#4 【7年前の亡霊・前編】

暗い廊下を歩いている。
明かりは外から漏れ入るかすかな街灯と、スマホのライトだけ。
視界が暗い分、響く足音ばかりが気になって仕方がない。
「ねえ、やばいんじゃない?」
先を行く男が振り返る。
暗がりの中でも、バカにしたような笑いを浮かべたのがわかった。
「なに? びびってんの?」
「違くて。これ不法侵入になるんじゃないのかって言ってんの。もし捕まったりしたら、内定取り消しとか……」
「いやいや違うっしょ。俺らはただ昼間に大学来て、腹痛くてトイレこもってたらいつの間にか夜になってただけだし。だろ?」
男はそう言って、どんどん先へと行ってしまう。
女は置いていかれたくなくて、歩調を速めた。
とっさに否定したけれど、女ははっきりと「びびっている」。
なんでこんなことをしてるんだろうと、さっきからずっと後悔している。
昼間の内はよかった。就職浪人かと思われた彼氏の内定がようやく出て、二人でささやかなお祝いをした。ここ半年くらい、先に内定を得た女に対して男はかなりひがみっぽくなっていたから、やっと安心できた。これで別れなくて済む、そう思った。
けれど男は調子に乗ってどんどん杯を重ねて酔っ払い、「学生の内にしかできないこと、やっとこうぜ」と言い出した。
それがこの「肝試し」だ。
近頃SNSで話題になっていた、犬神大学に出るという幽霊。ネットの有名人の幽霊らしいけど、女にとってはなんとなく名前を聞いたことがあるくらいの人物だ。興味なんか全然ない。けれど男が乗り気なので、今日はお祝いだし、と付き合うことにした。
だけどあの時、なんでもいいから理由を付けて断ればよかった。男の機嫌を損ねたくなくてついてきてしまった自分を、いくら恨んでも今さら遅い。
こんなところ、来るんじゃなかった。
廊下を歩き始めてすぐ、足音が二人分にしては多いような気がした。一度思ってしまうと、そうとしか思えなくなった。けれど女が足を止めると、多いような気がする足音もぴたりと止まり、先を行く男一人分の足音だけが残るのだ。
気のせい、これは気のせい。
そう言い聞かせて歩き続けたが、階段を昇っている時、今度は妙な声を聞いた。か細く小さな声だったけれど、たしかに聞こえた。そしてその声は、ずっとついてきている。途切れることなく耳に届いている。だけど男にそう訴えても「びびってる」といじられるだけなのは目に見えているので、黙っていることしかできない。
でも、やっぱり聞こえる。
低い男の声だ。何を言っているのか聞き取れないが、「~~ない」「~~ない」と、否定の言葉を繰り返しているように思える。
前を行く男が、とある研究室の扉の前で立ち止まった。
その手がドアノブへと伸びる。
女は思わず男の手をつかんだ。
「開けるの? やめとこうよ、もし誰かいたらどうすんの」
「いるわけないだろ、誰も。電気点いてないじゃん」
男は女の制止を無視し、勢いよく扉を開いた。
二人はしばし絶句した。
研究室の戸口をふさぐように、何かが垂れ下がっていたからだ。
「……は?」
二本の、たしかな質量を持った物体。
それが人間の足だと気が付くのに、さほど時間はかからなかった。
二本の足が、眼前で揺れている。腰から上は、扉の上にあるようで見えない。
これでは──これではまるで、誰かがそこで首をくくっているようだ。
「やだ、なに、これ」
女は一歩後ずさった。
その時、背後で声がした。さっきから聞こえていた、低くうなるような男の声だ。
けれどもう、ささやき声じゃない。男の声は、はっきりと耳に届いた。
『僕じゃない。僕は、やってない』
ひいいいい、とほこりっぽい室内にあざみの悲鳴が響いた。
「いかがでしたか、あざみさん。実に興味深かったでしょう」
おなじみの古びたビル地下四階、都市伝説解体センター内。
センター長のPCモニターには、映画のエンドロールが流れている。
二人が見ていたのは、『形代村にて』というホラー映画だ。古くから人形制作を生業とする者が多く住む村を舞台に、凄惨な物語が展開する。
「興味深いっていうか……怖すぎますよ! 無理です! 無理!」
ホラー映画を見る羽目になったのは、以前にセンター長がジャスミンとのお泊まり会用に薦めてくれた映画の感想を尋ねられたことが発端だった。結局まだ見られていないのだと打ち明けると、「それでは今から観てみましょうか」と強制的に観賞会がスタートした。
「おや、そうでしたか。怖さよりも映像美がまさるので、初心者にもうってつけかと思ったのですが。『形代村にて』は、近年のJホラーを語る上で外せない一作です。一見無関係に思える逸話が一つの怪異の元へ収束する物語は、数多の噂が一つの都市伝説を作り上げる様を連想させて美しいですね。しかしなにより話題となったのは、この映画のキーとなる人形や怪異の造形です。恐ろしくも美しい彼女たちを作り上げたのが、当時まだ無名の美大生だったということで、脚光を浴びました」
センター長はつらつらと説明を続けているが、頭にまったく入ってこない。映画の中の人形たちの白い顔、それが悪意をむき出しにした時の凄まじい形相が頭の中をぐるぐると回って、それどころではなかった。
「こちらがその美大生ですね」
センター長がモニターを指さす。『小道具造形』というクレジットで女性の名前が画面を下から上へと流れていったが、それも頭に入るはずがない。
「やっぱり私、ホラーは無理です! こんなの見たら、怖くて二度と現地調査なんか行けそうにないですよう……」
「泣き言を言っている暇はありませんよ。あなたにお任せしたい依頼が、またしても舞い込んでいるのですから」
「なんでその話を先にしないで、映画なんか見せたんですか!」
まあまあ、とセンター長はデスクの陰からすっと何かの小袋を取り出した。
あれは、新発売の秋季限定『イモーっとしたい人の芋けんぴ』だ。近所のコンビニをくまなく見て回ったが人気すぎて発見できず、半ば諦めかけていた。
「センター長さん、それ……!」
「どうぞ。もちろん差し上げますよ」
「あ、ありがとうございます! ずっと探してたんですよ!」
あざみはうきうきと小袋を受け取る。「調査を引き受けてくださるのであれば、という条件付きですが」とセンター長が続けた時には、もう一本目を口に入れていた。
「ふぁぎでは⁉」
そう叫びながらも、食べてしまったものは返せないので、もくもくと咀嚼する。
ベーシックながらもシナモンがかすかに効いており、目新しさもある。ミルクティーと一緒に食べたらもっと味が引き立つかもしれない。なるほど、人気になるのも頷けるおいしさだ。センター長も話題の商品を食べたいに違いないと一本差し出してみたが、首を横に振られてしまった。
「あなたの能力は実に稀有なものです。その力で、これまでも迷える人たちを救ってきたではありませんか」
あざみは口の中の芋けんぴをごくりと飲み下した。
「救ったなんて、そんな風にはあんまり思えないです……。きのこさんはあれから動画の更新がないですし、異界ツアーもあんな終わり方で。それに、美桜は」
あざみが都市伝説解体センターに来て、最初に関わった事件。清水栄子と「ベッド下の男」が引き起こしたあの事件が解体された時、友人の美桜は栄子に包丁で切りかかった。幸い怪我は大したことはなく、美桜も不起訴となったが、栄子の顔には傷が残ったと聞いている。それを苦にしてか、しばらくして消息を絶ったとも。
「私がもっと早く気が付いて美桜を止めていれば、あんなことにはならなかったのに」
