第一章 オクガミサマ付きの制度[1]


 出ておいで、と柔らかな響きで、「それ」は司つかさを招いた。
 行ってはいけない。
 わかっているのに、司は縁側に降りていた。
 月を背にした佐さ倉くらが振り向く。
 手を取られ、指が触れた。
「佐倉」
 助けを求めて名前を呼ぶ。
 その瞬間、陰っていた佐倉の顔が見えた。
 佐倉の顔も縋すがるものを探していた。
 置いていかれた子供のように――





『本論は、長なが野の県けん芙ふ蓉よう村むらの旧家佐さ倉くら家に祀まつられる、「オクガミサマ」と呼ばれる家憑き神について、2025年5月に行った参与観察調査に基づき、その信仰形態と変容過程を明らかにするものである』



 あ、俺来週はオクガミサマの日だから駄目だわ、と佐倉が呟いた。
 今日バイトだから、のノリの軽い響きがキャンパスのざわめきに溶け込んだ。
 聞き慣れない単語にオクガミサマって何、と司が聞き返すと「家にイルモノ」だと言う。
「イルモノ、って居る? 者?」
 司が尋ねると「そう」と佐倉の返事はあくまでも軽かった。
「俺の実家、めちゃくちゃ田舎だって話しただろ? だだっ広い平屋敷でさ。コの字に建っていて、中庭に離れがあるんだけど」
 そこに居るんだ、オクガミサマが、と佐倉は笑った。
 笑うと、切れ長の目の印象が柔らかくなる。
「……それって家の守り神とかそういう感じの話か。奥の神様? それとも置く神様?」
「まあ、そんなもんかな」
 佐倉の曖昧な言葉が物足りなくて、腕を掴んだ。
「もっと詳しく聞かせてくれ。夕飯おごるから」
「え? なに、水(みな)上(かみ)、そういう話好きだっけ? ……あ、専攻がそうだったか。民俗学」
「そうだよ。そういう家の憑(つ)き物(もの)の話、ものすごく興味ある。卒論もそれでいこうと思っているし。もしかしたらフィールドワークを頼むかも」
 珍しくテンション高いな、と佐倉が目を丸くした。
 佐倉にとって、卒論は卒業するための手段のひとつにすぎないのだろうが、司にとっては大学で学んだことの集大成だ。就職先も研究室の推薦でいくため、卒論を提出することになっている。
 ゼミで司が熱心に取り組んだのは「家の憑き物」というテーマだった。
「狐憑きと精神疾患」は比較的手垢がついているし、犬神憑きは資料集めが難航していた。座(ざ)敷(しき)童(わらし)も憑き物なのだが、こちらは切り口が多すぎて迷いがあった。どうしようかと思っていたところに、令(れい)和(わ)現在で家に憑いた守り神の話が聞けるなんて、興奮しないほうがおかしい。
 オクガミサマ、おそらく奥神様と書くのだろうが、文献では見たことがない。産(うぶ)土(すな)神(がみ)なのか、稲荷(いなり)神(しん)なのか、全く違うものなのか。佐倉の家だけの信仰なのか、地域全体に伝わるものなのか。知りたいことが溢れ出てきた。
「俺、今日はサークルに顔出しだけど、水上は?」
 佐倉が腕時計を見ながら言う。佐倉は複数のサークルをかけもちしている。広く浅く、を体現したような大学生活で、顔が広い。
「俺は図書館に来ただけで、講義はない。だからいつでもいい。佐倉に合わせる」
「じゃあ五時に駅前で待ち合わせにしよう。遅れそうなら連絡する」
 ひらひらと手を振って佐倉は背を向けた。
 四時五十五分に駅前に着くと、人の流れを避けて柱にもたれた。
 講義が終わった学生の固まりが改札に入っていく。おそらく新入生だろう。入学後のしばらくは、心細さから講義後に声を掛けあって帰るのだ。もっとも司は一年生から単独行動だったが。佐倉はどうだったのだろう。三年前のことがひどく懐かしく感じられた。
 司が学部の違う佐倉智(とも)徳(のり)と知り合ったのは、一年生の新歓コンパの時だ。
「ウインタースポーツ同好会」というサークルの先輩に居酒屋に連れていかれ、その先にいたのが佐倉だった。
 どこか高校生の名残が抜けない司と違い、垢抜けた外見の佐倉は目立っていた。
 脱色して無造作に流された長めの髪。スラリとした長身に、切れ長の目が特徴的な、端整な顔。着崩した柄(がら)シャツにシンプルな腕時計を合わせていて、同じ新入生だとは思わなかった。
 女子の視線を集めたその男は、座敷を見渡し、司の隣に座った。
「お、隣よろしく。経営学部の佐倉智徳。何飲む?」
 そんなふうに気軽に声をかけられ、「文学部一年の水上司です」と怯えながら返すと、佐倉は噴き出した。
「俺も一年だって。しかも一昨日(おととい)東京出てきたばっかりの田舎もんだから」
「なんだ、てっきり先輩だと思った」
