うさ耳キャスケット【前編】


はい。わかりました、お願いします」
 大学二年の夏休み。本来ならば伸び伸びと遊びつくしたいところだったが、なかじょう樺子かこは先ほどから慣れない〝大人〟との電話のやりとりに緊張しまくっていた。平静をよそおって返答しながらも、実際はオジサンのだみ声にしゅくして肩に力が入りっぱなしだ。
 レトロな味わいのあるきってん。コーヒーの深い香りとエアコンの冷気につかの休息を求めたはずが、予定外の着信にすっかり平和を乱されてしまった。
 明日の現場担当者が変更になって、かささん、と。連絡先を教えておいてもらえるならメモをメモをあ、あれっ⁉
 なにっ、なんでっ⁉ ついさっきまで、普通に書けてたのに
「ちょ、ちょっちょっと、お待ちいただいていいですか?」
 慌ただしくボールペンの先を手帳にこすりつけるが、白い紙に跡がつくばかりで、ちっともインクが出てこない。
 このご時世、いくらでも文字で連絡する方法があるというのに、なぜこの人は毎回こちらの都合を無視して〝直電〟してくるのだろう。
 しかしこちらは「超」がつく弱小下請けの立場だ。そんなことは言えないし、メールで送ってくれと頼めるふんでもない。告げられようとしている携帯電話の番号を丸暗記する自信もなく、焦れば焦るほど頭の中が真っ白になる。
 このスマホ、録音機能ってあるんだっけ? あるとしてもどうやって使うのっ⁉
 パニックを起こしかけた樺子の視界に、横からスッと細長いものが入ってきた。
 突然現れたペンに驚いて目を向けると、隣の席の若い男性が『どうぞ』という風に差し出してくれていた。チャコールグレーのキャスケット帽がよく似合うイケメン。ただし、冷ややかな目には、はっきりと批難の色が浮かんでいた。
 店内で着席したまま通話していた自分のマナー違反に気づき、樺子は頭を下げつつ、慌てて席を立った。ありがたく借りたペンと手帳をひっつかんで外に飛び出し、なんとか無事にメモをとる。
 あぁ、焦ったぁ
 樺子が神経をすり減らしながらも必死でオジサンの早口に食らいついているのは、ひとえにきゅうせいすいえんで緊急入院した兄のためだった。三日前、激しい背部痛と吐き気を訴え救急搬送された三十一歳の兄は、ゲームショウなどの展示会や各種イベントにコンパニオンを派遣する、小さな『コンパニオン派遣事務所』を経営している。
 従業員はおらず、実質一人で回している事務所なので、兄が動けなければすべての業務がとどこおってしまう。母親からの一報に青ざめた樺子は、その足で病院ではなく、あかさかにある兄の城、『アールユー・クリエーション』へと駆けつけた。古めかしいマンションの小さな一室である事務所にはアルバイトとして時々出入りしているので、合いカギは持っている。ちょっとした事務仕事を手伝うこともあれば、人が足りないと拝み倒されて現場に出ることもある。お金が必要な時にはこちらからも打診するという共生関係でもあり、仕事の流れや兄のやり方は、なんとなく一通りは知っているつもりだ。
 所属している数十人の女の子のうち、日々数人ずつが現場に入ったり、オーディションを受けたりしている。依頼に対して条件が合う子のプロフィールを送付したり、衣装サイズなどの最終確認に返答するのにも締め切りがある。急ぎの案件が残っているなら兄の代わりに手を打たないと、事務所が請け負った仕事に支障をきたしてしまう。
 パソコンに飛びついた樺子がまず確かめたのは、その日のうちに済ませるべきタスクリストの残り項目だった。兄はちょうめんで、その日でなければならないことと日程にゆうがあるものを色分けして一目であくできるようにしている。それから数時間かけてパソコン内のフォルダや印刷されていた書類と格闘し、どうにかこうにか項目にあったことだけは消化した。
 兄は幸い命に別状はなかったものの、数日で退院できるような状態でもないらしい。病院に着いた母親からそう聞いて、樺子はすぐに覚悟を決めた。今この事務所を守れるのは、わたししかいない。
 そうやってこの三日間、なんとか必要なことはこなしてきたつもりだった。

 広告代理店のオジサンとの電話を終え、仕切り直しのつもりでコーヒーのいい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。席に戻り、まずは隣の席の男性にお礼を言ってペンを返す。
 読んでいた本から目を上げた青年と改めて目が合うと、すでに全身を観察していた樺子は内心で『ほほぅ』とうなった。
 二十代の前半から半ばといったところだろう。帽子の下の顔は〝スン〟とした感じだがかなり整っており、社会人ではないのか、Tシャツにはんそでシャツを羽織はおり、下はコットンパンツといういで立ちだ。冷めた視線がドライな雰囲気をかもしているが、上下ともにオーバーサイズの服の着こなしが、ちょっとかわいい印象でもある。この人たぶん、冬になったらセーターのそでから指出しちゃうカンジの〝え系男子〟だ。しかも、ほどよいゆるさに、ハンチングほどカッチリしていない大きめのキャスケット帽がしっくりハマっている。
 ツンとしてダボ。見た目だけですでにギャップ! やるのー、おぬし
 シンプルなセンスのよさをの当たりにし、ファストファッションの店で間に合わせに購入した夏物ジャケットを着ている自分が恥ずかしくなる。しかしそうは言っても、きちんとしたスーツを買う予算はないのだから仕方ない。
 無言でペンを受け取った青年は、小さなボディバッグにそれをしまうと、さっさと自分の世界に戻ってしまった。
 だいぶ氷が溶けてしまったアイスコーヒーのグラスを手に取り、店内を見回すふりでもう一度青年をチラ見した樺子の頭に、女の子たちの愚痴ぐちとわがままの洪水がよみがえる。
「あそこのクライアントは感じが悪いから行きたくない」
「衣装が聞いてたのと違う」
「休憩時間、短すぎ」
 あーぁ。こんな顔が相手だったら、彼女たちだってもう少し
 投げやりにそんなことを思った瞬間、雷に打たれたようにひらめいた。
 そうかイケメンだ!
