エメラルドの瞳

ロンドンは雨が降っている。カレッジの図書館で、文献を読みあさる日々が続き、千景は頭の中がどっぷり中世に浸かっている。それも、魔術や悪魔に関するものが多くて、目つきが悪くなったと周囲に指摘される。
大学へ戻るために再び渡英し、博士候補生の資格を得た千景は、論文執筆のための研究に励んでいるところだ。
しかし、千景の専門である図像術は文献が極端に少なく、美術史関連以外にも、外堀を埋めるようにあらゆるジャンルから情報を得なければならない。古い書物から、目当ての資料をさがすのも一苦労で、イギリス中のあちこちの蔵書を調べては取り寄せる必要もある。
そうこうしているうち、ふと気がつけば、長いこと透磨と連絡を取っていない。そもそも彼からは、メールも電話も少ない。祖母の鈴子や瑠衣とは頻繁に連絡し合っているのにと、少々物足りない気がする。
かといって、自分から連絡するのは二の足を踏む。何を話題にすればいいのかわからないし、用事もないのに、面倒くさいと思われないだろうか。それに、向こうが何も言ってこないのに、こちらからというのも、折れるようで癪だ、などと意地を張ってしまうところもある。
余計なことが頭に入り込むと、資料を読んでも身が入らない。千景はため息をついて本を閉じる。休憩しようと、カフェスペースへ向かったとき、携帯電話が鳴った。
急いでメッセージを確認すると、透磨からだ。
〝明日、ロンドンへ行きます。時間ありますか?〟
それだけだ。ずいぶん一方的でそっけない。
「チカゲ、何かいいことあった? にやけてるよ」
急に背後から声をかけられて、あわてて携帯をポケットに突っ込む。
「な、何もないわよ」
同じ寮で暮らすエイミーだ。アメリカからの留学生で、あまり他人に興味を示さない千景にも、屈託なくからんでくる。
「もしかして、彼氏から?」
「彼氏……じゃないけど……」
返事に戸惑う千景は、自分たちがどういう間柄なのか、説明する言葉が見つけられない。彼とはずっと、幼なじみで許婚だった。今もそうかというと、少し違うような気がする。お互いに、祖父が決めた〝許婚〟という言葉に縛られることなく、自分の気持ちで、お互いの理解者であろうとしている。恋人になるために、それ以上に何が必要なのか、千景にはまだよくわからない。
今のところ、自分の道を究めることで精一杯なのだ。
「でも、うれしい人からなのね。うん、よかった、チカゲも研究以外に楽しいことがあるんだって安心した」
「そりゃあ、あるわよ」
と言ったものの、以前は楽しめることも、興味の持てることも、美術に関わることしかなかった。誰かが、エイミーみたいに千景のことを気にかけてくれても、ありがたいとも思わなかったけれど、今は、そんな周囲がどれだけ貴重かわかるようになった。
「ねえ、エイミー、わたし今、ひどい顔してない?」
「うん、してる。目の下にクマがあるし、髪の毛もパサパサよ」
「やっぱり。どうしよう……」
「その人に会うの? いつ?」
「明日着くみたい」
「わかった、わたしにまかせて!」
翌日、透磨は、カレッジまで迎えに来た。昨日の雨も上がり、めずらしく青い空が覗く。こんなに気持ちのいい日なのに、久しぶりに会ったのに、彼はいつもの無愛想な態度で千景をレンタカーに乗せ、会話らしい会話もないまま車を走らせる。
「どうしたの、急に。こっちへ来るならもっと前もって教えてほしいわ」
「急に仕事が入ったんです」
仕事でロンドンへ来たようだ。たぶん、千景に会いに来たのはついでだろうけれど、素通りされるよりはいいと思い直す。
「それで、今からどこへ?」
エイミーにメイクをしてもらったおかげで、顔色もよくなったし、ふだんよりイケている、と思う。めずらしくまとめた髪も、大人っぽく見えるはずだ。しかし透磨は、それらについて何の感想も口にしない。
「リッチモンドです」
でもまあ、いつものことだ。
「ふうん」
