#5 【7年前の亡霊・後編】

おはようございます」
「おはよ」と運転席で答えるジャスミンは、心なしか顔色が悪いように見える。
 かくいうあざみも、昨夜は悪夢を見てよく眠れなかった。
 夢の中で、あざみは家の中を歩いていた。
 見覚えのない家だった。
 突き当たりの部屋の扉を開くと、誰かが首を吊っている。
 そこで目が覚める。よかった、あれは夢だ、とほっとする。
 またうとうとすると、さっきの夢と同じ家の中にいる。
 もう一度、同じ部屋の扉を開ける。窓辺に机が据えられており、背を向けて誰かが座っている。
 その人がこちらを振り返る。顔は潰れ、()(まみ)れだ。
 そこでまた目が覚める。
 そんなことの繰り返しで、すっかり参ってしまった。
 助手席に乗り込むと、ジャスミンはすぐに車を出した。
 あざみは(かばん)にセンター長からもらった(いも)けんぴを入れっぱなしだったことを思い出した。「食べますか?」とジャスミンにパッケージを見せるが、首を横に振られてしまう。あざみもおいしく芋けんぴを食べられる気分ではなかったので、また鞄の中にしまった。
「仕事だしこんなこと言ってもしょうがないんだけどさあ、昨日の今日でまたあの場所行くの、ちょっとキツいわ。いや正直なところ、相当厳しいわ
「私もです。あ、でもセンター長さんは、昨日の怪異は如月努さんじゃないようなことを言ってました」
「如月努じゃないぃ? じゃあ誰だったのよ、アレは」
「そのあたりははぐらかされてしまって。『あなたの見たものをあらゆる角度から検討する必要がある』とかなんとか」
「相変わらずわけわかんないこと言ってんね、センター長は」
 その時、ポツ、とフロントガラスを雨粒が叩いた。午後から雨という予報通り、降り出してしまったらしい。
あのさあ、あざみー」
「なんでしょうか」
「これまで調べた事件って、結局人間のせいですってやつばっかだったじゃん。だからあたし、今回もそうなんじゃないかってハナから疑ってたわけ」
「そうだったんですか? でも私たちが昨日見たのは
「一旦最後まで聞いて。そうすると、こんなこと誰がやってんのかって話になるでしょ」
「もしかしてジャスミンさん、犯人の目星がついてるんですか?」
「まーね。現状でも結構(しぼ)れちゃうよ、犯人。アリバイの面でも、動機の面でも」
「それって
 ジャスミンはすぐには答えなかった。
「やっぱりさ、本物の如月努の怨霊が出てくるにしては遅すぎるんだよ。仮に怨霊が本物だとするなら、今さら出てきた目的って何? 無実を訴えたいってことなら、大学で無関係な人間怖がらせてないで、さっさと真犯人のとこに出て(たた)ってやったらいいじゃん。それにSNSに書き込まれてた心霊現象は、考えてみたら人間にだって起こせるやつばっかりだよ。声とか足音はスピーカーから流せばいいし、妙な光は()き部屋にライトをタイマーでセットしとくとか、もっとアナログなら、誰かが隠れて懐中電灯でも振り回せばいい。首吊り死体は見間違いか、そうじゃなきゃ人形吊るすとか」
「だけど、物置きにいたあれはどうなるんですか? 絶対人形じゃないですよ!」
「あれはさ、実はマスク(かぶ)った人間だったとかってオチじゃない? 暗くてよく見えなかったし、明るいとこで見たら、案外その辺で売ってるちゃっちいお面だったかも」
「そうなんでしょうか」
 あざみはおそるおそる昨夜見たものを思い返してみるが、やっぱりあの恐ろしい(ぎょう)(そう)が作り物のようにはどうしても思えなかった。けれどそれも、暗闇が恐怖心を増幅させて見せる幻だったのだろうか。
「でも、それじゃあ誰があんなことを」
 あー、とジャスミンは息を吐き出した。意味のないはずのその声は、「こんなこと言いたくないんだけど」という前置きのように聞こえた。
「一人いるでしょ。如月努と関わりが深くて、しかも心霊現象が起こった時には、都合よくいつもいないらしい人が」
 車がウインカーを出して左折すると、犬神大学が見えてきた。
 昨夜研究棟で起こった騒動など知らない学生たちが、傘をさして銀杏(いちょう)並木を歩いていく。天気予報を見忘れたのか、ずぶ濡れになりながら駆けていく人の姿もあった。
「ジャスミンさん、その人って」
 ジャスミンはフロントガラスを(にら)んだまま、一つ頷いた。
今村教授は、昨日あの場にいなかった」



「足元悪い中すみません。今日もよろしくお願いします」
 研究室で迎えてくれたのは、未咲と渋谷の二人だった。教授は授業があって不在らしい。
「昨日、眠れました? それともセンターの人だったら、あんなの慣れっこなんですかね」
 渋谷はそう言いながら、二人分のコーヒーを()れてくれた。よく見れば、目の下に黒々とした(くま)が浮かんでいる。
 未咲も大きなあくびを一つした。手のひらで口元を(おお)ってはいるが、それで隠しきれないほどの大あくびだ。
「心霊現象も嫌だけど、如月さんがこんな形でまた話題になってるのも気がかりなんだよね。ちょっと(ひど)いから、SNS。まるで当時の再現みたいなの」
 未咲はスマホをあざみに向かってかざしたが、「やめとけよ」と渋谷に制止された。
「そんなもん見るなよ。だから余計に眠れなくなるんだろ」
「だって私たちが見なかったら、如月さんは好き勝手言われてるばっかりじゃないですか。 亡くなった後までこんな風におもちゃにされて、それで誰も気にかけてもくれなかったら、それこそ浮かばれないですよ」
「浮かばれない? じゃあ如月さんの幽霊は本物だっていうのかよ。そんなの信じる奴がいるから、いつまで経っても騒ぎが収まらないんだ」
 渋谷の声がいら立ちを露わにするにつれて、雨脚も強くなっていく。
「いるわけないんだよ、そんなもん。あの人の怨霊が本当にここにいるっていうなら、事件当時に研究室まで押しかけたマスコミとか野次馬の前に現れて、びびらせて追い返してくれたってよかっただろ。なんで今なんだ」
「渋谷先輩だって、昨日はあんなに怖がってたのに。寝不足でイライラしてるからって、人に当たらないでもらえます?」
 二人はしばし睨み合っていたが、あざみとジャスミンがいることを思い出したのか、「すみません」とそろってか細い声でつぶやいた。
 研究室内に、気まずい沈黙が降りる。
 雨の音ばかりが耳を叩き、四人の間にはコーヒーの湯気だけが漂った。
 こんなことになっているのは、如月努の怨霊騒ぎのせいだ。
 事件を早く解決しないといけない。原因がわかっているのなら速やかに指摘、排除するべきだ。たとえそれが、どんなに切り出しにくいものであったとしても。
「あの
 声を発したのは、あざみだけではなかった。
 あざみとジャスミン、それに渋谷と未咲の全員が「あの」と声を揃えていた。
 四人は互いに顔を見合わせると、ミーティングテーブルについた。立ったままできるほど軽い話ではないと、全員がなんとなく承知していた。
 あざみはスティックシュガーを二本も入れた甘いコーヒーを一口飲む。口のすべりがよくなってくれるかと期待したけど、かえって甘みが(のど)につかえた。
「お伝えしたいことがあります」
 口火を切ったのは未咲だった。
「私たちは、今村教授を疑ってます」
 え、とあざみの口から声が()れる。
「残念だけど、状況的に怨霊騒ぎを起こしてるのは教授としか考えられない。昨日あの後渋谷先輩と話し合って、センターの方たちに今日話そうって決めたの」
「なんだ、そうだったの? あたしらもそう思ってて、二人にはどう伝えたもんかと思ってたんだけど」
 四人の間に、なんとなく()(かん)した空気が流れた。
 渋谷も未咲も悲しげではあるけれど、どこかすっきりとした、(あん)()したような顔をしている。直接師事する教授への疑念を黙って抱え続けているのは、きっと想像以上に(つら)いことだったのだろう。
「理由を、お聞きしてもいいですか。どうして今村教授に疑いの目を向けたのか」
 院生の二人は視線を見交わすと、渋谷が話し出した。
「前にもちょっと話しましたけど、今村教授は如月さんをすごく買ってたんです。優秀だからというのもありますけど、人柄に()れこんでいたというか個人的な思い入れがあったように見えました」
「それに」と未咲が渋谷の話を引き取って続ける。
「気が付いてると思うけど、教授は幽霊が出たと言われる時刻にはいつもいないの。(きも)(だめ)しに来た連中と(はち)()わせてトラブルになったら困るから、歩き回るのはやめてくださいと何度も伝えているのに、夜になるとどこかへ行ってしまう。最初は見回りのつもりなのかなとか、もしかして如月さんの幽霊に会いたいのかもって考えたんだけど。だったら止めても仕方ないのかなって。でも、そうじゃないんだってことが昨日わかっちゃった」
 未咲はパイプ椅子を鳴らして立ち上がると、(ほん)(だな)(すき)()からブランドショップの紙袋を引っ張り出してきた。けれど未咲の表情からして、中身がそのブランドのアイテムでないことはわかりきっていた。
「昨日の夜、センターのお二人と別れた後、私たちもすぐ帰ろうとしたの。だけど駅に向かう途中、研究室の(かぎ)を開けっ放しだってことに気が付いた。あんなものを見た後だから戻りたくなくて、一日くらい鍵掛けなくても別にいいかなとも思ったんだけど、でも万一肝試しに来た連中が侵入したら大事になると思って。やっぱり引き返すことにした」