「刃物を振り上げたのは、ほかならぬ美桜さんの意志です。彼女は容姿が優れていることに目を付けられ、利用された。だからこそ顔を狙って報復したのでしょう。あなたが気に病むことではありませんよ」
「でも……」
「それに、あざみさんはちゃんと間に合ったじゃないですか。清水栄子を切りつけた後、美桜さんは自ら命を絶とうとしていたのでしょう? それを止めたのは、まぎれもなくあなたです。美桜さんを救ったと、誰が聞いてもそう言いますよ」
口の中に残るシナモンの後味が、なんだか妙に渋い。
たしかにあざみは美桜の命を救えたかもしれない。だけどあの時、美桜は「なんで止めるの」と叫んだ。「助けてくれないなら、放っておいて」と。
もちろん、美桜を止めない選択肢なんかない。だけど美桜にとってあざみの行動は、「救い」なんかじゃ全然なかった。
それどころか──
「あざみさん」
耳元で聞こえた声にはっと我に返ると、センター長があざみの顔をぬっと覗き込んでいた。その近さに、思わずのけぞる。
やれやれ、とセンター長が肩をすくめた。
「しっかりしてください、あなたの力を必要とする人は多くいるのですから。あざみさんも今回の依頼人が誰かを聞けば、引き受けざるを得ないと思いますよ」
「は、はい、すみません! だけど、引き受けざるを得ない相手って……?」
「思い付きませんか?」
あざみが首を横に振ると、センター長は満足そうに笑った。
「依頼は、犬神大学からですよ」
「え? 犬神大学って、あの……私が通ってる?」
「そうです。あざみさんが在籍する犬神大学の教授からです。彼の研究室のある棟に幽霊が出ると、SNSで話題になっているとのことでした。半ば心霊スポット化してしまい、肝試しにと訪れる輩が後を絶たず迷惑しているようですね。敷地に入り込んだ部外者が気絶して、救急車を呼ぶ騒ぎになったこともあったとか。大学側に相談したものの『警備を強化する』と口先ばかりの回答が返ってくるのみで、らちが明かないとうちを頼ったそうです。あざみさんも犬神大学に通っているのですから、噂くらい耳にしたことはありませんか?」
「いえ、まったく……」
あざみは芋けんぴの袋のチャックを閉じた。残りは家でミルクティーをお供にしてか、それかジャスミンと一緒に食べようと鞄に仕舞う。
「ちなみに、どこの研究棟にそんな噂があるんですか?」
「社会学部と聞いています」
「社会学部……文系なんですね。情報学部以外の研究棟に行く機会って滅多にないですし、文系ならなおさらです」
「そうですか。しかしたまには他学部の学生とも交流した方が、見識が広まるのでは?」
「で、でも私、センターの仕事が忙しくてサークルにも入ってないですし……あ、いえ、ここで働く前も別に入ってなかったですけど……」
そういえば大学に入ったばかりの頃、和菓子研究サークルに入ってみようかどうか迷った気がする。自分で芋けんぴが作れるようになるかもしれないと思ったのだけれど、結局サークル棟には足を運ばなかった。どうしてだったか覚えてないけれど、たぶん慣れない大学のシステムや授業についていくので精一杯で、タイミングを逃してしまったんだろう。
「とにかく、研究棟に出る幽霊の噂を調査して、正体を突き止めればいいんですね!」
「いえ、違います」
「え? じゃあ、何をすればいいんですか」
センター長はデスクの上で両手を組み合わせ、その上に顎を載せた。
「我々に、そんな幽霊は存在しないと証明してほしいとの依頼です」
「いないことの証明……ですか」
あざみは首を傾げた。
いることの証明ならば、幽霊を見つければいい。
だけどいないことを証明するって、どうやったらいいんだろう。
「おや、気が付きましたか。そう、何かが『存在する』ことは探し当てて証明することができても、『存在しない』ことの証明はほぼ不可能です。探し回って見つからなくとも、『探し方が悪いだけで、本当はどこかにいるのだ』と言われてしまえばそれまでですからね。まったく、無理難題を押し付けてくるものです」
「だけどその無理難題、センター長さんは引き受けちゃったんですよね」
「ええ。ですが大丈夫です、あざみさんの力があればなんとかなりますよ」
「でも、さっきは不可能だって……」
「ほぼ不可能と言ったんですよ。すべての都市伝説や怪談は、『いないと立証することは不可能』という前提のもとに成り立っています。自分は見たことも体験したこともない。けれどどこかの誰かは見たのかもしれないし、体験したのかもしれない。そういう曖昧さの中で生きている。言い換えれば、そこでしか生きられないということです」
「ええと……よくわからないんですけど、それで私はどうしたら?」
「普段と変わりませんよ。まずは現地調査です。問題の研究棟へ赴き、心霊スポット化した原因を探り当て、そこで起きている怪奇現象を紐解いてください。つまりやるべきことはいつもと同じ、『特定』と『解体』です。もっとも今回の件については、『特定』はすでに済んでいるかもしれませんが」
「特定がすでに終わってるって、どういうことですか?」
しかしセンター長は答えようとしない。仕方なくあざみは別の質問を投げかけた。
「でも、なんで大学に幽霊が出るって話になったんですかね? 心霊スポットって、普通は廃墟とかトンネルとか、いかにも出そうなところばっかりじゃないですか。大学っていつもたくさん人がいて、全然それっぽくないっていうか……」
「おや。この世の中には『学校の怪談』が数多く出回っていることをお忘れですか」
「でもそれって、せいぜい高校くらいまでの話ですよね」
「たしかに、小中学校に比べれば大学の怪談というのは珍しいかもしれません。しかし今回はどうしても大学でなくてはならなかった。それも、犬神大学でなくては。噂の幽霊は、犬神大学の関係者なのですから」
「関係者? 学生さんだったってことでしょうか」
「いいえ。現れる幽霊は、犬神大学の助教だった男だそうですよ」
「助教……教員の方だったんですね」
「ええ。教員ではありますが講師に次ぐポジションであり、職務や年齢的に教授などよりはるかに学生に近しい存在だったといえるでしょう」
「つまり、比較的若い内に亡くなられた方なんでしょうか」
若くして亡くなり、犬神大学に勤めていた男。
どうしてか、そのワードが頭に引っかかる。
以前にどこかで、そんな人の話を聞いたことがあるような。
「ここまで言ってもまだわかりませんか? 現れる幽霊は、かつて犬神大学の社会学部に所属して民俗学を研究し、オカルト関連の著作を多数著した男です。今では一部界隈から、信仰じみた視線を集めてもいますね」
あざみはぱちりと目を瞬いた。
「え? その人って……」
センター長はいつも通り、薄く笑うような、そうでもないような表情を浮かべている。
「怪異の名は、如月努。彼は今、大学構内を徘徊する怨霊と化しているそうですよ」
「如月努の怨霊ぉ?」
ハンドルを握るジャスミンは、前方を睨みながら言った。
「如月努ってあれでしょ。ジマーに崇拝されてる、『オカルトグレートリセット』の著者」
「はい、その如月努さんです。上野天誅事件の犯人だとも言われてる人ですよね」
車は赤信号で停まった。国道を横切る信号は、なかなか青には変わらない。
今がチャンスとばかりに、あざみはさっきテイクアウトしたばかりのハンバーガーの包装をむき、ジャスミンの口元に持っていった。ジャスミンは大口を開けて豪快にかぶりつく。
「それって、どこまで本気にしていい話なの?」
