【最終選考作品】最後のご飯(著:瀬木逢涼)
人生が終わる時、最後に食べたいものは――と何回か聞かれた。
決めているものはあっても、どうやっても叶わないし、そもそも、人生が終わる時なんて縁起でもない話すぎるから、真面目に回答する意欲がない。
今日も疲れた心身を労るため、適当な野菜を放り込んだ片手鍋に、市販の顆粒出汁と市販の合わせ味噌を放り込んでかき混ぜる。
「俺、死ぬよ? 役場のくせに、最悪」
オペラ歌手ばりの声量で怒鳴られる。
フロアに響き渡った怒声に、他の職員はハッと息を呑んでいる。
スキンヘッドに首筋に蛇のタトゥーという、絵に描いたようなヤンキーが机を挟んだ先で睨んできた。
ここで謝ったら難癖をつけられて、ますます泥沼にはまる。
まだ生まれて二十五年の僕には、凄みのある顔はできない。
表情を消して、恐怖を押し殺して、ただ淡々と机に置いた紙に視線を落とす。
「預貯金があったら、生活保護は通りません」
「申請もできねぇのかよ」
「預貯金があるので、ダメです」
「入院になったら、こんな金額、秒で消えるだろ? そんなんも、わかんねぇのかよ」
初対面の町民から、罵声を浴びせられる。
試しに、自分の部署を振り返ってみた。
女性の先輩は心配そうに見つめているが、何もできない。まあ、しょうがないだろう。
十歳上の男の先輩は席から消えていた。絶対に、逃げた。
最後の砦の課長は、椅子に尻がくっついているみたいで、助けてくれる様子はない。
「申請書類、寄越せよ」
机をバンバンと叩かれる。
「書類を書くだけ時間の無駄です」
「お前、名前は飯田か。覚えたからなっ」
ようやく諦めて帰ってくれた。
胃の底から、疲れた息を漏らす。
「飯田君」
課長から大き目の声で呼ばれ、返事もそこそこに、課長席へと駆け寄った。
「窓口対応、下手すぎ。それに、書かせればいいんだよ、書類。どうせ、福祉事務所のケースワーカーが判断してくれるんだからさ」
「福祉事務所からは預貯金が多い人を受け付けないでくれ、と強めに言われてます」
町役場の生活保護の事務は、県の福祉事務所が管轄だ。僕の仕事は書類を受け付けるまでだけれど、何でもは、受け付けられない。
県の福祉事務所も、少ない人員で膨大な事務を行っていて、パンク状態だ。
今みたいな奴は、受け付けたくない。
「そんなの、向こうの怠慢だから」
「はあ」
僕が煮え切らない返事をしていたから、課長の表情が不機嫌顔に急降下する。
「あ、もう、いいや。さっさと席に帰って」
「申し訳ありません。次から気を付けます」
課長は機嫌を損ねたら、長い。
前は一か月、無視をされた。それだけでなく、細かい箇所で難癖をつけられ、業務の相談をしても舌打ちだけしか返ってこなかった。
「あ、お前の仕事少ないから、職務分担、替えた。国民健康保険の給付事務を追加ね」
女の先輩を振り返るも、視線を逸らされる。
僕よりも給料が五万円ぐらい高いですよね。
しかも、十時退勤が当たり前な僕と違って、六時には帰りますよね。それなのに、僕にさらに仕事を押し付けるんですか。
ショックや怒りを通り越して、もはや、感情は無だった。
席に戻ると、逃げていた先輩が席にいた。
「やべぇ奴だったね。お疲れ!」
明るい笑顔で励ますぐらいだったら、矢面に立ってほしかった。
グッと不満を呑み込む。
「仕事が増えるみたいです。国保の給付」
「マジか、できる人間に仕事は集まるんだよ」
「できない人は給料だけもらって、仕事をしないでいいんですね」
机にはすでに、理不尽に仕事が増えた新しい職務分担表が配られていた。
「うわ、出たよ、毒舌! こういう狭い役場では浮いちゃうから、気を付けろよ」
先輩は、悪い人ではない。明るくて気さくで、役場でも評判がいい。
だから、なんだっていうんだ。
増えた職務分担の表をじっと見つめていた僕の肩に、先輩が気やすく触る。
