つめ、特になにも言ってはくれなかった。
「えっと。えーっと。すみません」
 もう一度謝ってしまった。ああどうして訳も分からず謝ってしまうんだ僕は。情けなさに身もだえすると、シートベルトの下でさらに手首と足首が(こう)(そく)されていることに気が付いた。鎖のようなもので固定され、動けない。急に重たさを感じる。ジャラジャラという音が耳にさわる。鎖の鉄くささが鼻につく。まだ夢の中という希望も少しだけ残っていたのに、どうやらこれは現実のようだった。
 逃げられない現実と悟った途端、人生で拘束なんて初めてされたぞまるで映画みたいだなとか、そういえばこのパジャマそろそろ(せん)(たく)しないとちょっとマズいんだよなむしろ買い替え時かないやでもこのくたっとした柔らかさがいいんだよなとか、思考がとっ散らかり始めた。我ながら素早い逃避行動だった。
「もうちょっとちゃんと物事と向き合ったほうがいいですよ。それと、パジャマは毎日洗ったほうがいいです。あと枕カバーも」
 正面を向いたまま、原田さんが言った。
「え?」
 僕はいま、なにもかもを声に出してしまっていたのだろうか。
「そうじゃなくて」
 原田さんの(まゆ)(じり)(あわ)れみがにじむ。
「私、読めるんですよ。人の心。宇宙人なので」
 宇宙人なので。冗談にしては、原田さんの表情は淡々としていた。冗談を言うときに助走をつけないタイプの人かもしれない。
 原田さんの眉尻の憐れみのうえに(いら)()ちも乗っかった。
「冗談を言うときは、きちんとこれは冗談ですよ、よかったら笑ってくださいね、という顔をしますよ。それが人間どうしのマナーじゃないですか。(やま)(もと)さんには難しいのかもしれませんけれど」
 いつもの(てい)(ねい)な口調のままだけど、言葉には明らかに(とげ)がある。いったいどういうことなのか。それにこの車はどこへ向かっているのか。分からないことだらけだ。
「あ。もしかして、これ、ドッキリですかね」
「違いますって。ただのガチです。ガチで山本さんのこと(ゆう)(かい)しています」
「ゆ、誘拐?」
「同意を取らずに連れ出しているので、誘拐という言葉が適切なのかと」
「その、誘拐ドッキリですか?」
「もう一度だけお伝えしますが、ガチです」
 ガチですと言われても。カメラを探してあたりを見回す。窓から見えるのは、市内でもあまり馴染(なじ)みのない道路だった。車通りも少ない。
「この車、どこへ向かっているんでしょう?」
「宇宙ですけど」
 原田さんの横顔は相変わらず(おお)真面目(まじめ)だ。だからといって、なるほどガチで誘拐で宇宙ですか、とはならない。原田さんは続ける。
「正確に言いますと、ここからしばらく走った先のスーパーヨコヤマの駐車場が、私の出身星から来る往復船の発着場になっているんです。なので、まずはスーパーヨコヤマへ向かっています」
「スーパーヨコヤマって、あの? おばあちゃんがひとりでやってる」
「はい。ヨコヤマのおばあちゃんも、私と同郷です」
「それはつまり、宇宙人ってことですか? ふたりとも?」
「そういうことになりますね」
 スーパーヨコヤマは、市の端っこにある個人スーパーだ。建物の大きさの割に妙に広い駐車場があるので印象に残っていた。あの駐車場は、宇宙船が離着陸するためだったということ? まさか。
「私たちの星は、資源が(とぼ)しくて。星で生まれた全員が全員、星で暮らせるわけではないんです。なので地球にも生活範囲を広げています。もちろん、地球人にはそうと分からないように」
「待ってください、僕にそんなこと教えてしまって良いんですか? そういうのって、普通、秘密なんじゃ」
「一般的にはマズいですが、マズくないから言っているんです。なんて言うんでしたっけこういうの。そう、(めい)()土産(みやげ)?」
 どうやら僕は、ピンチにいるのかもしれない。受け入れることができなくて、すがる気持ちでごく日常的な言葉を口にする。
「仕事は。原田さん、仕事は。今日、月曜ですよ。もう始業時間ですよね。僕もそうですけれど、原田さんも市役所へ行かないと」
「私は今週いっぱい、有給休暇なんです。前々から里帰りのために調整していて。引き継ぎも()れなく行ってきました」