あざみの手には、歯形の残るハンバーガーが残された。もしゃもしゃと咀嚼するジャスミンを見ていると、まるでひな鳥に餌を与える親鳥にでもなったような気分になる。
「少なくとも、噂が出回ってるのはたしかみたいですよ」
うーん、とジャスミンはうなりながら口の中のハンバーガーを飲み下した。
「いや、如月努の幽霊が大学構内に出るって理屈はわかるよ? そこが職場だったわけだし、幽霊が思い出の場所に出るとかって話は珍しくないし。けどさ、遅くない? だって如月努が死んでから、もう何年経つと思ってんのよ」
ジャスミンは指を折って数えた。
「七年か。ちょっと化けて出るのに時間かかりすぎでしょ」
「私もそう思ったんですけど……亡くなったばかりだと怪談にするのも気が引けて、話題に上がらなかったんじゃないですかね?」
「ないない。如月努についての当時のSNS見たでしょ? 本人が生きてる内からああだったんだから、死んでから不謹慎も何もないよ」
「でも、たしかに『犬神大学に如月努の怨霊が出る』って、三週間くらい前から話題になってるみたいなんですよ」
あざみがかざしたスマホの画面を、ジャスミンは横目で一瞥した。
画面には「如月努 怨霊」の検索結果が表示されている。
ジャスミンがそれに目を通す間、あざみもハンバーガーを取り出してかじった。
『犬神大学の噂って本当なの?』
『ガチっぽいね。見に行った人が変な足音聞いたり、人魂みたいな光を見たりしたって。その後で熱出して寝込んじゃうらしい』
『意識不明で緊急搬送された人もいるって聞いた』
『谷原きのこなら真っ先に乗りそうな話題なのに、反応してないなー。新作も最近上がってないし、こりゃ引退説濃厚か?』
『そもそもなんで如月努が怨霊化するわけ? 怨霊って、非業の死を遂げた人間がなるんじゃないの? 如月努は自殺しただけじゃん』
『本人的には非業の死なんじゃないの? 俺は人殺しただけなのに叩かれて辛かった! 祟ってやる! 的なw』
『理不尽すぎて草。死んでまで世間に迷惑かけんなや』
『「僕はやってない~」みたいな声聞いたって話もあるから、幽霊になって冤罪主張してんじゃないの』
『今度見に行ってみようかなあ。犬神大学のキャンパス近いし』
『やめてくれませんか? おれワン大生ですけど、肝試しになんか来られたら迷惑です。如月努とか上野天誅事件なんて、古臭い話題を今さら持ち出さないでください。そんな昔のこと、現役生はよく知りもしないですし』
『上野天誅事件のこともろくに知らないわけ? 一般常識でしょ、それでワン大生名乗るのはさすがに無理ある。あそこ結構賢い大学なのに』
『えー、私もワン大生だけど、普通に如月努とか天誅事件とかって聞いたことないけど。なんか大学絡みの事件なの?』
『常識っていうけどさあ、大学一年で十八の子は当時十一歳でしょ? 一人殺されただけの事件なんか、小学生は覚えてないって』
『そうそう。いまだに如月努で盛り上がんのはジジババだけ』
『ジマー高齢者説w』
もういい、とばかりにジャスミンは首を横に振った。
「怪奇現象の証言をまとめると、だいたいの人が経験するのは『足音がする』『人魂のような光が見える』『男の声がする』『勝手にドアが開閉する』ってことみたいなんです」
「心霊スポットあるあるまとめただけじゃん」
「だけど中には、『怨霊に襲われて入院した』みたいな話も出てるんですよ」
「さっき出てきた意識不明がどうこうってやつ? どうなんかなあ、それも。物音に驚いて転んで、捻挫したくらいのことを大げさに書いてるだけなんじゃない?」
「そ、そうなんでしょうか」
「心霊スポットって、そもそも怖いもの見たくて行くわけだからさ。何もないとつまんないから、なんてことない出来事も心霊現象だってことにしちゃうみたいなとこない? 夏にやってる心霊番組とかもそうじゃん」
「でも数件、『部屋の扉を開けたら、目の前に首吊り死体の足がぶら下がってた』とか『血まみれの如月努が部屋にいた』っていう証言もあるんですよ!」
あざみはその光景を想像してしまい、ぶるりと身震いした。
「ちょい待って。如月努の死因って公表されてたっけ?」
「え、死因ですか?」
「そう。仮に縊死なんだとしたら、血まみれになってんのはおかしいでしょうが」
「あ……本当ですね。うーん、検索した限りではヒットしないです」
「だよねえ、参考人の死因なんか報道されるわけないし。やっぱ見間違いなんじゃないの? 暗がりだと変な風に影が伸びたりするじゃん」
ジャスミンが口を開けて次の食べ物を要求したので、今度はポテトを手に取った。
二本持ちすると、なんだかそれが人間の足のように思えて、慌てて三本にする。
三本のポテトはすぐに、ジャスミンの口へと吸い込まれていった。
「そもそも噂の発生源ってなんなわけ?」
「それがよくわからないんですよね。『大学の人間の証言だ』みたいに言ってる人もいるんですけど、噂の広まり始めた時期に絞って検索しても、それらしいポストは出てきません。初期の頃は誰かのポストを引用してる人がちらほらいるので、もしかしたらこれがそうだったのかもしれないですけど。今は引用元が消されちゃってて、確認できないですね」
「んー? まあ、アレかもね。単に最近ジマーの活動が活発になって如月努の名前を見かけることも多くなったから、今さらこんな話が浮上した、みたいな」
差し出したコーラをジャスミンが吸い上げている間に、信号はようやく青に変わった。
「ま、なんにしろ行ってみるしかないか。教授から直々の調査依頼なんだし、煙たがられることはないでしょ」
車は前方へとすべり出して左折し、銀杏の並木道に入る。ちょうど紅葉の時期を迎えており、鮮やかな黄色の葉をつけた木々が秋晴れの空によく映えた。
その奥に、犬神大学の正門が見えてくる。あざみにとっては見慣れた光景だ。けれど車の中から見るせいか、それとも怨霊の噂を聞いてしまったからか、慣れた光景にもどこか影が差しているように見える。
あざみは、ふと思い付いた質問を口にした。
「ジャスミンさんは、自分が幽霊になったらどこに出ると思います?」
「なにその質問。わかんないけど、少なくとも如月努みたいに職場には出たくないわ。死んでまで働くのとかだるいし。あざみーは?」
「私ですか? 私は……」
自宅。大学。よくお昼を食べにいくカフェ。
どこもしっくりこない。
幽霊は、思い出の場所に出るという。
自分にとって、思い出の場所ってどこだろう。けれど「思い出、思い出」と頭の中を探してみても、不思議なくらい何も見つからなかった。
一つだけ思い浮かぶのは、あの暗い部屋。
地下四階にある、いつも静かでひんやりした空間。
「私の幽霊がセンターに出たら、ジャスミンさん会いに来てくれますか?」
「えー? あそこが幽霊付き物件なんかになったら、センター長が大喜びしちゃうよ」
正門前の信号で、またしても車は停まる。
学生たちが銀杏の葉を踏み散らしながら横断歩道を渡り、構内へと吸い込まれていく。
ジャスミンはハンバーガーをあざみの手から奪うと、残りを一口で食べ切った。
包み紙をくしゃくしゃと丸めながら、「ていうかさ」と続ける。
「そんな簡単に『幽霊になったら』とか言わないでよね、あざみー」
「あ、そうですね、すみません! でも大丈夫ですよ。私、健康には自信があるので!」
「ならいいけどさ」
あざみが力こぶを作ってみせると、ジャスミンは唇に付いたケチャップをなめとった。
あざみとジャスミンは、社会学部のとある研究室の前に立っていた。
