大江戸恋情本繁盛記 ~吉原の鮓~

(ここへ来るのも、ずいぶんと久しぶりだ……)
大門までの五十間に並ぶ店を眺めながら、葛飾北斎は袋手に衣紋坂を下っていった。
ここは吉原に繋がる唯一の道。
浅草の北に造られた幕府公認の色里である吉原は、周囲を野原に囲まれていて、他には何もない。遊女を逃がさぬためでもあるが、市中に置かぬことで、風紀を守る意味もある。
北斎は、七十を過ぎてなお健脚で、杖をついたこともない。絵描きの基本は健康と自負し、酒も煙草もやらず、飽食にも溺れていない。無論、女色も同様で、ここへは以前、絵を描くために通ったこともあったが、近頃は足が遠のいていた。
それが久しぶりに訪れたわけは――
「春朗さん」
大門をくぐると声をかけてきた男に、北斎は顔を顰めた。
「だから、その名で呼ぶのはやめやがれ。蔦――唐丸」
北斎よりも十は年上の、しかしその年になると大して見かけは変わらぬ爺いが、皺の深い顔をさらに皺くちゃにして笑んだ。
「よくきてくれたね」
「おめえがおもしろいもんを食わせるっていうなら、本当におもしれえんだろうからな。そこは間違いねえだろう」
「信じてもらえて、うれしいねえ」
そう言って目を細めた爺いの顔は、若い頃の色男ぶりをうかがわせた。
この男は蔦重――蔦屋重三郎である。
四十年も前に死んだことになっていて、正法寺に墓もあるが、こうして生きている。そのことを知るのは極僅かな者だけで、どうして金を稼いでいるのかはわからぬが、いまは唐丸と名乗って、生まれ育ったこの吉原に居続けをしているらしい。
「じゃあ、行こうか」
杖をつきながら歩く蔦重と並んで、歩速を緩めて北斎は歩き出した。
通りには、昼見世が始まるのを待つ気の早い客の姿がまばらにあるが、賑わいには程遠い。遊女たちも身支度に忙しく、朱格子の籬の向こうにもその姿はほとんどない。
だというのに、とある見世の前を通り過ぎたとき、
「――これは大先生じゃないですか」
そう、大柄な侍に声をかけられた。
無視をするわけにもいかず、北斎は足を止めて無理やり笑顔を作った。声をかけてきたのは遠野伊織という無役の御家人で、道楽な男である。
「こりゃあ、遠野の旦那。珍しいところで合うじゃねえか。こっちの方は食指が動かねえんだと思ってたが」
「大先生こそ。私は頼まれて金を届けに来ただけです。揚げ代が足りなくなったから助けてくれ、と文をもらったので」
そういうことか、と北斎は苦笑した。派手に遊びすぎて代金が払えなくなるのは、ここではよくあることだ。
「北斎先生、こちらは?」
横合いからそう問われ、北斎は嘆息した。蔦重は、己が身分を偽っているのを忘れているのじゃあないか、と思ったが、こうなれば紹介しないわけもいかぬ。
「この旦那は、遠野伊織殿。見ての通りの侍だが、酔狂な男でな。本屋の株を買って『浅倉堂』の主なんかもやっている。――旦那。こっちは唐丸。俺の古い馴染みだ」
伊織と蔦重は互いに軽く頭を下げた。
「本屋の主と言っても名ばかりで、商いの方は人に任せっぱなしなのですがね」
「お店は私も存じておりますよ。『転生御七振袖纏』に『湯花宿場侠客赤ノ菊』……どちらも評判の本だ。これも縁。いかがです? 我らはこれから、ちょいとしたお楽しみに参るところなのですが」
「おい、唐丸――」
何を言い出すんだ、と慌てる北斎を蔦重は目で制し、
「女遊びではございませんが。珍しいものを食べる集まりなのでございますよ」
「おもしろそうですな」
「では、共に」
踵を返した蔦重に北斎は慌てて駆け寄り、
「おい、何を考えてんだ」
「いいじゃないか。天さんの店の主がどんな男か、興味がある」
浅倉堂を回している主代理の天という女は、唐丸の正体を知る一人だ。いまのところ、こちらの頼みを守って、正体を話さずに居てくれている。
蔦重が酔狂なのは昔からだから、いまさら直るはずもない。北斎は、
(どうにでもなれ)
と諦めて、蔦重のあとについていった。
○
「今朝、私が贔屓にしている料理屋から伝えがきましてね。出入りの仲買に、《ばけまぐろ》が獲れたんで引き取っちゃくれねえか、と泣きつかれたんだがどうしようもない。吉原でどうにかできないか、と」
「ばけまぐろ?」
首を傾げた伊織に蔦重は、
「見ればわかりますが、おそろしくでかい鮪のことでございますよ」
と笑った。
「鮪ってえと、あの鮪か? でけえっていっても高が知れんだろう」