 兄が退院できるまで、経過次第ではあるが二、三週間はかかると聞いている。急性膵炎では治療開始と同時に絶飲絶食・点滴・合併症の予防が必要となり、軽症でも二週間前後、重症な場合には三か月近くも入院することがあるらしい。退院してもすぐにこれまで通りというわけにはいかないだろうから、やはり一か月程度は代打を務める心づもりでいた方がいいだろう。その間、もしもイケメンの手を借りることができたなら、自分の業務はぐっと楽になるのではないだろうか。
 事務所に所属しているのは、いずれも若くて気の強い女の子たちだ。十八歳から、一番年長のベテランでも三十代前半。ほとんどは二十代で、見た目を重視する彼女たちの中にイケメンを嫌う子はいないだろう。樺子の兄は仕事の条件や待遇に対する不満をいつでものらりくらりと上手じょうずにかわすが、経験の浅いヒヨッコにはふところの深さが圧倒的に足りない。その不足分をどこぞの〝ごそんがん〟が埋めてくれるとしたら、それってとっても魅力的!
 入院以来、お見舞いに行けない日でもこまめに連絡を取っている兄からは、大変だったら事務所の業務を手伝ってくれる短期のアルバイトを雇ってもいいと言われている。実際は「雇ってもいい」どころか、兄は涙目でこう言った。「ありがとう、樺子。この恩には必ず報いるからな。俺にできることなら何でもするよ」。
 今は七月後半に入ったところで、まだ当面は大学が休みとはいえ、長丁場の間、慣れない業務をすべて一人でこなすとなると負担が大きいし、多少の人件費はかかったとしても、やはりもう一人くらい誰かにいてもらった方が心強い。
 アルバイト雇用の可能性を念頭に、お隣の彼の三度目の観察を試みる。持ち上げた手帳を熱心に見ているていで、横目で失礼いたします。
 大きめの帽子が耳までかかっているが、つばは短いので顔はよく見える。さっき正面から見た時の印象は「目がきれい」だった。できれば帽子をとってもう少しじっくり顔を見せてもらいたかったが、まつの長い伏し目と鼻筋の通った横顔だけでも、充分に要件を満たしているのがわかる。なんなら色白で、肌までつるりとしているではないか。
 女の子たちの十人中九人は「イケメン」と認定するだろう。残りの一人も「ど真ん中じゃないけど、嫌いじゃない」と言うはずだ。
 ちょっと目つきは悪いけど、この顔ならおぎなってあまりある。それに少しくらいキリッとしていた方が、女の子たちがおとなしく言うことをきくかもしれない。
 うん。使えるっ!
 とはいえ、この彼がこころよくコンパニオン事務所でのアルバイトを引き受けてくれるとは思えない。そもそも何をしている人だろう。火曜日の午後三時に喫茶店でのんびり読書をしている時点で大学生のようにも思えるが、シフトや定休日で平日が休みの社会人の可能性もある。もしかすると、遅めのお昼休憩をとっているだけで、私服で仕事をするような職種なのかもしれない。いずれにせよ、声をかけてみなければ何も始まらないが、いったいなんと切り出したらいい?
 断られる確率が高い気がする。さっきより白い目で見られるかも。もしかしてナンパと誤解されるんじゃ。こうなるとバンジージャンプと似たようなもので、考えれば考えるほど、あると思っていた勇気がみるみるしぼんでいく。
 無理! わたしだって一応、うら若きおとはしくれ。しゅうしんというものが
 頭を抱えたい気持ちで細いため息をついたら、隣の彼が突然パタンと本を閉じ、椅子いすを鳴らして立ち上がった。
 もう帰ることにしたのだろうか? 見ればテーブルの上のお皿もカップもからだった。
 しまった、完全に機を逃してしまった。このまま見送るには惜しい気がするが、ここで追いすがる勇気は湧いてこない。
 無念の気を発する樺子の隣で荷物と伝票を手にした青年は、立ち去る前に冷ややかな一瞥いちべつをくれると、樺子に向かってこう言った。
「あんた、ギャーギャー騒ぎすぎ」
 ふくのない低い声に、抑えたいらちが透けて見える。
 たしかに、座席で通話して彼の静かな読書タイムを邪魔したことについては樺子に非がある。が、しかし。〝ギャーギャー〟までは、騒いでないです
 とは、言えなかった。

 しばらくして喫茶店を出た樺子は、照りつける日差しの下を数歩も進まないうちに肩口に〝ドーン〟と衝撃を受け、歩道に尻もちをついた。何が起きたかわからず辺りを見回した時には、すでに樺子のビジネスバッグを抱えた見知らぬ中年男性が走りだしたところだった。
 ひったくり
 あまりに驚いてしまって、とっさに声が出ない。でも
 あのバッグには、事務所のスマホや手帳、さらにはこれから広告代理店に直接届けることになっている女の子たちのプロフィールシートが入っている。
 一人につき一枚のプロフィールはすべて写真付きで、年齢やこれまでの業務実績の他、ごていねいにスリーサイズまで記載されている(必ずしも本当とは限らないが)。つまりあれにはかわいい女の子たちの個人情報がギュッと盛り込まれているわけで、悪用されて誰かがよからぬことに巻き込まれでもしたら、一生悔やんでもやみきれない。
 わたしはどうなろうと、女の子たちのことは守らないと。
   誰か、その男の人を止めて
 次の瞬間、通りの少し先でぱっとこちらを振り向いたのは、あのキャスケット帽の青年だった。ちょうど書店から出てきたところだった彼は、自分の方に駆けてくる中年男性と樺子を交互に見て、一瞬体を引いたように見えた。
「お願い、捕ま
 言い切る前に、青年がひょいと伸ばした足に引っかかり、男が派手に転んだ。周囲がざわめき、樺子はすかさず「ひったくりです!」と指さして叫んだが、青年がバッグを拾い上げる間に、素早く立ち上がった男の方はそのまま全力で走り去っていった。
あ、逃げた
 青年が何事もなかったかのような無表情でつぶやき、樺子を振り返る。
「あありがとうございます! ホントにホンットに! ありがとうございます‼」
 ようやく駆け寄り、バッグを受け取る。明るい時間で人通りがあるからといって、すっかり油断していた自分が悪い。自省の思いからヘッドバッキングばりに頭を振り下げた時には、半べそをかいていた。
 青年は得意がるでも同情するでもなく、どちらかというと引き気味に上半身を反らしている。もしかすると、髪を振り乱して泣く女がりょう的に見えたのかもしれない。
 はなをすすり、大きく深呼吸をした樺子はようやくしゃっきりと顔を上げた。目の前でまじまじとこちらを見ている青年は、おそらく百七十センチちょっと。目線の高さは百六十五センチの身長に四センチヒールをはいている樺子とさほど変わらないが、ふてぶてしいような表情とは裏腹に、向き合った顔の造作が素晴らしい。
 やっぱり、逃す手はない!
