鬼さんの夏休み

小さな靴箱が備え付けられた、コンパクトな玄関。
短い廊下の右手にはトイレ、左手には洗面台と浴室。
奥へ進むと四・五畳のダイニングキッチンがあり、簡易的な間仕切りの先には十畳の洋室と、申し訳程度に付いたベランダがある。
築七年。全六戸二階建てアパートの角部屋一〇三号室。高校生になった結良が、初めて親元を離れて一人暮らしをしている部屋だ。
この部屋の廊下に今、一人の勇敢な幼女が玄関扉に向かって仁王立ちしている。
「うた、鬼さんには負けないもん!」
子ども園に通う四歳のうたは、年の離れた結良の妹だ。血の繋がりはないから顔は似ておらず、大きな瞳が印象的なかわいらしい顔をしている。
その表情は今、まるで世界を守ろうとする勇者のように勇ましい。腰に当てた手には魔法のステッキが握られている。しかし、小さな両足は恐怖でぷるぷると震えている。
「ゆらぁ」
「何だよ」
「マメ、ちょうだい。鬼さんに投げたら、うた勝てる気がする」
今は七月下旬。節分じゃあるまいし。自分のベッドの横に子ども用の布団を敷いた結良は、やれやれとキッチンへ向かった。
うたは今、結良のアパートで「親公認の家出」をしている。今日はその初日。
夕飯を食べさせ、風呂に入れて、パジャマに着替えさせて。世話は順調に進み、これから歯を磨くところだった。
『家出なんて悪いことをしたら、怖い鬼さんに連れて行かれちゃうよ』
母親に言われた脅し文句を思い出したうたは、連れて行かれてたまるかと闘志を燃やし、鬼を退治するべく魔法少女に変身したのだった。
「ほら、豆だぞ」
「わぁ。えだまめだぁ」
冷蔵庫にあった、スーパーで買った塩ゆでの枝豆を渡す。さすがに炒った大豆の用意はない。
「これじゃない」などと言って口を尖らせるだろうと思っていたが、うたは喜んで枝豆を受け取った。
「いただきまーす!」
「食うのかよ」
渡した三莢の枝豆を、次から次へともぐもぐ食べるうたに呆れつつ、歯磨きの前でよかったと結良は思う。
「えだまめで元気いっぱい。これで鬼さんに勝てる!」
鬼と戦う前の腹ごしらえを終えたところで、玄関の呼び鈴が鳴る。
「ぴぇぁぁぁぁぁぁ!」
刹那、うたは悲鳴をあげながら脱兎のごとく奥の部屋へと逃げ込んだ。
こんな時間に誰だろうと結良が扉を開ければ、隣の部屋と間違えた配達員だった。お世辞にも愛想がいいとは言えず、身長百八十センチ以上の長身の結良を前にして、小柄な中年配達員は少々怖気付いた様子で腰を低くし、すみませんと何度も詫びながら退散していった。
結良が部屋へ戻ると、うたは大きなクマのぬいぐるみに抱きついて泣きながら震えていた。部屋の隅で逃げ場を失い、それでも恐怖から逃れようと必死になってクマの首にしがみ付いている。心なしかクマは苦しそうだ。
「おい、うた」
「鬼はそとぉぉぉぉぉ!」
鬼が来たと勘違いしてパニックになっているうたは、クマの後頭部に顔をうずめたまま枝豆の莢(中身はない)をぶん投げた。
「誰が鬼だ」
結良はうたの足元に落ちた莢を拾い、ゴミ箱に捨てる。
「落ち着け。鬼は来ない」
結良も幼い頃、母親の脅しに震え上がっていた記憶がある。怯えているうたを見れば効果てきめんだが、無垢な子どもの恐怖心を煽るのはどうかとも経験者の立場から思う。
「……ほんと?」
そっとクマから顔を上げるうた。
鬼なんて実在しない。真実を明かしてやろうと思ったが、やめた。