北斎が言うと、
「そいつが知れねえから、ばけ、なのさ」
蔦重は、にやりと笑い、ぱん、と手を叩いた。
馴染みの大見世の二階の座敷の襖が開いて、幇間がふたりして巨大な台に載った大魚を運びこんできた。
思わず、こいつは、と声が出た。
ばけまぐろ、とはよくぞ言ったもの。形は確かに鮪なのだが、牛ほどの大きさがあり、破裂しそうにぱんぱんに身が詰まっている。
「常はずっと沖のほうでしか見られぬらしいですが、たまさか湾に迷い込むことがあるとか。ただこれほどの大きさのものは珍しいので、私が買いました」
「確かに珍しいが、こんなもん、どうすんだよ。鮪なんてえのは、傷むのは早えし、脂が多くてくどいしで、猫も跨ぐ下魚じゃねえか」
「だからこそ、世にも珍しき妖術で宝魚にしてみせよう、というわけでして」
蔦重は、楽しげに座敷に集まった面々を見回した。呼ばれたのは北斎だけというわけではなく、裕福そうなどこぞの旦那衆や、己と同じ匂いのする輩、その連中が呼んだ遊女や禿などもいて、広いはずの座敷がずいぶんと狭く感じられる。
「では、始めましょうか」
蔦重がもう一度手を叩くと、奥から一人の爺いが現れた。料理人の態ではあったが、手には抜き身の刀を携えていた。変わっているのは頭で、髷を結ってはおらず、襟足を短く斜めに切っている。坊主がものぐさをして剃らずにいるとこんな頭になりそうだった。
「あいつは?」
「ちょいとした縁で、私が面倒を見させてもらっている御仁さ。人別がないので本当の名前はわからないのだけれど、あれで狂歌なんかもやっていてね。そっちは、にんぎゅう、と名乗ってる」
「おめえの酔狂も大概だな……」
ちらりと伊織を見ると、面白そうに化鮪を見ていた。人別がない、などという話はとても聞かせられぬ。無役とはいえ、伊織も御家人。身分不確かな者がいると知って、役人に知らせないとは言い切れぬ。それとわからぬ蔦重ではないはずなのだが、その危うさも楽しむ癖は、まったく抜けていないようだ。
「では、始めましょう!」
そう言って蔦重が目配せをすると、にんぎゅうは幇間に手伝わせて、鍔のない刀で化鮪を捌き始めた。
血抜きは済んでいたのか血はほとんど出ず、畳に敷いた油紙は汚れることなかった。
あっというまに巨大な鮪は三枚に卸されて、一抱えもある頭は行水をするための巨大な盥に置かれ、幇間には骨に残った身を箆でこそげ落とさせた。
その間に、男は刀を包丁に持ち替えて、見事な手つきで身を切り出していく。
台にずらりとならんだ身は、切り出された部位によって色が違い、とても美しかった。馴染みのある深い赤のほか、牡丹のような赤い身のもの、それに白い線が入ったもの、など。
にんぎゅうは、それをさらに削いでいく。見事な手つきだ。
「若い頃は、鮓の修業をみっちりとしていたそうです」
「鮓? あんなもんに修業がいんのか?」
北斎は首を捻った。鮓なんぞというのは、酢を混ぜた握り飯に大振りの魚の切り身なんかを載せて喰う、漁師の飯だ。三つも喰えば腹が膨れる。近頃は屋台もあるようだが、河岸以外では見たことがない。
「だからおもしろいんじゃないか。でなけりゃ声をかけないよ」
いらずらっぽく、蔦重は笑んだ。
その間に、座敷には飯の入った桶が運び込まれて、にんぎゅうは手に水をつけて小気味よく叩くと、その手を飯に突っ込んで飯をすくい取り、見たことのない仕草で形を整え、切り出した身を載せてまた整え、台の上に置いていった。その動きは奇妙な踊りのようで、どこか滑稽でありながら、美しくもある。
やがて、鮪ばかりの鮓が、ずらりと並んだ皿が、それぞれの前に置かれた。
(確かに鮓に見えるが、ずいぶんとちいせえな……)
大人の親指より一回り大きいくらいしかない。ひとくちでいけてしまいそうだ。小ぶりの握りの他にも、酢飯に海苔を巻きつけてその上に骨から梳いた身を載せたものもある。その上に刷毛で醤油を塗ってあるのだが、白く筋が入った身は脂が強いのか醤油を弾いている。
「さあさ、どうぞお召し上がりください!」
やおら立ち上がった蔦重が、満面の笑みをうかべてそう言った。
「左から、大とろ、中とろ、赤身、そして海苔を巻いたものは、ねぎとろ軍艦というものだそうでございます!」
「とろ? どういう意味だい?」
旦那の一人がそう問うたのに、蔦重は、
「さあ? にんぎゅうさんの里では、そう呼ぶのだそうで」
としか答えなかった。
