おもかげ 後編
私が買った帽子と眼鏡をつけた一くんは、何とか皇煌希の面影を消したものの、お忍びで出かける芸能人そのものの風貌となってしまった。出来るだけ顔が隠れるようなツバ長のハンチング帽と、縁の太い眼鏡を選んだせいだが、こればかりは仕方がない。
昨日までと同じように一くんと手を繋いで文学部棟に向かうが、手を繋いでいるときの安らぎは完全になくなっていた。隣に目を向けると、そこにいるのは変装した推しのアイドルだ。緊張しないわけがない。
文学部の友人達がどう反応するのかも不安で仕方なかったのだが、それに関しては私の杞憂に終わった。
「うっそー、一くん? めちゃくちゃ垢抜けたじゃん」
「それ伊達眼鏡だよね。お洒落だし似合ってる」
講義室に入ると女の子達は黄色い声を上げ、それを見た男の子達は少し面白くなさそうな顔をするものの、「お前、これ以上鈴を惚れさせてどうする気だよー」とふざけながら駆け寄ってくる。いつもと何も変わらない雰囲気の中で一限目の講義が始まり、私はようやくほっと息をついた。
講義は学籍番号順で座るため、一くんとは席が離れている。講義の間、私は改めて皇煌希の近況を調べた。
『コウくん、ゆっくり休んでね』
『ずっと待ってるからね』
個人ではSNSなどを全くしていない皇煌希だが、検索をかけると復帰を待ち望むファン達の温かい書き込みがいくつも出てきた。
続いて一くんと皇煌希の身に起きたことを調べるべく、思いつくキーワードを次々にスマホで検索していく。
『見た目 徐々に入れ替わる』
『顔面 変化 別人』
ほとんどフィクションや芸能人の整形疑惑に関するニュースくらいしか出てこない中、私が見つけ出したのは、とあるブログの記事だった。プロフィールの情報によると、投稿者は一人の女子高校生のようだ。
『デブでブスだった私が、十五日間で美人教育実習生と入れ替わった話』
震える指で画面をスクロールし、最初の記事をタップする。
『その実習生が教壇に立った瞬間、当時私が片想いしてた男子が「先生、超きれいっすねー!」って声を上げて、彼女は笑いながら「ありがとう」なんて返事してた。
彼と話したことすらなかった私は、彼女が妬ましく、それ以上に羨ましかった。彼女になりたいって願ったけど、まさかそれが現実になるなんて』
一くんの件がなければ、作り話だとしか思わなかっただろう。しかし、そこから書かれている入れ替わりの経緯は、一くんと皇煌希の身に起きたことと全く同じだった。
『最初の一週間で、少しずつ体型が入れ替わった。その頃はまだ、クラスの皆もちょっと驚いているだけだった。
翌週から徐々に、手足や顔面の変化が現れる。もともと周りから嫌われていた私は、クラスメートから整形だとバッシングを受けるようになった。
実習生は完全に私の顔になりつつあり、あと数日で実習が終わるというときに辞めてしまった。噂によると、精神を病んでしまったらしい。
クラスにいられなくなった私も転校を余儀なくされたけど、今は初めて普通の高校生らしい生活を送ることができている。友達もたくさんいるし、新たな恋をしてあっという間に彼氏ができた。外見のことで悩まなくなったから勉強にも身が入って、成績も上がった。
見た目が変われば人生が変わる。美人にも美人なりの苦労があることもわかったが、昔の自分に比べれば鼻で笑い飛ばせるようなものだ。私の見た目になったあの実習生は、今頃どこで何をしているのだろう』
読んでいるだけで気分が悪くなってくる。私の様子がおかしいことに気づいたのか、隣の席から友達がそっと声をかけてきた。
「鈴ちゃん、ひょっとして皇煌希のこと調べてる……? 推しだったもんね、大丈夫?」
力なくうなずくことで何とか返事することしかできなかった。