 大学デビューしたてだって、と手を振られたがそれにしては服装がこなれているし、場馴れしている。しかも軽い対応なのに、物腰には品があった。
 悩みに悩んで、無難に黒のシャツとデニムを合わせた自分とは、明らかに違う生き物だ。
「水上、真面目そうだな。とりあえずウーロン茶とかにしとく?」
「ああ、二十歳前だし、そうする」
「やっぱ真面目だな」
 佐倉が目を細めて言うのに、ノリが悪いと思われたかと少し落ち込んだ。
 こういう場ではどうするのが正解なのかわからない。二十歳前でも、ノンアルコールで飲んでいる感を出すべきだったのか。
「俺はお子様だからオレンジジュース。すいません、こっちウーロン茶とオレンジジュースお願いします」
 やたら大きな声で注文すると、佐倉は司と目を合わせ笑った。
 そのときは雑談をして連絡先を交換したが、司は佐倉とはこの場限りの仲になるだろうな、と思っていた。タイプが違いすぎるからだ。
 佐倉と話すのが精いっぱいの司と比べ、佐倉は話しかけてくる全員とそつなく会話し、連絡先を交換していた。新歓コンパに参加したのも初めてではないのだろう。いわゆる陽キャで、高校生活も充実していたのに違いない。司のように狭い人間関係を好むタイプは退屈だろうと思った。
 だけど予想を裏切り、佐倉はまめに連絡を寄こしてきた。
 いつの間にか予定を合わせてご飯を食べに行くことが習慣づき、四年の春学期が始まった今日まで友情は続いている。
「悪い、お待たせ」
 駅に現れた佐倉はやっぱり目立っていた。髪の色は一年のときより暗くなり、服装もシンプルになったが、それが本来の品の良い顔立ちを引き立てている。去年まではかなりの数の女の子と付き合っていたようだが、それも落ち着いたようだ。
 すでに学生とは思えないような大人びた雰囲気や、人慣れした振る舞いが羨ましくなる。
 司は同じゼミの学生以外とは深い交流はない。バイト以外は、図書館と研究室に入り浸る日々だ。満足はしていたが、社会に出るのにこのままでいいのか、という焦りはあった。
「いつもの定食屋でいいよな」
 歩き出しながら確認すると佐倉はオッケ、と軽い返事をしてきた。酒を飲まない司は食べるのがメインだ。佐倉も付き合いでは飲むが、特にアルコールが好きということでもないというので、いつも同じ店に行く。安くて美味(うま)い上に、食後のコーヒーが絶品の定食屋。まだ六時前だから、空(す)いているはずだ。
「あー、やっぱ水上とのメシは楽だわ。食べることしか考えなくて済むし」
「女の子と行くときと違って、気を遣わなくていいってことか」
「うん。オシャレなご飯もいいけどさ。やっぱ白飯と塩辛いおかずが腹にたまるし」
 藍色の暖簾(のれん)がかかった店の引き戸をガラガラと音を立てて開けると、こちらを見もせずに店員がいらっしゃいませと声を張り上げた。
 セルフサービスの水を取って、勝手に空(あ)いている席に座る。雑な空気が心地よい。
「塩サバ定食と、……水上はいつもの? 野菜ビビンバ?」
「うん、それがいい」
 司は肉が食べられない。魚は大丈夫だが、濃く味付けされたものはあまり好きじゃない。生まれつきそうだった。添加物の多い加工食品も同じように駄目だった。口に入れるとまるで異物のように感じてしまうのだ。
 そういうとたいがい微妙な表情をされ、時には同情された。なにか特殊な信仰があるのでは、と噂されたこともある。だから大学に入ってからは、人と食事をすることを可能な限り避けていた。飲み会も一年の新歓で行ったきりだ。
 佐倉は司の偏食を知っている。とある機会に思い切って話すと、驚いてはいたがそのまま受け入れてくれた。その後も飯に行こうと誘ってくれる。
 五分もせずに運ばれてきた料理に手を合わせ、しばらく食べることに集中する。佐倉もそのつもりだったようで、食べている間は卒論や単位の話を軽くするだけだった。
 本題に入ったのはコーヒーが運ばれてきてからだ。
「オクガミサマについて初めて聞いたのは、十五歳のときだ」
 誕生日祝いのあとに、改まって父親に呼ばれたのだという。
「その席に俺の伯父(おじ)さんがいた。父の兄にあたる人で、武(たけ)徳(のり)さん。俳優でもやっていけそうなかっこいい人でさ、和服が似合う。子供の時は憧れていた」
 親族の中でも特別な存在だ、と佐倉は続けた。
「俺の父親が本家と会社を継いでいて、武徳さんはその相談役に就いている感じかな。実際に会社で役職があるわけじゃないけど丁重に扱われて、俺の家の一番広い部屋に住んでいる」
 全てにおいて伯父が一番だった、と佐倉はカップを持ち上げた。
