黒い跫音
「ただいまっ!」
四月下旬、金曜日の夜。
私――椎葉里瑠は、ファミレスのバイトを終えて早足で帰宅した。
(やば、あと五分で〈アソート〉の配信始まっちゃう!)
あわてて洗面所で手を洗う。暑いので背中まである髪を紫色のシュシュでまとめる。すると、お父さんがひょこっと顔を出した。
「里瑠、荷物届いてたぞ」
「! ありがとう!」
段ボール箱を受け取って二階に上がろうとしたら、お母さんが叫んだ。
「里瑠、夕飯は? お父さんのおみやげのケーキもあるわよ」
「バイト先でまかないもらった! ごめん! 今から〈アソート〉のライブ配信だからっ」
早口で答えると、両親は、
「なら仕方ないな」
「そうね。終わったら下りてらっしゃい」
と、あっさり返事した。
家族の団らんよりも推し活を優先するなんて、普通なら叱られそうなものだけど、うちの親は共にドルオタなので寛容だ。ありがたい。来月、バイトの初給料をもらえたら絶対にお返ししよう。
階段を上がって自室に入り、高校の制服から部屋着に着替えて、スマホで配信ページを開く。よかった、まだ始まってない。その間に、と届いた荷物を開けた。
先日通販した推し――世界一尊い四人組ボーイズグループ、〈アソート〉の初グッズだ。
「わーん、嬉しい! アクスタにアクキーに缶バッジにポスター! 貯金はたいてよかったー!」
涙目で視界がキラキラする。
特に購入特典の個別チェキが最高すぎた。
手のひらサイズの紙面に世界遺産級のイケメンが写っている。オールバックの前髪に凜々しい眉、鋭い目つきに色気ほとばしる口元。〈アソート〉の紫担当、ワイルドな俺様男子のアキさまだ。
「待っ……無理っ……!」
一生見ていたいのに目を逸らしてしまう。まぶしくて。顔が良すぎてつらい。いま私めっちゃ笑顔だけどつらい――
と、幸せに浸った時だった。
トン、トトン
閉めたドアの向こうで、足音が聞こえた。微かに、でもはっきりと。
「お母さん?」
騒ぎすぎたかと思って声をかけたけど、返事はない。代わりに、
トン、トン、……トン
また足音。
廊下を通って、……階段を下りていくような。
静まり返った部屋で、それはやけに耳についた。
指先が冷たくなる。腰を浮かしてドアに手を伸ばそうとしたら、
『みんなー! 見えてる聞こえてるー?』
小さな雑音の後、ハイテンションな男の子の声がした。びくっと肩が跳ねる。
スマホの画面が変わっていた。〈アソート〉のライブ配信が始まったのだ。
私はホッと息をついて、スマホを横向きに持った。
水色の壁に〈アソート〉のロゴが入ったタペストリーを掲げたスタジオ。四人のメンバーが一人掛けソファにそれぞれ座っている。
『金曜日お疲れー。赤の熱血リーダー、りゅーたやで!』
『今夜も一緒に元気になってくれたら嬉しーな? 黄色の朗らか末っ子、こーちゃんだよ?』
『SOUです、こんばんは。ああ、緑の癒やし系です』
右から順に、イケメンたちがアップになって自己紹介していく。個性の詰め合わせ《アソート》の由来にふさわしく、各自タイプは違えど顔面偏差値は軒並みバリ高だ。
でも私の心臓をぶち抜くのは、
『紫担当、AKI。おまえら、コメントで盛り上がらないと承知しねーぞ?』
(アキさまぁああああ!!)
と、叫びたいのを死ぬ気で堪えた。
一見横柄な物言いだけど、「コメントは遠慮せず送れ」というアキさまなりの配慮なのだ。ファンなら承知の上だ。事実、コメントが【アキさまの許しを得た!者ども送れ!】【こーちゃんの垂れ目メイクかわよ!】【そーさんの美声で浄化された】【りゅーた今日ブロッコリーいくつ食べた?】と猛スピードで流れていく。
私も【みんな半袖で、アキさまの上腕二頭筋たすかる】などと送る。気づくと謎の足音のことなど忘れ、指先に熱が戻っていた。
今日はファンネーム――ファンの呼び名を決める回だ。事前に募集したものに視聴者が投票し、集計する。
(ファンネが決まれば、SNSの投稿に付け足せるファンマークも決まるよね)
ファンマがあれば、推しを手軽に主張できる。
楽しみだな~とニコニコしていると、ふとあることに気づいた。
「あれ……?」
このひと、誰だろう。
りゅーたの真後ろに、男の人が背を向けて立っていた。
真っ黒なパーカーにジーンズ姿で、スタッフさんがマイクか何かの調整でもしているのかな、と思ったけれど。
その人は、ただ立っていた。
じぃっと、微動だにしない。
「……?」
すると、男の人はゆらっと動いてサッと移動し、画面の外に消えた。
変なの、と思いつつ、意識をメンバーに戻す。
『アンケの結果出たでー。〈ボックス〉か〈アソ担〉の二択やな!』
『アソ担の方が分かりやすいかな?』
ボックス希望と送ろうとした手が、――止まった。
また、同じ男の人が立っている。今度はこーちゃんの後ろに。
しかも奇妙なことに、その人は足踏みをしていて、……トントン、トン……と足音が聞こえてくる。
【さっきから、メンバーの後ろにスタッフさん映り込んでるけど、大丈夫なのかな?】
と、つい書き込んでしまった。
けど、コメントを送った、その数秒後。
【何言ってんの? メンバー以外うつってないじゃん】
そんな返信が流れた。
「えっ?」と声が出た。
(いやいや……そっちこそ何言ってんの)
どう見てもいるじゃん。
黒い服で、後ろを向いて、足踏みしている男の人。
後から思えば、バカなことをした。
こんなことコメントに書くべきじゃなかった――たとえ私の眼にはっきり〝視えて〟いても。
【は?】【怖】【冗談やめろよ】【ふざけてんの?】【誰もいないじゃん】
コメ欄の雰囲気が一気に変わった。私の書き込みを糾弾する流れになる。
【今はファンネを決める時間だとわかりませんか。迷惑です】【ウソついてメンバーの気を引きたいの?】【誰推しのやつ?】【アイコン紫だからアキさまっぽい】【リアコ多いとヤバいのも多いww】【これだからアキ推しは】【こんなのと一緒にすんな】
血の気が引いた。
さっきまでメンバーもファンも和気あいあいとしていたのに、私のせいで空気がぐっちゃぐちゃになった。
どうしよう。手が震える。息が苦しい。
メンバーもコメ欄の荒れように気づいて眉根を寄せる。アキさまの表情が苦々しくなったその時、黒い男の人が振り向いた。
目線がカメラと合う。……違う。
私を見ている。
目が、合っている――
ゴトン!
