竜に乗った魔法使い

悲鳴が聞こえた、と思った瞬間、背中に誰かがぶつかってきた。
秋の収穫祭で賑わう町の目抜き通りには、いくつもの露店が立ち並び、多くの人で溢れている。クロはそんな店のひとつで冷えた麦酒を購入し、今まさに口に運ぼうとしていたところだった。
唐突に背後から受けた衝撃によって、手にしたジョッキになみなみと注がれていた酒は、無惨にも地面に盛大にぶちまけられた。
足下に広がったその慣れの果てを愕然と見下ろし、空になったジョッキを手にしたまま、クロは無言で立ち尽くす。
一気に怒りが沸点に達し、文句を言おうと鬼の形相で振り返った。
「おい……!」
しかしクロにぶつかってきた男は、その場に倒れたまま腹部を抱え、うめき声を上げている。
「あなた!」
女の声が響いた。
雑踏の向こう、絶望を絵にしたような表情を浮かべる女が、膝をついて幼い娘を抱きしめていた。
女の前には、一人の青年が立ちはだかっている。その左右には、兵士が四人。
「お、お許しください、若様……!」
女が泣きながら地に伏した。腕の中で呆然としている娘の頭も、必死に下げさせる。
「俺が? 許す? 一体何をだ?」
青年はさも心外と言わんばかりに、大仰に眉をしかめた。
「お、お、お召し物を、娘が、汚して、しまい……も、申し訳なく……」
かたかたと震えながら、頭を下げる。
「ああ、この晴れ着か」
今気づいたというように、彼は己の姿を見下ろした。葡萄酒のような紫のダブレットには毒々しいほどの金の縁取りが施され、袖口には白いレースが幾重にも溢れている。その下には鮮やかな緑のズボンを合わせており、磨き上げられた革のブーツには汚れひとつない。胸元には大ぶりでごてごてした首飾りを、これ見よがしにぶら下げていた。
金がかかっていることはわかる。だがクロからすれば、憤死したくなるほど絶望的にセンスのない組み合わせだった。それぞれが互いに主張し過ぎていて、統一感もなにもあったものではない。
そんな彼の腹部には、何やら白いクリームがべったりとついていた。そして、母親が庇う少女の手には、潰れたクレープの残骸が握られている。
「これは、都で誂えた特別なものでな。指折りの職人が手掛けた、希少な絹をふんだんに使った逸品だ。お前たちの一年分の稼ぎでも、贖えぬ代物だろう」
「申し訳ございません! 申し訳ございません……!」
女の謝罪には見向きもせず、男は目の前の露店をとっくりと眺める。台の上には、蜂蜜パンやジンジャーブレッド、タルトなどの焼き菓子がずらりと並んでいた。
「これはお前たちの店か?」
「さ、左様でございます……」
女が青い顔で頷くと、青年はおい、と兵士たちに何かを命じた。すると彼らは突然、並べられた菓子を乱暴にわし掴みにし、ぞんざいに地面に叩きつけ始めた。
さらに音を立てて台ごとひっくり返し、往来の真ん中に放り出す。周囲からも悲鳴が上がった。
「お、おやめください……!」
クロにぶつかった男が蹲ったまま必死に叫んだが、誰も彼の制止に注意など払わなかった。
「見て、またマキジ様だよ」
「ああ、あれが未来の領主様だなんて……」
「下手に関わるなよ。どんなとばっちりを受けるかわからんからな」
「かわいそうにねぇ……」
遠巻きにその様子を見つめる町の人々が、小さな声で囁き合う。マキジと呼ばれるあの偉そうな人物は、ここの領主の息子かなにかなのだろう。そしてその横暴ぶりは、すでに皆が知るところらしい。
マキジは地面に落ちた焼き菓子を、ご丁寧にブーツのかかとでぐしゃりと踏みつぶすという追い打ちまでかけた。
「ああ、また汚れてしまったではないか」
顔を顰めると、女に向かってその足を突き出す。
「拭け」
女は震えながらも、己のエプロンの端を掴んで、恐る恐る彼のブーツを拭こうとする。
しかしマキジは「違う!」と彼女の顔を蹴飛ばすと、その腹部にかかとを突き立て、ぐりぐりと踏みにじった。悲鳴を上げる母親を前に、娘がわんわんと泣き叫ぶ声が響き渡る。
人々はその光景を見るに耐え切れず、息を潜めるように俯いたり、痛ましそうに視線を逸らしたりしている。
汚れの取れたブーツを眺め、マキジは愉快そうに笑った。
「拭くとはこういうことだ」
同時に、クロの蹴りが彼の後頭部を直撃した。
マキジの身体は勢いよく吹き飛んで、近くの壁に激突する。周囲から、恐れと驚きを含んだ悲鳴が一斉に上がった。
倒れて動けなくなっているマキジを、兵士たちが慌てて助け起こそうとする。そのうち二人は、クロに向かって剣を向けた。
「貴様、このお方をどなたと……!」
それ以上話す間も与えず、クロは一人目を殴り倒し、さらに二人目を蹴り飛ばした。本来の姿が竜であるクロの力は、人とは比べ物にならない。ある程度控えめに攻撃したつもりだったが、相手はいずれも呆気なく地べたに伏し、そのまま気を失ってしまった。
あとの二人も、顔色を変えクロに襲い掛かってくる。クロは振り下ろされた剣を避け、その流れのまま相手の腕を捻り上げた。悲鳴とともに、手の内から剣が零れ落ちる。ねじれた腕を抱えて悶絶するその男を尻目に、クロは地面に落ちた剣を拾い上げ、残った一人にすっと切っ先を向けた。
すると相手は青ざめて悲鳴を上げ、じりじりと後退ったと思うと、そのまま人ごみを掻き分けて遁走した。
「お、おいっ! 逃げるなっ! 私を守れっ、馬鹿者!」
マキジの情けない声が響き渡る。
阻む者はいなくなり、クロはゆっくりと彼に近づいていった。
己を守る盾を失った哀れな青年は、がたがたと震えて縮こまっていた。腰が抜けたのか、立ち上がることもできずにいる。
「おい、お前」
がんっ、とその顔の真横に右足を叩きつける。踵の跡が深くめり込み、ひび割れた壁面から破片がばらばらと崩れ落ちていった。
「お前のせいで俺の酒が台無しになったじゃねぇか。どうしてくれんだよ、ああ?」
「ひぃっ……」
青ざめた顔を引きつらせながらも、マキジは必死に声を上げた。
「わっ、私の父上は、ここの領主だぞ! 私に何かあれば、父上が黙っていないからな! お前も、お前の家族も、皆ただではすまさ――ぐふぅっ!」
喚き散らす次期領主の顔を思い切り蹴り潰して、クロは舌打ちをした。