「ところで、今度の忘年会の幹事、よろしく」
何もかもが、圧し掛かる。
役場の雑然とした騒がしさが、どこか遠くの世界のように耳奥に反響をした。
このまま倒れて、死んでしまったほうが楽かもしれない。
死にたい、死にたくない、けれど死んだほうがマシ。
死の気配が、僕の脳みそをじわじわと侵食していく。
「母さんの味噌汁、食べたいな」
自分の人生の終わりについて考える時、僕は死んだ母さんの味噌汁を飲みたくなる。
もし、母さんの味噌汁が飲めるなら、本当に今日、死んでもいい。
「七名なんですけれど、そうですよね」
忘年会の幹事が、昨日、飛んできた。
僕が酒飲みと知った先輩が、押し付けてきた。酒を飲まなくても、口コミでも他の部署に聞くでもすればいいのに、しない。
課長から「狭い」「料理が不味い」と駄目だしをされるから、面倒だったに違いない。
何件か電話したものの、忘年会シーズンでどこも満席だ。店が取れなかったら、僕のせいにされる。とりあえず、検索をかけまくる。
居酒屋『最果て』
変な名の店が、スマフォの画面に現れた。口コミの件数も少ない。
『七十代のご夫婦のお店で、家庭料理。一階はカウンターのみ。宴会用の二階席あり』
ここは、と期待が膨らむ。
直近である一年前の口コミを、開いた。
『旦那さんが亡くなったそうで、最近はずっと閉まっています。やめちゃったのかな』
他のサイトで電話番号を探したけれど、閉店の赤文字がくっきりと表示されていた。運の悪さに愕然としながらも、ふと、思いつく。
「別のお店、入ってたりして」
居酒屋が潰れたら、その店舗に別の居酒屋が入ることはよくある。
試しに着信をすると、ぷるる、と何とも懐かしいような電子音が、耳の奥に振動する。
『はい、居酒屋「最果て」でございます!』
元気よくてハキハキとした女性の声に、俯きがちだった顔がハッと上がる。
予約しないと。脳みそはわかっているのに、なかなか、一言が出てこない。
電話先の女性は、じっと待ってくれていた。
「今から、そちらに行っていいですか」
最近の中では一番大きな声で、喋っていた。
居酒屋『最果て』の店先に、赤提灯がぶら下がる。年代物らしく、提灯に切れ目が何本も走っていた。
「おかえり。今日も、お疲れさん」
カウンターから、七十代ぐらいの割烹着姿のお婆さんが、笑いながら手を振った。
知り合いだ、とすんなりと勘違いできるほどに、気さくで自然な挨拶だった。
「母さん?」
死んだはずの母親の、幻覚を見た。
年齢も、顔も、髪型も、声も、何もかも違うのに、笑顔の母さんを一瞬だけ認めた。
「そんなに若くはないよ。もう、お婆さん」
悪戯っぽく笑った女将さんに、正気に戻る。
「そんなことは。えっと、た、だいま、です」
何年ぶりに、こんな挨拶ができただろう。
ごくごく普通の挨拶に幸せを感じている自分が、なんだかおかしかった。
「好きな席にどうぞ。お通しはいる?」
「いらないとか、できるんですか」
店は口コミであったとおり、カウンター席のみだった。エル字型で厨房を囲んでいて、テーブルも椅子も木目に年季を感じる。カウンターには、寿司屋みたいなショーケースがあり、中に大皿が五皿、並んでいた。
玉子焼き、里芋の煮物、小魚の南蛮漬け、フキの煮物、肉豆腐が盛られている。
女将さんの前に腰をかけつつ料理に眼を奪われていたら、普通の居酒屋では言われない質問に瞬きを繰り返す。
「料理を頼んでくれたら、それでいいよ。料理はこの皿の料理と、あとはこれ。言ってくれたら、メニューになくても作るよ」
ぬめり気のあるクリアファイルに、手書きのメニューが入っていた。
「玉子焼きと、肉豆腐、ハイボールください。あと」もう一品、と目を走らせて、見つけた。
「味噌汁」
「はいはい。それにしても、電話してくる人なんて、何か月ぶりだろうね」
「ネットで、閉店扱いになってました」
