【佳作】さいごのひともじ(著:瀬野那成)
夏休みが明けると必ず全校集会があるのはどうしてなのか。三学期制ではないから始業式でもないし、夏休み前のように心構えだとか、薬物はやるなだとか、そんなのは話す必要がない。
ただ茹だるような残暑の中で体育館に集められた生徒たちは、気だるそうに膝を抱えて延々と続く校長の話を聞かされていた。
先日あった嬉しかったことに始まり、夏休み中に行ったゴルフ、それから最近活躍する若きスポーツ選手の話になって、今は夏の甲子園の話をしている。
僕はただ、目の前にある背中をボーッと眺めて時間を潰していた。
公立中学校のオンボロ体育館には空調なんていいものはない。小さい窓も大きな扉も総じて全開にしてあるだけだ。PTAの苦情だかなんだかで、冗談みたいに大きい扇風機が前に二台置かれているが、六百人近くがこれだけの風で凌げるわけがない。しかも当たるのは熱風だ。ドライヤーくらい熱い。
子どもは国の宝だとかいうのなら、早急に空調を設置してほしいのだが、無駄に見栄を張って電柱を地中に埋める工事をしたせいで、市に金がない。きっと空調の設置が実現する頃には僕はとっくに卒業しているのだろう。
そんなことを考えているうちに、校長は幼少期に甲子園を見に行った話をし始めた。半世紀ほど前の話を聞いて中学生が楽しいとでも思っているのだろうか。壁にかけられた時計を見ると、先ほど見たときからゆうに五分は経っている。校長の長話は二桁分に突入したようだ。
つん、とつま先を触られる感覚がした。左隣から真っ白い腕が伸びている。
それが続く先を辿るように左隣を見ると、長友さんがこちらを見ていた。首を傾げて無言で要件を尋ねると、長友さんが小さな小さな声で言った。
「暇?」
僕は頷く。
逆に、暇ではない可能性があるとでも言うのか。長友さんは満足そうに口角を釣り上げて、僕の方を見たまま上体を倒すと二の腕で口元を隠した。
「しりとり、しよう」
「……いいけど」
やった、と言いながら長友さんが姿勢を戻した。
長友さんと僕は、別に親しいわけではない。
というか、業務的な連絡を除けばきちんと話すのはこれが初めてではないだろうか。
吹奏楽部に所属していて、周りからの推薦で学級委員をやるような長友さんと、休み時間も教室の隅で勉強して過ごす帰宅部の僕に関わりがあるはずがなかった。
長友さんは明るい。言うならばみんなのアイドルだ。
誰とでも仲良く話すことができるから、こうして僕に話しかけてきたのもたまたまだろう。たまたま、背の順で隣なのが僕だったから。
「じゃあ、わたしからね。りんご」
嬉しそうに頬を上げながら口から飛び出した「りんご」は、ひょっとしたら世界で一番可愛い響きの言葉なのではないかとさえ思わせる。
「ごま」
「まち針」
シャトルみたいにポンポン言葉が飛び交う。扇風機の音と、校長のマイクのハウリングで意外と周りには聞こえていないらしい。
気がつくと校長の話は地球温暖化になっている。地球が暑くなっていることはわかっているのに、生徒が暑いからこの時間を早く終わらせようだとか、そういう頭はないのだろうか。
長友さんはなるべく声の大きさを落とすために、思いついた言葉を言うときだけ触れるくらい体を寄せてくる。その度に石けんのようなシトラスのような香りがして、僕の心臓は少しだけ跳ねる。でも言い終わるとすぐに元の場所に戻っていくから、ゆらゆら揺れて、船みたいだった。
長友さんはセーラー服と同じくらい白い。僕の前に座っているのがこんがり焼けた野球部の西田だから余計に白く感じる。
吹奏楽部は準運動部みたいなもので、外周を走っていたり、グラウンド脇で筋トレをしたりしている。だから、日に焼けている人が多い印象だ。
そんな中で一瞬ギョッとするくらい白いのは、体質なのだろうか。
「リップ」
「プラスチック」
「……ふふ、クリップ」
「『ぷ』責めかよ」
長友さんは頬を上げてふくふく笑った。心底楽しそうだ。
「さぁ、頑張れー」
「………………プール」
捻り出した僕の言葉に、長友さんは「うぅん」と唸った。
ただのしりとりなのにコロコロ表情を変える。こんなに楽しそうにできるのは、多分才能だと思う。しりとりの才能なんかじゃなくて、人付き合いの。僕に足りないものだ。
「『る』で始まって『ぷ』で終わる言葉でしょ、なんだろ」
「別にしりとりってそういうやつじゃないからね。『ぷ』で終わらないといけないとかないから」
