うさ耳キャスケット【後編】

夕方のサンプリングというのは学校や仕事帰りの人たちをターゲットとするものだが、ここは表参道という場所柄、終業後に買い物や食事に向かう、比較的若い成人層に狙いを定めている。行き交う人たちにとってはまだ、今日という一日は折り返し地点を過ぎた辺りなのだろう。
代理店やクライアントと合流し、商業ビルの一室で着替えをすませた女の子たちが、明るいながらも夕方の気配が漂いはじめた歩道でサンプリングを始めた。
今日の衣装は薄紫のノースリーブワンピースで、白のハイヒールは各自で持参したものだ。衣装によっては揃いのブーツが支給されたりもするが、黒と白のパンプスは必需品としてみんな持っていて、自前のことが多い。
商品が香水というだけあって、ワンピースのデザインも洗練されている。体にフィットして女の子たちのスタイルの良さを際立たせながらも、清潔感があっていやらしい感じはしない。そして、きれいなのは彼女たちの容姿だけではない。姿勢、物腰、笑顔、声。イベントコンパニオンはクライアント企業の顔として接客するため、どのお客様に対しても好感を与えるのが第一の使命なのだ。
――どの子も、すごくがんばってる……。
負けてはいられないぞ、と思う時、同時に励まされているような気持ちになる。
誰かの懸命な姿を見て、強く優しく背中を押されている気がする瞬間が、樺子は昔から好きだった。
二人で連れ立って、少し離れた場所からみんなの仕事ぶりを見ていたが、最初に休憩に入るメンバーに緋崎から事務所の差し入れを渡してもらうことにした。いつも差し入れをするわけではないが、今は樺子自身も株を上げたい。用意しておいたのは、手がべたつかず、すぐに食べないなら持って帰れる、一口サイズで個包装のマカロンだ。
「高森さん」
緋崎の呼びかけに振り向いたのは、兄が〝ホープ〟と称する一人だった。
「呼び捨てでいいよ。彩華って呼んで」
彼女はモデル事務所に入っていたこともある超美人で、女性でも見とれるくらいきれいなのに性格はさっぱりと親しみやすく、樺子も下の名前で「彩華さん」と呼ばせてもらっている。二十六歳だから、緋崎よりは二つ年上ということになる。
「じゃあ……」
一瞬だけ考えて顔を上げた緋崎は、迷いのない目で静かに言った。
「高森、これ、よかったらみんなで食べてください」
「え……」
キョトンとした後、高森本人を含め、周囲にいた数人が噴き出した。
「緋崎さんてなんか、ちょっとズレてておもしろいかも」
ちょっとなもんか。この人ホントは、歯ブラシを鼻の穴に突っ込むくらいズレてます。
一人だったら額に手を当てて深いため息をつくところだが、なんとかこらえた。
事務所では、緋崎との会話が嚙み合わないこと数知れず。この〝コミュ障〟に一時でも女の子たちとの人間関係を構築することができるだろうかと心配していたが、実際に会ってみると、嚙み合わないなりに不思議な何かが成立するようだった。
そろそろ帰ろうかと思っていた矢先、所属の女の子たちの中では樺子と一番仲がいい西澤まりえが休憩に入るタイミングで声をかけてきた。数少ない年下で、この春事務所に登録したばかりの十九歳、大学一年生。初めて会った日からなぜか懐かれ、現場で話すだけでなく、樺子がいる時にはちょこちょこ事務所に遊びに来たりもする。
「樺子さん、こっちこっち!」
女の子たちは樺子の兄を「社長」ではなく「中条さん」と呼んでいるので、苗字が同じ樺子は混同しないよう「樺子ちゃん」と呼ばれることが多い。手招きされ、緋崎を残して一緒に休憩スペースに入ると、座面をトントンと示され、パイプ椅子に座らされた。
いつも明るく謎のパワーに満ちているまりえは、少し強引なところがあるがどうも憎めない。ハイヒールを脱いで足の指先を解放した彼女は、向かいの椅子から身を乗り出すようにして樺子を覗き込んだ。
「新しいスタッフを入れたってことは、中条さん、相当悪いんですか? 生死の境をさまよっちゃってるカンジです?」
「今のところ明確に〝こちら側〟にいるわ、おかげさまで」
笑顔と苦笑の中間。もし本当にシリアスな状況だったら、そんな訊き方絶対にアウトでしょうに。しかし、悪い子ではないのだ。集合した時点ですぐに言ってこなかったのは、他の子たちを気にした彼女なりの配慮なのだろう。ここなら先に休憩に入っていた子が一人いるきりだ。
「よかったー。でも正直、中条さんの代理って大変でしょう? 樺子さん、いまひとつ要領がよくないですもんねー。いや、そこがよさでもあるんですよ? 裏表なく、誰にでも公平に博愛精神で接するのは、みんなも感じてる樺子さんの美徳であり、魅力です。でもねぇ……」
この妹キャラは、よくしゃべる。そして、わりとはっきりとものを言う。
「樺子さんて、ちょっとぽやぽやしてるとこあるじゃないですかー。怒るイメージないし、ちょっとなめられちゃうのもわかる、っていうか」
まりえちゃん。「ぽやぽやしてる」で本人に同意を求めるのは、いかがなものだろうか?