目分量のハイボールを作りながら、女将さんは大きく口を開けて笑う。
海賊の漫画に出てきそうな豪快な笑い方だ。
「旦那が死んだときに、手続きやらでちょっとの間、閉めたんだ。そんときに、閉店したって思われたらしい。訂正の仕方もわからんし、客が多く来られても迷惑だからそのまま」
ハイボールを受け取り、口を付ける。
ウイスキーのガツンと来る苦さと、強炭酸の泡の強さが舌の上で弾けて、爽快だった。
「やっていて、良かったです。変わった名前ですよね、『最果て』って」
レンジがウインウインと動いている音がする。すぐに終了を知らせる高音が鳴り、マヨネーズが添えられた玉子焼き、小鉢に盛られた肉豆腐が手渡される。
「そうだろ。由来は、後で教えるよ」
玉子焼きに、ちょこん、と箸で摑んだマヨネーズを置いた。砂糖の甘味とマヨネーズの酸味が絶妙に絡んで旨味となる。続いて、肉豆腐は一口サイズに切った豆腐と肉を一緒に食べる。砂糖が強いけれど、むしろこの甘すぎる感じが、ハイボールの辛さと合う。
「はい、味噌汁」
大振りの味噌汁茶碗には、白菜としめじ、油揚げ、飾りで小葱を散らした味噌汁がよそわれた。
湯気から漂う出汁と味噌が、目に染みる。
「卵だ。嬉しい。母さんもよく、入れてくれたんですよ。一気に豪勢になるんですよね」
赤茶色の横線が入った味噌汁茶碗を傾け、熱々の汁をそっと啜った。
一口、そしてまた、一口。
次に油揚げ、白菜、しめじと、黙々と口内に詰め込んでいく。半熟の卵の黄身にしめじと油揚げを絡め、白身に巻き込まれた白菜も食べる。咀嚼して、飲み込んで、また、白みそが強めの味噌汁を啜る。
茶碗の底の米麹の欠片まで、食べきった。
空になった味噌汁茶碗をジッと見下ろしていたら、視界が次第に歪んでいく。箸を持ったままの手の甲に、水滴が一つ、二つと落ちていく。
「母さんの作った味噌汁の味が、します。もう、僕、このまま死にたいです」
気が付けば、涙と鼻水を垂れ流して、ワッと泣き叫んでいた。
どれだけ長く泣いていたか、覚えていない。
ハイボールの氷は解けきって、上辺に水が溜まる。
女将さんは黙して、僕を見守っていた。
「ご飯、食べな。お腹いっぱいになったら、頑張れることだってある」
カウンターに、真っ白な三角おむすびが一個、鎮座する。僕の掌から溢れるおむすびに齧りつくと、中から出てきたのは、味噌で味付けされた油揚げだった。
油揚げの脂分が味噌に染みて、甘い。
「美味しい、です」
咀嚼するたびにまろやかな味噌味が舌に広がり、味噌汁を飲んでいるみたいだ。
味噌汁の味と一緒に、母さんを思い出す。
最後の会話は、他愛のないものだった。
『福祉って大変?』『変な客も多いし、上司は超パワハラで最悪』『そうなん。こっちに帰ってきたらいいわ』『考えとく』『お盆は?』『年末年始以外は仕事』『新しい味噌、買ったのに』『前の味噌のほうが良い』『あんたに味噌の味が、わかるわけないやろ』『わかるって。料理、真面目にしてるんやし』
事故で親が死ぬなんて完全に他人事でしか思ってなくて、実際に遺族の立場になった今でも、実感がわかない。
母さんの作る、顆粒出汁とスーパーのお手頃価格の味噌と、冷蔵庫にある野菜で作る、本当に普通の味噌汁を食べるべきだった。
どんなに嫌味を言われても、怒鳴られても、見捨てられても。
涙と鼻水を垂れ流したまま、おにぎりを完食した。
「店の名前の由来、話していいかい?」
女将さんは僕に配慮しているのか、わずかばかり、声を潜めているようだった。
首を縦に振って、おそらく真っ赤に腫れているであろう瞼を、女将さんに向ける。
「自分たちは年寄りで、もうあとは死ぬだけだ。あの世にいるようなものだ。そこで、あの世に似たイメージのある『最果て』と名付けた」
看板業者が嫌そうに請け負ったさ、と女将さんはおかしそうにケラケラと笑った。