「そもそも『る』で始まる言葉なくない?」
校長はついに孫が生まれた日の話をしている。この全校集会の、司会進行役をしている教務主任ももはや半笑いを浮かべている。
今日はこれが終わればあとはそれぞれの教室でホームルームをして帰るだけだ。だから全校集会がどれだけ押しても誰も困らないところがさらに困る。
先生たちはこの暑さの中、生徒と違って立ったまま話を聞いていなければならないのだから大変そうだ。
この空間は、きっとちょっとおかしい。暑い中で面白くもない校長の話を聞かされているのだから仕方がない。校長自身も暑さで頭がやられているのかもしれない。
だから、このしりとりにも意味なんてどこにもなくて、彼女からしたらただの気まぐれで、それで終わりなはずだった。
西田の着ているワイシャツは目がチカチカしそうなほど白い。白くて青い。
長友さんはまだ唸っている。
体育館の外では、夏の生き残りが鳴いていた。
校長の話は最後までよくわからないままで終わった。教頭が笑えるくらい大きな咳払いで校長の話を遮って急かしたのだ。そんなわけで、教頭は僕たちの間で英雄となった。明日にはすっかり忘れ去られているであろう、哀れな英雄だ。
教室に戻って束の間与えられた自由時間は、担任の山岡が帰還したことで早々に終わった。
「今から配るプリントはちゃんと保護者の方に見せるように」
えー、なんてまばらに上がった声に山岡は「えーじゃない!」なんて声を荒らげた。相変わらず熱苦しくて情緒が不安定な男だ。
前から回されたプリントは、たしかに大事なものらしくいつものプリントよりも少しだけいい紙だった。サラサラとした手触りが心地いい。ペン先が引っかかりにくそうだから、普段の授業からこの紙にしてくれないかな、なんて思う。
プリントには「スクールサポーター駐在のお知らせ」と印字されている。どうやらうちの学校はついにスクールサポーター、つまり警察の人が駐在までするようになったらしい。
田舎の公立中学校の治安なんて元々終わっているが、我が校は負の方向に限界突破してしまったようだ。たしかに週四でパトカーが停まっている中学校はなかなかないのかもしれない。異常も慣れてしまえば日常だから気づきにくいのが恐ろしいところだ。
「なぁ」
プリントに影が落ちて、弾かれたように顔を上げると、僕の机の右隣に西田が立っていた。ホームルーム前の騒がしい教室で、わざわざ僕に話しかけてくる物好きなんて滅多にいない。しかも話しかけてきたのは西田だ。
跳ねた心臓に、勘違いするなよと言い聞かせる。
「なに」
「お前さ、さっき果音と話してたろ」
カノンが長友さんのことだと分かるまでにきっちり二秒かかった。西田はさっき僕の目の前に座っていたから、話し声が聞こえていたらしい。
「あぁ、うん」
特に用事があるわけでもなさそうだ。気を逸らすためにプリントの詳細を読もうと目線を落とす。
「……なに、話してたん」
「え」
質問の意図が分からなくて、西田の顔を見ると、顔を明後日の方に向けていた。目の前にちょうど耳が見える。
こんがり焼けた肌でも分かるくらいに赤かった。
これは、なるほど。
「別に、大した話じゃないよ」
しりとりをしていた、ただそれだけだ。しかも人選も長友さんの気まぐれだから西田が気にするようなことは何もない。
だけど、ちょっと意地悪してみたくなった。わざわざ僕のところまで聞きにくるなんて、西田も可愛らしいところがあるものだ。
まさか僕が教えないなんて思ってもいなかったのか、西田は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「具体的には、なんだよ」
「西田に言う義務ないよね」
「ハァ?」
この夏休み明けから、二人のスクールサポーターが駐在することになったらしい。
校庭をバイクが走っていたり、靴の盗難があったり、体育倉庫が放火されたりと何かと警察のお世話になりすぎている。もはや未成年飲酒やら未成年喫煙は可愛い方なので野放しにされているのが現状だった。
さすがにしっかり裁かれるような罪を犯した馬鹿たちは少年院だの児童相談所だの、児童自立支援施設だのに入れられる。だから、学校に来ることができるのは大多数の善良な生徒と、ほんの一握りの憧れちゃっただけのマイルドヤンキーくらいだ。たしかにスクールサポーターの導入で治安の回復が十分望めるだろう。