透磨はといえば、まったく変わりない。トラッドなスーツにラベンダーカラーのシャツ。完璧に着こなしているけれど、いつもどおりでほめるところが見つからない。こっちをよく見てほしいから、そう伝える代わりに、千景は透磨のことを観察する。
「そのラペルピン、きれいなエメラルドグリーンね」
ジャケットのフラワーホールを飾るピンがおしゃれなデザインだったので、そこをほめてみることにした。
「ああ、これは鈴子さんが、統治郎先生のものを譲ってくださったんです」
祖母のアドバイスか。どおりで、と納得する。祖父の此花統治郎は趣味人だった。
「七宝に金彩、おじいさんらしいわ」
それから千景は少し待ってみたが、透磨が何も言わないので、話題を戻すことにする。
「で、リッチモンドで何をするの?」
「絵を買うんです」
かわいめメイクも台無しになるくらい、眉間にしわが寄ってしまった。
「それって、今から仕事ってこと?」
「そうです」
デートじゃないの? と言いそうになるのを呑み込む。
「どうしてあなたの仕事に、わたしがつきあわなきゃいけないのよ」
「呪われた絵だそうで」
「えっ、本物?」
「わかりませんが、所有者が絵のせいで亡くなったと話題になったので、僕の顧客が興味を持ったんです。これから買い付けに行くので、千景さんの意見も聞かせてもらえますか」
デートではなくても、千景にとって、前のめりになるような情報だった。
千景は、西洋美術史における図像学を研究している。中でも、図像術という魔術的な効果があるという絵画について学んできて、博士論文に挑んでいるところだ。
西洋では、絵画の中に描かれた様々な図像は、ただのモチーフではなく、それぞれが独自の意味を持って、テーマを示してきた。〝時〟は老人の姿で描かれ、弓矢が描かれていれば〝恋〟を意味する。 百合は〝純潔〟や〝聖母マリア〟の象徴で、羊なら〝犠牲〟や〝キリスト〟、車輪は〝運命〟、天秤は〝公平〟、と様々だ。
ただの静物画に見えても、図像が持つイメージの奥へ潜り込めば、深い意味が込められていて、言葉とは違う、心に直接流れ込むかのようなメッセージを訴えかけてくる。
そんな、図像の裏に喚起されるイメージを組み合わせ、編み上げて、見る人の心に作用する絵画に仕上げたものが図像術で、主に人を操り精神的にダメージを負わせる方向に使われたものが、「呪われた絵」として言い伝えられてきた。見た人を死に追いやるものもあるというが、現存するものはごくわずかで、もちろん研究者以外は見ることができないようになっている。
どこかにひっそりと保管されていたものが、発見される可能性はあるが、本当に図像術が使われているものはまれだ。
今回、透磨が見つけてきたものは、本物だろうか。千景なら見分けることができる。
「所有者が死んで、その絵は他の人が見られないようになってるの?」
「部屋は故人しか出入りしていなかったそうですが、死後に遺族がそこへ入って絵を見ています」
「その遺族が何ともないなら、図像術じゃないわ」
「まあそうですね。でも、その絵を買い取る前の持ち主も、若くして亡くなっているんです」
ダッシュボードにあったタブレットを、透磨はよこす。話題になったという、タブロイド紙やネットの記事がまとめてあったので、目を通した。
ロバート・ダウニー氏(享年五二歳)は、自身で財を築き、リッチモンドに広い屋敷を持つ資産家だ。しかし、四十代で事業を人に譲り、隠退生活をしていたという。骨董が好きで、書斎はそういう古いものであふれていたが、あるとき、蚤の市で見つけた絵を購入してからというもの、異常に書斎へこもるようになり、誰も部屋に近づけなくなった。そうしているうちに体調を崩し、見る見る痩せていって死亡した。
問題の絵は、蚤の市に出される前にはとある収集家が所有していたが、彼も四十代で亡くなっている。もともとはヨークシャーの男爵家にあったというが、その一家は不審死が続いて没落したという。
「なんだか、噂レベルの話ね」