絵本や童謡、意外と子どもの身近なところに鬼はいて、節分行事にも鬼は欠かせない。そんな鬼が全部偽物だと知ったら、うたは混乱するかもしれない。小さかった頃、信じて疑わなかったサンタクロース。その正体を巧妙に隠していた父親と母親の、我が子の夢を壊すまいとする気持ちと当たらずも遠からず、かもしれない。とにかく余計なことはしないでおこうと結良は考えた。ただ、ここからどうごまかそうか。
「…………鬼も、夏休みだからな」
鬼の夏休み。
白い砂浜に開いたパラソルが涼しい日陰をつくり、青い空の下をビニールボールが飛ぶ南の島のビーチで、バカンスを楽しんでいる強面の鬼達。
そんな光景が脳裏に浮かんでしまう自分に、結良は内心ひどく呆れていた。
なにを言ってるんだ、俺は。さすがのうたでも、こんな子ども騙しには乗らないだろう。
「そっかぁ! 鬼さんも夏休みなんだぁ!」
目に浮かんでいた涙がとたんに引っ込み、心底安心した様子のうたに笑顔が戻る。
「鬼さんの夏休みって、どんなかなぁ」
「……さぁな」
「あのね、きっとね、オネガシマスの海で、みんなで遊ぶんだと思う!」
「……オネガシマスじゃなくて、鬼ヶ島な」
四歳児と考えることが一緒だった自分を密かに恥じながら、結良はごまかせたことにホッとする。
「いいなぁ。うたも、夏休みしたいなぁ」
結良の学校が夏休みの間も、うたは通常どおり子ども園へ通わなければならない。
「もし夏休みがあったら、うたはなにがしたいんだ?」
結良の夏休みの過ごし方といえば、空調が効いた涼しい家からは極力出ず、ずっと一人で本や漫画を読んだりゲームをしたり、あとは思う存分昼寝を満喫する。これ以上に楽しい夏休みはないだろうと思っている。
「えっとね、えっとねっ」
瞳をキラキラ輝かせてうたが答える。
「いっぱい遊んで、それからぁ、いっぱい食べる!」
「いつもと同じじゃねぇか」
結良に言われて気づいたのか、うたはきょとんとした顔で「ほんとうだぁ」と驚いてから、「ししし」と嬉しそうに笑う。
「でもね、同じじゃないよ」
眠たいのか、目をこすりながらうたは続ける。
「だって、ゆらがいるもん!」
えっへんと胸を張り、なぜか得意顔のうた。
「ゆらも、うたがいるから、同じじゃない夏休みだね」
「……そうだな」
不意に結良の脳裏を過ったのは、夏休みの宿題だった一枚の絵日記。背が急激に伸び始めた十歳の頃に書いた。二学期が始まると、教室の後ろに全員分の絵日記が張り出された。
花火や祭り、プールや海。色彩豊かな絵日記のなかで、家のテレビを描いた自分の絵は浮いていると結良は自覚していた。
動物園、水族館、遊園地。仕事が休みのたびに母親は結良をどこかへ連れて行こうとしたが、「暑い」「興味ない」「乗りたくない」と正直に答えてそれらを拒否した。だから母親が休みの日はよく家のテレビで一緒に映画を観ていた。
映画を観るのは楽しかったし、いつも自分のために忙しくしている母親が、隣でゆっくり過ごしている姿をチラリと盗み見ては安心していた。つまらない、退屈な夏休み。周囲からそう言われても、心安らかに好きなことをして過ごしていた結良は満足していて、全く気にならなかった。
一人でもいい。予定がなくてもかまわない。
だけど今年の夏休みは、うたがいる。
少しだけ、体内のどこか隅っこらへんで、喜んでいる自分がいることに、結良は気づいている。
クマのぬいぐるみと一緒になって布団に横たわる、うたの寝顔を見ながら結良は思う。
うたの家出で、来たのは鬼じゃなくて福だった。かもしれない。
「……あ。こら待て。まだ寝るな。歯を磨けよ、おい」
【おわり】