「それで、二人で研究室の前まで戻りました。だけど物置きでのこと思い出すとドアノブ握るのも嫌で、二人してしばらくその場に突っ立ってました」
「でも、ずっとそうしてるわけにもいかないから。だから無言でじゃんけんして、負けた私がゆっくりドアを開けたの。そしたら、扉の隙間から人影が見えた」
 未咲と渋谷は互いに目を見交わすと、小さく頷いた。
「物置きで見た怪異が、暗い窓辺に(たたず)んでました。ちょうど、あの辺です」
 渋谷は窓辺の──今村教授のデスクを指さした。
「しかもその化け物は、頭に(かぶ)っていたマスクを目の前で脱いだんです」
「え、ぬ、脱いだ?」
「そうです。あれは怪異でも、もちろん如月さんの(おん)(りょう)でもなかった」
未咲は紙袋からずるりと何かを引っ張り出した。
 それは陽光の下で見ても、昨夜と同じグロテスクさを保っていた。
はー。よくできてるわ、これ」
 テーブルの上に広げられたのは、物置きで見た「化け物」の皮だった。
 おそるおそる触れてみると、どうやらシリコン製らしい。感触は全然違うのに、作りが精巧すぎるせいで本物の人間の()()、本物の血としか見えない。今にもぎろりとこちらを(にら)んできそうな気さえする。
「その人は、扉に向かってきました。私たちは急いで隠れて、足音が完全に遠ざかってから研究室に入って、教授のデスクの引き出しを開けたんです。そしたら、これが」
「それってさあ、もう決まりでしょ」
 ジャスミンは意地でも直には触れたくないというように、爪の先でマスクをつついた。
「僕らもそう思ってますが、これを被っていた人間の顔は暗くて見えなかったんです。ほぼ確実ではあっても、断定はできません」
「ええ? ばっちりスマホでそいつの顔撮っといてくれたら、調査終了だったのに。監視カメラとか置いてないの?」
「残念ながら。普段の研究棟は平穏そのものですし、一般人が盗みに入るような金目のものもないので」
 あの、とあざみは声を発した。
「怨霊の正体が今村教授なんだとして、教授はどこでこんなマスクを手に入れたんでしょう? すごくリアルで、その辺で売っているようなものには思えないのですが」
「たしかに。素人(しろうと)()にも安物じゃないってのはわかるわ」
「今村教授は、映画やドラマに出てくる妖怪や呪術に関する監修の仕事も時々引き受けてるんです。そういうのって、やっぱりホラー系が多くなるじゃないですか。だからその辺りで、こういう小道具が作れる人と知り合うことがあっても不思議じゃないと思います」
「なるほど。この間見た怖い映画にもちょっとこれに似た感じの怪異が出てきましたし、それなら納得です」
「あざみー、よくホラー映画なんか見たね。怖いの苦手なのに」
「センター長さんがおすすめだからって、ほぼ強制的に
 ああ、とジャスミンは()(てん)がいったというように頷いた。
「雇用主からホラー作品の視聴を強要されるって、なんらかのハラスメントに(がい)(とう)しないのかね?」
「い、いいんですよ今はセンター長さんのことは」
「それ、なんて映画だった?」
 未咲があざみに尋ねた。
「ええと、『形代村にて』ってタイトルでした。あの、それが何か?」
「ああ、ごめんね。タイトル聞いたら教授が手伝ったやつかわかるかなって思ったんだけど、ちょっと思い出せないや」
「いいだろ、今そんな話は。教授がやってるのはほぼ確定なんだし」
「でも」とあざみは口元に手をやった。 
「やっぱりちょっと()に落ちないです。今村教授が如月努さんを大切に想ってるなら、七年前の事件を蒸し返すようなことをするでしょうか?」
 けれどジャスミンは、あざみとは意見が違うようだった。
「幽霊に(そう)(ぐう)して、『僕じゃない』っていう声を聞いた人がいるんでしょ? 今村教授は如月努が(えん)(ざい)だって信じ込んでて、それを世間に主張したいんじゃないの。如月努は犯人扱いされたのを恨みに思って怨霊化した、だからあれは冤罪なんだって。それか、当時は如月努を叩いて当たり前みたいな空気だったけど、この騒動をきっかけにもう一度事件を振り返って冷静に考えてみてほしいとか。違う?」 
 ジャスミンが渋谷と未咲に水を向けると、二人も同意した。
「僕らも同じ考えです。それくらいしか動機がない。ですが教授の行動は、余計に如月さんの名誉を傷つけています。世間の人は、ただ如月さんの怨霊が出るって噂を面白がるばっかりで、教授が考えるほど優しくも()(りょ)深くもない」
「だから私たち、教授を止めたいの。こんなことしたって、教授自身が余計に傷付くだけでしょ? 世間の人にとっては、如月努も上野天誅事件もとっくに終わった話なの。興味があるのは一部のマニアだけ。それを蒸し返したって
 未咲は苦い顔で言い、顔にかかった髪を払いのけた。
「あたしらは怨霊事件解決のために来たんだから、教授を止めたいっていうならもちろん協力するよ。でもさ、いいの? 教授が事件の犯人ってなったら、どうしたって何かしらの処分は受けると思うけど。研究室ってその場合どうなるわけ?」
「さあ、先のことはわかりません。研究室は解散になるかも。でも、現時点でわかることが一つあります。こんなことは、早く終わりにすべきだってことです。教授のためにも、如月さんのためにも。そうですよね?」
 渋谷と未咲の視線を真正面から受け止めたあざみは、「はい」と返事をした。
「その通りです。私は如月努さんがどういう人だったのかは知りません。ですがたとえどんな人だったとしても、こんな風に勝手に怨霊にしてしまうのは間違ってると思います」
「よし、じゃあ決まりね」
 ジャスミンはコーヒーを一気に飲み干すと、早速立ち上がってあざみの腕を引いた。
「あの、ジャスミンさん、どこへ?」
「決まってんでしょ、車で仮眠すんの」
「え、寝るんですか?」
「そう。決行は今夜。教授はきっとまた『怨霊』になるから、その現場を押さえる。さっさとケリつけたいし、それでいいよね?」
 渋谷と未咲、それにあざみとジャスミンは顔を見合わせた。
 四人は誰からともなく、強く(うなず)く。
「よし、決まり。それじゃ今夜、『如月努の怨霊』とやらをとっ捕まえるとしよう」



 あざみはふと目を覚ました。
 車の窓から見える空が灰色なのが不思議だった。
 夢の中では、青空の下にいた。
 不思議な夢だった。あざみは宙に漂っていて、もう一人のあざみがセンター長と話したり、ジャスミンと車で移動しているのを眺めている。
 ああ、これって夢だなあ、と夢の中で気が付いていた。
 だって、そうでなければあざみが自分自身を見るなんてことはない。
 夢の中のあざみが事件解決に(ほん)(そう)するのを眺めていると、背後に(くるま)()()(きし)む音を聞いた。振り返ると、青空を背景にセンター長が薄く笑っている。
 差し出された手のひらに、「迎えにきてくれたんだ」とあざみは素直に手を伸ばした。
 そこで目が覚めた。
 車の屋根を雨粒が叩く音が耳に届く。スマホで時刻を確認すると、十七時すぎだった。
 決行まで、あと少し。
 もう一度目を閉じようとしたその時、手の中でスマホが震えた。
『どうも、あざみさん』
「センター長さん!」
 あざみは思わず口元を押さえた。ジャスミンの寝息が聞こえているので、どうやら起こさずに済んだらしい。しかし長く話していれば目を覚ましてしまうかもしれないので、車を降りる。雨に濡れない場所を探し、駐車場を離れて広場へ移動した。
 張り出した大樹の枝が(ひさし)代わりになり、乾いたままのベンチに腰を下ろす。
『そちらは順調ですか』
「はい。あの、決定的な証拠が見つかって、この事件の犯人がわかったんです。今夜現場を押さえます」
『それは喜ばしいですね。(じん)(そく)な調査、お疲れ様です』
「いえ、それがあんまり喜ばしくないというか後味の悪い終わり方になりそうで」
『仕方がありません。人の思惑が絡む以上、すっきりした結末を迎える事件なんて存在しないでしょう。ではあとひと踏ん張り、頑張ってくださいね』
 あざみは広場を行き交う学生たちを目に映した。彼らは(おん)(りょう)騒ぎなんかまるで知らないという顔をして、色とりどりの傘の下、友人たちと笑い合っている。
 終わらせないといけない。この事件を終わらせて、ああいう当たり前の平穏を取り戻さないといけない。たとえそれが、現在の形を壊す結果になってしまうのだとしても。
 あざみは左頬をぴしゃぴしゃと軽く叩いた。
はい! 頑張ります!」
『ところで現場を押さえるとのことですが、ジャスミンと二人で大丈夫ですか?』
「平気ですよ。院生のお二人も手伝ってくれるとのことなので」
 そこまで言って、小走りにこちらへやって来る人影があることに気が付いた。
 未咲だ。傘も差さず、ピアスを揺らしながら走っている。雨の中ヒールを打ち鳴らしながら走る異様さに、周囲の学生たちが何事だろうと彼女を振り返っている。
 まだ陽は暮れていない。作戦決行時刻には早すぎるのに、どうしたんだろう。
「センター長さん、すみません。何かあったみたいなので、一旦切りますね」