窓際の一番前の席にいる、一くんの方をちらと見た。帽子と眼鏡のせいで顔はほとんど隠れているが、何故か口元は僅かに微笑んでいるようだった。
どうしてだろう。心配しているのは私だけなのだろうか。春の光が差し込む窓を背景に、少し背中を丸めて座っているその様子は、うっとりするほど美しい光景だった。
週末、一くんと街へ出かけた。手持ちの服が今の体型に合っていないものばかりだから、買い物に付き合ってほしいと彼の方から誘ってきたのだ。一くんが自分から行きたいところを提案してくるのは初めてだった。
行き交う人でごった返している交差点を、離れないよう手を繋いで歩く。変化した後の一くんの手にようやく慣れてきたように思っていると、横断歩道を渡り切ったところで大人の男性と女性の二人組に声をかけられた。
「私、『men’s MOMO』という雑誌を編集している者でして……」
怪しい勧誘なら素通りしようとしていた矢先、女性の方が有名雑誌の名前を口にしたとたん、一くんは足を止めた。もう一人の男性が大きなカメラを首から下げていることに気づき、スナップ写真の声掛けだと察した。
「大きめの服をとても素敵に着こなせているなと思いまして、声を掛けさせていただきました。是非、お写真を『街中スナップ』のページに掲載させていただきたいのですが」
若い女性編集者は新人なのか、どこかたどたどしい口調でそう言いながら、名刺を渡してきた。まず一くんに、それから私にも。
「ええと……どうしよう。鈴ちゃん、OKしていい?」
私に気を遣ってか、一くんは撮影にかかる時間を編集者に尋ねる。いいよと言うしか選択肢はなかったが、内心はふつふつと怒りを感じていた。女性編集者の表情や声のトーンが、一くんに媚びを売っているようにしか思えない。
撮影を終え、ようやく解放されたと思うと、次は私達と同じ歳くらいの女の子に声をかけられた。驚くほど整った容姿の持ち主だった。
「あの、良かったら連絡先を交換しませんか」
彼女が一くんにそう言うのを聞いて、私は自分の耳を疑った。手を繋いで歩いている彼女がいるのに、逆ナンしてくる人なんて。
ただ一つ確実に言えるのは、彼女がいても略奪したいと思わせるほど、今の一くんの姿が魅力的だということだ。
人の多い場所を避けながら一くんと歩いているうちに、少しずつ腹立たしさは落ち着いていった。
それと共に、今までと全く違った一くんへの感情が私の中に生まれる。変化する前も今も、皆、一くんの見た目ばかりに囚われている。私だけは本当の彼をちゃんと見て、いつまでも愛し続けよう。
皇煌希と化して以降、一くんの身体の変化はぴたりと収まった。平穏無事に日々は流れ、四月末を迎えた。
ゴールデンウイークには一くんと一泊旅行の予定もある。連休前の最後の日、私は浮かれ気分で朝ご飯にアイスを食べ、お腹の調子を悪くしてしまった。
講義途中に耐え切れずトイレに駆け込み、しばらく個室の中でうずくまっていた。すると、洗面所の方から同回生の女の子達の話し声が聞こえてきた。
「やばー、大遅刻」
「平気平気。あの教授、全欠席でもレポート出せば単位くれるって噂だもん」
「ていうか話変わるけどさ、連休明けにまた一がイジるかどうか賭けない?」
一瞬にして、お腹の痛みが失われた。そんなものを感じなくなるくらいの衝撃が私を襲った。今聞こえてきたのはいったい何か。
「あはは。皆空気読んで『垢抜けた』とか『カッコいい』とか言ってるけど、本当は絶対ヤバいって思ってるよね」
「でも、どのお店でイジったのかちょっと興味あるかも。目変わったときとか、全然腫れてなかったよね。ダウンタイムないのかなって思うくらい」
