#3 【取材・文/山田ガスマスク】

時刻がちょうど二十時になったのを確認して、PC画面を更新する。
すると馴染みのウェブメディアのトップページに、最新記事が現れた。
『山田ガスマスク、中学生地下アイドル神隠し事件の真相に迫る! ~心霊現象に隠された芸能界の闇~』
カスみたいなタイトルからお察しの通り、ゴミ記事である。
読むだけ時間の無駄だ。
そんなゴミでも、SNSにリンクを貼りつけて放り投げれば、リポストといいねの数字が回り始める。ゴミ記事に似合いのドブ人間が群がり、山田の書いた駄文をせっせとインターネット上に広げていく。
これから押し寄せる反応に、だいたいの予測はついていた。
想像するだにぞっとしない。
読み終えるのに何時間も要するような大作記事ではない(そんな大長編、ネット民はそもそも読みゃしない)から、十分も待てば反応の第一波は確認できるだろう。
だけど別に、わくわくと胸を高鳴らせて見守るようなものでもない。
やっと記事が自分の手から離れて気が抜けたのか、大あくびが出た。
しょうもない記事だが、山田にしては珍しく何度も取材に出かけて書き上げたので、疲れが溜まっているのかもしれない。
寝るとしよう。もはやできることは何もない。
ベッドにもぐり込み、目を閉じる。
しかし眠りは訪れない。体は疲れているのに、頭ばかりが冴えていた。
仕方なく、というかほとんど反射的にスマホを手に取る。
自分の記事が拡散されていく様子を、山田は暗闇の中でじっと見つめていた。
三人並んで写真を撮ると、真ん中の人間は消える──あるいは死ぬ。
この都市伝説を耳にしたことがある人は多いだろう。
しかし、信じている人間はほとんどいないに違いない。古くさい迷信もいいところだ。
カメラがまだ物珍しかった時代、「写真を撮られると魂が抜ける」という噂があった。そこから派生したチープな怪談だろうと、容易に想像がつく。
しかしこのかびくさい都市伝説が令和の時代に引っ張り出される事態が、先月都内にて発生していたことをご存じだろうか。
都市伝説によれば、消えるのは三人並んだ真ん中の人物である。
そして今回の事件で姿を消したのは、三人組のアイドルグループでセンターを務める十五歳の少女だった。
これは「中学生地下アイドル神隠し事件」と称された、不可解な少女失踪事件を追った記録である。
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十五歳で中学三年生のアイドル、鏑木合歓が消息を絶った。
彼女の所属するグループ『禍ツ姫』の運営がSNS上でそう発表したのは、七月二日深夜のことだ。
当該ポストには、報告文と共に一枚の写真が添付されていた。
アイドルのライブを映したものである。
写真には、不自然なスペースが空いていた。
カメラに視線を向ける二人のアイドルの中央に、誰かもう一人いたことは明らかだった。
その空白に立っていたはずの人物こそ、鏑木合歓である。
禍ツ姫の運営は「この写真は合歓が姿を消す直前のライブで撮られたもので、一切加工などはしていない」と説明した。
ポストは現在削除されているが、スクリーンショットを示しておく。
【『禍ツ姫』公式のポスト画像】
しかし当初、ファンの間に動揺は見られなかった。
まだわずか十五歳で中学三年生の少女が姿を消し、不気味な写真が掲載されたにもかかわらず、である。
それはなぜか、という疑問にまずは答えていきたい。
地下アイドル『禍ツ姫』は、「本邦初! ライブで必ず怪奇現象が起きるホラー系アイドル」というなんとも胡乱なキャッチコピーを掲げたグループである。
三年前の結成から何度かメンバーの入れ替わりを経て、一年と少し前に鏑木合歓が加入し現在の三人体制となった。
言葉を選ばずに評するなら、禍ツ姫は「売れないアイドル」だった。コンセプトに多少の物珍しさはあるものの、言ってしまえばそれだけだ。おそらく数年後には解散し、特に誰の記憶に残ることもない、有象無象の地下アイドルグループの一つに過ぎなかった。
しかし失踪した鏑木合歓は、とあるアイドル通から「生まれながらのアイドル」「あとは世間に見つかるのを待つだけ」と絶賛されるほど、才能あふれる少女だった。彼の言葉は、合歓の加入後に禍ツ姫の人気が飛躍的に上昇したことによって証明されている。合歓加入前には二千程度だったグループ公式のフォロワー数は、五万強に跳ね上がった。合歓個人は、ゼロから始めて十万人のフォロワーを獲得している。
禍ツ姫は着々とライブの動員数も増やし、最近ではチケット完売も珍しくなかった。誰もが知る国民的アイドルとはいかないものの、アイドルファンの間で「ああ、禍ツ姫ね」と名前が通るくらいまでには成長し、女性アイドルの祭典「SIF(サマーアイドルフェスティバル。これに招待されることは、人気のバロメーターとなっている)」にも初出演が決定していた。
ようやく波に乗ったといえる時に、ブレイクの立役者である合歓が消えたのである。
家出か、誘拐か?
普通なら、とにかく何かトラブルがあったのでは、と予想するだろう。
しかし禍ツ姫のファンは違った。
先に述べたとおり、禍ツ姫は「ライブで必ず怪奇現象が起きる」と謳っていた。
だが本物の怪奇現象が、そう都合よく毎回起こるはずもない。
結局、彼女たちのライブはお化け屋敷のようなアトラクションと同種のものだった。
曲の途中で聞こえる不気味な声は録音を流しただけ、突然照明が落ちるのも演出の一部。ファンと撮ったチェキに妙なものが写り込むのは、カメラのレンズやフィルムにあらかじめ細工がしてあるから。
それを理解した上で、ファンは礼儀として怖がり、悲鳴を上げてみせていた。
つまり、ファンの間に「これは作り物だ」という共通認識があったのだ。
だから禍ツ姫のファンは、合歓の失踪が発表された時も「これもいつもと同じ、何かのイベントなのだろう」と解釈した。
SIFへの出演を控えているため、普段よりも規模の大きな「怪奇現象」を打ち出し、注目を集めたいのだろうというのが大勢の見方だった。
そして彼らは合歓の身を案じることなく、これからどんなイベントが始まるのかという期待に胸を膨らませた。SNS上で、イベント内容の予想を繰り広げさえした。
人が消えたのだから、「神隠し」がモチーフか。センターである合歓が消える事態に写真を添えたのは、冒頭に掲載した「三人組を写真に撮ると、真ん中の人間が消える」という怪談になぞらえているのかもしれない。
もともと「ホラーアイドル」を推すような人々なので、怪談話は大好きだった。
「その日はタイムラインがすごく盛り上がって、明け方近くまでみんなとリプ飛ばし合ってました。幽霊(注:禍ツ姫ファンネーム)だけじゃなくて、オカルト好きの人も考察を上げてくれたりして」とは、ファンの男性(二十代)談である。
誰も、合歓が本当に姿を消したとは考えていなかった。
しかし合歓は彼らの予想を裏切り、ステージに戻らなかった。
失踪が本物であるとファンが見抜けなかったにしろ、少なくとも所属する事務所は事態を把握していたはずである。だが取材の過程で、驚くべきことに事務所は捜索願さえ提出していなかったことが判明した。
長くくすぶっていたグループにブレイクをもたらした、「天性のアイドル」鏑木合歓。
十五歳の少女の身にいったい何が起こったのか。
なぜ、事務所は彼女の失踪を放置したのか?
これは、現代によみがえった「神隠し」だったのだろうか。
事件の背後に潜む闇、隠された真実を追った。
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一つ伸びをすると、ゲーミングチェアが軽く軋んだ。
眠気を覚えてエナジードリンクの缶を手に取るが、中身はすでに空だった。
眠い目をこすり、書き上げたばかりの記事をざっと目でさらう。
なかなか悪くない仕上がりだ。
山田ガスマスクにとって、Webライターは天職だ。
しかし山田の書く文章に意味はない。それはただの触媒だ。
ガスマスクの記事は、ネット民の感情を誘導する。彼らは記事の標的となった人間の行動に逐一腹を立て、攻撃するようになる。
誰かを叩くのは気持ちがいい。どんな綺麗事で取り繕おうと、それは否定できない人間の本性だ。その快楽に無責任に身を浸したい連中が、山田のフォロワーとなってくれる。だから記事の中身がスカスカでも、ひと時の快楽を得るための材料になりさえすれば、PVは稼げる。
けれど山田は、自身のフォロワーのことが理解できない。彼らは正義の鉄槌を振り下ろす先を常に探している。誰かが「こいつは悪者だ、叩いていい」とお墨付きを与えてくれるのを待っている。ただ叩きたいから叩いているようにしか見えないが、それを正当な怒りだと信じている。
山田にとってはPV数をかさ増ししてくれる有り難い存在だが、心情的にはアンチの方がまだしも好感が持てるくらいだ。少なくともアンチ連中は、山田の書く文章に意味などなく、数字のための燃料を垂れ流しているだけだと気が付いている。
彼らが言うことには、山田の書く記事は全部他人の揚げ足取りで、足を使った取材もろくにしていない。意図的に悪意が込められており、人々の不安や苛立ち、怒りを増幅させるための装置でしかない。山田のような人間は、絶筆した方が世のためだ。
フォロワーたちはアンチの言動に怒り狂うが、実際その通りである。
だから山田に「筆を折れ」という人間が現れると、ネットにもまだ賢者が生き残っていたのだと嬉しくなってしまう。
そういう時は、気まぐれにお礼のリプを送ってみたりする。
『長文での感想ありがとうございます! ご高説を励みにして、次の記事も気合い入れて書きますねw お楽しみに~』
賢者は煽りに不慣れだ。
彼らは真っ当に怒り、山田ガスマスクがどれだけ有害な人間かをやっきになって書き立てる。
けれどネット民たちの脳には、賢者の正しくて小難しい話なんか欠片も残らず、ただ「山田ガスマスク」の名だけが刷り込まれる。あわれ賢者は、悪魔のスピーカーと化す。
かくして山田ガスマスクは有名ライターに成り上がった。山田自身は中身のない記事を量産していただけなのに、周囲がその地位を用意してくれたのだ。
これでは、Webライターが天職だと錯覚するのも無理ないだろう。
こんなことなら、無駄な寄り道をせず最初からライターになればよかった。
誰ともつるまず、何もかも一人でやればよかった。
そうすれば──と思考が飛びそうになるのを、軽く頭を振って阻止した。
後悔なんて、一番コスパが悪い。
今さら何を思ったところで、過去は一ミリも変えられない。
そんなことをしているくらいなら、次の記事のネタでも探した方がずっと建設的だ。
記事はアップして読まれると同時に、飽きられ始めている。昨今のコンテンツ消費のスピードは驚異的だ。まして山田の書く記事なんて、脳の浅い部分を刺激するばかりなのだから、冷められるのだって早い。
早く次の餌を用意しないと、客は待っていてくれない。
可燃性が高そうで、できれば社会問題ほどシリアスじゃなくて、ネット民たちがああだこうだ口を出したくなるような、そんなトピックをさっさと見つけないといけない。
SNSのタイムラインをスクロールし始めたその時、一通のDMが届いた。
反射的に開き、たった三行しかない文面に素早く目を通す。
スパムではないらしいことは、一行目から読み取れた。
『消えたアイドルのこと、探してくれませんか』
冒頭にはそう書かれていた。
二行目に、『名前は鏑木合歓、十五歳の中学生。「禍ツ姫」所属』とある。
そして三行目。
『二週間前、合歓は神隠しにあったんです』と結ばれていた。
予感がした。
これはきっと、育ってくれる。
俗悪で、ネット民が脳内麻薬を分泌しまくって、でも十日後にはすっかり忘れてしまう、ライター・山田ガスマスクが手がけるのに最適な話題に。
発信元は明らかに捨てアカらしく、アイコンすらデフォルトのままだった。
怪しすぎるそのアカウントに、素早く返信する。
『初めまして。本件について、詳しくお伺いできますでしょうか?』
返信はなかった。既読もつかない。
とりあえず待つか、と今月末にアップを予定している記事の修正に戻った。
記事は、北峰徹也という中堅男性タレントについてのものだ。北峰は二年ほど前にオンラインカジノ利用で摘発されたところに不倫も発覚、半年間の謹慎を経て復帰したものの、今となってはレギュラー番組はゼロという落ち目である。記事の内容は、そんな男が過去に起こしていた不祥事をほじくり返して列挙した、これまた悪趣味で山田向きのものだった。