 あざみはベンチから立ち上がる。しかしセンター長はそのまま話し続けた。
『あざみさん。先ほど言っていた「決定的な証拠」とはなんですか?』
 あざみは早口に答えた。
「私たちが目撃した怪異は、マスクを(かぶ)った人間だったんです。そのマスクを脱いだところを、未咲さんと渋谷さんが目撃しています」
 未咲はあざみの存在に気が付いていないのか、駐車場へ行こうとしていた。
 あざみは未咲に見えるように、「ここです」と大きく手を振る。
 未咲ははっとした顔をして、こちらに向かってきた。
『本当に?』
 センター長の短い疑問が、耳の奥にするりと入り込む。まるで細い細い針金を耳の穴に差し込まれたような違和感、かすかな(おぞ)()が背中を伝った。
「本当にって、どういうことですか?」
『あなたがその目で、人間がマスクを脱ぐ現場を見たわけではないのでしょう?』
「それは、はい。でも、院生のお二人が確認してくれていて」
『私は最初に「多方面からの検証が必要だ」と伝えたはずです』
「あざみちゃん」と未咲が息を切らしながら呼んでいる。
『あざみさん、考えることを諦めないでください。真実は必ずどこかにあり、あなたに発見されるのを待っています。けれど諦めてしまえば──』
 センター長の言葉が終わる前に、未咲があざみの目の前に走り寄った。膝に手をつき、荒い息を整えている。その混乱しきった表情と濡れそぼった髪を見れば、何かが──それもよくない何かが──起きたことは、(いち)(もく)(りょう)(ぜん)だった。
 思わず通話を切り、スマホをポケットにしまう。
「未咲さん、何があったんですか」
「ひ、人が」
「人が?」
 未咲の背をさすり、息を吸って吐かせる。それでやっと、未咲はまともにしゃべれるようになった。
「人が、落ち、落ちたの。研究室の窓から」
「え⁉」
「怨霊の正体は、やっぱり教授だったの! こんな時間から研究棟に入り込んでた(きも)(だめ)しの人と(はち)()わせて、もみ合いになったみたいで。そしたら、その人が窓から落ちて。あざみちゃん、私、どうしたら」
 未咲の目に涙が盛り上がっていく。
「えっと、落ち着いてまずは救急車を呼びましょう!」
「きゅ、救急車はさっきもう呼んだ」
「それじゃ、教授は今どこに?」
「渋谷先輩に任せて、研究室に。でも教授、様子がおかしくて。『もうおしまいだ』とかぶつぶつ言ってて、なんだか怖いの。お願いあざみちゃん、早く来て」
 未咲があざみの(そで)を引く。その手はかすかに震えていた。
 あざみは未咲の手を取って、ぎゅっと握った。
「わかりました、すぐ戻ります。それで、警察にも連絡しましょう」
 警察、と聞くと紅潮していた未咲の頬から血の気が引いた。未咲は教授を説得して大学に報告するくらいで、内々に事件を処理できると思っていたのだろう。
「事故が起きてしまった以上、仕方ないです。これ以上良くないことが起これば、如月努さんだって悲しみます! 私は如月さんのことを直接は知りませんが、渋谷さんが言われるように優しい方だったなら、きっとそう感じるはずです!」
 未咲は唇を()みしめていたが、やがてこくりと頷いた。
 指導教官を(おおやけ)に告発することになるのだ。未咲だって苦しくないはずがない。
 でも、こうするしかない、事件を終わらせるためには。
「とにかく、今は研究室に急ぎましょう! 教授も渋谷さんも心配です」
 あざみは未咲の手をつかんで強く引いた。
 ジャスミンを起こした方がいいかもしれないとちらっと思った。けれど今から駐車場に戻れば、さらに時間をロスしてしまう。その間に何かが起これば、取り返しがつかない。
 研究室に着いて、状況が落ち着いたらすぐに連絡しよう。
 あざみはそう決めると、濡れた地面を()って駆けた。


 
「今村教授! 渋谷さん!」
 音を立てて研究室の扉を開くと、二人は(かん)(まん)な仕草でこちらを振り返った。
 教授は窓辺に立ち、渋谷はその少し手前の(ほん)(だな)の前にいる。二人のどちらも、怪我(けが)を負ったような様子はない。ひとまずほっとして歩み寄ろうとして、今村教授の手に例のマスクがぶら下げられているのに気が付いた。
やっぱり」
 背後で、未咲が扉に(かぎ)をかける音がした。教授が逃亡するのを防止するためだろう。
 しかし今村教授は逃げようとするどころか、(しょう)(すい)したり(げっ)(こう)したりする様子も見せず、投降の意志を示すように両手を頭上に(かか)げた。
 その拍子に、マスクがばさりと音を立てて床に落ちる。
「あの、窓から落ちたという人は?」
「救急車が連れていきましたよ。意識はありましたし、そんなにひどい状態ではないと思います。警察ももう呼びました。じきに到着するはずです」
 渋谷の答えに、あざみはふうっと息を吐いた。
 とりあえず最悪の事態は避けられたようだけれど、あざみの仕事はここからだ。
 今回の事件で解体すべき都市伝説は「如月努」。
 最初から特定は()されていた。今、その解体に進まなくてはならない。
 一度切ってしまったからか、センター長からの電話はかかってこない。
 けれどもう、答えは見えている。
 あざみは窓辺に立つ教授の方へと歩み寄った。
「今村教授。どうしてこんなことをしたんですか?」
 教授は、ふ、と寂しそうな笑みを()らした。切り揃えられた口ひげがかすかに揺れる。
「やれやれ。今さら取り(つくろ)ったところで仕方ないですね。福来さんには、もう質問の答えの見当はついているんでしょう」
「私は、今村教授の口から直接聞きたいんです」
 教授の顔から微笑が消える。
「なぜ、如月努の怨霊を演じ、わざわざ(うわさ)を拡散させたか。理由なんか一つに決まっているじゃないですか」
 無表情になった彼の顔はこれまでとは別人のようで、もう一枚マスクをべろんと()いだみたいだった。
「思い知らせてやりたかったんですよ。無責任な言葉をまき散らした連中に、罪の重さを」
「罪って
「もちろん、如月君を犯人に仕立て上げた罪、そして死に追いやった罪です。彼らは人一人殺しておきながら、誰に(とが)められることもなくのうのうと生きている。けれど法律は彼らに殺人罪を適用することはできません。そして如月君が犯人であるはずがないといくら訴えても、警察は再調査もしようとしない。だったらせめて、如月努は怨霊となって今もお前たちを恨んでる、それくらい思わせたっていいでしょう」
 教授は疲れたように、自分のデスクの椅子(いす)を引いてどさりと腰かけた。
「教授」と渋谷が駆け寄ってその背をさする。そうされている今村の姿は、これまでよりもずっと(とし)を取って見えた。
「あの、でもどうして、如月努さんが犯人ではないって言い切れるんですか」
 今村の目が、あざみをじっと見た。その(にご)りのない目で見つめられるのは、(にら)み付けられるよりも怖い気がした。
「あり得ないからです。彼では、あり得ない。学問の世界では、論拠もなしに『あり得ない』なんていうのは愚か者のすることです。けれどこれは、学問ではなく人間についての話です。()(りょ)の事故だというのならまだしも、彼が意志を持って誰かを殺すなど、絶対にできるわけがないんです。私の教え子だった彼は、そういう人間ではなかった」
 しかし生前の如月努を知らないあざみにとって、自分の言葉が(むな)しいものであると気付いたのか、教授は天井を(あお)いだ。
「世間の人々に良心が備わっているのならば、如月君は(えん)(ざい)で、無念のままに死んだからこそ怨霊となったのかもしれないと考えてはくれないかと期待しました。ですがそれも、どうやら無駄だったようですね。この期に及んでまだ、人間の良心というものに期待をかけた私が馬鹿だったんです」
 穏やかだった今村教授の目に、憎悪の光がちらつくのを見た。その光は、昨日今日宿ったものではない。教授の中にずっとくすぶり続けた炎が(かい)()()えただけ、そういう気がした。ジャスミンは「七年経ってから怨霊になるなんて遅すぎる」と言っていたけれど、そんなことはなかった。今村教授にとっては、如月努は昨日死んだも同然だった。
「法律も警察も期待できないのなら、自分でやるしかない。足音や不気味な声を録音して流したり、()き部屋で懐中電灯を点滅させたり、人形を吊るしたり、自らマスクを(かぶ)って(はい)(かい)したりと、いろいろやりましたよ。一つ一つ挙げていってみれば、馬鹿みたいですね」
 教授は()(ちょう)の笑みで口元を歪めた。
「それでも噂が広まることで、どこかにいるはずの真犯人は(きも)が冷えたのではないでしょうか。いつか目の前に如月君の怨霊が現れて、自分を()り殺すんじゃないか。一瞬でも犯人がそう恐怖したのだとしたら、私は満足です」
 あざみは背負った(かばん)のストラップをぎゅっと握りしめた。
「教授の気持ちは、わからなくはないです。でもでも、そのために無関係の誰かが傷付いてもいいんですか? 今村教授がしたことが発覚すれば、渋谷さんや未咲さんはどうなるんですか。教授は本当に、それで満足なんですか」
 あざみがそう言うと、今村教授はふっと笑った。
あなたに、何がわかるっていうんですか」
 ぞくりと、背筋に寒いものが走る。
