魔法の剣と銀の剣 後編

【3】
記憶の湖で有名になるまで、この村はとても人が少なかった。豊かではないが平和な場所で、鹿や猪に作物を荒らされることはあったものの、住人はみな仲が良かった。
僕が八歳になった年の冬、王都から老齢の医者が移り住んできた。雑用をさせるためか、話し相手としてなのか、医者は孤児の男の子を一人連れていた。
医者が文字を教えてくれると言うので、ある日、僕は勇気を出して家を訪ねた。
「先生なら、今ほかの人をみてる」
扉をノックしようとすると、背後から声がした。振り返ると、同じ年頃にしては大柄な男の子がこちらを見ていた。井戸から汲んできたのか、水の入った桶を抱えている。
「ちがうの。僕びょうきじゃなくて」
慌てて答えながら、僕は自分の心臓の鼓動が一気に速くなったのを感じた。村には他にも何人か子どもがいたが、こんなに綺麗な子は見たことがなかった。髪の色も目の色も淡く、そこだけ強めに日の光が差しているようだった。
やがて診察が終わり、扉を開けた医者に招き入れられて、僕は文字を教えてもらうことになった。男の子はその間中、掃除をしたり「まきを割ってきます」と外へ行ったり、休むことなく働いていた。
その後も僕は定期的に医者の家へ通い、文字を習ったり本を借りたり、王都の美しい街並みや素晴らしい料理の話を聞いたりした。男の子は大抵かいがいしく働いていたが、医者に言われて一緒に勉強することもあった。
一年ほど経った日、いつものように扉をノックすると、医者はいないと彼に言われた。隣町の患者の元へ行っているそうだ。僕は帰ろうとしたが「待って」と引き留められた。
「寒いから、ミルクあっためる。帰ってきた先生のだけど、でも、ちょっと余るから」
相変わらず彼はにこりともしなかったが、もしかしたら帰ってほしくないのかもしれないと僕は思った。その頃は僕だって、一人で留守番をするのは心細かったから。
カップに半分ほど注いでもらったミルクは膜が張っていて、温めすぎたのか口当たりもざらざらしていた。彼は僕の向かい側の椅子に座って黙りこくっていたが、やがて「先生がだいぶよくない」と呟いた。
「よくないって?」
「腹が痛いみたい。俺の料理がまずいからかもしれないけど全然食べないし、夜に汗びっしょりで起きて、苦しそうにしてる」
「お医者さんでしょ? 自分で治せないの」
「駄目みたい。仕事も休んでほしいけど、それもできないって言われた」
僕が訪ねていくと医者はいつも笑顔で歓迎してくれたが、確かにここ最近、一回り小さくなったような気がしていた。彼の言う通り、具合が悪いのかもしれない。
自分から引き留めたくせに、僕がミルクを飲み終えると彼はすぐに「もう暗くなるから」と帰宅を促してきた。別れ際「内緒にして」と大真面目な顔で言う。
「俺が先生の心配してること、誰にも言わないで。先生が悲しがるの、俺いやだから」
「わかった」
僕は頷いた。それが彼にとって大切なことなのだろうと、目を見ればわかったからだ。
約束を守ったことで信頼を得られたのか、それから彼はちょくちょく僕に話しかけてくれるようになった。勉強が終わってから外に出て、薪割り用の台と、逆さにした洗濯用の桶に腰かけてお喋りをした。
「俺、王さまの騎士の子なんだって」
彼はたきぎに使う枝の葉をむしりながら言った。
「先生は俺の母さんの病気をみてて、母さんが死んだから俺をもらったんだって。平民の母さんは父さんに俺を取られたくないって言ってたけど、先生は俺が父さんのところで暮らした方がよかったかもって、今でも思ってるんだって」
「その方がよかったと思う?」
「思わない。先生が好きだから」彼は即答した。
「でももし、先生が今からでもそうしろって言うなら、わがままは言わないよ。騎士は立派な仕事だって、先生が言うから本当なんだろうし」
「きみ、騎士になっちゃうの?」
「もしもの話だってば」
彼は否定したが、僕はその時、心が妙にざわめくのを感じた。
騎士を立派だと思っている彼には言えなかったが、僕の両親、特に母親は、王のことをあまりよく思っていなかった。当時の王というより、歴代の王が採ってきた魔術師に関する制度に不満を持っていた。
この国の赤ん坊は、生後三ヵ月以内に魔力の有無を調べる検査を受けることが義務付けられている。血を少し採り、専用の溶液と反応が起こるか見るのだ。魔力を持って生まれた子どもは、目も開かないうちから城へ奉公に出なければならない。家族にはいくらか補助金が出るが、割に合ったものではなく、貴重な働き手が減ることを恐れて、平民がその義務を守ることはほとんどなかった。
うちは魔術師の家系なのよ、と僕は母に言われて育った。母の高祖父の父の従妹が魔法を使えたらしく、母いわく、うちの家に生まれた者はみな少なからず素質があるとのことだった。魔術師の直系の子孫は婚姻関係が厳密に記録され、子どもが生まれると宮廷魔術師が家までやってくるという。遠い親戚ということもあって、僕が生まれた時はさすがにそういうことはなかったらしいが、それでも僕の母は、大人になっても王都へは行くなと僕に口酸っぱく言った。もし万が一、自分に魔力があるとわかっても、父さんと母さんと暮らしたいなら口外してはならない、とも。
僕は言いつけを守り、誰にもそのことを言わずに過ごした。文字を習い、色々な本が読めるようになって世界が色づき、様々な考えが頭に浮かぶようになる。魔法なんて使えなくても、勉強することで得られる喜びに僕は夢中になった。
医者は日に日に痩せていき、僕の前でも時折苦しげに腹を押さえて、落ち窪んだ目を長く伏せるようになった。それでも患者の診察は辞めず、僕が遠慮しても勉強を教えたがった。雑用係の子どもは、これまで以上にせっせと働いていた。洗濯や料理を手伝って初めて、僕は彼が本当はずいぶん不器用で、ぼんやりしたところのある子なのだと知った。
ある日、僕が父と農作業をしていると彼が訪ねてきて、医者が死んだと泣きじゃくりながら言った。俺が隣町まで薬を買いにいっている間に一人で死んでしまったのだ、と。しがみついてきた彼の涙で僕の服は徐々に濡れていった。彼は僕の腕を離して目元を拭い、埋葬の日を伝えて帰っていった。
数日後に埋葬が終わり、次に彼と会ったのは一週間後の早朝だった。彼は医者のものだった小さな鞄を持ち、そしてなぜか、自分の身長ほどもある剣を背負っていた。
「王都へ行くんだ。先生が父さんに手紙を書いて、死んだ後に俺の面倒を見てって頼んでいたらしい」