しかし投げるだけ投げてこちらの反応には目もくれず、まりえはさっさと話を替えた。
「でも新しく入った彼、とっつきにくいけど嫌いじゃないかも」
それって「でも」でつながるのか? と思ったが、まりえのこの言葉に、マカロンを物色していたもう一人も椅子を寄せてきて同調する。
「いい、いい。イケメンなんだけど、ちょっと陰があるカンジしない?」
「ですね。でも笑うとかわいい、みたいな」
「あの俳優に似てない?」「あ、全体的な雰囲気がですよね。わかりますー」
〝かわいい〟笑顔が盛り上がっている彼女たちに向けられたことはない気がするが、女の子に媚びるでも照れるでもなく、別のところに行動基準がある男性というのは、彼女たちにしてみればむしろ新鮮なのかもしれない。
休憩時間に仲のいい子と一緒になると、女の子同士の本音が弾ける。一番多いのはやはり恋愛の話で、二股をかけたりかけられたり、新しい彼氏ができたり別れたり。顔を合わせる度に何かしら動きがあるので、話題にはこと欠かない。相談や愚痴の後に平気でプチ自慢やのろけ話が続き、見栄や自己憐憫が赤裸々に入り乱れる不思議な閉鎖空間は、女子校の休み時間とちょっと似ているかもしれない。
「身長がどうこう言うなら、書類の段階ではじけっての。わざわざオーディションに呼びつけて落とすの、なんなわけ⁉」
やがて話題は、少し前のオーディションに移っていった。
まりえに合図して休憩所を後にすると、さっきまで濃い影ができるほど明るかった外が、すっかり様相を変えていた。空はまだいくぶん明るいが、日の光の届かなくなった街並みに店舗の華やかな照明が輝いている。
何はともあれ、第一関門は突破したようだ。
樺子はこちらを向いた緋崎に向かって、『待たせてごめん』と小さく手を合わせた。
*
自分がここに来たことに、果たしてどれほどの意味があったんだろうか。
〝不可避〟とまで言われた業務にしては、あまりに内容が薄い気がする。この業界ならではのしきたりでもあるのか……? 疑問を抱えた緋崎がいいかげん手持ち無沙汰でうんざりしていると、ようやく樺子が戻ってきた。
「じゃあ、帰りましょうか」と言って樺子が足を向けたのは、駅ではなくて広告代理店とクライアント企業のおじさんたちが並んで立っている方だった。ひと声かけるつもりだと理解して後に続いた緋崎だったが、ふいに後ろから聞こえた『声』に思わず振り返った。
――痛い! む、胸が……苦しい……。
歩道の数メートル後ろで足を止めた高齢の男性が、顔を歪めてしゃがみ込もうとしているところだった。
心臓発作だ。男性は一人で、持病などを知っていそうな連れはいないが、まず間違いない。反射的に駆け寄った時には、緋崎はすでにポケットからスマホを取り出していた。
救急車は五分ほどで来た。幸い男性は意識を消失することもなく運ばれていったが、「しかし素早い対応だったな」とクライアントのおじさんにバシバシ肩を叩かれて閉口した。
「いや、私もあのおじいさんがしゃがむところを見てたけどね、すぐには何が起きたかわからなかったよ。きみの判断力は素晴らしいな」
たしかに、状況だけを見て判断するより、対応がワンテンポ早かったかもしれない。しかし心臓の異変は一秒を争うかもしれず、自分の不自然さまで気にする余裕はなかった。
「あの……知人が同じようになったことがあるので……」
なんとかごまかしたが、やはり周囲に人が多ければそれだけいろいろなことが起こる。
相変わらずのほほんとした顔の樺子までが頬を紅潮させて「大活躍でしたね」などと興奮しているが、こういう非常時ほど、本当は注意が必要なのだ。
気をつけないと。誰かに『おかしい』と思われないように――。
*
事務所への帰り道、すっかりげんなりしている緋崎を見て、樺子は考えていた。普段家にこもっている(しかも〝人間嫌い〟の)人が急に人口密度の高いところで過ごして疲れてしまったのだろうか。それとも平気そうに見えたが、救急車の大きな音が彼にはやはりつらかったのだろうか。今後のためには確認しておいた方がいいのかもしれない……。
しかしどうやら、彼の苦痛の原因は別のところにあったようだ。
「それにしても臭かった。あの人数が一度に集まると、やっぱりキツイ」
「……臭かった? あ、緋崎さん、香水とか苦手でした?」
すでに赤坂見附で電車を降りたところで、ここまで来ればクライアントや関係者の耳に入る心配はない。
「うーん。香水そのものっていうより、いろんな匂いがいっぺんに混ざってるのが嫌。香水だけならそれはそれで構わないけど、なんの匂いだかわからないものがぐちゃぐちゃに混ざってると、だんだん頭痛くなってくる。あの人たち、なんで扱うのが香水だってわかってて、他にもなんやかんや匂い付けてくんのかな」
