宝石商リチャード氏の謎鑑定 比翼のマグル・ガル 第八回

4 比翼のマグル・ガル


 せいは二度と意識を失うことはなかった。元気に自力でごはんも食べ、すぐトイレにも立てた。しかし頭部を打ったのでしばらくは様子見の入院が必要であるという。
 正義はすぐにでも退院したがっていたが、リチャードが冷たいまなしを向けると、素直に医師の言葉に従った。
 一週間の入院である。みのるは大忙しになった。
「おはようみのる! お前大丈夫? 寝てる? 毎日病院と家の往復だろ」
「おはようりょう。平気平気、すごく寝てるから。っていうか家に帰るとすぐ寝ちゃうんだよ。宿題がやばいな
「おはようみのる。はいはい報告。なかさんはどうなの」
「報告するようなことは特にないんだよ、もうずっと元気だから昨日の病院の夕飯では、ほうれんそうのソテーをおいしそうに食べてたよ」
「ありがと。元気ならそれでいい」
 みのるは中学に通い、下校後は病院に行って正義の様子を見、時々は適当な料理を作ってリチャードと共に食べ、眠るという生活を送っていた。おみまいに行くのはみのるの希望として、料理をする必要はないとリチャードと正義の両方から言い聞かせられたが、それでも『時々』という条件でみのるはリクエストを通した。
 正義の作ってくれた場所を、みのるなりに守りたかった。
 リチャードはみのるの比ではない大忙しになっていた。正義の抜けた分の仕事を埋めているのである。七割がた帰宅は夕食に間に合わなくなったが、それでもみのるのことを気にかけ、お菓子か本を買ってきて帰ってくれた。
 みのるはプリンの作り方を覚えた。
「プリンはざっくり言うと蒸し料理なんだ。だから蒸し方を間違えると、茶わん蒸しでいう『すだち』っていう硬いあわができちゃっていやこんなことを教える必要はないよな。みのるくん、宿題は大丈夫? 俺、レシピの伝授の他にも力になれることあるかな」
「大丈夫です。それよりすだちを防ぐ方法を教えてください」
「ああうん、それは火加減の問題で
 個室の病室でになりつつ、おおっぴらには読書を、隠れては仕事にはげんでいる正義と、みのるはいつもとは少し違う会話を楽しんだ。いつもは正義がみのるの面倒を見てくれているが、今はみのるが正義のことを気にかけている。もう正義の身から危険が去っていることも含めて、みのるは気分がよかった。時々良太もお見舞いにやってきたが、りんは来なかったが、その代わりいつの間にか交換したメールアプリで連絡をしているらしい。
 窓辺に飾られた花々一つはカラフルな風船十個つきで、『元気になってね キムより』という英語のメッセージが添えられている花束である。もう一つは『先生に心配かけないで』と書かれたオクタヴィアからのアレンジメントであったを眺めている正義に、みのるは微笑ほほえんだ。
「正義さん、本当に目が覚めてよかったですね」
うん。本当によかったよ。心配をかけてごめんね。あのままだったらと思うとぞっとする」
「いえ、そういうことじゃなくて、うまく言えないんですけど」
 目が覚めた正義は、それまでと少し違う人になったように、みのるには思えた。
 絶対にそんなことがあるはずはないのだが、少しだけ可愛かわいらしくなったような気がするのである。
 恥ずかしいので『可愛い』という言葉は使わず、もぞもぞと大体そんなことを伝えると、正義はしばらく黙った後、かすかに顔を赤くして笑った。
「そうか。そうかあそれはきっと、俺のせいじゃないよ。『少し違う人』になったのは、みのるくんの方だと思う」
「僕の方?」
「うん。俺がうんと心配をかけたせいだと思うから、全然いい話じゃないんだけど、みのるくんは少し成長したんじゃないかな。背が伸びるとか体重が増えるってことじゃなくて、精神的に。だから俺のことが、今までと違って、小さくなったように見えたりする」
「そ、そうなんでしょうか?」
「だと思う。俺は嬉しいよ。でも心配をかけたことについては、本当に申し訳ないと思ってる」
「それはもう気にしないでくださいって、いっぱい言いましたよ」
「そうだったね。でも
「もういいですから」
 みのるは『すだち』防止の秘技を正義から教わり、あまりにも『やばい』ことがばれないよう宿題の相談はせず、病院を後にした。
 多少楽しく、激しく忙しい一週間の後、リチャードとみのるは正義のおかえりパーティを企画した。一か月間は安静を命じられているため、どんちゃん騒ぎとはいかなかったが、心だけは盛り上がってお祝いしたかった。