そう言って彼は背中から剣を下ろし、鞘に納めた状態で僕に差し出した。
「これ、俺の母さんが持ってた父さんの剣。父さん本人に会う俺にはもう必要ないから」
「……くれるの?」
突然のことに僕は驚いて固まっていたが、ずっしりとした剣の重みを感じてようやくそれだけ言えた。本当は、剣なんていらないから行かないでくれと言いたかった。医者がいなくなってからそれほど時間が経っていないのに、彼は僕が知らないうちに年を取って、すっかり本物の大人の男になってしまったようだった。
「騎士になるの?」
「わからない。でも俺、向こうでも絶対に頑張る。父さんや王さまに従うよ。そうした方がいいって、先生が決めたんだから」
「……そっか」
僕が頷くと、彼は一瞬、寂しそうに笑って「それじゃあ」と歩いていってしまった。追いかけたかったが、渡された剣はあまりに重く、持ったまま走るとすぐに息切れしてしまって、追いつくことはできなかった。
それから僕は家の畑仕事をし、合間に勉強をして暮らした。彼に手紙を出そうかと思ったが、どこにどう出せば城にいる騎士の息子の元へ届くのかわからなかったし、向こうからも便りはなかった。もらった剣は何度か鞘を外し、眺めたり磨いたりしてみたが、平民の僕には使う場面などなく、いつしか納屋にしまいっぱなしになってしまった。彼のことを忘れたわけではなかったが、使う当てもない剣を眺めるほど暇ではなかったのだ。
十五歳になった年の夏のことだった。晴れ続きで家の裏の井戸が枯れてしまい、僕は湖へ向かった。長い棒の両端にロープで桶を吊り下げ、バランスを取って歩く。
左右の桶に水を汲んだ後、来た道を引き返そうとした僕は、遠心力で方向転換をしようとし、勢い余って湖に落ちてしまった。
死ぬのだ、と思った。わずかな不注意で、こんなにもあっけなく。泳ぎはそれなりにできたはずだが、突然のことでパニックに陥っていた。無我夢中で手足を振り回すほど、体が深みへ沈んでいく。鼻からも口からも水が入り込み、目の奥がちかちかした。
息苦しさで全身が破裂しそうになった瞬間、世界の色が反転したみたいに、黒い光が迸った。もがきながら戸惑っているうちに光はどんどん大きくなり、まばゆさを増して、体の周りに集まり始めた。ふっと気が遠くなって目を瞑った直後、僕は荒い呼吸をしながら、噴水みたいに吹き上がった湖水によって岸辺に打ち上げられていた。
自分の中に眠っていた魔力が目覚めたのだと、初めはわからなかった。けれどもそれが引き金になったのか、僕はその後も鍋を爆発させたり、家の横に生えている巨木を倒したり、魔法以外で説明のつかない事態を次々と引き起こしてしまった。母は当然これをよく思わず、力を抑制するすべを身に付けるよう僕に言った。
僕は母に従ったが、こっそり魔法の練習や研究をすることも止められなかった。文字を読めるようになった後、何か書きたくなって日々の中での気づきを記したものがあり、魔力が目覚めたことで、それらを試せるようになっていた。木で翼を作り、気流に乗れば空を飛べるんじゃないかとか、集中的に風を起こせば畑の上に雨雲を移動させられるんじゃないかとか。荒唐無稽なアイデアばかりだったが、失敗しても楽しかった。
本来ならば、魔力を持った子どもは王家の召使いによって育てられ、十歳前後で城に併設された士官学校へ入れられることになっている。当時の僕は知らなかったが、この国において魔法とはとても貴重なもので、そして同時に、もっぱら戦いのためのものだったのだ。剣を握る手がかじかまないよう熱を送る力であり、弓矢が狙い通りに飛ぶよう風を吹かす力だった。空を飛んで木の実を獲ったり、雷を発生させて作物の実りを促したりするためのものではなかったのだ。
巷で熱病が流行り出したのは、その年の冬、まだ若い女王が即位した直後のことだった。でたらめな治療法が広まり、嘘か真かわからぬ情報に誰も彼も振り回されて、国全体に陰鬱な空気が漂い始めていた。僕の魔法は自分でも驚くほど速い上達を見せ、骨折を治したり、雨風をしのぐための小屋を作ったりする程度のことは即席でできるようになっていた。母もその利便性に根負けして、ことあるごとに僕の魔法を頼るようになっていた。
僕は自分の魔力を使って、どうにか熱病から皆を守れないかと考えた。けれども、なかなか上手くいかなかった。
研究を進める中で発見したことの一つに、魔法は上書きできない、というのがあった。僕らのいる世界では何百年も前、今では禁忌となった古代呪術で生物兵器のようなものが作られ、それが気温や気候の変化によって偶然覚醒し、現代の人々に被害を及ぼすことがある。流行している熱病もその類で、つまり魔法で作られたものだけに、魔法を使って治療することができないのだった。罹患を予防しようにも、村人全員に継続性のある魔法をかけるのは、当時の僕の技量では難しかった。
試行錯誤しているうちに村の子どもが一人熱病に罹り、翌日にはその子どもの弟が、また翌日にはその父親が罹って、他の者も怯える間もなくばたばたと倒れいった。僕は必死で看病にあたったが、魔法なしではできることも限られていた。一年が経つ頃には、僕の両親も、僕を取り上げた産婆も、生まれた時に祝いに来てくれた村長も皆いなくなった。どこへ行っても遺体の腐った臭いがした。人口の少なかった村はますます過疎になった。
やがて熱病の流行は収束したが、人手不足や不作の影響を考慮しない女王の政策に不満を覚え、各地で暴動が起き始めた。僕は故郷を出ようと決めた。貧しくなったものの村は落ち着き、外に出れば、僕の魔法をより多くの人の役に立てられると思ったからだ。ここに留まる理由だった家族はもういない。しんとした家で椅子に座り、僕は手元の剣を見下ろした。十歳の時、村を出ていった彼にもらったものだ。魔力が発現した後、触媒として杖や鍬を試したが、結局これが一番使いやすかった。握るたびに「絶対に頑張る」と、彼の言葉に背中を押されるのだった。何の装飾もないシンプルな剣。柄の部分には、手が滑らないよう赤茶けたぼろぼろの革ベルトが巻かれている。
旅立つ前日に僕はその剣を振り、自分がかつて溺れた湖に魔法をかけて〝記憶の湖〟を作った。これでこの村には絶えず人が訪れ、今以上の困窮に陥ることはなくなるだろう。
故郷を後にした僕は行く先々で畑仕事を手伝ったり怪我人を治したり、なんでも屋みたいなことを始めた。涙を流して感謝されることもあったし、施しを受けたって何も返せないと、かえって迷惑がられることもあった。