 非常事態でアドレナリンがたっぷり放出されていたことも手伝ったに違いない。
 逃してたまるかという半ばやけくそな気持ちと、断られるならどうせもう会うこともないだろうという思いが、樺子の中の『火事場のバカ度胸』的なものを呼び覚ました。
「あの
「はい?」
うちで、バイトしませんか?」
 まだ情けない鼻声ながら、思い切って口にする。
 とうとつすぎるほど唐突なことはわかっている。それでも
は?」
 警戒に細められた目を見て、
「あの、決して重労働ではないです。相手はきれいな女の子たちだし、仕事の内容も別に全然ハードじゃないというか、ようは女の子たちを
 あれ? なんだか怪しさ全開になってしまった。見る間に青年のけんに不快そうなしわが寄る。
「え、何? ホストのスカウト? それともただの変な人?」
「いえ! いえいえ、違うんです。ちょっとまだわたしの名刺がなくて、兄の、いや社長の名刺になってしまうんですが、わたくしこういった人材派遣会社の者でして
 念のために持っていた兄の名刺入れから、一枚取り出そうとしたその時
「なっ
 なぜか絶句した青年は、名刺入れそのものを見つめて固まった。
 ブラックステンレスと木でできたシックなふんの名刺入れだが、ふたになっている木の部分にはレーザー彫刻でアニメのロボットキャラクターが刻まれている。そういえばこれは超レアなグッズで、簡単には手に入らないと兄が言っていたような
 青年は信じられないという顔で、まだじっと名刺入れを凝視している。なんだか知らないが、視線の圧がすごい。
もしかして、『バーニングエイム』がお好きなんですか?」
『バーニングエイム』とは、今年でテレビ放送開始から十五周年を迎えるロボットアニメ界のきんとうだ。登場するロボット戦士たちの格好よさはもちろんのこと、主人公の名ゼリフや熱いストーリーでも人気を博す、今やシリーズがいくつもある世界的に有名なアニメーションである。樺子の兄も熱狂的なファンの一人なのだが、ゲーム、がん、グッズなどの商品展開がいちじるしく、その時でなければ手に入らない限定品を定期的に世に送り出すことで、子どもから大人まで幅広くファンの心理をくすぐり続けている。
「こんな名刺入れがあるなんて、聞いたことない
 あんなに冷ややかで警戒心むき出しだった青年が、今や目をキラキラと輝かせている。
 まぶしそうに細めた目。思わずといった感じで伸びてくる手。これは彼にとって、よほど価値のあるものなのだろう。
 樺子は、兄がこれと同じものを〝保存用〟にもう一つ持っていることを知っている。
 ここは事務所のためだ。身を切ってもらおう。
「あの。一か月だけでいいんで、うちの派遣会社で事務とかマネージメントのアルバイトをしてくれませんか? もちろん時給は別にお出ししますが、もし引き受けていただけるんでしたら、これとまったく同じものの新品を差し上げます」
「えぇっ、ウソ、ホントに⁉ やった‼」
 思わずといった感じで大きな声を出し、青年は笑顔を見せた。
 事実上、なんの詳細も知らぬまま、青年がアルバイトの依頼を了承した瞬間だった。
 切れ長で黒目の大きな目が、笑うと弓のように細くなる。警戒心の表れのように引き結ばれていた口元に健康そうな前歯がのぞくと、とたんに彼が一応は持ち合わせているらしい人懐こさの片鱗へんりんかいえた。
 いい! とってもいいと思いますっ‼

          *

 妙な女に捕まってしまった
 さきしょうからすれば、それ以外の表現は思いつかなかった。
 ソファにあぐらをかいて缶ビールを開けたところだった兄のとうは、『コンパニオン事務所』なるものの話を聞くと「おまえそれ、大丈夫なのか?」と眉間にしわを寄せた。
 四つ年上の二十八歳、会社員。そんな顔すらさまになる、長身の優男やさおとこ
「なんだかなー。よりによって、そんな〝うるさそう〟なところで
 渡された名刺から調べてみたところ、アールユー・クリエーションは一般的な人材派遣会社ではなく、どうやらちょっとばかり特殊な業種のようだった。だから兄の心配はわかる。自分のを知る唯一の人間としても、性格や性質をすっかりあくしている人間としても、ねん事項しかないような状況にもろを挙げて賛成はすまい。
 しかし、どうしてもあの名刺入れが欲しい。交換条件が不可能な内容ではなかった以上、断るというせんたくは頭になかった。
「それでどんなコなの? その、一緒に働くことになるコっていうのは」
「あまり仕事ができなさそう。〝のほほん〟とした顔してて、行動がとっちらかってるカンジ」
「ふーん。ホントに大丈夫かねぇ」
 第一印象は、キャンキャンとよく吠える子犬。じんちくがいそうではあるが、たしかにうるさい。かんじんの名刺入れは「ひと月後のバイト終了時にお渡しします」だそうで、小娘を相手に目の前にニンジンをぶら下げられたようで気に入らないが、この際仕方ない。
「まぁ、時給も出るっていうし、一か月だけ我慢するよ」
「我慢するのは向こうも同じだったりして」
 素で切り返され、缶をあおってのどを鳴らす兄を軽くにらむ。