かと思えば、口角を上げるだけの静かな笑みへと変わる。
慈愛に満ちた笑顔に気持ちが込み上がったから、唇にグッと力を入れて耐える。
「『最果て』なんて、名付けたからかな。あんたみたいに、死ぬ一歩前の奴らが来る」
「辿り着いちゃいました」
掠れてみっともない声で、喋った。
「私はカウンセラーでもない。でも、ご飯だけは作れる。また来たら良いよ。好きな飯、作ってあげるから」
僕の事情に踏み込んでくるわけでもない、おせっかいを焼くわけでもない、でも見捨てたりもしない。
「はい、ありがとうございます」
僕の返事を遮るかのように、店の年季の入った電話が忙しなく鳴った。
女将さんは僕に断りを入れ、受話器を耳にあてた。
「はい、居酒屋『最果て』でございます! は? それは。でも、今は店を開けてて。ああ、そりゃそうだね。行きゃあ、いいんだろ!」
強めに受話器を置いた女将さんが、大きくため息を吐いた。
「あの、帰ったほうが良いですか」
空気を読んで席を立とうとしたら、女将さんの掌が静止を示した。
「出かけてくるから、店番だけよろしく」
「うん?」
泣きすぎて脳みそが疲弊しているのかと疑ったけれど、女将さんは「まず」と仕切り始めた。
「この大皿料理はメモが書いてあるから、その通りにして。皿はテキトウで良し。おしぼりはこの下。瓶は冷蔵庫、酒はこっち」
「本気ですか、僕、人様に料理なんて」
対象物を叩きながら、早口に説明をされる。ようやく口を挟めそうだったのに、女将さんは割烹着をさっさと脱いで、カウンターから出てきた。
「どうせ、あんたが最後の客だ。よろしく」
高身長の女将さんはパタパタと忙しない足音だけを遠くに残し、夜の街へと消えていってしまった。
「噓でしょ」
居酒屋で泣いたことも、取り残されたことも、店を託されたことも初体験だ。
水に成り下がったハイボールを口に含み、女将さんが消えた扉を凝視する。
「焼酎! 水割り!」
爺さんが、怒鳴るような大声で注文をした瞬間、「あんたが最後の客だ」が女将さんの見込み違いであると証明されてしまった。
爺さんはとても酔っていて、カウンター席に到達するまでに三往復、左右に揺れた。
椅子に座ってからも、机に突っ伏したり、天井を仰いだりと忙しない。
「おい、まだか!」
「焼酎の水割りですね。芋とか麦とか米とか」
「焼酎だよ!」
話が通じない酔っぱらいだと判断したし、怒鳴られて不満だった。カウンターにお金だけ置いて帰りたいけれど、母さんの味を再現してくれた女将さんに申し訳ない気もする。
どうせ大した注文もしないだろうと、いそいそとカウンターの中に入った。
外で見るよりも、カウンターは広かった。
客側から見たら木のテーブルだけれど、中は空洞になっていて、皿や食材、調味料、調理器具とあらゆるものが収納されている。
大皿を見たら、手前に「里芋は小鉢に五個。レンジで一分半」と黄ばんだメモ紙が置かれていた。年季を感じるメモをふむふむと眺めてから、冷蔵庫から急いでグラスを取り、手前の焼酎の瓶を取った。
「どうぞ」
焼酎をカウンターに置くと、ようやく爺さんは僕の顔を一瞥した。泣き腫らしたみっともない顔だけれど、微塵も反応をせずに焼酎を煽る。
「馬鹿、芋じゃねぇか!」
グラスをテーブルに叩きつけ、爺さんは怒鳴り上げる。
「酔っていても、味が、わかるんだ」
あと、麦か米がご所望だったらしい。
自分がきちんと説明を果たさないくせに、他人の厚意を踏みにじるところは、僕が普段から対応する客と変わらない。
「里芋。そら豆、ねぇのか。あと、おにぎり」
怒鳴る時の滑舌の良さはどこへやら、もそもそと喋って、爺さんは机に突っ伏した。
「里芋はできますけれど」
「グズグズすんな、お前っ、腹減ってんだよこっちは」
「し」知らねぇ、と口に出しかけて、黙った。
クレーマー体質の奴は納得がしたいのではなく、文句が目的なのだから、淡々とやり過ごしたほうが良い。