放浪の中で、魔術師の兄妹と知り合った。兄はエリオ、妹はエリカといって、どちらも士官学校の生徒だという。財政難によって学校の運営は停止されたが、魔術師の卵を手放したくない国によって軟禁状態にあったのを、命からがら逃げてきたとのことだった。僕と同じくまだ十代で、二人の歳は一つしか離れていないそうだが、髭を生やしたエリオはかなり年上に見えた。彼らは浅黒い肌をしていて、髪は黒く、目は蜂蜜と同じ色だった。
「おいおい、嘘だろ」
僕がどうやって魔法を習得し、何に使ってきたのか話すと、エリオは目を丸くした。
「それじゃあお前は、そのご立派な魔力で野菜なんか作ってたのかよ! 時代と場所が違えば、伝説級の英雄になれただろうに」
「今からでも遅くない」エリカが静かに言った。
「女王の政策で生活が苦しくなって、この国に住む者は今、救世主が現れるのを待っている。平民を味方につけるなら、その魔法の使い方も間違いではないはず」
王立の士官学校に通っていたにもかかわらず、父親が異国の出だからか、彼らは王家に対する忠誠心が薄かった。兄妹は、市民革命によって封建的な身分制度が廃止された父親の故郷に強い憧れを抱いていて、僕の力があれば、自分たちもそれを成し遂げられると思っているようだった。
「お前はもっと前に出て、魔力だけじゃなく権力も手に入れて、この国を救うべきだ」
エリオはそう息巻いた。
「私も賛成。そのためなら、兄さんと一緒にあなたの手となり足となろう」
エリカも頷いた。
学校で学んでいただけあって、兄妹は僕より魔法の扱いに長けていた。けれど魔力量に関しては、二人の合計より僕の方がずっと多いようだった。彼らの指導によって、魔法でできることはますます増えていった。ある時立ち寄った街で、線路を敷いて鉄道を作った時の感動は忘れられない。エリオから借りた本で異国のその夢のような乗り物のことを知って、リスクがあるのを承知で、自分にできるか試したくなったのだ。煙突から煙が立ち上り、重い音を立てて列車が走り出した瞬間、僕は自分の力の本当の大きさを知った。これだけの技術をもっと早く身に付けていれば、救えなかった人たちを救えたのかもしれない。そう思ってふと虚しくなったが、ならばこれから先、もっと多くの人を助けられるようになろうと決めた。
〝黒の魔術師〟という通り名がついたのはその頃だ。魔法を使う時、黒い閃光が走るのが由来だった。エリオとエリカは闇夜のように黒いマントを仕入れてきて、外を歩く時に纏うようになった。反対に、僕には太陽の刺繍の白いマントが用意された。誰にも怪我されない高潔さの象徴だという。「形から入るって大事なの」エリカは真面目な顔で言った。
ある夜、僕らは荒廃していると噂の山奥の村へ向かう途中、森の中で野宿をしていた。言葉少なに食事を済ませ、眠る順番を決めようとしていると、遠くから数頭の馬の蹄の音が聞こえた。日中誰ともすれ違わず、道も荒れていたので、こんな時間に人が通ることを僕らは不審に思った。焚火を消し、魔法で焚き火の痕も消し、木の後ろに身を隠した。蹄の音は徐々に近づいてきた。
「――止まれ。煙の臭いがする」
目で見える痕跡は完全に消してあったが、馬上からそう指示する声がした。おそらくまだ若い男で、四、五人の部下を従えているようだった。男が馬から降りる気配がして、オレンジ色のランタンの光が、あたりを亡霊のように彷徨った。
逃げようとしたのか、エリカが隠れた木の後ろから、小枝を踏む音がした。魔法の火花が散り、短い乱闘があって、彼女は捕らえられてしまった。エリオはじっとしていたが、相手の数が多いだけに身動きが取れず、直後に同じように捕まってしまった。
「間違いない、逃げた生徒だ。戻って報告しよう」
また若い男の声がした。
このままでは二人が連れ去られる。僕は頭が真っ白になって、気づけば猛然と飛び出していた。どうにかしなければ。どんな魔法を? 考えるより先に剣を振った。
不意を衝くことに成功し、捕縛の手を振り払って、エリオとエリカの腕を摑んだ。馬に乗ろうとしていた若い男が振り返る。まばゆい光が僕を包んだ。
早く逃げよう。強くそう思った瞬間、光に照らされた男の顔が闇に浮かんだ。
「きみは……」
僕は驚いて息を呑んだ。グッと寄った眉間、透き通った色の鋭い目。忘れえぬ顔がそこにあった。
「お前は、確か――」
彼も気づいたようだった。僕は一瞬、自分が置かれた状況を綺麗さっぱり忘れて、懐かしさで胸がいっぱいになるのを感じる。「俺、王さまの騎士の子なんだって」かつて聞いた声が脳裏に蘇った。ああ、きみは大きくなったな。まるで親みたいにそう思った瞬間、視界に光が溢れて僕の意識は途切れた。
頬を叩かれて目を覚ました。辺りを見回すと、僕は見知らぬ宿場のベッドの上にいて、心配そうなエリオとエリカに顔を覗き込まれていた。
「……ここは?」
質問するとエリカが答えてくれ、あなたは二時間ほど眠っていたと教えてくれた。そんなはずはないと、僕はますます混乱した。エリカが口にしたのは、捕まりそうになった森から何百キロと離れた街の名前だったからだ。鉄道を使っても二時間では辿り着けない。
「お前の魔法だよ」エリオが心を読んだみたいに言った。
「瞬間移動なんてとんでもないもの、いつ習得したんだ? 早く教えてくれればよかっただろ。応用をきかせれば、時間や時空も操れるようになるかもしれない……」
僕は状況を理解し、あれは偶然できたのだと説明した。では自在に使えるよう練習が必要だと、エリオは期待の籠もった口調で言ってから、エリカを連れて部屋を出ていった。
僕はベッドのフレームに立てかけられた剣を見た。これをくれた時の彼の顔を思い出し、その面影が確かにあった、森の中で見た男の顔を重ねた。彼はエリオとエリカを探していたらしい。おそらく本当に、女王に仕える身となったのだ。
僕は剣を握り、手のひらに革ベルトの毛羽立ちを感じながら、心にこみ上げてくる何かを押し戻そうとした。僕は彼と友達になりたかった。あの村の医者の小さな家で、いつまでも一緒に勉強したり、お喋りしたりして過ごしたかった。この願いは忘れなければ、と思った。僕はエリオとエリカを守ったし、これからも多くの人を救いたい。暴動の負傷者を治したり、荒れた畑を耕したりしても焼け石に水に過ぎず、根本的に解決するために、いずれ革命に乗り出すことになるだろう。それはすなわち、彼と敵対するということだ。皆の先頭に立って声を上げるなら、私的な感情は捨てねばならない。でも――そんなこと、意気地なしの僕にできるのだろうか?