「事前に、調査してもらいました。それによると、前の持ち主である収集家はアーサー・リンゼイ氏。実在していますし、彼の死後、コレクションは骨董商に売り払ったのですが、価値がないと判断されたものは買い取ってもらえなかったとか。そのひとつが問題の絵で、リンゼイ氏の家族がチャリティのアンティークマーケットに出したところ、ダウニー氏が買い取ったようです」
リンゼイ氏の家族も、絵の影響は受けていないようだ。
「ヨークシャーの男爵家は実在するの?」
「それは判明しなかったのですが、リンゼイ氏は、旅先のヨークシャーの骨董店で買い、店主にそう聞かされたと周囲に話していたそうです」
骨董店も、ヨークシャーというだけでは特定できないだろう。
「そんな縁起の悪い絵をよく買う気になったのね」
「縁起の悪いものが好きな人もいるので」
「あなたの得意客もね」
収集家のリンゼイ氏も、なかなかの変人だったのか。一方で、ダウニー氏は、リンゼイ氏の死後に購入した。何も知らなかったのだろうと思われる。
「とにかく、持ち主がふたり、亡くなったわけね」
「はい、どちらも癌で」
「癌? 病死じゃない」
「図像術での病死もあり得ます」
「それは、心が病むことで体も弱るってことよ。死因が癌って例は知らないわ」
「とにかく、実際に絵を見ればわかることです」
ダウニー邸では、彼の未亡人が出迎えてくれた。おだやかでやさしげな女性で、ダウニー氏と同年代だろうけれど、美しい人だった。
日本から絵を買い付けに来た透磨に、初対面でも親しげに接する。ダウニー氏はきっと、お金持ちの変わり者だろうと思っていたが、夫人からは、そんな気配は少しもなかった。 彼女は早速、ダウニー氏の書斎へと案内してくれた。
「とてもきれいな絵なんですけど、絵としての価値はないと、知り合いの画商からは聞きました」
「作者不詳だそうですね」
「そもそも、名のある人の作品ではないんでしょう。古いがらくたをまとめて売っていたそうで、その中のひとつだったんです」
書斎は、長い廊下の突き当たりにあった。生前は、家族もあまり近づかなかったという。ダウニー氏が、コレクションに触れられるのを好まなかったからだそうだ。
「妙な噂が立ってしまって、骨董商や美術商には引き取りを拒否されるし、捨てるに捨てられなくなりました。わたしのことを、遺産目当ての妻だと陰口をたたく人にとっては、おもしろい話なんでしょう。夫を呪い殺しただなんて、ほとほと疲れ果てました」
「まったく、ひどい話ですね。ダウニー氏は、貧しい生い立ちから身を起こしたとうかがいました。人を見る目は一流だったはずです」
皮肉屋の透磨が、相手を思いやる言葉を発するなんて、千景は営業用の彼にはいつも驚かされる。奥方はほっとした様子で、表情をゆるめる。
「日本から、わざわざあの絵を買いに来ていただけるなんて。ロンドンのオークションでも信頼の置けるかただと聞いて、安心したんですの。とにかく買い取っていただけるなら、新たな持ち主には何事もないと、馬鹿げた噂も消えてくれるといいんですが」
「もちろん、誰が買い取っても何事も起こりえませんよ」
図像術の可能性を、透磨は見る前から否定する。しかしもし、図像術があったなら、むしろ買い取るべきだし、適切に保管すれば、今後の被害は防げるだろう。
書斎のドアが開くと、薄暗い部屋は窓が極端に少なかった。そのうえすべてに厚いカーテンがおろされている中、正面の壁に掛けられた絵は、間接照明から浮かびあがる。
八号くらいのカンバスに、女性が描かれていた。ヴィクトリア朝の青いバッスルドレスを身に纏い、頭を包むやはり青のボネットからは黒い髪が覗く。少し振り返った姿勢で、こちらに向けられた白い顔は、いくらかデッサンが狂っているものの、魂がこもっていると思える絵だった。描き手は、その顔に自分の技術も心も込めた。何よりも、エメラルドグリーンの瞳に惹きつけられる。少し憂うような表情の奥で、強い輝きを発している。彼女は何を見つめているのだろう。