 渋谷があざみと教授の間に割って入った。
「福来さん、もういいです。教授の話は、警察が聴取しますから」
「よくないですよ! どうしてこんなことをしたのか、せめてお二人には説明する義務が今村教授にはあると思います。だって、教授が逮捕されたらこの研究室は
「終わるでしょうね。如月さんの件でも危うかったのに、教授まで逮捕されたとあれば、存続は難しいでしょう。だけどもう、いいんです。この七年間、教授はずっと苦しんでいました。だから、教授の気持ちが少しでも軽くなるのなら、これでよかったんだって思ってしまいます。怪我をした人には悪いけど」
「でも、それじゃあ
 未咲が背後から歩み寄ってきて、あざみの肩に手を置く。
「後味の悪いことに巻き込んじゃってごめんね。ここまで協力してくれてありがとう」
 あざみはぶんぶんと首を横に振った。
「でも私、結局何もできなかったです」
「そんなことないよ。私たち、センターの人たちが来てくれなかったら、きっと教授のことを疑いながらもずっと言い出せなかった気がする」
 だからこれでいいの、と未咲はあざみの肩をつかむ手に力を込めた。
「大丈夫。後始末は、ちゃんと自分たちでやるから」
「未咲さん
 その時、あざみのスマホが鳴った。この状況だし後でかけ直そうと無視していたが、着信音はまったく鳴り止まない。
 仕方なくポケットから取り出してみれば、ジャスミンからだった。目が覚めてみたら車内にあざみがいないので、心配してかけてきたのだろう。
「もしもし。勝手にいなくなってごめんなさい。でも大丈夫、事件はもう解決──」
 しかしあざみの言葉は、ジャスミンの大声に(さえぎ)られた。
『あざみー、もしかして今研究室にいる⁉』
「え、ええと、はい」
 クソ、とジャスミンが悪態を吐くのが聞こえてくる。
『いい? なるべく自然な感じでそこから離れて! トイレ行くでも気分悪いでもなんでもいいから!』
「あの、ジャスミンさん、どうしたんですか?」
『あたしたち、思い違いをしてたの! 教授が犯人ってだけでこの事件は終わらない!』
え?」
『さっきあざみー探して、社会学部棟から出てきた学生に(かた)(ぱし)から声かけたの! 「院生の三浦未咲さんか渋谷真司さんと一緒にいると思うんだけど」って! そしたら中の一人が「渋谷さんなら今、海外留学中ですが」って!』
「留学?」
 あざみは教授の隣に(たたず)む渋谷に目をやった。
 渋谷はそこにいる。いったい何があったのかと、()(げん)そうな顔であざみを見返している。
「何かの勘違いじゃないですか? だって、渋谷さんはここにいて」
『あたしも信じられなかった! だから教員っぽい人もつかまえてきいてみたんだけど、おんなじこと言うの! 今、渋谷真司は日本にいないはずだって! あざみー、そいつらのこと信用しないで!』
「待ってください、そんなのって」
 あざみの視線が、渋谷と名乗る男、未咲、今村教授の間で揺れる。
『センター長が言ってた「多方面からの検証が必要」ってこういうこと? まんまと引っかかったあたしもバカだけど、最初(はな)っからもっとわかりやすく言っといてくれたら!』
 ふと、ジャスミンの声が耳から遠ざかった。
 同時に、肩に置かれていた未咲の手の重みも消える。
 振り返ると、未咲があざみのスマホを奪い、通話を切るところだった。
「あの返してください」
 あざみはスマホに手を伸ばしたが、未咲は残念そうに薄く笑い、首を横に振った。
 コトリと音を立て、あざみのスマホをテーブルの上に置く。
 扉を振り返ると、いつの間にかそれをふさぐように渋谷がその前に立っていた。
 助けを求めるように、椅子の背に体を預けた今村教授を見る。しかし彼はこちらを見ない。もう何も見たくないとでもいうように、窓の外ばかりをぼうっと眺めている。
「ごめんね。本当は窓から人なんて落ちてないし、救急車も呼んでないんだ。あざみちゃんとお話ししたくて、嘘を吐いたの」
「う、嘘? いったいどういうことなんですか」
 あざみが言うと、渋谷──渋谷とあざみに名乗っていた(きゃ)(しゃ)な男は、頭を振った。
「どうって、もうバレちゃいましたよね」
「そんな。渋谷さんは、渋谷さんですよね?」
「いいえ。本物の渋谷は、海外留学中です。僕の本名は田丸。田丸祥太郎」
「先輩!」
 未咲が声を高くした。
「今さらだよ。もう、おしまいだ。止木さんは、福来さんがここにいるって知ってる。隠し通せるわけがない」
「そんなことないですよ、渋谷先輩。諦めるのはまだ早いです。この子と止木さんが黙っていてさえくれれば、まだ」
 未咲はあざみの手を強く握った。直接触れた未咲の手はやはり荒れ、節くれだっている。
「あざみちゃん、違うの。ちょっとした勘違いがあっただけ」
 未咲の顔が眼前に迫る。その目はかすかに血走っていた。
「あの離してください」
 あざみは手を引こうとするがびくともしない。
 ──どうしよう。
 やっぱりジャスミンに一緒に来てもらうべきだった。
 ジャスミンがいれば、大人三人相手だって絶対なんとかしてくれたのに。
 その時、場違いに思える特徴的な着信音がテーブルの上で鳴り響いた。
「セ、センター長さん! 今ですか⁉」
 その音を聞いたら、思わず涙が出そうになった。別にこの着信音が鳴ったからって、センター長が駆けつけてくれるわけじゃない。だけどもう大丈夫なんだと、わけもなく思った。
 この事件は「解体」される。
 あざみがスマホに手を伸ばそうとすると、未咲に(はば)まれた。
しかし田丸は鳴り続けるテーブルの上のスマホを取り上げ、あざみに差し出した。
「先輩!」
もうやめろ。今さら無駄だ。三浦さんだって、本当はもうわかってるでしょ」
 未咲は唇を()んでいたが、やがて諦めたようにあざみから手を離した。
 着信音は鳴り続けている。電話に出ると、耳慣れた声が聞こえてきた。
『どうも、あざみさん』
 センター長の(こわ)()は、腹が立つくらいにいつも通りだ。
「センター長さんん
『おや、泣いているのですか? しかし涙を流している暇はありませんよ』
 あざみは鼻水をすすり、「ふぁい」と返事をした。
『ですから先ほど「二人で大丈夫ですか?」と確認したのですが。それを二人どころか一人で敵陣に飛び込んでいくとは、まったく無茶をするものです』
「わかってたなら、ちゃんと教えてくださいよぉ!」
 しかしセンター長はあざみの泣き言をまったく黙殺した。
『さて、それではいよいよ解体に移るとしましょうか』
 センター長がそう言った途端、あざみの視界に、四つのパーツが組み合わさった巨大な(じょう)(まえ)が現れる。この錠前は、センター長やあざみのように、(せん)()(がん)や念視といった能力を持つ人間の目にしか見えない。錠前に連なる四つの(かぎ)を正しく揃えることで、真相にたどり着く──つまり事件を「解体」へと導くことができる。
『全てを見極めよ。天眼錠(アイ・オープナー)
錠前につながった鎖が、じゃらりと擦れ合う音が耳を(かす)めた。
『あざみさん。私の言葉を研究室の彼らにも伝えてください』
「は、はい」
『今回の都市伝説の名は「如月努」。まずは事件の始まりから(ひも)()いていくとしましょう。つまり、「如月努の(おん)(りょう)が犬神大学に出る」という(うわさ)が発生した時点にまでさかのぼります。さてこの噂は、いったいどこから発生したものなのでしょうか。「如月努」は未だにネット上で火が付きやすいワードではありますが、上野天誅事件からすでに七年が経過しています。何かしらのきっかけがなければ、噂はここまで広まらなかったでしょう。たとえば如月努に近しい誰かが、意味深なワードをネット上に投稿するとか』
「まさか、噂自体を作り出したのも教授たちってことですか」
『Fantastic! ある意味ではその通りなのですよ、あざみさん』
今村教授は観念したように立ち上がると、ミーティングテーブルについた。今村教授が目で促すと、その両脇を田丸と未咲が固める。
「そうです。この騒動を引き起こしたのは、私です。二人はただそれに巻き込まれただけ」
教授はあざみに対面の席を勧めた。
「止木さんがここへ来るまでの間、私たちの話を聞いていただけますか」
 センター長は何も言わない。無言であざみの行動を眺めている。
「早くそこを離れて」というジャスミンの言葉が、耳の奥によみがえった。
 けれどあざみは心を決め、椅子(いす)の背をつかんで引いた。
 解体はすでに始まっている。
 今ここでこの人たちの話に耳を傾けなければ、真実を知ることはできない。
 経緯については、大学側が調べればいずれわかるかもしれない。だけど「どうして」こんなことをしたのか、何が如月努の怨霊を作り上げたかは永遠に闇の中になる。
 あざみが席に着くと、今村教授は「ありがとう」と眼鏡(めがね)の奥で目を細めた。
「最初は故意ではなかったんです。あんな噂を流すつもりはなかった」
 教授が何かを探すような仕草をすると、田丸が横からタブレット端末を差し出した。
「そう、すべてはここから始まったんです」
 今村がタブレットをあざみの方へ向ける。
 そこには一枚のスクリーンショットが表示されていた。