どうやら緋崎にとっては香水のみならず、化粧品やヘアオイル、ハンドクリームまで、いい香りがひしめき合っているのがむしろ「臭い」ということになるらしい。
「緋崎さん、〝人間〟全般が好きじゃないとしても、やっぱり特に女の子のこと、苦手にしてません?」
「だって若い女なんて、ジコチューの最たるものじゃん。『ちやほやされたい』っていうむき出しの承認欲求にこっちは胸やけがするほどなのに、本人たちがケロリとしてるのがなおさら怖いよね。でもまぁ、言動と内心で考えてることがまったく違う人よりは、正直なだけまだましかもしれない」
こちらから訊いておいてなんだが、樺子の口からは「はぁ」という間の抜けた相槌しか出なかった。どうしてそんなに人が嫌いになってしまったんだろう。何かきっかけがあったのかな、と思うものの、訊いたところで教えてくれるとは思えない。とにかく彼にとっては、女の子たちの放つ香りはプンプンと撒き散らされる〝自意識〟の象徴なのかもしれない。
「……匂いはともかくとして、わたしは自分の欲求に真っ直ぐな彼女たちが好きですけどね。認められたいし、愛されたいから、そのために必死に努力してるんですもん。健気だと思います」
自分で言いながら、なんだかふと新鮮な気持ちになる。そんな風に感じていることを、今まであまり自覚していなかった。「女の子」に自分も入っているのにこんな風に言うのはおためごかしかもしれないが、内側にいるからこそ知っていることもある。理想の自分に近づくために、何かを我慢したり、自分にノルマを課したり、追及したり。水面下で努力を継続するのは、決して簡単なことじゃない。
しかし、ものすごく冷ややかな視線とともに、言葉でもピシリとはねつけられた。
「価値観の相違。相容れない。どうせどこまで行っても平行線だから、ぼくを説き伏せようとかいう、無駄なうえに迷惑なことはしないでよね」
まったく、切り返しにいちいち棘がある。一事が万事この調子では、先が思いやられるというものだ。もうすぐ事務所に着くが、この際だから言わせてもらおう。
「……あのー。できればもう少し、穏やかで円滑な人間関係を目指すことはできませんか? 他の子たちに対する態度を見るに、多少は加減というものをご存じのようですから、わたしへの当たりももう少しお手柔らかにお願いしたいんですけど」
「あんたは機嫌を損ねちゃいけない〝商品〟じゃない。人の弱みにつけこんでぼくを利用してる、ただの雇用主」
人の顔を指さすな。それに、「弱み」⁉ こっちは条件を提示しただけだっつーの。
むっとした内心を表に出したものか迷う樺子に、緋崎は平然と追い打ちをかける。
「だから、あんたの前でまで愛想よくする必要ないでしょ。仕事はちゃんとしてるし」
「だから」って何? なぜ雇用主(の、正確には代理)をこき下ろすのが当然な流れ⁉
だいたい、女の子たちへの接し方は、あれで〝愛想がいい〟つもりだったのね……。
荒い鼻息を繰り返すうちに、プシュウ、と体から力が抜けていく。ダメだ。この人に何を言ったところできっと届かない。だったらもう、こちらが諦めた方が早い。
顔はいいんだけどね――。欠けているもの、〝常識〟と〝愛想〟。
……人間社会のつながりにおいて、致命的やないかーい。
自分でツッコミを入れ、樺子はついに大きなため息をついた。
「現場に行くのはせいぜい二、三回」……。
その中の一回を、緋崎はスーツに身を包み、展示会の現場で〝スタッフ〟として働くことになってしまった。表参道で香水のサンプリングをした時のクライアントさんが緋崎のことをすっかり気に入ってしまい、ぜひにと請われての出陣だ。
イベント名は『ビューティートレンドEXPO』。会場は去年日比谷にできたばかりの高層複合施設『ミッドバリュー』の展示ホールで、都内の屋内イベント会場としてはかなり大きい方だ。土日の二日間のみだが、マスコミの取材なども入る予定で、それなりに注目度が高いと聞いている。
美容系のイベントらしくきれいな女の子たちが立ち並ぶ中、女性向け商品のコーナーに見栄えのいい男性を配置することができたら、それはもちろん、ポイントが高い。
アールユー・クリエーションは基本的に女性スタッフの派遣しかやっていないのだが、間に入っている広告代理店さんは言わばうちのお得意さんだし、「なんとかならないか」と言われたら、あまりすげなく断るのも気まずい。電話の向こうの声からは『急で悪いけど』と言いながらも『今回だけでいいから』と、押し切る気満々の強めの圧を感じた。