それからほどなく、僕はエリオとエリカと共に指名手配された。人相と名前が大々的に知られることになったが、支持者が増え始めていたこともあり、活動を続けるのはそう難しくなかった。指名手配されたことを受け、兄妹はこれまで以上に反抗の意思を強めたようだった。医療機関や傭兵団にかけあって数百人規模の組織を味方につけ、民間の協力者も加わって、〝黒の魔術師〟に期待する世間の声はみるみる大きくなっていた。
ほどなく、ゼラという魔術師がひょっこり仲間に加わった。調子のいい性格の男で、支持者の無茶な頼みを聞いては「何とかしてよ、ちゃちゃっとね」と僕に丸投げしてくることがしょっちゅうあった。気さくに接してくれる貴重な存在ではあったが〝とりあえず勢いのある方についときゃいいよな~〟という考えが透けて見える、軽薄な男だった。持ち前の愛嬌と要領のよさで、士官学校を出た後は宮廷魔術師の中でもそこそこの地位に上り詰めたらしい。解雇されてからは、女の家を渡り歩いていたそうだ。
「どうして解雇されたんだ?」
革命までの道筋が明確になり始めたある晩、エリオがゼラに尋ねた。支持者の夫婦が営む宿場で食事を摂った後のことだ。
「女王陛下の侍女に手を出したんで、騎士さまの怒りを買ったのさ」
ゼラは頬杖をついて答えた。
「聞いたことないか? 〝白銀の騎士〟って呼ばれてる奴のこと。女王の即位とほぼ同時に、父親の後釜に座った男だ。俺はそいつに嫌われたんで、こっちにつくことにしたってわけ。あいつはな、魔力がねえのに魔術師と渡り合えるんで、陛下のお気に入りなのさ。士官学校へ視察に来た時も、自ら練習台になるとか言い出して……。ああ、嫌な野郎だ」
父親と息子という言葉に僕はハッとして、それはこういう年頃のこういう顔をした男かと、森で会った騎士の特徴をゼラに話した。
「間違いねえな。たぶんそいつだ」
「魔力がないのに、魔術師と渡り合えるってどういうこと?」
「父親から受け継いだゴテゴテした剣があって、それが魔法の攻撃を生き物みてえに吸い込むんだよ。幻覚の類も一切効かねえ。魔法で弓や弾を飛ばした場合はまた話が違うんが、少なくとも魔法で直接あいつを斬ったり殴ったりすることはできねえよ」
「その剣ってどんなもの? 何でできてるの?」
「俺も詳しくは知らん。ただな、すごいのはその剣で、あいつ自身はぼうっとしたつまらない男だよ。見てくれの良さと血統がなけりゃ、誰にも相手にされないようなね」
そう言って、ゼラはぬるくなった酒が入ったジョッキを傾けた。
「白銀の騎士の話をしてるの?」
宿場の主人と話し込んでいたエリカが会話に入ってきた。
「なら今教えるけど、私たちがいるって噂を聞きつけて、明日の昼頃、その騎士がこの街へやって来る。だから出歩かないよう注意して」
「おっ。向こうから出向いてくれるならちょうどいいじゃねえか。この際、俺らの魔術師さまがあいつを殺せるかどうか試してみよう。案外、上手くいくかもしれねえだろ? 〝露と消えた〟って言葉通りにシュッとさ」
「駄目」
エリカが鋭い声で咎めた。ゼラは酒が入ると、あいつは気に入らないから殺したいだの、今からでもぶちのめしに行こうだのと平気でのたまう癖がある。大抵はその場の勢いだけで、朝になれば忘れてけろっとしているのだが、真面目なエリカはゼラが思いつきを口にするたびに苛々していた。
「絶好の機会を待って、不意を衝かなれば侵略は成功しない。宮廷に潜伏してる仲間が警備交代の隙を衝いて裏門を開けてくれるまで、私たちは大人しくするって決めたでしょ。王都のこんな近くで騒ぎを起こすわけにはいかない。わかってから物を言うことね」
「うるせえ女」
ゼラが唾を飛ばして悪態をついた。
「俺もエリカに賛成だ。いいか? 明日は絶対に外に出るなよ。俺の部屋はお前の隣だ。お前が歩いて床板を軋ませるたびに、様子を見に来るからな」
エリオは僕に向かってそう言ってから「おやすみ」と席を立った。
彼を見に行こう、と思った。三人に、白銀の騎士と僕が子どもの頃知り合いだったことは話していない。ここで変に反発せず、一人で行動した方がいいだろう。
翌日、僕はエリオに言われた通り、部屋で大人しく過ごしていた。ベッドに腰かけ、いつもの剣を握り締めた。太陽が空の真上に位置する頃、ベッドから立ち上がり、剣に魔力を込めて軽く振った。半透明な空気のヴェールが、あたりを覆っていくのがわかった。
活動の合間を縫って行った研究の結果、僕は瞬間移動の本質をつかみ、そこからさらに発展して、時間や時空に手を加えられるようになっていた。三十分ほど時間を停止させることにはだいぶ慣れてきて、新しい魔法は安全だと自分で納得できるまで誰にも見せないのだが、そろそろ仲間たちには話してもいいと思える精度になってきていた。
この研究の成果を応用すれば時間を巻き戻したり、魂を別の時空のどこかへ転生させたりすることも可能だと僕は気づいていた。けれども実用化には生きた人間を使った検証が必要になるため、試してみる気にはなれなかった。
瞬間移動することもできたが、誰の視線も気にすることなく外の空気を吸いたくなり、僕は走って城を出た。街全体を覆う巨大なシャボン玉の中、白銀の騎士の姿を見るために大通りを駆け抜けながら、気づけば笑っていた。自分の恐ろしい真意に気づいて、笑うしかなくなってしまったのだ。僕は彼を殺す理由を探していた。
反旗を翻して立ち上がった今、どちらかが殺されることでしか争いは終わらない。革命とはそういうものだからだ。僕は僕が勝ち、彼を殺すことになった時〝白銀の騎士は殺されて然るべきだった〟と納得する理由が欲しかった。自分の中に残っている思い出を未だに捨てきれず、後悔することを恐れているのだ。数えきれないほどの人の自由と人生を背負っておいて、こんなに愚かなことがあるだろうか?