「えっ、そうなんですか? あ、でも、僕は普通に出勤で。すみませんが、車から降ろしてくれませんか」
 身をよじってみる。手と足に巻かれた鎖はジャラジャラと音が鳴るだけで、解放される(きざ)しはない。シートベルトを外せたとしても、立ち上がることさえ難しそうだった。
「原田さん。すみませんけれど、お願いします。僕は仕事に、仕事に行かないと。無断欠勤になってしまいます」
「アルバイトの方がひとり無断欠勤したところで、誰も気にしませんよ。今どきの若者らしく飛んだのかなと思って、皆、舌打ちのひとつでもすれば忘れます」
「けど、でも、休むんだったら(おお)()(わら)部長にちゃんと申請しないと」
「あの決断力に富む大河原部長です。もう次のアルバイトを探して求人の手配を始めているかもしれません」
「そんな」
「それとも山本さん、ご自身を誰にも代え難い人材だとお思いですか?」
「思えませんけど、でも、その、社会人のマナーとして」
「勝負しましょうか」
 原田さんは車を路肩に停める。
「ジャンケンしましょう。3回連続で。1回でも山本さんが勝てたら、車から降りてもらっていいですよ。その()(じょう)(あし)(じょう)も外しますので、どうぞ仕事へ」
「ジャンケン? いまここでですか?」
「最初はグー。ジャーンケーン」
 原田さんの真っ直ぐな瞳に操られるように、僕は小さくグーを作る。手錠で動きが制限されている中でも、なんとかジャンケンはできそうだった。ポン。結果、僕は1回もジャンケンに勝てなかった。
「残念でした。宇宙行きからは逃れられませんね」
「どうして?」
「だから言いましたよね。私、人の心が読めるんです。宇宙人なので。山本さんが次になにを出すかなんて、丸わかりです。特に」
 原田さんはグッと僕に顔を近づけ、言い放った。
「特に気弱な人間の心は読みやすいんですよね。職場でいちばん心が読みやすいのは、山本さん、あなたです」
 そんな。なぜ月曜の朝から訳も分からず車に乗せられ、拘束され、ひどい言葉まで浴びなくてはならないのだ。
「たとえば大河原部長のように、しっかりとした人間の心は読みづらいんです。ある種、心にバリアのようなものがかかっているんでしょうね」
 大河原部長の生気に満ちた顔が浮かぶ。キリッとした眉に高い鼻。最年少で部長に就任。祖父と父の跡を継ぎ、彼自身政界に打って出るのも間も無くではないかと(うわさ)されている。僕も大河原部長のような人格だったならばと、何度夢見たことだろう。
 再び車は走り出す。僕の全身に恐怖が広がっていく。膝小僧の震えが止まらなくなる。
「ようやくですか」
 原田さんがクック、と小さく笑う。
「僕を宇宙に連れていくとして」
「いくとして、ではなく、いくんです」
「僕を宇宙に連れていくのは、どうしてですか。その、理由は」
「山本さんは、私の実家への手土産です」
「僕が? 原田さんの実家への、手土産?」
「はい。故郷へ帰るときには、その土地の名産品を持って帰りますよね。このあたりだったら、(じゅう)(まん)(ごく)まんじゅうとか、(さい)()(ほう)(せき)とか。山本さんは、それです。私が星に帰るときの、地球からの手土産」
「あの、それはつまり、僕は原田さんの星についたら、どうなってしまうんでしょう」
「山本さんは、十万石まんじゅうとか彩果の宝石をどうするんですか? まさかそのまま飾っておくとでも?」
 僕は里帰りというものをしたことがない。だけど想像はつく。これお土産、などと言って家の人に渡す。家の人は、ありがとうお茶でも()れようか、と言って、テーブルをセットし、お土産の包みを開き、そして、そして。いやまさか。それにそのまさかの事態になったとしても、僕は原田さんより背が高い。原田さんはわりと細めの女性だ。この車から降りられさえすれば、充分に逃げ出すチャンスはあるのでは。力の行使などしたことがないけれど、でも、これは、やらなければならないときなのでは。
「山本さん」
