魔法の剣と銀の剣 前編


【1】


 運命なんて信じないけれど、一年前、呼び込みを振り切れずに入ってしまった占い館で、めくったタロットカードに〝DEATH〟と書かれていた時の衝撃は忘れられない。あの時、僕の後ろにはぎんがいて、カードをのぞき込み「死神だ」と、意外でもなんでもない顔でつぶやいた。黒いフードを被り、長い鎌を持ったがいこつおとこの絵柄のカード。もし僕に本当に死神がいてるとしたら、それって絶対に銀のことだ。
「僕の運命を覗き見するなよ」
「知りたいから」
「知ってどうすんの?」
「別に」銀は首をかしげる。
 占い館を出て、僕らは歩いた。カラオケだったか、漫画きっかゲーセンか、どこへ向かっていたのか今では思い出せない。学校を休んだら銀が家に来て、退屈そうにしているから僕が連れ出すという、いつもの流れだったことは確かだ。小学二年生の頃いじめにって以来、僕にはすっかり休みぐせがついてしまった。両親は僕が引きこもりになるのではと心配していたが、出席日数はギリギリ足りるようにしているし、欠席した日は午後になったら銀が来るので、なんだかんだ外へ出る生活が続いている。そうして高校生になったから、かれこれ十年間、銀は僕と外をつなしょくばいの役割をしていることになる。
「あ。ねこ」
 ガムをみながら、彼は横断歩道の向こうに目を向けた。片手で抱えるくらいの大きさをした白いかたまりが、風と同じ向きにふわふわと動いている。
「ビニール袋だよ」
 僕が指摘しても聞かずに、吸い寄せられるみたいにビニール袋に向かって歩いていってしまった。
「車来るか見ろよ。銀! 危ないって!」
 慌てて追いかけようとすると、路地の終わりに差し掛かった瞬間、死角から飛び出してきた自転車が猛スピードで目の前を横切っていった。深緑色のフリースを着たおじさんが、遅すぎるベルをチリンチリンと鳴らしながら去っていく。
 危なかった。あと一歩前に出ていたら、完全にかれていた。
とう。何してるの」
 いつの間にか、銀は追いかけていた相手が猫ではないと気づいたようで、こちらを向いて退屈そうに立っていた。
「別に
 僕は鼓動が速くなった心臓を抑える。銀といるといつもこうだ。わざとなのか、偶然なのか、僕を絶えず死にそうな目に遭わせる、たった一人の友達。


 翌日は七時に目が覚めて、気分が良かったから久々に登校することにした。リビングでトーストを食べた後、たくをするために自分の部屋へ戻る。銀がやり残していったジグソーパズルを、踏まないように気を付けた。
 銀が僕の部屋でパズルをやり始めたのは小学二年生の頃だ。当時の僕は人生のどん底にいて、一日の大半をベッドの中で丸まって過ごしていた。教室にいづらくなったきっかけは、男子トイレの個室に長時間入っていたのをクラスメイトにからかわれたとか、その程度のことだったと思う。僕がひどく気にしたから周りは面白がって、ドッジボールで集中狙いしたり、国語の音読でくすくす笑ったり、ガリ勉がうつると言って逃げたり、さいな意地悪をしてくるようになってしまった(ガリ勉がうつるのは別にいいだろ)。
 銀は当時から同じクラスにいた。常に隅の方にいて、誰ともしゃべらず、遊びの輪にも入ろうとしない、僕に負けないくらい大人しい奴だった。休み時間になると、彼は決まってファンタジー小説を読んでいた。表紙のドラゴンにかれて手に取る人は多いものの、巻数の多さに大多数がせつしてしまうシリーズだ。銀がページをめくる速度は亀かと思うくらい遅かったが、それでも毎日、こつこつと読み進めていた。
 彼は生まれつき髪の色が淡く、目も灰色っぽい青をしていて、教室にいるだけでとても目立った。体が大きく、運動がよくできたから、いじめの標的にはなっていなかった。ただ不思議なことに、血が繋がっているはずの親はどちらも純日本人だったので、家庭内は穏やかではなかったようだ。
「お父さんと二人暮らしになったんだって」
 僕の母がそう言った。銀はそれまで、僕とは集団下校の班が異なる団地に住んでいたが、引っ越してきてご近所さんになった。銀はかつて彼のおばあさんが住んでいたという、縁側付きの長屋で暮らし始めた。お父さんの姿は一度しか見たことがなく、目鼻立ちも髪の色も、ちっとも銀に似ていなかった。
 僕がいつものように小学校を欠席したある日、銀は担任の先生に連絡帳のおつかいを頼まれたとかで、放課後にインターホンを鳴らしてきた。母はお友達が来たと言って喜び、オレンジジュースとサラダせんべいを出してくれた。銀はそれを食べて帰り、翌日から毎日訪ねてくるようになった。
 僕の部屋に入ると、彼はまず抱えていた箱を置き、ランドセルを下ろして正座をする。箱の中のジグソーパズルのピースを全部床にあけ、そのまま、僕に話しかけるでもなく黙ってパズルを始めるのだった。日暮れまでに終わらなかったら、置いて帰って次の日に続きから取り掛かる。
 どういうつもりなのか、まったくわからなかった。ジュースとせんべいがそんなに嬉しかったのかと思ったが、母が仕事で不在の日、僕が何も出さなくても銀はちっとも気にしないようだった。
「腹が痛いって嘘ついて、早退してきた」
 そう言って昼過ぎに来ることもあったので、二回目以降はもう、先生に指示されたわけでもなさそうだった。