無理強いはできないがと思いながらその場で本人に確認すると、近くにあった『バーニングエイム』のブックエンドをビシッと指さしてうなずいた。どうやら話の流れに感づいてすぐ、どれにしようか交渉のネタを選んでいたようだ。
緋崎とは事務所で合流することになっていたので、約束の時間より少し早めに着いて、別件をいくつか片付けておく。今日はメンバーをブースに送り出した後で樺子も一日会場を見て回るつもりなので、先に済ませられることはなるべくやっておきたかった。
朝のまだ早い時間帯に事務所に現れた緋崎は帽子をかぶっておらず、それだけでもだいぶ新鮮だった。今日はスーツなので、前に言っていたイヤホンの装着をお願いしてある。
ちょっと調べてみたところ、『ノイズキャンセリングイヤホン』というのは電車の走行音などの低いノイズだけを低減し、会話や周囲の音は拾うようになっているらしい。耳栓とは違うので突発的な物音は消してくれないように思うのだが、やわらぎはするものなのか、聴覚過敏の対策としてわりとよく使われているようだ。クライアントには樺子から事情を説明し、すでに了解をとってあった。
服装も、スーツだと全然印象が違う。いつもはゆるめで体のラインを拾わない服ばかりだが、今着ているスーツは細身のジャストサイズだ。服がダボっとしていると相対的に華奢に見えるが、実際は肩幅のしっかりした成人男性なのだとわかる。
「あれ、ネクタイ……」
「持ってきた。兄が不在で頼めなかった。ぼくは結べない」
スーツを持ってはいるものの、在宅ワークではほとんど着る機会がないのだろう。
樺子の兄は、会社勤めのサラリーマンでまだ実家にいた頃、手の指を骨折したことがある。しばらくの間は樺子がネクタイを結んであげていたので、たぶんまだ覚えている。
できることはできるが……。いかんせん、兄と緋崎では顔面偏差値に雲泥の差がある。向かい合ってネクタイを結ぶのに、こんなに緊張するなんて。これだけ顔が近いと、むしろ見るに見れない。
近いといえば、至近距離で見て気になることが……。
「あの、その髪って、もうちょっとなんとかなりますか?」
せっかくのスーツに、いかにも洗って乾かしただけの〝無造作すぎ〟ヘアがもったいない。カットは美容院でしているのだろうが、普段は帽子をかぶってしまうのであまりセットらしいセットをしないのかもしれない。
「その言い方だと、今のぼくの髪の毛はなんとかなってないように聞こえるけど」
「ええと、帽子がないと、ちょっとごまかしが利かないというか……」
「心外だな。べつにごまかしてるつもりないし、これで困ったこともない」
気分を害したというよりは、ムキになっているように見える。
もしかしてこの人……無頓着なわけじゃなくて、不器用なんじゃ……。
「もしですよ、もしよければ、わたしがほーんのちょっとだけスプレーとかで整えてみてもいいですか?」
一拍……二拍。「うん」と素直にうなずいたのを見るに、必要性を感じてはいたらしい。
男性の髪をいじったことはないが、一応ここにはヘアクリームやムース、スプレー類が置いてある。女性用だが、なんとかなるだろう。
椅子に座らせて五分。樺子は心の中で、うわ……と呟いた。
なんだかえげつない格好よさになってしまった。センター分けにして初めておでこにお目にかかったが、甘さが抜けていつもより精悍な感じになっている。キリッとした眉に知的さと色気が増し、女の子たちが色めき立つのが目に浮かぶようだ。ネクタイを結び髪をいじったなどと知られたらどんな目に遭うかわからないので、このことは黙っておこうと固く胸に誓う。
電車の中には他にも似たようなスーツを着たサラリーマンがたくさんいるのに、吊革につかまって立っているだけの緋崎がやけに目立っている気がする。黒のスーツに深いえんじ色のネクタイはそう珍しいものではないが、スラリとしたスタイルの良さが際立ち、クールな表情までもがよく似合っているからだろうか。
しかし慣れないものを着ているせいか、やたらと身じろぎする緋崎はいつもより落ち着きがない。大丈夫かと目で問いかけると、食い気味に答えが返ってきた。
「……窮屈」
いや、言い方。語彙力のある五歳児なのよ。
ツッコミを押し殺し、作った笑顔を向ける。
「緋崎さん。『バーニングエイム』のためならできるはず。そう、あなたならやれる!」
「『バーニングエイム』……」
そうなのだ。樺子がこの事務所のために何かと我慢しているのと同じように、緋崎にもここでぐっと耐えるだけの理由があるのだ。思い出せ!