「伯父は、今のオクガミサマ付きだ」
 ――父親はまずそれを俺に話した。そして伯父のあとにオクガミサマ付きの指名を受けているのは、俺だと告げた。オクガミサマ付きになった者は、地元を離れることはできない。結婚もできない。だから次男である父が会社を継いだのだということ。子供ながらにそれが重い役目だというのが伝わってきた。
 佐倉は一気に話すとコーヒーを飲んだ。
「結婚できない?」
「ああ。独身のまま、オクガミサマに尽くす。還暦まで」
「オクガミサマって、実体があるのか?」
 司は乾いた唇を無意識に舐めた。家の守り神として離れに「イルモノ」。それは概念的なものだと思っていた。
「そうだと思う。姿は伯父しか見たことないけど、オクガミサマに呼ばれたって、しょっちゅう離れに出入りしていたから」
 オクガミサマ付きを差し出す限り、佐倉の家は繁栄する。そう聞くと座敷童に近いと思う。
 座敷童も家につき、居る限りは繁栄をもたらす。そのため遊び道具やお供えを用意して、家に繋ぎとめるという話がいくつも残っている。ただ、結婚を制限されるような例は聞いたことがなかった。もちろん婚姻を制限する神の例はある。が、それが子供の姿をしているといった話は聞いたことがない。
「離れは童(わらず)間(ま)って呼ばれている。オクガミサマ付きしか入れないことになっていて、俺も入ったことはない」
 童間。その呼び名は、座敷童を連想させる。
「御神体があって、そこにお供えものとかしているわけじゃないのか?」
「さあ。中を覗(のぞ)けないからなんとも。お供えはしていないな……でも俺、子供のころに声は聞いたことある気がする。離れにいる伯父と、もう一人が会話している声」
 その言葉に嘘は感じない。少なくとも佐倉は、オクガミサマの実在を信じているのだと思った。
「来週、伯父が還暦になる」
 だから実家に帰って役目を継いで、そのあとはこっちに戻らない、と佐倉は笑う。戻らない、という言葉の意味を呑み込めなかった。
「え、だって大学は」
「単位は取りきったし、卒論も出した。大学側と話はついている。卒業式くらいは顔出すかもしれないけど」
 そんな、と言ったきり司は言葉を止めた。佐倉の軽い口調と裏腹に事態は重い。あと一年もある大学生活を切り上げ、自由を奪われるなんて。
「こっちに出てきたのは最後の自由時間っていうか。まあ三年間遊んだし、帰るのは仕方ない。最初からそういう約束だったし」
「知らなかった」
 冷めてしまったコーヒーを飲み干して呟くと、言わなかったからな、と佐倉が笑った。
 初めて会ったときの身なりや物腰から、いい家の出身なのだろうと思っていた。金に困っている様子もないし、所(しょ)作(さ)も洗練されていて羨ましかった。田舎出身だと言っても、余裕がある家庭なのだろうと。学生寮に住み、奨学金を背負ってアルバイトと単位取得に追われていた自分と比べ、恵まれているやつはいいよな、と何度か思ったこともある。
 佐倉と違い、司は帰ることを強要されない。親は入学してから一度も連絡をしてこなかった。司もしていない。きっとこの先、実家には帰らない。それはある意味自由なのだと思う。
「……いい家も大変だな」
 オクガミサマの実態が何であれ、佐倉家で決まっているのであれば、それに逆らうのは困難なのだろう。令和の現代で、といいつつも、神社のお参りや厄よけをする人がいなくならないのと同じで、信仰というのはそこかしこで生きている。地方なら尚更だ。フィールドワークに行った先輩たちから話を聞いていると、驚くほど自然に神事や言い伝えが根付いていることがわかる。
「水上、一緒に来る?」
 気がつくと、至近距離から覗き込まれていた。
「え」
「興味あるっていっていただろ? オクガミサマ。さすがに儀式そのものは見せられないだろうけど、離れを外から見るのはできるし。用意とかも見ていいよ。書庫に家(いえ)史(し)とかもあるし、卒論の役に立つかも」
「……いいのか」
「無駄に部屋数ある家だし、旅行だと思ってくれば? 俺も一人で帰るより楽しいし。もう彼女とも別れたし」
 どうせなら水上の役に立つほうがいい、と言われ、ふいに泣きそうになった。
「詳しい時間は連絡する。来週の水曜日には帰らないとだから、もし一緒に来るなら空けといて」
 頷いて、冷めてしまったコーヒーを飲み干した。いつもより苦く感じる。この先ここで一緒に定食を食べることもないのか、と思うと、持ち上げたカップが鈍器のように重い。かける言葉は思いつかなかった。
「来週なら行ける。絶対連絡してくれ」
 なんとかそう返すと、佐倉は笑った。

【つづく】