宝石商リチャード氏の謎鑑定 比翼のマグル・ガル 第七回

3 セレスタイトは歌う(3)
夢を見た。
当たり前のように、夢の中では正義が目覚めていた。集中治療室のベッドをトランポリンのようにして遊んでいて、その足元にスーツのリチャードが立っている。これは夢だなと、見た瞬間にわかるタイプの夢だった。ベッドの外にあるのは病院の床ではなく、何故か花畑である。空は水色の絵具のベタ塗りのように不自然に青い。
三人の他には誰もいなかった。
ぴょんぴょんと子どものように跳びはねながら、正義は楽しそうに笑っていた。そして料理中に時折歌う、お気に入りの歌をうたった。おいらは街の散髪屋。誰も寝てはならぬ。女心は動きやすい。俺は軍隊に入ったよ。星々が光っている。エトセトラ、エトセトラ。どれも本当は外国語の歌であるそうだったが、みのるが側にいる時には、正義は「日本語吹き替え」と言って、自作の翻訳バージョンで歌って聞かせてくれるのだった。
みのるは正義の歌が好きだった。
だがよく見ると、ベッドサイドのリチャードは泣いていた。
青い瞳からはらはらと涙を流して。気味の悪い青空よりも、何倍も美しい瞳を真っ赤にして。
そんなことはお構いなしに、正義は楽しそうに歌い続けていた。
ありえない光景だった。みのるは怒った。正義さん、リチャードさんが泣いてます。歌ってる場合じゃないです。何とかしてください。リチャードさんの側にいてください。
だが声が出ない。
みのるは怖くなった。
正義さん、正義さんとみのるは叫ぼうとしたが、喉に空気の塊がつまったように音が出なかった。それでもみのるは力を尽くした。今ここで自分が正義の名前を呼ばなければ、他の誰も呼んでくれない。みのるは力を振り絞り、叫んだ。
「正義さん!」
みのるは目を見開いた。
自分は横たわっているようだった。真上にリチャードの顔が見える。
リチャードは少し驚いた顔をしていたが、すぐに微笑みを作った。
「お目覚めですね。今は朝の六時です」
「……僕、何か叫びましたか」
「いいえ。もっと眠っていて構わないのですよ」
みのるは首を横に振り、体を起こしてソファにまっすぐ座った。二時間近く眠っていたことになる。膝が痛くありませんでしたかとみのるが気遣うと、再びいいえとリチャードは微笑んだ。
正義が目覚めた様子はない。
病院の中には人が増えていた。日曜日だというのに、集中治療室以外の場所を行き来する看護師や事務職員とおぼしき人々の姿も見える。正義だけが世界においてけぼりにされ、眠り続けていた。
リチャードが一度洗面に席を立った後、みのるは正義の部屋を覗き込んだ。
相変わらず、正義は酸素マスクをつけて眠り込んでいる。間違ってもベッドの上で跳びはねる元気があるようには見えない。みのるはそこで夢の内容を思い出した。
正義が歌っていた。
みのるの大好きな歌を。
呼びかけてあげてくださいと医師は言った。
ビニールのカーテンの内側で、みのるは小さく口を開いた。
朝なので、朝らしい歌を。
「おはよう、おはよう、朝がきた、今日もいい天気……おひさまがキラキラ、お花も咲いてる……」
正義が時々歌ってくれる、『朝ごはんの歌』である。
起きたくなくてダラダラしている朝、リチャードが寝坊をしている朝などには覿面に効果を上げる。ベッドにさよならして、さあ服を着替えよう。目を覚まさなきゃじきに、ごはんがさめちゃう。
その先がおそらく、この曲のサビであった。一番盛り上がる部分である。正義はいつもそこに、朝ごはんのメニューをいれて歌った。白米、味噌汁、サラダに卵焼き。あるいはオムレツ、ヨーグルト、ストロベリーアラモード。だがみのるの元には朝ごはんなどない。
歌はそこで止まってしまった。
みのるの目から涙が落ちた。
「正義さん……正義さん、戻ってきてください。お願いです、起きてください……」
みのるは泣きながら正義の顔を眺めた。待っていたら目を開けてくれるような気がした。それがただのみのるの希望にすぎないとしても、みのるにできるのはただ眺めていることだけだった。
だが。
みのるがはっとし、正義に顔を近づけた時、部屋の中にリチャードがやってきた。みのるが振り向く。
「みのるさま? どうなさいましたか」
「まぶたが」
正義のまぶたがぴくぴくと動いたのである。
眼球反射というものが存在するので、眼がぐるぐる動いているように見えることもありますと、確かに医師からみのるも説明されていたが、それとは明らかに違う。
目覚めようとするような、力強さを感じる動き方だった。
「動きました! 歌が効いた!」
「……何が効いたと?」
「朝ごはんの歌です!」