数週間前には、何食わぬ顔で本人の元へ取材にも行った。「マルチタレントとして業界を生き残る秘訣」というぼやけた偽のテーマを携えていったが、本人は嬉々としてしゃべりまくってくれた。黒い噂を裏付けるようなことまで自分から話してくれるものだから、山田としては大助かりだった。世間に白い目で見られるようになって、持ち上げてくれる相手に飢えているのだろう。
取材場所は北峰の所属事務所だったが、不倫発覚後に移籍した(というか元いた事務所をクビになった)影響か、事務所は単なるマンションの一室だった。以前に所属していた大手事務所がガラス張りの自社ビルだったことを考えれば、相当の転落ぶりだ。スタッフもほとんど置いていないのか、山田に茶を出してくれたのも、おそらく所属タレントだろう若い女だった。
しかし北峰の悪行をあらためて羅列してみると、パワハラにセクハラに学生時代のいじめにと、不祥事のデパートみたいな男だ。落ち目とはいえこんな男でも未だに活動できているのだから、芸能界もずいぶん緩い。山田の記事が公開されたら、また状況は変わるだろうか。少なくとも、依頼主はそう望んでいるのだろう。
この記事は山田自身の企画ではなく、匿名の第三者から依頼があったものだ。身元が確かでない依頼主なんて、普段なら即蹴るところだ。しかし提示された原稿料は相場より割高、さらには全額前払い、リテイクもなしでOKという破格の条件だったので受けた。
依頼人は、どうせ北峰に被害を受けた誰かに決まっている。復讐なんて湿っぽいものに加担させられるのはだるいが、見合った金を払ってくれるのならば文句はない。
午前三時を回り、そろそろ眠ろうかとPCの電源を落とした時も、DMに返信はきていなかった。
はずれだろうか。
まあはずれならはずれでいいか、とベッドに寝転がる。
「中学生アイドル失踪」という見出しだけでも、付き合いのあるウェブメディアが買い取ってくれただろうし、PV数だってかなり稼げただろうから、惜しいといえば惜しい。
けれど冷静に考えてみれば、十五歳の地下アイドルが失踪した原因なんてたかが知れている。やばい事務所を引き当てたか、粘着ファンに嫌気が差したか、彼氏ができて逃げたかのどれかだろう。何が神隠しだ、と笑ってしまう。いくら中身がなくてもいいとはいえ、まともな記事に仕上げるのは骨が折れそうだ。
そう思っていたのに、朝起きてスマホを見ると、例の捨てアカから返信が来ていた。
『こちらにお越しください』
短い文章とともに、画像が送られていた。
どうも、ライブチケットのQRコードらしい。開催日は明日の日付になっている。
まだ記事にするともなんとも言っていないのに、取材に来いということか。
まるでサスペンス映画の始まりだ。のこのこライブに出かけていく間抜けなライター役の男は、早々に事件に巻き込まれて死ぬ。
けれどそれは映画やドラマの中での話だ。
現実はもっとありきたりで退屈なものでしかない。
アイドルのライブに足を運ぶなんて考えただけで面倒くさいが、正体不明の人物に招待され赴いた先で何かが起きる、という記事の導入は悪くないかもしれない。北峰の不祥事記事はほとんど仕上がっているし、ほかのスケジュールにも差し迫ったものはない。
『わかりました。お伺いします』
山田はそう送り返し、QRコードの画像をスクショした。
返信はふたたび途絶えた。
しばらくしてDMを確認すると、相手のアカウントは消えていた。
『本日はお越し下さり、ありがとうございまーす!』
ステージに立つ二人のアイドルが、大げさなくらい深く頭を下げた。
彼女たちのまとう衣装は白と紫。ジャンパースカートの裾は、そろって血を吸い上げたように赤く染まっていた。どちらも髪は漆黒で唇は深紅、肌は漆喰みたいに真っ白、目の下は黒く塗りこめられている。
白い衣装の方が、綺羅柘榴。衣装と同じく白いヘッドドレスに、片目は眼帯で覆っていた。紫色の衣装の方は、皇躑躅。こっちは西洋の貴婦人が葬儀で身につけるような、ベール付きの帽子をかぶっている。
十五歳の鏑木合歓とグループを組んでいるはずだが、二人はかなり歳上に見えた。どう見ても二十代、もしかしたら半ばも過ぎているかもしれない。
『あんなことが起きた時は、これからどうなっちゃうんだろうと思ったんですけど。でも、幽霊のみんながこうして会場埋めてくれて』
柘榴が声を震わせると、客席から「泣かないでー!」「大丈夫だよー!」と野太い声が上がる。
ファンの声にいかにも励まされましたという風に彼女は目元をぬぐい、笑顔を見せた。
『だから! 私たち二人で決めました! 合歓が戻ってくるまで、私と躑躅の二人で「禍ツ姫」を守ります!』
あくびが出そうになる茶番だ。
柘榴は泣いているふりをしているが、どう見ても涙は出ておらず、濃いアイラインは一切にじんでいない。
これまでのパフォーマンスもひどいものだった。地下アイドルのライブに期待してたわけではないが、そこそこの動員が見込めるグループでさえこんなもんなのか、という嬉しくない驚きばかりを与えられた。それとも鏑木合歓の不在が、ここまでクオリティを下げているのだろうか?
おまけに観客が謎の合いの手やらメンバーの名前やらを曲中に叫ぶのも、耳障りでしかない。肝心の歌が、ファンの声にかき消されてしまっている時さえある。お前らは何しにここへ来てるんだ、アイドルの歌を聞きにきたんじゃないのか。
『皆さん、ついてきてくれますかー⁉』
山田は完全にげんなりしていたが、客席は歓声に包まれた。
ファン連中は、この茶番に本気で歓声を上げてるんだろうか。
柘榴は「私たち二人で決めました」と言っているが、アイドルが事務所の意向を無視できるわけはない。こうして会場を用意し、アイドルをステージに立たせているのは、彼女たちの背後にいる大人たちだ。「私たち二人」ではなく、大勢のおっさんが決めたことに決まってる。ちょっと想像すればわかるはずなのに、鵜吞みにして大声を上げられる神経が理解できない。
『それじゃあ、最後の曲を聞いてください。「花散る姫人形』」
ふたたび歓声が上がり、赤色のペンライトが一斉に点灯される。
ステージに立つ二人の衣装は白と紫がベースのものなのに、その二色はぽつぽつと見えるばかりだ。
会場を埋め尽くすのは赤。
今、ここにはいない少女に捧げられた色である。
まったく残酷な話だ。ステージ上の二人に歓声を上げておいて、その実観客のほとんどが、別の人間のことを考えていると表明しているのだから。
ようやくライブが終わり、出口へと向かう。
やっと解放された、というのが正直な感想だ。
長時間爆音を食らい続けたせいで、ずきずきと頭が痛む。万一同業者と顔を合わせたら気まずいからと、キャップにサングラスに黒マスクと、一応の変装をしてきたのも良くなかったかもしれない。会場内はただでさえ酸素が薄いのに、マスクなんかしていたせいでひどく息苦しい。いっそガスマスクを持ってきた方が、呼吸的には楽だったかもしれない。
しかし周囲を見回しても、頭痛でこめかみを押さえているのは山田くらいのものだ。ほかの客は涼しい顔で、「このあと特典会どうする?」と顔なじみと話している。
特典会とは、目当てのアイドルとチェキを撮り、数十秒間話ができるシステムだというのは予習済みだ。ライブそのものよりも、アイドルと対面できるその時間を楽しみにするファンも少なくないらしい。
「今日、合歓いないからなあ。このまま帰るか」
「俺もそうする。合歓ちゃん戻ってきた時、浮気してたって思われたくないし」
浮気ってなんだ浮気って、気色悪い。中学生相手に使う言葉とも思えない。
山田もさっさとこのクソ暑い会場から抜け出したかったが、神隠し事件についてまだ何もつかめていないのだからそうもいかない。
あんな意味深なDMが送られてくるくらいだから、てっきりライブ中に何か起きるのだと思っていた。もしかすると今日のライブで合歓が復帰する手筈になっていて、それを記事にしてほしい運営側が連絡してきたのかもしれないとさえ考えた。
しかし、ライブは拍子抜けするほどあっさり終わってしまった。
このままでは帰れない。「怪現象」が起きないのなら、せめて誰かに話を聞かなければ。
山田はロビーに長く伸びる列にうんざりしながら、特典会待機の最後尾についた。柘榴と躑躅で列が分かれていたので、やや列の長い柘榴の方を選ぶ。長く並べば、それだけ多く周囲の会話も耳に入るだろう。
ロビーは会場よりは涼しく、突っ立って列が進むのを待っていると頭痛も多少はましになった。辺りを見回してみると、山田と同じく、どうもアイドルのライブ慣れしていなそうな人の姿もちらほらと見える。
合歓の神隠し事件で、禍ツ姫の名はオカルトマニアの間にも知れ渡った。禍ツ姫の公式がポストした報告文と写真が拡散されたからだ。あんな写真をマニアが本物だと信じるわけはないだろうが、目新しい心霊スポットをちょっと覗いてみるか、くらいの感覚でライブに足を運んだのかもしれない。
どうやら隣の「皇躑躅」列にいる男もオカルトマニアらしかった。列に並びながら、『「オカルトグレートリセット」から如月努を読み解く』という分厚い本をかぶりつくようにして読んでいる。ネルシャツにたくさんのポケットが付いたベストを合わせ、長髪を一つにくくった頭にバンダナを巻き、さらにリュックまで背負っているという古式ゆかしい「ザ・オタク」スタイルだ。
「あの、すいません。如月努、お好きなんですか」
山田が話しかけると、男は素早く本から顔を上げた。
「いかにも私は如月努の信奉者を自負しておりますが。声をかけてきたということは、もしやそちらも」
「いや、僕はそこまでは……。あんまり詳しくはないんですけど、ちょっと興味あって」
「それは、なんとも喜ばしい話ですな」
男はリュックの中をまさぐると、一冊の本を取り出した。
『オカルトグレートリセット』と書かれたそれを、山田の手に押し付けようとする。
「まずはこちらから読まれるのがよろしいでしょう。如月努氏のエッセンスがすべて詰め込まれた本でありますから、えぇ」
冗談じゃない。こんな本、読むどころか家に置いておくのだって気分が悪い。
「いや、もらえないですよ。自分で買いますって」
「布教用ストックとして持ち歩いているものですから、お気になさらず。自宅にはまだ二十冊ほどありますゆえ」
受け取るのは嫌だが、ここは素直に受け取っておいた方が気をよくしそうだ。山田は「じゃあ、有り難く」と『オカルトグレートリセット』を小脇に抱えた。新品のようだし、帰ったらすぐフリマリに出品するか捨てればいい。
「今日はやっぱり、神隠しの噂を聞きつけて来たんですか?」
男は黒目をぎょろりと山田の方へ向けた。
「すると、貴殿も目的を同じくするということでしょうか」
「いや、実はそうなんです。お仲間を見つけられたのが嬉しくて、つい声かけちゃいました。でもライブは正直、肩透かしでしたね。何も起こりゃしない」
「同感であります。もちろんオカルト愛好者として、そう簡単に本物の怪異に遭遇できると思ってはおりません、えぇ。少年時代にオカルトの世界に魅せられてからかれこれ数十年経ちますが、本物だと思えたものなど数えるほどですし」
「筋金入りなんですね。僕、実はこっち方面にはまったのって最近なんですよ。これまで見てきた本物って、たとえばどんな感じのがありましたか」
「確信まで至ったのは、陰謀論分野くらいのものです」
「おお、手広いっすね。ちなみにどの?」
待機列がゆっくりと進む。その歩みに合わせ、男は言った。
「上野天誅事件」
あー、と意味のない声が喉から漏れる。
手にした『オカルトグレートリセット』が、急に重みを増した気がした。
「もちろんご存じでしょう。世間一般にもよく知れ渡った事件ですから、えぇ」
「あれですよね。この本の著者の……如月努が犯人だっていう」
山田がそう言った途端、男はかっと目を見開き、周囲が振り返るほどの大声を上げた。
「まったくの誤解です! 彼は無罪! オカルト界隈に足を踏み入れる気概をお持ちなら、それくらいは理解しておいてほしいですな!」
すみません、と山田は彼をなだめた。男も注目を浴びていることに気付いたのか、恥じ入ったように小さくなった。
「まあ、冤罪だって意見も当時からありましたよね」