白い扉には表札代わりだろうか、名刺がセロハンテープで貼りつけられている。ほかの研究室の扉には所属者名簿とスケジュール表が貼られていたが、ここはそっけなく名刺一枚だけだ。
名刺に書かれた肩書きと名前は、「犬神大学社会学部文化人類学科教授 今村誠」。
ノックすると、「はーい」と間延びした返事が聞こえて、コツコツとヒールの足音が近付いてきた。
「あ、都市伝説解体センターの方ですか?」
扉を開けて顔を出したのは、黒髪を緩く巻いた女性だった。たぶんあざみと同じか、すこし年上くらい。耳には小ぶりのパールが付いたピアスが揺れていた。笑って目を細めると、カールさせた睫毛がよく見える。綺麗な人で、雰囲気が美桜にちょっと似ていた。
「お待ちしてました、どうぞ」
彼女は微笑むと、扉を大きく開け放った。
研究室に足を踏み入れた途端に、古い本の匂いが鼻をつく。
そこに広がっていたのは、研究室というより書庫のような空間だった。
壁一面の本棚に、びっしりと分厚い本が詰め込まれている。無数の本は縦の状態では棚に収まりきらず、上部に空いた隙間にも横にして押し込まれていた。それでも棚からはみ出した書籍は、研究室の中央に置かれたミーティングテーブルの上に積み上がり、テーブルの使用可能範囲をおよそ四分の一にまで減少させている。
「……どうも」
か細い声に顔を向けると、ミーティングテーブルのすみっこに、華奢な男の人が本に押し潰されるようにして座っているのに気が付いた。ドアを開けてくれた女の人よりは年上だろうか。前髪が長く、いくつか寝ぐせの残った頭のその人は、あざみから視線を逸らして会釈し、ぼそぼそと小声で挨拶した。
「渋谷真司です。ここの研究室の院生ですけど、兼務で助手もやってます」
「ごめんなさい、渋谷先輩って初対面の人にはいつもこんな感じだから気にしないでください。あ、私は院生の三浦未咲です。ここの研究室に院生は三人いるんだけど、一人は海外留学中なので、今は私と渋谷さんだけ」
「渋谷さんに、三浦さん。よろしくお願いします」
あざみが頭を下げると、三浦は「未咲でいいよ。そんなに歳は離れてないと思うし」と笑った。
「それで、あっちが」
渋谷と未咲が、揃って部屋の奥を見やった。
視線の先、窓辺に置かれたデスクに、白髪頭の男性が一人、やはり本に埋もれるようにして座っている。本の塔が高すぎて、ほとんど髪の毛しか見えない。
「今村教授! センターの人が来てくれましたよ!」
呼びかけられたその人は、未咲の声に驚いたのか、何か書き物をしていたペンを取り落とした。慌てて拾い上げようと、そのまま椅子から立ち上がる。
その拍子に、あざみと目が合った。
今村教授は、メタルフレームの眼鏡に整えられた口ひげが特徴的な初老の男性だった。知的で柔和そうで、いかにも「教授」という感じの人だ。たぶん大学教授にならなくても、「教授」というあだ名をつけられてたんじゃないかという気がする。
「ああ、どうもどうも。わざわざご足労いただいてすみません。渋谷くん、お茶を」
「もう淹れてます。コーヒーしかなくて、すいません」
「いえ、おかまいなく!」
「先輩、冷蔵庫にオレンジジュースもあったじゃないですか?」
未咲が口を挟むと、渋谷は首を横に振った。
「あれは駄目。賞味期限が二週間も過ぎてる」
「ええ? そんなもの、さっさと捨てといてくださいよ」
「いや、後で自分が飲むんで」
「またお腹壊しても知りませんよ。山陰に調査行った時、神社秘蔵のお酒飲んで大変なことになったの忘れたんですか?」
「あっちは百年もの、こっちはたかだか二週間でしょ。平気平気」
未咲は呆れたように息を吐いた。
怨霊騒ぎに参ってセンターに依頼をしてきたにしては、研究室に漂う雰囲気は明るい。こんなところに怨念なんて溜まりそうにない気がする。
ミーティングテーブルの端の席につくと、渋谷からコーヒーを受け取った未咲があざみたちの前に並べてくれた。カップを持つ未咲の手は意外にもやや荒れ、爪も短く切り揃えられている。もちろんジェルもマニキュアもしていない。雰囲気からしてネイルも好きそうなのに、なんだか意外だ。未咲に少し似ている美桜の爪は、いつも淡いピンク色に塗られ、リボンや花の小さなデコパーツがついていた。「かわいいね」とあざみがほめると、美桜は「ありがとう」と照れたように笑ったものだ。
その笑顔を思い出すと、お腹の底がきゅっとなる。
いけない、今は調査に集中しないと。
未咲は未咲で、美桜じゃない。似ていないところがあって当たり前だ。
あざみはしばらく会っていない友人のことを、「ごめんね」と首を振って頭の中から追い出した。
今村教授はそこかしこに積み上げられたダンボール箱や謎の木像などを踏み越えたりすり抜けたりして、部屋の奥からあざみたちの元へ苦労してやって来た。
「初めまして、教授の今村です」
「どーも。都市伝説解体センターから来ました止木です」
「福来あざみです。一応、犬神大学に通ってます」
「犬神大学に? 学生さんだったんですね。そういえば、どこかでお見かけしたことがあるような……。学部はどちらでしょうか?」
今村の目が、レンズの向こうで優しげに細められる。しかしあざみは、今村教授の顔に見覚えがなかった。
「情報学部です。でも私、先生の授業を受けたことがなくて。こちらの研究棟にも初めて来ましたし」
「おや、理系なんですね。では、お会いしたことがあるように思ったのも私の気のせいかな。それとも、サークル活動関係でお顔を見たことがあるのか」
「いえ私、サークルにも入ってないんです。あ、もしかしたら学食なんかではすれ違ったことがあるかもしれませんが……」
「いやいや、定年間際のこの頭では、学食ですれ違っただけで顔を覚えているなんてことはないでしょう。やはり私の勘違いのようです」
教授は白髪頭をぺちぺちと叩いて笑った。
「まさかうちの学生さんが調査にくるとは思いませんでした。しかしこれも何かの縁ですから、よろしくお願いします」
今村教授が頭を下げると、頭頂部の髪がやや薄くなっているのが見えた。
「それじゃ、早速なんですけど。事件の概要を聞かせてもらえますか」
「もちろん。早くこんな事態はおしまいにしてほしいですから」
率先して答えたのは未咲だった。
「どうしてだか知らないですけど、いつの間にか社会学部の研究棟に幽霊が出るって噂が出回ってたんです。それで夜中に部外者が勝手に棟内に入ってきたり、騒いだりするの。警備を強化するよう頼んではいるんだけど、うちの学生みたいな顔して堂々と門から入って、夜までトイレやサークル棟に潜んでられたりすると、もうどうしようもなくて」
弱り切った顔をした未咲に続いて、渋谷も被害を訴える。ぼそぼそとしゃべるので、あざみは気持ち体を乗り出して耳を澄ませた。
「目障りだってだけじゃなくて、実害も出てるんです。飲み食いしたゴミが放置されてたり、資料が汚損されてたり、ガラスが割られたり。教務にはうちの管理責任だ、みたいに言われるし。本当、迷惑極まりないですよ」
「それは困りますね……。なるべく早く解決できるように頑張ります」
今村教授は「ありがとう」と目尻のシワを深くした。
「そう言ってもらえると心強いです。それからこれは勝手なお願いなのですが、無用な憶測を避けるためにも、ほかの研究室の人間や学部生にはあまり声をかけないでいただけますか。どうしても聞き取りが必要になる場合は、事前にご相談いただけると助かります」