 作品を完成させると、銀は決まって古くなった壁掛けカレンダーの紙をパズルと床の間に差し込み、箱についていたのりの袋の封を切ってピースの上に垂らした。はちみつみたいな粘度の糊が、たらたらと広がっていくのを僕は見ていた。その頃僕は化学にせられ始めていて、パズルの糊は液状の時から透明なのに、青いスティック糊や木工用ボンドは乾いてから透明になるのが不思議だったのだ。夢中で観察する僕の隣で、銀は付属のヘラを使って糊を伸ばした。しばらく経ってべたつかなくなったのを確かめてから、カレンダーの紙の端と端をつまんで長屋に持って帰った。額に入れて飾っているのかもしれなかった。
 他の遊びを一切しようとしないので、どうしてパズルがそんなに好きなのか、尋ねてみたことがある。
「別に好きじゃない。でもパズルをしてると、時間が過ぎるのを忘れられるから」
 そんな答えが返ってきた。
 銀は一つ完成させると、翌日には必ず新しい箱を持って現れた。ピースの数は徐々に増え、難易度も上がっていった。無口で背が高く、時々大人みたいなせきばらいをする銀は、始めはひどくとっつきにくかった。けれども僕のことを気に掛けていなければこんなことはしないだろうし、実際、彼は僕が言われて嫌だと思うようなことは絶対に言わなかった。
 結局、二人でずっと狭い空間にいることに耐えられなくなって、外へ出ようとしたのは僕の方だった。銀と一緒にいるのが嫌になったのではなく、周りの目が気になって仕方なくなったのだ。母は銀が不登校の僕に付き合ってくれていると思っていたし、担任の先生だって、僕のせいで銀が仮病の常習犯になったと考えていただろう。銀のお父さんは何も言ってこなかったが、いつ物申しに来るかわからなかった。そんな状況だったから、大人たちの無言の重圧に耐え続けるより、ベッドから出る方がマシだと判断したのだった。
 僕が再び学校に通うようになると、銀は退屈そうな顔をしながらついてきた。その頃には学年が上がってクラスの顔ぶれも変わっていて、思っていたよりもすんなり教室に戻ることができた。とはいえ一度負った傷はなかなかえなくて、今でも眠たかったりゆううつだったりしたら、簡単に高校を休んでしまう。銀だってそれは同じで、僕の部屋でやるパズルは、三〇ピースから始まったのに気づけば六〇〇〇ピースになっていた。


 始業十五分前に学校に着いた。教室のドアの前にたむろしていた女子たちの間を通って教室に入る。うわきの色を見ると全員一年生だった。銀に話しかけようとしているのだろう。
 高校生になってから、銀はすごくモテるようになった。小学生の時から、授業参観の日になると保護者の人たちがあの子はアイドルになれそうだの、王子さまみたいだのとうわさをしていることはあった。でも、生徒の中では今ほどの騒ぎにはなっていなかったと思う。髪の色も目の色も周りと違う銀は、十歳にも満たない子どもにとってはむしろ怖かった。
「地毛なわけがない」と中学の時に担任の先生に注意されて以来、銀は髪を黒く染め、長く伸ばした前髪で目を隠すようになった。周りにむための手段なのだろうが、一部の子たちには、それがミステリアスでいっそう素敵に見えるらしかった。
「あの」
 ドア付近にいた後輩の一人が、銀に声をかけた。
「先輩って、いつもそういうファンタジー系の本読んでますよね。私も好きなんで、良ければおすすめとか教えてください」
 遠目に見ても可愛かわいい子だった。本人も自覚があるのだろう。言葉の端々に自信がにじんでいた。
「おすすめ?」
銀は首を傾げる。「特にないけど」そう言って、手元の文庫本に視線を戻した。
「え、じゃあ、最近読み終わったのとか」
「あれは役に立たなかった」
は?」
 後輩は目を丸くした。じゃあ役に立つファンタジーってなんだよと、心の中で僕もツッコミを入れる。その後も二人はしばらく会話を続けていたが、銀が何か言うたび、後輩の表情がげんなりしていくのがわかった。
 見てくれが良くて損をする人もいるということを、僕は銀に出会って知った。今しがたの後輩みたいに、彼の外見だけを見て素晴らしいものを与えてくれると勘違いして近づいてきては、幻滅して去っていく人がたくさんいた。親しく話しかけてきた相手が徐々にそっけなくなり、愛想笑いを浮かべて離れていくたび、銀は目に見えない何かを失っているようだった。
 みんな、本当にわかっていないと思う。確かに銀はつまらない男だ。でも、つまらないところが一番の長所なのだった。小学生の時、僕が部屋から出るまで彼は「早くしろ」のハの字も言わなかったし、公園でかぎを失くした時も、夜までそばにいてくれた。組体操の倒立ができなくて一人だけ居残りになった時も、黙って一緒にいてくれた。僕がのろまでも、意気地いくじなしでも、銀はちっとも気にしない。そういうところに何度も助けられた。
 放課後、二人で学校を出た。銀は自転車を押して歩いていた。僕は補助輪なしの自転車に乗れず、徒歩で通学しているので、二人で下校する時は決まってこういう形になる。今までに、ぼんやりしていた銀がハンドルから手を離して僕が車体の下敷きになったことが二回、同じくぼんやりしていた銀が僕のローファーを轢いたことが三回あった。このまま一緒にいたら僕は間違いなく、こいつのせいで痛い目を見ると思う。まあ、今までの借りを考えたら、多少ので文句は言えない、かもしれない。恩を返すためだったら、危険を冒して命を助けるくらいは必要だろう。