 おなじみのSNS画面、一つのポストを切り取ったものだ。

 振り返った研究室にはこうこうと明かりがともっていた。
 まるで彼がまだそこにいるかのように。

「今から三週間ほど前の深夜、私が退勤時に投稿したポストです。この短い文章一つが、如月君を怨霊に変えてしまった」
え? だってこれ、如月努さんの名前も出てないし、怨霊についてだって一言も触れてないじゃないですか」
「そうです。私はただ『彼がそこにいるかのように』と言っただけ。
 あの日は私が最後に研究室を出て、照明を消し忘れたんです。そのことに、研究棟を出てから気が付きました。明かりの(とも)る研究室を見上げて、ああ、如月君が生きていた頃はいつもこうだった、彼はいつも一番遅くまで残って研究に明け暮れていた。そんな感傷に浸っただけのポストでした。今思えば、たったそれだけのこと、妻にでも話せばよかったんです。ですが、事件当時は妻にもずいぶん心配をかけました。七年も経ってまた彼の名を出したりしたら、いらぬ不安を与えることになる。だから、私は
「教授は悪くないです。悪いのは、(きょっ)(かい)して噂を広めた連中ですよ」
 未咲は怒りをにじませた声で言うと、あざみの手からタブレットを奪い、教授のポストから翌日にかけて、「犬神大学」「如月努」で検索した結果を画面に表示させた。

『この今村って人、犬神大学の教授でしょ。なんか意味深じゃない?』
『調べてみたら社会学部の教授らしい』
『じゃあもしかして、如月努がいた研究室の人だったり』
『「彼」っていうのは如月努?』
『それ以外にどう読めるんですか? 「まだ」ってことは本来はそこにいるはずない、もうこの世にいない人ってことに決まってるじゃないですか』
『まって。じゃあこれって、「如月努がそこにいた」って意味?』
『如月努は(じょう)(ぶつ)できずに今も犬神大学をさまよってるってこと⁉』

 最初こそ今村教授のポストが引用されていたが、次第に噂は一人歩きを始める。
 発端のポストは、数多(あまた)の声に埋もれていく。
「よくない流れになっていることに気が付いて、私はポストを消しました。しかしその時にはもう遅かったんです」
 発生源のポストを削除したところで、すでにこの世の姿を現した「如月努の怨霊」は消えてくれなかった。SNS上には「犬神大学には如月努の幽霊が出る」という噂だけが残り、無数の尾ひれを巻き取りながらネットの海を(はい)(かい)し始める。

『犬神大学に如月努の幽霊出るらしいね』
(げん)(えき)(せい)のいとこがガチだって言ってた』
『知り合いにワン大社会学部の奴いるけど、学部内じゃ前から有名な噂だったらしい』
『谷原きのこが更新停止してる今、その他心霊系配信者の皆さん! チャンスですよ!』
『ワン大から生配信やろうかな。見てくれる人多そうだったら企画する!』
『おっ不法侵入の犯罪宣言? 激アツじゃん』
『心霊配信じゃなくて逮捕配信になっちゃうよ~』
『あのさ、本当にやめといた方がいいよ。あたしの先輩の友達とか、面白半分に見に行って今入院中らしいし』
『それ、俺のいとこ。なんで行く前に止めなかったのか、すげえ(こう)(かい)してる。ここのは本物だから、絶対行くな』
『これは完全に「押すなよ、絶対に押すなよ」の流れ』
『一連の()(きん)(しん)な噂話、信じられません。あなた方は上野天誅事件の()(せい)になった被害者の方やそのご遺族のお気持ちを思いやれないのですか? 一度でも真剣に考えたことがあるのなら、こんな風に面白がるなんて絶対にできないと思います』
『そんなこと言い出したら、怪談とか心霊スポットなんか全部そうじゃん』
『未解決事件だし、このまま風化するよりはどんな形でも話題にされた方がいいでしょ』
『未解決っていっても犯人は如月努で決まりだけどね』
『ほんとネット民って無責任。こんな噂に乗せられて大学侵入してトラブルになっても、誰も責任取らないってのに。冷静になって考えてみてよ、怨霊なんかいるわけないでしょ』
『顔真っ赤で否定する人がいると、余計本物っぽく見えるのってなんでだろ』

「最初は、たったあれだけのポストだったのに
「私も(けい)(そつ)だったんです。仮にも民俗学を研究する者として、噂が時にどんな広がり方をするかは重々承知していたのに。とんだ失態でした」
 教授は深い深いため息を吐いた。まるで呼気とともに彼の魂も抜け出ていってしまいそうな、そんなため息だった。
『あざみさん、これでもうわかりましたね。「如月努の怨霊」はなぜ現れたのでしょうか?』
はい。今村教授が彼に関するポストをし、それを誤解した多くの人たちによって『如月努の怨霊』は生まれてしまった」
『Great! その通りです』
 なめらかな発音が耳を()でると、視界に浮かぶ(かぎ)の一つが回転し、光を放った。
 残る鍵はあと三つ。
『さて、これで噂の発生源については判明しました。次の謎に移るとしましょう』
 鎖に(つな)がれた二つ目の鍵が、きらりと光る。まるで謎が解かれ、「解体」される瞬間を待ち焦がれるかのように。
『教授の証言を信じるならば、噂の発生は故意ではなかった。ならばなぜ、自ら如月努の怨霊を演じ、かえって噂に火を付けるようなことをしたのでしょうか。それは、すでに悪名高い如月努の名をさらに(おとし)める行為です。生前の如月努と親交がありながらそんな真似(まね)をしたのは、いったいどうしてなんでしょうね』
「センター長さん、もう少し言葉を選んで
『おや、失礼。それでは答えを考えてみてください』
 あざみは両手を(ほお)に当てて考え込んだ。
 今村教授は自分の発言が曲解され、意図とは違った広まり方をしてしまった。その結果、犬神大学は心霊スポットと化す。しかもやって来る人たちは、(まな)()()だった如月努の幽霊を、一時の退屈しのぎやバズりの手段としてしか見ていない。
そんな事態になったら、きっと悲しいし、(くや)しいです。教授は幽霊がいるように見せかけることで、肝試しに来た人たちを怖がらせようとしたんじゃないでしょうか。一種の仕返しみたいな
『Excellent! さすがですよあざみさん』
 センター長がそう言うと、二つ目の鍵が光を灯した。
『今村教授は如月努の名を汚したいわけではなかった。むしろ興味本位の(やから)を追い返すために始めたことだったと考えるのが自然でしょう。結果として、その(もく)()()はうまくいったとは言い難いですが』
「そのことについては、補足させてください」
 未咲が教授を(かば)うように会話に割って入った。
「そもそも教授は、こんなことを始めるつもりなんかなかったんです。でも、如月さんの幽霊を見に潜り込んだ連中が鍵を壊して研究室に侵入したんです。私と先輩が気付いて、扉の外から様子をうかがってました。そのうち、そいつらは本棚に如月さんの著作を見つけて
 続きは田丸が引き取った。
「本の一節を読み上げてげらげら笑ってるのが聞こえたけど、そこまでなら、ただの迷惑な連中で済んだんです。黙って耐えればよかった。でも連中は、如月さんの本の表紙に印字された彼の名前をマジックで塗り潰して、『犯罪者』と書き換えたんです。さらにはご(てい)(ねい)に『(てん)(ちゅう)』と書いた紙まで添えて、教授の机に置いた
 その時の怒りを思い出したように、田丸のこめかみがひくりと(けい)(れん)する。
「許せないと思いました。でも向こうは男六人のグループです。こっちはひょろひょろの先輩と私だけなんで、出ていくのは怖かった。警察を呼んだって大した罪にはならないし、到着を待っている間に逃げてしまうかもしれない。それで、思い付いたんです。『そんなに如月努の怨霊が見たいなら、見せてやればいい』って」
「僕らはこういう分野が専攻ですからよく知ってます。幽霊なんかいるわけない、本当にいるなら見てみたいって虚勢を張る人間が、結局一番心霊現象を怖がってるんです。幽霊らしきものの(へん)(りん)でも見れば、さっさと逃げ出すに決まってる」
「だから私は先輩にマスクを貸して、彼らの前に躍り出てもらいました。目論見通り、先輩がマスク(かぶ)って突っ立ってるだけで、すぐに連中は逃げていった」
「ちょっと待ってください。なんで三浦さんがあんなマスクを持ってたんですか?」
 センター長の吐息が耳元で聞こえる。
『あざみさん、何のために「形代村にて」を鑑賞してもらったと思っているんですか』
「なんのためにってえ、あれ? もしかして」
 未咲の持つ(ふん)()()とは裏腹の、荒れた硬い手のひらと短く切り揃えられた爪。そして彼女は今村研究室に、まったく畑違いの分野から入ってきたという。
『もう忘れてしまいましたか。「形代村にて」の小道具造形を担当したのは──』
 センター長の言葉を、あざみが引き継ぐ。
「当時無名の美大生だった女性──それが、未咲さん?」
 未咲は否定することなく(うなず)いた。
「三浦さんはもともと美大にいて、妖怪や怪異の造形を得意としていました。一度きちんと対象について学びたいということで、うちの研究室に来たんです」
 未咲は困ったような顔で薄く笑った。