 リチャードが買ってきた高そうなそうざいとケーキの隣に、みのるは自作のプリンを添え、良太と真鈴と一緒につくった折り紙の輪飾りで部屋を飾りつけ、正義を出迎えた。リチャードが正義を病院に迎えにいき、二人で帰ってくる段取りになっている。
 マンションに入ってきた二人に、みのるは量販店で買ったクラッカーを浴びせた。
「おかえりなさい、正義さん!」
「おかえりなさい、正義」
 トレーナーにジーンズ姿の正義は、恥ずかしそうに頭をかきながら、みのるとリチャードに頭を下げた。
「ありがとう、みのるくん、リチャード。心配をかけてごめん。もう本当にごめん! それから一週間、いろいろありがとうございました。これからリカバリーを頑張ります」
「お願いだから頑張らないでください。まだ安静なんですよ」
「みのるさまの言う通りです。ひじかけでのんびりしながら映画でも見ているように」
「お前だけ激務に放り込んでおいて、それは俺も嫌だよ
「休むのも仕事なんですって、病院の先生が言ってましたよ!」
「右に同じでございます」
俺がいない間に、二人で同盟でも組んだ?」
「言われるまでもありません。みのるさま、こちらのお兄さんにうんざりした時には、私のことを兄と思い、存分に頼ってくださいませ自分で言っていて嫌になりました。これではまるでどこかの自称兄とそっくりです」
「あの、現状でも大分そんな感じなので、リチャードさん、これからも僕のお兄さんでいてください
「それこそ言われるまでもないことです」
「でも朝は、ちゃんと起きてください」
善処します」
「ああー、俺のことも忘れないでくれよ!」
 みのるは正義に抱き着き、リチャードも正義とみのるを抱き寄せた。
 気易いディナーは楽しかった。病院では流せない音楽を部屋のステレオで流し、わいわいと騒ぎ、食べたいものだけを食べる。
 みのるのお腹がいっぱいになってしまった頃、リチャードは正義に切り出した。
「正義、先ほど車の中でも少し話しましたが」
「うん。お屋敷の話だな」
 みのるは目を見開いた。
 二人の大人はみのるを見て、真面目まじめな顔で告げた。
「みのるくん、かんだち屋敷のことについて、少し話しておきたいことがあるんだ。そんなに遠くない未来の、神立屋敷の話になる」

 みのるは二人の顔を見返し、静かにうなずいた。




 年が明け、新学期の始まろうとする三月の終わり。
 きれいに整備され、刈り込まれ神立屋敷の庭の真ん中、開けたしばのスペースに、ちらほらとテーブルと椅子が並んでいた。花々。料理。ノンアルコールの飲料、アルコール飲料。
 桜色のドレスを着た金髪の少女は、芝生の上でぷりぷりしていた。
「最初に私に言ってくれたらよかったのに! 全部買い上げて、みんなで遊べるお家のままにしておいたのに。そうでしょみのる?」
「で、でもここに住みたいって言ってくれる家族がいたらしいから。それに家って、誰かが住み続けていないとすぐ傷むんだって、正義さんが言ってたよ」
「管理人さんを雇えばいいじゃない。お家なんて一つの国に一つか二つずつあったって困らないわ。そう思わない?」
「ええっと
「みのる、オクタヴィア姉さんの感覚に慣れちゃ駄目だ。こいつこの前ソシャゲにいきなり十万課金してたぞ。無課金でチマチマやってる姉ちゃんに話したらブチ切れそうになってた」
「プレイスタイルは人それぞれなのよ。それよりマリリンは? この桃のジュース、すごくおいしいから一緒に飲みたいな。誰が作ったの? これもりんくんのお父さん?」
「あ、ありがとうございます。それは僕です。紅茶と桃と、あとミントをまぜて作ってます」
「お前、どんどん器用さのレベルが上がってくよな
 みのると良太は中学の制服姿だった。神立屋敷の中にいた真鈴が、華やかな白いドレス姿でやってくる。ダイヤモンドの妖精のような、ぎんで会った時と似た姿だった。
 神立屋敷が売れた。
 今は海外で暮らし、じきの日本移住を考えている家族に、まるごと売れたという。
 正義とリチャードが少しずつ数えていた宝飾品、古い調ちょうひんなど、全てをまとめて買い上げて、できるだけ保持する方向で使ってくれるという。
 退院してきた正義とリチャードは、それを決定事項として語った。