「こんなに窮屈なのは二日間だけです。すべては『バーニングエイム』のために!」
樺子のガッツポーズにつられたのか、緋崎も小さくガッツポーズを作る。
「……おうっ」
なんだよ、おい。そんなことしたら、かわいいじゃないか。
「ちょっと待って、SPきた⁉」「やだぁ、守られたーい」
集合時、申し合わせたわけでもないのに、女の子たちの間で『SP』という単語が飛び交った。言われてみれば、黒いイヤホンに何気なく触れる仕草はインカムからの指示を気にしているようにも見えるし、スーツのせいで表情が険しいのも相まって、そんな雰囲気がなくもない。
女の子たちが盛り上がった瞬間、緋崎がつらそうに顔を歪めたのが気になったが、すぐに落ち着いたので触れずにそっとしておくことにした。緋崎としては、あまり余計な注目を集めて『聴覚過敏』のことを広めるのは本意ではないかもしれない。
今回うちから出る女の子は、コンパニオンが四名。ステージがあるようなブースではないので、マイクで商品を説明するナレーターはいない。樺子は揃ったメンバーを見回した拍子に、見て見ぬふりのできない懸念事項を見つけてしまった。
あの色、マズいなぁ……。
マニキュア自体がダメというわけではないけれど、透明や薄いピンクならまだしも、ボルドーだ。でも、彼女にはちょっと言いにくい。
二十三歳の椎名はコンパニオンとしての経験はまだ浅いが、学生の頃にラウンドガールをしたことがあるというだけあって、めちゃくちゃスタイルがいい。パッと人目を引くオーラがありクライアントからの受けはいいのだけれど、時に主張が強く、兄が手を焼いていることは樺子も知っている。
しかし樺子が口を開く前に、緋崎があっさり椎名の手を指さして言った。
「それ、落とせますか? 濃い色のマニキュアはNGって、詳細に書いてあったの見ませんでした?」
「えー、昨日塗ったばっかりなんだけど」
「連絡したのはそれよりずっと前でしたから、椎名さんの不注意ですね」
指摘された椎名は、いつになくはっきりと言い切られ、驚いた顔をしている。ちなみに緋崎の方はプロフィールシートで顔と名前を憶えていたのだろうが、椎名は緋崎に会うのは今日が初めてだ。
「誰か、落とせるものを持ってませんか? なかったら買ってこないと……」
緋崎の呼びかけに手を上げたのは、表参道で緋崎と面識のある一人だった。
「わたし、除光液あるよー」
「使わせてもらってもいいですか? 今度何かで返します」
「わー、緋崎さんに貸しひとつー。じゃあ今度、何かご馳走してくださいね」
「いいなー」「ズルーい」
甘ったるい声が響く中、声まで〝スン〟とした男は言い放った。
「等価交換になるよう、ちゃんと物でお返しします。ホチキスの針とか」
その後、無言で差し出された除光液で、椎名は渋々ながらマニキュアを落とした。
人混みどころか〝人間〟を避けてきたらしい緋崎は、展示会というものに関わるのも初めてらしく、物珍しそうにホール内を見回している。樺子も初めて展示会にきた時にはその広さと大きさに驚き、天井まで十メートル以上もある巨大な〝箱〟が異空間のように思えたものだ。キョロキョロしている緋崎を、前を横切る他ブースの女の子たちが通りすがりに二度見していく。
うんうん、そうなるよねぇ。樺子は原石を掘り当てたのは自分だといわんばかりに胸を張る。惜しむらくは身長だけれど、これはべつに彼が小さいわけではなくて、周りのコンパニオン女子たちが平均して高めなうえに、揃ってヒールのある靴を履いているからである。
周辺のブースの女の子たちが衣装に着替えて出てくると、会場はまるで花が咲き乱れたように明るくなった。白、オレンジ、ピンク。シックな黒は、黒百合といったところか。
アールユー・クリエーションのメンバーが着ている衣装は表参道のサンプリングで着たものと同色の薄紫のワンピースだが、今回は片方の袖がオフショルダーになっており、街頭キャンペーンの時よりも少し攻めたデザインになっている。他のブースもそれぞれ洗練された衣装で、品を残しながらもコンパニオンたちのボディラインを強調している。
「これだけいると、華やかで壮観ですね」
素直な感想を口にして緋崎を振り向いた樺子は、気のない声で「あぁ」と答える表情を見て、自分の間違いを悟った。
いやたぶん、この人にとっては〝ハト〟(しかも臭い)がすごいたくさんいるんだわ。
*
ネクタイはギリギリ許すとして、だ。ちょっとくらい緩くても全然困らなそうなシャツの一番上のボタンを、こんなにきつく設定したヤツは何者だ。刑に処したい。
緋崎はシャツと首の間に無理やり指を入れ、少しでも隙間を作ろうと首を振った。
ブックエンドを指さした時にはまさかスーツだとは思っておらず、せいぜい私服の上にスタッフジャンパーを羽織るくらいだと思っていた。だまされた気分だったが一度まとまった話を反故にもできず、樺子からは「日当分はしっかり働いてくださいね」などといらぬ釘まで刺される始末だ。とにかく、現場では役に立たないなどと屈辱的な心証をもたれぬために、腹をくくって勤しむしかない。もろもろ呑み込んだうえに仮面をつける覚悟さえできれば、自分にだってそれなりの接遇はできるのだ。
どんどん人が増え、間もなく開場という熱気がホールに満ちている。慌ただしくさざめく空気の中で、ふいに「キーン」という不快な音が辺り一帯に響き渡った。顔をしかめながら「すみません」と声のした方に目を向けると、どうやら隣のブースのスピーカーが音響の最終調整中にハウリングを起こしたらしい。
音の正体に納得した直後、異様に取り乱した『声』を耳が捉えた。