「『形代村にて』、見てくれたんだね。あの映画に出てくる人形や怪異を作る時に、如月さんの著作を参考にしたの。それをSNSのリプで伝えたり、ネットのインタビューでも如月さんの名前を出したりしてたら、サイン会に行った時に私のこと覚えててくれて。映画も見てくれて、『素敵な怪異でしたね』って言ってくれた。それから、SNS上でたまにやり取りするようになったの。優しい人だったよ、本当に。私は今でも、あの人は犯人じゃないって信じてる」
如月努さんと、お知り合いだったんですね」
「うん、尊敬してた。そうじゃなきゃこんなことしないよ。一度本格的に制作対象についてちゃんと勉強しようと思えたのも如月さんのおかげだし、犬神大学を選んだのも、もちろん彼がそこにいたから」
「隠しててごめんね」と未咲は足元に落ちたマスクを拾い上げ、(いと)おしそうに胸に抱いた。
『さて、これで三浦未咲氏の動機ははっきりしました。あざみさん、それはいったいなんだったでしょうか』
「はい。未咲さんは如月努さんと個人的な交流があり、尊敬もしていた。だから彼を()(じょく)するような行為に怒り、田丸さんと協力して『(おん)(りょう)』を演じた。そしてその関与を隠すため、自身が造形作家であることも、如月努さんと親交があったことも伏せました」
『ご名答です。では、つぎの段階へと進みましょう。今度は田丸氏についてです。彼が渋谷と名前を(かた)ったのは、なんのためだったのでしょうか』
「ええと、それは
 未咲が隠し事をしていた理由は、如月努との親交を秘すためだった。それなら、田丸のとった行動もその辺りに理由があるはずだ。
「田丸祥太郎だと名乗ると、如月努と親しかった証拠が何か出てきてしまうから?」
 ほとんど当てずっぽうだったが、センター長は『BINGO!』と声を弾ませた。
『あざみさんは、やはり調査員としての適性がありますね』
 田丸は諦めたように首を横に振った。
「田丸祥太郎の名前で検索すれば、如月さんとの関連はすぐにヒットしますから」
 彼は(ほん)(だな)を振り返ると、二冊の本を抜き出してテーブルに並べた。
 一冊は論文集で、その中の一編が如月努と田丸祥太郎の共著となっていた。そして二冊目には『「オカルトグレートリセット」から如月努を読み解く』というタイトルが印字されている。著者名は「田丸祥太郎」。
「『オカルトグレートリセット』は如月努の代表作、でしたよね」
「そうです。こっちの本は、如月さんが亡くなってから五年後に自費出版して研究仲間にだけ配ったんですけどすこぶる不評でしたね。なんであの人のことを蒸し返すんだ、こんな本出してたら学会で(にら)まれて研究者になれなくなるぞって、いろんな人から言われました。彼らの言うことはもっともです。でも、僕はあの人の研究成果までなかったことにはしたくなかった。だからわざわざこんなものを書きました。だけどそれが巡り巡って今はジマーの愛読書になって、如月努(らい)(さん)の書みたいに受け取られてるらしいんですよ。まったくやりきれないというかまあ、そんな話は今はいいんです」
 田丸は(うっ)(とう)しそうに前髪をかき分けた。
「とにかく田丸祥太郎としての僕は、如月さんには本当によくしてもらいました。フィールドワークでうまく人に話しかけられない僕を、いつも引っ張ってくれたり。でも僕は教授や三浦さんと違って、あの人が天誅事件の犯人じゃないと百パーセント信じられてるわけじゃないんです。優しい人だったけれど、だからといって人を殺す可能性がゼロだということにはならないですし。でも、本当のところがどうだったとしても、少なくとも僕にとってはいい人だったのも、ネットで言われてるような危険思想の持ち主でもなかったのも確かです。死んでほしくなんかなかった。なのに僕は、如月さんは強い人だから平気だろう、放っておけばそのうち(うわさ)も収まるだろうって、七年前には何もしなかった。『大丈夫ですか?』なんて如月さんに訊いたりして。そんな風に訊けば、あの人は『大丈夫だよ』って答えるに決まってるのに」
 田丸はふうっと息を吐き出した。
「僕は、如月さんから受けた恩をちっとも返せないままでした。だから、今回はとっさに怨霊のふりなんかしてしまった。だけど
 あざみは一つ頷き、田丸の言葉の続きを考えた。
「だけど怨霊の噂はどんどん広まって、手に負えなくなってしまった。事態を手をこまねいて見ているだけでは不自然なので、研究室は都市伝説解体センターに調査依頼をしたけれど、田丸祥太郎だと名乗れば、生前の如月努と親しかったことはすぐに発覚する。そうすれば、田丸さんも動機ありとして疑いを持たれるかもしれない。だから、留学中の渋谷さんの名前を借りた?」
『Perfectですよ、あざみさん。さらにいえば、学部生やほかの教授に聞き取りをしないよう言ったのも、名前の入れ替え発覚を防ぐためだったのでしょうね』
 センター長の言葉に、田丸は目を見開いた。(せん)()(がん)のことは伝えていないので、とんでもない(あん)(らく)()()探偵がスマホの向こうにいるように感じるのだろう。
「その通りです。渋谷は如月さんとは研究面で対立することも多かったので、名前を借りました。福来さんが犬神大学の学生だって知った時は、(きも)が冷えましたよ。僕も本物の渋谷も教授の授業を手伝うことがあったから、もし福来さんが今村教授の授業を受講していて、顔を覚えられていたら終わりです。直接僕らのことを知らなくても、社会学部の友達がいたらそこから嘘がバレるかもしれない。幸いにも福来さんは理系で、サークルにも入っておらず、文系学部にほとんど縁がないと知って安心しましたけど」
 窓の外から、学生たちの明るい笑い声が聞こえてくる。すぐ近くに彼らはいるはずなのに、まるで別世界から届く声のような気がした。
(ほっ)(たん)については、よくわかりました。でも、侵入した悪質な人たちを追い返すためだったなら、『如月努の怨霊』になるのはその一度でよかったんじゃないでしょうか」
『あざみさん、冴えていますね。そう、次に解き明かすべきは「なぜ彼らは継続して怨霊を演じ続けたのか」です』
 未咲と田丸の顔を交互に見る。未咲は(しか)られた子供が泣き出す寸前のような顔をして、唇を()んだ。仕方ないといった風に、田丸が話し出す。
「書き換えられると思ったんです。そう、うぬぼれていました」
「書き換える? いったい何を」
 田丸はスマホを何度かタップして何か検索すると、こちらに画面を差し出した。

『如月努の怨霊が今さら現れたのって、何かこっちに伝えたいことがあるんじゃないの? やっぱり上野天誅事件は(えん)(ざい)でした、とか』
『そういえば夜中に研究棟のそばを通りかかった時、「違う、やってない」みたいなことをぶつぶつ言う男の声を聞いたって話をどっかで見た気がする』
『無実を訴えに化けて出るってのも、昔からよくある話だしなあ』
『当時のSNSって、なんか如月努が犯人で決まりって感じで怖かったもん。でもそんなこと言ったら、自分まで叩かれるから言い出せないし』
『たしかに思い返してみると、如月努って別に逮捕されたわけでもなかったんだよね。なんであの人が犯人だってことになったんだっけ?』

 一連のポストを一通りスクロールし終えると、未咲が言った。
これだと思ったの。如月さんを殺したのは、彼が上野天誅事件の犯人だっていう、世間が作り出した強固な物語でしょ。それなら、今世の中に広がってる物語を(りょう)()するほど強い物語をこっちが生み出せばいいんだと思った。今はまだ一部の人が話してるだけだけど、如月さんが冤罪かもしれないっていう疑惑を物語に育てていけばいいんだって」
 (はな)をすする未咲に代わって、田丸が続ける。
「民話も都市伝説も、時を経れば強い物語だけが生き残ります。強烈なインパクトがあったり、生活に強く結びついたりしているのが強い物語です。それが欠けた物語は、研究者に記録されなければ、自然に強い物語に統合されるか、やがて消えゆく運命です。
 だったら、『如月努は殺人者』だという物語を()(ちく)するにはどうすればいいか。より強い物語に食わせてやればいいんです。如月努は殺人など犯していない、だからこそ自分を死に追い込んだ世間を恨み、怨霊となって未だこの世を(はい)(かい)している。そういう物語に書き換えてやればいい。幽霊騒動の起きた今こそ、そのチャンスなんだと気が付きました」
「だけど物語が強くなるためには、噂だけじゃ足りないの。必要なのは、体験。実際に()の当たりにさせること。噂につられてやって来た(けい)(そつ)な人間に、如月努はたしかにまだここにいて、世の中を憎んでいるとわからせなくちゃいけない。
 幸運にも、私にはその(すべ)があった。この手で怪異を作り出すことができるんだから」
 未咲は腕の中のマスクにすがりつくようにぎゅっと抱きしめた。
「田丸先輩と計画を決めてから、急いで製作に取り掛かった。最初に使ったみたいな、適当なマスクじゃだめ。一目見ただけで、恨み、憎しみ、呪いがほとばしるような怪異じゃないと。そのために、何度も何度も作り直して()り上げた。その甲斐(かい)あって、物置きにおびき寄せた人たちは皆、泣いたり腰を抜かしたりして怖がってくれたよ」
 あざみたちも入った、例の物置きと化した()き教室。あの時あざみがメガネを通して見た無数の手は、未咲たちにおびき寄せられドアノブを握った人たちの手だったのだろう。