 みのるはふと、リチャードと初めて出会った時のことを思い出した。神立屋敷の幽霊のようだったリチャードが、外国人の家族に屋敷を案内していた。
 もしかしてあの時の人たちですかとみのるが尋ねると、リチャードは少し驚いた後、その通りですと頷いた。かなり前から進んでいた話のようである。
 驚くみのるの前で、正義は微笑んでいた。
「正直、俺の感覚だとかなりぼうだいな金額が動く話だったから、どう決着するかは未知数だったんだ。でも一番いい形に落ち着いたと思う。保全するだけなら、前にこの家にいた管理人さんたちみたいな人にいてもらえればいいと思うけれど、住みたいと言ってくれる人がいるなら、その人たちにゆずるのが自然じゃないかと思うから」
お屋敷は、壊されるんですか」
 崩れたり腐ったりしている部分は取り替える、と正義は告げた。だが全てを取り壊すことはしない。それは屋敷を購入しようとしている家族の意向ではないという。それを聞いた時、みのるはほっとした。屋敷が中学校のグラウンドのように平らになってしまったら、みのるは多少ショックを受けそうな気がした。何しろ物心つくまでの間、ずっとみのるの側に建っていたお屋敷である。お母さんとの生活を見守り、お父さんと公園で遊んで帰ってきた日にもそこにあった。
 好きや嫌いでは計れない、不思議な守り神のような存在だった。
 年度が変われば、つまり四月になれば、神立屋敷の所有権は新しい家族に移る。いつでも遊びに来てほしいと家族からは言われているそうだったが、近いうちに工事が入ることも含めて、おいそれと顔を出すことはできなくなる。
 いわばこれは、お屋敷とみのるたちの、小さなお別れパーティだった。
 豪華な中華料理は林くんとお父さんの合作で、せいにカットされたドラゴンフルーツには羽ばたく鳥が彫り込まれていた。新しい門出をイメージしたものであるという。ふくしんしゅはスープやアラカルトを多数準備してくれたが、そのどれもが、一度もみのるの食べたことのないおかずばかりだった。正義とリチャードが予算を出し、豪勢な料理をオーダーしたらしい。小さなオムライスの群れ、てりやきバーガー、チキンの丸焼きなどはみのると正義の合作で、プリンはどれもみのるの作品だった。正義の入院生活を経てプリンづくりに開眼したみのるにとってたいてんの敵と化した『すだち』が発生したものは、ありがたいことに一つもないようだ。
 戻ってきた真鈴にオクタヴィアが桃のジュースを勧め、二人がきゃいきゃいと英語で会話しているのを横耳で聞きながら、みのるは正義とリチャードの姿を探した。
 小規模なパーティは、正義の快気祝いも兼ねていた。事故の直後にもおかやま県からかけつけたたにもと先生や、巨大なカトリック教会で一大合唱を引き起こし、様子を映した動画が多少バズったというしもむらはるよしも顔を出している。その友達であるという、ちょっと顔色の悪いイギリス紳士のヘンリー氏も。リチャードと正義のしょうだというシャウルさんという人もいれば、彼の知り合いらしき「まあ」がくちぐせのおばさんもいた。誰も彼もがみのるに気やすいわけではなかったが、全員が正義の回復を祝っていることが、みのるは嬉しかった。
 おろしたてのスーツでばっちりと決め、いつものようにあちこちを歩き回りながら人々をもてなしている正義は、みのるに握らせてくれた、青紫色の宝石のカフスをつけていた。みのるの姿に気づくと手を振ってくれる。
「なあみのる、中田さん、今日格好いいな」
大体いつも格好いいよ?」
「比較の問題だよ。何かいつもとムードが違う気がする」
「私もそう思う」
 真鈴がぴょこんと二人の間に顔を出すと、良太は気まずそうな顔をした。一度もそうと口にしたことはなかったが、真鈴が中田正義に失恋したことは、三人の間では周知の事実である。正義の入院事件でうやむやになってはいたものの、良太も認識はし、「触れてはいけないこと」として尊重していた。
 三人は正義の姿を観察し、けんしわを寄せた。
何が違うんだと思う?」
「だからムードだって」
「ムードって具体的に何なの。うまく言語化できない」
「僕はいつもとそんなに変わらないと思うけどな
「『一緒にいすぎるとわからなくなる』の典型」
「ちょっと緊張してるのかな? シャウルさんって人がいるから? 確かあの人が大ボスなんだろ」
 みのるたちが観察していると、神立屋敷の中から誰かが出てきた。うわ、天使、と良太がつぶやく。みのるも最初そう思った。
