おもかげ 前編
最初の異変に気付いたのは、駅の改札で待ち合わせたときだった。小走りで駆け寄ってくる彼氏の姿が、推しのアイドルと重なって見えた。
それはほんの一瞬の出来事だった。瞬き一つするうちに、彼の腫れぼったい垂れ目や団子鼻、締まりのない半開きの口元――全体的に「ペタッとした」という表現がしっくりくる顔が、私の目の前に現れた。
「どうしたの、そんなに驚いて」
「……ううん、何でもない。行こう」
二人続けざまに改札を通った後、自然と横並びになる。プニプニしたクリームパンみたいな形の彼の手を取り、ホームに向かってゆっくりと歩き出す。高揚感は消え失せ、穏やかな幸せに包まれる。
横目で彼の姿を見ながら、クスッと笑ってしまいそうになるのを何とかこらえた。どうして一瞬でも、国民的アイドルと見間違えたのだろう。全然似ていないのに。
彼とは大学二回生に上がる前の春休みに付き合い始めて、最近交際一周年を迎えた。同じ学年で同じ文学部なので、共通の友人は多い。けれど、彼を知らない私の女友達に写真を見せると、たいてい少し困惑した後に、精一杯言葉を選ぶような口調で「浮気しなそうだね」などと言ってくる。
周りの反応を見る限り、彼の容姿は世間一般で言うところの「ブサイク」に当てはまるようだ。私もそれは否定しない。高身長だがそれ以上に横幅が目立つし、首から上は前述のとおりペタッとした、表情に乏しい顔。
私が彼と付き合いたいと思ったのは、真面目な人柄に惹かれたからだ。容姿が良くないからといって卑屈にならず、何事にも一生懸命な彼のことを大好きになった。
「一くん、今日は何か目当ての物ある?」
「いや、まずは鈴ちゃんが気になってるって言ってたのを見に行こうよ」
目的地に向かう電車に乗り込み、座席に並んで座るとすぐ、彼――一くんは、スマホで私の目当てのブースを調べ始める。今日はご当地アイスが集まる百貨店の催事に行く予定だった。私がアイス好きなのを知っていて、一くんが一緒に行こうと提案してきた。催事のホームページを見た私が「桃とチーズのアイスが気になる」と言ったことも覚えてくれていたようだ。
付き合う前も、付き合っている今も、一くんは自分から行きたい場所ややりたいことを提案してくることはほとんどない。だけど私の好みや希望はよく聞いてくれて、今日みたいにイベントの情報を調べてくれたりもする。
男性にリードされたい人にとっては、彼は少し物足りないかもしれない。付き合うに至るまでの経緯も、私から「一くんと付き合ってみたいな」と告白同然の台詞を言ったのがきっかけだ。大真面目に「こんな僕でよければ」と返事をしたときの、珍しくガチガチに緊張した彼の顔は今でも忘れられない。付き合った直後に過去の恋愛の話を振ってみると、お互いに初めての恋人であることが判明した。
「あ、これも美味しそう。紫芋のジェラートだって。一くん、お芋好きだったよね」
スマホで催事の公式SNSを調べていたとき、フォローしている別のアカウントの書き込みが新しく画面に表示された。
『【画像比較】皇煌希、一ヶ月で激太り!』
アイスのことなんて忘れてしまいそうになるくらいの衝撃だった。書き込み元は非公式の芸能ニュースのアカウント、そして激太りを噂されているのは、国民的アイドルにして私が高校時代から推し続けているミュージシャンだったのだ。
『言うほど太ってる?』
『元が痩せすぎ。今くらいがちょうど良き』
『太ってもイケメンはイケメンだね』
書き込みに対するコメントは、皇煌希を擁護するものばかりだった。私も大方のコメントと同じ思いだ。比較画像も見てみたが、そう言われると最近ちょっと太ったのかな、という程度のものだった。