「靴が汚れたじゃねぇか」
そう言って、彼自慢の晴れ着で、靴の裏を拭きとる。
息を呑んでその様子を見つめていた群衆の間をすり抜けると、クロはさきほど麦酒を買った店に赴き、
「もう一杯」
と注文した。
店主は恐々と、クロにジョッキを差し出した。その表情には、領主の息子を叩きのめした相手に関われば自分にも類が及ぶかもしれないという恐れと、気に入らないあの男をクロがぶちのめしたことで溜飲が下がったという喜びが、それぞれ複雑に見え隠れしている。
顔面を腫らして血を流しながら、えぐえぐと子どものように泣いているマキジに、手を差し伸べる者は誰もいない。よほど嫌われているのだろう。
彼がよろよろと立ち上がって、倒れた兵士たちを放置したまま逃げるように去っていくと、それまで様子を見守っているだけだった周囲の人々が一斉に動き始めた。
彼らは身動きできずにいる夫婦を助け起こし、破壊された露店の立て直しを手伝いながら、マキジの横暴に対する怒りを口々に言いたてた。中にはよくやったといように、クロの肩をぽんと叩いていく者もいる。
「クロさーん」
そんな人々の合間から、アオが手を振りながらやってくるのが見えた。果物やら野菜やらが大量に入った籠を抱えている。
「見てください、ハンマー打ちで一等になって、こんなにたくさん景品をいただきました! うっかり壊さないように力加減するのが大変で――あれ、何かあったんですか?」
「ちょっとした喧嘩だ。祭りにはつきものだろ」
「おや、そうなのですか? それは是非見てみたかったですね」
クロは一気にジョッキを傾けて飲み干すと、満足そうに息をついた。
「行くぞ。そろそろシロガネたちと合流する時間だ」
「おおーっ、お見事!」
シロガネの隣で、ミライが目を輝かせながら手を叩く。
太鼓や笛の音が華やかに鳴り響く中、曲芸の一座が披露する軽やかな綱渡りに、集まった人々は皆こぞって大きな歓声を上げていた。
ここは、大陸の西側に位置するとある町。
今日もまた唐突に未来からやってきたミライが「たまには島の外に行きたい」と言うので、皆で連れ立って大陸までやってきたのだった。
秋の終わりのこの時期は、あちこちで収穫祭が行われている。ミライは初めて見るこの時代の祭りに、すっかり夢中になっていた。
未来の恰好そのままで島の外に出れば明らかに悪目立ちするので、今日のミライはシロガネが用意した服を身に着けていた。仕立ての良いウールのチュニックの上に外套を羽織り、胸元には控えめな意匠の真鍮の留め具。下は、厚手のズボンに革のブーツ。平民の中でもそこそこ裕福な家の若者が、友人と一緒にちょっとした旅に出ているという風情だ。
先ほど買い求めた蜜がけの焼き林檎の串を片手に持ち、時折それを齧っては嬉しそうに頬張る。祭りの様子をきょろきょろと眺めまわす表情は、まるで子どものように無邪気だ。
向かいから娘ばかりが五人、きゃっきゃと笑いさざめきながらすれ違った。髪に花を挿して、年に一度の祭りの熱にすっかり浮かれているようだ。ふざけ合ってけらけら笑いながら、前もよく見ずに歩いていた一人がミライにぶつかった。「あっ」と短く声を上げて、ようやくミライの存在に気がついたというようにあたふたとする。
「ごめんなさい」
手にしていた焼き林檎を取り落とさないように死守したミライは、謝ってきた少女に、
「大丈夫? 服、汚れなかった?」
と優しく尋ねた。
すると、ミライの顔を見上げた少女はみるみる赤面した。彼女の友人たちも皆足を止め、その視線が集中する。
さもありなん、とシロガネは思った。ミライの容貌はクロやアオと並んでもひけをとらないし、醸し出す雰囲気から育ちの良さが滲み出ていて、明らかに好物件だとわかる。若い娘にはさぞ魅力的に映るだろう。
さらにミライの隣にいるシロガネに気づくと、今度は全員目を見開いて固まってしまった。
「……だっ、大丈夫……ですぅ」
ぽうっとなった少女の声は、一段跳ね上がった。
「お兄さんたち、旅の人? お祭りを見にきたの?」
別の少女が、目を輝かせて身を乗り出す。
「え? えーと、そんなものかな」
「じゃあ、一緒に回りましょうよ! 私たちが案内してあげる!」
「いつまでいるの? 今夜はね、みんなで広場に集まって踊るのよ!」
「泊まるなら、うちに来て! 宿屋だから安くするわ!」
媚びを含んだ笑顔と声音で口々に誘う彼女たちに、ミライは悪い気はしていないようだった。けれど、やんわりと断りを入れる。
「ごめんね。俺たち、あんまり時間なくて」
実際、ミライの時間は限られている。
この時代に滞在できるのは六時間まで。すでに四時間が過ぎているから、あと二時間以内に終島へと戻る必要があった。
少女たちは不服そうに声を上げたが、ミライはにこやかに、
「じゃ、人が多いから、気をつけて歩きなよ」
と、さらりと別れを告げた。去っていく二人を、少女たちが名残惜しそうに見つめる視線を背中に感じる。
「お前がいると、外に出る度こうだよなー」
「ぶつかった子は、僕よりミライのことが気になってたみたいだけどね」
「あーあ、俺だって時間があれば、可愛い女の子と祭りを楽しんで夜まで遊びたいっつーの。未来じゃこんなふうに自由に出歩けることなんて、滅多にないしさ」
ミライはじとっとした目で、シロガネをねめつける。
「どうせお前は、こうしてもてはやされるのが日常茶飯事なんだろうけど。いいよなー、よりどりみどりで」
「ミライ、僕こう見えて、もう結構な歳だからね? そんな遊びに興じるほど若くないよ。同世代の知り合いには、孫だって普通にいるんだから」
シロガネはどう見ても二十代の姿ではあるが、実年齢でいえばもはや完全なる老人である。
「その顔で言われても説得力ないんだよ、お前」
ミライが肩を竦めて焼き林檎を齧った、その時だった。
「――そこのあなた」
騒がしい雑踏の中で、そのしわがれた声は妙にはっきりと耳に届いた。
「あなたです。銀髪の、麗しいお方」
シロガネは足を止める。
四辻の隅に、小柄な老婆が小さなテーブルを置いてちょこんと座っていた。頭から漆黒のヴェールをすっぽりと被っており顔はよく見えないが、皺だらけの口元が真っ赤な紅で彩られているのが目を引いた。