里芋はメモに従い五個を小鉢に盛り付けて、レンジに仕掛ける。旧型のレンジが稼働音を立てている傍らで、炊飯器を開けた。
「具はどうしよう。梅干し?」
冷蔵庫を開いたら、野菜や卵や作り置きらしい品は認められた。
おにぎりの具っぽいものは、見つからない。
視線を凝らしておにぎりの具を探す僕の瞳に、ある食材が映った。
温めた里芋と、おにぎりをカウンターに置いた。爺さんは文句を言っていた割には、焼酎を半分ほど飲み切っていた。
里芋を一口頬張り、酒で流す。それから、おにぎりに齧り付こうとして、爺さんは動きを止めた。
「そら豆と塩昆布」
夢うつつのように、爺さんが呟いた。
具はなかったけれど、混ぜたら美味しそうな食材があった。それが、そら豆だった。里芋と一緒に注文したそうだったし、豆ごはんっぽくなると考えた。
後は塩気のために、塩昆布を混ぜ込んだ。
塩昆布がおにぎりの三角から飛び出て不格好だけれど、爺さんは気にした様子はない。
爺さんは、無言でおにぎりに齧り付いた。一口、また一口と、もう酒は飲まずに、黙々とひたすら口内に放り込む。
「死んだ、母ちゃんの味にそっくりだ」
「え」
数分前の、僕と同じ感想が漏れる。怒鳴り上げていた元気は萎み、代わりに、爺さんの目尻からボロボロと涙が零れ始める。
「俺がそら豆好きだけど、いつも半端に残すんだ。だから、余ったそら豆で、よくおにぎりを握ってくれた。塩昆布も一緒に。いい嫁だったよ」
母ちゃんは、奥さんという意味だったらしい。
「亡くなったんですね」
「事故でな。家を出るまで、元気だったんだよ。でも、帰ってきたら、静かでよ」
大事な人を、ある日突然、覚悟がないままに失う。
店に入った時から横暴だと感じていたけれど、実は、ヤケクソだったのかもしれない。
「俺なんか、死んじまえば良いんだよ! 母ちゃんがいないと、何一つできやしねぇ」
『死ぬ一歩前みたいな奴らが来る』
薄くなった頭頂部を、ただ眺め続ける。
女将さんは、泣きじゃくる僕をどんな気持ちで見守っていたんだろう。
大事な人を亡くして、仕事もうまくいかず、死にたくなっていた数分前の僕と、重なった。
おまけ、とご飯に入りきらなかったそら豆を二つ、皿に追加で置いた。
泣き腫らしてぷっくら膨れた瞼で、爺さんは初めて僕を捉えた。
「また、来てください。おにぎり、作ります」
ようやく僕の顔をまともに見た爺さんは、ふはっ、と泣き笑いの表情を見せた。
「なんだ、お前、俺より酷い顔してるな」
「そうなんです。僕も、母を事故で亡くしまして、ここに辿り着きました」
爺さんは「そっか、そりゃあ」と優しい声音で何度か呟き、空になったおにぎりの皿の傍に、二千円をそっと添えた。
「あ」
爺さんの身体は透き通り、そのまま消えていった。
カウンターでどれぐらいの間、呆然としていたかわからない。
二千円も、飲みかけの焼酎も、食べ終わった皿たちも存在しているのに、爺さんだけがいなかった。
「ごめんね、店番してもらって」
女将さんは少々疲れた表情を引っ提げて、戻ってきた。僕がカウンターに立ち尽くしていて、もう一人いた名残を感じ取ったらしい。
爺さんが座っていた椅子にそっと触れた女将さんの表情は、切なそうだった。
「ああ、ここにいた人は、逝ったか」
店じまいをしたのに、僕はまだ居酒屋『最果て』の客席に残っていた。
横暴な爺さんがいて、乞われるままにおにぎりを作ったら喜んでくれた。爺さんはお金だけ残し、忽然と消えてしまった。
一連の出来事を端的に話した。
「死にかけだったんだろうさ、その爺さんは。ちなみに、私も死にかけだからね」
「はい?」
情けないほどに素っ頓狂な返事が漏れる。
女将さんの顔は、至って真面目だった。かと思えば、苦笑しながら腕を組む。
「この店には、死にかけ一歩手前の奴がよく来る。最後のご飯を食べにね。食べ終わった後に、生きるか死ぬか、の二択。君は生きた、爺さんは死んだ」