「何? アンタもしかして自分もしようと思ってるんじゃない」
整形という直接的な言葉は聞こえてこなかったが、明らかに一くんのそれを噂している。友人達は、私達の前では一くんに対する嫌悪感を隠していたが、本当はこんな風に思っていたのだ。一くん自身はまだ皆の陰口に気づいていないと思うが、いずれ自分に対する周りの目が変わったことに傷つくときが来るだろう。
「そんなお金ないし。でも、もしできるなら今年のミスキャンパスと同じ顔になりたーい」
「あはは。アンタが桜子さんと同じになるには、顔のパーツ全部いじらないと……」
女の子二人の気配が消えるまで、私は個室の中で身じろぎ一つしなかった。
一くんと一緒に、身体を元に戻す方法を考えなければ。私は旅行で彼に話を切り出すことを決意した。
旅行初日は楽しくて仕方なかった。
行き先である沖縄は前から私が行きたがっていたのだが、当日になって一くんが突然シュノーケリングをしたいと言い出した。
最近、一くんは私の気持ちを推し量るだけでなく、自分自身の気持ちも口にしてくれるようになった。私はそれが嬉しかった。陽光が十分に差す浅瀬は、ビーズをばらまいたみたいにキラキラと輝いていた。真っ黒なウェットスーツに身を包み、魚と戯れる一くんの姿に、私は夢中になった。
一くんに話を切り出そうとしていた決意が揺らぐ。だけど、宿で夕食を口にしながら彼がぽつりと呟いた一言が、私の背中を押すことに繋がった。
「こんな楽しい日がずっと続くといいなぁ」
それは無理だと私は思った。
一くんはまだ気づいていないかもしれないが、彼を見る周りの人達の目はすっかり変わってしまっている。友人達だけでない。今日もビーチで何人かの女の子が私達に声をかけてきた。あの瞬間、ウェットスーツに包まれた筋肉質な腕をぎゅっと握りながら、私は気が変になりそうだった。
食べ終えた一くんが顔を上げ、目が合ったことを確認して私は言った。
「一くん、元の身体に戻る方法を探そう。じゃないと楽しい日は長く続かないよ」
一つ本音を口にすれば、一気に歯止めが利かなくなるものだ。私は今の自分の不安を一くんに伝えた。友人から陰口を叩かれていたということは、さすがに言えなかったが。
一くんの様子がおかしい。私の話を聞いているうちに、何故か眉間に皺ができていた。
一くんは今までになく重い口調で言った。
「鈴ちゃん、それはできないよ。僕は……この身体で過ごす毎日が楽しいんだ」
「……え?」
それは私が予想もしていなかった、一くんの本音だった。私の驚く様子を見て、彼はますます腹を立てたようだった。
「当たり前だろう。周りの人が皆、カッコいいって褒めてくれる。容姿が良いのがこんなに幸せなことだなんて思ってもいなかった。それなのに、どうして鈴ちゃんがそんなことを言い出すのか、僕にはわからないよ」
「一くん、あなたは気づいていないと思うけど、大学の皆はあなたのことを陰でヤバいって言ってるんだよ! あいつ整形してるって」
一くんに反論されて動揺し、絶対に言わないと決めていたことまで言ってしまった。
「大学の奴らなんてどうでもいいよ。あいつらは前から僕のことを見下していた。早く卒業して社会に出たい。以前の僕の姿を知らない人達とだけ、楽しく過ごしていきたい」
前にネット上で見つけた、一くんと同じ経験をした女子高校生のブログを思い出した。彼女も身体が変化した直後は、整形疑惑をかけられて当時のクラスにいられなくなった。しかし転校して環境を変え、以前の自分を知らない人達の中に身を置くと、驚くほど楽しい高校生活を過ごせるようになった。
「鈴ちゃん、君だって前の僕より、今の僕の方が好きじゃないか。何も言われなくても、雰囲気でわかるよ。僕の身体が変化した後、一緒に寝ているときの君の鼓動がいつもより大きかった。繋いでいる手が熱くなってた。そして――何度も、僕の顔に見とれていた」