「鈴ちゃん、さっきから何見てるの?」
「え? あ、何でもないっ」
危ない危ないと、急いでSNSのアプリを閉じた。ちょうど一週間前のデートで、皇煌希に関するニュース記事を読んでいたところを一くんに見つかったのだ。
『そういう男の人が好きなの?』
皇煌希が私の推しのアイドルだと知り、一くんは珍しく不機嫌になった。嫉妬してるのかななんて思いつつ、今後は彼に皇煌希のことを言うのはやめようと反省した次第だ。
「鈴ちゃん、駅に着いたよ」
一くんに声をかけられ、我に返る。電車が停まり、席から立ち上がった彼の全身を見たとき、ふと気づいた。
「一くん、少し痩せた?」
元はどちらかと言えばぽっちゃりした体型だった。今日は私が前にプレゼントしたポール・スミスのワイドパンツを穿いているが、ウエストが緩いのか、ベルトをぎゅっと締めているようだった。
「そうなんだ。実は一週間で三キロも瘦せちゃってさぁ。何にもしてないのに」
腫れぼったい目を糸みたいにして、一くんはへらっと笑った。
待ち合わせに現れた一くんを皇煌希と見間違えた理由が、ようやくわかった。痩せた一くんと、太った皇煌希は、身体のラインがどことなく似ている。もともと身長は同じくらいのはずだから、なおさらだ。
「いいなぁ。じゃあ、今日は何の気兼ねもなくアイス食べられるじゃん」
「鈴ちゃんだって太ってないから大丈夫だよ」
「そんなことないよー、お腹ポヨポヨだよー」
一くんはまた目を細めて笑う。
今の身体つきは似ていても、一くんの顔は皇煌希と全く違う。皇煌希は王道のイケメンだ。きりっと上がった眉や二重の目、筋の通った鼻、主張しすぎない薄めの口元――パーツの一つ一つも、全体的なバランスも完璧と言われている。
顔を見ただけでドキドキする。だけど身近にいれば緊張して近づくこともできないだろう。夜空の星と同じく、遠くから目の保養として見るのがいい。それが皇煌希に対する私の気持ちだった。
「わぁ! 鈴先輩の彼氏ってモデル体型ですねっ」
私は返す言葉を失ったまま、スマホの画面上にいる一くんに視線を落とした。
四月になり、教職の授業で同じ班になった一回生と恋バナをしていたときのことだ。一くんの写真を一目見た瞬間、後輩は迷うことなく無邪気な笑顔でそう言ったのだ。
一くんのルックスを褒められたのは初めてのことだった。後輩に見せたのは、先週末に花見に行ったときの写真だ。その前の週にイベントでアイスを食べまくったにもかかわらず、一くんは更に体重を落とした。それだけではない。全体的にほどよく筋肉がつき、首から下に限定すれば本当にモデルにでもなれそうな見た目になっていったのだ。
『筋トレも食事制限もしてないんだけどなぁ』
花見に行った日、桜の木の下で私の手作り弁当を頬張りながら、一くんは呑気にそう言っていた。けれど、そのときにはもう、私は平静ではいられなくなりつつあった。
後輩と別れた後、私はすぐにスマホで皇煌希について検索した。ここ数日は毎日、一日何度もチェックせずにはいられなくなっている。
『皇煌希、激太りが止まらず! 病気という噂も……』
スマホを持つ手が小さく震える。
ニュースサイトに掲載された写真の中に、どう見ても空元気の笑みを浮かべた直近の皇煌希がいる。体型を隠すためか、ダボッとしたパーカーを着て、腰にストールを巻いている。
私は気づいてしまった。今の皇煌希は、痩せる前の一くんの身体つきにそっくりだ。一くんの体型が変化するのと全くの同時進行で、皇煌希は太り続けている――?