 横断歩道の信号が青に変わるのを待ちながら、銀は片手で自転車を支え、もう片方の手で制服のベルトループに付けたキーホルダーをいじっていた。物持ちは良い方じゃなく、落とし物もよくするのに、彼はこのキーホルダーだけはずっと肌身離さず持っている。長屋の鍵でもぶら下げているのかと思って、玄関先に座り込んでいるのを見かけた時、使わないのかと尋ねたことがあった。
「鍵じゃない」
 銀は首を横に振り、ポケットの中にあったそれを見せてくれた。
 中学生が修学旅行の土産みやげに買ってくるような、ごてごてしたデザインの剣のレプリカだった。十センチほどの長さで、銀色をしており、刃の部分が本物のナイフのように鋭い。つばには浅い青色の宝石がまっていて、固定するためのツメの部分が、ドラゴンのかぎづめみたいな形をしていた。
 銀によく似た剣だと思った。ファンタジー小説が好きだからドラゴンの装飾とか、名前が銀だからシルバーのメッキとか、そういう部分はもちろんだけど、なんとなく、れいで寂しい感じがした。
もう、いいだろ」
 銀はかすかにまゆを寄せ、ポケットの中にそれを戻した。
 見せてもらったのは後にも先にも一度きりだ。銀は手持ち無沙汰ぶさたになると指でもしゃぶるみたいにキーホルダーをいじるが、学校でも僕の部屋でも、ポケットから出すことは絶対にない。なんのきっかけで持ち歩くようになったのか知りたかったが、尋ねることはできなかった。話したがらない気がしたからだ。家から出られなかった時、銀は僕が言われて嫌なことを口にしなかった。僕だって、銀に同じように接したかったのだ。
「あ。ねこ」
 ふいに銀がつぶやいて、自転車のハンドルから手を離した。こちら側に倒れてきたので、僕は慌てて車体を支える。
「びっくりしただろ!」
抗議しても彼はお構いなしに、横断歩道の向こう側に落ちているビニール袋を目指してすたすたと歩いていった。信号はまだ赤だった。交差点を通ろうとしていた車が、急ブレーキをかけてクラクションを鳴らす。
「おい! 銀!」
 僕はさっきよりも大声で叫んだ。彼が今いる交差点のど真ん中に向かって、大型トラックが猛スピードで走ってくるのが見えたからだ。車高のせいで銀に気づいていないのか、速度を落とす気配はない。銀も銀で、まったく横を見ようとしない。
「銀!」
 考える前に、僕は自転車を捨てて駆け出した。恩を返すためだったら、危険を冒して命を助けるくらいは必要だ。単なる冗談にとどまらず、反射的な行動に現れるくらい自分が強くそう思っていたことに驚いた。横断歩道の中頃でどうにか追いついて、力いっぱい銀を突き飛ばした。
 つもりだった。
 銀の体幹は頑丈で、僕が全力でぶつかってもびくともしなかった。銀は「おっ」という顔で僕を振り返り、それから迫りくるトラックに目を向けた。一瞬の出来事だったはずが、一連の動きが僕にはひどくゆっくりに見えた。
 今になって僕らに気づいたトラックの運転手が、目をいて激しくクラクションを鳴らす。衝撃に全身を貫かれる直前、あたりが光に包まれた気がした。


【2】


 何が起こったのか思い出す前に、意識があることを自覚した。後頭部や背中が特に痛くて、地面にあおむけで倒れているのだとわかる。
 瞬きしながら目を開けると、頭上から差してくる光がまぶしかった。さっきまでいでいた排気ガスのにおいがしなくなっている。死というのは意識が薄れゆくものだと思っていたが、どうやら違うらしかった。だんだん頭が冴えてきて、事故の記憶が波のように押し寄せてくる。
 どのくらいね飛ばされたんだろう? 銀はどうなったんだろうか。追加で何度か瞬きをすると、焦点が合うようになった。目の前に誰かいる。そう思った瞬間、首筋にひやりとしたものを押し当てられた。
「動くな」
 黒いフードをぶかかぶった、背の高い男が僕を見下ろしていた。〝DEATH〟のタロットカードがのうにちらつく。がいこつの姿で彷徨さまよい、命を刈り取る死神。
 男が一歩前に踏み出すと、光がさえぎられ、影が落ちて視界が暗くなった。彼は剣を握っていた。その切っ先が、まっすぐ僕ののどもとに突きつけられていた。
「動けば、今すぐここで斬る」
 聞き覚えがある声だった。僕は体を動かさないよう気を付けながら、目を細めてフードの奥の顔を見た。
銀?」
 名前が口からこぼれた。「なんだその格好」僕が尋ねると、銀は目を見開いて後ずさり、両手を使って剣を体の前で構えた。
 僕は膝をついて立ち上がろうとした。今までいしだたみの地面に倒れていたらしい。さっきは飛び出した石の角が刺さっていたから、後頭部が痛かったのだ。
 剣を押し当てられていた首元に手をやった時、服が変わっていることに気づいた。白いシャツに、前が編み上げになった焦げ茶のベスト、銀と色違いみたいな白いマント。フードが付いているのは同じだったが、銀のは無地で、僕のは金色の糸で太陽みたいな模様のしゅうほどこされていた。僕ら二人とも、どう見ても、トラックにかれた人間が着る入院着やしょうぞくではなかった。
「な何が起こってるんだ? 銀
 僕が顔を上げると、銀は剣を構えたまま、混乱したように口をぱくぱくと動かした。混乱しているのは僕の方だ。ここは一体どこなんだ? トラックに轢かれた直後のはずだけど何日か意識が飛んでいたとか? 銀はどうして剣を僕に向けているんだ? 僕をからかっているのか?