 春らしい、淡い色調のスーツに身を包んだリチャードである。
 はらはらと咲きこぼれる、屋敷にほどちかい並木道のさくら吹雪ふぶきが、金色の髪を揺らしていた。
やべえ。リチャードさんもふんが違う」
「あれは、うん、僕にもわかる。寝坊しなかった時の顔だ」
「寝坊って何? あの人そんなに寝起きが悪いの?」
「あっあっ、今のは聞かなかったことにして」
 三人がわいわいと話していると、かんだかい音がした。ワイングラスを何度もぶつけるような音である。
 細長いグラスを手に持った正義が、中にいれたスプーンをきまわして音を鳴らしていた。周囲の視線が注目する。
 正義は力強く微笑んだ。
「皆さんこんにちは。中田正義です。昨年末は大変なご心配をおかけいたしました。おかげさまでこうして回復し、平常通りに仕事ができるようになりました。ここにお集まりいただいた皆さまへの感謝の意を表して、小さなスピーチをさせていただこうと思います」
 いよっ、という掛け声は下村晴良のものだった。正義が恥ずかしそうに微笑む。
 リチャードはただ静かに、正義を見守っていた。
 時折風の吹く庭で、正義は言葉を続けた。
「この街に引っ越してきてそろそろ一年近くが経ちますが、思い起こせばさかのぼること十年前、俺が二十一歳だった時に、皆さまとのご縁は始まっていたように思います。リチャードとの出会いを経て、宝石店のアルバイトになり、秘書になり、俺は少しずつ今の俺に近づいてきたように思います。ごうまんにもそれを成長と呼びたい気持ちもありますが、ちょくせつに言えばこれは変化です。俺は中田正義という人間を、少しずつ今の俺に育て、変化させてきたのだと思います。俺の人生の中で、今のところ最も面白い十年間でした。今後も俺は、川の流れのように変化してゆくと思いますが、それを恐れず、己を鍛え、楽しみながら、あと交通安全にも十分気を付けて生きていく。それだけは変わりません。何分いたらない人間ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします」
 みのるが拍手をしそうになった時、ええ、と正義は言いよどんだ。
 スピーチはもう少し続くらしい。
 神立屋敷を買った人たちの紹介でもするのかな、とみのるが思っていると、正義はさっと髪の毛を直した。そしてまた話し続けようとする。
「また大変個人的なことではありますが、俺の上司であり同僚でもあるリチャードに、この場を借りて感謝したいと思います。いつも本当にありがとう。俺がここまでやってこられたのは、間違いなくお前のおかげだ」
 正義が頭を下げると、今度こそ拍手が起こった。
 そしてリチャードが歩み出る。
 え? という顔をした正義の三歩ほど隣で、リチャードは微笑んでいた。
「ご紹介に預かりました。リチャードです。この場の皆さまはどなたもお顔を存じ上げて久しい方ばかり、改めて長々しい名前をご紹介する必要もないでしょう。わたくしからも短いスピーチを。私たちは出会ってからこれで十年になります。いい節目と言うこともできるでしょう。正義、こちらを向いてください」
「あ? ああ。何か?」
「結婚してください」
 えっ、とみのるはうめいた。良太も同じ声を発した。真鈴だけが平然とした顔をしていた。
 中田正義もまた、目を丸くしていた。
あ?」
 よくわからない、という顔をしている正義の横で、リチャードは片膝をついてひざまずいた。ああこのポーズは知ってる、時々短い動画で流れてくるもので、レストランや何かでカップルの片方がやっていることで、というところまでみのるが思考したあたりで、リチャードは再び口を開いた。
「結婚してください」
?」
 正義はまだ状況をみ込めていないようだった。やれやれと言わんばかりにリチャードが自分のふところを探り、小さな箱を取り出す。
 ふたを開けると、入っていたのは指輪のようだった。
 もはやみのるにすら誤解の余地のないことが、目の前で進行していた。
 リチャードは跪いた姿勢のまま、優雅な口調でしゃべった。
「スピーチは短いほどよいと申しますが、聞き取っていただけなかったようなのでもう一度。正義、私としょうがいを共にしてください。このままでもそうなるとは思いますが、今回のことで私は痛感しました。結べる関係は全て結んでおく。これも一つの生存戦略です。無論現時点のこの国で私たちが結べる関係性は市町村レベルのパートナーシップであり、私が日本国籍を持っていない以上からがたのようなものではありますが、ないよりはましです。どうか結婚してください」
