第一章 オクガミサマ付きの制度[2]


 佐さ倉くらの家に向かう前日、借りた本を返却しておこうと司つかさは研究室に足を向けた。
「史学科民俗学研究室 准教授 矢や吹ぶき薫かおる」と書かれたプレートの下は不在表示になっていたが、ドアに鍵はかかっていない。多分誰かいるのだろう。
 ノックしてドアを開けると、同期の藤ふじ井い佳か織おりが奥の作業机から顔を上げた。
 長い髪を後ろで束ね、ぶかぶかのシャツにデニム姿だった。この格好のときは、集中モードだ。ひと目でわかる。
「水みな上かみ君、一日ぶり。ちょうど良かった、これから休憩するからコーヒー淹いれて?」
 手元のレポート用紙をまとめながら、佳織は疲れた、と連呼した。それに苦笑しながらパイプ椅子に鞄かばんを置き、ポットに向かった。インスタントだが、研究室で飲むとやけに美味く感じるので、自分も飲んで帰ることにする。
「院試の準備? 大変そうだな」
 机に積まれた本を端に避よけてから、佳織のカップを置いてやった。
「ありがと、水上君の優しさ染みる……砂糖くれたらもっと染みる」
 本当に疲れ切った様子に、司はスティックシュガーを渡した。もう一本と言われ、ためらいながら追加で渡す。佳織のやや吊り気味の大きな目の下には、うっすら隈くまができていた。
「院に進学のほうが就職活動より気楽かな、と思ったけど、卒論と並行だし、バイトは続けなきゃだし、しんどいわ」
 身体が心配になるくらい砂糖の入ったコーヒーを、佳織は美味しそうに飲んだ。
「お疲れさま」
 自分もカップを持ちながら、司は壁一面を埋める本棚を眺める。新しいものがないか背表紙を目で追いながらひと口飲んだ時、スマホが震えた。
 佐倉からだった。
 新幹線の時間と、司の同行を確認する内容のメールだった。急な予定だから無理はするなよ、と添えられていたが、一緒に行く以外の選択肢はなかった。すぐに「行ける」と返したところで、スマホの手元が陰った。
 司の肩に顔が乗っている。人懐こい丸い瞳が、無遠慮にスマホの画面を覗いていた。司はため息をついて肩を避けた。
「水上先輩、どっか行く予定ですか?」
「山やま野の井い。勝手に覗くなよ。あと入ってきたときは声かけろ」
 でかい身体で気配を感じさせずに入ってきて、いつの間にか後ろにいる。司は眉を寄せた。避けたはずの頭が、また肩に乗る。
 山野井圭けい太たはこの春、矢吹ゼミに入ってきた三年生だ。入ってすぐに、矢吹に「面倒を見てやって」と押し付けられた。四年生と三年生を組ませて縦割りの連携を、というのが矢吹の方針らしいが、学生の間では、自分が学問に専念したいがための手抜きだと言われている。
 司も、去年は先輩にお世話になったから、と山野井の最初のフィールドワークに同行したが、それ以来やけに懐かれてしまった。
「だって俺、水上先輩に日本史のレポート見てもらおうと思ったのに。どこに行くんですか、旅行?」
「おい、危ない」
 山野井が話すと、振動で司の肩が揺れる。左手に持っていたカップから、コーヒーがこぼれそうになった。
「こぼしたら出禁になる。巻き添えにするな」
「え、カーペットくらいなら矢吹先生怒りませんよ。本の上にぶちまけたら卒業させてもらえないだろうけど」
「カーペットだって怒られる。どけって」
 山野井がやっと離れた。上うわ背ぜいがあるから後ろにいるだけで存在感がある。
「レポートくらい自分でやりなさいよ。眼鏡のくせに」
 佳織がパイプ椅子から立ち上がり、背伸びのついでに山野井の頭を紙の束で叩いた。
「眼鏡のくせに、ってそれハラスメントじゃないですか」
「あんただって、それ水上君に対するハラスメントじゃない。犬みたいにくっついて回って」
 呆れた顔で佳織が言うのに、山野井は何故か得意げに胸を反らした。
「俺は水上先輩を尊敬していますから」
「そう言って頼ってばっかりじゃない」
 二人が言い合っているうちに司は鞄から借りていた本を出し、本棚に収めた。
「藤井さん、矢吹先生って今日は構内にいないのかな?」
 矢吹のデスクを見ると、椅子にストールがかけっぱなしになっていた。
「うん。今日は清せい教きょう大の教授と会合だって。もう帰らないから、鍵は私が預かった。ストール、巻いていたのに忘れちゃったのね。アイヌ文もん様ようだって自慢していたのに」
「そう。ありがとう」
「せっかくネイルも藍色で揃えていたのに、研究以外は抜けているのよね、矢吹先生。何か用事だった? メールなら夜にチェックしてくれると思うけど」