 そこまで考えて、絶対に違う、と首を振った。銀が僕をからかうはずがない。彼が冗談を言ったり、ふざけて笑わせようとしたりしてきたことは過去に一度もなかった。冗談が言えない性格なのだ。
 僕は銀が構えている剣に目を向けた。白く光る、すらりとした刀身。握った手に隠れてよく見えないが、鍔には宝石が嵌まっているようだ。銀がいつも持っているキーホルダーと同じだった。宝石だけじゃなく、そのまま巨大化したみたいに、どこもかしこもそっくりだった。
「お前は誰だ? 言ってみろ」
 銀は歯のすきからしぼり出すように尋ねた。その声を聞いて、僕は強烈な違和感を覚える。僕が知っている銀は、こんな風に感情をあらわにしたしゃべり方をする奴じゃなかったはずだ。そもそも警戒なんてめっにしないし、したとしても期限切れの牛乳とか、床に落としたカステラとか、胃に入れても大丈夫か怪しい食べ物に対してだけだった。
 会話に応じるべきかいなか少し悩んだ。こいつが頭のおかしくなった銀だとしても、銀にそっくりな別人(そんなことあるのか?)だとしても、武器を持っていることに変わりはない。ひとまず質問に答えた方がよさそうだった。
「僕の名前はほん冬馬。たぶんきみと同じだと思うけど、学校から帰る途中でトラックに轢かれて、気づいたらここにいた」
 僕が名乗ると銀(?)はわずかに安心したようで、剣の先を下ろしてくれた。やがて「俺は」と、かすれた声を発した。
俺は誰だ?」
「は?」
 わけがわからない。僕があっにとられていると、銀は視線をうろうろさせて続けた。
「俺も気づいたらここにいて、さっき目が覚めたばかりだった。何があったのか覚えていないし、この場所がどこかも知らない。自分が誰だか忘れてしまったらしい。体を起こしたら剣が落ちていたから、拾った。手にんだから、俺の所有物だったのだと思う。あたりを見たらお前が倒れていたから、怪しい奴かと思って、剣を向けた」
はあ」
 言っていることは理解できた。「一旦、整理する時間をくれ」僕は深呼吸をした。
 死後の世界とかおくそうしつとか、他にも考えられそうだったが、現状最もありえそうなのは、僕が夢を見ている可能性だった。実際は今も横断歩道のど真ん中か、病院のベッドの中、もしかしたら花に囲まれたひつぎの中にいて、意識だけが体を離れ、な夢を見ているのではないか。そう考えたら何が起こっても不思議ではない、ような気がした。
 男は本当に銀によく似ていた。グッと寄ったけん、長いまつふちどられた鋭い目、長くて鬱陶うっとうしそうな前髪。そこまで観察して、僕は今、目の前に立っている銀も、あたり一面の景色も、己の想像の産物なのだと気づいた。夢とは脳が記憶を整理する際に作ったおまけのようなものだと、化学雑誌で読んだことがある。
 状況があくできた途端、自分の脳が生み出した世界に興味が湧いてきた。ここでイマジナリー銀と対話するのもいいけれど、せっかくだから夢が夢だと気づいた場合、どこまで無茶できるのか試してみたい。想像でおぎなえない部分がどうなっているのかも気になった。
あの。とりあえず、きみを銀ってことにしてもいいか。僕の友達にすごく似ているんだ。僕はそいつと一緒にトラックに轢かれたはずで、気づいたら一緒にここで倒れていた。だからきみは銀なんだと思う」
 夢だなんだと説明してもすんなりいかないふんだったので、とりあえずそう言ってみた。銀はピンときていない様子だったが「わかった」とうなずいた。
 改めて周囲を見回すと、目の前には五十階建てのビルくらいはありそうな背の高い城がそびえ立っていた。その城と、城をぐるっと囲む城壁の間の、ドーナツ型をした通路のようなところに僕らはいるのだった。他の人の姿は見えず、不気味なほど静かだ。
「城に入ってみよう」
 僕が誘うと、銀は一瞬考え込むような顔をしてから「その前に」と言って反対側をあごで示した。城壁の中に組み込まれるようにして、見張り用らしきとうが建っている。
 銀は塔に向かって歩いていき、扉に耳を当てて人の気配を確かめた。「いない」とつぶやき、僕に手招きをする。
「こんなに大きな城なのに、無人なのっておかしくないか? さっきからなんの音もしないし」
「確かに」銀は頷いて扉を開けた。
 中に入ってみると、そこには中央のせん階段に押しやられたようにして、古ぼけた木製の机が一つとが二脚置かれていた。机の上には青っぽいとうの水差しがあり、日の当たらない壁際には、重たげに輝くめんぽおが並べられている。見張り番の兵士の予備のようだ。馬のくらづな、銀が持っているのと似た剣もあった。
 僕はファンタジー作品には興味がないし詳しくもない。けれど戦士や騎士の装備について、銀から説明を聞いたことがあった。おぼろげな記憶を掘り起こしてみる。この隅の方に寄せてある、ダンゴムシっぽい構造をした足を守るやつは確かサバトンというんだ。