三回も言わなくていいだろ!」
「ではさっさと返事をしていただきたい!」
「するよ! するに決まってるだろ! でもちょっと待ってくれ!」
 正義は最寄りのテーブルにグラスを置き、体に火のついた人のように体中をはたきはじめた。何かを探しているのだとみのるにもわかった。リチャードがあきれた顔をする。
抱き合うくらいのオプションはないのか」
「あるけど! ちょっと待ってくれよ!」
 左側のポケットから何かが出てくる。
 宝石箱である。
 開けると指輪が入っていた。
 立ち上がったリチャードの横で、今度は正義がしゃがんでいた。跪いたのではなく、崩れ落ちていた。顔だけはリチャードを見ている。
「俺も同じものを買った!」
 今度はリチャードの目が丸くなる番だった。
 正義の差し出した指輪を眺め、自分の差し出した指輪と見比べ、また正義の手にある指輪を見た後、リチャードはみのるの隣にいる誰かを見た。正義も同じ人物を見た。
 二人は同時に叫んだ。
「師匠!」
「シャウルさん!」
 チョコレート色の肌をした紳士は、口笛を吹くように唇を少しすぼめ、知りませんとばかりにそっぽを向いた。
 どうやら二人は、同じ人物に同じタイミングで、同じ用途に用いる指輪をオーダーしたようだった。
 何てこった、とばかりに頭をかかえる正義と、頭が痛そうにけんに手を置くリチャードは、しばらくそのまま悩み苦しんでいたが、思い出したように互いの姿を目の前に認め、そっと抱き合った。拍手が起こる。みのるは真鈴を見た。真鈴は真顔で、びっくりするほど巨大な音を立てて拍手している。みのるもまけじと手を叩いた。
 パーティの主役が正義から、正義とリチャードの二人に切り替わった後、みのるはしばらく正義に近づけなかった。大人たちが揃って正義に突撃し、おめでとう、おめでとう、知ってたけどおめでとう、別にしなくてもいいとは思っていたけれどおめでとうなどそれぞれの言葉でお祝いを述べ始め、それどころではなくなってしまったのである。
 みのると良太はこのすきにとおいしいごはんを好きなだけぱくつき真鈴は正義にお祝いを言いに行った後、リチャードにはかなり長い時間『絡んで』いたが、その後はまたオクタヴィアとおしゃべりを始めた正義が少し解放された隙を見計らい、みのるが一人でさっと突撃した。
「正義さん」
「ああ、みのるくん。ははは全然格好よく決まらなかったよ」
「そんなことないです。それに、こういうのは格好いいとか悪いとか、そういうことじゃないと思います」
「ありがとう」
 みのるは正義の指に光る指輪を見た。よく見えるようにと正義も指を近づけてくれる。
 石は縦長の長方形で、見たことのない色彩だった。
 半分がとろりとした黄色、もう半分が深海のような青なのである。
「それ不思議な石ですね。前にダイニングで見せてもらった、ウォーターメロンとか?」
「ウォーターメロン・トルマリンのことを覚えてたの? すごい記憶力だなあ。でもこれは違う意思なんだ。おーいリチャード、そっちの指輪も見せてくれよ。みのるくんに見せたいんだ」
 正義が呼ぶと、谷本先生と話していたリチャードが軽く礼をし、みのると正義の方へと歩いてきた。左手の薬指に指がはまっている。
 リチャードは微笑ほほえみながら、正義の手の隣に自分の手を差し出した。
「ご覧ください」
「わあ
 リチャードの指にはまっているのは、えんけいの石だった。だが色合いは正義と同じ、反面がやや緑がかった黄色、もう反面が深い青色である。
「これ、同じ大きな石からとれた宝石なんですか?」
「賢く深く守秘義務保持の職業意識にも非常にあつい師匠にうかがったところ、全く別の石であるそうです。私が手に入れたものはミナス・ジェライス州、ブラジル産ですし、正義が手に入れたものはスリランカの石であるとか」
「ラトゥナプラ仕入れだよ」
 細かい地名はよくわからなかったが、ともかく違う地面に埋まっていた石であるらしい。スリランカとブラジルとは、全く別の場所にある国である。よく似た色をしているのになあ、とみのるは目をぱちぱちさせた。
 リチャードは口を開いた。