たしかに「如月努の怨霊について調べている」なんて吹聴すれば、「本当に霊がいるんだ」と曲解されかねない。それに如月努は世間で殺人犯と認識されている人だから、大学としてはあまり噂を大きくしたくないだろう。
「わかりました」とあざみが頷くと、それまで黙って聞いていたジャスミンが口を開いた。
「あのー、念のため確認なんですけど」
「なんでしょうか、止木さん」
今村は、まるで教授が学生に質問を許可するような声音で発言を促した。
「あたしたちのとこに来た依頼ってたしか、『幽霊がいないことを証明しろ』ってことだったと思うんですけど。噂はただの噂で、ここに霊はいないってことでいいんですよね?」
今村教授と渋谷、未咲の三人は顔を見合わせた。
数秒間の沈黙が、やけに長く思える。
「え、あの、まさか」
ややあって、教授が口を開いた。
「……申し訳ない。依頼した時には、私たちも幽霊なぞいないという認識でいたのですが」
「で、ですが?」
またしても三人は視線を見交わした。
誰が言う、と互いに嫌な役回りを押し付け合うみたいに。
痺れを切らしたらしいジャスミンが、若干のいら立ちを声ににじませながら尋ねた。
「で、結局どうなんですか。この中に、如月努の怨霊を見たことのある人はいるんですか?」
「見たというか……妙な体験をした、ということであれば」
す、と手が上がった。
それも三つ。
「ぜ、全員? 三人ともですか?」
片手を上げた三人は、静かに頷いてみせた。
「センター長さん、話が違いますよお!」
研究棟の非常階段にて、あざみは泣き言を訴えていた。
大学前の通りから続く眼下の銀杏並木を、多くの学生たちが行き交っている。銀杏の黄色は目にも鮮やかだが、心はそれと裏腹に沈み込んでいた。
「今回は幽霊がいないことを証明するって話だったじゃないですか! それなのに、今村研究室の人たちは三人とも幽霊を見たって!」
あの後で聞き取りを行ったところ、三人はそれぞれが遭遇した不可思議な現象について語ってくれた。
未咲と渋谷は、SNSでもよく見かけた「誰もいないはずの部屋で丸い光を見た」「勝手にドアが閉まった」「廊下を歩いていると、追いかけてくるような足音が聞こえた」という体験に留まったが、今村教授は「研究室の扉を開けた途端、誰かの両足が目の前にぶら下がっていた。慌てて扉を閉めてもう一度開けると、何もいなかった」と語った。
その両足は、ちょうど首を吊っているように教授の目の前で揺れていたのだという。ネット上でも「実際に体験した」と語った人は数名しかいなかった現象だ。
『落ち着いてください、あざみさん』
スマホの向こうから、センター長の声が聞こえてくる。
『なんにせよ、やることは同じです。聞き込みと現地調査ですよ』
「同じじゃないですよ! 幽霊がいないってわかってるなら怖くないですけど、実際見たって人が三人もいたら……!」
『よく考えてみてください。「実際にいる」ことと、「見たと言う人がいる」ことは等式で結ばれるのでしょうか』
「え……っと。どういうことですか?」
あざみは垂れかけていた鼻水をすすった。
『「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるでしょう。「見たと主張する人がいる」だけでは、「実際にいる」ことにはなりません。見間違いということもあるでしょうし』
「でも、三人とも見たって言ってるんですよ? それも肝試しに来た人じゃなくて、幽霊なんかいてほしくないはずの研究室の人たちがそう主張してるんです」
『そういう立場の人たちだから、ということもあるのではないですか。彼らは肝試しに来るような輩とは、如月努に対する心持ちがかなり違っているでしょう』
あざみの頭上にはてなマークが浮かぶ。
「心持ち……?」
『ここから先は、あざみさんが自分で答えを探してください』
「ええ、そんな! 何かわかってるなら教えてください!」
『人から与えられた解法によってでは、たどり着けない答えもあるというものです。では、また折をみてこちらから連絡します』
それだけ言い終えると、通話は切れた。
折をみてかけるということは、あざみの方からは連絡してくるなということだろう。
「センター長さんも、もっとわかりやすく解説してくれたらいいのに……」
これじゃ千里眼の持ち腐れだよう、と声を上げたところで、ジャスミンが階段を昇ってやって来た。
「あざみー、どう? センター長なんて言ってた?」
「うーん、それがよくわからなくて。今村教授たちは、如月努に対する心持ちがほかの人とは違うとか……」
「心持ちが違う?」
腕を組んで考え込んだジャスミンが、「え、待って」と声を上げた。
「如月努が死んだのって七年前だよね。それまでは犬神大学に助教として勤めてた。だったらあの三人、普通に如月努本人と面識あったんじゃないの?」
「……あ」
考えてみれば当たり前のことだ。どうして最初から気付かなかったのだろう。
「如月努がいなくなった後で院生の二人が編入してきて、教授も最近赴任してきましたーとかだったら話は別だけど。でもセンター長の口ぶりからして、三人が三人とも知らないってことはない気がする」
「だけど、今村教授たちはそんなこと一言も言わなかったですよね。直接の知り合いが肝試しの対象なんかにされてたら、普通は怒ったりするんじゃないでしょうか」
「それはまあ、知り合いであっても殺人の容疑者だし。交流があったってことは、他人にあんま言いたくないんじゃない?」
「なるほど……そうかもしれないですね。なんだか悲しいですけど」
ジャスミンはスマホをいじり出すと、「やっぱり」と声を上げた。
「今村教授の略歴調べたんだけどさ。犬神大学で教授になって、ずっとそのままここで教えてるっぽい。如月努が今村教授の研究室所属かはわかんないけど、同じ学部に勤めててお互い知らないってことはさすがにないでしょ」
ジャスミンは画面をあざみにも見せる。そこでは今より少し若い姿の今村教授がこちらに向かって微笑んでいた。
犬神大学のホームページを開いてみると、現在の研究室の所属メンバーの名前も掲載されていた。メンバーは田丸祥太郎、渋谷真司、三浦未咲の三人。この田丸というのが、海外留学中だという院生だろう。院生たちがいつから研究室にいるかはわからないが、少なくとも今村教授は如月努を直接知っていることになる。
「なるほど、それなら……『如月努の怨霊』が『犬神大学に出た』のは『縁のある人に何かを伝えるため』なのかも?」
「あーでも待って、あざみー。あたしらは『如月努の幽霊がいない』ことを証明しなきゃいけないんでしょ。それだと『いる』方向に話が進んじゃう」
「あれ? 本当だ。ええと……?」
混乱してきたところで、構内にチャイムが鳴り響いた。時刻を確認すると、ちょうど十二時だ。立ち並ぶ講義棟から学生たちがわらわら出てきて、学食へ吸い込まれていく。
その時背後で、非常扉が開く音がした。
振り返ると、顔を覗かせたのは院生の未咲だった。
「ごめんね、お邪魔だった? よかったら一緒にお昼どうかなーと思ったんだけど」
「ありがとうございます。でも私たち、来る途中に済ませてしまって……」
「そうだったの? どうしよ、教授がお寿司取ってくれちゃったみたいなんだけど」
ジャスミンがずいとあざみの前に出る。
「いただきます。ハンバーガーなんか間食にすぎません」
「ジャ、ジャスミンさん」
あざみはジャスミンの服の裾を引っ張ったが、ジャスミンは小声でささやいた。
「三人からは、如月努との関係を聞き出さなきゃだし。ここは話に乗っとこ、自然に話すチャンスなんだから」