「僕ですか?」
目の前に置かれた水晶玉に手をかざしながら、老婆はシロガネに語りかける。
「ええ、そうです。――あなたには今日、最高の幸運が訪れますよ。水晶玉が、そう告げています」
厳かに、しかし確信に満ちた口調で老婆は言った。ヴェールの下から微かに覗いた瞳が、こちらをじっと見据えている。
シロガネは「おやおや、それは」と微笑んだ。
「嬉しい予言ですね。ありがとう」
「私の占いは、当たると評判なのですよ」
老婆はすっと、掌を差し出した。
赤い紅を引いた唇が、にぃっと弧を描く。
「お代は、お気持ちで」
予知魔法を操る魔法使いは未来を予見することができるが、それとは別に、人間の中にもこうした占いを生業にする者がいる。それは経験と統計の蓄積による判断技術であり、傾向を読み解く解釈体系というようなもので、予知魔法とは根本的にまったく異なる分野だ。
ただしこの老婆の場合、祭りで浮かれた人々を捕まえて調子の良い予言をあえて告げ、儲けを上げるという商売なのだろう。
シロガネは苦笑して、銀貨を一枚差し出した。
それを見たミライが、呆れたような声を上げる。
「おい、払うのか? 頼んでもいないのに勝手に占って金を要求してくるなんて、完全に観光地の写真詐欺と同じ手口だぞ? ったく、この時代からあるんだな」
あまりに気前の良い支払いに老婆も驚いて、掌の上に乗せられた硬貨とシロガネを何度も見返している。
「こんなに?」
「いい予言をいただきましたからね。では、お身体に気をつけて」
立ち去ろうとするシロガネとミライに、老婆は「お待ちなさい!」と声をかけた。
「これほどの対価をちょうだいするとなれば、もうひとつ未来を覗いて差し上げましょう。――そちらのあなた」
水晶玉を覗き込んで、ミライを手招きする。
「え、俺?」
「ええ、あなたです。――あなたの夢は、必ず叶う時がやって来ますよ」
「俺の夢?」
「そう……幼い頃、お姉さんと約束をしたことがおありでしょう?」
ミライは目を見開いて、息を呑む。
老婆は満足そうに、口元に笑みを浮かべた。
「ではお二人とも、どうぞ祭りを楽しんでいかれませ。よい一日を」
慇懃に送り出す老婆に見送られながら、シロガネとミライは華やいだ人の流れへと戻っていった。
肩越しにそっと振り返ると、老婆が通りがかった若いカップルに声をかけている。「あなたたちには今日、最高の幸運が訪れますよ。水晶玉が、そう告げています」とシロガネに言ったのとまったく同じ予言を、しわがれ声で告げるのが聞こえた。黒いヴェールが、祭りの風にかすかに揺れている。
「ミライ、お姉さんがいるの?」
「……まぁ、うん」
初めて聞いた。ミライは未来のこと、自分のことは基本的に話さないのだ。
「よかったね。夢、叶うらしいよ」
「占いなんて、それっぽいこと言ってるだけだろ。俺に姉がいるか兄がいるかなんて、ちょっとした確率の問題だし。――いや、待てよ。お前が本当に今日、最高の幸運を掴んだら、ちょっと信じてみるかな」
「うーん、最高の幸運かぁ。なんだろう? 楽しみだな」
「大金が転がり込んでくるとか? 絶世の美女に出会う?」
「美女はともかく、まずはうちの美男たちに会いにいこうか。待ち合わせの時間、少し過ぎちゃってるから――」
「父さん!」
幼い声とともに、唐突に腰のあたりに何かがぶつかってくる。
シロガネは驚いて振り返った。
年の頃は七~八歳ほどの少年が、シロガネに抱きついている。その頭頂部を見下ろすと、短い銀髪が光を受けて煌めいた。
「父さん、帰ってきてくれたんだね!」
ぱっと顔を上げた少年は、今にも泣き出しそうに瞳を潤ませた。小さな手はシロガネを決して離すまいとするように、ローブを固く掴んで離さない。
ミライは少年とシロガネの間で視線を行ったり来たりさせると、軽蔑するような声を上げた。
「シロガネ……こんなところに隠し子なんか作って」
「人聞きの悪い。知らない子だよ」
「父さん! 俺がわからないの?」
見知らぬ少年は、瞳に涙をためてなおも言い募る。
シロガネはため息をつくと、腰を落として少年と視線を合わせた。
「えーと、迷子かな?」
「今まで何年も、どこにいたの? ずっと待ってたんだ! 母さんも、すごく心配してたんだよ!」
「残念だけど、僕は君のお父さんじゃないよ」
「おい、シロガネ。本当にお前の子じゃないのか?」
「ちょっと、ミライ」
「だって、見ろよこの子。お前にそっくりじゃん」
そう言われ、シロガネは改めて、少年の顔をまじまじと見つめた。
短く切られた銀の髪。日の光に煌めくその色合いは、嫌になるほど見覚えのあるものだ。稚いあどけなさが宿る菫色の瞳も、鏡を覗く度見返してくるそれと同じ。まだ丸みの残る輪郭が子供らしさを感じさせるけれど、その整った目鼻立ちは、実に己とよく似かよっている。
それはもうほとんど、幼い頃の自分そのもの。
シロガネは、奇妙な眩暈を覚えた。
「……君、いくつ?」
「八歳」
シロガネはゆっくりと立ち上がり、腕を組んで目を瞑る。念のため、九年ほど前に何か過ちを犯さなかったかと、己の記憶を辿ってみた。
ひとつ頷く。
「――うん、身に覚えがない」
「本当かぁ? なぁ少年、よく見てみ? この人、お父さん? 間違いない?」
「間違えるわけないだろ! ねぇ父さん、母さんの具合が悪くて、長いこと寝込んでるんだよ。うわ言で、ずっと父さんを呼んでるんだ。お願い、帰ってきてよ……!」
懇願する少年に、シロガネは困惑して眉を寄せる。
ミライがため息をついて、シロガネの肩にぽんと手を置いた。
「シロガネ。自分のしたことに責任を取らないのは、男としてどうかと思うぜ」
「そんなに僕って信用ないの?」
「もしやこれが、『最高の幸運』なんじゃね? 実の息子との運命の再会」
断固として息子ではない、とシロガネが主張しようとした時、アオの声が響いた。
「シロガネ! ミライさん! ようやく見つけました!」
クロとともに、ごったがえす人ごみを掻き分けてくる。
「待ち合わせ場所に来ないから、心配しましたよ。……おや、その子は?」
「シロガネの隠し子」
「違うったら」
ミライの説明に、シロガネは情けなく眉を下げる。