「意見ではなく、純然たる事実であります! あれは間違いなく、大きな力によって闇に葬り去られた事件でした。如月氏はその犠牲となったのです。自分はオカルトを好みますが、なんでも無批判に頭から信じる蒙昧な輩ではないと自負しております。しかしあの件だけは、留保なしに陰謀だったと言いきれますぞ」
男は小声ではあるが、オタクの手本みたいな早口で唾を飛ばした。
やはり如月努の信奉者は面倒くさい。オカルト界隈ではそれなりの人数がいるので引き当ててしまうのは仕方ないが、これでは会話にならない。
別の話題を投げてやろうとしたところで、悲鳴が聞こえた。
どうやら、柘榴の撮影ブースかららしい。
前方を覗き込むと、ツーショットを撮っていたらしいファンが撮影スタッフに詰め寄っていた。柘榴は困惑の表情でその場に立ち尽くしている。
「なんの騒ぎでしょうな?」
「いよいよお待ちかね、怪異のおでましってところじゃないですか」
そうしている間にどよめきが広がり、待機列が乱れ始める。
「み、皆様! 落ち着いてください!」
一人のスタッフが、列整理をしようと前に進み出た。
スタッフの顔は、十三日の金曜日に現れる怪人がかぶっているようなホッケーマスクにすっぽりと覆われている。「ホラーアイドル」の雰囲気を高めるための小道具だろうか。マスクのせいで顔はまったく見えないが、はみ出た髪の毛がドレッドなのが印象深かった。
「トラブルが起こったわけではございません! えー、ただ少し、余計なものが写り込んでしまっただけでして……」
しかしスタッフの言葉は火に油だったらしく、ツーショット撮影中だった男は「これのどこか少しだよ!」と周囲のファンに見えるように撮ったばかりのチェキを掲げた。
「気持ちわりいな! なんなんだよこれ!」
「わ、私はただの日雇いバイトなので、そう言われましても……」
山田にも、ちらっとだが見えた。
写真には血のような赤い染みが浮かんでいた。染みはファンとアイドル、二人の顔の上に集中している。まるで顔が潰れて血まみれになったかのようだ。
禍ツ姫の特典会で不気味な写真が撮れることはたまにあり、ファンの間で「当たり」扱いされていた。しかし調べた限りでは奇妙な影やオーブが写り込む程度のもので、これほど露骨なものではなかった。チェキを見たファンたちも、さすがに困惑したように顔を見合わせ、ざわめいている。
「いいかげんにしろよ! ちょっと売れて調子に乗ったのかなんか知らねえけどさ、合歓はどっかに隠す、金落としてるこっちに意味わかんねえ嫌がらせはする! こんなんじゃ、他界する奴これからどんどん出るだろうな!」
捨て台詞を吐くと、男性ファンはチェキをスタッフに突き返して憤然と出口へ向かった。
「他界」とは物騒だが、たしかアイドル界隈ではファンをやめることを指す言葉のはずだ。
血の付いたチェキを押し付けられたスタッフは、触れれば呪いが自分に移るとでもいうように、爪先でつまんでおろおろしていた。ドレッドなんて気合いの入った髪型をしている割に、気は小さいらしい。
「本物ですかね?」
山田がささやくと、オカルトマニアの男は首を横に振った。
「可能性は低いのでは? フィルムにあらかじめ細工しておけば、簡単なことかと」
山田も同意見だった。男の言う通り、おそらくこれもやらせだろう。あの客の怒りようもちょっと大げさすぎる気がするし、客自体が仕込みかもしれない。
「えー、お騒がせして申し訳ございません! 特典会を再開いたします! 列を乱さず、お並びになったままお待ちください!」
スタッフたちは周囲に向けてそう叫んだ。
しかしオカルトマニアの男は、重そうなリュックを揺らして列から抜けた。
「帰るんですか?」
「ええ。ここの『神隠し』はやはりオカルト絡みではないと思われるゆえ。そう簡単に、本物には出会えないということでしょうな」
男は会釈すると、会場を出ていった。
山田も彼にならい、列を抜ける。ここにいても、おそらくさっきの血まみれチェキ以上の事件は見られないだろう。
スタッフたちが忙しなく駆け回る中、血まみれチェキを突き返されたバイトが、まだぼうっとしているのが目についた。彼に近付いていき、背後から声をかける。
「大丈夫ですか?」
「え、あ、は、すみません」
また怒鳴られるとでも思ったのか、バイトはびくりと体を震わせた。
「いや、謝んないでくださいよ。あんなもの急に見せられたら、誰だってびびりますって」
男は山田の言葉に安堵したようだった。
「そ、そうなんです。イベントスタッフとだけ聞いて応募したのに……。ホラーアイドルだとか、メンバーの一人が失踪してるだなんて、ここに来て初めて知ったんですよ」
「そりゃ災難でしたね」
「わかっていただけます? 私、こんなマスクをかぶっておりますが、オカルトめいたものに明るいわけではなくてですね。見合った賃金をいただいておりますので、やれと言われればなんでもやりますが」
「それじゃあ、その写真もさぞ気持ちが悪いでしょう。心霊写真なんか持ってたら呪われそうですし、でも捨てるのも気が引けますしね」
「の、呪われ……⁉」
仮面越しでも、男の顔が青ざめたのがわかった。
「よかったらそれ、預かりましょうか。知り合いに、実家が寺の奴いるんですよ」
もちろん真っ赤な嘘だ。しかし男は早く写真を手放したくて仕方なかったのか、「そそそ、それはありがたい! ぜひ!」と震える手で差し出した。
あとでこのバイトは運営に叱られるかもしれないが、だからといってここで手を引っ込めるようでは、炎上狙いのライターなんかやってられない。子供だましの「心霊写真」でも、目ぼしいネタが見つからなかった時の文字数稼ぎくらいにはなるだろう。
ほかのスタッフに見とがめられない内に、「それじゃあ」と仮面の男に軽く手を振って会場を出る。幸い、追いかけてくる声はなかった。
会場前の植え込みに腰を下ろし、まじまじと血まみれチェキを眺める。
遠目で見た時は気味が悪かったが、よく見れば赤い染みは二人の顔の上にかぶさるというより、もともとフィルムに染みついていたように見える。ポーズをあらかじめ推測しておけば、ちょうど顔に重なる部分に赤いインクを染み込ませておくこともできるだろう。
やはりこの「心霊写真」は、ただの仕込みか。
しかしその予想がついたところで、合歓の失踪をどう捉えればいいのだろう。
DMの指示にしたがってライブに来たのに、真相はちっともつかめないままだ。
仕方がないので、事件について一旦整理してみる。
鏑木合歓の失踪には、大きく分けて三つの可能性がある。
一つ目。失踪は禍ツ姫運営による企画で、合歓もそれに合わせて意図的に姿を隠している場合。
二つ目。合歓が姿を消したのは事実だが、運営が「これはいつもの怪現象、企画ですよ」という体で隠蔽を図っている場合。
三つ目。失踪は神隠しによるもので、運営は本当のことしか言っておらず、例の合歓が写っていない心霊写真も本物の場合。
三つ目の可能性は、常識的に考えてあり得ない。
したがって、二つの可能性だけが残ることになる。
仮に一つ目が正解だとするなら、運営の意図するところはなんだろう。さっきの血まみれチェキのように、いつもより大げさな心霊現象を小出しに起こしていき、満を持したタイミングで合歓が帰還──というシナリオでも描いているんだろうか。
しかしどうも、運営にそこまでやるメリットがない気がする。
ネットニュースに取り上げられるくらいの話題にはなるかもしれないが、合歓の不在が続く内に、金を落としてくれるコアなファンが脱落していきかねない。彼らは合歓の立つステージ、合歓と撮れる写真を目当てにチケットやチェキ券を買っているのだ。少しくらい知名度が上がったところで、彼らにそっぽを向かれたら地下アイドルなんて商売は成り立たない。無責任に読み散らかし拡散してもらえれば、それで金になる山田の稼業とはわけが違う。
そうすると二つ目が正解で、失踪自体は本物なのか?
今、運営は血眼で合歓の行方を探しているところだが、それを隠蔽し客の目を逸らすため、普段より派手な心霊現象を起こしてみせている。明らかに嘘だと思える形で合歓が行方知れずだと発表したのは、彼女の失踪に関して後ろ暗い理由があるから。探られると困る腹があるから。
「……一番ありそうな線ではある、か」
思わず口に出たところで、周囲をうろつく人々の中に、知った顔が混じっているのが目に入った。その男はスマホで動画撮影しながら、会場から出てきた人たちに見境なく話しかけているようだ。
一度は治まった頭痛がぶり返したような気がした。なんであいつがこんなところに、と一瞬思ったが、少なくとも顔見知りの中で「こんなところ」に一番いそうな人物ではある。
面倒なので見つからない内に退散しようと立ち上がると、そいつとばっちり目が合った。
「あれ、うっそ。ひさしぶり」
丸眼鏡をくいと上げると、その男──谷原きのこは、にやつきながら近付いてきた。
「……変装してんのに、なんでわかんの」
観念して、黒マスクを顎下まで引き下ろす。
「いやいや、その猫背じゃ変装の意味ないって。というか顔隠すなら、サングラスよりガスマスクしてきた方がよかったんじゃない?」
相変わらず、語尾に「w」が透けて見えそうなむかつくしゃべり方をする。人のことは言えないが。
「ガスマスクなんかつけてたら、それこそ変装の意味ないから。それより、なんでこんなとこにいるわけ」
「そりゃ、もちろん動画の収録でしょ。『中学生地下アイドル神隠し事件』のね。君こそなんで?」
「取材だよ。ほかに用ないでしょ、地下アイドルのライブとか」
「別に照れなくてもいいじゃないですかあー。アイドルオタクもひと昔前に比べれば市民権を得たし、隠すような趣味でもないでしょ」
山田は聞こえよがしに舌打ちした。
「この件、動画にするつもり?」
「当たり前でしょ。きのこさんは今や心霊系トップ配信者ですよ。怪異の噂あれば、どこへでも駆けつけますから」
「心霊系トップ配信者って。この世で一、二を争うくらい胡散臭い肩書きだね」
「有名炎上商法Webライターに言われたくないね。そっちも今回のこと記事にするんでしょ? ならせっかくだしさあ、コラボで相乗効果狙ってみたり……」
「あり得ないから。谷原きのこみたいなやらせ野郎とつるみ出したら、僕の記事の信憑性まで疑われる」
「よく言うよねえ。君の記事に信憑性もクソもないでしょ。誰か叩くための揚げ足取りばっかなんだからさ」
「少なくとも、僕はそっちの動画みたいに嘘を発信したことはない」
「有害な事実の切り取りより、無害な嘘の方がマシでしょ。幽霊が出る出ないの話なんて、生きてる人間には迷惑かけないし」
「どの口が」と山田は鼻で笑った。
「とにかく、この件は僕が調べるから。心霊系トップ配信者様は引っ込んでてよ」
「そんなこと言われてもなー。動画のネタなんかいくらあっても困らないしなー」
きのこはそう言いながら、山田に右の手の平を差し出した。タダでは引き下がれないと言わんばかりに、人差し指をクイクイと動かしてみせる。
「ライターが平均一文字何円でキーボード叩いてるか知ってんの? さぞ稼いでらっしゃる配信者様が、格下にたからないでほしいね」
「平均は、でしょ。君はライター界の上澄みじゃん」
いちいちうるさい奴だ。
山田はきのこの手に、紙幣の代わりにさっきもらった血まみれツーショットチェキを載せてみた。
「え! なにこれ! 合成?」
きのこはエセ心霊写真に飛びついた。
半ば冗談のつもりだったが、予想以上に食いつきがいい。
「さあ? さっきライブ終わりに撮れて、騒ぎになってたやつ。これやるから、どっか行っててくんない」
「ふーん? うん、まあまあよくできてるかも。今ってどんな写真でも作ろうと思えば作れちゃうから、心霊写真の話題って案外少ないし。若い子たちにはかえって新鮮かも!」
きのこは歯を見せてにやっと笑った。
「昔のよしみで、これで手を打とうじゃない。きのこさん、一週間は黙っててあげますよ」
「一週間ごときで、恩着せがましい」
「あのねえ、このスピードが命の時代に一週間も、だよ。一週間経ったらこんな話題、誰も覚えてないかもしれないってのに」
きのこはチェキを掲げてひらひら振ると、「じゃーね」と去っていった。
もっとしつこく絡まれるかと思ったが、山田と顔を合わせたくなかったのは向こうも同じだったのかもしれない。
「お兄さん、谷原きのこと知り合い?」
