2026年ノベル大賞 選評/三浦しをん

小説で現代的な問題を取りあげる際は、当事者の苦しみや実態に渾身で向きあう必要がある。


 まず、最終候補作五作を拝読して、全体的に気になったこと、考えたことを述べる。

 ひとつは、「テクニックとしての章タイトルのつけかた」だ。
 候補作のいくつかは、章タイトルで、その章になにが起きるかをネタバレしていた。いま例を作ってみると、自宅に泥棒が入るという展開を迎える章の章タイトルが、「泥棒を捕まえた!」となっているような感じだ。
 これだと、「なるほど、泥棒が入って、その泥棒を捕まえるんだな」と、章タイトルを見た時点でわかってしまう。親切と言えば親切だが、若干、読む楽しみが失せる(読まなくても、さきの展開および顚末を予告されているからだ)。章タイトルは、そのものずばりすぎる直球を避けたほうがいいのではないか、と感じた。
 小説は「説明」ではない。行間を汲み取ってもらえるように書くものだ。当然ながら、章タイトルも行間を生じさせる要素のひとつだ。その章でなにが起きるのかを「説明」するのではなく、なにが起こるのかなと「期待」させるような章タイトルを心がけるといいかなと思う。

 もうひとつは、「ルッキズムと恋物語の食い合わせ」だ。
 これについては私の考えがまとまりきっていないところもあるのだが、直観として、ルッキズムと恋物語の食い合わせは悪い(成立させるのがむずかしい)と思う。
 ルッキズムの問題を取りあげるのは、昨今の流れというか風潮を鑑みると、極めてまっとうだし、大事なことだろう。ただ、たとえば自分の容姿に自信のない女性が、「外見を気にしすぎるのはやめにしよう。私は私らしくあればいい」と思い至る、というストーリーラインと、「そんな私が、(たいがいは見目のいい)男性と知り合い、なんだかんだあって恋が成就して幸せになりました」というストーリーラインは、構造としてバッティングするというか、事態の根本的な解決(打開)にはならないのではないか、という気がするのだ。
 外見を気にするひと(ここでは女性)は、他者に見初められたくて、髪形や化粧や服装を試行錯誤したり、ダイエットや整形に打ちこんだりするのだろうか? そういうひともなかにはいると思うが、たいがいは、「自分にとっての理想の姿形」になるためにがんばったり、「自分なんて」とへこんだりするのではないか? つまり、他者から「かわいいよ」「愛してるよ」といくら言われようとも、自分で自分(の姿形)に満足できなければ、なんの意味もないのではないかと思われるのだ。
 となると、ルッキズムに囚われている「私」のまえに、素敵な男性が現れ、彼との恋が成就したとしても、物語の構造としては破綻していると言えるのではないか。恋はルッキズムの救いにも解決にもならないはずだからである。もし、だれかに「愛してるよ」と言われたぐらいで解けるのなら、その程度の呪縛は、ただ単に「だれかに愛されれば解決する」ものだったのであり、ルッキズムではないのではないか。過激なダイエットや整形に打ちこむ人々の心は(そして、そういう人々を生み出す要因のひとつである社会の構造は)、そんな単純なつくりはしていないのではないかと思えてならない。
 昔ながらの、「素敵な異性に愛されて、満たされ救われる自分」という物語構造は、(経済的、社会的)自立を求められ、しかし旧来の価値基準(容姿の端麗さ、結婚・出産してこそ一人前など)をも押しつけられている現在の我々にとって、効力を発揮しにくくなっている。だれかに愛されれば万事解決するような、単純な世界には生きていないからだ。それゆえ、「素敵な異性に愛されて(以下略)」というストーリーラインに、現代の社会問題にもなっている「ルッキズム」をぶつけるのは、やはり食い合わせが悪いとしか言いようがないと思うのだ。
 もし、「素敵な異性に愛されて、満たされ救われる自分」という話を書きたいのなら、現代的なルッキズムの問題はなるべく絡めず、そのストーリーラインに全振りしたほうがいいのではないか、という気がする。「素敵な異性に愛されて(以下略)」という話自体は、いつの時代も一定の需要(うっとり)があるからだ。
(ルッキズムにかぎらず)現代的な問題を取りあげる際は、当事者の苦しみや実態に渾身で向きあい、想像したうえで、小説としてどういう構造にするか熟考する必要があるということだろうと、自戒をこめて思った。

 今回の最終候補作で、どうしても強く推したい作品はなかった。もちろん、いずれも平均以上のレベルにあり、おもしろく拝読したのだが、個人的には突き抜けて心を揺さぶられるまでは行かなかったというのが率直なところだ。強いて言えば、『胡桃(くるみ)(ざわ)()の三姉妹』かなと思って選考に臨んだが、議論を重ねた結果には全面的に同意し、納得している。
 