「誰かいるのか?」
しんとした街を走っていると、遠くから声がした。僕は建物の陰に身を潜め、近づいてくる声の主に気づかれないようにした。
「姿を見せろ。即刻名乗れ」
やがて固まっている人々の間を縫って彼が現れた。ゼラが言っていた通り、僕がかけた時間停止の魔法は、彼には効いていないようだった。真夜中の森では一瞬ランタンの灯りに照らされて顔がわかっただけだったが、今日は全身がはっきり見えた。
月日の流れは、子どもの頃から眩しかった彼の容姿にいっそうの磨きをかけていた。背が高く、脚が長い。分厚い鎧を身に付けており、首の太さから筋肉質な体型であることが窺えた。邪魔にならないよう髪を短く刈り上げており、目は長い睫毛に縁どられているが、眼光は猛禽類のように鋭い。そして装飾の施された、美しい剣を携えていた。
彼は警戒した様子で歩いていたが、突然ふと立ち止まった。十数羽もの小鳥が地面に降り立った状態で静止しているところへ入ってしまったのだった。困ったように頭を搔くと、彼はサバトンを付けた足でひょこひょこと、爪先立ちになって小鳥を踏まないよう慎重に移動した。
僕はあっけにとられてしまった。敵がそばにいるとわかっていて、しかも今は誰の目を気にする必要もないのに、彼は小鳥を気に掛けたのだ。それを理解した瞬間、僕は激しい後悔の念が襲ってくるのを感じた。こんな場面を目撃することになるなら、わざわざ姿なんて見に来なければよかったのだ。そうしたら、僕は彼が依然として優しい心の持ち主であることを知らぬまま、処刑台へ送ることを決断できたかもしれないのに。
それからほどなく、〝黒の魔術師〟の一派による城の制圧は、計画通りにすべて上手くいった。僕らは女王や臣下を捕らえ、城の地下牢へ収容した。
白銀の騎士は、女王の身の安全との保証と引き換えに捕虜となった。僕らは例の不思議な剣を押収することに成功したが、いくら調べてみてもタネも仕掛けも見つからなかった。とんでもなく上質な銀でできていて、凝った装飾が施されているということを除けば、何の変哲もないごく普通の剣だったのだ。そんなはずはないと思ったが、調査に時間を割く余裕はなかった。女王の幽閉が決まり、僕は仲間たちと騎士の処分について相談することになった。少々大きすぎる円卓を四人で囲んで座った。
「……極刑にする必要は、ないと思う」僕は彼らに言った。
「僕らの支持者のほとんどは、熱病や貧困で家族を失った人たちだ。彼を処刑したら、ただ恨みをぶつけるだけになってしまう。だから女王と同じく幽閉か、もしくは……」
「何言ってんだ」
ゼラが溜め息をついた。
「あんたさ、自分の立場わかってる? そんな生ぬるいことやってる場合じゃねえだろ。国民の不満を買ったら盤面ひっくり返されるって、自分で証明したばかりだろうが。奪われたら奪い返すしか、民衆の期待に応える方法はねえんだよ」
ゼラの言い分は理解できた。今になって怖気づくのが、民衆に対する裏切りだということもわかっていた。しかし彼が小鳥を避けて歩く姿を見てからというもの、僕はどうしても、その命を奪うことを決断できなくなってしまったのだった。
「何かわけがあるのか?」
エリオに尋ねられた。僕が答える前に「そういえば」とエリカが口を開く。
「兄さん、森で捕まりかけた時のこと覚えてる? 私たちが消える直前、白銀の騎士は彼の顔を見て何か思い出したみたいだった」
「……おいおい、まさか昔の知り合いだったりしないよな」
ゼラが低い声で言った。
「そういやあの騎士の野郎も、子どもの頃は田舎の村で暮らしてたって聞いたことあるぞ。まったく……ふざけるなよ! 私利私欲のためか? 心底がっかりしたぜ!」
ゼラはたがが外れたように笑い、椅子から立ち上がって、僕の元にゆっくりと歩み寄ってきた。体を屈め、顔を寄せて囁いてくる。酒臭い息がかかった。
「なあ、わかるだろ? 俺はただ、お前に道を踏み外してほしくないだけなんだ。甘っちょろいまんまだと、すーぐ裏切られちまうよ」
僕は視線から逃げるために顔をそむけ、膝の上で握り締めた自分の拳を見つめた。お前だって私利私欲のために僕を利用してるだろ、と言い返せる強さがあったらどれほどよかったか。僕はゼラが僕らの活動資金を度々くすねていることに気づいていたし、白銀の騎士にこだわるのも、宮廷魔術師を辞めさせられた恨みを晴らしたいからだと知っていた。それでも何も言えないのは、仲間を失うことが怖いからだった。絶大な力があることがわかり、偉業と言われることを成し遂げても、僕は依然として一人になることが怖かった。
ゼラはしばらく暗い目をして笑っていたが、「悲しいねえ。せっかく忠告してやってるのに」と、溜め息をついて席に戻った。
民衆の救済を優先し、暴動や物資の運搬のために各地へ人を遣っているため、城内は驚くほど人気がない。話し合いを終えてから僕は静かな階段を下って地下牢を訪れた。
白銀の騎士は捕まった時の服装のまま、魔法の鎖で壁に繋がれていた。僕の姿を認めると微かに目を見張り「お前か」と呟く。
「……陛下はご無事だろうな?」
「きみと取引したからね。それより、こうして落ち着いて話すのはずいぶん久しぶりだ」
僕は感情を表に出さぬよう努めた。あの時別れてから彼がどう生きてきたのか知りたかったが、今以上に心を揺さぶられたくはなかったのだ。知ればまた後悔するかもしれないとわかっていたが、それでも話を聞きたかった。
「お前が魔法を使えると、昔の俺は知らなかった。あれから色々あったのだと思う」
彼は抑揚のない声で言った。
「きみは……本当に騎士になったんだね」
答えるまでもないと思ったのか、彼は黙って僕の顔に目を向けた。窮地に陥っているにもかかわらず、その表情は不思議と絶望してはいなかった。瞳は昔と変わらない透き通った色をしていて、懐かしい記憶を僕に思い出させた。彼は料理も掃除も洗濯も苦手な子どもで、真面目にこなそうとする気概だけはあるのだが、要領がいいとは言えなかった。力仕事は得意なようだったが、それでも薪割りをしている時、空に浮かんだ雲の形にしょっちゅう気を取られていた。村を出て行く時、「絶対に頑張る」と彼は言った。騎士になったということは、本当にとても努力したのだろう。守れと命じられた人を守れるほどに強くなったのだ。そして実際、捕虜となって女王の身を守った。
ゼラは彼のことを、恵まれた容姿と由緒正しい家柄がなければ、誰にも相手にされないつまらない男だと言った。僕にはその評価が、僕自身の評価の裏返しに思えてならなかった。僕の本来の気の小ささは魔法の功績によって人々の目には映らず、彼が努力で得た真の強さは、外見の美しさ故にまっすぐ見てもらえない。立場も何もかも異なるが、僕には彼の気持ちがわかる気がした。
「……きみを殺したくない」
「何だ?」
聞こえなかったのか、彼は眉をひそめて訊き返してきた。「いや」僕は首を振る。
「きみに、魔法が無効だった理由を教えてほしいんだ。剣を調べてみたがわからなかった。きみ自身に耐性があるのか?」