 銀は椅子の背にかけてあった黒いベルトを手に取ると、マントの下でそれを素早く身に付け、腰のさやに剣を納めた。以前にもそうしたことがあるみたいな、無駄のない動きだった。ベルトが手に入ると最初から知っていて、身なりを整えるために塔へ入ったらしい。現実の銀はファンタジー小説を「役に立たなかった」と読み捨てていたけれど、僕の夢の中では役に立っているようだった。
「じゃあ、城へ行こう」
 銀が剣から顔を上げて言った。
「それ、持っていくんだ? 泥棒じゃない?」
 僕はベルトを示して尋ねる。銀は言われてから気づいたみたいな顔をして「なら、代わりにお前の上着を」と、僕のマントを指差した。
脱いで置いていけば、交換ということでいいと思う。汚れているが、高価なもののようだから。裾が長いし、着たままではお前も動きづらいだろう」
 僕はこの世界が自分のどの記憶をベースにしているのかわからないし、わかったとしても細部まで考証できそうにない。だから太陽の刺繍のマントの値打ちはわからなかった。ただ、銀が高価と言うのだからそうなのだろう。動きづらいのも確かだった。
 言われた通りにマントを脱いだ後、塔を出て、城内への入り口を探した。壁伝いに少し進むと、アーチ形をした扉を見つけた。厳重な警護を通過した後にあるからか、かぎはかかっていない。使用人が使っている裏口か何かだろう。扉の上部には、ライオンの白い彫刻があった。開ける時に目が合った気がした。
 僕たちは人を探した。ステンドグラスの光が差し込む長い広間を抜け、階段を下って地下に入る。足音がこだまする通路をしばらく進み、広々とした書庫に入った。
 たった今下ったばかりなのに、書庫を反対側まで突っ切った先に、今度は上り階段が出てきた時はちょっとムカついた。僕の夢なのに僕の体力をこうりょしてない。それでも頑張って上りきると、だだっ広い中庭に出た。低木で通路が作られ、中央には噴水がある。
「あっ」
 噴水の影に、人の姿を見つけた。まだ十歳くらいの、半ズボンを穿いた少年だった。じょうろに水が溜まるのを待っているのか、中腰のままじっとしている。僕は近寄って声をかけようとした。
 けれども噴水まであと数歩の距離まで来た時、反射的に足が止まった。
「銀!」
 僕は振り返って叫んだ。
「こっちに来てくれ! すぐに!」
 銀はぱっと顔を上げて飛んできた。じょうろを持って立っている少年を見た瞬間、僕と同じく驚いて足を止める。
 水をむ時の体勢のまま、少年は石像のように固まっていた。僕らが近づいても、ぴくりとも反応しない。吹いた風で服の裾がはためいて、質感は生きた人間と変わらないのに、瞬きどころか呼吸すらしていなかった。
 僕はそっと手を伸ばし、「おい」と銀が止めるのも構わず、少年の鼻をつまんでみた。腐って崩れたりはしないし、もちゃんと柔らかい。体温だって生きている人間のものだった。けれども、鼓動を感じなかった。手首の内側や首筋に触れてみても、脈を測ることはできなかった。全身の血の流れが止まってしまっているようだった。
お前がやったのか?」
 低い声で銀に訊かれた。
「僕が? この子を? できるわけないだろ
 僕は少年の首筋から手を離す。
「魔法がかかっているんだと思う」
 銀が短く言った。
「時間が経てば解ける。せいぜい三十分くらいだろう。大騒ぎするほどのことじゃない」
「魔法? この世界って、魔法があるのかよ」
 つい大声で反応してしまった。
「ああ、いよいよ夢って感じだな。僕の夢らしくはないけど。というか、銀はどうして知ってるんだ?」
「それは」
 銀は目をらし「なんとなく、思い浮かんだんだ」と、もごもご答えた。
「魔法が使えるなら、じょうろで水やりする必要ないのに」
「誰もが魔法を使えるわけじゃないんだ。一万人に一人いるかいないかで、保有している魔力によって操れるものの規模も変わる」
「その知識もなんとなく思い浮かんだのか?」
そうだ」
 銀はあいまいに頷いた。
 その後も探索を続ける中で、少年の他にも何人か、使用人らしき人を見つけた。皆てついたように静止していて、僕らが何をしてもぴくりとも動かなかった。完全な無人ではなかったにせよ、この城がイレギュラーな状態にあることは間違いなさそうだ。
 やがて僕らは玉座の間に辿たどり着いた。部屋のちょうど真ん中あたりに、男と女が一人ずついた。どちらも銀と同じ無地の黒いマントを羽織はおっている。冠を被っていないから、王や女王ではないだろう。マントの下に着ているのは、濃い紫の生地で作られた、そでふくらんだデザインのブラウスだった。手首についたフリルが、マントのスリット部分からわずかにのぞいている。