すると少年は袖で顔を覆って、しくしくと泣き出した。
「みんな、父さんは俺たちを捨てていったんだって言うんだ。もう二度と帰ってこないって……でも、違うよね? 忘れてなんか、いなかったんだよね?」
菫色の瞳が涙で霞んで、朝露のような涙が白い頬をぽろぽろと零れ落ちていく。自分そっくりの顔で泣かれるとさすがに他人事と思えず、シロガネはどうしたものかと立ち尽くした。
「おい、シロガネ。お前最低だぞ」
クロが明らかな疑いの目で、少年とシロガネを見比べて言った。あまりに似ているので、本当にシロガネの子だと思っているのだろう。
「待って待って、本当に潔白だから! 他人の空似だよ!」
「お前によく似た人間なんて、この世にそうそういるわけねーだろ」
「シロガネ、子どもがいたんですか?」
「実はそうらしいんだよ、これが」
「ミライ!」
シロガネは大きく項垂れてため息をつくと、おもむろに腰に両手を当てた。
「よし、わかった。今からこの子の母親に会いにいこう。そうしたら、僕は関係ないってはっきりするでしょ!」
子どもの父親が誰であるか、母親ならばわかるはずだ。どんなに似ていたとしても、人違いであると断言してくれるだろう。
「昔の恋人との再会かぁ。これは見ものだな」
「恋人とは限らねぇだろ。一夜限りの相手だったんじゃねぇか?」
「そうなんですか、シロガネ? お相手の名前、ちゃんと覚えてますか? 間違えたりすると、とても心証が悪いものですよ。先日読んだ物語では、八股をかけた男が女性の名前を呼び間違えた結果、最後は手を組んだ八人の女性たちによって殺されるという、衝撃的な結末でした」
「……みんな、もう少し僕のこと信じてくれない?」
好き勝手に言っている三人に、シロガネはがくりと肩を落とす。
「はぁ……それじゃ、君のお母さんのところへ案内してくれる?」
「! うん!」
こっちだよ、と少年は嬉しそうにシロガネの手を引いた。
「ねぇ、君の名前は?」
尋ねると、少年は悲しそうな顔をする。
「コウだよ……忘れちゃったの?」
(知らないからね)
「お母さんの具合は、そんなに悪いの?」
少年は俯く。
「母さんはいつも、平気だよだって言うんだ……でも、時々すごく苦しそうで。お金もないから、医者にも診てもらえないし……」
本当の父親は、実際彼らを捨てて去ったのだろう。ミライの言う通り、責任を取らないのは男としてどうかと思う。
その小さな手のぬくもりを感じながら、シロガネはふと想像してみる。
もしも、あの暁祭がなければ。マホロが、依り代に選ばれていなければ。
誰かと結婚して、本当にこんな息子がいる生活が、自分にもあったのかもしれなかった。
きっとマホロにだって子どもがいて、孫がいて、互いに家族ぐるみで交流したに違いない。それはまるで夢のような、甘やかなおとぎ話の世界。
(――でも、現実はそうじゃないから)
この子は、シロガネの子ではない。
祭りの喧騒は徐々に遠ざかっていき、一行は町はずれのうら寂しい区画へと入っていく。貧しい者たちが身を寄せ合って暮らしている地域なのだろう、どこか薄暗く、荒んだ風情が漂っていた。道行く人影も少なく、剣呑な様子の男たちが路地裏にたむろしているのが目に入った。
「ここだよ」
コウは一軒の古びた平屋を指した。長いこと手入れがされていないようで、屋根は崩れかけ、扉は歪んでいる。
「……ねぇ、いきなりこんなにたくさん人が来たら、母さんが驚いちゃうよ」
一緒についてきたミライ、クロ、アオを不安そうに見上げながら、コウは言った。
確かに、一人寝込んでいる女性のもとに何人もの男が押しかけてきたら、怖がらせてしまうだろう。
「それもそうだね。三人は外でちょっと待ってて。ミライ、残り時間が気になるなら、先に島へ帰っててもいいよ」
「おいおい、結果を知らずに帰れるか! 早く行ってこい!」
面白そうにそわそわしているミライに苦笑いして、シロガネははいはい、と少年とともに玄関を潜った。
「母さん、ただいま!」
室内は、明かりもなく薄暗かった。
入ってすぐが台所。右手には物置と思しき引き戸と、壊れかけた棚が斜めに傾いでいる。薪の残骸らしきものや、古いブーツなどが転がって、足下は雑然とした様子だ。コウはそんな台所を抜けて、奥の部屋へと駆け込んでいく。竈に火の気はなく、最近使われた形跡もない。上には乱雑に物が置かれ、埃を被っているのが見て取れた。この家の住人が、まともな生活ができていないことは明らかだ。
(というより、これは――)
「母さん! 父さんが帰ってきたよ!」
コウの声に応えるように、奥の部屋から人の気配がした。
病気の母親――と思いきや、のそりと姿を見せたのは大柄な男だった。
一人ではない。ぞろぞろと四人続く。彼らの重い足音が響く度、古びた床板をぎしぎしと揺らした。
手にはそれぞれ棍棒や大ぶりのナイフ、手斧が握られており、明らかな害意を見せつけている。
「……これが君のお母さん? とても元気そうだね」
シロガネは、男たちの後ろでこっそりとこちらの様子を窺っているコウに、にこやかに笑いかけた。少年はふいっと視線を逸らす。
男たちが、嬲るような笑い声を上げた。
「どんないい女が待ってると思ったんだ? まぬけ野郎」
「これだけの色男なら、さぞ心当たりがあったんだろ。こんなところまでのこのこついてきたんだからよぉ」
「有り金全部置いていけよ、兄ちゃん。そうしたら、生きて帰してやる」
つまり、すべて作り話。
あの少年はここへ獲物をうまく引きずり込む役で、あとはこのチンピラたちが脅して金を巻き上げる――という手口なのだろう。
どうりで、身に覚えがまったくないと思った。
戸が開く音がしたと思うと、背後にも武器を手にした男が現れた。物置に潜んでいたらしい。彼が玄関を塞ぎ、逃げ道をなくす。手慣れたやり口だ。
「さぁ、さっさと金を出せ」
「うーん……お金を渡せば、本当に帰してくれるのかな?」
シロガネは状況にそぐわぬのんびりとした口調で、首を傾げながら尋ねた。
しかし男たちはにやにやと笑うだけで、答えはない。
彼らのうちの一人がふと、何かに気づいたように口を開いた。