声に振り向くと、きのこに渡した心霊チェキに写っていたファン当人がそこにいた。
「いや、知り合いっていうか……。あいつに用なら、今から追っかければ間に合うと思いますけど」
「いやいや、用あんのはお兄さんの方。あんた、ライターなんだってね」
どうやら、きのことの会話を聞かれていたらしい。
「取材しに来たの? 禍ツ姫もえらくなったもんだなあ」
男はにやにやと嫌な笑みを浮かべている。関わらない方がいいに決まっている手合いだが、山田の記事はこういう質のよくない輩の協力により執筆できているのも事実だ。
「はあ。で、なんの用ですか」
「悪い話じゃないよ。詳しく話聞けそうな奴の連絡先、教えてあげてもいいなって思ってさ」
山田は首をひねった。
「そんなことをして、そちらになんの得が?」
この手の輩が見返りもなしに何か教えてくれるということは、経験上百パーセントない。
「俺ね、合歓オタなの。だから合歓いない禍ツ姫に用ないんだよね。ここの運営って、たぶん合歓のことどっか隠してんじゃん。ほかの奴はSIFに向けた企画だーとかのん気なこと言ってっけど、絶対なんかヤバい裏があんだって。その闇暴いて、グループごと潰しちゃってよ」
「メンバーの二人は、合歓を待つって言ってましたけど」
「あんなん芝居でしょ。禍ツ姫なんかなくなった方が、合歓のためだって。あのビジュと実力あれば、もっとマシなグループでも余裕でやってけるし」
勝手な言い分だ、と山田は引き上げたマスクの陰で笑った。
合歓のためと口にしながら、結局は自分の願望を押し付けているだけだ。
けれど山田にとって、男の身勝手さは好都合だった。
「じゃあ、せっかくだし教えてもらえます?」
「お、マジで? なら三万でよろしく」
男はさっきのきのこと同じように手の平を差し出した。
一万円だけ載せてやって、男の顔を見る。領収書も出ない、経費にもできない支出なんかできるだけ抑えたい。怒り出すかと思ったが、男は「はーあ、しけてんな」と頭を搔いて万札をポケットに突っ込んだ。
そして山田に、とあるアカウントのIDと電話番号を伝えた。
「事務所から、何も話すなって言われてるんで」
目の前に座った綺羅柘榴は、ぶすくれた顔で言い放った。
柘榴は禍ツ姫のメンバーの一人であり、グループのリーダーでもある。合歓が加入するまでは、センターも務めていた。
人目があると嫌だという彼女の希望で、客がほかに誰もおらず、またこれから入ってくることも永遠に期待できなそうな寂れた喫茶店で落ち合った。
けれどステージ上のような白塗りではなくごく普通のメイクをした彼女は、ライブの時とはまるで別人だ。たとえファンに目撃されても、これが綺羅柘榴だと気付く人間はそういないんじゃないだろうか。
だったらもっとマシな店に入りたかった。
テーブルにかけられたビニールクロスはべたついて不快だし、出てきたコーヒーは泥水のようだ。都内で生き残れているのが不思議なくらい、存在価値の不明な店である。
「いや、それはこちらも重々承知してるんですけどね」
山田はわざと柘榴の神経を逆撫でするようにへらへら笑った。
「でも、そちらも困りますよね? あなたを紹介してくれた人のことリークされたら」
柘榴の大きな目がこちらを睨んだ。しかし、その両目の奥には怯えが見て取れる。
彼女がこちらへの悪感情を隠そうともしないのも無理はない。
ライブの夜に声をかけてきた男は、柘榴のいわゆる「つながり」だった。つながりとは、ファンだけれど、ファンの域を越えて私的にアイドルと交流する存在のことを指す。「交流」の多くはいかがわしいもので、アイドル界隈では蛇蝎のように嫌われている。
あの男はいずれ合歓とつながることを夢見て、まずは事務所のガードが合歓ほどは固くない柘榴に近付いたらしい。しかしいつまでも合歓を紹介してくれないので腹を立て、山田に柘榴を売ったらしかった。たったの一万円で。
「知ってること、全部話しちゃってくれます? 大丈夫、記事では誰から聞いた話なのか表記しませんので」
これは「嘘はついていないが本当のことも言っていない」というやつだ。柘榴は禍ツ姫のメンバーで、ある意味で合歓に一番近いところにいた人間だ。そこから出てくるような話なんて、名前が載っていなくとも、誰から発信されたのか見当はつくに決まっている。
しかし、どちらにしろ柘榴に「話す」以外の選択肢はない。
合歓の失踪について詳細を山田に漏らしたと事務所にバレれば、厳重注意か、もしかしたらクビになるかもしれない。けれどファンとつながっていたことが露見すれば、契約違反で解雇は間違いないし、その上ネットで袋叩きにされるのが目に見えている。別グループで再デビューしようにも、その過去はいつまでもつきまとうだろう。
まったく、悪いことはしないに限る。
予想通り、柘榴は忌々しそうに顔を歪めながらも口を開いた。
「何を、ききたいわけ」
「ご協力に感謝します。あ、ここからは録音してもオッケーですか?」
柘榴はもちろん断れない。山田を睨んだまま、力なくうなずいた。
「それでは早速なんですが。合歓さんの失踪は本当ですか? 虚言ですか?」
あまりに唐突だったからか、柘榴は一瞬、ぐっと言葉に詰まった。
「……本当だよ。最初は嘘のはずだったのに」
「嘘のはずだった、とは?」
「SIF前にファンを盛り上げようって事務所が言い出して、合歓の失踪をでっちあげたの。でも、すぐに戻ってくるはずだったんだよ。それこそ次のライブまでには。なのにあの子、本当にいなくなっちゃった」
柘榴の言葉が本当なら、山田が想定した二つの可能性の、ちょうど真ん中が正解だったということになる。そんな人を食った話があるだろうか。
「そうですか。では、合歓さんの姿を最後に見たのは誰ですか?」
「それは、私。今から二週間くらい前……六月三十日の夜だった。その日のレッスンが終わって、合歓と躑躅と一緒に寮に帰ったの。夜の八時頃だったと思う。寮っていっても、ボロいアパートを借りてるだけなんだけど。合歓と私は部屋が隣同士だから、じゃあね、また明日ってそれぞれの部屋に戻って、それっきり」
「その時、合歓さんに何か変わった様子はありましたか」
「別に、何も」
「部屋に入った後、隣室から不審な物音がしたりなどは?」
「してないと思う。部屋の壁薄いけど、その日は何も聞こえなかった」
「合歓さんがいなくなったのに気付いたのはいつですか?」
「次の日になってから。レッスン開始の午後一時になっても、合歓が来なくて。寮に戻ってみたら、もういなくなってた。実家にはマネージャーが連絡したみたいだけど、帰ってないって。そこにいないなら、どこにいるのかもう誰もわかんなくて」
柘榴が嘘を吐いていないとしても、合歓が失踪したと思われる時刻には夜八時から翌日の午後一時までと、だいぶ開きがある。これでは大した参考にはならない。事務所から、どうしても何か話さないといけない場合はこう言えと指示されているのかもしれない。真相にたどり着かせないために。
「それでは、合歓さんに日頃思い悩んでいる様子などはありましたか」
「……ないよ。だって私たち、絶好調だったんだよ。あの子が加入してから、お客さんだって前と比べ物にならないくらい増えて、SIFにも呼ばれて。それ全部、合歓の力なんだって。あたしらは添え物だって。そんなあの子に、悩む理由なんかあると思う?」
柘榴の声に、はっきりといら立ちがにじんだ。
「合歓さんのおかげ、というのは誰が?」
「みんなだよ。事務所もファンも、みんなそう言ってる。やっぱ若くて才能ある子が入ると違うねって」
言外に、自分はもう若くもなければ才能もないのだと言っている。
柘榴の自虐は痛々しく、鬱陶しかった。こんなことを日頃から口にしていたのだとしたら、合歓の加入がなくともセンターを下ろされるのは時間の問題だっただろう。
「なるほど。柘榴さんは、合歓さんにあまりいい感情を持っていなかったんですね」
そう言うと、柘榴は狙い通り頬を紅潮させてくれた。
「だったらなに? 私が合歓の失踪に関わってるとでも言いたいわけ⁉」
柘榴の大声に、カウンターの隅で気配を殺していた老齢の店主がびくりと肩を震わせた。
「合歓のことなんか、好きになれなくて当たり前でしょ! 十個も年下で、アイドルやるのも初めてなら、歌もダンスも素人で! そんな子にセンター蹴落とされて、好きでいられるわけないじゃん!」
ボイストレーニングで鍛えられたアイドルの罵声は鼓膜にびりびり来たが、ここでひるむわけにはいかない。とどめの一言を付け加える。
「つまり合歓さんがいなくなって、あなたは嬉しかったんだ?」
柘榴は椅子を鳴らして立ち上がった。
そのまま立ち去ってしまうかとも思ったが、テーブル上のお冷を手にすると、山田の頭上で逆さにした。
きっちり固めていた前髪が崩れて額に貼り付き、水滴をしたたらせる。
テーブルにでき始めた水たまりから、とっさにレコーダーを遠ざけた。
このクソ女、自分の立場わかってんのか、と悪態が口をついて出そうになるが、すんでのところで思い留まる。
自分で水をかけたくせに、柘榴はばつが悪そうな顔でこちらの出方をうかがっていた。
「僕は大丈夫ですから。話を続けてください」
山田が促すと、柘榴はおそるおそる腰を下ろした。
怒鳴って水をかけたことで冷静になり、自分が圧倒的に不利な立場にあることを思い出したらしい。強制的に頭を冷やされたのは、山田の方だというのに。
気まずい空気を紛らわすためか、店主がテレビをつけた。
昼のワイドショーがニュース速報を流している。
見出しには、『十代女性 遺体で発見』という文字が躍っていた。
それを見た柘榴の顔色がさっと変わる。
しかし画面が切り替わり、表示された被害者の名前は「本郷あかり」となっていた。
「あれが合歓さんの本名、ってことはないですよね?」
柘榴はうつむき、首を横に振った。
「合歓は、本名で活動してるから」
「そうですか。でもこのまま放っておけば、いつかこういう事態になる可能性だってありますよね。事務所はあんな中途半端な発表しかしてませんが、もちろん捜索願は出してるんですよね?」
柘榴は唇を嚙みしめる。あまりに強く嚙むせいで、下唇から色が失われていた。
やはり、この女は合歓の行方を知らない。
言っていることすべてが信用できるわけではないが、どうも失踪は本物のようだ。
禍ツ姫の状況を知った時、山田はメンバー間でトラブルがあったのではないかと疑った。グループは二十代が二人に、経験の浅い十代の子供が一人。しかも人気はその子供に集中している。どう考えても歪な構造だ。
しかしこの様子からして、柘榴はシロと考えていいだろう。
反応があまりに普通すぎる。合歓への嫉妬心を隠すわけでもなく、過度に心配してみせるわけでもない。これをすべて計算ずくでやっているとしたら、逆に大したものだ。しかし柘榴にそんな演技力や賢しさがあるようには思えない。アイドルといっても、凡庸そうな女だ。
「わかんないんだよ、事務所がなに考えてるのか。私だって合歓がいなくなった時、これでセンターに戻れるかもって一瞬思った。思わないわけないじゃん。でも、一瞬だけ。だって、合歓は本物のアイドルだった。あの子のこと好きにはなれなかったけど、合歓と出会って、やっとアイドルってなんなのかわかった気がしたから」
柘榴は顔を上げて山田を見ると、はっと思い出したようにハンカチを差し出した。断ったが押し付けてくるので、とりあえず前髪の水分を吸い取らせてみる。薄っぺらく香水臭いハンカチはすぐにぐっしょりと濡れそぼり、あまり役には立たなかった。
「私、嘘ついてると思う? 思うよね。信じてもらえるわけない。あんたみたいな奴はさ、鏑木合歓はひと回り以上歳上のメンバーから妬まれてて、裏でこんなトラブルあってって記事が書きたくて私のとこ来たんだもんね」
「まあ、そんなところです。でも話を聞いてる内に、たぶん違うんだろうなと思いました」
「嘘。それこそ嘘だよ」
「本当ですって。信じてくださいよ」
「根拠は?」
「ライターの勘ですかね」
「なにそれ。当たんなそう」
「信じなくても別にいいですけど。だけどあなた、本当は別に合歓さんのこと嫌いじゃないんじゃないかって気がしましたよ。どちらかといえば、嫌いなんだと自分に言い聞かせているような」
柘榴はまるで酷い暴言を浴びせられたような顔をして、黙り込んでしまう。
山田は濡れたハンカチを彼女の方へ押しやった。礼儀としては洗って返すべきなんだろうが、柘榴にもう一度会う機会があるとも思えない。