「いや。フィールドワークに行く予定なんだけど、その地域の資料が全然なくて。矢吹先生なら何か知っているかなと思ってさ。今月は連休明けから、ずっとすれ違ってるな」
「え、それってさっきのメールの」
 山野井が身を乗り出そうとするのを、佳織が目線で止めた。
「どこに行くの?」
「長野県の芙ふ蓉よう村むら。だいぶ山奥っぽい。家固有の神様を祀まつっているらしくて」
 そこまで言いかけて、話し過ぎたと司は言葉を止めた。どんな信仰かわかるまでは、佐倉の家のことを勝手に話すべきじゃない。佳織は驚いた顔で司を見る。
「すごいね。え、家の中に入らせてもらえるの?」
「まあ、一日だけど」
滅多にない機会なのは確かだ。
「そっか、それは現地に行かないとわからないかもね。家独自の屋敷神とかは文献とかにも残ってないこと多いし。個人宅なら、調査前に矢吹先生に一筆書いてもらったほうがよさそう?」
「いや、知り合いの伝手つてがあるから大丈夫。なんか聞ければいいな、くらいだったから」
 深く追求されないことに安あん堵どし、司は急いでコーヒーを飲み干すと、流しでカップを洗った。
「まだ、卒論に使えるかもわからないし」
 矢吹の意見が聞けるなら、とは思ったが、情報を集めてからでも遅くない。
「すぐ行くの? 明日なら先生いるけど。講義も一限目だけだし」
「うん。明日の朝に出る。とりあえず今回は一泊だし、予備調査になると思う。帰ってからゆっくり相談するよ」
 そう、と返す佳織は、もう自分のレポートに意識が戻っていた。休憩は終わりらしい。
 司は鞄を持ち上げた。
「じゃあ、頑張って」
 邪魔にならないよう軽く声をかける。
「気を付けて行ってきてね」
 佳織は本を広げたまま手を振ってきた。矢吹ゼミの学生は、夢中になると周りが見えないタイプが多い。そういう学生を集めているとの噂もあり、司は、自分もああ見えているのかなと思いながら研究室を出た。
「水上先輩、ちょっと待って」
 出た途端、ぐい、と鞄を引っ張られた。転びそうになって、文句を言おうと振り返る。
「さっきのフィールドワークって、佐倉智とも徳のりの家ですか?」
 いつにない山野井の真剣な目の色に気け圧おされた。
「佐倉先輩、だろ。他学部っていっても先輩だ」
「そんなのはどっちでもいいですけど。明日から行くのって、佐倉先輩の家ですか?」
 勝手にメールを見たな、と睨んでも山野井は引かなかった。
「名前言うな。個人情報だ」
「俺も連れていってください」
 頷くまで離さない、というようにしっかりとトートバッグの持ち手を掴まれていた。大型犬が散歩に連れていってくれ、と強ね請だるような姿に、司はたしなめようとして、噴き出した。
「なんで笑うんですか」
 長めに伸ばした癖の強い髪は茶色く染められ、存在感のある黒縁眼鏡に負けない大きな瞳にかかっている。どちらかというと童顔なのに、育ちすぎましたといわんばかりの長身にごつい手足。
「いや、前に山野井が似ているって言われた犬、何だったかと思って」
「それ今関係あります? ……なんか、ボルゾイってやつです」
 困ったように眉を下げる顔に笑いながら、ゆっくりと持ち手にかかる山野井の手を外した。
「同行はいらない。急に人数が増えたら迷惑だろ? 木曜には帰ってくるし」
「でも……じゃあ俺、どっか宿取ります、近くに」
「なんでそこまでしてついてこようとするんだ?」
 山野井は少し目を泳がせ、それから司を真っすぐに見た。
「なんか佐倉先輩って怖くないですか?」
「怖い?」
「雰囲気っていうか……上手く言えないですけど、いつも怒ってる感じがする」
 意外だった。佐倉は総じて愛想がいい。上下関係も気にしないから、司と話しているときも先輩後輩問わず声をかけられていた。
「見た目のせいじゃないか? 整っている顔って、真顔だとそう見える。藤井さんも、よく怒ってるの、って聞かれるらしいし」
「藤井先輩の怖さとは違いますよ。温度が低いっていうか、その逆っていうか」
 山野井は、大きな手でくしゃくしゃと癖毛をかき混ぜた。しっくりくる言葉を探しているときの癖だ。勘はいいのに言語化が苦手。矢吹が山野井を評価した言葉だ。
「なんであの人と付き合いがあるんですか?」
 山野井が手を止めて、司を正面から見た。眼鏡越しなのに刺さるような視線だ。
「なんでって」
「ここの研究室の人と、雰囲気全く違うし。あんまり水上先輩が仲良くなるようなタイプに見えないです」