思わずスマホを落とす。推したちの背後にいる〝モノ〟がゆらめいて、……煙みたいに、消えた。
……トン……トン
足音が耳に届いた。
スマホから、じゃない。
すぐ近くから。
(あれ……?)
部屋のドア、閉めていたはずなのに。
なんで……半開きになってるの?
ドアの隙間から廊下が見えた。見慣れた場所なのに薄暗くて、妙に怖い。
また、足音。階段を上がってくる。真っ暗なまま上がってくる。両親なら電灯をつけるはず。誰? 家には私と両親しかいないのに。
……あの、黒い男の人……
足音が近づくにつれて、脳内で嫌な想像が広がった。
あれが。
黒い服で黒い目をこっちに向けた黒い男が。
推しの元から私の元に――来、た……?
足音が止まる。立ち止まったのだ。
階段の影から、にゅっと闇色の小さな足が出てき――
『おい、いい加減にしろ』
指一本動かせない中、胸に強く響く声が届いた。
スマホに目をやると、アキさまがタブレットを見ながら、呆れたように肘掛けに頬杖をついた。
『つまんねーことで騒ぐな』
大荒れのコメ欄を、アキさまが諫める。
『や、でもアキちゃん、荒らしコメはみんな怒るよ』
『荒らしと決まったわけじゃねーだろ。なんかの勘違いかもしんねーし。……つか、そんなもん相手にすんな』
アキさまが、長い足を組みかえた。
『おまえらは、俺らだけ見てりゃいいんだよ』
片眉を上げて笑い、推しは自信満々威風堂々と言い切った。王者の笑み。椅子が玉座へと変わる(幻覚)。
「……ぅぐっ……!!」
ぶわっと何かがこみ上げて、顔も耳も熱くなって私は悶えた。
『そんでファンネはボックスで。俺が決めたから決定な』
『えぇー? まあアキちゃんがそう言うなら……』
『うちの王子さまは、仕方ないね』
『ほんならボックスで。みんなよろしゅーなー』
推したちの尊いやりとりに、次第にコメ欄の空気もゆるんだ。
【アソ担派だったけど賛成!】【アキさまマジ絶対的勝者】【俺様たまらんハァハァ】
(……アキさまって、すごい)
たった一言で、大勢の空気を変えちゃうんだ。
改めて推しの偉大さを痛感すると同時に、うぬぼれる。
庇ってもらえたのかも、……なんて。
「……やっぱり、すごく好き……」
何度目かの『好き』を、実感した。
配信が終わる。――と、改めて気になった。
あれは何だったのか。
男の人も足音も。
SNSで検索してみると、こんな投稿があった。
【〈アソート〉が使ってたスタジオ、男の幽霊が出るって噂あるよ。心霊系VTuberの番組で観た】
へえ、心霊系VTuberなんてのがいるのか。
なら私が見たのは、幽霊ってこと?
あの足音も……?
部屋の外、廊下に目を移す。変わらず暗いけど、もう怖さは感じない。
「いやいや……無いって」
だって私、今まで幽霊とか見たことないし。
何かの勘違いだろう、うん。
……でも。
階段の影から見えた、足。
大人のものじゃなかった。
小さな……幼い女の子の足、だったような……
「ま、ただの見間違いだよね」
そんなことより推しだ。ライブ配信の感想つぶやいて、オタ活ノートに記録して、グッズで祭壇も作らなきゃ。
奇怪で異様、非日常的な出来事の記憶は、推しへの愛で上書きしてしまおう。
そう思って、両親とケーキが待つ階下に向かった――のだけど。
この時の私は想像さえしなかった。
推しと、幽霊――怪異。
私にとっては『現実』でなかったものたちが、こんなにも近い存在になるなんて。
【おわり】