「なぁ。こいつなら、売り飛ばせばいい値段がつくんじゃねぇか?」
そう言って、シロガネを上から下まで眺めまわす。
仲間たちはその言葉で、目の前で追い詰めている獲物の価値を、別の角度から考え始めたらしかった。じろじろと無遠慮な視線が、身体の上を舐めまわしていくのを感じる。
「確かに」
「こういうのが好きな金持ちはいくらでもいるだろ」
一人が縄を取り出し、じりじりと近づいてくる。
どうやら、金を渡しても無事に返してくれる気は一切なくなったらしい。最初からそんなつもりがあったかどうかは、甚だ怪しいけれど。
シロガネは肩を竦めて、自嘲するように笑った。
「売るにしても、いくらなんでも薹が立ち過ぎだよ。こんなジジィをつかまえてさ」
伸びてきた男の手を、ぴしゃりとはねつける。
「抵抗しなければ手荒には扱わねぇ。大人しくしていたほうが利口だぞ」
微かな苛立ちを含んだ口調には、いくらかの愉悦も交じっていた。逃げ道もない獲物を追い詰めるのは、さぞ楽しいのだろう。
「おい、顔に傷をつけるなよ。価値が下がるからな」
「わかってる」
もう一人近づいてきた男が、シロガネの首元にナイフを突きつける。
「両手を後ろに回せ。ほら」
「…………」
シロガネは言われるがまま、ゆっくりと手を後ろに回そうとした。
その瞬間、手の中に杖が現れる。
それに気づいた男が、あ、というように口を微かに開いた。
「魔法使い――」
それ以上、彼らは何もすることができなかった。
全員一斉に魔法の鎖に縛りつけられ、無様に床の上に転がった。悲鳴が上がり、逃れようとじたばたする彼らは、まるで芋虫のように見える。
シロガネは軋む玄関ドアを開いて、外で待っていた三人に笑顔で声をかけた。
「入っていいよ」
「どう? 見覚えのある女性だった?」
ミライが興味津々に尋ねた。
「いいや、まったく」
三人は中に足を踏み入れると、転がった男たちを怪訝そうに見回す。
「何これ?」
「全部嘘だったんだよ。旅人から金目の物を盗むために、子どもに演技させてここへ誘い込んでた――そうだろう?」
奥の部屋で一人震えている少年に向かって、シロガネは尋ねた。
「出てきなよ。手荒な真似はしないから」
彼はドアの陰からほんのわずか顔を出し、こちらの様子を窺う。
「随分慣れた様子だったけど、僕で何人目なのかな?」
「お、俺は、こいつらに言われた通りにしただけで……っ」
「それで、見返りにいくらか分け前をもらっていたんだよね」
「……こんな馬鹿な話に騙されるほうが悪いんだ! どいつもこいつも身に覚えがあるってことだろ、ろくでもない!」
「それで、そのろくでもないやつらは、どうなったのかな?」
この場所を知られた相手を逃せば、領主のもとへ訴え出るはずだ。そんなことを、この男たちが許すはずもないだろう。
するとコウは少し顔色を変えて、ぼそぼそと言い訳のようなことを呟き始める。
「……俺は、何もしてない。実際見たわけじゃないし……」
「でも、何か知っているんだね?」
いくらか逡巡してから、シロガネの手に握られた魔法の杖をちらりと見やる。逆らっても逃げられない、と思ったのだろう。
「……裂け穴に、落としたって」
「裂け穴?」
「すぐそこの山にある、大きな穴だよ。地面が裂けたみたいに広がってて、ものすごく深くて底も見えないから、中に落ちたら絶対助からない……。この辺りで人が消えると、裂け穴に落ちたんじゃないかって昔からよく言われるんだ。何代か前の領主様の奥方が突然行方不明になった時も、それは領主様が奥方を殺してあの穴に棄てたんだろうって、誰もが噂したんだって。あそこに落とせば、一切証拠が残らないから……」
話しながら、シロガネにそっくりなその顔が、ふと風を受けた水面のように揺らいだ。
次の瞬間、目も鼻も溶け落ちるかのごとく白く掻き消える。代わりに、いくつもの薄青い石の小片を繋ぎ合わせた仮面が、すうっと浮かび上がった。
一同が驚いていると、コウは自分の変化に気づいたように、「あ」と声を上げた。
「効果が切れたんだ」
そう言って、仮面を外す。
その下から現れたのは、シロガネとは似ても似つかない、素朴な顔立ちだった。先ほどまで美しい銀色に輝いていた髪も、墨で染めたように真っ黒に変化している。
「その仮面……魔道具?」
シロガネは眉を顰めて尋ねた。魔法使いが作り出した特殊な道具。あらかじめ魔力を込めてあるから、魔法使い以外でも扱うことができる。
「そうらしいけど……。こいつらが盗んだ品の中に入ってたんだ。これを被って目の前の相手をじっと見つめると、その人間そっくりの姿になれるんだ」
「へぇ、なるほどねぇ」
仮面を渡すようにと、シロガネは手を差し出す。コウは仕方がなさそうに、項垂れながら手放した。
「一体誰がこんなもの作ったんだか。まったく、いい迷惑だよ。魔法の塔に報告しておかないと」
ため息をついて、くるりと振り返る。
「ほら、わかったでしょ。僕に、隠し子なんていません!」
「だと思ってた~」
へらっとミライは笑う。
「おやミライさん、信じてなかったんですか?」
「当たり前だろ! あっ、まさか二人とも、シロガネのこと疑ってたのか?」
「さっきまで、これからはシロガネの妻子が島で一緒に暮らすかも、とか言ってたくせによ」
アオとクロからツッコミを受けながらも、ミライは澄ました顔で「そうだっけ?」と嘯いている。
シロガネは呆れながらも、ともかく身の潔白を証明できたことでよしとした。
「クロ、町の警備兵を呼んできてくれる? こいつらを引き渡さないと。アオはミライを連れて先に島へ帰ってて。そろそろ未来に戻る時間だろうから」
アオはわかりました、と頷いたが、クロは渋い顔をした。
「……いや、俺がここで見張っておくから、お前が呼びにいってくれ」
「え、なんで? どうかした?」
「俺が行くと、ややこしいことになるかもしれねぇからな」
クロは先ほど領主の息子をぶちのめしてきた経緯を、若干気まずそうに説明した。今頃、自分を探し出して捕らえろという命令が出ているかもしれない、と懸念しているのだ。
「なんだよクロ、そんな面白いことしてたのかよ。見たかった~」
ミライが残念そうな声を上げる。