みのるは早口に、おはようおはよう朝がきた、の部分を歌った。ひくりと瞼が動く。リチャードも目を見開いた。
「みのるさま」
「もう一回!」
みのるはもう一度、今度はもう少し正義に顔を近づけて歌った。メニューの部分は一番よく聞いた白米味噌汁サラダに卵焼きにする。ほかほかのあさごはん。できたてのあさごはん。
今度は正義のまぶたは動かなかった。
「……もう一回!」
みのるはもう一度、今度はフレンチトーストのあさごはんで歌ったが、駄目だった。
大きなチャンスを自分のせいで逃してしまったような、無暗にやるせない気持ちになり、みのるは再び泣きそうになったが。
リチャードがみのるの手を握った。
そっと自分の後ろに立つように促す。
「リチャードさん?」
「私もやってみます」
みのるは目を見開いた。どういうことなのかわからない。だがリチャードはそれ以上説明せず。
正義の耳元に顔を近づけ、口を開いた。
みのると、正義の手、両方を握りながら。
リチャードの唇から流れ出したのは、みのるが歌ったのと同じメロディだった。だが歌詞がまるで違う。おはようおはようの部分が、らうろらでぃびあんこ何とかになっているのである。
外国語の歌だった。
音楽室で朝ごはんの歌を少し歌った時、音楽の先生が「よくこんな曲を知っているね」と言ったことを、みのるは思い出した。
本当に存在する歌だったのである。
連隊の歌や、誰も寝てはならぬの歌のように。
正義が『日本語吹き替え』にしていたのである。
リチャードの声はどんどん大きくなり、台所で正義が歌っているのと同じくらいになってしまった。さすがに人が来るのではとみのるが案じていると、案の定看護師さんがやってくる。今にも「困ります」と言いそうな下がり眉にみのるは慌てたが、リチャードは気にしなかった。
ほかほかのあさごはん、できたてのあさごはん、にあたる部分の外国語を、リチャードは一際大きな声で歌った。あろうことか繰り返した。
「すみません、他の患者さまもいらっしゃいます。やめてください」
みのるは看護師さんとリチャードの間に立ちふさがった。歌い終えたリチャードが正義の顔をうんと近くから覗き込み、ほとんど怒鳴るような勢いで告げる。
「起きろ。起きろ中田正義! 起きんか! まだ私に言うべきことがあるはずだ! このまま目が覚めなかったとしてもお前の墓は私の墓と同じだとわかっているのか!」
「すみません、本当にやめてください」
みのるは退けられ、リチャードはつまみだされた。
病室からではなく、病院から。
「…………」
「…………」
朝になり、少しずつ人が行き交う病院駐車場の自動販売機の前で、みのるとリチャードは隣り合わせにしゃがみこんでいた。リチャードがみのるにいちご牛乳のジュースを買う。自分にはミネラルウォーターを。
ため息をつくリチャードの隣で、みのるは頷いた。
「……歌、効いたと思います」
「そうであってほしいと願います。しかし、確かにやりすぎましたね。追い出されても文句は言えません」
「…………あの」
さっきの歌は、本当は何だったんですか? と。
みのるが尋ねると、リチャードは朝の陽ざしの中で微笑んだ。
「あれは私と正義が二人で暮らしていた時から使われていた、朝のアラームのような曲です」
「めざまし時計ソング、ってことですか」
「そうですね。私がベッドの中で丸虫になっていると、彼があれを歌いながらどんどん近づいてくるので、一時はあの歌が恐ろしかったものです」
「やっぱり、朝のおかずを歌詞に……?」
「いえ、彼はもともとのイタリア語で歌いました」
イタリア語。みのるが目をしぱしぱさせると、リチャードは頷いた。
「あの歌は、もとはイタリア映画に出てくる歌なのです。『マティナータ』。『朝の歌』という意味になるでしょうか。彼の好きなオペラ歌手の十八番でした」
リチャードはみのるから視線を外し、空を見上げた。灰青色の夜明け空である。
唇には少しだけ微笑みが浮かんでいた。
「お調べになってみてください。みのるさまがもう少し大きくなられたら、よりよく歌詞の意味がわかるかもしれません」
わかりました、とみのるは頷き、それ以上は尋ねなかった。リチャードもそれ以上何かを話したそうな気配ではなかった。
うっすらと曇った、青灰色の空の中に、リチャードは何かみのるには見えないものを見ているようだった。
「……セレスタイト」
「え?」
「思い出していました。彼が大学生の時、私の目の色だといった宝石のことを」
セレスタイト、とリチャードは小さく繰り返した。