「さっきは、合歓がいなくなって嬉しかったんだろって言ったくせに」
「すみません。あれはあなたを怒らせるための嘘です」
柘榴はのろのろと動き出すと、目の前に置かれたアイスコーヒーの存在に初めて気が付いたみたいに、ようやくストローの封を切ってグラスにさした。
「……ごめんね。水ぶっかけたりして」
「まあ、水なので。乾けば問題ないです」
「そう。……あのね」
柘榴は震える声で切り出した。
「私もね、やっぱり嘘吐いてた。もういい、全部話す。合歓が戻ってくるかもしれないなら、それでいいや」
思わず身を乗り出す。どうやら水までかけられた甲斐があったようだ。
「あの子、本当は……」
その時、カランカラン、と喫茶店のドアが古風なベルの音を立てた。
はっとして顔を上げると、こちらに向かってつかつかと一人の女がやってくるところだった。
「なにやってんの、柘榴!」
女には見覚えがあった。柘榴と同じくステージ上よりだいぶ化粧は薄いが、禍ツ姫のもう一人のメンバー、皇躑躅だ。
「いいかげんにしてよね! あんたも合歓も、勝手なことばっかしてさあ!」
躑躅が、テーブルから引き剥がすようにして柘榴の腕を引く。
椅子の脚が床とこすれ、不快な音が鳴った。
「ちょっと。まだお話の最中なんですが」
「知らないよ! 話聞きたいなら事務所通してよね!」
「ちょうどいい、あなたにも話を聞きたいと思ってたんですよ。躑躅さんは、どうして合歓さんが姿を消したんだと思いますか?」
「うるっさいなあ! 地下ドルの失踪なんて珍しくもないんだから、こそこそ嗅ぎ回んなよ!」
「ちょっと、待……」
躑躅は山田の制止を振り切り、テーブルに千円札を叩きつけると、もがく柘榴を入り口へ引っぱっていった。
カウンターで気配を消し新聞を読みふけっていた老店主も、さすがに視線をこちらに向けている。
「ねえ、合歓を探して!」
躑躅に引きずられながら、柘榴が叫んだ。
「あの子がいなくなったの、本当はあたしのせいなの! 罰が当たったんだよ、あたしたちがちゃんとしなかったから、もっと早くなんとかしなかったから……!」
「柘榴! 黙って!」
「躑躅だってそう思うでしょ⁉ あたしらのせいだよ、全部!」
躑躅が柘榴の口をふさぐと、柘榴はその手に嚙みついた。
短い悲鳴が上がり、躑躅の手が離れる。
「合歓に会えたら伝えて! ごめんって! 柘榴が帰ってきてほしいって言ってたって! 躑躅も本当は同じ気持ちだって!」
ここでようやく、躑躅は柘榴を店の外へ連れ出すことに成功した。
山田と店主だけが残された店内に、テレビの音が細く流れている。
店主は嵐が去ってほっとしたように、新聞をめくった。
山田は深いため息を吐いた。
どうやら、濡れ損だ。
鼻先に差し出された真実が、さっと引っ込められてしまった。
これでまた、振り出しに戻った。
わかったのは、やはり事務所が何か隠しているらしいということだけ。
まだ、コーヒーはカップになみなみと残っている。一口すすってみると、やはり飲めた味ではなかった。さすが、東京一閑古鳥が鳴く店にふさわしいまずさだ。
この味を最後まで味わうこともないだろう、と席を立つ。
テーブルには柘榴のハンカチが残されていたが、そのままにして立ち去った。
翌日、山田はとある芸能事務所に向かった。
場所は原宿。
先日、北峰の取材のために赴いた事務所も原宿だった。どちらも大して儲かっていないだろうに、よくぞ原宿なんて地価の高いところにオフィスを構えるものだ。
しかし地図アプリを頼りに駅から歩いていくと、大通りを路地に入り、見覚えのあるファストフード店の前を通り抜け、結局数週間前に来たのとまったく同じ場所へたどり着いた。
僕もずいぶん間抜けだな、と先日訪れたばかりのマンションを見上げる。
つまり北峰と合歓は、同じ事務所に所属していたというわけだ。中堅タレントと新人地下アイドルではジャンルも規模感も違いすぎて、思い付きもしなかった。
北峰を訪ねた時に茶を入れてくれたタレントはずいぶん若いと思っていたが、もしかしたらあれが合歓だったのかもしれない。顔を思い出せないから、確かではないが。
ということは、この小さな事務所に関連して、立て続けに二件も山田への執筆依頼が舞い込んだことになる。
どうもきな臭くなってきたなと思いながら、山田は電柱の陰に立った。
マネージャーか社長か、ほかのタレントか。誰でもいいがとにかく接触して、情報を得たい。当然かもしれないが、柘榴はあれから連絡がつかなくなってしまった。
最初こそスマホも見ずにマンションに出入りがないか気にしていたが、集中が続いたのはせいぜい十分くらいのものだった。容赦なく照り付ける太陽の前に、電柱の細い影なんか無力だ。いつも通り、袖の長いパーカーを着込んできた自分を恨んでみたところで遅い。さっきから汗が止まらず、めまいがする。この炎天下に張り込みなんか、やっぱり無理があったのだ。
いったんさっきのファストフード店に避難しようと思い立ったところで、マンションのエントランスから出てくる男の姿を視界に捉えた。
慌てたせいで靴紐を踏んづけ、もう少しで顔から電柱に激突するところだった。
向いてない。足で稼ぐとか、本当に向いてない。
次は絶対にエアコンをガンガンに効かせた部屋から一歩も出ないで書くこたつ記事でいこうと心に決め、男の様子を窺った。
疲れた顔をした男が、タバコに火を付けながらスマホを耳に当てている。
あれは、たしか禍ツ姫のマネージャーだ。ライブの物販でファンからそう呼ばれていたので、間違いないはず。
「あー、もしもし。すまんメッセ返せんくて。ちょっと仕事やばくてな」
語尾にかすかな関西訛りが聞き取れた。
息を殺し、レコーダーのスイッチを入れる。
「こないだ言わんかったっけ。前んとこは辞めて、今は芸能事務所で働いてんのよ。いやいや全然だって、ちっさいとこだし。大きな声じゃ言えんけど、給料も安い上に深夜残業当たり前、おまけにタレントはすぐもめるわパワハラ気質の奴はいるわで、もっかい転職考えてるレベル。お前はいいよな、博物館勤めだろ? 手堅いやん」
パワハラ気質のタレントというのは、おそらく北峰徹也のことだろう。そいつの話はいいから禍ツ姫の話をしろ、特に鏑木合歓のこと、と息を詰めて待つ。
「どこだっけ職場、上野? じゃあ近いわ、今度飲も。でもとりあえず、このごたごたが片付かんことには無理そうだわ。あー、関西弁? もうこんだけ東京おったらいいかげん抜けるわ。お前みたいにずっと変わらん方が珍しいって」
チワワを抱いて歩く女性が、電柱の陰にひそむ山田に怪訝そうな視線を向けた。とっさに、「僕は今地図を確認してるんです」というポーズをとるためスマホに目を落とす。
「やー、詳しいことは言えんけどな。こういう話って、芸能界にはやっぱ普通にあるんやって感じ。そう、闇よ闇。尻ぬぐいする方の身にもなってほしいわ」
芸能界の闇。今時週刊誌も使いそうにない腐りかけの言葉だが、そういう話を聞きにわざわざ猛暑の中原宿まで来たのだ。いいぞ、そのまま話せ──と念じたところで、頬に影が差した。
「ちょっとあなた、そこで何してるの?」
振り返ると、スーツの長身男が山田を見下ろしていた。
まさかヤクザ、と青くなりかけたところで、男は警察手帳を突き出した。
ヤクザよりははるかにマシだが、このタイミングで職質とはついてない。
「あ、すいません。ちょっと気分悪くなって、休んでただけなんで……」
「本当に? それなら交番も近いことだし、休んでいってもいいわよ。こんな暑いところにいたら余計に具合悪くなるでしょ」
妙な口調で話す刑事だった。
それより交番なんて連れていかれて、録音がバレてデータを消させられる羽目にでもなったら最悪だ。
「大丈夫なんで」と手を振り、歩き出そうとする。
しかしいつの間にかこちらに近付いてきていたマネージャーに、進路をふさがれる形になっていた。睨むような視線がこちらに向けられている。
あれ。もしかしてこれ、けっこうまずい状況か?
「あの、どうかしましたか?」
へらりと笑ってかわそうとしたが、マネージャーは引かなかった。間近でみると、かなりいい体格をしている。山田の姿勢が悪いことを差っ引いても、たぶん余裕で一八〇センチ以上あるだろう。長身警官と大柄マネージャーに挟まれるこの構図は、まるでかの有名な、捕らえられた小さな宇宙人のアレだ。
「合歓のこと嗅ぎまわってる記者って、あなたですか?」
マネージャーは険しい顔でそう言った。
躑躅が告げ口したのかと思ったが、そうではないのはマネージャーが突き出したスマホの画面から知れた。そこにはSNSの、とあるアカウントが映し出されている。
『合歓のこと調べてる奴がいる』
『そのうち記事出て祭りになるかも』
ポストの一つには、男の後ろ姿の写真が添えられていた。周囲が暗いしピンボケではあるが、姿勢の悪さで山田だとわかる。ライブがあった夜に撮られていたのだろう。
あの野郎、と思わず声が漏れる。
やっぱり一万円じゃ足りなかったってわけか。ああいう輩相手に、金を出し渋るんじゃなかった。
「困るんですよ、勝手にこんなことされると。特に合歓はまだ未成年なのに、変な記事出されてショックを受けたらどうするんですか? 将来に傷でも付いたら、あなた責任取れるんですか」
「いや責任って、まだ記事も出してないのに……」
「マンションから出てくる時、あなたが隠れるのが見えましたよ。まさかずっと張ってたんですか? 警察呼ぼうかと思ったんですけど、手間が省けました」
マネージャーが長身の警官に目配せする。
「あら、それって私のこと?」
「はい、お願いします! こいつ、うちのタレントにつきまとってる悪質記者なんです。ストーカーみたいなもんです!」
山田は口ごもる。ストーカーとまで言われるほどのことをした覚えはないが、焦りが喉を詰まらせた。
「ストーカーなんて不穏な言葉聞いちゃったら、こっちとしても何もしないわけにはいかないわねえ」
「ちょっと、僕は何も……」
後ずさったところで、マネージャーのスマホが鳴った。「こんな時に誰だよ」と舌打ちしていたが、発信者の名前を見た途端、慌てて電話に出た。
「はい! お疲れ様です! え、柘榴のSNS? いや、今ちょっと別件で揉めてまして……いえ、なんでもありません! すぐに確認します!」
マネージャーは電話を切ると、スマホの画面にかぶりついた。
そして、はたから見ていてもわかるくらい青くなった。
何かが起こったらしい、と山田もSNSを開いて柘榴のアカウントに飛ぶ。
まず目に飛び込んできたのは、『鏑木合歓を探してください』という一文が添えられた動画のポストだった。
サムネイルには、正座した柘榴と躑躅が並んでいる。
殺風景な白い壁の背景は、彼女たちの寮だろうか。
『合歓、今どこにいるの?』
『この動画見てたら、連絡ください』
『誰も合歓のこと、真剣に探してくれない。だったら私たちで探すから』
『もうすぐSIFだよ。合歓のおかげでやっと出られるんだよ』
『ずっと待ってるからね』
これも企画の一環なのかどうか、SNSでは議論が始まっているようだった。
しかしマネージャーの様子からして、事務所が事前に把握していたとは思えない。
「頼むからこれ以上面倒事増やすなよ! どうすんだよこれ……!」
マネージャーが頭をかきむしりながら走り去ろうとするのを、刑事が制止する。
「待って。あなた、この記者のことはどうするの?」
「それどころじゃなくなったんで! 刑事さんの方で捕まえといてください!」
「そういうわけにもいかないのよ。現行犯じゃないから、一緒に来て聴取に応じてもらわないと」
「じゃあもう、そいつのことはいいっす!」
マネージャーは、大人になるとなかなかしないような全力疾走で視界から消え去った。
刑事は山田と目を合わせ、肩をすくめる。
「何か込み入った事情があるのね?」
「ええ……まあ」
「あなた、あんまり無茶な取材はしないのよ。見たところ、どこかの週刊誌所属ってわけじゃないフリーの子でしょ? 芸能関係って結構怖いんだから。で、どうする? 署まで一緒に来る?」
「いえ。遠慮しておきます」
「そ。じゃあ、二度と会うことがないよう願ってるわ」
刑事はひらひらと手を振ると、マネージャーとは反対方向へ歩き去っていった。
とりあえずの窮地は脱したらしいが、また一層状況がつかめなくなってきた。
柘榴たちはいったい何を考えてる?