『胡桃沢家の三姉妹 これも私の生きる道』は、会話が生き生きしていて、随所にユーモアが感じられるのがよかった。赤貝の寿司ばかりを取ってくるスーツの四番。カモメに囲まれるスーツの四番。絶妙で最高である。
 ただ、文章もうまいのに、風景があまり浮かんでこないのが不思議だった。情景描写が少ないのだろうか? これとちょっと関連すると思うのだが、肝心なところ(心情など)を地の文で説明しすぎだと感じた。
 つまり、全体的に「余白」が少ない。風景も心情も、「説明」ではなく「描写」のあわいから浮かびあがらせるものだ。コツを説明するのがほぼ不可能なのだが、書くべきところは書き、感じさせるところは必要以上に書かない、という緩急、文章の手綱の取りかたを、一考してみていただければと思う。「なにを書いていないのか(でも文章の狭間から感じられてくるのか)」という観点で、いろんな小説を読んでみるのも手だろう。
 全編、コタツがうまく効いているし、現代版『(ささめ)(ゆき)』の(おもむき)もある。冬のあいだの胡桃沢家のあれこれを楽しく拝読できた。生き生きとした人物造形が魅力的なので、持ち味を大切に、右記したことをちょっと心に留めて、ぜひ今後も書きつづけていただきたい。

(りょう)(せん)の彼方』は、整形と山登りをうまく組みあわせていて、新鮮だなと思った。先述したとおり、ルッキズムと恋物語は食い合わせが悪いのではという気持ちも生じたため、主人公と(にっ)()の関係性の変化については、「恋愛要素はなくてもいいのかも」とちょっと思いもしたが、両者の人間的魅力のまえに、最終的には祝福の念でいっぱいになった。主人公たちが、どんな仕事をして、どういうふうに働いているのか、ちゃんと描かれていたのも好印象で、二人の関係性の変化を手に汗握って応援できた大きな理由だろう。
 つまり、「現実のどこかで生きているひと」として登場人物を感じ取ることができた。タイトルの「稜線」がなにを表しているのかが判明するラストシーンも、とても胸に迫るものがあり、主人公がルッキズムから(完全にとはいかないこともあろうが)解き放たれることに、説得力がある。
 気になったのは、人称視点の問題だ。三人称と一人称が混在しており、その移行がちょっとうまくいっていない。地の文での内心の吐露の部分で、「私」を使っているのだと思うが、現状だと、人称の使いかたが混乱しているように読めてしまうところもあるので、全編を通して、三人称にするか一人称にするか、もうちょっとはっきり決めたほうがいいように思う(全編を三人称にして、たまに内心の吐露として「私」を入れるときには、作者がはっきりと「ここだけ『私』にするぞ」と自覚したうえで、一人称を使うようにするといいと思う)。
 とはいえ、人称視点については、理屈を飲みこめれば、すぐに反映できるポイントなので、悲観することはない。「よくわからないな」と思うようだったら、小説作法の本を読んでみるなど、打開策はある。人称視点の仕組みというか、からくりを把握すれば、より自由自在に小説を書くことができるようになるので、ちょっと学んでみていただきたい。
 また、「あの」「この」「まだまだ」「もう」などのダブり(近接して多用する)についても気をつけると、文章の精度が上がり、作品がいま以上によくなると思う。
 アルコールの効用(「自分を薄めたい時はこれが一番てっとり早い」)など、おおいにうなずく気の利いた表現がたくさんあった。これからどんな作品をお書きになるのか、楽しみにお待ちしている。

『鍵』は、怪異が生じるムードを構築する力にすぐれているし、気持ちの悪い(褒め言葉です)擬音の使いかたなども、とてもうまいと思った。
 ただ、視点人物(人称)がころころ変わるうえに、ひとつの章のなかでも視点のブレがあって、ちょっと整理整頓が行き届いていないというか、作品への没入を阻害される感があった。
 山での怪異のシーンで電話をかけてきた「()()(かわ)さん」は、終章でも出てくるが、どういうつながりなのか、二度拝読しても読み解けなかったのも、モヤモヤするところだ。これは私の読解力の問題だと思うのだが、なにかしらの因果関係(?)があるのなら、もう少し明確にしてもいいのかもしれない。
 と言いつつ、全編に充満するじっとりとしたいや~な感じ(褒め言葉です)に、ぞわぞわしながら拝読した。「熟しすぎて柔らかくなった果物に、スプーンでざっくりと切れ込みを入れたような」笑顔とか、()()も素晴らしい。