その日の授業が全て終わった後、一くんと私の部屋で一緒に晩ご飯を作る約束をしていた。二人とも下宿していて、お互いの部屋に行くことはしょっちゅうだ。
一くんの方が一コマ多く授業を取っていたため、私が材料の買い出しに行く。近所のスーパーで豚ひき肉が安売りされていたので、ハンバーグにしようと決めた。
材料をカゴに入れ、レジの列に並んでいる途中、トートバッグの中でスマホが振動した。確認すると一くんからLINEが来ていた。
『今どこ? 教授のきまぐれで、二十分早く授業終わった(笑)』
『お疲れ(笑)スーパーで買い出し中だよ』
支払いを済ませてレジを抜けると、商品を袋詰めする台のところで一くんが待っていた。身体つきはモデル体型になったものの、首から上は相変わらずの丸顔に、ペタッとした笑顔。そのアンバランスさを一瞬、不気味に感じてしまう。
「買い出し、ありがとう。買い物袋は僕が持つから」
一くんは私の買い物袋に、カゴから商品を一つずつ移していく。卵のパックの置き方がぎこちなくてヒヤヒヤするが、今日は小言を言う気にもなれない。
「ありがとう……ねぇ、一くん」
「ん?」
「買い物袋を持っても、もう片方の手は空くよね」
一くんは腫れぼったい一重の垂れ目をほんの少しだけ見開いたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔になる。
そう、付き合ってから一年間、私に向けられ続けてきた笑顔と何も変わらないはず。不安を吹っ切るようにして、一くんの手を握った。
けれど次の瞬間には、私が押し殺そうとしている疑惑を現実に変えてしまうような出来事が起きた。私が爪の先で触れるか触れないかしたとたん、一くんの手はびくっと震え、握られるのを拒むかのように私から離れていくのだった。
「あ……」
一くんは小さく声を漏らし、取り繕うように私の手を握った。
今度は私の方が手を離しそうになってしまった。私の手を握ってきたのは間違いなく一くんだが、その手は私が知っている一くんの手――あのクリームパンみたいなプニプニした手ではなかったのだ。
私は恐る恐る、その手を見た。指の一本一本が細くて長い。骨ばっていて、ところどころに青い血管が浮いている。男性の手ではあるが、これは一くんの手ではない。痩せただけでここまで変わるなんてあり得ない。
そのままゆっくり視線を上げて、私は一くんの顔を見上げる。一くんも私を見て、曖昧な笑みを向けてくる。
紛れもなく一くんの顔だ。けれどその笑みは、私を心配させないために作られたもののように見えるのだった。一くんもきっと、自身の変化に戸惑っている。
それから二人で私の部屋へ行き、ハンバーグを作った。料理をしている間、二人とも終始、普段からは考えられないくらい口数が少なかった。
「あっ!」
「え?」
「ごめん。大したことじゃないけど、卵入れるの忘れちゃったと思って」
もうすぐ焼き上がるタイミングで気づいて落ち込む私に、一くんは肉を上手にひっくり返しながら「大丈夫だよ」と言って笑う。
私の心配事に対して、一くんの反応はわかりやすい。大丈夫なときは今みたいな笑顔で優しく「大丈夫だよ」と口にする。
そして大丈夫でないときは何も言わず、やんわりと話を逸らそうとする。そんなときは私の方も深追いせず、場合によっては少し距離を置いて時間が過ぎるのを待つ。
そんな風に付き合いを続けているうちに、「大丈夫?」と聞いて「大丈夫だよ」という返事があるかないかが、聞く前から何となく察しが付くようにもなってきている。
一くんに身体の変化のことを「大丈夫?」と聞いても、きっと彼は口をつぐむ。根拠はないけれど、彼を取り巻く薄暗い空気みたいなものが、私にそんな確信を与えている。
私からは何も聞けない。一くんを困らせたくない。
生地に卵を入れ忘れたハンバーグは、膨らみ具合が少し弱いものの、味は全く問題なかった。普段から締まりのない口を更に大きく開けて、一くんはハンバーグをパクパク食べていく。
「美味しいね」
卵を入れていなくても、なんてことを、一くんは決して言わない。私が何かをしくじったとき、彼はそれを蒸し返さないようにいつも気を遣ってくれる。そういうところが本当に好きだ。