「もー、目を離すとこれなんだから。あんまり目立ち過ぎないでよね」
シロガネの小言に、クロは無言のまま視線を逸らした。まずいことをした自覚はあるようだが、自分は悪くないと開き直っているらしい。
「じゃあ、僕が行ってくるから待ってて。さぁ、君も一緒に」
コウに呼びかけると、彼は驚いてわずかに後退った。
「お、俺も?」
「詰所まで案内して。こいつらがやったことについても、証言してもらうよ」
シロガネはコウを連れて家を出ると、アオとミライとはその場で別れ、いまだ祭りの喧騒が続く表通りへと向かった。詰所は、先ほどの露店が並ぶ通りの端にあるという。
コウは処刑台に向かう罪人のような面持ちで、とぼとぼとシロガネについてきた。
「ねぇ、コウって名前も嘘?」
「……それは、本当」
「じゃあ、コウ。君の両親は?」
「……母さんは、死んだ。父さんは俺が赤ん坊の頃に、家を出ていったって。それっきりだ」
帰ってくるのをずっと待っていた、とシロガネに必死にしがみついてきた彼の姿を思い返す。演技にしては、随分と真に迫っていた。もしかしたらあの言葉は、彼にとっては嘘ではなかったのかもしれない。
だからこそ、簡単に騙される旅人たちが、余計に憎らしく思えたのではないだろうか。自分の父親のように、どこかに子どもを捨ててきたのかもしれないから。あんな強盗の片棒を担いだ背景には、彼なりのささやかな復讐心が潜んでいたとしても不思議ではない。
「母さんが死んでからは、住んでいた家も追い出されて……行き場もなくなって、スリで稼いでたら、あいつらが声かけてきたんだ。旅人を上手く騙してあそこに連れていけば、分け前をくれたから……」
「君のやったことだけでいえば、罪状はそう重いものでもないだろう。やつらの罪をすべて証言してくれれば、すぐに釈放してもらえるように、僕がここの領主に交渉するよ。それから、君の引き取り手も探さないとね」
コウは弾かれたように顔を上げ、シロガネを見つめた。
「本当?」
「ふふん。僕はこれでも、偉大なる大魔法使いと呼ばれているのさ。この僕の一声があれば、大抵のことはなんとかなるよ」
胸を張ってそう言うと、軽く片目を瞑ってみせる。
コウは瞬きをして、喜びを隠すように俯いた。
その時、ぐう、と空腹を告げる音が鳴り響いた。少年の耳が、かっと赤く染まる。
「よし。露店で何か買って、お腹を満たしてから行こうか」
シロガネは笑って、彼の小さな手を取った。黙って小さく頷いたコウが、微かにその手を握り返してくる。
目抜き通りに戻ると、早速目についた串焼きと揚げ菓子を買い込んだ。少年がそれらを口いっぱいに頬張る姿に、目を細める。その姿は子どもらしく、大変愛らしい。
「そうやって素直でいい子にしてれば、引き取ってくれる人もすぐに見つかると思うよ」
「……あんたは?」
「え?」
「あんた、子どもいないんだろ?」
「僕? いるよ。息子が二人」
コウは咀嚼した肉をごくんと呑みこみながら、残念そうな顔をした。
「なーんだ。じゃあ家に帰れば、奥さんと子どもが待ってんのか」
奥さんはいないけれど、とは口に出さず、シロガネは微笑んだ。
「とても可愛い息子たちなんだ。――さぁ、食べ終わったらなら、そろそろ行こうか。詰所はどっちに……」
突然、後頭部に強い衝撃を感じた。
シロガネの意識は、そこで途切れた。
「くそっ、いつか絶対後悔させてやるからな! 覚えとけよ!」
魔法の鎖に絡めとられて床に転がったままの男は、クロに向かって悔しそうにそんな言葉を吐き続けていた。一方彼の仲間たちは、もう観念したのか無駄な体力を使いたくないのか、すっかり黙りこくっている。
クロはそんな脅し文句は完全に無視して、散らかった部屋で軋む椅子に座りながら、シロガネの戻りを苛々と待っていた。
彼らがここを出て、もう一時間以上経っている。
「何してんだ、シロガネのやつ。寄り道でもしてんじゃないだろうな?」
その時、玄関ドアが勢いよく開いたと思うと、小さな影が飛び込んできた。
シロガネと一緒に出ていった、コウだ。
「ようやくかよ。遅いぞ!」
クロはうんざりしながら立ち上がった。
しかし、コウはひとりだった。シロガネの姿はない。呼んできたはずの警備兵が踏み込んでくる気配もなかった。
「おい、シロガネは?」
コウは肩で息をしながら、青い顔をしてクロを見上げた。
「あ、あ、あの……」
少年の唇は、ひどく震えている。
「あの人……連れて、いかれた」
「あ?」
「な、殴られて、気を失って……そのまま……」
「! あの人って、シロガネが⁉」
少年は小さく頷く。
シロガネは、大陸一と称される大魔法使いだ。この世で彼の魔法に敵う者など、まず存在しないだろう。それでも、肉体的な打撃を躱すことができなければ、当然致命傷も負う。
「どういうことだよ! 誰にやられた⁉」
「若様……領主の息子と、兵士たちが……」
祭りの最中に叩きのめした、あの青年の顔を思い返す。
(あいつか……!)
「若様から、あんたに伝えろって言われたんだ」
「俺に? 何を」
「裂け穴に、一人で来い、って……」
「裂け穴?」
床に転がった男たちを、ちらりと見やる。
「こいつらが襲った旅人を落としたっていう場所か?」
こくり、とコウは頷く。
「日が暮れるまでに来なかったら、あの人を……穴に、落とすって……」
クロの中で、ざわりと黒いものが渦巻いた。
コウの首根っこを掴むと、そのまま肩で担ぐようにして家を飛び出す。
「うわぁ! な、なにすんだよ!」
「その裂け穴ってとこへ案内しろ! いいか、シロガネに何かあったら、その時はお前の命もないと思えよ!」
「……!」
コウはその脅しに泣き出しそうになりながら、しかし逆らうことも恐ろしいというように身を固くした。やがてぼそぼそと、「そこ曲がって」とか、「向こうから山道に入れる」と大人しく道案内をし始めた。
いまだ祭りのただ中で浮かれ騒ぐ町を尻目に、クロは慌ただしくその喧騒の端を駆けていく。そんなクロに気づいた誰かが「あ、あの人」とこちらを指さしたり、何事か囁き合っていた。先ほどの騒動を見ていた者たちだろう。
(俺への報復なら、直接俺のところへ来ればいいんだ。なんでシロガネを……!)