――どうしよう。緋崎さん、大丈夫――⁉
この少し反響する感じ。『心の声』だ。
見れば、隣に立つ樺子が青ざめた顔でこちらを凝視している。
そうか。『聴覚過敏』という言葉を使ったから、今の音がどれほど苦痛だったかと心配しているのだ。端的に「平気」とだけ伝えると、全身から力が抜けたような顔をするのでちょっと笑いそうになった。『声』で聞こえなくても、顔中に『よかった』と書いてある。
樺子は本当に、単細胞で感情がむき出しだ。思ってることがそんな風に全部顔に出るようじゃ、この先厳しい世の中を生き抜いていけないぞ。あまりに無防備でイライラするから、時々つい、余計なことまで言ってしまう。
緋崎の耳が抱える問題は、実際は『聴覚過敏』ではない。聞きたくもないのに、周囲にいる人の『心の声』が聞こえてしまうのである。『心の声』といっても、他人が思っていることのすべてが聞こえるわけではなく、思念の強さが心の声を大きくし、それが一定の基準よりも大きい場合にだけ、心の叫びが『声』となって、緋崎の耳に届くのだ。
距離があれば聞こえず、近くにいるほど聞こえやすいが、実際に声に出すのとは違い口が動かないので、大勢に囲まれていると誰の言葉なのかわからないこともある。しかし感情のふり幅がやけに大きな樺子の『声』だけは、もういい加減聞き慣れて、わかりたくなくてもわかるようになってしまった。
「あの、もしかして嫌がってるんじゃないですか? それに彼女、今、仕事中ですよ」
イベント開始から数時間。目つきも顔色も悪い三十代の男に、どうやら自分も一般客のふりをしているつもりらしい樺子がやんわりと注意している。背にかばうようにしているのは、朝、派手なマニキュアを落としたばかりの椎名のようだ。
緋崎は気づかなかったが、樺子が見かねてしゃしゃり出たということは、おおかたしつこく話しかける様子が目に余るものだったのだろう。
「は? あんた、何?」
――ど、どどど、どうしよう⁉ めっちゃ怖いんですけど‼
本当に浅はかで、考えが足りない女だ。その場の勢いや感情に流されてばかりいるから、自分のとった行動の収拾がつけられない。緋崎はパンフレットを一枚手に取り、スッと男に歩み寄った。
「お客様、大変お待たせいたしました。新商品のご案内ですね? こちらで実際の香りをお試しいただけますので、どうぞ中までお入りください」
笑顔で誘うと、バツの悪い顔をした男はキャップのつばを下げて離れていった。
「考えたらわかるよね。メンツ潰されて謝って引き下がるようなヤツは、最初から注意されるようなことしないから。あんたがしたいのは何? 自己満足?」
いらぬ礼を聞かされる前に小声でまくし立てると、樺子は見るからにヘコんで悄然とうなだれた。
午後の休憩時に椎名とすれ違うと、「ひとつだけ言わせて」と話しかけられた。
「わたしらも一応、変な男のかわし方はそれなりに身につけてるつもりなんだけど、ああいうのは別。あいつ、ただ話しかけるようなふりして触ったんだ、わたしに。それでビックリして、固まっちゃったのよ」
痴漢行為のようなものがあり、椎名がとっさに自分で対処できなかったから、樺子が間に入ったということだ。椎名は落ち込んだ樺子を見て、自分を助けてくれたのに、緋崎から何か言われたのではと気になっていたのだろう。
オチのつけ方も描けないまま、そんな異常な男に一人で嚙みつくなんて……。
いつか聞いた『声』が耳に甦る。
『わたしはどうなろうと、女の子たちのことは守らないと――。』
なおさら愚かだ。自分がどうにかなったら心を痛める者について、まるで想像が及んでいないという一点だけを取り上げてみても。
呆れと苛立ちがないまぜになり、急に疲れを感じた緋崎は深く息をついた。
一日目はその後大きな問題もなく終わり、途中の乗り換え駅まで樺子と一緒に帰った。
勝手に写真を撮っていく女がいることに文句を言うと、ヘラヘラ笑ってごまかされた。
*
二日目の朝、日中は事務所で作業して夕方から会場に顔を出すつもりだった樺子は前日と同じように緋崎のネクタイと髪を整えたが、送り出す際にうっかり「一人で大丈夫ですよね?」なんて言ってしまったばかりに、「ぼくを何だと思ってるの?」とものすごい目で睨まれた。いくら顔がきれいでもあれはない。三白眼なんて言葉ではすまない、殺気漂う〝シリアルキラー〟のごとき目であった。殺されるかと思った、ホント。
昼過ぎに確認したいことができ、兄の病院に寄った。いくつかの事務用品を買い足し、少し急ぎ足で会場に向かった頃には、そよ風の温度がいくらか下がりはじめていた。
なんとか予定通りの時刻に到着し、イベントの終了を見守る。ブースでの最後の挨拶が終わるのを待ってから、事務所のメンバーでホールを出て、更衣室に向かう通路の一角に小さな輪をつくった。
各ホールをつなぐ中央通路は天井の高い吹き抜けになっており、エスカレーターや階段、二階通路などは周囲の壁に沿うように設けられている。下りてきた人たちが合流する真ん中には流れができているので、通行人の邪魔にならないよう、全員で少し端に寄った。
このタイミングで来たのは労いの言葉をかけるためだが、全員足が棒のようになっているはずだ。「短くすませますね」と前置きを口にした直後、緋崎が突然、はっとした顔で体をこわばらせた。眉間にしわを寄せ、耳元に手をやって周囲を見回している様子はただ事ではなさそうだ。
「……緋崎さん? どうかしましたか?」
樺子の呼びかけに答える余裕もなく、緊迫した表情で視線をさまよわせている。
――何かを探してる……?