 いつの間にか、またバッグの持ち手を掴まれていた。タイプが違うのは認める。だけどそれを他の人間に言われたくない。
「仲良くなるようなタイプって、何だ。そうやって決めつけるなよ」
 思った以上に冷たい響きになってしまって、山野井が気まずそうに手を緩めた。耳を後ろに伏せて、尻尾しっぽを脚に巻き込んだ犬。そんな風に見えた。
「とにかく、一緒には行かない。山野井はレポートに専念しろ」
 はい、とうなだれて言う山野井に、司はため息をついて付け加えた。
「帰ってきたら見てやるから」
「……はい!」
 山野井が元気よく返事をした。なんだか本当に飼い主になった気分だ。頭のひとつも撫でてやろうかと思ってしまう。
「じゃあ、なんかあったらすぐ連絡ください。俺、いつでも出られるように待機しています」
「わかった、わかった。で、なんで今日研究室来たの、お前」
「あ、夏の合宿の手配、引き継ぎノート確認しようと思って」
「なら早く戻れ。しっかりやれよ、三年代表」
 背中を押して研究室に戻してやる。
 ドアが閉まる瞬間、山野井が振り返った。眼鏡の奥の目が司を映す。
「気を付けてください」
 廊下に置いていかれたかのように、山野井の声が響いた。

 目を覚ますと、カーテン越しでも晴れているのがわかった。
 余裕をもって寮を出る。佐倉との待ち合わせ時間まで、本を読んで時間を潰してもいい。
 そう思って駅に着くと、すでに佐倉が立っていた。何をするわけでもなく人の流れを見ているその姿を見て、司は少しだけ、山野井が言っていたことがわかった気がした。
 雑然とした空気を許さないというように、周囲を遮断する雰囲気を纏まとっている。
 いつも人に囲まれて笑っているか、司と会うときは表情が柔らかいから気づかなかったのかもしれない。
「ごめん、待ったか」
 いつまでも観察しているわけにもいかない。声をかけると佐倉は司を見て、いつも通りに笑った。
「珍しく早く着いた。いつも俺が水上を待たせるのに」
 よく見る派手な柄のシャツではなく、大人っぽいデザインのジャケットを着ていた。
「これ、渡しておく」
 差し出されたのは切符だった。
「あ、手配任せてごめん。今払うから」
「いいよ。こっちが付き合ってもらうし。昼飯は弁当でいいよな?」
 すでに佐倉の左手には、弁当の入った袋がぶらさげられていた。丁寧に包装されたそれは、結構な値段がするのではないか。
「全部あとで精算する」
「いいって。適当で」
 混んでいる改札をするりと抜けていく佐倉を追いかけながら、慣れているなと思った。相手にストレスを感じさせず行動することに慣れている。
「水上」
 司が切符を通して改札を入ると、佐倉が足を止めてこちらを見ていた。
「本当に来るのか」
 それはいつもの愛想のいい佐倉でも、さっき見せた温度の低い佐倉でもない。ただ、司の真意を問うように目の奥を覗き込んで、子供のように返事を待っていた。
「行く」
 最初から行くと決めていた。卒論のためだけじゃない。大学にはもう戻らないと聞いた時、このまま会わなくなるのは嫌だと思った。
 司が一言だけ短く答えると、佐倉はそのまま背中を見せ、ホームに向かった。
 平日の新幹線は空席が目立つ。窓側の席を佐倉が強く勧めてきて、司はそのまま奥に座った。
「降りてローカル線に乗り換えてからも、一時間かかる。田舎だろ」
「いや、俺の実家も都内の外れだからな。畑とか普通にあるし」
「熊が出たから集団下校したことあるか?」
 佐倉がよくわからないマウントを取ってくるのに、司は噴き出した。
 ハクビシン、アライグマ、蛇と家の近くで見たことのある動物を挙げていくが、鹿と熊を出してくる佐倉には敵わない。そう言うと、佐倉は満足そうにシートに背を預けた。
「水上って、実家が都内なのに寮なのか。てっきり地方出身だと思ってた」
 佐倉がお茶のペットボトルを渡すついで、というように聞いてきた。
 司は窓の外を見る。まだビルが多い。そのまま視線を外に向けながら答えた。
「――俺の家って再婚家庭でさ」
 誰にも話したことはなかった。高校のときは、司の家の事情を知っているクラスメイトがいたが、大学に入ってからは誰も知らない。話したいとも思わなかった。だけど佐倉の家の事情を聴いたのに、自分のことを話さないのはフェアじゃない気がして、司は続けた。
「実の父親は、小さいときに亡くなった」
 あまり記憶はないが、司は父親似だと言われて育った。