そんなことはない、と言い返せない自分が情けなかった。確かに一くんの言うとおりだ。私は皇煌希になった一くんの身体や顔にときめいていた。けれど彼を想う気持ちは、前より今の方が大きいなんてことは決してない。
「私は、今の方がいいなんて思わない」
「そんなの綺麗ごとだよ」
「どうしてそんな風に言うの!」
私と一くんの間で意見が食い違うのも、言い合いになるのも初めてだ。
「僕の内面だって良い方向に変わってきている。見た目が良くなって自分に自信がついたから、こんな風に鈴ちゃんに自分の意見を堂々と言えるようになった。あと、もう大学の勉強を真面目にしなくても、芸能界なり何なりで食べていけそうだし。鈴ちゃんと結婚したら、きっと楽させてあげられるよ」
そんなことはどうでもよかった。私は身体が変化する前の、何事にも一生懸命な一くんのことが好きだったのだ。だけど彼自身はもう、以前の自分に戻る気は全くないらしい。優れた容姿を持つことの幸せを知ってしまったから。
その日の夜、一くんは当たり前のように、一緒の布団で寝たいと言い出した。どことなく、くっついて寝る以上のことを求められているような雰囲気があった。
私が断ると、一くんは「別々の方が落ち着いて眠れるしね」とすんなり受け入れた。少しも寂しげな顔を見せなかった。
二つ並べた布団の上で、お互いに外側を向く体勢で眠った。私は寝付けずに、横を向いたまま静かに涙をこぼした。
一くんの見た目ばかりを気にする人達と違って、私だけは彼自身を愛することができるという自信があった。だけど、それは私の独りよがりの、自己満足に過ぎなかった。当の彼でさえ、自分の容姿の変化を嬉しく思っているのだから。
『見た目が変われば人生が変わる』
あのブログの最後に書かれていた言葉が、今も頭の中から離れようとしない。私はそれを事実だと受け入れるしかないのだろうか。
旅行の二日目は、当たり障りのない会話が続いた。そして連休が明けると、私達はどちらからともなく、少しずつ距離を置くようになった。
毎日朝から晩まで続けていたLINEをやめ、一緒にいるときも必要以上に顔を見つめたり、手を繋いだりしなくなった。物理的に離れようという意識が強いのは、もしかすると私の方なのかもしれない。もし近づいて少しでもドキドキしたら、一くんから言われたことを認めざるを得なくなるからだ。
五月下旬のある日、昼前に大学の講義を終えた私は、一くんとどこかへ行くでもなく一直線に下宿先に戻った。半袖でも暑いくらいの気温だ。五階の部屋の窓を開けると、青空の中、地平線へと引っ張られるような低い雲が浮かんでいた。
寝不足でもないのに眠くなり、ベッドの上に倒れ込もうとしたとき、鞄の中でスマホが振動した。SNSの投稿にコメントがついたようだった。
『不謹慎なカップルだね』
半年も前に投稿した一くんとのツーショット写真に、そのコメントはつけられていた。何のことかわからず戸惑っていると、同じ写真に次々と、知らないユーザーからコメントが寄せられてきた。
『コウ君になりすまそうとするなんて信じられない』
『体調不良で苦しんでるコウ君に謝れ』
『マジで何を狙ってるんだろ。面白くも何ともないんだけど』
どうして、と叫びたくなった。コメントを寄せてきたユーザーを確認すると、全て皇煌希のファンのようだった。しかし、私も一くんも、彼の身体が変化してからはSNSに一切写真を載せていなかった。彼女達はどうやって一くんが皇煌希の見た目になったことを知ったのだろう。
そのとき。
『男の身元特定。Y大文学部三年の犬井一』