 原田さんがクイッと(あご)を上げ、僕にバックミラーを見るように促す。視線を移すと、バックミラーいっぱいに映る原田さんの姿は、いつもの原田さんとは違う、恐ろしく、巨大で、口は大きく裂け、歯は鋭くまるで牙。到底(かな)わない。捕食者だ。本能で悟る。真っ赤な瞳と目が合い、僕は耐え切れなくなり、意識が揺らいでいく。
「手土産として山本さんを選んだ理由は職場でいちばん孤独で、いなくなっても騒ぐ人がいないと判断したからです。大河原部長がいなくなったら大騒ぎでしょうけど山本さんなら、ねえ?」
 原田さんの声が、おぼろげに聞こえる。どうしてこんなことに巻き込まれているんだろう。ツイていない。だけどまあ、仕方がないか。妙な納得感がある。確かに、宇宙人に手土産にされるなら市役所の中で僕がいちばんふさわしいだろう。諦めて、目を閉じる。暗闇に包まれる。

 僕は生まれたときからすでにツイていなかった。3歳上に、成績優秀、スポーツ万能、そのうえ要領もよく、人気者の兄がいたのだ。両親の関心は当然、兄に集中した。兄弟なのになぜこいつはなにもできやしないのかという視線を常に感じた。だから僕は人生の割と早い段階で、小さく背を丸め、できるだけ目立たず過ごすことを決めた。そうすれば誰からも見られずに済んだからだ。そんなある日、グレるという(せん)(たく)()(とう)(とつ)に頭によぎり、入門しようという心もちでコンビニ前でたむろする不良たちのもとへ行ったことがある。不良たちに近づくと、にらまれた。怖くなってしまって、足早に通り過ぎて店内に入り、少しだけ立ち読みをして極力不良たちから遠回りして帰った。
 高校を卒業したらすぐに家を出て、それから一度も戻っていない。両親と兄の連絡先は知らない。
 誰も僕のことを知らない土地の市役所で、総務のアルバイトを始めた。それから5年の間、備品管理をして毎日を過ごしてきた。ある夕方、一日()(どう)した後のプリンターの側面を触ると温かいことを発見した。恋人はもちろん友人と呼べる存在もいない僕は、自分以外のぬくもりを感じることが新鮮で、思わず(ほお)をプリンターに押しつけた。すると、なぜだかぽろりと涙がこぼれた。慌ててワイシャツでぬぐったら、(そで)のボタンが(ほお)に食い込んで痛かった。
 出勤するのは月曜から金曜、たまに土曜も。大抵は薄暗い倉庫にいて、どの備品が足りなくなりそうか、逆に余っているのか、次に届く備品をどこにしまおうか。そんなことばかり考えている。たまに、月に2回か3回くらいは、自分の身体(からだ)が広がって、倉庫の(たな)を自分の手足のように感じられるときがある。市役所の正規職員の人たちから、ほらあれ名札を首から下げるヤツ30個ほど使いたくてどこにあるのそうそう首ヒモは青じゃなくて緑がいいんだけれど、と尋ねられたとき、素早くここですと示せると、とても気分が良くなった。
 正規職員の人たちは、僕の名前を覚えない。きっと彼、彼女らにとって僕も備品の一部なんだろう。誰にも視線を向けられないことは、居心地がいいこと。そのはずなのに、ごくたまに、プリンターで暖を取らずにはいられない日があった。僕という人間はここにいるんですよと、透明ではありませんよほら見てくださいよと主張したくなって、大声を出しても人に迷惑がかからなさそうな川沿いへ行ったことがあった。そのときも結局、いざ川を見下ろして立ってみると、周りに誰もいないのに恥ずかしくて大声を出せなくて、口の中で舌をモゴモゴとさせることしかできなかった。
 正規職員でたったひとりだけ僕の名前を呼び、話しかけてきてくれる人がいた。それが去年に中途入職してきた原田さんだった。原田さんが倉庫に備品を取りに来るたびに、少しずつ雑談を交わした。原田さんは僕のことをよく尋ねてくれた。山本さんはひとり暮らしですか。ご家族は。趣味は。お休みの日はなにを。僕に興味を持ってくれているのかと思っていた。もしかすると友人になれるのかも、いや、これはすでに友人なのでは。そう思っていたのに、まさか、地元の星への()土産(みやげ)にするための身の上調査だっただなんて。さすがにひどすぎるのではないか。
 神さま。生まれ変わったら僕は、兄や、大河原部長のような人になりたいです。周りの人からの期待を背負って、その期待以上に結果を出せる。派手で、かっこいい人でお願いします。過ぎた願いかもしれませんが、お願いします。