言った後で、それは違うと自分で気づいた。まさに今、彼は魔法で拘束されているからだ。彼は何も言わずに顔をそむける。話すつもりはないようだった。
「……また来る」
僕は背を向けて牢の前を離れた。
今後の政策について相談しようと、その夜、僕はエリオたちに伝令を送った。ところが翌日の未明、状況を一変させる事件が起こった。女王の幽閉に不満を抱いていた市民たちをゼラが集めて扇動し、女王を斬り殺してしまったのだ。魔法で細工がしてあったせいで、発見と報告が遅れたのだという。
全身の血が、足元に落ちた気がした。それまで僕は王侯貴族による過去の会議資料に目を通していたが、突然のことに気が遠くなり、椅子に倒れ込んでしまった。
理解が追い付く前に、また新たな知らせが舞い込んできた。牢のそばでゼラの遺体が見つかったという。黒いマントは脱がされ、肩口から脇腹へ、鋭い剣で骨まで断たれていたとのことだった。
「あの騎士がやったのよ」
玉座の間へ飛び込んできたエリカが、爪を嚙みながら言った。
「ゼラは女王を殺した後、見せしめにするために遺体を広場へ持っていこうとしたみたい。だから失神させられた警備も起きた後、牢に騎士の姿がなくても不審に思わなかったのよ。ゼラが二人をまとめて殺したと勘違いして……。でも違った」
「脱獄したってことか?」
あの魔法の拘束は、物理的な力で壊すことはできないはずだ。「それ以外考えられない」エリカが非難の目を向けてくる。
早急に彼を見つけ出す必要があったが、そう難しくはないはずだと思った。何しろ彼は数日間、飲まず食わずで繋がれていたのだ。城の周辺ならある程度顔も知られているはずだし、時間の問題だろう。
しばらくしてエリオがやってきた。「どうなってる」彼は荒い息をしながら言った。
「民衆にはどう説明すればいい? いや……それより白銀の騎士を早く見つけなければ」
「騎士は僕が探してくる」
「はあ?」エリオは眉をひそめた。
「おかしなことを言わないでくれ。お前はここに残って、女王のことをどう伝えるか考えてもらわなきゃならない」
「でも」
僕には切り札があるのだ。国じゅうの時間を止めれば、いくらでも捜索が可能になる。それに彼は今、例の剣を持っていない。魔法の効果があってもおかしくはないだろう。
「でもじゃない」
エリオは断固として反対するつもりのようだったが、彼がそれ以上何か言う前に僕は剣を振った。街全体を包み込むように、半透明な空気のヴェールが下りていく。向かい合った姿勢のまま動きを止めたエリオは、口調こそ冷静だったはずなのに、今にも叫び出しそうな顔をしていた。
油断はしていないつもりだった。黒の魔術師としての活動を始めてからというもの、殺されそうになったことは何度もあったし、身を守るための鍛錬だって欠かさなかった。
だから瞬間移動で城外に出て太陽の光に目が眩んだ瞬間、階段の脇から人影が飛び出してきた時も、僕は素早く後ろに下がった。魔法の剣を構え、襲ってきた相手を見た。
まだ城の敷地内にいたとは予想外だった。白銀の騎士が踏み込んでくる。どこで手に入れたのか、彼は近衛兵用の槍を持っていた。僕は炎の魔法を使った。けれども炎は何かに導かれたように、彼の服の袖のあたりに吸収されてしまった。
彼の目的はわかっていた。僕を殺そうとしているのだ。けれどもいざ、迷いのない目でまっすぐに見られると怯んでしまった。その一瞬が命取りになった。僕は彼の足払いを食らい、地面に倒れそうになった。彼が両手で剣を振りかぶった。
死ぬのだ、と思った。わずかな不注意で、こんなにもあっけなく。同じことを、何年も前に故郷の湖で考えた気がした。でも、僕は変わったのだ。会わないうちに彼が強くなったように、僕だって、少しくらい意気地なしではなくなったはずだ。
体勢を崩す直前、僕は無我夢中で手を伸ばし、彼の服の胸元を摑んだ。倒れまいとしたのだが、その逞しい体は僕の体重程度ではびくともしなかった。代わりに、振り払おうと剣を離した彼の左手から、人の目玉ほどもある青い宝石が転がり落ちた。
――これは何だ?
そう思った瞬間、自分が発した魔法の光に目が眩んで、何も見えなくなった。
【4】
「僕……僕は」
自分が発した光に視界を塞がれたまま、僕は頭の中に記憶が雪崩れ込んでくるのを感じていた。成し遂げたこと、その裏でたくさんの人を救えなかったこと、道を切り開く中で少なくない犠牲を出したこと、鉄格子の向こうにあった彼の目。心臓に、杭を打ち込まれた心地がした。自分が背負っているもののあまりの重さに一瞬、もう一度忘れたいと思ったほどだ。けれどもあらゆる記憶は既に、これ以上ないほど鮮明に焼き付いていた。
「俺のことを話そう」
すぐそばから、聞き慣れた声がした。見れば白銀の騎士が――銀が、黒いマントを地面に脱ぎ捨てるところだった。僕が動揺しているからか、今すぐ斬り殺すのはやめたらしい。剣を下ろし、一つ瞬きをして彼は言った。
「あの時……お前に服を摑まれた後、光に包まれて目が眩み、気づけば違う世界に来ていた。ランドセルとかいうおかしな鞄を背負い、大勢の子供と学校に通って、そばには同じく幼くなったお前もいたが、お前は俺のことを覚えていないようだった」
銀が語ったところによると、小学校二年生の時、授業中に居眠りをしていたら騎士の頃の記憶を夢で見、すべてを思い出したとのことだった。小学生としてのそれまでの記憶も残っていたが、突然白銀の騎士としての自我を取り戻したため、体が急に幼くなったように感じてしまったという。
「どうしてこんなことになったのか、理解できなかった。色々考える知識はあったが、子どもの頭は使うとすぐに疲れて、昔みたいにぼんやりすることが多くなった。周りにも上手く馴染めなくて、気味の悪い子だと祖母に言われた」
そこで銀は言葉を切った。風が吹いて前髪が揺れ、僕はようやく、高校生の彼と白銀の騎士の彼とでは髪の色が違うことに気づく。高校生の彼は髪を黒く染め、長く伸ばした前髪でいつも顔を隠していた。こっちの世界へ来てから彼はずっと本来の髪の色をしていたのに、違和感を覚えなかったということは、忘れているつもりでもやはり、僕の中にも魔術師としての記憶が眠っていたということなのだろうか。
「……僕が、やったんだね」
自分の正体がまだ信じられなかったが、気を失う直前、無我夢中で剣を振ったことを僕は確かに覚えていた。あの瞬間、頭に浮かんだのは試したこともない転生の魔法だった。自分勝手なことに、僕は黒の魔術師としての使命も何もかも忘れて、ただ、彼との時間が途切れるのが惜しいと思ったのだ。
「……でも、きみに魔法は効かないはずなのに」
僕が言うと銀は「これを落としたからだ」と、自身の剣に嵌まった青い宝石を示した。
「これは俺の家に代々伝わる石で、魔封じの効果を持っている。そのままでは吸収できる魔力の量が多くないので、現役の頃の父上も俺も、剣に嵌めて使うようにしていた」
「……魔封じの石?」
そんなものの話は聞いたことがない。どうやって作るのか見当もつかないし、王立図書館や城の書庫にある本にも書かれていなかったはずだ。