食事を終えたタイミングで、私は一くんに言った。
「一くん、今日泊まっていかない?」
一くんは一瞬きょとんとしたが、私の気持ちを察したらしく「そうだね」と短く返事してくる。彼の身に何かが起きているが、それが何なのか分からない。どうすることもできない。ならばせめて、出来るだけ傍にいたかった。
お互いの部屋でお泊まりしたことは何度もある私達だが、同じベッドでくっついて眠る以上のことはしたことがなかった。学生の間はプラトニックな関係でいたいという漠然とした希望があって、それは彼の方も同じのようだった。唇が軽く触れる程度のキスはあっても、それ以上先に進めようとする空気にならない。
「一くん、お風呂入ったらこれ着て――あっ」
私の部屋に置きっぱなしにしてある一くん用のパジャマと、今の彼の体型を見比べて、一瞬言葉を失った。着られないことはないだろうが、ウエストのゴムなんかは間違いなくダボダボになってしまうだろう。
「ありがとう。でも、ちょっと家から持ってきたい物があるから、ついでに寝間着も持ってくるよ」
わかり易く優しい嘘を残して出ていった一くんが戻ってくるまでの間に、私は先に風呂を済ませ、テレビを観ながら不安な時間をやり過ごそうとした。
しかし、たまたまつけたチャンネルで流れた映像は、私の不安を更に強める結果を招いてしまった。
『さて、続いて登場するのは、今大人気の皇煌希さん! 曲はもちろん「Dancing Prisoner」でーす!』
それは生放送の音楽番組だった。司会者の合図と同時に、床からスモークが噴き上がる。
現れた皇煌希の姿は、やはり噂通りの激太りだった。少し前までの一くんを思わせる身体つき。会場にいる客達も前情報を知っていたからか、平静を装うような顔をして、拍手で彼を迎え入れた。
しかし、舞台の後ろにある巨大モニターに彼の顔がアップで映し出されたとたん、会場内はどよめきに包まれた。
皇煌希の目がおかしい。以前のきりっとした目力は消え失せ、泣きはらした後のように悲しげに腫れ上がっている。
私はすぐさま、スマホでSNSのアプリを開き、「皇煌希」と検索をかけた。
『コウくん、顔変じゃない?』
『やっぱり病気? それとも単なる寝不足? 無理しないでほしい』
ファン達による彼の身を案じる書き込みが続々と寄せられていた。
更に。
『目元もだけど、手も腫れてるような』
とあるファンの書き込みを見た瞬間、湯冷めを通り越して背筋が冷たくなった。スマホから視線を上げられないまま、テレビの音声が右耳から左耳に通り過ぎてゆく。皇煌希は何とか演奏を続けているようだ。
「ただいま」
玄関から一くんの声が聞こえてきた。
テレビの画面を見ないまま消し、玄関へと足を急がせる。さっき部屋を出たときと何も変わりのない一くんの姿を確認した瞬間、安心して身体中から力が抜けていった。
「わ、どうしたんだよ、鈴ちゃん」
突然寄りかかった私の身体を受け止めながら、一くんは困惑したように目をぱちぱちさせる。さっきテレビで見た皇煌希の目に似ているように感じたが、私は見て見ぬ振りをした。
一くんがお風呂に入っている間、私はスマホもテレビもつけなかった。ただ、この先何があっても一くんと一緒にいようと、何度も心の中で誓いを立てた。
「それじゃ、電気消すよー」
一つの布団に二人で潜り込む。一くんの腕を枕にし、身体を抱き枕にしようと、仰向けになっている彼の胸元に腕を回す。
だけどやはり、暗闇の中で私が触れたのは一くんの身体ではなかった。私の髪や首を包み込む、筋肉質で逞しい腕。顔をうずめると息も苦しくなるくらい厚い胸板。
まるで知らない男性の身体に抱かれているようで、ドキドキしてしまう。
「一くん、まだ起きてる……?」
「うん。起きてるよ」
声が聞こえて安心する。一くんの声だ。
「あのね」
「うん」
「私、一くんのこと大好きだよ」
一くんから返事はなかった。こんなタイミングで眠ってしまったのだろうか。
私の方はなかなか眠れずに、一くんと過ごした日々のことを一つ一つ思い返していた。学部の授業で同じ班になったのが、最初の出会いだ。恋に落ちるなんて初めは思ってもいなかったのに、一緒に活動をしているうち、何事にも真面目で一生懸命な彼の人柄にどんどん惹かれていった。