 そういえば僕が命を落とすのは、地球を出て、原田さんの星に着いた後になるのだろうか。その星の神さまが僕の願いに耳を貸してくれるといいんだけれど。それは地球の神さまより、難しい気がする。

 目を覚ます。(まぶた)を開くと、涙が(あふ)れた。知らない車の助手席にいる。えっと、そう、なんだっけ、ああ、原田さんにガチで(ゆう)(かい)で宇宙。だけど今、車は動いていない。もしや解放してくれるのだろうか。横を見る。
「赤信号なだけです。期待しないでください」
 原田さんは()()()だった。確かに十字路の直進信号が赤になっている。
「僕、もう諦めました。原田さんの手土産になること、受け入れます」
「手荒なマネが好きというわけではないので、助かります」
「いま、自分の人生を振り返っていました」
「感傷的ですね」
「いいことなんてない人生でした。いつもなんにもうまくいかなくて」
「私は故郷の星で、日本人のコミュニケーションや振る舞いについてよく学んでから地球へ来ました。結果、宇宙人でありながらも山本さんよりもよく社会に()()めているのではないか、と思っています」
「えっ。あの、僕の人生の振り返りも、原田さんに伝わっていたんですか?」
 原田さんは軽く肩をすくめた。
「私の星に神さまなんていませんよ」
 僕の取るに足らない人生を、ハイライトとも呼べないハイライトを、原田さんに見られてしまったのか。恥ずかしかった。けれど同時に、心の一部がふわふわと浮かんでいくのを感じた。これまでひとりで歩んできた人生を誰かに共有できたのが嬉しいのかもしれない。それが今まさに地球から連れ去られようとしている場面であっても。その(こう)(よう)感に引っ張られるように、息を吸い、声を出す。
「ひとつだけお願いさせてくれませんか。最後の地球になるなら、どうしても見ておきたい場所があるんです」
「寄り道ということですか? 無理です。スーパーヨコヤマに宇宙船が着いてしまうので。乗り遅れたら、また次の船まで(ずい)(ぶん)間隔があるんです。せっかく帰省用に取得した私の有給休暇5日間がパーになってしまいます」
「お願いします」
「無理ですって。大体山本さんに、なにか思い入れのある場所なんてあるんですか?」
「公園です」
「公園?」
「はい。こもれび丘公園。この交差点を右折して、公園の前を通っていってもスーパーヨコヤマへの到着時間はそう変わらないはずです」
 僕が最後に見ておきたいのは先週新しくできた、こもれび丘公園だった。この公園の建設には僕も関わっていたのだけど、まだ完成した後の様子を見られていなかった。
「山本さんが関わった?」
 原田さんがうさんくさそうに視線をよこす。
「アルバイトで備品担当の山本さんが、どうやって公園プロジェクトに関わるっていうんです?」
「どうやってって」
 公園プロジェクトの会議を行う会議室の電球を替えた。ホワイトボードマーカーが出なくなっていたので発注した。コピー機に詰まった紙を取り出すのに苦労して、両手が黒インクまみれになった。誰かが布張りの椅子(いす)にこぼしたコーヒーのシミを取ろうと二時間奮闘した。印刷を頼まれた図面を見ながら、完成後の公園に思いを()せた。
「それ、関わったって言いませんから。その程度で関わったと言えてしまうなんて、おめでたい人ですね。人間の中でも相当おめでたいです」
 僕の毎日を否定する原田さんに言い返したかった。けれどなにも思いつかない。原田さんの言うことが正しいように聞こえてしまう。
 原田さんが(いら)()たしげに人差し指でハンドルを叩く。
「長いですね、この赤信号」
「右折した方が早くスーパーヨコヤマに到着するんじゃ」
「最後に行きたいところに寄るとか、そういうサービスはないので」
「でも、あれ」
 直進した先の交差点でなにか事件や事故があったようだった。ちょっとした渋滞なのか、車の列ができているのが見えた。パトカーのサイレン音もする。その関係でこの赤信号も長くなっているのかもしれない。
 原田さんは舌打ちをして、ハンドルを右に切る。
「地球上でいちばんバカなことってなにか知ってます?」
「戦争とかでしょうか」