その卑怯なやり口に、沸々と怒りが込み上げる。今すぐ本来の姿で牙を剝き、相手の喉元に食らいついてやりたかった。
町の賑わいもいつしか遠のき、山道へ足を踏み入れると、空気がひやりとして妙に重くなった気がした。烏がギャアギャアと不穏な鳴き声を上げながら木々の合間を飛び回り、黒い影が空を掠めていく。急な勾配を進むにつれ、いつしかそんな木々も途絶え、黒ずんだ自然の岩が折り重なるように積み上がる荒涼とした風景が広がり始めた。
日が沈みかける頃、二人はようやく山の中腹へと辿り着いた。さすがに息が切れ、クロは背負っていたコウを下ろす。
コウはまだクロにびくびくしながらも、ごつごつとした岩場の向こうを指し示した。
「裂け穴は、この先だよ」
「……わかった。あとは俺一人で行く。お前は山を下りろ」
「えっ」
息を整えながらクロが言うと、少年は驚いた顔になる。
「でも……」
「そいつは俺一人で来いって言ったんだろ。ほら、さっさと帰れ。すぐに真っ暗になるぞ」
立ち尽くしている少年には構わず、クロは歩き出した。
コウはしばらく逡巡していたようだったが、やがて踵を返し、遠ざかっていく足音が聞こえた。
しばらく進むと、視界が開けてくる。眼前に現れた光景に、裂け穴というのはまさしく的確な名だな、とクロは思った。
山腹を引き裂くように穿たれた虚無のごとき竪穴は、まるで地の果てまで続くように見えた。開口部は巨大で、想像していたものより何倍も広い。終島の城がすっぽりと埋まってしまいそうだ。黒々とした闇が広がる穴の底は見えないが、時折その向こうから、低く呻くような音がこだまする。風が通り抜けているのだろう。
その縁に、数人の人影があった。鞍をつけた馬の姿も見える。
クロが近づいていくと、岩に腰掛けていた男が立ち上がった。
マキジである。
「本当に来たな。どうやらこの男には、人質としての価値がちゃんとあったらしい。――よくやった。お前の罪はこれで帳消しにしてやる。慈悲深い私に感謝せよ」
傍に控えていた兵士が、「はっ!」と頭を垂れた。それが、あの時マキジを守ることを放棄して逃げた兵士であると気づく。恐らく彼が名誉挽回のためにクロを尾行し、シロガネに目をつけたということなのだろう。
そのシロガネは、マキジの足下に力なく倒れていた。腕は背面で固く縛られており、意識がないのかぴくりとも動かない。
クロはそんなシロガネの様子に、微かな困惑と不安を覚えた。島の外で、これほどに無防備な姿は初めて見る。
「……相当な暇人だな、お前。何がしたいんだよ。またその顔を無様に潰されたいのか?」
クロが挑発すると、マキジはクロのせいで赤黒く腫れあがっている顔に、いびつな笑みを浮かべた。
そのまま屈みこんで、シロガネの銀の髪をぞんざいに掴み上げる。
「こいつを今すぐこの穴へ落としてやってもいいんだぞ? 落ちれば、間違いなく死ぬ。ここに叩き落として生き延びたやつは、誰一人いない。わかったら、これ以上私の機嫌を損ねないことだな」
マキジの周囲に配置された兵士の数は、全部で十。クロを警戒して、昼間の倍以上の人員を揃えてきたらしい。
「それで? 土下座でもして詫びを入れろっていうのか?」
「馬鹿馬鹿しい。――だが、今からお前が面白い見せ物になってくれるなら、こいつを返してやってもいい」
勝ち誇った表情で合図すると、兵士たちがクロを取り囲んだ。
「いいか、これからお前には一切の抵抗を認めない。少しでも反撃したら、こいつを穴へ落とす。わかったな?」
マキジは押しやるように、シロガネの頭を縁から突き出す。長い銀の髪が、ゆらりと穴の中に垂れ下がった。
その様子にクロが顔色を変えたことに気づくと、にぃっと満足そうに口の端を吊り上げた。
「やれ!」
兵士たちが一斉に動き出した。
クロは降ってきた拳を避けず、そのまま頬に打撃を受けた。さらに棍棒で殴られ、視界がぐらりと傾く。足をすくわれ、その場に倒れこんだ。誰かが、思い切り腹を蹴り上げる。腹の底まで貫くような衝撃に、束の間息が止まった。
クロの力をもってすれば、全員を叩き伏せることは可能だ。しかしこれだけの人数となると、一瞬でというわけにはいかない。言われた通りにするのは業腹だったが、この状況で抵抗することは躊躇われた。今、マキジがほんの少し手をかけるだけで、シロガネの身体は暗く深い穴の底に簡単に転がり落ちてしまう。
(くそっ……)
シロガネが目を覚ませば、その魔法で自らの安全も確保できるはずだ。しかし彼はいまだ気を失ったまま、意識を取り戻す気配はない。
(あいつが目を覚ますまで、時間を稼ぐか? それとも――)
「おい、顔を狙え! そのお綺麗な顔を、めちゃくちゃにするんだ! 私よりもっとひどくな!」
マキジの愉快そうな哄笑がこだまする。
されるがままになっているクロを眺めながら、大層ご満悦な様子だ。
一瞬でいい、とクロは考える。シロガネを取り戻すための、その隙がほんの一瞬でも生まれれば――。
ふとクロは、シロガネの背後に広がる大穴に視線を止めた。
(いや、むしろ――落ちればいいのか)
クロは兵士が繰り出した拳を、がしりと掴んだ。
驚く相手をいとも簡単に片手で放り投げると、宙を舞ったその身体は周囲の仲間を巻き込みながら地面に叩きつけられる。さらに間髪入れず、迫る者を殴り飛ばす。包囲の輪が崩れ、クロは勢いよく駆け出した。
マキジを射抜くように見据えながら、一直線に突進していく。
追いすがった兵士の攻撃を躱し、あるいは反撃しながら近づいてくるクロに、マキジは苛立たしそうに喚いた。
「おいっ! こいつがどうなってもいいのか⁉」
荒く足を踏み慣らす。人質がいれば抵抗できないと思っていた相手が、自分の意のままにならないことに焦れて、ひどく立腹しているようだ。
しかし、クロは意に介さない。
背後から跳びついてきた兵士は、羽交い絞めにしようと力を籠めるが、クロはその腕を掴んで勢いよく背負い投げた。さらに斬りかかってきた剣を躱し、相手を蹴り上げる。