 としは二十代前半だろうか。女は長くつややかな黒い髪を一本のおさげに結っており、肌は浅黒く、勝ち気そうな顔立ちをしていた。彼女は、視線を男に向けていた。男は女よりも少しとしかさだが、よく似た顔立ちをしている。豊かな髪を後ろにでつけ、顎にうっすらとひげを生やしていた。目と口をカッと開き、拳を握り締めていて、彼女ではない誰かに向かって怒鳴っているような立ち姿だ。二人はおそらく兄妹きょうだいだと僕は思った。
 銀は彼らをしげしげと観察していた。身に付けているものがそっくりなので、一人だけ石になる呪いから解放されたみたいに見える。マントの裾をひるがえしてうろつく彼を眺めていたら、頭の中でパズルのピースがまった気がした。
「銀」
 僕はとっに腕をつかんだ。
「このあたりに立って、ちょっと止まってみてくれないか。そのまま、いいって言うまで動かないでほしい」
 銀は戸惑っていたが、指示に従ってくれた。僕は数歩下がり、距離を取って全体を見た。
「やっぱりそうだ。ここにもう一人誰かいた感じがする。めている最中に固まったみたいだ」
 顎髭の男の視線の先に立っていると、今まさに銀が怒鳴られているみたいに見えた。口論を女がぼうかんしている。そういう場面だと考えるとしっくりきた。
「銀、お前ここにいたんじゃないか。羽織っているマントも同じだし。お前が魔法使いなんじゃないか?」
 僕が言うと銀は気分を害したように眉をひそめて「でも、俺はこんなフリフリを着てない」と、男のブラウスの袖を引っ張った。もういいだろ、と言いたげに彫像の真似まねをやめてしまう。凍てついた兄妹から素早く離れ、何も付いていないのにマントの裾を両手で払った。忌々いまいましそうな溜め息をつく。
「ごめん。何か気にさわった?」
「別に。冬馬は楽しそうだな」
「自分の脳がどんな経緯でこんな話を考えたのか、気になってるだけだよ」
 僕は頬の内側をんで笑いを堪えた。
「城壁の外に出てみたいんだけど。いい?」
「ああ。俺もついていく」
 僕らは玉座の間を後にして、鏡張りのろうを過ぎ、行き止まりにぶち当たって、こっちから来たはずだ、いやあっちだと言いながら、結局行きとは違う経路で外に出た。僕の想像が作り出した城のはずなのに、迷った時は銀の選んだ道が必ず正しかった。現実での認知が夢に影響するなら、やはりファンタジーマニアの銀の方が、僕よりこの世界に詳しいのだ。自分の夢の中でさえ、かんぺきな自分になれないのは不便だった。


 最初にいた通路までようやく戻ってきた。外へと続く門には、スライド式の黒いこうが嵌まっていた。僕がどうすればいいのかわからずにいると、銀はベルトを手に入れた塔の中へ入っていき、螺旋階段を上って中にあったロープを引いた。格子は数百キロの重さがありそうだったが、滑車の力を利用して楽に動かせるようになっていた。
 僕らは跳ね橋を渡り、山道を下って、ふもとにあるはずの街を目指した。
「どうしてこんなに道が狭いんだ?」
「敵に大勢で一気に攻め込まれるのを防ぐためだよ。二人乗りの馬車一台とほとんど同じ横幅になってる」
「じゃあ、あそこに吊るしてある大岩は
「敵をはめるためのわなだ。真下にある枝は踏むなよ」
「どっちも敵関連じゃないか」
「当たり前だと思うけど」
 疑問に思ったことを口に出すと、銀が短く答えてくれる。普段のぼんやりした言動が嘘みたいな素晴らしいガイドぶりだった。質問に夢中になりすぎて、僕は地面に残った木の根に足を取られ、三回くらい転びそうになった。毎回銀が寸前で腕を引っ張って助けてくれた。現実だと僕を死にそうな目にわせるくせに、ずいぶん頼もしかった。
 山道はうんざりするほど長かった。過去に見た夢では場面が飛び飛びになっていたことを思い出して、目をつむり、早送りしろと念じてみたが無駄だった。かわぐつで足が痛くなってきたので、愛用のスニーカーを頭で思い描き、手元に再現してみようとしたのも駄目だった。いっそのこと、がけとかから飛び降りたらふわっと着地してショートカットできるんじゃないかとも考えたが、怖くて実行できなかった。いくら夢の中でも、死ぬかもしれないことは絶対にやりたくない。トラックの前に飛び出した時は、銀のためならと気づけば駆けだしていたが、本来の僕はやっぱり意気地いくじなしで、自分の命が心底大切なのだった。
「案外、ゆうずうきかないんだなあ」
 僕は石ころをばして言った。銀は聞こえたのかいなか「そろそろ山も終わりだ」と、転がってきた石ころを無視して先を示した。
「ほら、街が見えるだろ」
 その時、僕は踏み出した自分の右足に何か柔らかい抵抗を感じた。驚いてかがみ、よく見てみると、ほとんど気づかないくらいの透明な薄いまくみたいなものが地面から生えている。膜は僕の足元から視認できないほど天高くまで続いていて、まるで割れないシャボン玉のように、城とその周辺の森をおおっているのだった。