「しかし、個人経営ってなぁ。おまえみたいに自分だけで完結できるならまだしも、人を何人も動かす仕事を一人でっていうのは、そりゃ今回みたいなリスクはあるだろ」
「三年前に事務所を立ち上げた時は友達も一緒だったけど、なんかその人、事情があって海外に行っちゃったんだって」
「それで〝のほほん〟としてる妹ちゃんが、兄貴のために奮起したわけだ。けなじゃん。あぁ、俺もそんな妹が欲しかったなー」
「悪かったね、こんな弟しかいなくて」
 ふてくされた顔をしてみせると、透也はつまみに手を伸ばしながらニヤリと笑った。

          *

 なるべく早くお願いしたいという熱意が伝わったのか、ただ単に一秒でも早く名刺入れを手に入れたいからか、彼はなんと翌日、事務所に来てくれた。
 昼過ぎに駅前で待ち合わせをして、事務所へと案内する。
 聞けば学生ではないというので「普段、お仕事は何をされてるんですか?」と質問したのだが、「個人事業主?」と疑問形なうえに非常にあいまいな答えしか返ってこない。時間の調整がついてうちの仕事ができるのなら別になんでも構いはしないが、『それ以上言う義理はない』とでもいう空気感に、目の前で扉を閉められたような気分になる。
 あれからお見舞いに行って、兄には彼のことを報告してあった。
 名刺入れの件は泣きそうな顔をしていたが、了承してもらった。元より「俺にできることなら何でもする」というげんをとっている以上、断られる気はなかったが。
 彼は今日もキャスケット帽をかぶっている。昨日のベージュ系のコーディネートに比べ、こげ茶のノーカラーシャツと黒のスラックスが少し大人っぽい印象だが、それでもやはり、オーバーサイズの着こなしが余裕のあるかわいさを感じさせた。
 そもそもが事務所の最寄り駅近くのきってんで出会っているので、この辺りになんらかのゆかりがあるのだろうとは思っていたが、驚いたことに、彼は事務所まで歩いて十分ほどのところにお兄さんと部屋を借りているのだという。電車で三十分かけて来る樺子より、むしろ全然近い。
 十じょうちょっとしかないワンルームの奥には左右の壁に向かってそれぞれ横長のデスクが配置され、予備の椅子いすも使えば四人までが一緒に作業できるようになっている。入口に近い手前のスペースには面接や研修に使うL字ソファと丸テーブル、キャビネットなどが置かれているが、あとは小さな給湯コーナーとユニットバスがあるきりだ。
 狭い事務所をじろじろと眺め回す青年を奥の椅子に座らせ、まずはアルバイトの契約書を交わす。一応お願いしておいたれきしょを受け取り、身分証も確認させてもらった。
 緋崎祥、二十四歳。証明写真ではさすがに帽子を脱いでいるが、作り物のような無表情。高校と大学は通信で卒業したようだ。その後はくうらんになっている。
 通信制を選んだのには何か理由があるのだろうかと気になったが、あまり根掘り葉掘り訊くと嫌がられそうなので、とりあえず今は触れないことにしておく。
 細々こまごました説明の前に、この業界のシステムや業務の流れについて簡単なオリエンテーションを行うことにした。彼にはあまりなじみがないだろうし、何はともあれコンパニオンというものについて理解してもらわないと、仕事がスムーズに進まない。
『イベントコンパニオン』というのは、わかりやすく言えばクライアントである企業が展示会にブースを出展したりキャンペーンを行ったりする際に、華やかな格好で受付や配布、アテンドなどの仕事を受け持つ、若い女性たちだ。ひとつひとつの仕事は単発であることが多く、ほとんどのものは一日から数日で終わる。
 女の子への仕事の振り方は、基本的に案件ごとに、条件の合う子に本番日程やこうそく時間などを明記して連絡、打診する。希望する子からそのむね折り返しがきたら、とりあえずスケジュールは押さえておいて、プロフィールを先方に出す。決定すればそれでいいし、残念ながら決まらなければ予定をバラしてもらう。ショーや大きなイベントになると、書類通過の後、さらに広告代理店やクライアントによるオーディションが待っており、華々しい仕事になればなるほど、狭き門をくぐり抜けた〝選ばれし者〟だけが栄光と日給を手にすることになる
 マシンガンのように一方的にしゃべり倒しているうちに〝イケメン〟に対する多少の緊張もほぐれてきて、樺子は何気なく、黙りこくっている緋崎の反応をうかがった。真剣、という表情とは違う。ただ笑わないのではなく、ゼロどころかマイナスに食い込んだ無愛想。あげく、女の子たちのプロフィールに向けた顔は、はっきりと苦々しい。
「もしかして女の子、苦手だったりします?」
 男性とはいえ、きれいな女性が好きな人ばかりではない。緊張やトラウマなどから若い女性を苦手とする人もいるし、思えば緋崎は樺子に対してもてっとうてつ〝つっけんどん〟だ。
 しかし、少しのよどみもなく返ってきた答えは、樺子の想像とは違うものだった。
「うん。でもそもそも、〝人間〟が嫌い」
「そうですか」