「女将さんが死にかけというのは」
上目遣いで問いかけると、女将さんは口端を吊り上げた。
「さっき、私、出かけただろ。自分の本体は総合病院にいてね。今夜、死ぬ見込みだって連絡あったから、駆け付けた。でも、医者の腕が良くて、また無駄に生き延びた。といっても、いつまでこの店を切り盛りできるかな」
女将さんが、わざわざ僕に嘘を吐く理由なんてない。
でも、現実離れして信じるのも怖い。
もっと怖いのは、母さんの味を再現してくれる店を失うことだ。
「困ります! まだまだ、頑張ってください」
テーブルに掌をつき、食い気味に説得を試みる。
「さっきの話を聞くと、君は、爺さんの背景も知らずに求める料理を作れたんだね」
女将さんは僕の説得を右から左に聞き流しつつも、天井に視線を投げて考える仕草をした。
一分間ぐらいの微妙な間が、流れる。
どこかの部屋に飾られているのだろう柱時計が、次の日になったことを告げた。
時間を自覚すると、睡魔が襲ってくる。仕事が脳みそに残り続けて、最近は眠れていなかった。今は、何も考えられないほどに、眠い。
「今の職業、死にたいほど辛いんだろ? 一緒に最後のご飯、作ろう!」
深夜とは思えない女将さんの明るい声を最後に、僕の意識は睡眠へと落ちていった。
居酒屋『最果て』で酒を飲んだ日から、僕の仕事ぶりは変わった。
とにかく、嫌われた。正確には、嫌われても良いから自分を貫いた。
罵られても、他人の仕事の窓口や電話応対もやめた。新しい仕事も、絶対にやらなかった。
気の利かない、仕事のできない、生意気だと嫌味を言われても怒鳴られても、意志を貫いた。
周囲から見たら、僕は『ヤバい』奴なのだろう。
でも、もう、他人に尽くすことはやめた。
三月三十一日、退職者を送る会で、定年退職者に紛れて僕は送別される側に立った。
社交辞令的に貰った花束を胸に抱え、堂々と立つ。僕が所属していた部署の人たちは、裏切り者を見るような目をしていた。
「どんな職業に、就くんだか。どうせ、ろくな仕事、できやしねぇよ」
元上司が、嫌味を舌打ち交じりに呟く。他の課長の視線を受けて黙ったものの、怒りは収まらないのか、もう一度、小さく舌打ちをした。
前の僕だったら恐れたけれど、今は何も感じない。
退職者から一言、と司会に促され、皆を俯瞰できる位置に背筋を伸ばして立つ。
スタンドマイクに口元を近づけ、小さく呼吸をする。
「やりたいことができたので、辞めます。縁がある人は、また逢うこともあるでしょう。その時は、よろしく。縁がない人とは、ここでお別れです。お元気で、さようなら」
パラパラと心の籠もらない拍手を受けながら、僕の短い公務員生活は終わった。
役場を辞めて、五年が経過した。
今日の仕込みを終え、提灯を光らせ、看板を営業中へと変える。
「頑張りますよ、と」
女将さんと先代の写真に両手を合わせ、一礼をする。店の開店祝いで撮ったのだろう、まだ傷もない提灯の横で、夫婦仲睦まじく、ピースサインを突き出していた。
「しけた店だな、ろくな物、置いてねぇだろ」
開店早々に暴言を発しながら現れたのは、元上司だった。
性格の悪さは相変わらずだが、顔色が酷く悪い。
僕の顔を見ると、一旦目を細め、何かを探るような顔つきになった。
「ああああああー!」
眼玉をひん剥き、幽霊でも見たような悲鳴を上げながら、元上司は尻餅をつく。
幽霊はそっちだろうと思うのだけれど、黙っておいた。
代わりに、唇を柔らかく緩める。
「おかえりなさい、今日もお疲れ様です」
ここは居酒屋『最果て』、最後のご飯を食べる店。
どんな遺恨のある相手だろうが、慈愛をもって料理を作ることが、女将さんから受け継いだ想いだ。
「何でも作りますよ。ご注文をどうぞ」
まだ腰を抜かしている元上司に、微笑みかけた。
【おわり】