「知らないのも無理はない。これは古代呪術を使って大昔に作られたものだ。資料もとうに燃やされている。古代呪術が禁じられて久しいのは、お前も覚えているだろう」
忘れるはずがなかった。僕が立ち上がるきっかけになった熱病、あれもまさに古代呪術で作られたものだったから。魔法には唯一の法則があって、それは上書きが不可能なことだ。法則に縛られて僕が熱病を治せなかったように、魔封じの石を持つ彼にも、魔法をかけられなかったのだ。
「お前たちが城に乗り込んできた時、俺はこの宝石を外して口の中に隠した。陛下が殺された後、拘束魔法をこれに吸収させて牢を出、武器庫で近衛兵用の武器を手に入れた」
「その剣はいつ取り戻したんだ?」
今魔封じの石が嵌まっている美しい剣は、彼を捕虜として捕縛する時に押収したはずだ。宝石が外されているなんて思いもせず、一度調べた後は武器庫に保管していた。
「こっちの世界に戻った時、俺の方が先に目を覚ました。俺は一人で剣を探して宝石を嵌め、マントを手に入れて、お前が意識を取り戻す前に戻ってきただけのことだ」
「なるほど……」
僕は続けて銀にいくつか質問をした。彼は簡潔に答えてくれた。銀として生きていた世界の方で、彼は白銀の騎士の剣に似たキーホルダーを持っていたが、あれは本当に何の変哲もないただのキーホルダーだったらしい。「中学の修学旅行先で似たのを見つけて、安心するからいつも持っていた」と彼は微かに笑って言った。
「この世界に戻るために、俺は色々な本を調べた。映画も観たしゲームもした。どこかに俺と同じ経験をした人がいて、その人が作品の中にヒントを残したかもしれないと思ったから。でも結局、俺には魔力がないからな。お前がどうにかするのを待つしかなかった」
城の敷地内で僕が目覚めた時、銀は僕を殺そうとした。けれども、僕が魔術師としての記憶を失ったままだと気づき、思いとどまったそうだ。「己の罪を理解していないのに斬っても意味がない」彼は静かな声で言った。
自らが記憶喪失の振りをして、黒の魔術師の正体を勘違いさせ、記憶の湖へ誘導する。ここまでの彼の立ち回りは見事の一言だった。僕はすっかり踊らされていたのだ。
「――それで」僕は話を聞き終えてから言った。
「すべては、きみの思い通りになったわけだね」
銀は小さく首を傾げ、前髪の隙間から目で肯定の意を示した。長い年月を経ても尽きることのなかった執念が燃え滾る、ぞっとするほど美しい瞳だった。何も考えていないように見える浅い青の宝石に、強い意志が宿るのを僕は認めた。
「お前を殺す。今ここで」
銀は剣を構え直した。
「お前は陛下を殺した。俺が捕虜になった時、身の安全は保証すると言ったのに」
「僕じゃない。あれはゼラが」
「あいつはお前の仲間だ。だから、お前が殺したのと同じだ。俺は陛下にすべてを捧げると決めた。そうすべきと、先生がおっしゃったから」
銀の言葉は強い使命感に満ちていて、そこには少しの迷いもなかった。魔術師としての人生を遠い昔のように感じている僕とは、感覚が違うらしかった。彼は今でも、騎士としての目的を果たすことに命を懸けている。驚くべきことだったが、意外ではなかった。銀が一度決めたことは必ずやり遂げる性格で、なおかつとんでもなく気が長いということを、僕はよく知っていたから。
高校生として何も知らずに過ごしている間も、僕はずっと銀に意志表示してほしいと思っていた。カラオケで歌いたい歌、漫画喫茶で読みたい漫画、ファミレスで食べたいメニュー、誕生日プレゼントに欲しいもの、いつか行ってみたい国。バスの座席は窓側がいいとか、ラクトアイスはアイスと認めないとか、そういうこだわりでもよかった。共感したり議論したり、互いのことを知りながら、楽しい思い出を作っていけたらどんなにいいだろうと思っていた。実際の銀は意見を滅多に主張せず、大抵の場合は僕と同じにするか、僕の勧めに従った。変に触発させないためだったのだろうと今ならわかるが、結果的にいつもただ優しかった。
その銀が今、初めて意志を示してくれている。お前を殺したいと、伝わってくる殺気で髪が逆立ちそうなほどだった。僕はそれを叶えてやりたいと思った。彼は女王の仇を討とうとしているのであって、たくさんの人を助けたかった僕と考えを違えたわけではない。それに転生の魔法が使えるとわかった今、ここで銀に殺された後、高校生として向こうで再び目覚められるよう、僕は自分に魔法をかけておくことが可能なはずだった。
唯一気がかりだったのは、僕がいなくなった後のこの国のことだ。先頭に立っていた僕も、人望があったゼラも死んでしまって、あの兄妹だけで上手くやっていけるとは思えなかった。僕にはそれをどうにかする責任があった。ここまで事を荒立てた今、僕自身の魔力を、最後まで人の役に立てる方法を考えなければならなかった。
「話は終わったな」
銀が大股でこちらに近づいてきた。
「あれから十七年だ。さすがの俺も待ちくたびれた」
「待ってくれ」
僕は慌てて後ずさり、振り下ろされた銀の剣を魔法の剣で受け止めた。力で押し切られそうになり、地面を転がって辛うじて逃れられたものの、このままでは次に接近した時にやられてしまう。今の銀に魔法攻撃は効かない。あの宝石が嵌まった剣を壊すか、彼から奪うかしない限り、僕に勝ち目はなさそうだった。
瞬間移動の魔法を使って、湖の反対側まで僕は距離を取った。諦めずに走ってこちらへ向かってくる銀を見ながら、自分を情けなく思った。僕は彼と違って弱く、人を救いたいなんてたいそうな夢を持っていたくせに、それに伴う争いにはいつも怯えていた。生まれ変わっても臆病な性格はちっとも直らなかった。唯一変わった部分があるとすれば、化学の知識がついたことだろう。魔法が存在しないぶん、向こうの世界はそれが進歩している。
「化学……?」
僕は立ち止まった。確かにあの剣には魔法が効かない。でも魔法で化学反応を起こし、それで攻撃することはできるんじゃないか? 魔封じの宝石を破壊できなくても、剣を破壊すれば彼は丸腰になる。
魔法の剣を構え、意識を集中させた。作戦を実行するために、まずは材料を調達する必要があった。近くにいた湖の旅人の体内から、アンモニアを分けてもらう。転移魔法で抽出し、別の女性が身に付けていた白金の腕輪を触媒に酸化させる。精製した一酸化窒素を火魔法でまた酸化させ、二酸化窒素を作る。湖の水に吸収させれば準備は完了だ。完成した硝酸が宙に浮き、たぷんと揺れている。
さっきまで兵器だったのに、立て続けに魔法を使ったからか、頭の中でもう何度目かわからない火花が弾けた。鼻から生ぬるいものが垂れ、血の味が口に流れ込んでくる。僕は剣を握った手に力を籠め、倒れまいと踏ん張って、近づいてくる銀を迎え撃とうとした。
宙に漂う巨大な液体の塊を見て、銀は足を止めた。けれど迷ったのは一瞬で、魔封じの石が嵌まった剣には無効と踏んだのか、構わずこちらに突進してきた。
「行け!」
僕が剣を振ると、硝酸の塊はすっ飛んでいった。水音と共に球体が弾け、銀がぎゅっと目を瞑る。僕は彼の剣に魔力を送り続けた。溶解させ、火と風を同時に操って蒸発・乾燥させる。