 あ、なんか納得。とか言ってる場合じゃない! 人となりを知らぬまま顔と勢いで決めてしまったが、この人、大丈夫だろうか。人選を誤ったかもしれないといういちまつの不安がのうをよぎる。それでも今からここで働いてもいいと言ってくれる別のイケメンを探せる気がしない以上、なんとか彼に力になってもらうしかない。
 でも見方を変えれば、元から〝人間嫌い〟なら、この仕事のせいで女性不信になることはないのでは? それって実は、大事なことかもしれない。
 女だらけの世界は、プライドとエゴと秘め事の宝庫だ。とくにコンパニオンは容姿にもそれなりの自信があるので勝気な子が多く、立ちっぱなしに笑いっぱなしという肉体労働に耐える根性もある。普通の男性でも彼女たちのパワーに押されてタジタジになるのは想像に難くないが、こんなイケメンが取り囲まれ、まかり間違って中身までピュアだったりした日には、もみくちゃにされ、ワニの群れに放り込まれた生肉ばりに引きちぎられる可能性もあったかもしれない。おーこわ、ぶるぶる。
 なんにせよ、笑顔のかわいい女性を天使だと誤解してしまうような人よりは、最初から人間関係に強固なバリアを張っているくらいの方がいいのだ、きっと。
 微妙な落としどころに安心をいだした樺子をよそに、緋崎はすっかり退屈そうにしている。がいようはこのくらいにして、そろそろ具体的な業務内容に移った方がよさそうだった。
「緋崎さんは、このパソコンをメインで使ってください」
 デスクトップとノート型、合わせて三台あるパソコンのうち一番新しい一台を示すと、マウスパッドが『バーニングエイム』であることを発見した緋崎は旧友と再会したような顔になった。兄は事務所の中に、隠れキャラのようにさりげなくグッズをまぎれこませている。それに気づいた緋崎はワクワクしたような顔で辺りを見回したが、樺子と目が合ったとたん、「トゥン」と電源オフ音が聞こえてきそうな切り替えの早さで口角を下げた。なんだか知らないけど、それはそれで失礼なんじゃないだろうか。複雑な心境をなだめつつ、パスワードを入力して画面上のフォルダを開く。
 昨日やりかけのままにしてしまったものを含め、何かと中途半端になっているが、説明を聞く緋崎は能面のような顔で時々小さくうなずいた。
 パソコンの操作には慣れているようなので早速いくつかの作業をお願いしたら、ものすごい速さでこなすので驚いた。
「うわぁ、助かります」
 素直に礼が口をついた樺子に、緋崎はクールといえば聞こえのいい、感情の抜け落ちた目を向けた。
べつに、あんたのためじゃないし」
 そのままくるりと画面に顔を戻し、腕を組んで、ぶつぶつとつぶやく。
「仕事として振られたら無能なふりできないだけ。ていうか、効率悪すぎ。これもこれも、あとこれも」
 顔はイケてる。ものすごく感じが悪いもの言いをしてる今も、その横顔は〝スン〟と整っている。樺子は自分に言い聞かせた。ちょっとくらい人として問題があっても、せいぜいひと月の付き合いだ。仕事はできるようだし、顔だけ眺めて乗り切ろう。
 たったの三十分で改善点をいくつか指摘した緋崎の普段の仕事は、『オンラインアシスタント』というものだった。おずおずと訊ねた樺子にさして抵抗もなさそうに教えてくれた感じからすると、説明が面倒くさかっただけで、べつに隠しておきたかったわけではないらしい。
『オンラインアシスタント』は『オンライン秘書』と呼ばれることもあるが、通常の秘書とは業務の内容や形態が異なる。きゃくの多くはベンチャー企業の社長やフリーランスの人で、正規に人を雇うほどではないが、スケジュール調整や手配業務、ちょっとしたリサーチなどを代行してくれる人を求めているのだという。依頼によっては資料の作成やウェブ系のデザインまで引き受け、ほうしゅうは時給制のことも成果報酬のこともあるそうだ。
 緋崎は数カ所からの依頼を掛け持ちでこなしているが、すべてオンラインで完結するので出社の必要がなく、納期さえ守れば、わりあい時間のゆうずうくらしい。対面や口頭のやり取りがないあたり、〝人間嫌い〟の緋崎に向いた働き方なのかもしれない。
「一か月はダブルワークってことになるけど、アシスタント業務の方は受けなければ減らせるし、すでに引き受けてて期日を動かせないものは夜にでもやるから大丈夫」
 緋崎はそう言って、『週四日、午後の時間帯』というこちらの希望をすんなりとのんだ。
 ようは一か月間、ここでの仕事をするために生活スタイルを変えてくれるということだ。
 これが『バーニングエイム』の力
 それにしても、スケジュール調整や各種手配のプロとは、ここでのニーズにピッタリではないか。もしかしてわたし、ものすごい〝大当たり〟を引き当てたのでは?
 樺子は自分で自分をめた。いや、兄の力になりたいという純粋な心に感心した神様が、ごほうをくださったのかもしれない。
「ていうか、この程度は常識でしょ」
 カンジ悪っ。〝ご褒美〟てっかいっ。そちらさんはそこそこ社会的地位のある人たちをスマートに補佐してる知識人なのかもしれないけど、こっちは身内の事務所でしかバイト経験のない、しがない大学生なんじゃい!