実は、自分の一くんへの想いに気づいた日から、毎日ノートに日記をつけている。一くんに見せたことはなく、彼が泊まりに来るときは押し入れの奥に隠すようにしている。
大好きな一くんのことだけを考えているうちに、誰なのかもわからない男性の身体に触れている感覚がなくなってくる。心地のよい眠気に包まれながら、ああ、大丈夫だと思った。今まで積み重ねてきたものを守っていこうという気持ちさえあれば、何があっても二人で乗り越えることが出来ると。
翌朝、目が覚めた瞬間、まだ夢を見ているのではないかという気持ちになった。
私の目と鼻の先にあったのは、皇煌希の寝顔だった。
昨晩テレビで見た、腫れぼったい目の彼ではない。高校時代に一目で心を奪われたときの、あの皇煌希の顔だ。瞼を閉じていても、幅の広い二重のラインがすっと通っているのがわかる。真っ直ぐ筋の通った鼻の先で、小さな穴から微かな寝息が聞こえてくる。
皇煌希の腕は、私の頭を包み込むように回されている。私はそっとその腕を逃れ、身体を起こした。間違いなく私のベッド、私の部屋だ。
「どうして皇煌希が、私の……」
床に倒れ込むようにしてベッドから這い降りたとき、更に信じられないことが起きた。
「鈴ちゃん、どうしたの?」
ベッドの上から、聞き慣れた声が私の名前を呼んだ。眠っていたのは皇煌希のはずだ。それなのに、私を呼んだのは一くんの声に他ならなかった。
「一くんなの……?」
「当たり前だろう。鈴ちゃん、顔色悪いよ。大丈夫?」
皇煌希の容姿をした一くんがベッドから身を乗り出し、心配そうに私の顔を覗き込む。
私の顔色が悪いと言うが、あなたの方は顔色どころじゃない。私は震える手でスマホの鏡アプリを起動させ、一くんに画面を突きつけた。
「あ……」
思っていたよりも驚きは小さいようだった。今に始まった変化ではないからだろう。ここ一ヶ月弱の間に少しずつ、一くんの身体は皇煌希の身体と入れ替わっていったのだ。
『皇煌希、無期限の活動中止を発表
身体の変化はやはり病の影響?』
スマホで芸能ニュースを検索すると、こんな記事がいくつも出てきた。そして昨晩、音楽番組に生出演したときの皇煌希の写真が掲載されているサイトもあった。マイクを持つ皇煌希の手は、私がよく知っているプニプニのクリームパンみたいな手――かつての一くんの手だった。
今、私の部屋にいる一くんは、皇煌希の顔をして青ざめたまま黙り込んでいる。「大丈夫?」と聞いたところで、大丈夫なはずがない。けれど私は、聞かずにはいられなくなった。
「一くん、大丈夫? 何か痛いところとか、しんどいところとか、ない?」
骨ばった一くんの手を握ると、一くんは私を見て微笑んだ。
「鈴ちゃん……大丈夫だよ。見た目が変わっただけだ。痛いところはないし、身体は自由に動かせる。だからそんな顔しないで」
一くんの返事が優しすぎたのと、声は少しも変わらず一くんのままだったのが嬉しくて、私の目から涙がぽろぽろと溢れた。
けれど、泣いているだけではいけない。これからどうするか、私に何ができるか、一くんと話さなければ。
「一くん。どうして身体が変化したのかについて、心当たりはないんだよね?」
「うん。皇煌希も、きっと急に知らない人の身体になって戸惑ってるから、活動を休止したんだよ」
やはり一くんも、ただ自身の身体が変化したのではなく、皇煌希と徐々に入れ替わったのだということに気づいていたようだ。
「午前の授業、一緒にサボろう。私、帽子とか眼鏡とか買ってくる。そのままで外を出歩いたら、皇煌希だって騒がれちゃうよね」
「そうだね……鈴ちゃん、本当に驚かせてごめん。絶対これ以上鈴ちゃんを困らせないようにするから」
一くんはいつも以上に私に優しい言葉をかけてくれる。そして不覚にも、皇煌希の顔で笑みを向けられてドキッとしてしまった。
それから作り置きしていた茄子の煮浸しを味噌汁にして、簡単な朝食をとった。私が買い物に出る直前、一くんは「ご飯代と宿代も含めて」と言いながら、一万円札を三枚も私に押し付けてきた。
【つづく】