周囲は、瞳の色に似た緑の園だ。木々の隙間に、心惹かれる誰かを見つけたかのようだった。
「印象派ふうですね」
「そうね。印象派を模倣したんでしょうね」
奥方に許可を得て壁からおろし、手袋をしてカンバスや絵の具の状態を確かめる。おそらくは、十九世紀末の印象派が有名になった以降に描かれたものだろうし、図像術が使われていないことも、一目瞭然だった。
「この絵を買ってから、ご主人の様子がおかしくなったというのは、本当ですか?」
「書斎にこもるようになって、わたしたち家族が話しかけても上の空だったりすることが多くなりました。夜も眠れないと言うようになって」
「ご病気が判明したのはその後で?」
「はい、さすがに体調がおかしいので、診てもらったら、もう末期で手の施しようがなくて……」
病気の悪化が、たまたま絵を買った時期と重なったのではないかと千景は思う。しかし、前の持ち主も同じく病死しているのは、偶然の一致だろうか。
「いろいろとまとめて買ったそうですが、他に絵はありませんか?」
「絵はそれだけです。主人の骨董趣味はどちらかというと、古い銀製品なんですが、なぜかその絵はとても気に入っていたようで、まとめて売っていたものに銀製品は入っていなかったのに購入したんです」
書斎には、ずらりと並ぶキャビネットに、ぎっしりと銀製品が並べられている。食器やカトラリーはもちろん、壺や動物の置物や、マリア像や天使像など、あらゆるものがコレクションされていた。
「いっしょに買ったのは古書で、デスクの上に」
彼女が言うように、重厚なオークのデスクに、古い本が積まれていた。どれも立派な本だったので、絵画を調べた手袋のまま、千景はひとつ手に取る。革の装丁は、細かな打ち出し模様があって、色を染めた草花の文様がレースみたいで印象的だ。ダウニー氏の名前入りの栞がはさんであるので、読みかけていたのだろう。
本を置いて、もう一度絵を眺める。ダウニー氏の死因と絵は、無関係だと思われる。そして、前の持ち主の死も偶然の一致か。しかし、千景は何かが引っかかっている。
この絵は危険だ。なぜか、心の奥が警告を発している。そもそも千景は、見たものをそのまま記憶する能力があり、無意識下で視界にある情報をすべて受けとることができるし、それを意識化することもできる。目に見えるものすべてに、ふつうなら気づかないような意味を読み取ってしまう。そのため、幼いころから人とは違っていて、疎外されてきたが、一方で図像を読み取る能力に優れていたため、イギリスで学ぶ機会を得た。
そんな千景に、目の前の絵は、図像術とは違う何かで意識を刺激する。なんだか気分が悪くなる。
「千景さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「ええ……、ちょっと、すみません、外の空気を……」
透磨に支えられて、千景は書斎を出た。
風通しのいいサロンで少し休めば元気になる。ダウニー夫人が淹れてくれたレモンティーも、頭をすっきりさせてくれた。
「もしかして、絵のせいでしょうか」
彼女は不安げな様子だ。
「いえ、あれは、人に影響するほどのものではないと思います。ごめんなさい、わたしの体調のせいです」
このところの忙しさで、食事も睡眠も足りていなかったため、めまいを起こした。けれど、最近読んだ文献に、毒のある絵について記述があったことを思い出し、女の絵についてもわかったことがある。
「人に影響するほどではない、というのは?」
透磨は、千景の発言を聞き逃さなかった。
「あの絵には、毒のある顔料が使われています。昔から使われた天然の顔料とは違って、合成のもので、とても発色がいいので、禁止されるまでは盛んに使われていたし、その後も好んだ画家は少なくありません。おそらくあれを描いた人も、色に惹かれて使ったんでしょう」
「毒……」
ダウニー夫人は、衝撃を受けたように声を詰まらせる。透磨が問う。
「絵のどこに使われているんですか?」