『もし!』は、模試作成の現場のあれこれを楽しく拝読した。はじめて知ることばかりで、「へええ!」と興味がずっと持続する。さまざまなレベルでの謎や試練もちりばめられていて、「ともすると地味になりがちな題材を扱いつつ、いかにおもしろい小説にするか」という作者の心意気を感じた。
 ただ、小説技巧として、ややこなれていないところも散見された。
 まず、「地の文で書かれていることを、直後にセリフで繰り返す」というパターンが多い。これは手癖だと思うので、なるべく避けるように気をつけたほうがいい。

 廊下の向こうに見える教室では、ちょうど理科の模試が行われているところだった。
「今は理科の時間ですよ(後略)」

 といったケースだ。この場合、教室内で行われている模試が、なんの科目なのか、廊下から見て取ることはむずかしいだろう。人称視点は「私」なので、セリフよりもさきに、地の文で「理科の模試が行われているところだった」と書いてしまうのは、情報提示の段取り的に練れていない。たとえばだが、

 私は廊下から教室内を覗きこんだ。生徒たちはみんな、真剣な表情で机に向かっている。
「今は、理科の模試の時間ですよ(後略)」

 といったようにすべきかと思う。
 父の死にまつわる主人公の葛藤も、やや弱いというか、ストーリーのために無理やり作った葛藤っぽく感じられる(父の死因、どう考えても主人公とは関係ないのでは、と思えてしまうためだ)。また、プロローグは(じん)(ぐう)()の話なのに、一章の冒頭で、「七年後」とあり、主人公の一人称視点になるのも、つくりとして練れていない。「七年後」の話になったと、主人公である「私」は知りようがないためだ。いっそのこと、プロローグはなくてもよかったのではないかという気がした。
 主人公の活躍と成長はとても心地よく、最初は「この子、生意気すぎないか?」と思うも、自然とストーリーにのめりこみ、応援することができた。構成への目配りも利いていると思うので、あとは小説を書くことへの「慣れ」かなと感じる。たぶん、小説的な人称視点の作法をより習得することが、長足の進歩をもたらすための鍵となるのではと思う。

『君の声を読む』は、識字障害のあるヒーローのために、主人公が代筆、代読し、お互いの心を通じあわせていく、という展開がとてもよかった。主人公が小説を書いており、まわりのひとの言葉が、自分の小説に反映され、響きあって、作品となるのだ、と気づくところも、「本当にそうだな」と胸打たれた。
 ただ、舞台となる時代や国がはっきりしない。ヨーロッパっぽいどこかの、十九世紀ぐらいの話なのかな? と推測するも、確証が得られなかった。ファンタジー物の一種として読めばいいのだとは思うが、主人公の家族構成が明らかになるのも遅い。
 私は当初、主人公姉妹に親はおらず、だから主人公はエロ小説を音読するバイトをしているのかなと思ったのだが、のちに、母がいる→父もいて、生活に困っていない、ということが明らかになっていき、「じゃあどうして、エロ小説音読バイトを? もうちょっとほかの仕事を選んでもいいのでは?(貴族なんだし)」と感じた。情報提示の段取りを一考してみていただければと思う。
 また、主人公は妹と自分を比較して、容姿に自信を持てずにいるが、ちょっと卑屈すぎるというか、ルッキズムに囚われすぎているのではという気がした。先述のとおり、「ルッキズムと恋物語の食い合わせ」問題である。ヒーローとの恋が成就すれば霧散する程度の物思いなら、それはルッキズムではないのではと思われるので、最初からもう少しだけ、容姿にまつわる物思いをゆるめたほうがいいのではないだろうか。「主人公は自身の外見にあまりこだわらず、小説を書くことに、ひたすら喜びと楽しみを見いだして邁進している」としたほうが、恋物語との食い合わせはよくなるのではないかと思った。
 出版された金糸雀(カナリア)の話が、作中作としてやや弱い(ヒーローの心に訴えかけるものとして、やや機能しきっていない)のも惜しいところだ。ヒーローが、「かつて金糸雀の話を読んでもらったときと、装幀が異なるようだぞ」と気づいたのかどうかも明確でなく、もう一段階、盛り上げる術があったような気がする。
 とはいえ、主人公がヒーローに、胸もとにピンを留めてもらったときの気持ちを、「まるでこの心まで、今に留め置かれた気がした」と表現するなど、キュンキュンするところがたくさんあった。「今に」というのが、ものすごくいいし、切ない。創作するとはどういうことなのか、文字とはなんなのか(それを読み書きできれば、十全に他者と通じあえるのか。いや、そうではないだろう)といったことに、真摯に向きあいつつ、ときめく恋物語が展開されて、好感を抱いた。