新たに寄せられたコメントに添付されている画像を見て、私は全ての経緯を理解した。そこにあったのは『Men’s MOMO』に掲載された一くんのスナップ写真だった。
大学名は出さず名前はイニシャルのみで掲載してほしいと話を通し、実際その通りにしてもらえたのだが、皇煌希のファンに目をつけられ、画像がネット上に拡散されたようだ。大学名と名前の情報を提供したのは、同じ大学内の誰かだろう。
恐怖が頂点に達したとき、一くんからLINEで通話が入った。
『鈴ちゃん、大丈夫?』
「一くん……私達、どうすればいいの? もうわからないよ」
声を聞けて嬉しかった。けれどそれ以上に、一くんの顔を見たくてたまらなくなる。皇煌希になる前の顔を。
『本当にごめん、僕の考えが甘かった。全部鈴ちゃんの言ったとおりになった』
「ううん、一くんのせいじゃない」
私がそう言うと、一くんは『これからどうするか、一緒に考えてくれる?』と尋ねてきた。私はすぐに同意する。
「一くん、お互いSNSのアカウントは削除した方がいいのかな」
『いや。アカウントを消しても、既に写真が出回っている以上、どこか別の場所に書き込みされるだけだよ。できるだけSNSは見ないようにして、あまりにも酷いメッセージが来たときは警察に通報しよう』
「うん」
『それと、外ではしばらく別々で過ごした方がいい。僕に何かあったとき、鈴ちゃんにまで被害が及ぶ危険がある』
それは嫌だと私は言った。どうするか一緒に考えてほしいと言ったのは一くんの方だ。それなら私を遠ざけないでほしかった。一くんの身に何が起きても、私は今度こそ独りよがりにならず、彼に寄り添い、共に闘っていきたかった。
私が気持ちを伝えた後、一くんはしばらく黙っていた。開いた窓から吹き込んだ風が、身体の火照りをほんの少し和らげた。
『わかった、鈴ちゃん。これからも一緒にいよう』
「うん。私達、何も悪いことしてないもんね」
視線を窓の外から部屋の中に向けたとき、私はあることを思いついた。
「一くん。電話繋いだまま、トーク画面を開けて待ってて」
ベッドと反対側の壁に面した、学習机の方に近づく。引き出しの中から一冊のノートを取り出した。一くんを意識し始めた頃から毎日つけている日記帳だ。
『昨晩、夢の中で一くんと二人で話してた。願いの表れなんだと思う』
『無理に話す口実を作るのは、あまり良くない気がする……。チャンスを待って確実につかみたい』
『最後の授業で奇跡が起きた! 発表の練習をしようと思って少し早めに教室に行ったら、何と一くんも来てて、結構長く二人で話せた! 口下手だから事前に発表の練習をしたかったとのこと。私も全く同じだったから、より一層好きになった♪』
出会った頃の私の日記に、一くんの見た目のことは一度も書かれていなかった。私は一くんについて書いてある部分を一つ一つ写真に撮り、LINEのトーク画面で彼に送り続けた。
本当に大好きなのだ。今までも、これからも。
送った写真にはすぐに既読がついたが、電話の向こうで一くんは黙ったまま、トーク画面にもメッセージを送ってこない。
日記を全て送り終えた私は、スマホを握り締めて祈った。どうか、今私のしたことが独りよがりでありませんように。人の価値は外見じゃない。それを私に教えてくれたのは、他ならぬ一くんなのだ。
『鈴ちゃん』
スマホから一くんの呼ぶ声がした。かなり息が乱れているようだったが、玄関の方から扉を叩く音がして、その理由がわかった。
『今、部屋の扉の前にいる……鈴ちゃんに会いたくて』
「……私も!」
スマホを机の上に投げ捨て、玄関へと急ぐ。扉が開いた瞬間、どちらからともなくお互いの身体を抱き締めた。