歩きながらもう一度SNSを開くと、新しいDMが届いていた。
知らないアカウントからだったが、文面は『柘榴です』から始まっていた。事務所が管理しているだろう綺羅柘榴のアカウントからは、さすがに送ってこれなかったらしい。
『合歓の居場所、わかった! 動画上げたら、見かけたって教えてくれた人がいたの。合歓は今、山口にいるんだって。前におばあちゃん家がその辺って言ってた気がするから、たぶん本人。大丈夫、事務所には言ってないから』
続いて、「山口県」に続く住所が町名まで送られてくる。
『行って。あたしと躑躅は今、監視されてて寮から出られない。だからお願い』
「なんで、事務所に逆らってまでこんなことを?」
そう送信すると、すぐに返事がきた。
『言ったでしょ。合歓は本物。こんなとこで、埋もれさせていい子じゃない』
以降、何を送っても反応はなかった。スマホを取り上げられたのかもしれない。
感傷に浸った文を打てるヒマがあるなら、合歓の身に本当は何があったのかを知らせてくれればいいものを。
しかしなんにしろ、これで合歓の居場所はつかめた。
真相は、本人に直接きけばいい。
鏑木合歓は、写真で見るより地味な印象だった。
生まれながらのアイドル、本物のアイドル。
ファンや柘榴が口にした言葉が、目の前の子供とうまくつながらない。
肩で切りそろえたまっすぐな黒髪に、それほど大きくはない両目、野暮ったい丈の半袖ブラウス。よくよく見なければ顔立ちが整っていることにも気付けないくらい、どこにでもいそうな少女だ。
しかし地味な見た目の中で、左目につけた眼帯だけはやけに存在感を放っていた。
柘榴がステージで付けていたような、ファッション眼帯ではない。おそらくはその下に、本物の生々しい傷が隠されている。
「麦茶とカルピスしかないけど、どっちがいい?」
台所から顔を出した合歓は、無邪気にそう尋ねた。
「あ……じゃあ、麦茶で」
返事もないまま、合歓はまた台所へ引っ込んでしまう。
祖母宅を訪れた山田がライターだと名乗ると、「待ってたよ」と彼女は笑った。
「柘榴ちゃんたちから話は聞いてるから。どうぞ、上がって」
無事に会えたとして、もっと警戒されるものとばかり思っていたから、この反応は拍子抜けだった。
敷居をまたぐと、古い家特有のかびくさい臭いが鼻をついた。
玄関には、合歓のものだろうサンダルをはじめ、女物の靴ばかりが並んでいる。
通されたのは、リビングというより居間と呼んだ方がしっくりくる部屋だった。
色褪せた茶色いカーテンが、窓をふさぐように閉められている。
隙間から漏れ入る一筋の光だけが、白い直線となって部屋を貫いていた。
「家、誰もいないの?」
「うん。おばあちゃん、朝から出かけてるから」
合歓はそう言いながら、麦茶入りグラスを二つテーブルに置いた。
「君一人ってこと? そんな時に、僕みたいに胡散臭い奴を家に上げていいの」
「この辺、適当なお店もないし。あったとしても、二人でいたらすぐ噂になるよ。田舎だからね。だったら家のがいいでしょ」
「まあ、そうかもね」
山田はキルトのカバーが掛けられたソファに、居心地悪く腰を下ろした。
「お兄さんは、ライターの山田ガスマスクさんだって聞いてるけど。名刺もらえたりする?」
「ああ、うん。どうぞ」
「山田ガスマスク」と印字されたバカみたいな名刺を差し出すと、合歓は「うわー、有名人の名刺だ」とはしゃいだ様子で山田の顔と名刺を見比べた。
「知ってるの? 中学生は僕の名前とか知らなくていいよ。教育に悪いから」
「SNSやってたら、嫌でも名前見かけるもん」
「ごめんね、嫌なもんが目に入って」
山田が名前を知っているライターだからか、合歓は多少気を許したらしかった。
おかきの大袋を台所から持ってきて、レトロな風情の菓子盆にざらざらと中身を開けると、山田にすすめた。特に食べたい気はしなかったが、礼儀として一個だけかじる。少々しけり始めているらしく、妙に柔らかい歯触りがした。
「ていうかガスマスクさんって、ちゃんとこうやって取材したりするんだね。いつもテキトーなことばっか書いてるんだと思ってた」
合歓は自分もおかきに手を伸ばした。一口食べ、何がそんなに面白いのか「しけってるじゃん」とひとしきり笑った。
こうしていると、その辺にいるただの子供でしかない。
「いや、普段はあんまちゃんと取材しないよ。君の言う通り、何も調べないで適当なこと書いてる」
「じゃあ、今回は特別ってこと? なんで?」
「まあ、理由はいろいろあるけど。嫌な話すると、十代女子の話題ってPV稼ぎやすいし、取材してもおつりがくるかなって」
「うわ、ほんとに嫌な話だ。普通本人に言う、それ?」
しけっているとわかっているのに、合歓はまたおかきを口に入れた。ボリボリと嚙み砕く咀嚼音を、きっちり一個分聞かせられる。
「まあいいや。せっかくこんな田舎まで来てもらったんだし、なんでもきいてくださーい」
合歓は屈託なく笑い、口の周りについたおかきのカスを拭った。
山田も薄く笑い返す。
子供は哀れだ。自分が無知で無防備であるということを知らない。
だから山田ガスマスクなんかを家に上げてしまう。名前が売れているとはいっても、ガスマスクのそれは悪名だというのに。
「ええと。じゃあまず、その眼帯はどうしたの?」
「いきなり重要なとこついてくるじゃん。有名ライターってやっぱすごいんだ?」
「いや、今の君を前にしたら、誰だって眼帯のこときくと思うけど」
「そう?」と合歓は眼帯に手をかけた。
「まあ、そりゃそっか。とりあえず見てもらった方が早いよ。じゃーん」
眼帯の下から現れたものを見て、思わず笑い出しそうになった。
口元が上がりそうになるのを、なんとか抑え込む。
そこにあったのは、山田が期待した通りのものだった。
やはり山田ガスマスクにとって、Webライターは天職だ。
こんなにも山田に都合よく、こう書きたいと望んだ通りに、現実が応えてくれるのだから。
「それ、殴られたんだよね」
合歓の左目の周りには、大きな痣が浮いていた。
青黒い痣が、目元を縁取っている。
おそらく、これでも時間が経って薄くなったのだろう。痣ができたばかりの時には、もっとひどい状態だったはずだ。
幼い顔に浮かぶグロテスクな痣は、山口へ向かう新幹線の中で組み上げた仮説を証明してくれていた。
「うん、そう。誰にだと思う?」
なんでもないことのように合歓は言い、山田の目を覗き込んだ。けれど合歓の両目はかすかに潤み、語尾は震えている。自分の身に起こったことに、まだ怯えている。
自分自身が傷付いていることを認められず、目を逸らすことしかできないくらいに、合歓は幼い。
「……彼氏?」
あえて、予想とは異なる答えを口にした。
「ちょっとお。あたし真面目にアイドルやってたから、彼氏いませんって。待ってね、今の時間ならいるんじゃないかな」
合歓はテレビのリモコンを手にとり、ザッピングを始める。
山田はとうに答えにたどり着いているが、合歓はまだ「自分だけが知っている真相」をこれから明かすのだという高揚感に浸っているらしい。
「あ、ほら! いた!」
指差されたのは、お昼のバラエティ番組でひな壇の隅に座る、一人の男性タレントだった。どこか居心地が悪そうに、口元に意味のない笑みを浮かべている。
想像通りすぎて、ため息が出る。
その男は、まさしく山田が組み立てたストーリーに登場する人物であり、またつい最近、詳細に過去を洗った人物でもあった。
「北峰徹也……」
「あれ? 驚かないの?」
「そんな気がしてたから」
えー、と合歓が不満の声を上げる。
「なんだ、つまんない」
「でも僕はともかく、世間の人は驚くと思うよ」
そうささやくと、合歓の目がぎらりと光った。
「……そっか。じゃあ、何があったか話したら、記事にしてくれる?」
山田に向かって、合歓が笑いかける。
今度は、その辺の子供の笑い方ではなかった。
妙に大人びた、媚びをはらんだ笑みだ。
地下アイドルとしての活動が、合歓にこんな笑い方を教えたのだろうか。大人びた微笑が幼さを残した顔に貼りついているのが、どうにも気持ち悪い。
「もちろん。でもそれより先に、一つ前提を確認しておきたいんだけど」
「前提?」
「僕に『鏑木合歓を探して』ってDM送ってきたの、君だよね?」
合歓の顔から、表情が消えた。
おもてでは、六時を告げる哀愁の漂うメロディが流れ始めている。
気が付けば、部屋に差し込む西日も橙色を帯びていた。
合歓はソファに座り直すと、注意深く笑みを口元に用意し直した。
「……なんでわかったの?」
く、と喉がなる。んはは、と思わず笑ってしまった。
もう、別に嚙み殺す必要もないだろう。
「君ね、ダメだよ。そんな素直に認めたら。今のはカマかけただけ」
合歓は口元の笑みを捨て、上目遣いに山田を睨んだ。
さっきの薄気味悪い笑顔よりは、こっちの方がずっといい。
「なんとなくの予想はついてたけど。だってそうでしょ?
鏑木合歓は、同じ事務所の男に殴られて失踪した。綺羅柘榴や皇躑躅の口ぶりからして、トラブルの隠蔽は事務所ぐるみのものだ。君は殴られて、しかも黙っていることを強要された。そんな君の状態を暴露する記事が出たとして、一番得をする人物は誰か?