「こちらの石は、いずれもバイカラー・サファイアと呼ばれる種類の宝石になります。サファイアはガーネット、トルマリンのように、さまざまな色合いを持つ宝石の代表格ですが、中にはこのように複数の彩りを宿した宝石が生まれることがございます。スリランカの言葉では、『マグル・ガル』と呼ばれることもございますね」
「マグル・ガル」
「意味は」
「『結婚の石』」
 リチャードの言葉を、横から飛び出した正義が引き受けた。
 正義はふざけて顔をしかめて見せた。みのるではなく、リチャードに向かって。
「わかってただろ。俺があのままプロポーズするつもりだったこと。割り込んできたお返しだ」
「長い段取りをスキップして差し上げようと思ったまでです。スピーチ原稿は家でゆっくり見せていただきますよ」
 手を差し出したまま、二人はちらりと視線を交わして笑った。正義が口を開く。
「仕事中につける指輪じゃないから、オフの時にだけつけるよ」
「私もそうなることでしょう。必要なリングはまた別途二人で買いに行きましょう」
「銀座にしよう。『条例おめでとうございます』ってまた言われるな」
「は? ああ。かくせいの感がありますね」
「『婚約は』だっけ?」
「再締結です」
「これはもう婚約じゃないだろ」
 二人は笑い、ばしばしと互いの背中を叩き合った後、またそれぞれに別れて人々の相手を始めた。
 良太はその背中を見送り、いれかわりに良太が近づいてきた。
「なあなあ、中田さんたちって本当に結婚したの? それともポーズだけ?」
「本当に結婚したと思うよ」
「で、でも結婚って役所に書類を持っていくわけだろ? ただ『結婚してください』『はい』だと、そういうのとは違うんじゃね?」
「何でそんなことが気になるの?」
「母ちゃんが言ってたんだよ。テレビドラマで女の人二人が結婚するやつをやっててさ、でも『かわいそうね、この人たち結婚できないのよね』って」
 みのるもそのことは知っていた。おそらく良太のお母さんと同じドラマを、動画の配信サイトか何かで見ていた。
 みのるは何となく、同じことが気になり、ドラマを見終わった後に調べていた。
「確かに今の制度だと、男の人と女の人が結婚した時と百パーセント同じ権利を手に入れることはできないんだって」
「ほらなー! やっぱできないんだよ。変な話だよな?」
「僕もそう思う。だからそのうちきっと変わるよ」
変わるって?」
「同じになると思う」
 げんな顔をする良太の隣で、みのるは言葉を続けた。ちゃんと言葉にしなければならないと、心のどこかが告げていた。
「誰と結婚しても、しなくても、恋してもしなくても、男の人でも女の人でもそうじゃなくても、みんな同じように、必要なものが手に入る世界に、きっとなると思うよ。今すぐじゃなくても、近いうちにちゃんと。ヨアキムさんが言ってたみたいに」
お前、言ってること、めっちゃ大人じゃん。中田さんの入院あたりから、お前一段階進化してねえ?」
「そんなわけないって! 前に見たドキュメンタリーが、そういう言葉で締めてあっただけ」
「ドキュメンタリーって何?」
「えっ『実録』とか?」
「記録作品ってこと!」
 軽快な声は真鈴のものだった。オクタヴィアとの会話をきりあげてきたらしい。良太は「知ってたよそんなの」とふざけてみせ、真鈴がそれをからかう。二人は笑いながら庭で追いかけっこを始め、みのるはその背中を見送った。さくら吹雪ふぶきが舞い、正義とリチャードが別々の場所で目を細める。
 いつまでもこの時間が、楽しいパーティが、春の庭が続けばいいのにと、みのるは心から願った。美しい瞬間を切り取り、永遠の世界に閉じ込めてしまった宝石のように。
 でもそれはきっと、ありえないとわかっているからこその願いなのかもしれないと、みのるは同時に考えた。
 みのるは大きくなりたかった。お母さんにも今より元気になってほしかった。正義とリチャードがもっと仲良くなる姿を見たかった。桜吹雪も何度も見たかった。散らない桜ではなく。
 成長したかった。
 新しい自分になって、新しい世界を見てみたかった。
 ギターの音色の響き始めた庭を、みのるはゆっくりと散歩し始めた。写真をたくさん撮りたい気分だった。風景の全てをうつしとってしまえるほどに。あと何年経っても、今日のことを思い出せるように。

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