「名はともかく、猫も跨ぐ下魚を、この男が、妖術にて生まれ変わらせた、まったく新しい鮓にございます! さあ、どうぞどうぞ!」
そうは言ったものの、さすがに皆、躊躇っている。当然だ。鮪というのは鍋に入れるか焼くかして、火を通して食べるもの。生で食べて腹を壊してはたまらぬ。
「……ふむ」
その中で、す、と手を伸ばしたのは、伊織であった。持つというよりつまむといった仕草で鮓を持ち上げると、ひとくちで食べた。
「む」
伊織の目が見開かれた。
「うまい」
「本当かい?」
北斎が思わず訊くと、伊織は頷いた。
「いや、これは驚きですよ、大先生。鮪の身がこれほどうまいものだとは知りませんでした。葛のごとく口中で蕩ける。下の飯もまったく違う。河岸の鮓はぎゅっと堅く締まっていますが、この飯はとてもやわらかく握られている。口に入れた途端にほろりと崩れて、鮪の身と交じり合うのです」
ごくり、と皆の喉が鳴った。
「わかってるじゃねえか、若いの」
にんぎゅうが、侍に向かって放つには不遜な物言いで伊織を誉めると、座敷に集まった連中は我先にと皿に手を伸ばした。
驚きと賞賛の言葉が次々と上がる。
「これ、ほんまに美味しおすなあ……それに、この大きさなら、あっちらでも綺麗にいただけます。ぬしさん、あっちはこれが気に入りました。もっと食べたい」
遊女にしなだれかかれて、客の男たちの鼻の下が伸びる。
確かにこの大きさならば、遊女も、品を失うことなく食べられる。大口を開けて飯を食らうなどという夢を砕く真似はできぬから、遊女は客の相手をしている間、ほとんど何も食べることが出来ない。しかしこれなら。
「花魁握り、とでも名付けましょうか。ここでしか食べることのできぬ珍しき鮓!」
煽るように蔦重が言う。
その後ろで、にんぎゅうと呼ばれた男は、年を取ってもちっとも変わらぬ蔦屋重三郎を、何とも呆れたような顔で笑っていた。
○
「へえ。あんたが《浅倉堂》の主かい」
他の客が帰り、座敷には、北斎、蔦重とにんぎゅう、雪花という遊女、それに、伊織だけとなり、にんぎゅうはやはり侍に対して相応しいとはいえぬ物言いで北斎の肝を冷やしたが、蔦重は慣れているのか、涼しい顔であった。
「私は株持ちというだけで、商いは人に任せております」
「それじゃあ、戯作大相撲はそいつのアイデアかい?」
「あい――? 南蛮言葉ですか?」
「ほう、よくわかったな」
にんぎゅうは、にやりと笑った。
「この時代の侍にしちゃあ、なかなかに学がある。そうだ。アイデアってのは思い付きとかそういう意味だ。戯作大相撲――新人賞とは、この時代にそんなことを思いつくやつがいるとは思わなかった。やり手の編集じゃねえか」
伊織の目が、妙な光りを帯びたように、北斎には見えた。
「……にんぎゅうさんは、どこのお生まれで?」
「ここよ」
「吉原、ということですか?」
伊織の問いに口を開きかけたにんぎゅうの骨ばった手に、雪花という遊女が、横合いからすっと己のそれを重ねた。
「ぬしさん、そろそろ。あっちは眠うありんす」
「ん? そうか」
伊織と話をしていたことを忘れたように、男は雪花に支えられるようにして立ち上がった。
「それでは、お先に失礼しんす」
優雅な会釈を残し、二人は座敷を退出した。あとには男が三人。何ともいえぬ沈黙が下り、先刻までの華やか舞台が、夢であったかのようだった。
「――では、私もこれで」
もはや話も続かぬと見たか、伊織も立ち上がった。刀を大門の外に預けているからか、僅かによろけたのが、いかにも侍であった。
「今日はおもしろき目見をさせてもらいました。ぜひともまたお声掛けをお願いします」
そう頭を下げ、見世を出ていった。
「……やれやれ」
しばしのち、北斎は太いため息を吐いた。
「ったく……肝が冷えたぜ」
「そうかい? 俺ぁ、おもしろかったが」
くつくつと、蔦重は喉の奥で笑った。
「冗談じゃねえぜ。俺は二度と御免だ」
北斎はすっかり冷めた茶を啜りながら、にんぎゅうという男の所作にどこか覚えがあるような気がして、首を捻った。
○
この後、吉原ではたまさか、花魁の宴席においてのみ《花魁握り》なる鮓が供されたというが、ある時からぱたりと見なくなった。
やがて、それを真似た物が市中に出回るようになると、ひとくちで食べられるその小ぶりの鮓が、江戸のあたりまえになったという。
とっぴんぱらりのぷう。
【おわり】