「エメラルドグリーンの瞳です。とても美しい緑色の顔料ですが、ヒ素を使っています」
ヒ素と聞いて、透磨がつぶやく。
「パリスグリーン……」
「そう、十八世紀に発明され、十九世紀の絵画にもよく使われています。ゴッホも好んだ色です。絵の具として使うならまだしも、かつては、パリスグリーンで染めた食品や衣類もあって、ヒ素中毒で亡くなった人もいるそうです」
「なるほど、直接触れなくても、気化したものが少しずつ体にたまって、中毒や癌を引き起こすこともあるらしいですね」
「それじゃあ、主人はヒ素のせいで……」
「いえ、目の色だけで、周囲の木々の緑は、別の顔料ですね。だからごく少量ですし、絵に執拗に触れることは、そうないと思います。顔料が落ちるほどこすったとか、そんな痕跡もなかったので、ご病気は絵のせいではないはずです」
「では、売ったとしても、新しい持ち主に害が及ぶこともないんですね?」
「はい、問題ありません」
夫人はほっとしたようだ。これで透磨が買い取れば、顧客も満足する。曰く付きの絵を欲しがるくらいだから、パリスグリーンを使った絵に興味を持つだろうし、適切に扱うだろう。
しかしまだ、ダウニー氏とリンゼイ氏の死因は偶然と片付けていいのかどうか、千景は悩んでいる。偶然でないなら、何か危険が潜んでいることになる。見落としてはいけない。
絵は、おそらく素人画家の作品だから、男爵家にあったとすると、注文したものではないだろう。もしかしたら、男爵自身や、家族の誰かが描いたのではないだろうか。
当時は、危険な顔料を知らずと別のものにも使用していた。家具や壁紙に塗装されたこともあるし、パリスグリーンで染めたドレスでは、死人も出たという話だ。広範囲に使われたり、直接肌に触れたりすれば、毒を吸収する可能性は高まる。男爵家でも使っていたとすると、家族が次々に不審な死を遂げることもあり得るだろう。
でも、ダウニー氏の書斎の、壁や家具に、緑の色彩はなかったのに。
当初の予定どおり、絵は買い取ることができた。透磨は千景を寮へ送り届け、今日は休んでおくようにと命令口調で言うと、慌ただしく出ていった。
早速、絵を日本へ送る手配をするのだろう。本当に仕事に来ただけなんだ、とため息がこぼれる。でも、日本にいたときと変わりない彼に、ほっとしている自分もいる。透磨は誰よりも特別で、大切な人だけれど、恋人みたいになれるのか、まだはっきりと答えが出せない千景にとっては、これくらいでちょうどいいのかもしれない。
横になっているうち、うとうとと眠り込んでいた。夢の中でも博士論文に追いかけられてよく眠れないことが多いけれど、今日は不思議と頭の中がすっきりしていた。
大量の書物から、あっという間に目当ての文献を見つけるという夢だったのだ。ああこれだ、長年行方不明になっていたという、問題の書物。とうとう見つけた。
ページを繰ると、文字が躍り出す。千景の周囲で渦を巻く。単語はそれぞれの意味を持つ図像になり、文章は画像となって動き出す。
千景にとって、読書はいつもこんなふうだ。文章と自分の感覚がシンクロすると、絵画を見るように一瞬で全体を見渡せる。どこに自分の知りたいことが書いてあるのかもすぐにわかる。
本を読むことと、図像を読むことは、千景にとって同じようなものだ。
見つけ出した書物と、文字と戯れながら、千景もダンスをしている。周囲に光が差し、文字が薄れていくと、古びた漆喰の色が目に入ってくる。自室の天井だ。
夢から覚めた千景は、キッチンの物音に気づいて体を起こす。ソファで眠ってしまっていたが、体には毛布が掛けられていた。
いい匂いがする。同時に空腹を意識すると、透磨がキッチンから顔を出した。
「起きましたか。昼食、まだでしょう? 僕も食べ損ねてるので、いっしょにどうですか?」
匂いに釣られて、素直にダイニングテーブルにつく。
「これ、にゅうめん? 透磨がつくってくれたの?」
「日本食も、こちらで買うと高いので、少し持ってきたんです」