パキッと、小さな音が聞こえた。それは次第に大きくなり、銀の剣の先端が白く変色した。剣はみるみる白さを増して、ピシッと鋭い音を立てると、刀身にひびが入った。柄にも衝撃が走ったのか、台座から外れた宝石が涙みたいに転がり落ちる。次の瞬間、剣は木っ端みじんに爆発した。
「銀!」
僕は駆け出した。彼は持つべきものがなくなった手で顔を覆い、湖畔にうずくまっていた。耳が痛いほどあたりは静かだった。
「剣が……」
何度か咳をしてから銀は低く呟き、ゆっくりと、顔を覆っていた手を除けた。
彼の顔は、煤の中に潜ったように斑に黒く変色していた。硝酸銀には皮膚を黒変させる力がある。攻撃する時は細心の注意を払ったが、爆発で飛び散ってしまったようだった。
「ごめん、銀、ごめん……」
謝る僕を前に銀はぽかんとしていたが、やがて体を起こすと、身を乗り出して自分の姿を湖面に映した。頬をこすり、皮膚の色が落ちないのを確かめる。それから肩を落とし、息を深く吸い込むと、天を仰いで吠えるように笑い出した。
「ああ、最高だ!」
彼は笑い声を上げながら、僕の背中をバシバシ叩いて立ち上がった。そんな笑顔も仕草も、今まで一度だって見せたことはなかった。
「どうして俺が向こうの世界で髪を伸ばして顔を隠していたか、わかるか?」
笑いが落ち着いてから、銀はそう尋ねてきた。
「きみの顔を見て、変なタイミングで僕が記憶を取り戻すのを防ぐため?」
「違う。向こうの世界では、剣を振るう必要がなかったからだ。できることなら、本当はこちらでも隠していたかった。俺はずっと俺の顔が嫌いだった。これはいつも俺の努力をなかったことにするし、余計な期待を背負わせてくるから」
そこで銀は言葉を切り、大きく息をついた。
「……俺は、お前と共にいるのが好きだった。冬馬は俺が面白いことを言えなくても、昔のようにぼんやりしても、失望せずにいてくれたから。お前といると気が緩んで、それが陛下に申し訳なかった。俺は……でも俺は、やはり使命を全うせねばならないと思う」
彼は鼻を啜って下を向いた。目から溢れた透明な雫が、ぽたぽたと地面に落ちる。それを見て僕は理解した。僕が咄嗟に転生の魔法を使ったのは、きっとこういう時間を得るためだったのだ。この湖がある小さな村に住んでいた頃、僕らが関わり合えた期間はあまりに短かった。決着を先延ばしにしただけだったとしても、あの平和な世界で一緒に過ごした時間は決して無駄じゃない。
「提案があるんだ」
銀の呼吸が整うのを待ってから僕は切り出した。
「僕はきみの願いを叶えたい。支えになってくれたぶんを返したいんだ。……だからきみが僕を殺すつもりなら、それを受け入れようと思う」
銀は目を見張り「俺が冬馬の支えに?」と首を傾げた。「なったよ。とても」僕が頷くと、彼は「わからない。だがお前が受け入れようとなかろうと、俺の行動は変わらないよ」と、砕け散った剣の破片を見下ろした。
「きみが僕を殺すにあたって、一つ条件があるんだ」
「条件?」
「僕の魔力を受け取ってほしい。魔法を使えば、素性を隠すのは簡単なはずだ。エリオたちと協力するかどうかは任せるから、きみが黒の魔術師の代わりになってほしいんだ」
却下される理由はいくつも想定できた。彼は女王の騎士だったし、提案に応じれば宿敵である僕の魔力を宿すことになる。普通に考えたら、取り合ってくれるはずがなかった。
けれども、応じてくれる可能性だって同じくらい感じていた。銀は優しく、使命感があり、物事を退屈なほどまっすぐ見ていて、一時の迷いで道を踏み外すことはない。テレビのニュースを見て涙を流すような心の持ち主で、士官学校を訪れていたことからして、魔法自体を嫌っているわけではなさそうだった。僕を殺した後、銀自身がこちらの世界で生きていくことを考えても、身を隠す術がないのは不便なはずだった。
銀はしばらく考えていたが「その提案、受けよう」と、迷いのない声ではっきり答えてくれた。「ありがとう」僕が言うと彼は頷く。早速準備に取り掛かることにした。
僕が剣の先で地面に魔法陣を描くのを、銀は神妙な面持ちで見つめていた。
「……魔力っていうのは、俺みたいな素人が急に手に入れても扱えるものなのか」
「最初は難しいと思う。でも、硝酸銀の黒変はしばらく落ちないと思うから……身を隠すのには困らないと思うよ」
「そうか。永遠に落ちないわけじゃないんだな」
銀は少し残念そうに己の顎を撫でた。
「小学生の頃から冬馬は、結局一度も魔法に興味を示さなかったな。化学は正反対だ」
「正反対に見えるけど、実は結構似てるよ」僕は魔法陣の続きを描きながら言った。
「それに僕が化学を好きだったから、きみのその剣を磨けたんだ」
「ああ、あれは嬉しかった」ふわりと、銀は風が吹いたみたいに笑った。
魔法陣の準備ができた。野次馬が一人もいない即席の刑場だ。黒の魔術師だけじゃなく、白銀の騎士もまたここで死ぬのだと僕は思った。女王はもういない。魔力を得た後、王制が倒れたこの国で、彼が騎士として誰かの前に姿を現すことは永遠になくなるのだ。
銀は僕が杖の代わりに使っていた、ぼろぼろの錆びた剣を手に取った。「懐かしいな」そう言って目を細める。
「刃の状態が良くない。ひと思いには無理かもしれない」
「構わない。きみの腕を信用してるから」
今しがた用意した魔法陣に、僕が向こうの世界で再び目覚める効果があることを、僕は彼に話さなかった。指摘された通りやっぱり僕は意気地なしで、この世界で殺されることはできても、真に死ぬことはまだ怖かった。銀は僕の性格をよくわかっているから、本当は見抜いているのかもしれない。しかし追及はしてこなかった。
ここで銀に殺され、次に目を開けた瞬間から、僕は友達が一人もいなくなった世界を生きていかなければならなくなる。考えると胃が痛くなったが、覚悟はできていた。湖水を飲んだ僕の記憶は、永遠に色褪せないことを僕は知っていた。
「座れ」
銀が一声、低く言った。魔法陣の真ん中に僕は膝をついた。かがみ込んだ彼が僕の腰のベルトを外し、左右の手首を後ろで固定する。脱ぎ捨てていた黒いマントを拾い、頭に被せた。視界が夜中のように暗くなった。
〝DEATH〟のタロットカードの絵柄を、僕はまだ鮮明に覚えていた。背の高い真っ黒な男の姿。自分に死神が憑いているとしたら、絶対に銀のことだと思った。あの時の僕に教えてやりたい。確信は結果的に正しかったが、親友を助けたい一心でトラックの前に飛び出して、運命を引き寄せたのは自分自身なのだと。
「後悔してるか?」
銀が囁いた。僕の心を見透かしたかのようだった。
「してないよ」
僕は答えた。それがトラックの前に飛び出したことではなく、女王の処刑を止められなかったことに対する質問だと、一瞬遅れて気づいた。しかし、こう答えて正解だったじゃないか。銀の好きなファンタジー小説でも、討たれる者はだいたい志を貫いて死んだ。場面は大抵、こんな文言で締めくくられる。
そうして彼は、刑場の露と消えたのだった。
【おわり】