まだ西田は僕の隣に立っている。
僕が話すまで自分の席に戻らないつもりなのだろうか。なんでここまで必死になっているのか僕にはわからない。
だって西田は顔が良い。野球部だから坊主だけど、それも似合ってしまうくらいに顔が良いのだ。体育祭のあとに西田の鉢巻き争奪戦が起きるレベルで女子からも人気で、争奪戦は泣きが入る。今年の体育祭は二回目ともなれば学んだのか、そもそも誰にも渡さないとはじめに宣言していた。
だけど、もし長友さんが欲しがったら渡していたのだろうな、と今は思う。
とにかく僕なんかはライバルにすらならないような存在なのだ。実際、僕は長友さんと何もないのでライバルではない。
「大したことないなら教えろよ」
「だから」
「ルリカケス!」
どこかから走ってやってきた長友さんは、僕の机にバンと手をついて止まった。
これがしりとりの続きだと気がついた僕とは対照的に、西田はまだポカンとしている。
長友さんの息は上がっていて目はキラキラ輝いている。思いついた場所からここまで一直線に走ってきたのだろうか。
「……『ぷ』で終わるのは諦めたんだ」
「そうなのー、でもルリカケス思いついた!」
長友さんはそれだけ言うと、「じゃあね!」と自分の席へと戻っていった。さながら春の嵐だ。
「…………ルリカケスって、何?」
「鹿児島の県鳥でしょ。西田、そんなことも知らないの?」
「ルリカケスは知ってるわ」
長友さんが始めたしりとりは、まだ終わっていなかったらしい。てっきりあの体育館の中限定だと思っていたので、僕もそれなりに驚いている。西田ほどではないけれど。
「ホームルーム始めるぞー、席に着けー」
山岡のよく通る太い声が教室に響いたことで、僕は西田から解放された。話している間中、潰されたように痛んだ心臓は、まだジクジクと熱を持っていた。
それから、驚くべきことに、僕と長友さんのしりとりは続いた。合服期間が過ぎても冬服に袖を通す季節になっても続いた。
ルリカケスのときみたいに、長友さんが僕の席までわざわざ来ることもあったし、教室ですれ違いざまに言ってくることもあった。席が近いときは授業中に紙切れを回して来ることもあった。多くても一日一往復くらいのやり取りだったけど、確実に続いていた。
たぶん、周りもなんとなく僕たちが何かをやっていることには気がついていて、僕にはそれがひどく居心地を悪く感じさせた。
特に男子中学生なんて性欲と興味に支配された生き物だから、変に冷やかされることもあった。
「じゃーん、見てよこれ」
「…………ノート?」
僕は朝のホームルームが始まる一時間前には教室に着く。校舎やグラウンドでは朝練に勤しむ生徒の声がしている中で、勉強をするのだ。
吹奏楽部の長友さんは当たり前に朝練があるが、時々こうして抜け出して、教室にいる僕に構いに来る。
長友さんは膝上まで短くしたスカートを揺らしながら、黄色い表紙のノートを僕に差し出した。
「そう、そろそろ何言ったか覚えきれなくなってきたからさ。ノートに書いとこうと思って」
ふぅん、とノートを受け取ってパラパラと捲ると、すでに書き込まれていた。ちゃんとりんごから始まって、メニスカスで終わっている。メニスカスの隣には右矢印が付いていた。昨日僕が言ったツバメの次はメニスカスらしい。
「……砂肝」
「あっ! 早いね。ちゃんとそこに書いといて。過去の分は思い出せる範囲で書いたんだけどさ、ちょっとポロポロ抜けてんだよね。思い出せたらそこも書いといてほしい」
抜けがあるなんて言いながら、ほとんどが書かれている。九月からの二ヶ月以上にも渡るやり取りを覚えているのは素直に感心できる。
そういえば、長友さんは定期テストでいつも三位以内には入っている。単純に頭が良いのだろう。
「部活、いいの?」
「んー。戻った方がいいんだろうけど」
長友さんは教卓に座った。
こうして話すようになって知ったことだが、長友さんは以外と足癖が悪い。というか、ふとした瞬間にガラが悪い。お淑やかだとは初めから思ってはいなかったけれど、結構意外だった。だけど、たしかにこの学校で馴染むには、それくらいではないとやっていけないのかもしれない。
「ちょっと戻りたくないかも」
「へぇ」
「そもそもみんな真面目にやってないし、いいの」