「――馬鹿が! よく見るがいい!」
言うや否や、マキジはシロガネの身体を、穴に向かって思い切り蹴り飛ばした。
無抵抗のシロガネは、力なく宙へと放り出される。
クロはそれを追って走り、勢いそのままに穴の縁を大きく蹴った。足場が消え、世界が裏返る。それでも構わず、落下しながら腕を伸ばした。
だが、届かない。
シロガネの姿は、闇の中へと吸い込まれていく。クロもまた、それを追うように深淵へと引きずり込まれていった。地の底から吹きつける風が耳元で音を立て、闇が全身にまとわりつく。銀色の輝きが、その向こうでわずかにちらついた。
穴の上から、勝利に酔った甲高い笑い声が降り注いでくる。
「あーっはっはっはは! 本物の馬鹿だなこいつ! 自分から飛び込みやがった! あっははははぁ……!」
その瞬間、閃光が弾けた。
クロの身体は一気に膨張し、大きく開いた翼が風を捉える。圧倒的な解放感が、全身を駆け抜けた。
巨大な黒竜の両眼が、暗く深い闇の底で爛々と輝く。
クロは闇の中に白く流れる銀の髪を追って急降下すると、シロガネのローブを咥え取った。そのまま、すぐに上昇を開始する。
見上げれば、穴の入り口はぽっかりと開いた大きな天窓のようだ。藍色に染まった空が覗き、星が瞬き始めている。
翼をはためかせ、漆黒の竜は勢いよく地上へと飛び出した。
突如として穴の中から現れた竜の姿に、勝ち誇った笑い声を上げていたマキジは仰天して凍りついていた。嗜虐的な笑みを浮かべたままの形で口をぽかんと開きながら、空に羽ばたく竜を信じられないというように見上げている。
兵士たちも同様に、呆気に取られて身じろぎひとつできずに立ち尽くしていた。
「りゅ、竜……? ま、まさか……」
シロガネの身体を地上に降ろすと、クロはおもむろに彼らに向き直る。その輝く瞳が、ぎろりと獲物に狙いを定めた。
コウの話によれば、この辺りで人が消えたら、裂け穴に落ちたのだろうと皆が思うらしい。
それは、大層都合がよい不文律だ。ここで今から何が起きようと、きっとすべて、この深く巨大な穴が理由を引き受けてくれるだろう。
クロが鋭い牙を持つ口を広げると、喉の奥で灼熱の炎が閃く。
あらゆるものを焼き尽くす紅蓮の業火が、濁流のごとく地上に降り注いだ。
シロガネが目を覚ましたのは、終島にある見慣れた自室のベッドの上だった。
しばし、ぼんやりする。
何がどうしたのだったか。
身体を起こそうとすると、後頭部に鈍痛が走った。
「痛っ……」
ちょうど部屋に入ってきたアオが、「シロガネ! よかった!」と駆け寄ってくる。
(……そうだ。誰かに後ろから殴られて……)
記憶がそこで途切れている。
「シロガネ、気分はどうですか?」
「……僕、どうやって帰ってきたの?」
「クロさんが連れてきたんですよ。なんでも、あの町の領主の息子とやらがクロさんを逆恨みして、シロガネに危害を加えたのだそうです」
「ええ? 何それ。――あ、コウは? あの子も怪我してるの?」
「彼は無事だそうですよ」
シロガネは胸をなでおろす。
「そう、よかった……」
「びっくりしましたよ。クロさんが突然、竜の姿で帰ってきて……」
「え。クロ、竜になったの?」
「はい。それで、背中にぐったりしたシロガネが乗っていて、すぐに手当てをしろってクロさんも慌てていて。シロガネが全然起きないので、俺たちすごく心配したんですよ」
「……え?」
シロガネは勢いよく、がばりと起き上がった。
「うう、痛っ」
「シロガネ、まだ安静にしていてください!」
「ちょ、待って、待って。寝てらんないよ! 聞き捨てならないよ、今の発言は! え? クロが竜になって? 僕が乗ってたって?」
「――おい、何騒いでんだよ?」
ドア越しに、クロが顔を出した。
シロガネは慌ててベッドから降りたが、思わずよろめく。
「シロガネ、だめですよ! そんな急に動いたら!」
アオに支えられながら、シロガネはクロに向かって身を乗り出した。
「ちょ、クロ! ねぇ、クロ! 僕、君に乗ったの? 竜の背中に?」
勢い込んで問い詰めると、クロは少しだけ言葉に詰まって、ふいと視線を逸らした。
「……お前が、全然起きないからだろ」
「嘘でしょ! 全然覚えてない!」
「寝てたからな」
「乗せてくれたの⁉ 今までどんなに頼んでも、絶対乗せてくれなかったじゃん!」
「当たり前だ。俺は乗り物じゃねぇ」
「でも、僕乗ったんだよね? 乗ったんだよねっ⁉」
クロの表情は、どんどん不本意そうに歪む。
「ちっ……仕方ねぇだろ! お前は目を覚まさねぇし、そもそも今回のことは俺が原因作ったようなもんだったし……だいたいお前なぁ、あんな簡単に捕まってんじゃねぇよ! 何が大魔法使いだ、名前負けもいいところだぞ!」
クロはさらにあれこれとぶつくさ言い募ったが、シロガネの耳にはそれ以上何も入ってこなかった。
――あなたには今日、最高の幸運が訪れますよ。
占い師の老婆の言葉が、脳内にこだまする。
シロガネは、わなわなと震えた。
「こ、これか……っ」
「は?」
がばりとクロにしがみつく。
「もう一回!」
「あぁ?」
「お願い、もう一回乗せて! 僕がばっちりぱっちり起きてる時に!」
「ふざけんな、二度とやるかよ!」
「一度やったら二度も三度も同じじゃん! ね⁉」
「やらねーっつってんだろーが!」
クロは自分にがっつりしがみついて放そうとしないシロガネを、容赦なく放り投げた。
それでもベッドの上に落下するように投げたのは、クロの優しさだっただろう。しかしシロガネは、痛いやら悔しいやらで、思わず泣きそうになった。というか、ほぼ泣いていた。
「うわあああん! そんなぁ! 竜に乗るのが夢だったのにー! なんで覚えてないんだ、僕の馬鹿ーっ!」
シロガネの悲嘆と後悔に暮れた嘆きは、終島中に響き渡るように、それから一晩中続いた。
シロガネが竜の背に乗ったのは、後にも先にもこの一度きり。
次にその機会が訪れるのは、金の髪の少年に生まれ変わってからのことである。
【おわり】