目を見開いて顔を上げた緋崎につられ上を見た時には、それはすでに頭上にあった。
「――樺子っ」
落ちてきている、と認識する前に、乱暴に肩を押される。
コンマ数秒の差で、バランスを崩した樺子の目の前を白いものが猛スピードで通り過ぎ、床に叩きつけられた。ドスンという振動と大きな音、それに続く悲鳴の合唱。樺子は隣にいた子を巻き込んで尻もちをついたが、幸い、落下物に直接当たった者はいなかった。
悲鳴を聞いて駆けつけ、二階から階段を下りてこようとしている警備員に、緋崎が指をさして叫ぶ。
「ベージュのキャップに白黒チェックのシャツの男が、下にいた女性たちを狙ってそこから何かを落としました! あっちに逃げたんで、捕まえてください!」
手すりを越えて落とされたのは、口を結んだビニール袋だった。中には未開封のペットボトル飲料が五本。言うまでもなく、それなりの重量だ。
「ひ、緋崎さん……」
立ち上がった樺子も周囲のコンパニオンたちも、恐怖に顔が引きつっている。緋崎が気づくのがあと数秒遅かったら、まともに直撃していたかもしれない。
樺子の隣に立っていた椎名に向き直り、緋崎が落ち着きを取り戻した声で問いかける。
「……あの人、昨日もいた人じゃないですか?」
樺子には帽子と横顔が一瞬見えただけだったが、やはりそんな気がした。うなずいた椎名が今も震えているのは、本当の狙いは自分だったとわかっているのだろう。
椎名は昨日体を触ってきた男性に今日も声をかけられ、休憩に入る時にも待ち伏せされていた。あまりしつこかったのでもう近寄ってこないように、少し強めの言葉と態度で、ようは邪険にしたのだという。
その後男は捕まったが、「わざとではなかった」「事故だった」と言い張ったらしい。呼ばれて来た警察の人の話によると、怪我人が出ていないうえに故意であるという証拠がなく、被害届は出せても、立件は難しいかもしれないということだった。
「本当にありがとうございました。緋崎さんが助けてくれなかったら、わたしも椎名さんも、どうなってたかわかりません」
別れ際、改めて頭を下げる樺子に、緋崎は苦い顔をした。
「違う。べつに、助けようとかいうつもりじゃ……」
「でも実際、助けられました。わたしを含めて若い女性は苦手なはずなのに、それでも緋崎さんは助けてくれた」
場合によっては自分が怪我をする可能性だってあったはずだ。誰もができることではないと思う。
「……」
束の間言葉を探した緋崎は、こう言った。
「たしかに好意的な感情は持ってないけど、『好きじゃない』っていうのと『どうなっても知ったこっちゃない』っていうのは別物でしょ」
正直すぎる言いようはそっけないけれど、ペンを貸してくれ、ひったくり犯を転ばせてくれた時のことを思い出した樺子は、ニコリと笑った。
この人はきっと、自分では気づいてないかもしれないけれど、実は優しい〝人間嫌い〟だ。
*
他人なんか関係ない。……はずなのに、「うちの大事な女の子たち」とかいう呪いみたいな甘ったるいセリフを聞かされすぎたせいで、最近どうも調子が狂う。
展示会で聞こえてきた不穏な声。出会った悪意。
『――おまえみたいな女、絶対に許さない。顔か体に傷でも残ればいい――。』
行動に移すかどうかは別として、あれが人間の本性だ。身勝手で、汚くて、自分本位。底の底まで覗いてしまえば、きれいなだけなんてありえない。
だから距離をとり、誰とも近づきすぎないようにしてきた。傷付きたくないし、余計なことに煩わされたくない。それに何より、この耳の秘密に気づかれるわけにはいかない。
今までずっと、折り合いをつけて自分なりにうまくやってきたのに……。
心が揺れて、なんだか落ち着かない。こんな仕事、引き受けるべきじゃなかったんだろうか。
考えたところで、答えは出そうになかった。
*
エアコンの稼働音がやけに耳につく、午後三時。昼食後に押し寄せた眠気も山を越え、樺子は翌週のスケジュールを最終チェックしていた。
あの展示会から二日が経ち、耳に入ってくる緋崎の評価は予想以上に高い。
「彼、カッコいいだけじゃなくて、足りないパンフレットをさっと補充してくれたり、お客さんを商談コーナーにご案内してくれたり、すごく気が利くんだ。若いのに周りをよく見てるし、感激しちゃったよ」