「母はずっと看護師をしていて、父と知り合ったのは病院。入院していた父の担当になったのがきっかけで結婚して、俺が生まれて、――すぐに父の病気が再発した。佐倉は、拡張型心筋症って知っているか?」
「……よくは知らない」
「要は心臓の機能が落ちる病気で、ペースメーカーを入れていた。家庭をもって無理したのかも。死因は心不全だって」
「うん」
 佐倉も窓の外に目を向けた。窓に映った互いを見ている。その距離を保ったまま、軽く話す。重くならないように、淡々と。
「俺が中学のときに母は再婚して。相手は小学校の先生でさ。母より少し年上だったけど、穏やかでいい人だった」
 いい人だった。最初は。温厚で、母にも優しくて。経済的にも安定した。
「高校にあがったころ、急に姉ができた。再婚相手の連れ子? ――っていっても子供の年齢じゃない」
 そうだ、義姉はすでに三十に届く年齢で、立派な大人だった。
「再婚したときにはもう社会人で、一人暮らししているって聞いていた。だけど会社で上手くいかなくなって、義父のところに戻ってきた」
 それは司が「家」を失くした始まりだった。
 義姉は義父に似て柔らかな物腰の、真面目そうな女性だった。
 失業して暇だったのか、義姉はよく母や司に話しかけた。最初は話しやすくて明るい人だと思っていた。話す話題は学生時代のこと、友人のこと、テレビで見ているドラマのこと。そしてやめた会社のこと。
 その中にいつも棘とげが含まれていると思ったのが、最初の違和感だった。次第に話し始めると興奮して止まらなくなり、テーブルを叩くようになった。そして、周囲の全てを呪うような言葉を吐いて泣く。
 それに気づいたときには、義父はもう逃げていた。仕事を理由に深夜まで帰らない。その免罪符のように、義姉が強請るままにお金を与えていた。
 次に母が逃げた。再婚してからは避けていた夜勤をするようになった。義姉に渡すお金のために、家計がひっ迫したのも理由のひとつだったとは思う。
 残されたのは司だけだった。できる限り学校や図書館にいて、夜はバイトを入れたが、高校生が働ける時間は限られている。帰ると義姉が待っていて、司を見るとまくしたてるように話をした。リビングにいるのが辛つらくて自室に逃げると、そこにもついてきた。
 母に話すと、ため息をついて部屋に鍵をつけてくれた。
「ドアが開かないってわかると、何時間でもノブを回す。俺が諦めて開けるまで」
 ガチャガチャと回る金属製のドアノブの音。夜中でも、早朝でもお構いなしだった。仕方なく開けると、そのまま部屋の中に座り込み、何度も聞いた話が繰り返され、最後は泣き声になった。鍵は意味をなさず、司の部屋はないも同じだった。
 民俗学を学んでいると怪談を読むことも多いが、司にとって一番の恐怖はドアノブを回す手だった。家にいても、休まる時間はひと時もなかった。
「……だからか、お前が女子と付き合わないの」
 佐倉の問いに無言で肯定した。女子だからじゃない。誰とも無理なのだ。誰も内側に入れたくなかった。
「逃げたくて、寮と学費の免除制度がある大学を探して、入った」
 母はそのころには疲れ切っていて、司が家を出ていくことにほっとしていた。義姉がドアを開けようとするのは、司の部屋だけだったからだ。あの廊下に響く音がなくなるだけで、楽になっただろう。追い詰めたくなかった。ただでさえ、司は偏食のせいで、ずっと母に負担をかけていたのだ。
「義父は」
 話そうとして嘔吐感がこみ上げた。
 思い出したくない。
 佐倉が心配そうに司を見ていた。今、自分は明らかに様子がおかしいのだろう。指先が冷たい。大丈夫だと思ったのに。
 義父はこう言った。
『――あの子の面倒を見てくれるなら、学費を出してあげるよ』
 その言葉が司から家を、帰る場所を奪った。もうここに家族はいないのだと思った。
 二度と会いたくない。義姉にも義父にも。会わなければいつか忘れる。忘れると決めた。
 母に会うことも、もうないのかもしれない。それでも構わなかった。
「水上、飲めるか?」
 目の前にペットボトルが差し出されていた。蓋が開けられている。一口飲むと渇いた喉に染みていった。口にした言葉が洗い流された気がした。
 いつの間にか、佐倉の手が司の背中を撫でていた。シャツ越しに伝わる体温が心地よく、吐く息が楽になる。悪い、ありがとう。そう声をかけようとしたとき、先に佐倉が口を開いた。
「帰らなくていい」
 司が顔を上げられるようになるまで、佐倉はずっとそう言ってくれた。その言葉が冷えた身体に落ちて、内側で柔らかな熱になった。

【つづく】