「あ、そうか。私はてっきり、ジャスミンさんがお寿司に釣られたのかと……」
ジャスミンはにっと白い歯を見せて笑った。
「焼肉と寿司に抗える人間はそうそういないよ、あざみー」
寿司桶を前に、あざみはうきうきと箸を割った。
ジャスミンの言った通り、焼肉とお寿司は万能魔法だ。目の前にすると、つい調査のことを忘れてしまいそうになる。
どれから食べようかと握りの並びを凝視していると、未咲がくすりと笑いを漏らした。
「お寿司、好き?」
ちょっとがっつきすぎだったかと反省し、あざみは寿司からやや距離を取って「……はい」と返事をする。
「照れなくていいよ。喜んでもらえたら、教授も取った甲斐があるしね」
しかし、当の今村教授の姿が見当たらない。寿司桶の一つにラップがかけられ、テーブルの隅に置かれている。
「ああ、教授は教務から呼び出されちゃったの。うちの研究室にお客さんなんて久しぶりだって喜んでたのに、残念。でも気にしないで、先に食べちゃお」
未咲は自身の言葉を実践するように、さっそく中トロに箸を伸ばした。
「招かれざる客なら、毎晩来てるけどね」
渋谷がぼそりとつぶやいた。
「ああいうのは客にカウントしないんですよ、渋谷先輩」
「まあね。如月さんを目当てに人が来るのは昔と変わらないのに、客層だけずいぶん変わっちゃったもんだよ」
如月さん、という呼び方にあざみとジャスミンは一瞬目を見交わした。
それは「如月努」というフルネーム呼びよりも、ずっと血の通った呼び名に思えた。
「あの、如月努さんてここの研究室に所属されてたんですか?」
あざみはサーモンの握りを飲み込むと、なんでもないことのように切り出した。
ナイス、とジャスミンがウインクを飛ばしてくれる。
「ああ、うん。そうですね。あの、僕がこういう風に言ってたってのはあんまり外で言わないでほしいんですけど」
「大丈夫です! 調査過程で見聞きしたことは他言しません」
渋谷は軽く頷き、「それなら」と話し出した。
「如月さんは……世間で言われてる印象とは結構違う感じの人だったんで、来客も多かったです。明るくて優しい上に話が面白いって、用のない奴までよく研究室に遊びに来てましたよ。フィールドワーク先で知り合った人から、お中元まで届いたりもして」
「へえ……そうだったんですか」
なんだか、あざみの知る如月努像とうまく結びつかない。
あざみが如月努について知っていることといえば、オカルトの著作がたくさんあって、ジマーに崇拝されていて、上野天誅事件を起こした(かもしれない)──それくらいだ。そんな人が優しくて好かれていたというのは、どうにも違和感がある。
「ま、最後はあんなことになっちゃったから、全部昔の話なんですけど。みんな手のひら返してどっか行っちゃいましたよ。薄情なもんです」
渋谷は皮肉な笑いで口元を歪めた。
「かくいう僕も、如月さんとは研究上で意見が食い違うことも多かったんで、遠巻きにしてたんですけど。だから実際のところ彼がどんな人だったのかは、よくわかりません」
言い訳のようにそう付け加える。これは本心からの言葉だろうか、それとも殺人犯と親しかったと思われるのを避けるためのものだろうか?
「未咲さんは、如月努に会ったことってありました?」とジャスミンが水を向ける。
「ううん。私は三年前に別の大学からここの院に入ったから、直接会ったことはないんだ。あんな事件があったから研究室をやめてく人もけっこういたみたいで、欠員が出てたから入れたってとこもあるの。でもそれに感謝する気にはならないよね、さすがに」
「如月さんのことがあった上にほかの学生まで出ていっちゃって、当時の今村教授はだいぶ参ってましたね」
渋谷はイカの握りから大葉を剥がしながらそう言った。
「如月さん、今村教授の一番弟子って感じだったらしいですもんね」
未咲の言葉に、渋谷は前髪の隙間から鋭い視線を向けた。
「だった? 違うね、今でも教授の一番弟子は如月さんだよ。僕や田丸、三浦さんじゃとても太刀打ちできない。人柄も研究の成果も、なにもかも。少なくとも教授はそう思ってる。わかるでしょ、普段から今村教授のこと見てたら」
未咲は反論しようと口を開きかけたが、結局何も言わずにぎゅっと唇を結んだ。
なんとなく、嫌な感じの沈黙がテーブルに下りる。
重苦しい空気をなんとかしたくて、あの、えっと、とあざみは言葉を探した。
「み、未咲さんは、別の大学からこちらに来たんですね。前はどちらにいたんですか?」
「ええと、全然畑違いのとこからだよ。だからほかの人が当然わかってるようなことも抜けてる時があって、教授にもけっこう迷惑かけちゃってるんだ。私は噂に聞く如月さんみたいに優秀じゃないし、なかなかうまくいかなくて」
「そ、そうなんですね」と相槌を打つ口元が引きつる。
「今村教授は、かなり如月努さんに目をかけてらっしゃった感じなんですね。それじゃ、今のこの状況はだいぶお辛いのでは……」
結局、あんまり空気を軽くする話題にはたどり着けなかった。
身近な人を亡くしたというだけでも辛い話題なのに、如月努がそうなった経緯を思えば、最初から気軽に話せるわけがなかったのかもしれないけれど。
渋谷が一つ息を吐く。
「そうですね。センターに依頼しようかって話になったのは、この妙な噂を静めてほしいっていうのが一番の理由ではあるんですけど……決め手になったのは、教授の反応です」
「反応ですか? それは、どういう」
あざみは調査手帳を取り出し、寿司桶の隣で広げた。
「教授、ああいう噂が出回り始めてから、夜になると研究棟内を歩き回ってるの」
「夜中に研究棟をですか? それって」
あざみはその先を口ごもったが、未咲ははっきりと口にした。
「まるで如月努の怨霊を探してるみたいでしょ? もちろん、教授本人はそうは言わないよ。ちょっとトイレ、とか、集中が切れたから散歩、とか。でも、それにしては時間が長すぎると思うの。運が悪かったら、肝試しに来たたちの悪い輩に出くわすかもしれないのに。これってやっぱり変だよね?」
渋谷も未咲の話を補強するように「教授、最近ちょっと言動もおかしい時があるんですよね。ぼーっとしてるっていうか」と付け加えながら、ガリを寿司桶の隅に追いやった。
「だから私たち、幽霊の噂とかよりも、教授のことが心配になっちゃって。本人にはもちろん伝えてないですけど」
未咲は教授のデスクに目をやった。大量の資料が積み上げられたタワーの上に、懐中電灯が一つ載っている。「あれもね」と未咲は懐中電灯を指さした。
「幽霊の噂が出てから、教授が持ち込んだの。懐中電灯持って、消灯済みの棟内を歩いてるんじゃないかな。……如月努を探して」
「今村教授が、如月努さんを探してる……」
未咲は紙コップのお茶を一気に飲み干すと、あらためてあざみとジャスミンに向き直る。
「そういうわけなんです。お手数かけますが、教授のためにもよろしくお願いします」
未咲がちょこんと頭を下げると、やや遅れて渋谷もそれにならった。
「なんだか、話が込み入ってきましたね」
あざみはジャスミンの背中に張り付いて歩きながら、小声で言った。
「ただの幽霊騒ぎかと思ったら、今村教授がそんなことになってしまってるなんて……」
「ちょっとあざみー、歩きにくいからあんまくっつかないでよ。ていうかなんであたしに先歩かせてんの? こちとらただの運転手なんですけど」
「そこの角まで! 角まで行ったら代わりますから!」