 鼻息を抑える樺子に気づく様子もなく、緋崎は淡々と作業を進めていく。
 反対側のデスクにあった郵便物を開けながら、樺子は目をすがめてその背中を眺めた。とりあえず、緋崎が(対人コミュニケーション以外は)優秀であることはわかったが
 大事なのはやはり、女の子たちとの相性だ。顔を合わせた時にどんな化学反応が起こるのかちょっと怖い気もするけれど、そればかりは会ってみないとわからない。とにかくこの顔を広く知らしめたうえで、せめてどくぜつを封印して必要な連絡事項だけ伝えてくれれば、みんな顔に免じて細かいことは気にしないかもしれない。
 アールユー・クリエーションのコンパニオンたちの中には、会社員や学生、主婦もいる。土日のイベントや数日間だけの商品プロモーションなど、いた時間に副業として仕事することが可能だからだ。しかし一番やっかいなのは、元レースクイーンや自称アイドルの卵などで、そういう子たちは本当にプライドが高い。
 失礼千万な態度をとれば顔だけで許されるはずもなく、兄の不在中に怒らせて退所、などということはできれば避けたい。
 どうにか平穏無事に、家内安全、びょうそくさいはすでに病人がいるから無理としても、とにかく余計な波風を立てず、平和に事務所を回してもらわねば!
 ここはひとつ、念を押しておいた方がいいかもしれない。
「あの、緋崎さん
 こちらの声を聞いていることはわかったが、樺子は緋崎が振り向くまでじっと待った。
 兄の事務所であること、留守の間、代わって死守するつもりであることはもう説明してある。
「言っておきますが、一か月間、もしくはもう少し短いとしても兄が退院してきてわたしがもういいというまでお手伝いしていただくことが、名刺入れをおゆずりする条件です。もしも女の子たちから多数のクレームが上がればバイトを続けていただくことはできませんし、途中で契約解除ということになればこのお話はなかったことになります。中にはちょっとわがままを言う子がいるかもしれませんが、イラついてあまり怖い顔をしたりしかりとばしたりしないでくださいね。どうか円満な業務を目指して、おおらかな気持ちでお願いします」
 本当のところは〝ちょっと〟どころではない。「衣装がダサいから着たくない」とか「一律支給の交通費の額に納得がいかない」とか、もう決まっていることに後から文句を言われても、こちらも困る。もちろん彼女たちだけに問題があるわけではなく、使い回しの衣装の保管がずさんで気持ちが悪いとか、チーム編制の中にいじめ体質を発揮する人がいるとか、ただの不満ではすまない問題もないわけではないが、仕事を受けた以上はやり切ってもらわなければならない。
 だからこそ事務所の人間は、彼女たちの声に耳を傾け、ていねいに受け止め、たとえ希望通りにはいかないとしても、寄り添う姿勢を見せるべきなのだ。
「クライアントがお金を払うのは彼女たちの労働に対してですけど、うちにとっては女の子たちこそ大事な商品そのものなんです。みがかれた容姿や立ち居振る舞い、疲れを見せない体力、そういったものを含め、ベストな状態で働いてもらうにはモチベーションも重要で、そういう意味ではわたしたちも態度に細心の注意を払う必要があります」
 こちらはおおだというのに、緋崎は話の途中で『バーニングエイム』のボールペンを見つけ、いそいそと手を伸ばしている。
わかってもらえました?」
「わかった。ようは〝商品〟からクレームが入らなきゃいいんでしょ?」
 ゆるんだ顔でうなずく緋崎が本当に理解してくれたのか、いまひとつ疑わしい。
「この仕事は単純なことばかりではないですけど、わたしたちが信用を得ることで、みんなが安心して働けるっていうことです。もちろんそれは所属してる女の子たちだけじゃなく、クライアントさんや、代理店さんも同じです」
 偉そうに注文ばかりつけて、自分はどれだけのこともできていないのが急に気恥ずかしくなり、最後に付け足した。
「わたし自身、ちょっとドジなところがあるのは自覚してるんで。『この子で大丈夫?』って思われてるだろうから、ちゃんとしないとって思ってます」
だろうね」
 どうしよう。バイト初日にして、すでに〝にくらしい〟。

 兄が入院し、はや一週間。何人かの女の子たちには簡単に事情を伝えてあったが、奇跡的な偶然に導かれ、事務所の女の子たちにイケメンをお披露目することになった。
「行きましょう」と緋崎をかした樺子は、やや緊張したおもちで事務所のかぎを閉めた。
 とにかくこの顔を見せないことには、〝ごそんがん〟のごやくにあずかれない。それどころか、顔を知らずに電話で緋崎の声だけ聞こうものなら、あまりの愛想のなさに不評の嵐が巻き起こるかもしれない。なるべく多くの子たちに顔を見せたうえで、連絡事項は必要最低限のメッセージを送信するがよろしい。作戦方針、以上。
 今回はうちの主力メンバーが集まるわりと大きな仕事で、期間は二日間。夕方のおもてさんどうで香水の香り見本をサンプリングすることになっている。サンプリングとは購買層に試供品やサンプルを配布するマーケティング手法のことで、この業界では「試供品を配布する」実務そのものをさす。商品の認知度を高め、実際の品質を知ってもらうのがその目的だ。
 コンパニオンは基本的に自立して動くので毎回現場に顔を出す必要はないが、人数が十人と多いこともあり、もともと初日だけはいんそつし、途中までは見守ろうと思っていた。
 駅に向かう道のりはまだむし暑いが、サンプリング開始予定時刻の五時半頃には、多少日差しがやわらいでいるだろう。
 緋崎の服は、今日もシンプルでセンスがいい。一応えりきでとオーダーしたからか、涼し気な素材のレモン色のボタンダウンシャツにモスグリーンのパンツ、くつはこげ茶のローファーだ。清潔感があるので、ゆったりめではあるが、まぁ合格。そういえば
「その帽子って、脱げますか?」
「えっ」
 樺子がキャスケット帽を指さすと、緋崎は途端にうろたえた顔をして帽子に手を添えた。いやべつに、そんなに驚かなくても。帽子の下の髪はぞうな黒で、長めの前髪が斜めに目の端にかかっている。もしかして、『脱ぐつもりじゃなかったから髪はセットしてないのに』とか、そういうことだろうか。