「だから、これなら大丈夫だと確信したの。この計画を続けていけば、いつかはきっと皆、如月さんは殺人者なんかじゃないってわかってくれるって思った!」
 未咲が叫ぶと、三つ目の(かぎ)が回転して光り出した。
 これで三つ目の謎、「なぜ如月努の怨霊を演じ続けたのか?」にも答えが出た。
 解体まで、鍵はあと一つ。真相にあと一歩のところまで近付いているのに、ちっとも気分が晴れない。それどころか、話を聞けば聞くほど、どんどん苦しくなっている。
 はあ、と耳にあてたスマホからセンター長の吐息が聞こえた。
『聞くに堪えませんね。そんな理由で故人を怨霊にしたのですか』
 未咲は冷や水をかけられたように表情を失い、うつむいてしまう。
『あなた方は、如月努を想ってこんなことをしでかしたのだという。しかし結果はどうです。如月努は生前に人を殺しただけでなく、死後も人を害する(あっ)()と成り果ててしまった。あなた方の作り出した(ぜい)(じゃく)な物語は、世に蔓延(はびこ)る軽薄な噂の前に敗北した』
 センター長の(こわ)()はいつも通り静かだったが、同時にひどく冷たかった。
『敗因が何かわかりますか。それは、世の人間に期待をしたことです。如月努は誰の手で殺されたのでしたか? 顔なき無数の人々の手によって、でしょう。あなた方は、彼を手にかけた殺人者たちが、今度は彼を救ってくれるのではないかと馬鹿げた夢を見た』
 あざみはぶるりと身を震わせた。どうしてだろう、別に寒くもないのに。
 センター長がふうっと長いため息を吐いた時、あざみは気が付く。
『実に愚かなことです』
 寒いんじゃない。怖いんだ。
 センター長が怖い。
 言葉は相手を刺すために選ばれたもので、あざみに話しかける時のそれとは全然違う。
『結局、あなた方は罪の意識から逃れたかっただけでしょう。如月努を救えなかった、なんの助けにもなれなかったという罪悪感から、彼を怨霊に仕立て上げた』
「セ、センター長さん。たしかにそうかもしれないですけど」
 このままセンター長に話し続けさせたら、自分の知らない誰かになってしまう。
 そんなわけもない恐怖に駆られて、あざみは口を開いた。
「でも皆さん、如月努さんのために何かしたかったっていうのは、きっと本当で
 スマホの向こうで、センター長が小さく笑ったような気がした。それはまだ言い足りない何かを微笑に変えたようにも、あざみの言動に(あき)れ返ったようにも聞こえた。
『そうですね。今さら何を言ったところで、彼らの行動が消えてなくなるわけではない。解体を続けるとしましょう』
 あざみさん、とセンター長に呼びかけられる。
 その声からはもう、さきほどのような冷たさは失せていた。
『残る謎は一つです。当初、この事件は院生二人の手によるものでした。しかしそれがなぜ今村教授を巻き込み、あまつさえ彼にすべての罪を負わせるような方向へと(かじ)を切ったのでしょうか』
「ええと
 教授が院生の二人を(かば)ったんだろうか。でも、教授がそうしたいと言っても、田丸と未咲の二人は素直に(しょう)(だく)するだろうか。むしろ断固として拒絶しそうな気がする。
 何かヒントが落ちていないか、とあざみはポケットからメガネを取り出してかけてみる。
 するといったい何に驚いたのか、今村教授がはっと息を()んだ気配があった。
 その今村教授に、赤い影が重なる。不気味な過去の痕跡が。
 影は頭を抱えてうつむいている。これは、過去の教授自身だ。
 隣に立った田丸らしき影がしきりに話しかけているようだが、教授の影は顔を上げない。
 もう疲れた、なぜこんなことに、どうしてよりによって彼が。
 うずくまったその姿は強烈な負の感情を放っている。
 この過去の影は、きっとそのまま現在の今村の中に巣くっているのだろう。
 見ているのが(つら)くなって、あざみはメガネを外した。
「教授は本当に如月さんのことを、かわいがってらしたんですね」
 それ以外に、かける言葉がなかった。
 ううっと奇妙な音が今村教授から()れる。
 それが()(えつ)だと気付いたのは、教授が眼鏡(めがね)を押し上げて()(がしら)を押さえたからだった。
正直に言いましょう。如月君のためだなんて嘘っぱちだ。福来さんの上司の方が言った通りです。私はただ、『自分は何もできない、無力だ』と思い知らされるあの経験を、もうしたくなかった。彼のために、何かしたつもりになりたかった」
 未咲が今村教授に向かって悲痛な声を上げる。
「教授、そんな風に自分を責めないでください。如月さんの件は世間がおかしかったし、今回の件は私たち二人が悪いんです。教授にはなんの責任もないじゃないですか」
「なんの責任もないわけがないでしょう。私は、君たちの指導教官です」
 田丸はあざみに向かって首を横に振った。
「教授はああ言ってますが、違うんです。僕と三浦さんは二人で、(きも)(だめ)しに来た連中を驚かすことを続けていました。でも、ある夜──」
 田丸が語ったところによれば、一組のカップルが肝試しに忍び込んだ。未咲と田丸はいつも通り人形を吊るして彼らを驚かし(てっ)(しゅう)したが、彼女の方が恐怖のあまり気絶して倒れ込んでしまっていた。けれど彼氏はそれを気にかけることなくさっさと逃げてしまい、彼女は長くその場に放置されることになった。
「倒れ込んだ時に頭を打ったようで、女性は入院する騒ぎとなりました。結局すぐに退院しましたし、後遺症が残るような怪我(けが)でもなかったのですが」
 そういえば、噂の中には「怨霊に出会って入院した」というものもあった。尾ひれがついた結果かと思っていたが、あれは本当のことだったのだ。
「翌日になって、驚かせた相手が病院に搬送されたと聞いた僕らは青ざめました。その時は怪我の具合がどの程度かわからなかったから、もしかして僕らの方こそ誰かを殺してしまったんじゃないかとまで思い詰めました」
 今村教授は深く息を吐いた。
「二人の様子がおかしいことには、すぐに気が付きました。何があったのかと尋ねると、最初こそ渋っていましたが、結局は打ち明けてくれました。精神的に追い詰められていて、とても黙っていられなかったんでしょう。こんなことはもう止める、すぐに自首すると二人は泣いていました」
「あの、でもその時に自首していたなら、もうこの事件は終わっていたはずでは」
 教授は立ち上がり、見えない糸にでも引かれるようにして、ふらふらと窓辺へと歩み寄っていった。
 なんだか嫌な予感がして、あざみは今村教授の後を追いかける。
「二人が怨霊騒ぎを終わりにできなかったのは、私が許さなかったからですよ。あそこで彼らが自首して、如月努が所属していた研究室の人間だと知られれば、世間は嬉々として二人を攻撃するでしょう。田丸君は研究者、三浦さんは造形作家としての未来を絶たれるかもしれない。あるいは、もっと恐ろしい事態だって迎えてしまうかもしれない。如月君だって、汚名を上塗りされただけで終わってしまう」
 雨に濡れるのもいとわず、開けっ放しの窓の外を(のぞ)き込むようにして、教授は身を乗り出した。あざみが腕をつかむと、その意図に気が付いたのか「大丈夫です、そんなことはしませんよ」と弱々しく微笑(ほほえ)んだ。
「だから私は、二人に言ったのです。『もしこのことが露見する日がきたら、私がすべての罪を(かぶ)る。だからここで止めてはいけない。如月努(えん)(ざい)(せつ)が、如月努犯人説を(くつがえ)すその日まで──如月努の怨霊であり続けなさい』、と」
 今村教授は空を見上げた。
 そこに、今はいない誰かの姿を見ることができるとでもいうように。
 しかし空は、重く垂れこめた雨雲にふさがれている。
 教授は(どん)(てん)のほかに何も見えないことに失望したみたいに、とぼとぼと薄暗い部屋の中へと引き返した。田丸と未咲のそばまで歩み寄り、二人の肩に手を置く。
「すまなかった」とつぶやくかすかな声が、あざみの耳にも届いた。
「それじゃあ結局、如月努さんの怨霊を作り上げたのは」
 あざみは窓辺から研究室を見渡す。
 今村教授と田丸、未咲の三人はそろって顔を見合わせた。
 そして手が上がった。
 三つ。三人全員が、右手を上げていた。初めてこの研究室を訪れ、「如月努の怨霊を見たことがある人は?」と尋ねた時と同じように。
「私たち全員が、彼を怨霊へと変えてしまったんです」
 Fabulous、とスマホからセンター長の声がした。
『あざみさん、よくやりました。これで──全てが解き明かされる』
 四つ目の鍵が光り出す。やがて(じょう)(まえ)全体が震え出したかと思うと、四つの鍵がバラバラに分解され、錠前が(くだ)け散った。頭の隅で、鍵の開くような音が鳴る。
『これにて解体は完了です。如月努の怨霊など、この世のどこにも存在しない』
 その時、どたどたと(ろう)()を走る音が近付いてきた。
 やがて足音が扉の前で止まったかと思うと、扉が打ち鳴らされ始める。
「あざみー! そこにいる⁉」
「ジャスミンさん⁉」
 扉を開けようと走り寄り、はっとして室内を振り返る。
 今村と田丸、未咲の三人はそろって(うなず)いた。