長友さんは窓の外をぼんやり見ながらヘアゴムを解いて、長い髪の毛を踊らせた。栗色の髪の毛は真っ直ぐ腰まで落ちる。結んだ跡すらついていない。軽く巻いてある前髪は眉下で一直線に揃えられていて、その下に覗く目もまた色素が薄い。
僕にはそれが、映画のワンシーンみたいにスローモーションで再生された。そこだけミュートになっていて、世界の音が消えた、そんなシーンだ。揺れた髪の毛の一本すらも僕は忘れられずに生きていくのだろう。
長友さんがふいにこちらを見た。ガラス瓶みたいな色の瞳が僕を確実に捉える。その瞬間、世界に音が戻った。
「あ、モナリザ」
そう言って、長友さんは目を細めた。
そこで初めて、長友さんがずっとしりとりの続きを考えていたのだと気がついた。あの髪を解く仕草をしていたときも、ずっと。
神さまみたいだ、と思った。思ってしまった。
神さまが、気まぐれに人間と成り下がって、僕としりとりなんていう子どもじみた遊びをしているのだ。
みんなの神さまがしりとりをしている間だけ僕の隣に落ちてきてくれる。そんな現状に、優越感すら抱きそうな僕自身が何よりも誰よりも気持ち悪かった。
言い訳をするならば、そんなつもりは全くもってなかった。
みんなそう言うだろう。だけど、本当にそんなつもりはなかったのだ。
いつも通り、勉強するために朝のホームルームが始まる一時間前に登校した。そうして、教室のドアを開けようとしたところで中に人がいることがわかった。ドアを引くのを躊躇った、ほんのその一瞬、中から聞こえてきた声が僕の鼓膜を揺らしてしまったのだ。
「好きだ、付き合ってほしい」
西田の声だった。
それなら、中にいるもう一人が誰かなんて考えなくてもわかる。今までの人生の中で告白なんてしたこともされたこともない僕は、初めて遭遇した現場に動揺して、腕に変な力がこもった。その先の手は、ドアの引き手にかかっていた。
ガタン、なんて間抜けな音が立って、中の人が動く気配がした。そのまま逃げようかとも思ったが、人間は焦りすぎると動けなくなるらしい。
足音が僕に近づいて、教室のドアが内側から開けられた。予想通りの四つの眼が僕を捉えている。
「…………ごめん」
絞り出すみたいに出した僕の声はいつもに増して情けなくて、西田は丸い頭をガシガシと搔いた。
「西田、わたし、もう音楽室戻らなきゃ」
「お、おう」
じゃあね、と僕にも手を振って長友さんはパタパタと去って行った。
「あの、西田」
「いいって。そういえばお前、来るの早いもんな」
気ぃ遣わせて悪かったな、と西田が言った。
僕は気まずさに押し負けて「いや」と曖昧に答えることしかできなかった。
「……笑うか?」
「なんで?」
何が言いたのか全くわからない。なぜ僕が西田を笑うのか。
「果音さ、きっとお前のことが好きだろ」
「長友さんが? まさか」
「だって、お前ら、なんか仲良い」
僕は自分の席についた。机の中には黄色い表紙のノートが入っている。長友さんがさっき入れたようだ。
ノートを開いてパラパラ捲りながら西田に「心配しなくていいよ」と言った。
「僕ら、しりとりしてるだけだから」
「しりとり?」
「そう。それもたまたま隣にいたから始まっただけ」
怪訝そうな顔をした西田は信じられないようだった。ノートを見せたら信じるか、という考えも頭をよぎったけれど、なんとなく他人に見せるのは憚られてやめた。
「それだけなんか?」
「それだけ。だから言ったろ、なんもないって」
男女の友情を何でもかんでも恋愛に繋げたがる人は一定数いる。というか、世間ではそっちがマジョリティーだろう。想像力が足りない、と思う。だって、僕も長友さんも異性が好きな前提で勝手に話を進めている。令和って、きっともうそういう時代じゃないだろう。
ノートのいちばん新しいページには「ハスカップ」と書かれていた。最近の長友さんはまた『ぷ』責めにハマっているらしい。
もう手札はとっくに出し尽くしてしまったが、調べたら負けな気がして、気がついたら日常の中で『ぷ』から始まる言葉を探している。
「だけど数ヶ月も続いてるってことは、やっぱ果音はお前が好きなんじゃねぇの」
「……万が一そうだったしても、僕と付き合うことはないよ。絶対に」
西田はまた信じられないみたいで、眉間に皺を寄せた。
「なんでそんなこと言えんの」
「僕が好きなのは西田だから」