「こっちに住んでたときも、おばあさんがよく和食を作ってくれたわ。うん、おばあさんのと同じ味」
「教えてもらいました」
透磨との関係は以前と変わらないけれど、ちょっとだけ近くなった。そう思えるのは、やっぱりうれしい。お出汁の味に体の内側からほぐされていくのも、透磨といっしょだからだ。
「おいしい……」
つぶやくと、彼はかすかな笑顔になった。
「あと、寝るなら鍵をかけたほうがいいですよ。寮といっても、ここはアパートみたいなものですから」
つい、うっかりしていた。
「博士論文って、思ったより大変だわ」
「そりゃあそうでしょう」
「目当ての文献が、あるはずなのにないの」
透磨になら、共感してもらえるだろうか。この国の、大雑把で大胆で、無意味や無駄を蓄積し、役に立つかどうかわからないまま呑み込んで、いつか不意に大発見をもたらす風土のようなものを。
「どういうことですか?」
「十七世紀末ごろの魔術書で、読んだ人が何人も死んでるって噂のものがあって、図像術との関連が以前から疑われてるの。文字なのに、図像術ってあり得るのかよくわからないし、調べてたら、大英博物館に収蔵されたって記述があって。でも、見つからないのよ」
透磨は当然のように頷く。
「あそこは、世界中からの収集物で溢れかえってますからね。未整理のものも多いし、むしろ発掘調査が必要でしょう」
「そうなのよね。館内にあるのか、それとも流出してしまったのかもわからないし……」
「書物のタイトルは?」
「新天文学」
当時は、魔女狩りの吹き荒れた時代だ。激しい弾圧をかいくぐって手に入れた魔法書に、別の書物のタイトルをつけて製本することもあっただろう。
「ケプラーの著書に偽装してるんですね」
「そうよ、ラテン語で、『Astronomia Nova』……あっ!」
唐突に思い出し、千景は声をあげた。
「あの本、英語で『New Astronomy』って、『新天文学』って書いてあったわ。ダウニー氏の書斎にあった本よ」
「もしかして、絵といっしょに買ったという古書ですか? そんなタイトルでしたっけ」
透磨は首を傾げる。
「でも、あれが英訳した『新天文学』だとしても、大英博物館所蔵のグリモワールかどうかは」
「ええ、別の本かもしれない。でも、あの本で人が死ぬ可能性があるかもしれない。ああもう、どうしてあのときに気づかなかったのかしら……」
「まさか、あれに図像術があったんですか? それでダウニー氏は亡くなった……?」
「違うわ、図像術じゃない。あの本、緑色の装飾があったのよ。絵のパリスグリーンには気づいたのに、装丁にもあの顔料が使われてるなんて」
「緑色の装飾があったのは、『新天文学』だけですか?」
千景は、見たままの画像を思い浮かべ、自分で自分の記憶を確認して頷く。
「実際に顔料を分析してみないとわからないけれど、厚みのある束も同じ緑で塗られていたから、ページをめくるごとに触れてしまうことになるわ」
本は、絵とは違い、必然的に手で触れることになる。それに、ページをめくりながら指を舐める人もいることを考えると、毒が体に入ってしまう可能性が高い。
「そんな……、まるで人に危害を加えるような本じゃないですか」
「ええ、たぶん。グリモワールは所持してるだけでも魔女狩りに合う危険があったし、もし他人が不用意に手にしたら、その人に危害を加える意図があったとしても不思議じゃないわ」
現にダウニー氏は、その本を読んでいた形跡がある。病死の原因になったかどうか、断定することはできないが、可能性はあるだろう。
おそらく、古物商のリンゼイ氏も同様だ。絵といっしょに入手した古書が、『新天文学』に偽装したグリモワールだと気づき、しかし毒には気づかずに、興味を持って何度も手を触れたのだ。
「とにかく、ダウニー夫人に連絡しましょう」
翌日、千景は透磨とともに、再びダウニー邸を訪れる。連絡を入れておいたので、夫人は書斎へ近づかないようにしたという。少々不安げな様子でふたりを迎えた。
透磨は手袋をして、本を開く。
