とある男の甘味手帖

そのホテルは、異国情緒がただよう横浜山手の一角に建っていた。
「ここがホテル猫番館か……」
六月の初旬。足を止めた各務恭史郎は、赤茶色のレンガでつくられた英国風の西洋館をまじまじと見つめた。
二階建てのため高さはないが、そのぶん横に広がっている。おそらく明治か大正時代に建てられたのだろう。重厚かつクラシカルでありながら、当時の華やかな雰囲気も感じられる。外観ひとつとっても、近代的なビジネスホテルやシティホテルとは違う、独特の魅力にあふれていた。
(こんなところにホテルがあるなんて知らなかったな。月に一度は来てるのに)
甘味処を併設した菓子工房「ことりや」は北鎌倉にあるのだが、注文品の配達は市外でも請け負っている。山手のお屋敷街にも顧客がおり、恭史郎が毎月、職人の羽鳥一成がつくった季節の和菓子を届けていた。
一年ほど通っているけれど、ここに洋館ホテルがあることははじめて知った。大通りに面しているわけではないし、顧客の家のそばでもないから気づかなかったのだ。
猫番館のことは、甘味処でバイトをしている大学生、高瀬陸が教えてくれた。なんでも姉がパン職人、叔父がパティシエとして、このホテルで働いているらしい。パン好きの恭史郎にとっては耳よりの情報だ。ぜひとも陸の姉が焼いたパンを食べてみたくなり、仕事が休みの日にここまでやって来た。
(とりあえず中に入ろう)
恭史郎は扉を開けて、館内に足を踏み入れた。シャンデリアに深紅の絨毯、飴色の調度品に、階段の踊り場にはめこまれた、薔薇をモチーフにしたステンドグラス。外観から想像した以上に雰囲気があり、洋画の中にでも入りこんだかのような気分になる。
ロビーを興味深く見回していると……。
「ニャー」
「ん?」
視線を落とすと、足下には長毛の白猫がいた。一成が可愛がっている三毛猫たちよりも体が大きく、毛並みもいい。金と青のオッドアイが神秘的な、貴婦人のような美猫だ。猫番館と屋号がついているくらいだし、ホテルの看板猫が挨拶しに来てくれたのだろうか。猫好きにはたまらないサービスだ。
「ニャー、ニャ、ニャー」
猫番館へようこそ。なんとなく、そんなことを言っているような気がした。猫の言葉はわからなくても、歓迎の意は伝わってくる。
(賢いうえに仕事熱心な猫だなぁ)
長い尻尾を優雅に揺らしながら、白猫は恭史郎を先導してフロントに向かった。薔薇の花が飾られたカウンターの内側で、眼鏡をかけた若い男性スタッフが上品に微笑む。
「いらっしゃいませ」
「すみません、このホテルでパンを売っていると聞いたんですけど……」
「はい、あちらの通路の先にある喫茶室で販売しております。お泊まりのお客様でなくてもご利用いただけますので」
「あっちですね。ありがとう」
「開店したばかりですから、人気商品の黒糖くるみあんパンもございますよ。よろしければぜひご賞味ください」
(黒糖くるみあんパンだって?)
恭史郎の眉がぴくりと動いた。なんて魅力的な響きだろうか。和菓子を取り扱っている店の者として、あんこを使ったパンは無視できない。その名を心に留めながら、恭史郎はフロントをあとにした。
教えられた通りに通路を進み、喫茶室のドアを開けると、ゆったりとしたジャズの音色が聞こえてきた。店内はレトロな純喫茶のような内装で、カウンターの奥の棚にはさまざまな色柄のカップがコレクションのように並べられている。まだ開店して間もないが、すでに何人かのお客がいた。
マスターらしき男性は電話中だったが、恭史郎に気づくと会釈をしてくれた。窓の向こうには薔薇が咲く庭園があり、外のテラスでお茶を飲むこともできるようだ。
(よさそうな店だな)
薔薇にはあまり興味がないけれど、店内の雰囲気は自分好みだ。落ちついて過ごせそうだし、パンを買うついでに珈琲でも飲んでいこうかと考えていると―――
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」
ふいに声をかけられて、恭史郎ははっとして視線を移した。
「お好きな席にどうぞ」
笑顔でそう言ったのは、ひとりの若い女性だった。年頃は、家事代行で花桃屋敷に出入りしている秋月都と同じくらいだろう。白いコックコートに身を包み、臙脂色のタイとエプロンをつけている。初対面なのに既視感がありすぎる彼女の顔を見たとたん、恭史郎は思わず「あっ」と声をあげた。