「え」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。反射的に口に手を当てたが、口から飛び出た言葉が戻るはずもなく、逆にそれが説得力を増させただけだった。
言うつもりなんて、どこにもなかった。
だけど、長友さんとのしりとりが始まるよりずっと前から僕は西田が好きだった。
「……なんてね。僕、勉強が忙しいから恋愛とか興味ないんだよね」
「びっくりした。なんだよ、まぁ、そうだよな」
苦し紛れに冗談ということにしたが、西田は特に違和感も抱かなかったらしい。こういうときだけ、西田が鈍感で良かったと思う。
「なぁ、付き合えると思う?」
「長友さん次第なんじゃない」
「だよなぁ」
西田が床にしゃがみ込んで、シュル、とスラックスが擦れる音がした。僕は西田と長友さんは付き合うんだろうな、とぼんやり考えた。もう胸は痛まない。
翌朝、全てがひっくり返った。
クーデターみたいな、民衆の一揆みたいな、そんなことが目の前で起きるとは思ってもいなかった。
いつも通り一番に登校した僕が目にしたのは、荒らされた教室だった。机がぐちゃぐちゃになっていて、倒されている机と椅子もある。いや、ひと組の机と椅子だけが倒されていた。それだけではない。その机には白い粉がぶちまけられている。隣には空っぽの消火器が転がっているから、きっとこの粉は消火器の中身だ。
机の中にあったであろう本などはビリビリに破かれて、水をかけられている。
そこは、長友果音の席だった。
きっかけは僕が昨日見た光景、つまり長友さんが西田に告白されたことだった。西田のことを好きな女子たちが、逆上して長友さんに激しく嫌がらせを始めたのだ。
「ねぇ、もうわたしに構わなくていいよ」
僕にそう言った長友さんは、もう神さまではなかった。
「……長友さんが僕に構ってたんだろ」
「そうかも」
「西田と付き合うの?」
「春菜がね、西田のこと好きなの」
恐ろしいことに、嫌がらせをしているほとんどが元々長友さんの取り巻き、要するに友達だった。
「前に、みんな真面目に部活やってないって言ってたでしょ。音楽室からグラウンドの野球部……というか、西田見てたの」
春菜とか凛とか真綾とか、と挙がった名前はどれも吹奏楽部の、騒がしい部類の女子たちだった。
「それを知ってて西田に告られたから、わたしは裏切り者なんだって」
「そんなの、負け惜しみだ」
「あはは、そうかもね」
長友さんはうん、と一つ頷いて「ありがとうね、楽になった」と笑った。
スクールカースト最上位のみんなのアイドルが、その取り巻きにいじめられる。学校とかいう閉じられた箱庭では、上下がひっくり返るなんてよくあることだった。
ただ、運が悪いことに、うちの学校はなかなか荒れていた。そう、スクールサポーターが駐在するくらいには荒れていた。だから、やることがとにかく酷かった。
靴を捨てられたり殴られたりするくらいは序の口で、生成AIなんかを悪用して、アダルトコンテンツに長友さんの顔写真を合成したものが出回ったりもした。
一度インターネット上に出回った画像は二度と取り消すことができない。どこまで回るかもわからない。
西田が火消しをしようとしても、火に油を注ぐばかりでもっとひどくなった。西田はやっぱり鈍感だったので、やり方が下手すぎたのだ。
友達も全くいない僕に何かできるはずもなくて、だけど、それを長友さんには感謝された。
先生やスクールサポーターがようやく介入できたころには、もう取り返しのつかないところまで来ていた。
長友さんは学校に来なくなった。
しばらくして、一家で遠くへ引っ越したと聞いた。それがいいと思った。
変に熱血な担任の山岡は、意味もない涙を流していて、それが気持ち悪くてたまらなかった。
長友さんと最後にした会話なんて全く覚えていない。それくらい突然姿を消したのだ。
噂によると、長友さんは主犯の女子たちを思いっきり殴ってからいなくなったらしい。噂なので真偽は不明だが、たしかにいじめていた女子の中には前歯が折れた人がいた。実はガラが悪い長友さんらしかった。
僕の手元には、あの黄色いノートだけが残っている。ハスカップの隣に新しく文字が綴られることはもうない。
「あ、プルキンエ線維……」
あれから五年が経っても、僕が大人になっても、変わらず『ぷ』から始まる言葉を頭のどこかで探している。
見つけるたびに、長友さんが髪を解いたあの瞬間が再生されて、僕の網膜を焦がし続けるのだ。
【おわり】