「本文は、グリモワールのようですね。魔術やまじないの手順が記されています」
やはりこれは、一度は博物館に収められたものだったのではないか。そこからたまたま誰かが持ち出し、人手に渡ったために、館内で見つけられなくなっていたのだ。
「やっぱり、主人は絵に呪われたようなものです。絵を買わなければ、こんな禍々しい本に触れることもなかったのですから」
夫人は、本が目に入るのもいやなのか、ずっと顔を背けている。
「ご主人は、あの絵のどこに惹かれたんでしょうか」
少し考えて、夫人は目を伏せた。
「主人の親戚が、ちらりと言ったことがあります。どことなく主人の母親に似ていると。その人は、エメラルドグリーンの瞳で、黒い髪で、美しい人だったとか。でも、ずいぶん若くして亡くなったそうで、主人にとっては、おぼろげな記憶の中にしかない人だそうでした」
あの絵に、ダウニー氏は、母親の面影を見ていたのか。
「少し、わかるような気がします。僕も幼いころに母親を亡くしました」
透磨の言葉に、夫人はおだやかに頷いた。
「主人は、心優しい人でしたが、心の内はずっと孤独だったんでしょう。わたしは一度離婚していまして、小さなレストランで働いていたんですが、そのときに話すようになって。お互いに遅い結婚でしたけれど、その後の人生は、豊かな時間でした」
陽だまりのような記憶だと、千景は思う。屋敷のサロンは、まさにその日だまりだ。サンルームから差し込む陽は、庭の木もれ日を纏って、鮮やかな緑に輝く。
「彼にとっては、母親は特別だったんです。たとえ晩年がおだやかでも、幼いころの孤独は埋められない。わたしが黒髪でなかったら、ここにはいなかったと思います」
「お母さまの面影が大切でも、心惹かれる黒髪は、とっくにあなたになっていたんじゃないでしょうか」
「だといいんですけど」
微笑む夫人は、まぶしそうに目を細める。彼女の瞳には、美しい庭の風景が映っていることだろう。
ダウニー氏にとっての特別な女性、エメラルドグリーンの瞳は、この人のことなのではないかと、千景はふと思う。彼自身、気づいていなかったかもしれないけれど、ここで彼女と語らう時間を愛していたはずだ。緑の庭を瞳に映す彼女のことを。
だから、あの絵にも惹かれた。
図像術などなくても、人の心をつかみ、動かすものがある。必ずしも、世間に認められた芸術品だとは限らない。
美しく鮮やかな色を求めて、画家たちは幾世紀もの間、その身を毒にさらしながら、渾身の絵を描いた。危険な顔料は、すでに絵の具から消え失せたけれど、心を動かす色が、形がある限り、図像は意味を持つ。図像術という、人の心に忍び込む力も、消え失せることはないのだろう。
*
「これで一件落着ね。わたしも参考文献を見つけることができたし、透磨のおかげよ」
「あんまり無理をしすぎないでくださいよ」
しかし透磨は、一件落着とは思えない様子だ。帰り道の車内で、深いため息をつく。
「あなたの集中力は、それこそ危険なレベルで働くんですよ。鈴子さんがいつも気を配って休ませていたくらいなんですから」
「子供のころのことよ。自分でコントロールできるわ」
「どうでしょうね。大人の暮らしをしているとは思えませんが」
部屋が散らかっていたり、食事も適当だったり、しばらくベッドで眠っていないとか、色々バレてしまっている。
「ちゃんとするわよ。忙しいでしょうから、早く帰ったら?」
子供扱いされるのは不満だ。とくに透磨には、つい不機嫌な態度になる。このへんが子供っぽいと自覚しながらも。
「残念ですが、しばらくいますよ。思いのほか、仕事が早く片付いたのでね」
本当のところ透磨は、仕事と言いながら、千景の様子を見に来てくれたのだ。
「じゃあ、しばらくおいしいものつくって」
「あなたの料理人じゃありませんから」
冷たく言い返しながらも、彼はハンドルを切る。
「どこへ寄るの?」
「スーパーマーケットに」
「ちらし寿司が食べたいわ」
「しっかり食べてもらいますよ」
【おわり】