「難しいです?」
 迷ったように目を泳がせた緋崎は、言いにくそうに口ごもりながら、それでも言った。
実はちょっと『聴覚過敏』のがあって、耳を何かでふさいでると安心するっていうか
「聴覚過敏ですか」
 樺子がその言葉を知っていたのは、中学生の時にたまたまそういう子と同じクラスになったことがあるからだ。
『過敏』といっても人より聴覚がいいわけではなくて、『ふいに耳に入る大きな音や特定の音に苦痛を感じてしまう』状態を指す。たしかあの子は周囲の音からの刺激を小さくするために、時々『イヤーマフ』というヘッドホンのようなものを耳につけていた。
 もしかすると、緋崎が高校、大学ともに通信制の学校を選んだのも、これと関係があるのだろうか。キャスケット帽は耳を〝塞ぐ〟というより〝軽くかかっている〟という感じだが、体調やストレスも影響するらしいので、「安心する」という主観的な感覚自体が症状を軽減するのかもしれない。
「そうなんですね」
 樺子の表情から詳しく説明する必要がなさそうなことがわかったのか、緋崎の顔から緊張の色が抜けた。対策用のイヤホンも持ってはいるが、ずっとつけていると耳が痛くなるので、普段は家に置きっぱなしになっているのだそうだ。
「じゃあ、いいです。大丈夫です」
 彼は一般のお客様に直接関わるわけではないし、日除けのキャップ代わりと思えば許容範囲内だろう。クライアントにあいさつする時だけ脱いでもらえばおそらく問題はない。彼が不快に感じそうな音には気を付けるとして、とりあえず様子を見ることにしよう。
 あかさかつけから表参道まではぎんせんで六分。横並びに立って電車に揺られている間、前の座席の若い女性がちらちらと緋崎を見上げる。
 そうなんです。イケメンでしょう? 性格はちょっと難ありですがなんて考えだしたら、ダメだ、もう一度だけ言っておかずにはいられない。
「お願いですから、女の子たちを怒らせないでくださいね。今日嫌われちゃったりしたら、この後の仕事がホントにやりにくいですから」
「何? ぼくに〝商品〟の機嫌とれってこと?」
 つい先ほど一瞬だけのぞかせたしおらしい顔は、すでに跡形もなく消え去っている。
 けんのある言い方と表情に引きずられ、ムカムカとこみ上げるものがあった。
「わたし、そんなこと言いました? そういういちいち突っかかる態度で『怒らせないで』って言ったんです。〝笑顔〟と〝忍耐〟はコミュニケーションの必須ツールだって知ってます? もちろん知ってますよね、この程度は人としてのですから」
 言ってしまった。今日も今日とて、すでに数時間前から嫌みな口調にやられっぱなしだったせいで、溜まっていたうっぷんがついに口からこぼれ出てしまったのだ。
 ここからが大事なのにとやむ一方で、こっちには『バーニングエイム』の名刺入れがあるんだぞ、という気持ちもある。
 しかし、きれいな人の〝刺すような目〟って、怖いんだな
 ジトっと冷たい視線を送ってくる緋崎から、樺子は慌てて目をらした。

 A3出口のすぐ目の前、テナントビルに入ったコンビニが集合場所の目印だ。明日は各自で直接現場に行ってもらうが、最初だけでも身内が一緒だとがぜん気が楽になるのは、樺子も経験者としてよく知っている。コンビニの横の邪魔にならない日陰で時折れ出す冷気を味わっていると、約束時間の十分ほど前からパラパラと女の子が集まりだしてきた。
 人が増えるごとに、兄の不調をび、簡単に緋崎を紹介する。女の子たちはちょっと驚いたような顔で緋崎を眺めた後、必ずといっていいほど笑顔を見せるが、そのたびに軽くしゃくする緋崎の方は、女の子に対して笑いかける努力があまり感じられない。しかしそれでも、〝ニュートラル〟を保った顔は別段不機嫌そうにも見えないので、とりあえずのところはこれでよしとしておこう。
 実は今日の予定を最初に伝えた時、緋崎からは少なからぬ抵抗と反発があったのだが、これだけは絶対にゆずれないので、樺子も気合を入れて戦った。
「わたし、はじめから『事務とかマネージメントのアルバイト』って言いましたよね? 『マネージメント』です、不可避なんです。契約書にも書いてあります」
 緋崎はしばらくの間、尻尾しっぽを踏まれたネコのようにプリプリしていたが、現場に行くのはせいぜい二、三回であること、何がなんでも折れる気はないことを改めて伝えると、ようやく諦めた。
 三人組の女の子がにぎやかに階段を上ってきたのを見て、緋崎が一瞬たじろいだのがわかった。もしも緋崎がつらそうな顔をしたら、すぐにでも声をかけて大声はごえんりょ願おう。ここは公共の場だしクライアントさんが目の前を通るかもしれないのだから、事務所の女の子のかんだかきょうせいいんそつ役がいさめても、体面上は不自然ではないはずだ。
『聴覚過敏』は人によってつらいと感じる音の種類も大きさもさまざまで、原因はわからないことが多く、対処はできても治療は難しい。苦痛を感じるのは当人だけなので、周囲に「その音を出すのをやめてくれ」とも言いにくく、理解してもらえない孤独感は余計につらさを増幅するという。
 ただでさえ人間嫌いで、思ったことをうまく伝えることができなさそうな人だ。一緒にいるのに、一人で苦しんでほしくはない。緋崎をここに引っ張り出したちょうほんにんとして、助けることはできなくても、せめてできる気遣いだけはしたいと思う。
 幸い彼女たちは先に到着していた集団を見ると仕事モードに切り替わった。
 何度目かわからない紹介を繰り返した後で緋崎が小さなため息をついたのが気にかかり、樺子は気持ちをほぐすつもりで小声で声をかけた。
居心地悪いですか? 普通に暮らしてて、ここまで若い女性に囲まれることってあまりないですもんね?」
 人によっては天国だろうが、おそらく緋崎にとってはそうではないだろう。
「うん、よくはない。しいて言うなら、よりによって目の前で子どもがお菓子ばらまいて、ハトに包囲された時と似てる。あれはあれで苦手」
 ハト⁉ このムンムン、ギラギラ立ち込めるパッションピンクのオーラをもってして、置き換えるのが公園や駅前にいる、あのハト?