「どうかした?」
 振り返った銀に訊かれた。「これ何?」と膜を示して僕は尋ねてみたけれど、「これってなんだよ」と、今度は回答を得られなかった。銀にはこの巨大なシャボン玉は見えていない。正体はわからないが、夢の主にしか見えないのかもしれなかった。
「早く行こう」
 まだ調べたかったが、そうかされて僕は仕方なくまた足を前に踏み出した。
 膜の外へと抜け出る瞬間、耳と鼻に新しい風が吹き込んできた感触があった。
 始めに聞こえてきたのは、馬のひづめの音だった。草と動物のにおいがして、空気も少しほこりっぽいのがわかる。足を踏み出した途端、止まっていた時間が動き出したのを感じた。うねるように吹いた風が、遠くから犬と子どもの声を運んでくる。
「ここは時間が止まってないんだな」
 空には鳥が飛んでいたし、彼方かなたに見える煙突からは煙が上がっている。生きた街を見て初めて、さっきまで自分がいた場所が、いかに異様な状況だったか改めてわかる。僕は背後にある巨大なシャボン玉を振り返った。もしかしてこれが、時間停止魔法の範囲を示しているのだろうか。
腹減った」
 銀がつぶやいた。
「冬馬、何か食わないか。二つ先の通りに宿場があるはずだ」
「いいけど、金を持ってないってさっき言ってただろ。僕だって同じだよ」
 銀はしばらく顎に手を当てて考えていたが、やがて「これを売ろう」と言って己の黒い手袋を外した。
「使い込んでいるが、安価なものではない。数日分の飯と宿代にはなるはずだ」
「買い取ってくれそうなあてがあるのか?」
「あてってほどじゃないけど」銀は首をかしげて答えた。
「質屋の場所を知っている。向こうの利益になる取引をすれば客のじょうは問わないといううわさだから、買い取ってくれるはずだ」
「質屋がやってるのは買い取りじゃないぞ」
 僕はにわかに不安を覚えた。
「いいか、質入れってのは持ち物を預ける代わりに金を借りることで、当然利子がつくんだ。だからいずれは
「いずれなんてないよ」
 鋭い口調でさえぎられた。
「いずれなんてない。冬馬も本当はわかっているんじゃないのか」
 銀は腰に差した剣のつかを撫でながら言った。
 彼の言う通りだった。ここは僕の脳が作り出した夢の世界で、きっと目が覚めたら、二度と訪れることはない。質入れした持ち物にどれほど高い利子が付こうが関係ないのだ。ただ、銀にそれを指摘されるなんて予想外だった。夢の住人は夢の住人で、ここが現実であるかのように振る舞うものだと思っていたから。
 一瞬、僕はひどく気味が悪くなって、まるで現実世界にいる本物の銀が、夢を見ている僕の意識に接触してきたように感じる。そんなこと、あるわけがない。僕らは一緒にトラックにかれて、今頃きっと病院のベッドにいるはずだ。目の前にいるこいつは幻想なんだ
 イマジナリー銀は溜め息をついた。
とにかく、これは質に入れる。お前も飯が食いたいなら、俺についてくるといい」
 一瞬ためらったけれど僕はうなずいた。こいつが幻想であれなんであれ、頼りになるガイドであることに変わりはない。
 城のふもとにある街だから貴族が住んでいるのだろうと思っていたが、実際は商人のための宿場と仮住まい用の家が多いのか、建物はどれもこぢんまりとしていた。傾斜のきつい屋根には重石おもしが載せられ、簡素な片開きの門が力なくきしんでいる。干し草を手押し車で運ぶ男とすれ違った。せてあばらの浮き出た犬が後ろをついていく。老いて視覚がおぼつかないのか、犬は道端に落ちているふんに後ろ足を突っ込んだ。構わず歩き続けたから、濃い灰色のいしだたみの上に、点々と茶色い足跡が残っていた。
「街の人たちに、城の時間が止まっていることを知らせなくていいのかな」
「必要ない。俺たちが自分の素性を上手うまく説明できない以上、城内のことはべらべら話さない方がいい。それに言っただろう。三十分もすれば元に戻ると」
確かに。ここへ来るまで、もうそれくらいの時間は経ったしね」
 言い含められてしまった。現実とは立場が真逆になったみたいだ。
 銀は円形の広場を抜け、城を背に進んだ先にあるアーチ形の門をくぐった。店が立ち並ぶ通りのようだ。馬車が走れないほど幅が狭いため馬糞に気を付ける必要はなかったが、ひとはなく、廃業した店ばかりだった。薄汚れたガラスの向こうを僕は覗き込んでみる。首にメジャーがかかった裸のトルソー、くすりびんが並んだ巨大なキャビネット、埃が積もったパンのちんれつだな。何十個もの鳥かごを天井から果実みたいに吊り下げている店もあったが、かんじんの鳥は一羽もいなかった。ショーウインドーが割られているところもあって、店内は強盗にったみたいに荒れていた。