鏑木合歓本人に決まってるでしょ」
合歓は唇を結んで黙り込んでいる。そうしていると、やはり年相応の子供だ。こんな簡単な連想ゲームをこちらがすることさえ、予想していなかったのだろうか。
「あれを送ったのが誰かなんて、別にどうでもいいんだけどね。むしろネタを提供してくれてありがたかったくらい。君の望み通り、ちゃんと記事は書くよ」
合歓はまだ眉を寄せてはいたが、諦めたように息を吐いた。
「……そうだよ、DM送ったのは私。あーあ、つまんないな。謎の告発者が可哀想な中学生アイドルを助けようとしてるって話の方が、記事的にも面白くない?」
「ウケはそっちのがいいだろうね。露悪系ライターに自分から連絡を取るしたたかなアイドルより、傷つけられても何もできなくて泣いてる子の方が、同情を買いやすいし。記事では、君がDM送ってきたことは伏せればいいよ」
「じゃあ、なんでわざわざ私がDMしたって言ったの? 気付いても黙っててくれたらよかったのに」
「まあ、それはさ。小賢しいガキに、うまく出し抜けたって思われたままなのもむかつくでしょ」
「なにそれ。そっちの方がガキじゃん」
合歓は乱暴な手つきでテレビを消した。
北峰の顔なんか、本当は一秒だって見ていたくないというように。
「とりあえず記事にするために、君の身に起こったことを整理していきたいんだけど。間違ってたら訂正してくれる」
合歓はまだ不機嫌そうな顔をしていたが、小さくうなずいた。
一瞬、可哀想だな、と皮肉でも冷笑でもなく思う。
合歓の周囲には、助けてくれる大人はいなかった。
だからろくでもない大人から救われるために、同じくろくでもない大人である山田ガスマスクなんかを頼らないといけなかった。
本当に、可哀想で、しかし山田にとってはありがたい話だ。
「始まりは、約二年前に北峰徹也が現在の事務所に移籍してきたことだった。言っちゃなんだけど、君たちの事務所は弱小だ。不祥事を起こして落ち目の北峰でも、事務所にとっては桁違いの大物だった。だからこそ北峰を引き取ったんだろうしね。
そして北峰は、不祥事発覚のせいで複数の番組を干されてストレスを抱えていた。自業自得なんだけど、ああいうタイプは反省なんかしない。なんで俺がこんな目にって憤るだけ」
一呼吸置いたが、合歓の訂正は入らない。
山田は話を続けた。
「するとそのストレスはどこへ行く? 当然、自分より下の人間に向かうに決まってるよね。弱小事務所で横暴をはたらいても、タレントは元より、スタッフや社長でさえ彼に意見できない。北峰は歯止めがきかなくなり、増長していく。一年前に君が事務所に入った時にはもう、モンスターと化していた」
答え合わせをするように、合歓の顔を見る。
「……なんでわかるの? 全部、すぐそばで見てたみたいに」
どうやら、ここまですべて正解らしかった。
事務所で起きていたのは、陳腐なテンプレ通りの出来事だったようだ。新鮮味はないけれど、結局定番のクソ事案が一番燃えてくれるのだから、実に喜ばしい。
「北峰みたいな奴って、別に珍しくないからね。これまで記事にした連中にもたくさんいたよ。組織の中に一人は必ずいるタイプなんじゃない? ああいうのと関わらないで済むから、フリーランスって最高だよ。
で、君はそういう北峰が許せなかった。日々鬱屈した思いを溜めていたところに、何か決定的なことが起こった。我慢の限界を超えて、北峰に言ったんだろうね。『ジジイいいかげんにしろ』みたいなことをさ」
合歓は小さく噴き出すと、首を横に振った。
「それ、ちょっと違う。『キモいんだよジジイ、今すぐ死ねカスが』って言ったの」
山田も思わず、ふは、と笑った。
合歓のセリフだけは、想像したより上を行っていた。
「だってあいつ、ほんとに意味わかんないんだよ。毎月事務所持ちでジジイを囲む会みたいなの開かれてさ……」
「あー、ちょっと待って。そのまま話して大丈夫?」
「何が?」
「嫌な記憶って、人に話すと脳により強く定着するって説もあるらしいから」
「ガスマスクさん、あたしのこと心配してくれてんの? 意外すぎる」
「君の中の山田ガスマスクって、どんだけ嫌な奴なわけ」
「普段の行いのせいじゃない?」
反論できない事実だ。
たしかにいつもの山田なら、取材対象のことなんか気にかけたりはしない。さっき一瞬芽生えた同情心が、まだ残っているのだろうか。どうせこれから記事を書いて合歓をネット民のおもちゃにするのだから、そんなもの持つだけ無駄だというのに。
「でも大丈夫。あたしは平気だから」
本人がそう言うのなら、これ以上止めることもない。黙って話の続きに耳を傾けた。
「その食事会みたいなので、あたしたちアイドルはお酌とかさせられんの。それだけでも嫌なのに、毎回キモい説教まで聞かされるんだよ。全然行きたくないんだけど、行かないと社長に怒られるし。その日も『ちょっと売れたと思って調子乗りやがって、あんなの売れた内にも入らないのに、これだから女は馬鹿で困る』とかずーっと言ってんの。でも頑張って聞き流してたのね。そうですよねーテレビ出てる人に比べたら全然ですよねーみたいな。なのにあいつ、態度悪いとかってキレ始めた。それで柘榴ちゃんのこと隣に呼びつけて、『リーダーのお前がちゃんとしつけてないから』とかいちゃもんつけて、好きな方選べって言い出して。土下座するか、そうじゃなきゃ……」
その先は、中学生にはとても口にできない言葉だったのだろう。
合歓は洟をすすって、黙り込んだ。
「もういいよ、だいたいわかったから。それで君は北峰を止めようとして、顔を殴られた」
もういいというのに、合歓は黙らなかった。麦茶を喉を鳴らして飲み干し、グラスをテーブルに叩きつける。
「そう。なのにマネも社長もジジイに謝るばっかりで、あたしのことなんか全然心配してないの。そこにいない、いても見えない幽霊みたいに扱ったんだよ。
でも、柘榴ちゃんと躑躅ちゃんはあたしのこと引っ張って外に連れ出してくれた。二人はわんわん泣いてたけど、あたしはなんかぼーっとしちゃって、涙も出なかった。だけど病院寄って寮に帰ったら、社長が待ちかまえてて、そんな顔で出歩いてファンに遭遇したらどう言い訳するんだってまた怒られて。やっと部屋に戻れた時は、さすがに泣けてきちゃった。あたし、なんでこんなとこにいるんだろうって」
「……だから姿を消した?」
しかし合歓は首を横に振った。
「ううん、違うよ。それは事務所の指示。あたしは消えるつもりなんかなかったんだよ。
ガスマスクさんのところに、北峰の過去を暴いてくれって記事の依頼あったでしょ? あれね、柘榴ちゃんたちが依頼したんだって。暴露記事が出たら、今度こそ北峰は消えるはずだって。なのに記事が出る前にこんなことになって……もっと早くなんとかすればよかった、そしたら合歓は殴られないで済んだのにって、二人してあたしに謝るんだよ。柘榴ちゃんも躑躅ちゃんも、なんにも悪くないのに。二人は北峰が移籍してきた時から事務所にいたから、あたしよりずっと嫌な思いしてきたはずなのに」
北峰と合歓の記事、二つの依頼がここでつながる。ずいぶん近いところから、二つの依頼は発されていたわけだ。
「あたし、それまで二人のことちょっと苦手っていうか、たぶん嫌われてるんだろうなって思ってたの。だって、ぽっと出の中学生と組まされて面白いわけないじゃん。でも二人は、北峰にも事務所にも怒ってくれた。だから二人のためにも、まだ頑張ろうって思えた。北峰に殴られたことも黙ってるつもりだったんだよ。
でも朝になって、マネから『合歓は失踪したことにする』って聞かされた。ファンのみんなには、SIFに向けた企画が始まるんだって思わせるからって。この痣じゃ、ライブに出せないんだってさ。化粧で隠れる程度の痣じゃないし、眼帯して出るにしても、柘榴ちゃんが眼帯キャラだったのに、急に変わったら何かあったって気付かれるかもしれないからって」
「それで、運営は君の失踪を企画だってごまかすために妙な写真を上げたり、血まみれのチェキを撮ったりしたってわけ?」
ずいぶんお粗末な作戦に思えるが、やっている方は必死だったのだろう。不祥事が表に出れば、あんな小さな事務所はすぐに潰れる。
「みたいね」
合歓は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「そうやって隠蔽工作は頑張るのに、あたしには『しばらく親元に帰ってろ、ほとぼりが冷めたら呼び戻すから』って、それだけ。治療費も旅費もくれないんだよ。マネージャーも社長に言われたら逆らえないから可哀想ではあるんだけど、さすがにむかついちゃった。だから事務所に伝えてあるお母さんの家じゃなくて、おばあちゃん家の方に来たの。ちょっとは焦ってくれるかなって。
で、こっちに来てからは、マネからの連絡全部無視した。お母さんにも、事務所から連絡あってもいないって言ってって頼んで。詳しいことは話さなかったんだけど、何かあったのはさすがにバレちゃったのか、もう東京戻らなくてもいいよって言ってた。あたしは戻るよって言ったんだけど、しばらくこっちで過ごしてる内に、なんか冷静になってきて。なんであたしがこんな目に遭わなきゃいけないんだよって腹立ってきた。メンバーの二人とは、また一緒に頑張りたい。でも、それってあの事務所でなのかなって思っちゃった。でも、契約は年単位だし。無事に辞められたとしても、あたしたちを拾ってくれる新しい事務所があるかもわからないし……」
「なるほどね。だから君は、柘榴さんと躑躅さんが僕に依頼したのと同じように、事務所の隠蔽を暴露することを思いついた。原因は北峰なわけだし、先に依頼してあった記事との相乗効果も見込める。事務所に非があるとはっきりすれば、契約に縛られることもないだろうし、話題性も出る。で、僕のとこに連絡してきたと」
「そう。それに、ガスマスクさんのことは事務所で一回見かけてたしね」
「ああ。ごめん、あんまり覚えてないんだけど、やっぱり君とは北峰の取材の時に会ってたんだね」
「そうだよ。ガスマスクさん有名だし、びっくりしちゃった。……こんな顔だったんだなーって」
合歓は数秒間、黙って山田の顔を眺めていた。
「なに?」
「ううん、なんでもない。ガスマスクさんて雰囲気あるよね。顔出ししないのもったいないなって」
「あのね、誰もが表舞台に立ちたいわけじゃないでしょ」
「そういうもん? あたしはアイドルやりたかったくらいだからよくわかんないな」
山田からすれば、進んで人前に立ちたがる奴の気がしれない。
しかしそんなことは今、どうだっていい。
「でもさ、本当に記事出していいの。北峰や事務所は確実にダメージ受けるだろうけど、君も無傷じゃいられないよ。事件が明るみに出たら、未成年なのに酒席に顔出したアイドルが悪いって言い出す奴は絶対いる」
ここまで労力をかけておいて、記事にしない選択肢なんかもちろんない。
けれど単純に、合歓がどんな反応を示すのか興味があった。柘榴が「本物」と称する合歓なら、どう答えるのかが知りたかった。
合歓は、夕暮れの中で笑った。
「大丈夫だよ。あたしは負けないから」
なるほど、いかにも「本物」っぽい答えだ。
けれどこう言い切れるのは、合歓がどうしようもなく子供だからだ。
山田ガスマスクにネタにされ、人々に消費されたその先に何が待ち受けるのかを、正確には理解していないせいだ。
「本物」とはいっても、所詮はアイドルという狭い世界での「本物」でしかない。
十五歳の中学生は、ステージに立ち人々に愛されることはできても、現実の姿を正確に捉えることはできない。合歓は記事が出さえすれば、ちょっと逆風が吹くことはあっても、最終的に世間は自分の味方をしてくれ、事務所や北峰は潰されると無邪気に思っているのだろう。
けれどそんなのは、勧善懲悪のおとぎ話の中だけだ。
少女が思うよりずっと、現実も人間も醜い。
少なくとも、山田は合歓よりそのことをよく知っている。
「わかってないよ。君は炎上の渦中に放り込まれるってことがどんなことか、全然わかってない」
しかし合歓は表情を変えず、むしろ笑みを深くさえした。
「わかってるよ。だってあたしのお父さんも、炎上したことあったから」
お父さん、という言葉に違和感を覚える。
これまでの話から推測するに、合歓の家に父親はいなかったはずだ。
「あ、今はいないけど。小学生の頃までは一緒に住んでたから」
山田の顔色を読んだように、合歓はそう付け加えた。
「父親は、単身赴任かなにか?」
「ううん、行方不明」
なんでもないことのように言うので、危うく聞き流してしまうところだった。
「行方不明?」
「そう。あと二年で、いなくなって七年経つんだ。そしたら失踪宣告出して、お葬式もやるんだって。どこかで生きてる気はするんだけどね。でもしょうがないよね、そうしないとお母さんは再婚もできないし。今回あたしも失踪したから、うちって父娘ともども行方不明者なんだよ。笑えなくない?」
「父親が失踪したのは……その、炎上が原因ってことでいいの」
「さあ? 本当のところは知らないよ。なにせ本人がもういないから。でも炎上して一か月後にいなくなったから、そうだったんだろうってことになってる」
カーテンの隙間から差し込む強烈な西日はますます色を濃くし、合歓の顔に陰影を落とす。笑んでできた頬のくぼみに、暗闇が溜まっていた。
「驚いた? あたしがDM送ったってことは推理できても、さすがにここまでは予想してなかったよね」
「まあ……そうだね。そこまで神様みたいになにもかもわかる奴は、フィクションの中の探偵だけじゃない」
「ガスマスクさんはライターで、探偵じゃないもんね。ね、それなら知りたい? お父さんがなんで炎上したか」
「教えてくれるなら、とりあえず聞くけど」