「渋滞ですよ。本当、バカの(きわ)み」
 やや細い道に入ると、左手にこもれび丘公園が見えてきた。全体に優しい空気が漂っている、いい公園だった。赤ん坊と母親がいた。赤ん坊の性別は分からない。小さな足で立って、よちよちと歩こうとしている。母親は我が子が転ばないように見守っている。なにか虫でも目の前を横切ったのか、赤ん坊が空を指さした。母親が笑った。母親の笑顔につられた赤ん坊も笑う。暖かい日差しがふたりを照らしている。どうか幸せにという祈りが、心の底から湧き上がってくる。
 こもれび丘公園は小さくて、すぐに通り過ぎてしまった。僕はシートベルトと()(じょう)(あし)(じょう)に押さえつけながらも首と腰を後ろにひねり、限界まで公園を見ていた。
 車はゆるやかに左折し、大きな通りに合流する。スーパーヨコヤマへ通じている道だ。先の方の空で、なにかが光った。
「あれは」
「私の星の船です。そろそろ着陸するようですね。この車は、あと10分もせずスーパーヨコヤマに到着します。そして、船が再び宇宙へ出発するまではあと30分。すべて時間どおりです」
 つまり、僕が地球とお別れするまであと30分か。不思議と気持ちは落ち着いていた。
「原田さんのご家族は、僕を見て喜びますかね?」
「それはもう。十万石まんじゅうや、彩果の宝石を受け取った人間並みに」
 喜んでもらえるのだったら、人生の終わりとしては悪くないかもしれない。原田さんの言うとおりだ。どうせ僕がいなくなっても、誰も騒がない。だって僕は、孤独だから。
 原田さんが鼻で笑った。
「山本さんって本当に気弱で、残念な人間ですね。まあ助かるんですけれど」
 車はスーパーヨコヤマに向かって真っ直ぐ進んでいく。市役所のことを思う。金曜に発注した模造紙20枚、(よう)(じょう)テープ1ダース、(しゅ)(にく)、ペットボトル水4ケースがそろそろ届く頃だ。誰かが代わりに受け取ってくれたかな。僕がいなくなっても市役所は忙しく回り続けるのだろう。時計はひとつのネジが外れると動かないというけれど、職場は僕ひとりが欠けたところでなにも変わらない。すると職場というのは、固体というよりもスライムとかヘコミがすぐ元に戻るような液体に近いのかなとか、また僕の思考は逃避を始めてしまう。
 ふと、車の進みがゆっくりになった。顔を上げると車の列がずっと先まで続いている。また赤信号だろうか。いや、違う。遠くに警察が見える。検問だろうか?
 ああああっ。
 なにごとかと思ったら、原田さんがいきなり大声をあげたのだった。人間の声というよりは、野生の(ほう)(こう)に近い。
「渋滞。また渋滞」
「きっとすぐ解消されますよ」
 (ゆう)(かい)される側の僕が、つい原田さんをなぐさめてしまう。こういうところに気の弱さが出る。
「それかUターンしますか?」
 しかし後ろにもすでに車の列が続いていた。
「こんなんじゃ船に間に合わない」
「大丈夫ですって、きっと」
 僕の言葉には耳を貸さず、原田さんは頭を抱え苛立ちの声をあげる。

 火曜日。僕は市役所へ出勤していた。
 結局、昨日は渋滞から抜けられず原田さんの故郷の船が出発する時刻に間に合わなかったのだ。原田さんは髪の毛を振り乱し、「どれだけ調整を重ねて有給を取ったと!」と、半狂乱の様子だった。職場ではいつも落ち着いた様子の原田さんだから、かえって人間味を感じた。原田さんは信じられないくらい乱暴に僕の(こう)(そく)を解き、()()ばすようにして車から降ろした。僕はパジャマに裸足(はだし)で家を目指して歩いた。途中で何回か泣いた。足が痛くて、心細かった。どうにか帰り着いた頃には、もう深夜だった。
 家にはなんと警察がいた。そして、大河原部長も。大河原部長はボロボロでぐしゃぐしゃの僕を見て目を見張ったけれど、すぐに「無事ならよかったんだ、山本くん」と言ってくれた。
 大河原部長は、定時になっても出勤してこない僕を心配してまずは緊急連絡先として登録していた携帯に電話を入れてくれたらしい。僕の携帯はずっと家にあったから、出ることができなかった。30分(ごと)に1回ずつ電話をかけ、3回かけても反応がなかった時点で、僕の自宅に向かってくれた。そして(かぎ)は開けっぱなし、携帯も財布も置きっぱなしの状況を見て、すぐさま警察に通報してくれた。警察は高名な政治家を祖父と父に持つ大河原部長からの通報を()()にすることができず、急ぎ検問をかけて僕の行方(ゆくえ)を探した。そして渋滞が発生し、僕は原田さんの故郷の星へ連れていかれずに助かったのだ。