周囲は暗く闇に沈んでいる。リノリウムの廊下に、足音ばかりがやけに大きく響いた。
二人は早速実地調査に乗り出し、夜の社会学部研究棟を歩いている。
「そんなに怖いならさ、やっぱり院生の二人にもついてきてもらえばよかったじゃん。研究室で待っててください、なんて言わないで」
「ですが、仮にも依頼人の方に最初から手伝っていただくわけには……」
「余計な意地張るから、こんなことになるんじゃんか」
「ジャ、ジャスミンさんだってなかなか進んでくれないじゃないですか!」
「あたしは怖いんじゃないの。見落としがあったらいけないからゆっくり進んでんの」
そうは言うものの、ジャスミンの眉はさっきから八の字になっている。
幸いなことに、SNSで見かけたような心霊現象は今のところ何も起こっていない。けれど懐中電灯の丸い光が窓ガラスに映っただけで、すわ人魂かといちいち驚いてしまう。
「何も起こんないじゃん。やっぱりさ、思い込みか話盛られてるだけだって絶対」
「でも、そしたら研究室の方の証言はどうなるんですか」
「SNSの噂を長く見てる内に、影響されたって面もあるんじゃない? うちに依頼した時点では、誰も見たことなかったって話だったし」
「じゃあやっぱり、如月努の怨霊なんかいない……?」
「あたしはそう睨んでるけどね。センター長もいないって言ってるんでしょ?」
廊下の角の手前に着き、ジャスミンが立ち止まる。
「ほら、角だよ。あざみー先頭代わって」
「あの、怨霊がいないって信じてるなら、ジャスミンさんが先頭のままでもいいんじゃないのかなって思ったり……」
「そういう問題じゃないから、ほれ」
ジャスミンに背中を押され、懐中電灯を持たされる。
「うー……。頑張るので、ジャスミンさん、手を握っててください」
「はいはい」
あざみが後ろへ伸ばした手を、ジャスミンが握った。
よし行こうと角を曲がったところで、ぬっと細く黒い影が目の前に現れた。
とっさには、声も出なかった。影を見上げて硬直し、あざみは動けなくなる。
「え、あの……なんか、すいません」
影がしゃべった。
ジャスミンがあざみの腕をつかみ、懐中電灯の光を影に向ける。
そこに現れたのは、渋谷の顔だった。
前髪が両目を覆っており、いかにも幽霊っぽいが、たしかに生きた人間だ。
あざみは全身から空気が抜ける勢いで、はーっと息を吐いた。
「驚かせないでよ! あーもう、寿命縮んだわー」
ジャスミンがライトを下ろす。現れたのが人間だとわかって急に気恥ずかしくなったのか、つないでいた手をぱっと離された。
「渋谷さん、こんなところでどうしたんですか?」
「また教授がいなくなったんです。三浦さんも今、別の階を探しに行ってます。お二人は教授に会いませんでしたか?」
「い、いえ。会ってませんが……」
「はあ。どこ行ったんだほんとに、あの人」
「それじゃあ、調査のついでに今村教授も探しませんか? ここの研究棟ってそんなに広いわけじゃないですし、一階ずつ見て回ったらそのうち会えますよ」
正直、今は探索の人数が増えてくれるだけでありがたい。渋谷はあざみたちのものより大きな懐中電灯を持っているので、同行してくれれば光量も桁違いだ。
「そうしてくれると助かります。本当のところ、暗い中を一人で歩くのは僕もちょっと嫌だったので」
渋谷はそう言って、闇を払うように周囲に懐中電灯の光を振り向けた。
「てか、なんで照明落としてるわけ? 肝試しに来る奴が多くて迷惑してるっていうなら、棟全体明るくしときゃいいのに。照明がこうこうと点いてたら、心霊スポットって雰囲気もだいぶ薄れるでしょ」
「それ、僕らも同じことを教務に言ったんですけどね。光熱費の関係で却下だそうです。一日二日ならまだしも、噂が沈静化するまでってなると、いったい何日間点けっぱなしにしておけばいいのかもわからないしってことで」
「でも、犬神大学ってクリスマスシーズンはイルミネーションしたりしてるのに……」
「その辺はまた予算の出所が違うんじゃないですか。卒業生からの寄付の使い道を派手に示す用、とか」
「そんなあ」
しかし泣き言を言っても、暗い廊下に突然イルミネーションがぴかぴかと点灯するわけでもない。
「まあ本音を言えば、犯罪者を出したような研究室のために予算は割けないってことじゃないですかね」
渋谷の言葉に、あざみもジャスミンも黙り込んだ。
「……じゃ、行きましょうか」
失言を恥じるように、渋谷は軽く咳払いをした。
渋谷が先頭に立ってくれたので、ありがたくあざみはその後に続く。「あざみー、ずるくない?」とジャスミンがささやいてきたが、聞こえなかったことにする。
無言になると、三人分の足音が廊下に響いた。
懐中電灯の光が、廊下のつるりとした表面や、壁の塗装の剥げた部分を丸く照らし出す。光に頼っているせいか、ちっとも目が暗闇に慣れない。
二階の廊下を一通り歩き終えたが、特に異変はなかった。
渋谷は階段へと懐中電灯を向け、「上がりますか」と視線で問いかけてくる。
なぜか声を出してはいけない気がして、あざみもジャスミンも黙って頷いた。
階段を昇ると、カツンカツンと鋭い足音が鳴る。視覚を封じられると、それ以外の感覚が研ぎ澄まされるというのは本当かもしれない。今は足音が、奇妙なくらい耳に突き刺さる。これが本当に三人分の足音かと思うくらい、頭の中を埋め尽くしていく。
三人は踊り場に差し掛かった。
懐中電灯の頼りない光に照らし出された渋谷やあざみ、ジャスミンの影が、壁に大きく伸び上がる。
その時、足音の中にかすかな声がした気がした。
それは混線したラジオが捉えた一瞬の声のように、すぐに足音に紛れて遠ざかる。
しかし気のせいだったかなと思った瞬間、また頭の片隅を掠めた。
今度は、さっきよりもはっきりと聞こえた。
低く、何かを訴えるような男の人の声。切実な響きを宿した、その声。
『……ない』
あざみは思わず立ち止まる。
耳に届く足音は、渋谷とジャスミンの二人分になった。
それ以外には何も聞こえない。聞こえてこない。
「あざみー? どした」
「い、いえ。気のせいでした」
声が聞こえたと口に出してしまえば、その存在を認めないわけにはいかない気がして、あざみはとっさに否定した。
階段を昇りきって三階に着いたところで、渋谷が懐中電灯を左右に振る。
けれど光の円の中に映し出されるものは何もない。
あざみたちは階段を離れ、廊下を進んでいく。
「あの、僕の聞き間違いだったらすみません。……さっきから何か聞こえませんか」
「え、渋谷さんもですか⁉」
「も、ってことはあざみーもだよね。実はあたしも……」
「ジャスミンさんも⁉」
その時、カタリと階段の方で物音がした。
三人は思わず振り返る。
そして、視線の先で何かが蠢くのを見た。
「あー、ごめんね、もしかして怖がらせてる? 私、私です」
聞き覚えのある声だった。
渋谷が懐中電灯をさっと影に向ける。照らし出されたのは、未咲の姿だった。カツカツとヒールが床を叩く音が近付いてくる。
「懐中電灯、途中で電池切れちゃったみたいで。話し声が聞こえたから合流しようと思って追いかけたんですけど」
「……ああそう。それより三浦さん、教授はいた?」
「ダメ、見当たらないです。私にそう訊くってことは、そっちも?」
「いない。あと見てないのは、各研究室の中くらいだけど」
渋谷が言い終わるか終わらないかのタイミングで、ゴトン、と音がした。
何か硬いものが落ちたような音だった。
四人は示し合わせたように顔を見合わせる。
「今、音……しましたよね」
「はい。はっきり聞こえました」