「陸くんのお姉さん?」
「え?」
「ああ、いきなり失礼しました。うちでバイトをしている学生さんと、顔がよく似ていたもので。彼からお姉さんがこのホテルでパン職人をしていると聞いたんですよ」
恭史郎が説明すると、戸惑っていた彼女の表情がぱっと明るくなった。
「もしかして、『ことりや』の方ですか?」
「ええ、そうです」
「やっぱり!」
声をはずませた彼女は、「いつも弟がお世話になっております」と頭を下げる。陸本人も言っていたが、ひと目でわかるほどそっくりだ。よく見ればマスターらしき男性とも似ているので、彼が叔父なのかもしれない。
「ご来館ありがとうございます。わたしも以前、『ことりや茶房』に行ったことがあるんですよ。桜餅をいただいたんですけど、上品な甘さでおいしかったです」
「それはよかった。職人に伝えておきます」
パンを買いにきたことを伝えると、彼女は嬉しそうに目を輝かせた。
「そのためにここまでいらしてくださったんですね。クロワッサンは焼きたてですよ。朝食向けのホテルブレッドや、菓子パンのご用意もございます」
「お姉さんのおすすめは?」
「黒糖くるみあんパンです!」
彼女は迷うことなく即答した。フロントのスタッフも人気だと言っていたし、このホテルの看板商品なのだろう。
「中に入っているこしあんは、北海道産の小豆を炊いた自家製です。生地に練りこんだ黒糖の風味を引き立たせるため、甘さを調整しました。乾煎りしたくるみの香ばしさとも合うようにしています。いつも夕方前には売り切れてしまうんですけど」
「なるほど。だったらいまのうちに買っておこうかな」
案内されたレジカウンターのそばには、要冷蔵のケーキが保管されているショーケースと、パン用の商品棚が置いてあった。どれもおいしそうで迷ってしまう。
(明日は都ちゃんが来るから、あんパンは一成くんも含めて三人分……いや、茶房の営業日だし、瑠花ちゃんと陸くん、まりちゃんも来るのか。ということは六人分?)
考えた末、恭史郎は黒糖くるみあんパンを五つ購入した。瑠花の娘のまりなはあんこが苦手なので、アプリコットのデニッシュにしておいた。朝食用のクロワッサンと、角食パンも一斤買っておく。ほかのパンも気になるけれど、次の楽しみにとっておこう。
「お買い上げありがとうございます」
「せっかくなので、ここで少し休憩していきますよ。喉も乾いてきたし、この香りにはあらがえない」
恭史郎が言うと、近くで珈琲を淹れていたマスターがにやりと笑った。
カウンター席に腰を下ろした恭史郎は、マスター一押しのオリジナルブレンドと、これまたおすすめだという小倉トーストを注文した。ちょうど小腹がすいていたし、甘いものでひと息つくのもいいだろう。
しばらくすると、トースターのほうからパンが焼けるいい匂いがただよってきた。マスターがサイフォンで淹れた珈琲をカップにそそぐと、芳醇な香りが立ちのぼる。
「お待たせしました」
恭史郎の前に置かれたのは、深みのある色合いの珈琲で満たされたカップと、小倉トーストを盛りつけた白い皿。ほどよい焦げ目がついた食パンの上には、たっぷりのあんことバターが載っている。熱で溶けはじめたバターがよりいっそう食欲をそそった。
「小倉あんも自家製ですが、あんパンの中身とは製法が違いましてね。こちらはこしあんに大納言小豆の蜜煮を混ぜたので、形がほぼそのまま残っています」
「いいですねえ。おいしそうだ」
「パンはもちろん、うちの姪が焼いたものです。冷めないうちにどうぞ」
「では、いただきます」
恭史郎は厚切りのトーストを手にとり、大口を開けてかぶりついた。
外側はカリッと、中はふんわり。リッチできめ細やかな食パンだ。大粒の小豆を贅沢に使った小倉あんの上質な甘さと、とろけたバターの絶妙な塩気。それらがみごとに調和して、風味豊かな味わいを生み出している。酸味のあるオリジナルブレンドとの相性も抜群で、ミルクを加えても美味だった。
(これは……やみつきになりそうだ)
静かなジャズに耳をかたむけながら、恭史郎はほうっと息をついた。甘味処もいいけれど、たまにはこんな店でゆったり過ごすのも悪くない。自分はまたここに来るだろうと確信しながら、恭史郎はカップに残っていた珈琲を飲み干した。
【おわり】