目を閉じると、出会った頃と全く同じ一くんの温もりを感じた。どこかの部屋から、夕飯を作っているような香ばしい空気が漂ってくる。大好きな一くんの匂いが薄まる気がして、私は抱きしめる腕に力を込めた。
それから、一くんの背中がゆっくりと膨らんでいくのを、手の平で感じた。深く息を吸おうとする彼の鼓動の一つ一つまで聞き逃さないよう、私は身じろぎもせず、ただ彼にぴったりとくっついていた。
私達は、もう大丈夫だ。
一くんの身体が元に戻ることはなかったが、私達はまた手を繋いでキャンパスを歩くようになった。六月に入り、梅雨入りしてから雨の日が続いている。今年こそは相合傘に挑戦しようかとも思ったが、恥ずかしくなって結局二人それぞれ傘を差し、空いた方の手を繋いだ。
「ねぇ、夏休みは旅行のリベンジしようね」
「そうだね。よし、そのためにもバイトの予定いっぱい入れて稼がないと」
一くんの物腰はどことなく、身体が変化する前の彼に戻っているようだ。自分の容姿にこだわらず、何事にも前向きに頑張っていた頃の彼に。私はそれがとても嬉しかった。
「じゃあ、また後でね」
一限目の授業が別だったので、文学部棟の廊下で一くんと別れる。
講義室に一歩入ると、女の子達が何やらざわついていた。
「ねぇアンタ、久々に大学来たと思ったら……本当に桜子さんに似せてイジったの?」
「だから、イジってないって!」
「何言ってんの、一週間も大学休んどいて」
何人もの女子に取り囲まれて尋問されていたのは、前にトイレで話していたうちの一人だ。確かに、少し見ない間に目元がうちの大学のミスキャンパスそっくりになっている。
まさか。
「自分の顔が変わっていくのが怖くて、家に引きこもってただけよ! 私、本当に整形なんてしてない。ただ桜子さんになりたいって思ってただけで、変わってしまったの」
なりたいと思った人に変化する――?
私はいつか見た、教育実習生と入れ替わった女子高生のブログを思い出した。確かあの女子高生も、実習生になりたいと思ったのがきっかけで、身体の変化が始まったのだ。
自分の容姿への不満、そして他人の容姿への羨望が、この現象を引き起こしている? 世界中の至る所で――。
そしてもう一つ、気づいてしまったことがある。一くんの変化が始まったのは、皇煌希が私の推しのアイドルだと知った、あの頃からだ。一くんは皇煌希になりたいと思ったのだ。
身体が変化する前の一くんは、容姿のことで悩んでなどいないと思っていた。けれど、それは私の勘違いだった。一くんも、優れた容姿の持ち主を羨む人間の一人だったのだ。あのブログの女子高生や、ミスキャンパスと入れ替わりつつある同回生と同じように。
一くんに出会えたから、私は人の価値は外見ではないと信じることができた。なのに、その一くんでさえ、外見の良さに価値を置いていた。あのペタッとした笑顔を私に向け、プニプニのクリームパンみたいな手を私の手と繋ぎながら……。
もう一度、一くんのあの笑顔が見たい。あの手を握りたい。
しかし、そんな私の想いを知るはずもなく、近づいてきた友人の一人がこんな風に声をかけてきたのだった。
「鈴ちゃん。皇煌希、自殺したって」
私の中で忘れかけていた何かが、嵐のように轟々と吹き荒れた。
そして、私以外の誰にも見えない傷痕を残して、静かに消えていった。
「遺書が見つかったみたい。この姿ではもう自分は生きていけないって……」
私は一言「そうなんだ」と返した。そして「ちょっと忘れ物を」と廊下に出た。
外ではまだ雨が止んでいないらしく、窓ガラスが涙を流すように濡れていた。
目を閉じると、外からぽつぽつと雨粒の打つ音が聞こえた。瞼の裏に、出会った頃の一くんの姿をした亡骸が浮かび、ほんの少しだけ涙がこぼれた。
【おわり】