「えー、もっと前のめりに知りたがってよ。山田ガスマスクって、もっとガツガツしたタイプかと思ってたのに。聞かれたくないことまで絶対暴いて、好き勝手書いてやるみたいな」
「別に何も聞かなくても、好き勝手には書けるからね」
「たしかに」と合歓はくすくす笑った。
どうしてだか、その笑い声が癇に障った。まるで自分が笑われているような気がした。
目の前にいる合歓は、邪気のない顔をしているというのに。
すべてわかったつもりでいたのに、予想外の事実が出てきたのでいら立っているのだろうか。これでは、合歓のことを子供だと笑えない。
「じゃあ、やっぱり聞いて。
あのね、あたしのお父さんって教師だったのね。それで、生徒の個人情報が入ったUSBを校外で紛失した。名前も住所も性別も電話番号も成績も、全部入ってたやつ。一時期、けっこうニュースで聞いた話でしょ? でもさあ、よく聞く話でも当事者は大変なんだよね。お父さんは減給処分になって、保護者とか教育委員会にきつく絞られるし、説明に追われるしで、だいぶ参ってた。
でもそれだけなら別によかったの。お父さん、生徒からの評判はけっこうよかったみたいだし、時間が経てばみんなも忘れてくれたと思う。
だけど、話はそれで終わらなかったわけ」
合歓は反応を確かめるように、ちらりとこちらを見やった。山田がおとなしく聞き入っているのを確認すると、満足したようにくすりと笑みを漏らして続けた。
「お父さんが落としたUSBを、拾った人がいた。しかも運が悪いことに、その男の人は悪い奴だった。USBの中身を見て……生徒の女の子の家に行ったの。その子の父親の友達だって嘘ついて、部活から帰った女の子が一人でいた家に上がり込んだ。ちょうど今みたいな、夕方に」
ああ、と山田は嘆息する。そこから先の展開は、言われなくても想像できた。
「未遂だったんだって。でも女の子は学校に来られなくなった。しかも事件のことで、なぜかその子が責められた。なんで家に上げた、なんで親に連絡して確認しなかったって。おかしくない? 隙があったんだとしても、悪いのは全部犯人じゃん。でもさ、責める人にそう言ったって聞く耳なんか持たないの。で、その子は結局転校することになった。陸上でけっこういい成績出してたのに、それもやめちゃったんだって」
合歓は言葉を切り、じっとこちらを見つめた。
「それから、何が起こったと思う?」
目の前の少女が一つ瞬きをした。
瞳の大きさに比して長いまつげが、西日を受けて濡れたように光る。
その黒々とした光を見た時、心臓がゆっくりと鼓動を打った。
何か。
何か悪い予感がする。
今すぐにここを立ち去るべきだと、「ライターの勘」とでも呼ぶべきものが告げていた。
しかし山田が腰を浮かすより早く、合歓の唇が開く。
薄い唇の向こうに、白く小さな歯が並んでいるのが見える。
「犯人はその後ちゃんと捕まったよ。でも、そいつが拾ったUSBを頼りに被害者の家に行ったって報道が出て、世間はこう思ったの。
まだ、罰されてない奴が野放しになってる」
「それは……」
部屋の中は肌寒いくらいエアコンが効いているのに、背中に汗の粒が浮くのを感じた。
悪い予感の輪郭が溶けて、確信へと姿を変えていく。
既視感があった。
山田は、合歓が語るこの話を知っている。
数年前、もっと身近で見聞きしたことがある。
その時山田は、今のように一人ではなかった。
「それで世間の声を受けた配信者が、お父さんの職場に来た。勝手にカメラ回して、動画にしてアップした。生徒が被害に遭ったのに、自分だけのうのうと教師を続けてるクソ男としてお父さんは紹介されて、顔も職場も晒されちゃった」
合歓は鬱陶しそうに窓を振り返ると、シャッと音を立ててカーテンを閉め直した。
今度こそ居間には、一筋の光も差さなくなる。
ぼんやりと橙色に染まった薄闇ばかりが部屋に漂う。
合歓はソファに座り直そうとはせず、山田のそばに立った。
思わず身じろぐと、「どうしたの」と合歓は微笑んだ。その笑みを見たくなくて、下を向く。古びたテーブルの木目と、菓子盆に盛られたしけったおかき、そればかりで視界がいっぱいになる。
けれど耳まではふさげない。
声は、否応なく降ってくる。
「家にもいろんな人が来たよ。それで、元の家には住めなくなった。引っ越しの相談をしてる間に、お父さんは消えたの。あたしとお母さん、置いてかれちゃった」
合歓の両目が、じっと山田を見下ろしているのがわかる。
それでも顔を上げることができない。
「そういうのもあって、あたしは炎上がどういうものだかちゃんとわかってるから。SNSは見なければいい。家まで来る人がいても、警察を呼べばいい。いつかは終わる。待ってたら、いつかは必ず終わるの。こっちが折れさえしなければ」
足音で、合歓が窓辺に歩み寄っていったのがわかった。
おそるおそる、顔を上げる。
過去、自宅に押し寄せた人々をカーテンの向こうに見るように、合歓はおもてを睨みつけていた。しかしそこには誰の影もない。西日に透かされた、安っぽいカーテンが下がっているだけだ。
視線に気付いたのか、くるりと合歓がこちらを振り返る。
慌てて顔を背けようとしたが遅かった。
ガラス玉のような合歓の両目が、山田のそれを捉える。
「さっきガスマスクさんはさ、嫌なことをしゃべると記憶が定着しちゃうかもって言ってくれたよね。逆だよ。あたしは定着させたいの、脳に刻み込みたいの。忘れてなんかやらない。あたしを不幸にした奴らの顔も、何をされたかも、死ぬまで全部覚えててやる」
背中に吹き溜まった汗が、とうとう皮膚の上をすべり落ちていくのがわかった。
「お父さんが晒された動画は、何度も何度も見たよ。もうチャンネルは消えちゃったけど、データは残してある。そんなものなくたって全部覚えてるから、最初から最後まで、今ここで再現してあげることだってできるけど。
……ね、山田さん」
思わず立ち上がり、戸口の方へと後ずさった。
「あれ、どうかした? 具合でも悪くなった? それとも、昔の嫌なことでも思い出しちゃったかな。過去って絶対に消えてくれないから、本当に困るよね」
合歓は窓辺を離れ、ゆっくりと山田の方へ歩み寄ってくる。
唐突に、今この家には山田と合歓の二人しかいないことを思い出す。
夕暮れ時、訪問してきた男と少女、家の中。
まるで、合歓の父親が炎上する原因となった事件の再現だ。
「あたし、本当はアイドルなんかやってる場合じゃないんだよね。もっと稼げる職に就けるように頑張らないといけなかった。なのにお母さんは、『あんたはやりたいことやりなさい』って言ってくれた。だからあたしは超人気アイドルになって、めちゃめちゃに稼いで、お母さんが働かなくてよくなるくらい家にお金入れてあげないといけないの。もしいつかお父さんが帰ってきてもうちだってわかんないくらいの豪邸建てて、お母さんと二人で住むんだよ」
合歓の手が伸びてくる。生白い指先に、丸い爪。
子供の手だ。
それが、眼前に迫る。
「ほかの人たちは、みんなあの時と同じ名前で活動してる。でも、あなたは違った。顔出しだってしてない」
合歓の指が、とうとう山田の頬にひたりと触れた。
「昔の活動、なかったことにしたいのかなって思った。だから山田さんにDM送ったんだよ」
指先が、皮膚の上を虫のように這う。唇にたどり着き、柔く撫でる。
「ね、山田さんならわかってくれるよね。あたしが、どうしてほしいのか」
合歓の体が間近にある。その肌の匂いさえ、嗅ぐことのできる位置にある。
野暮ったいブラウスの襟元から覗いた、鎖骨の窪みの暗さが目に焼き付く。
見たくない。こんなものは、見たくない。
合歓の手から逃れようともう一歩後退した時、「ただいま」と玄関から声がした。
「あ、おばあちゃん帰ってきた」
山田は合歓の視線が逸れた隙をついて、部屋の外へと走った。
敷居につまずき、よろめきながらも玄関へと向かう。
ふ、ふふふ、とこらえきれなくなったような笑い声が耳に届いた。
続けて、火が付いたような哄笑が背後から追いかけてくる。
あはははははははははははははははははははは、と化物が少女の声で笑っている。
振り返ってはいけない。絶対に振り返っては駄目だ。
すれ違いざま、老婦人が不審げな視線をこちらに向けるのがわかった。
しかしそんなことに構ってはいられない。
家から飛び出し、一刻も早くこの場所から遠ざかろうと走る。
けれどその背を、少女の声が逃がすまいと捕まえる。
「ねえ、待って!」
振り返らない方がいいとわかっているのに、思わず振り返ってしまう。
そこには、逆光の中で満面の笑みを浮かべた女がいた。
その笑顔を見た時、山田は理解した。理解させられた。
――本物だ。
この女は、本物だ。
「山田さんがライターやっててくれてよかった! 記事、楽しみにしてるからね!」
それから、東京に戻った山田は憑かれたように書いた。
山田ガスマスクは記事に嘘を書かない。
いつも通り、そこにある事実のどれを取り上げ、どれを取り上げないかを決めることで、ネット民の感想をコントロールするだけだ。
今回は、彼らの批判が北峰徹也と事務所にのみに向かうよう仕向けた。アイドルたちは完全なる被害者として描き、でき得る限りの同情心を煽った。
そしてそれは、笑ってしまうくらいうまくいった。
やはりWebライターは、山田にとって天職だった。
事前に予想したように、合歓たちアイドルがその場に行かなければよかったと非難する者もいた。けれどその声は少数派だった。彼らの小さな声は、「アイドルの子たちはこんなに可哀想な目に遭ったのに、二度も傷つけるなんて」と多数派の靴裏に踏み散らされ、かき消されていった。
同時に公開された、北峰の過去に関する記事も追い打ちをかけた。
多数の批判に晒された北峰は活動の無期限停止を余儀なくされ、やがて事務所も廃業が決まった。
『ガスマスクもたまには良いことするんだね』
『炎上目的の記事しか書かないのかと思ってたけど、見直したわ』
『これまでまともに読んだことなかったけど、やっぱ文章自体に力があるからこういう風に社会も動かせんだな』
そういう声をSNSで見かける度に、鳥肌が立った。
これは、この記事は、山田ガスマスクのものじゃない。
書かせたのは、あの女だ。
パー、とクラクションを鳴らされ、はっと我に返る。
気が付けば、目の前の信号は赤に変わっていた。
スクランブル交差点を前に立ち尽くした山田は、頭上の大型ビジョンを見上げる。
そこには、かつての「禍ツ姫」のメンバーが映し出されていた。
踊る三人のセンターは、もちろん鏑木合歓である。
合歓は山田が記事をリリースした翌日、ステージへと戻ってきた。
事務所に相談もなく、客席からすたすたと歩いてきてステージによじ登り、あっけにとられる柘榴のマイクを奪って「ただいま」と笑ったのだ。
そしてまだ治りきらない顔の痣を晒し、山田ガスマスクの記事に書かれたことは真実であると訴えた。
観客が向けた無数のスマホにその模様は収められ、BooTubeや各種SNSにばらまかれた。美しく幼い少女が涙ながらに語りかける動画は、山田の記事と共にインターネットを駆け巡った。
合歓は結局、自分の力ですべてをねじ伏せた。
山田は、最初に小さな火種を撒く役を与えられたにすぎない。
事務所の廃業に伴い、彼女たちは新しい所属先を探すことになった。
話題性のある鏑木合歓を獲得しようと、手を上げる事務所は多くあった。鏑木合歓のソロでとの希望も少なくない数が寄せられたようだが、三人一緒でなければと、どんなに良い条件を揃えられても合歓は首を縦に振らなかったらしい。今となってはそのエピソードも、美談として語られている。
合歓たちを迎えた新事務所は、グループ名を「MAGATSU」と改めた。ホラーテイストを残したものの、かつてのようなお化け屋敷的チープさは切り捨て、アイドルやオカルトファンだけでなく、世間一般の観賞に耐えうるシャープなグループへと変貌させた。
「MAGATSU」となって発表した最初の曲は、楽曲やMVのクオリティの高さも相まって、すでにBooTube上で二百万再生を超えている。
この分なら、母親に楽をさせ豪邸を建てるという合歓の夢はいずれ叶うだろう。
その時、パーカーのポケットでスマホが震えた。
応答すると、笑い含みの声が聞こえてくる。
『やあやあ元気? あの子たち絶好調だね。おかげで僕が上げた心霊チェキ動画も、だいぶ再生数稼がせてもらってるよ』
にやついた丸眼鏡の顔が、目に浮かぶようだった。
「……なんの用?」
『いやあ、つくづくよかったなって思ってさ。君のおかげで可哀想な女の子たちが救われて、めでたしめでたし一件落着ってわけ。はは、あの記事、今思い出しても笑える。なにあれ、君らしくもなく正義の味方気取っちゃってさあ』
「うるさい。あんなもん書く羽目になったのは、僕だけのせいじゃない。君たちの責任でもあるんだからな」
『は? きのこさんになんの関係があるって──』
言葉の途中で、ぶつりと通話を切る。
ちょうど信号が青に変わり、周囲の人間が前へと流れ出した。
一拍遅れて、山田も歩き出す。
横断歩道を渡る人間たちに襲いかかるように、大型ビジョンから「MAGATSU」の曲が大音量で降ってくる。合歓が作詞を担当したという新曲だ。
『過去 消えない過去 tell me your sins いつまででも覚えていてあげるから』
世間はこの歌詞を、不起訴となった北峰徹也が事業を立ち上げようとしていることへの皮肉だと捉えている。
それでいい。それ以上の意味を、この歌に求めてくれるな。
山田は足早に交差点を通り過ぎる。
しかし合歓の歌声が、耳の奥にこびりついて離れない。
あれは呪いの言葉だ。
いつまででも、覚えていてあげるから。
【おわり】