四十代の男性主任にそこまで言わせるということは、本当にがんばってくれたのだろう。樺子が見た時も、ディスプレイされた商品の前で女性客に何か説明していた。きっと、簡単な質問に答えられる程度にはパンフレットの内容も読み込んでいたに違いない。
そして何より、突然向けられた不条理な暴力から、守ってくれた……。
実のところ、樺子はあの瞬間をもう何度も、頭の中で再現しては味わっていた。
「樺子!」と叫んだ時の凜々しさ(実際には叫んだ瞬間の顔は見ていないが、前後の表情から補完済みだ)。いつものツンケンしたキャラはどこへやら、記憶の中の緋崎はただひたすらに頼もしく、まるで本物のSPのようだった。あの場の「キャー」の何割かは、実は緋崎に向けられたものだったんじゃないだろうか。
ちなみにあの後、「樺子ちゃんのことは『樺子』呼びなんだね」という周囲の囁きが耳に入ると、目が合った緋崎はなんでもないことのように言い放った。
「あんたは呼び捨てでいいでしょ。だいたい、苗字知らないし」
わかってはいたけどね。ただの雑な扱い、ってやつですね。
ていうか、たしかにみんな下の名前で呼ぶけど、最初にちゃんと名乗ったよねぇ……。
しかし緋崎の行動を思い返すほどに、どうにも引っかかる、おかしな点がある。
緋崎は「不審な人影が見えたので反射的に体が動いた」と言っていたが、どう考えてもあの人物を見つける前から、まるでどこかに何かがあることを知っているように、差し迫った顔で周囲を見回していた。しかもその際、なぜだかイヤホンを外し、必死に耳を澄ましているように見えたのだ。
緋崎は『聴覚過敏』と言っていたけれど、マイクのハウリングには少し顔をしかめただけだった。イヤホンを付けていたとはいえ、本当に聴覚が〝過敏〟なら、樺子が飛び上がったほどの音量にあの程度の反応ですむものだろうか。もしかすると本当は『聴覚過敏』なのではなく、耳に何か別の、特殊な事情を抱えているとか……?
緋崎の耳は特別な耳――。
『王様の耳はロバの耳』風に、緋崎の頭に白くて長い、フワフワとしたウサギの耳が付いているところを想像する。――はい、かわいい。
彼があの時何を聞こうとしていたのかは気になるが、なんとなく訊いてはいけないような気がして、触れられない。
作業が一段落したらしい緋崎が、首を回しながら唐突に言った。
「お兄さん、さっさと帰ってくればいいのにね」
どうもこの人が言うと、純粋に回復を祈ってくれているように聞こえない。続きがあるのだろうと黙っていると、案の定、強烈なやつがきた。
「だってあんた、どう考えても人を束ねるタマじゃないじゃん。『女の子たち、今日もがんばってますー。だからえらいですー』って、いつも尻尾振る子犬みたいな目で眺めてさ。『入―れーてー』って、自分も輪に入れてもらった方がいいんじゃない?」
「わかってます。自分がまとめ役になれるキャラじゃないことくらい。でも兄が戻ってくるまでは、なんとしてもこの事務所を守らないといけないんです。だから緋崎さん、まだもうしばらくの間は共同戦線でお願いしますね」
顔はきれい。顔はきれい。いつものおまじないを唱え、息を深く吸う。
「うーん。面倒だなぁー。早く終わらないかなー」
反らした頭の下で両手を組んでいたと思ったら、次の瞬間にはすごいスピードでキーボードを打っている。この人にとって、息抜きとケンカを売ることは同義なのだろうか。
パソコンに向かう緋崎の後ろ姿を見るともなく見ていると、スマートフォンが軽快な音を立て、兄からのメッセージが届いたことを知らせた。
『退院目標、八月十二日!』
目標ということは、現時点で担当医とそこを目指そうという話をしているということで、実際には検査結果などを見ながら決めるのだろう。
樺子は目の前の卓上カレンダーに目をやった。今日は八月五日。夏ど真ん中の、猛暑の火曜日。すぐに仕事ができるかは別として、事務所の本当の主が戻ってくるまで、順調にいけばあと七日……。
喉の渇きを覚え、ペットボトルに手を伸ばす。お気に入りのいつものアイスミルクティーが、『バーニングエイム』のアクリルコースターの上で、汗をかいている。
【おわり】