 ご迷惑をおかけしてすみません、と謝る僕に、大河原部長はある言葉をかけてくれた。
 それはとても温かく、大河原部長からの信頼を感じる言葉だった。僕はもう、数えきれないほど泣いていたのだけれど、それでも涙が出てきた。この日いちばんの涙の量だった。いや、生まれてからいちばんかもしれなかった。大河原部長からすれば()(さい)な言葉だろう。けど僕にとっては、これまで歩んできた人生が丸ごと肯定されたような、そんな言葉だったのだ。
 大河原部長は驚きながらも「どうした」と笑って肩を叩いてくれた。
 警察には、朝起きたら知らない誰かに車に乗せられ、誘拐されそうになったと話した。僕がもう帰ってきていることもあり、警察はあまり興味なさそうに僕の話を聞いた。原田さんのことは伏せてしまった。宇宙人と言っても信じてくれなさそうと思ったし、なぜだか僕は原田さんのことを嫌いになれなかったからだ。ガチの誘拐で宇宙で()土産(みやげ)にされそうになったとしても。
 そして今日も、僕は備品倉庫にいる。
 朝、出勤しタイムカードを押すタイミングで、席にいた大河原部長と目があった。大河原部長が(うなず)いてくれたので、頭を下げた。初めて朝の(あい)(さつ)を交わすことができた。
 昨日届いた備品が、倉庫の入り口にまとめて置いてあった。誰かが受け取ってはくれたみたいだけど、それを所定の場所にしまうまではしてくれなかったようだ。よし、やるか。備品に手をつけようとしたとき、ドアが開いた。原田さんだ。
「おはようございます」
 昨日のことは夢だったのではないかと思うほど普通の原田さんだった。
「あの、原田さん、今週は有給のはずじゃ」
「大河原部長に、訳あって()(せい)が伸びたことを報告し、有給も時期をずらして取らせていただくことにしました。柔軟な上司ですね」
「ああ
 どうやら夢ではないようだった。
「ただ。次の手土産は山本さん以外にしようと思いますので、一応、ご報告を」
「えっ?」
「山本さんが(しっ)(そう)する日と、私の有給がまたしても重なると、大河原部長に関連性を疑われる可能性があります。なので、山本さんの次に気の弱そうな、そうですね、()()(がわ)さんとか、()(むら)さんとかを狙おうかと」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 原田さんは、これからも市役所で働く人を狙うつもりなのか。僕の口から、自然と言葉がこぼれ出る。
「ジャンケンしませんか」
「は?」
「ジャンケン。僕が勝ったら、もうこの職場の人は手土産にしないでくれませんか。僕も含めて。もし僕が負けたら、負けたら、僕のこと、手土産にしていいです。その、原田さんが帰省する前に、僕、仕事辞めるようにするので」
 原田さんは信じられないものを見る目つきになった。
「山本さん、手土産になりたいんですか?」
「なりたいわけではないですが。ただ、職場の人が原田さんの手土産になること、見過ごせないです」
「山本さんの名前も覚えないような人たちのためにご自身が身代わりになると?」
「僕がジャンケンに勝つかもしれないじゃないですか」
「勝てるわけがありません。昨日ご理解いただいたように思うのですが」
「1回勝負でお願いします」
「まあ構いませんけど、別に」
 原田さんは、思考を読み取るように僕の額あたりをじっと見つめる。
「最初はグー。ジャーンケン」
 グーにした手を振りかぶる。
 普段の山本くんの仕事ぶりからすると、連絡なしで休むタイプとは思えなかったから。
 昨日、大河原部長がかけてくれた言葉だ。この言葉が僕の心のバリアになる。原田さんが驚いた表情になる。
「ポン!」
 原田さんの表情は、(にが)(むし)()み潰したようなものに変わる。僕は満面の笑みを浮かべ、両手をあげ、叫ぶ。
「やった!」

【おわり】