「隣の部屋からだったような」
四人はそろそろと移動し、今村研究室とまったく同じ造りの扉の前に立った。
ジャスミンが扉を照らし出したが、部屋名を示すものは見当たらない。
何の愛想もない、真っ白なドアだけがそこにある。
「ここは?」
「昔は誰かの研究室だったみたいですけど、もう長いこと空き部屋です。教授や院生が、すぐには使わない資料を置いておくのに使ってます。要は物置きですね」
「如月努さんに、なにかゆかりがあるとかは?」
「さあ、特には……。けどそもそも今回の幽霊騒ぎって、場所は社会学部の研究棟ってだけで、特にどの部屋に出るとかは限定されてないですよね」
言われてみればたしかにそうだ。つまり、この部屋に「出る」ことだってあり得る。
そうだ、と思い出してあざみはメガネをかけてみた。何か痕跡が見えるかもしれない。
けれどメガネを通してドアを見た瞬間、思わずあざみは身じろいだ。
目の前の扉に、いくつも重なる手が見える。
そのどれもが、ドアノブを握ろうとしていた。
これはなんだろう? 部屋に入る人間の手が可視化しただけなんだろうか。でも、物置きとしてしか使われていないのなら、人の出入りはそう頻繁ではないはず。それなのに、どうしてこんなにたくさんの手が重なって見えるんだろう。
「……開けてみます?」
考えがまとまらない間に、未咲が問いかけた。
どうする、とジャスミンがあざみを見る。
あざみはメガネを外し、ゆっくりと頷いた。
答えが見つからないのなら、飛び込んでみるしかない。
最終決定をあざみが下したからか、自然、先頭となってドアノブに手をかける。
さっきまで無数の手が見えていたのと同じ場所を握っているのだと思うと、手のひらが汗でぬめった。
「ええい、ままよ……!」
ガチャ、とゲームの効果音みたいに大げさな音が耳に届く。
蝶番が軋む音と共に、むっとこもった空気が流れ出した。
ジャスミンが部屋の中を懐中電灯で照らし出す。
奥の方は闇に沈んでいるが、基本的な部屋の構造は今村教授の研究室と変わらない。壁は一面建て付けの本棚で埋まり、中央にはミーティングテーブルが置かれている。そして棚もテーブルも床も、大小のダンボール箱で埋め尽くされていた。
「さっきの、何が落ちた音だったんでしょう」
ああいう音が鳴るなら、それなりの高さのある場所──本棚か、せめてミーティングテーブルやデスクから何かが落ちたに違いない。しかし床を見回してもダンボール箱に占拠されているばかりで、どこかから落下したようなものは見当たらなかった。
思い切って部屋に一歩足を踏み入れる。温くこもった空気が全身を包んだ。さっきの物音が嘘だったかのように、部屋の中はしんと静まり返っている。
「いったん照明点けるか。これじゃ何も見えないし」
そう言って、ジャスミンは扉横の壁をまさぐろうとした。
「……待ってください」
押し殺した声で渋谷が言った。
「明かりを点けたら駄目です。下がって、ゆっくり」
「え、どうして……」
渋谷が緩慢な動作で腕を上げる。
人差し指が、ミーティングテーブルの奥を指した。
その指先はカタカタと震えていた。
あざみは指先から視線を移動させ、部屋の奥に目を凝らす。
積み上げられたダンボール箱の向こうに、暗闇が沈殿していた。
しかしその陰に、周囲よりもさらに色濃く闇の凝った部分があることに気が付く。
黒い塊。
それはダンボール箱のように無機質な直線ではなく、曲線の輪郭を持っていた。
大きさも形もちょうど──椅子に座った人間のよう。
そう、その闇は人間のように見えた。
人間に似た「何か」が、左半身をこちらに向けて一番奥の席に座っている。
唾を飲み下したかったが、喉が鳴るのが怖い。
その時、闇がさざめいた。
「何か」がこちらの存在に気付いたように、部屋の奥で顔を上げたのがわかる。
一面真っ黒に塗りつぶされたその顔が、こちらを向く。
耐えきれなくなったように、ジャスミンがあざみの背後から、懐中電灯で「何か」をさっと照らし出す。
ぐう、と押し潰されたような音が喉の奥で鳴った。
思わず右手で口元を覆う。
「何か」の顔は、赤く潰れていた。
柘榴のように赤黒い肉が露出し、血溜まりがあちこちに黒く凝っている。鼻はもげ、あるべき場所には赤い皮膚と肉ばかりが残されている。両目にはまぶたもなく、丸く露出した二つの眼球が、周囲の闇を拒絶するように白く浮き上がっていた。
端が裂け、もともと笑んだように見える唇が、ゆっくりとめくれ上がっていく。
ようやく話を聞いてくれる人間がやって来たことを、深く喜ぶように。
「ほう。それで、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたというわけですか」
センター長の声音は、呆れるというよりどこか面白がっているようだった。
「だって! これまでにもたくさん怖い目には遭いましたけど、あんないかにも怪異! って感じのは初めてで……怖くて……!」
思い出すとまた動悸がしてきて、あざみは胸に手を当てて深呼吸をした。
「なるほど、いかにも怪異」
なんだか含みのある言い方だ。
センター長が車椅子を漕いでこちらにやってくる。
「よく考えてみてください。如月努の死因は確定していませんでしたよね? そして、あざみさんの見た怪異は顔が潰れていたという。ならば容貌も判別不可能だったのでは? 顔かたちのわからない怪異が、なぜ如月努だと言えるのでしょうか」
「い、言われてみればたしかに」
さっき見たばかりの怪異の顔を思い出そうとする。しかし恐ろしさばかりがつのって、はっきりと思い浮かべることができない。そもそもすぐに逃げ出してしまったので、目撃したのはほんの一瞬なのだ。
「つまり、『私たちの見た怪異』は『如月努さんの怨霊ではない』『ほかの何かだった』のかも……ってことですか⁉」
センター長が「素晴らしいです、あざみさん」と拍手をする。
「そんな! 別の怪異までいるんだとしたら、ますます怖くて行きたくないですよ!」
「調査員がそんな泣き言を口にするものではありませんよ。調査は行っただけでは意味がありません。それについての検証を行って初めて意味を為すのですから」
センター長はティッシュボックスをあざみに向けて差し出した。ありがたく受け取り、にじんだ涙と鼻水を拭く。
「あなたが見たものがなんだったのか、一つの視点からではなく、あらゆる角度から検討する必要があります。思い出してみてください、これまでに遭遇した事件たちを。そのいずれもが、単純に怪異のせい、都市伝説のせいというわけではなかったはずです」
「じゃあ、今回の件も人間が関わってるってことですか?」
「さて。そこは私が答えを与えるのではなく、あざみさんが自ら答えにたどり着くべきでしょう。結論だけを告げても、人はすんなりと受け入れることはできません。あざみさんが地道な調査をした末にたどり着いた真相こそ、人々を納得させることができるのです」
「は、はあ……」
言うべきことは言ったというように、センター長は部屋の奥に戻っていってしまう。
「私はここで、今回の件についてのTKCチャンネル用動画でも用意しています。無事に事件を解決に導き、あざみさんが帰ってくるのを待っていますよ」
そう言うと、センター長はあざみのことを視界から追い出し、モニターに向かい合った。
あの、と声をかけても反応がない。一度こうなってしまうと、何を言っても返事は期待できないだろう。
あざみはすごすごとセンターを後にするしかなかった。
【つづく】