「宝石は、誰かの目に映らなければ石です。無人の森で発された木の倒れる音が、誰かの耳に届かなければ『音』にならないのと同じように、誰かが美しいと感じ、愛でることで、宝石は宝石として完成する。それは人間も同じなのだと、本当の意味で私に教えてくれたのは彼でした。おかしな話です。私にとっては、磨けば磨くだけ輝きを増してゆく彼の方が、ずっと宝石らしい存在だったというのに、彼はあかずに私を『生きた宝石』などと言う。もう十年も」
リチャードは俯き、目を伏せた。
「…………何故私は彼を買い物に行かせてしまったのか……もっと大事にすることができなかったのか……何故……」
「リチャードさんは、正義さんを大切にしてますよ!」
「…………」
「みんなそう言うと思います。リチャードさん以上に正義さんを大切にしていた人が、僕にはちょっと、思い浮かびません。僕と一緒に、ずっと正義さんと一緒にいてくれたのはリチャードさんです」
「…………ありがとうございます」
リチャードはみのるに礼をしてくれた。二人でしゃがんでいるので大して深い角度にはならなかったが、くたびれたみのるには、舞踏会でお辞儀をする王子さまのような優雅な礼のようにも見えた。
と。
「リッキー! 何してるのリッキー!」
誰かが車道の方角から歩いてきた。高そうなスーツ姿の金茶色の髪の男性で、みのるにも見覚えがあった。リチャードのいとこのジェフリーである。
困惑した顔のジェフリーは、二人の前で腕を広げた。
「外にいて大丈夫なの? 休憩中? それとも中田くんが目覚めた?」
「まだですが、私がつまみだされました」
「……病人を強奪しようとした? 困るよー、そういうのは僕と僕の弁護士を待ってからじゃないと成功しないって」
「冗談を聞きたい状況ではありません」
腰をのばしながら立ち上がったリチャードの隣で、みのるもよっこらしょと立ち上がった。空は晴れ始めている。ジェフリーは甘えるように小首をかしげてみせた。
「わかってるけど、元気を出してほしくてさ。後手後手だけど、とりあえず先に弁護士を行かせたから、面倒な手続きは全部彼に任せるといい」
「どのような方です」
「四十代の日本人。ダリみたいな髭をしててすごく有能」
「ダリ……」
ダリって誰だろうとみのるが思っていると、病院の夜間出入口から、南米のカブトムシの角のような髭を左右にはやした男性が走ってくる。全力ダッシュであった。ほらあれだよとジェフリーが指さす。噂をすればの弁護士であるらしい。
「起きました! 起きたそうですよ!」
激震が走った。
見たこともないほど速く走るリチャードに続き、みのるとジェフリーも駆け出した。
「中田さん、暴れないでください。今お薬が効いてきますから」
「薬はもういいんです! さっきリチャードが、リチャードがここにいて、泣いてたんです。謝らないと……」
みのるは病室に入る前から状況がわかった。正義の声がするのである。みのるを押しのけるように、リチャードが部屋の中に入った。歌を聞いていた看護師は目を三角にしたが、正義は叫んだ。
「リチャード!」
外してしまったとおぼしき酸素マスクが、左耳にひっかかってぶらぶらしていた。
駆け寄るリチャードに正義は腕を伸ばそうとし、点滴の針がつっぱって「痛い」と呻いた。看護師が呆れる。
「正義……」
呆然とした口調で告げるリチャードに、正義は顔をくしゃくしゃにして叫んだ。
「ごめん! ごめん、ごめん、ごめん! さっき夢の中で泣かせた」
みのるはあっけにとられた。集中治療室の入口で、ジェフリーと弁護士もぽかんとしている。
リチャードが口を開いた。
「…………夢?」
「ほら、さっき俺がスイスの高原で遊んでたら、お前がぼろぼろ泣いて……」
「看護師さん、申し訳ないのですがこちらの方に鎮静剤を。非常に頭がよくないようです」
「俺の頭がよくないのには十年家庭教師をしてる誰かの責任もあると思うぞ。あでっ、あだだ……! なあ、俺の頭、本当にどうなってる? 鏡ってあるか……?」
「寝ていろ。馬鹿者」
リチャードはビニールのカーテンを出て行こうとし、正義がそれを引き留めた。
「子ども二人はどうなった?」
「…………彼らは無事です」
「そうか」
よかった、と呟いた正義に背を向けて、リチャードが微笑んでいるのが、みのるの角度からはよく見えた。
集中治療室には医師と看護師がやってきて、みのるたちは部屋の外で待つことになった。よかったね、と肩を叩こうとするジェフリーの隣で、誰かがぐっとしゃがみこんだ。リチャードである。
「リチャードさん!」
倒れたのかと驚くみのるの側で、リチャードはぶつぶつと呟いていた。
「神よ、神よ、神よ……ありがとうございます……ありがとうございます……」
涙を流しながら手を組むリチャードの背中に、みのるはそっと腕を回し、その上からジェフリーの両腕が二人分の体をまとめて包み込んだ。
【つづく】