「もう、いいんです。私たちは間違っていた。犯した罪は裁かれるべきだ。真犯人が捕まることを願うのならば、我々が自身の罪から逃れるわけにはいかないでしょう」
 今村教授が話す間に、扉を叩く音は()りを入れるような激しいものへと変わっていた。
「さあ、扉を開けてください。自分たちの口から、大学へ経緯を説明します」
 あざみは一つ頷き、急いでドアの鍵を開けた。
 するとバランスを崩したジャスミンが、あざみの上に勢いよく倒れ込んできた。ちょうどドアに体当たりしようと、弾みをつけていたところだったらしい。
 辺りに積み上げられた本の塔を巻き込みながら、二人は床に転がった。
「あざみー! 無事⁉」
 素早く体を起こしたジャスミンはあざみの(ほお)を両手で挟み込み、怪我がないか点検し出した。
「だ、大丈夫です! 無事です! ご心配おかけしてすみません」
「無事ならいいけどさあ、もう! 勝手にいなくならないでよ!」
 ジャスミンはあざみをぎゅっと抱きすくめると立ちあがった。
 あざみを庇うように前に立ち、研究室の三人を(にら)み据える。
「ジャスミンさん。この人たちは、もう
 今村教授はゆっくりと立ち上がり、あざみとジャスミンに向かって頭を下げた。
「本当に、申し訳ない。ご迷惑をおかけしました」
「何があったの」と視線で尋ねるジャスミンに、「後で説明します」と耳打ちする。
 ジャスミンがあらかじめ教務にでも応援を呼んでいたのだろうか、複数人が階段を昇る音が耳に届いた。
「これで、解決
 教授たち三人は(しょう)(すい)した、けれどどこか(あん)()したような表情を浮かべて虚脱している。
『もしもし、あざみさん。聞こえますか』
「あれ、センター長さん」
 まだ通話がつながっている。あざみは何か、不吉な予感を覚えた。
『不可解な点が、まだあるとは思いませんか』
「え? でも、解体はもう終わったじゃないですか」
『ええ。ですからこれは解体には不要な、妄想の域に踏み込んだ話と思ってくださって結構です。私が疑問に思っているのは、なぜ院生の二人があざみさんたちに「教授を疑っている」とわざわざ伝えたのかという点です』
「それは、今村教授が二人を庇おうとして
『本当にそうでしょうか』
 センター長は何が言いたいんだろう。胸の内で、不穏な風がざわざわと、樹々を揺らすような嫌な感じがする。
『嫌疑を()らすためならば、なにも教授に疑いの目を向けさせたりせず、知らぬ存ぜぬを通せばよかったのではないでしょうか。あの時点で、あざみさんたちは何も証拠をつかんでいなかったのですから』
センター長さんは、なんのためだったと思ってるんですか」
『あくまで仮定ですが、こう考えれば筋は通ります。
 今村教授は院生二人を庇うふりをして、あえて自分だけが如月努怨霊事件の犯人として目されるよう画策した。それが露見し、犯人である彼が大学を去った後でも院生たちによって「心霊現象」が起こり続ければ、如月努の怨霊は本物めいてくる。そうしたら、「如月努冤罪説」が息を吹き返し、今度こそ「犯人説」を覆すかもしれない』
「そんな。成功する確証もないのに、わざと犯人になりにいったっていうんですか?」
『ええ。そうとでも考えなければ、都市伝説解体センターに調査を依頼する理由がありません。今村教授には、「教授一人だけを犯人として世間に公表したい」動機があった。そう考えればすべての(つじ)(つま)が合います』
「たしかに辻褄は合うかもしれないですけどでもそれがうまくいったとして、残された田丸さんと未咲さんは」
『きっと心優しい彼らのことですから、「教授に罪を押し付けた」という罪悪感から、怨霊役を放棄することができなくなったでしょうね。彼らは罪を重ね、「如月努の怨霊」であり続けるしかない。二人はそうなることを恐れたからこそ、今日ここにあざみさんを呼び出したのでは? 真相を暴かれてしまいさえすれば、彼らは『怨霊』役から解放される。故人を想う気持ちは本物でも、永久にかの事件の亡霊と成り果てる気概は持ち合わせてはいなかったそんなところでしょう』
 ジャスミンが廊下に出て、大学職員らしき人たちを研究室に呼び込む。
「そんなのって、あんまりです。それじゃあ今村教授は、如月努さんのためにまだ生きてる人の人生を()(せい)にしようとしたっていうんですか」
『ええ、実に愚かな行いです』
センター長は、くく、と(のど)を鳴らして笑った。
『けれどたとえその先に自身や他人の破滅が待ち受けているとしても、(じん)(りん)(もと)る行いだとしても。そうせずにはいられない瞬間というものは確かに存在するのでしょう』
だって、何をしてももう、死んでしまった人は戻ってこないのに
『それが、私の知る人間という生き物ですから』
 短い言葉を残して、通話は一方的に切れた。スマホを耳に当てても、もう何も聞こえてこない。
 職員たちに促され、今村教授たち三人は扉へと向かっていった。
 その時、今村がふとあざみの方を振り返る。
 彼はひどく懐かしいものを見るように目を細めた。
 その口元が、何か言いたげに薄く開かれる。しかし結局何の言葉も吐き出されることのないまま、教授は背を向けて去っていった。



 後日、あざみはビルの屋上でセンター長の(くるま)()()を押していた。
 あの日犬神大学の駐車場で見た夢に出てきたような、真っ青な空が頭上に広がっている。
 あざみは無言で、屋上の手すりに沿って歩いた。センター長も何も言わない。
 結局あの後、今村研究室の三人は大学を去った。公式のアナウンスはなく、大学側から通告されたのか、それとも自主的な申し出だったのかもわからないままだ。
 ただ一時的に警備員を増やし、外部の人間の立ち入り規制を強化した甲斐(かい)あってか、「如月努の(おん)(りょう)」の(うわさ)もだんだんと下火になっている。遠くない内に、かの怨霊は人々の記憶から薄れていくだろう。
 そして如月努は、多くの人々にとっては「上野天誅事件の犯人」であり続けている。
 冤罪説が犯人説を覆すほどの勢いを得ることは、ついになかった。
 ふと、あざみは車椅子を押す手を止める。
「センター長さん。一つきいてもいいですか」
「はい、なんでしょう」
「如月努さんって、本当はどんな方だったんでしょう」
 センター長は、青空に浮かんだ雲が風に流れていくのを眺めている。
「殺人犯だと言われていて、自殺に追い込まれるほど世間で叩かれて、ジマーからは(すう)(はい)されてそれでも、身近にいた人たちは今も彼を忘れていない。冤罪だったと信じて、(とが)められるべき行為に手を染めるほど如月努さんのことを想っていました。なんだかそれが、一人の人間のことに思えないんです。全部がバラバラすぎて」
 なんの形にも見えない(あい)(まい)な形をした雲が、青い(うな)(ばら)を横切っていく。
「それはなにも、如月努に限った話ではないでしょう。誰であれ、語り手が変わればまるで別人のような評価を受けることになります」
「でも、こんな風にまるっきり変わってしまうことってあるんでしょうか? センター長さんはどう思いますか。本当の如月努さんは、どんな人だったと」
 あざみの言葉の続きをふさぐように、センター長は片頬だけで笑った。
「さて、どうでしょうね」
 センター長が首を後ろに傾け、上空を振り(あお)ぐ。
 あざみもつられて上を見た。けれどそこには何もない。
「彼は死んでしまいましたから。もう、記憶の中だけの人です」
 空がまぶしかったのか、センター長はまぶたを閉じた。
 明るい光の中で見るセンター長の肌は病的に白く、目の下の(くま)は濃い。まるで幽霊のようで、瞬き一つしたら消えてしまいそうに思えた。
「あの。センター長さんは、もし幽霊になったら、センターに出てくれますか」
「おや、あざみさん。私が死んで、借金が帳消しになることを期待しているんですか?」
「ち、違います! そういう意味じゃありません! ただ
「ただ?」
「ジャスミンさんとそういう話をこの間したんですけど私が幽霊になったら、センターに戻ってくる気がしたんです。それで、センター長さんはどうかなって思いまして」
 センター長が、虚脱したように車椅子に背を預ける。車椅子のハンドルを握るあざみの手を、その髪の毛がくすぐった。
「そうですね。きっと私もあの場所に帰るでしょう。ほかに行くあてもありませんし」
 その時、風が二人の間を吹き抜けた。すでに冬の予感をはらんだ、冷たい風だった。
戻りましょうか。冷えてくると、風邪(かぜ)引いちゃうかもしれませんし」
 エレベーターに向かって、あざみは車椅子を方向転換させる。
 するとなんでもないことのように、センター長がつぶやいた。
「あざみさんは、寂しいですか? 私がいなくなったら」
「え? そんなの、当たり前じゃないですか!」
 センター長が息を吐く。それは笑ったようにも、困惑したようにも聞こえた。
 なんだか急に、真面目(まじめ)に答えたことが恥ずかしくなってくる。
「ああ、それにしても。実にいい天気ですねえ」
 センター長が屋上を振り返る。無責任なほど、青く明るい空がそこにある。
本当に」
 あざみはふたたび車椅子を押し始める。
 ビルの屋上に、カラカラと車輪の回る音だけが尾を引いた。

【おわり】