 ベンチで読書をしている緋崎がハトに囲まれたところを想像する。なるほど、緋崎にとってはそういう状況に近いのか。珍しいタイプだと思うが、女性に対して、好かれたいという思いや興味がまったくないのかもしれない。
「ねぇ、あれって外国人?」
 小さな耳打ちが誰のことを言っているのかは、すぐにわかった。
 緋崎がじっと見ているのは、そして見られていることに気づいてまんざらでもない顔をしているのは、事務所の〝中堅〟であるベテランコンパニオンだ。ブルーグレーの瞳が色白な肌によく似合い、足が長いからか、デニムのパンツがものすごくおしゃれに見える。
「カラコンです。どう見ても日本人でしょ、眼の色以外は」
「だよね。なるほど
『なるほど』って、実物見るの絶対初めてだな、この人。もしかすると〝人間〟を避けてきたせいで、知識としては知っていても初見のものが結構あったりするんじゃなかろうか。
さん、ちなみにそれって
 近づいて声をかけると、樺子のねんに気づいた当人が、言われる前に先を引き取った。
「わかってる。着替えの時に外すわよ」
 仕事の内容にもよるが、一般的には企業イメージをそこなわないようナチュラルなふんが求められ、カラコンや派手なマニキュア、過度なしょうなどはNGなことが多い。
 そしてこういうことについて、樺子からはなかなか指摘しづらいのが現実だ。
『少し前まで一緒に現場に入ってた年下のペーペーが、急に偉そうにするってどういうつもり?』とか思われたらどうしよう、と心配になってしまうのだ。裏側でなされる会話を知っている者としては、そんな想像をただの考えすぎだと笑うこともできない。
 集合時間になり一同を見回した樺子は、「全員いるか、名前を呼んで確認してください」と緋崎にリストを差し出した。
「それ、ぼくがやる必要ある? 出欠の確認なんて、顔を知ってるあんたがやればいいじゃん」
 本当は頭の中でとうに確認済みだが、一人一人名前を読み上げてもらいしっかりと目を合わせることで、さらに緋崎の顔を売る作戦だ。
 ちなみにさっきから、緋崎とヒソヒソ話すたびに目には見えない圧を感じる。イケメンと顔を寄せ合う女には、その内容に関わらず、周囲の女性から視線をともなわないいくつものアンテナが向けられるものなのだろう。
「あえて緋崎さんにお願いしてます。スタッフとして、顔と名前が一致してた方が今後のためにいいと思うんで」
「そうか、宣材写真と別人みたいな人がいるから
「ちょっしぃーっ!」
 写真スタジオなどでメイクやライティングを〝盛って〟撮影すると、たしかに実物よりも何割増しかで美人な仕上がりになる。中には印象が違うほどかいしてしまうこともあるが、そんなことは断じて本人たちの前で言ってはいけない。幸い、緋崎のつぶやきが聞きとがめられることはなかったようだ。
「名前を呼びますので、返事をお願いします」
 観念した緋崎が呼びかけると、平静をよそおった面食い女子たちが体ごと向き直った。
 ちなみに緋崎は、声も悪くない。イケメンにふさわしい〝イケボ〟である。ただ、声質が低めなうえによくようが少ないので、ものすごく落ち着いて聞こえる。
 ていねいに名前を呼び真剣に顔を覚えようとする様子は樺子に対する時とは別人のようで、にこやかさとは程遠いにせよ、まるで少しシャイなだけの美青年に見える。
 何よ、やればできるんじゃない。わたしにはいっつもボソボソ、ブツブツしゃべるくせに。子どものようなぼうじゃくじんさに気をんでいた樺子は、大いに胸をなで下ろした。
「あれ、これってやっぱり!」
 感情の見えにくい顔で名前を呼んでいた緋崎が、途中でふいに目を輝かせ、声を上げた。
 紙が挟んであるクリップボードを裏返し、色を抑えたイラストが『バーニングエイム』であることを発見すると、クシャリとした笑顔になる。途端にざわつく周囲の空気。
 見よ! これぞ、ギャップの破壊力!
 樺子には、その場にいた女子たちが「キュン!」とした音まで聞こえた気がした。周囲のバトたちから大注目を浴びた緋崎は、なぜかうるさくもないのに耳を押さえ、助けを求めるように樺子を見た。

【つづく】