「治安が良くない」
 僕が声に出すと、銀は振り向いてなぜか薄く笑った。
「そうだな。病気が流行はやっているか、戦争の最中なのかもしれないな」
 ぼんやりした銀らしくない鋭い見解だった。僕は自分のメンタリティが心配になる。夢の中の風景は、少なからず心の状態とも関連しているに違いないからだ。どうして僕の記憶は、イマジナリー銀をこんなにしっかりした人物に仕立て上げたんだろう? 実際の銀は勉強こそできたものの、決してそれを日常生活で発揮しようとはしなかった。
 不思議に思う点はまだあった。肉屋の前を通った時、店先に出ている看板を、僕は自分がなんの苦労もなく読んだことに気づいた。それは日本語ではない、木で引っいたような見知らぬ文字で書かれていて、けれど確かに〝ジョウの肉屋〟と、僕には意味がわかるのだった。銀を呼び止め、看板を示して何が書いてあるか訊くと、彼も「ジョウの肉屋」と、なんのヒントもなしに答えた。
「この店がどうかしたのか?」
「いやなんでもない。脳ってすごいんだね。架空の言語まで作っちゃうなんて」
 僕の言葉の意味がわからなかったのか、銀は黙って再び歩き始めた。
 やがて彼は粉屋らしい建物の隣、質屋らしき看板が出ている赤茶けた屋根の店の前で足を止めた。歩いているうちに急速に日が暮れ始め、あたりは薄暗くなっていたが、その店には煌々こうこうと明かりが灯っていた。珍しく営業している店を見つけてほっとしたが、もうかっているのが質屋だと思うと、あまり明るい気分にはなれなかった。
「冬馬はここで待っていてほしい」
 銀が前髪を邪魔そうに払いながら言った。
「店内は狭いんだ。ここの店主は意地が悪くて、並べてある預かり物に客が少しでも触れたら、傷がついたとか言って金を巻き上げる。二人で入ったらぶつかって、お前は食器がぎっしり入った棚をひっくり返しちゃうかもしれないよ」
 小さい子どもに言い聞かせるみたいな口調だった。銀のくせに、と僕は今日初めて彼にイラっとして、でも、従ったほうがいいんだろうなと同時に思った。イマジナリー銀は現実の銀と違って、僕を死にそうな目にわせない。この世界についてよく知っていたし、食事もおごってくれるつもりらしい。何より僕は歩きっぱなしで疲れていた。五分でも十分でもいいから、腰を下ろして休みたかった。
「わかった。待ってるよ」
 僕が言うと銀は頷いて、マントのフードをぶかかぶり直した。整った顔に影が落ちて、日没後の街にいると本当に死神みたいだった。
 銀は質屋へ入っていった。上部に吊られた鐘が入店を知らせてやかましく鳴り、それが止んでしまうと、僕はしんとした路地に取り残された。
 店先の階段に腰を下ろした。ズボンの生地越しでも尻が冷たい。現実ではもうすぐ夏休みだったが、今は何月なんだろう。気温や植物の様子からして秋の暮れ頃なのは間違いなさそうだった。枯れ葉がいずるように風に飛ばされていく。どこからか料理のあまからいような匂いが漂ってきて、焼けつくような空腹を覚えた。
 銀は何者なのか、と考えた。僕の友達の、長屋に住んでいて高校二年生で僕に合わせてじんも興味のないサイエンス部に所属している銀ではなくて、黒いマントをっている方の銀。今、手袋を質入れしている方の銀。想像上の存在なのはわかっていた。僕の潜在意識が、この世界で彼をどういう人物として登場させているのかという話だ。剣を持っていたから戦士? それとも武器商人? 最初に話をした時、記憶を失くしたと言っていた。宿場や質屋の場所を知っていたから、少なくとも王族ではないだろう。始めは僕と同じように、本物の銀が異世界へ飛ばされてきた設定かと思ったけれど、どうやら違うようだった。色々なことに詳しすぎるからだ。イマジナリー銀と銀は明らかに別人だった。
 やめよう、と僕は首を振った。確かに面白い議題だけれど、こんぽんからずれている。夢は映画や小説とは違うのだ。銀が剣を持っていることについて、意味をいだそうとしても無駄だし、正体が判明したところで、何か壮大な物語が始まるわけでもない。脳が作り出した幻影に、整合性を求めること自体が間違っているのだ。ただ、今まで見てきた夢と違って感触や匂いがリアルすぎるから、混乱してしまっただけで。れっきとしたまぼろしなのだ。そうだよな?
 なんだか急に心細くなってきて、僕は階段に座り込んだまま、両腕で自分の膝を抱えた。現実じゃないとしても温かく、山歩きをした名残なごりつちくさかった。ここはどこなんだろう。目が覚めたらどうなっているんだろう。そもそも目が覚める瞬間が本当に来るのだろうか? わかりきっていることも予測しようがないことも、混ざり合って不安一色に染まっていく。弱気になっているのだ、と自覚した。空腹時はコルチゾールやアドレナリンのぶんぴつりょうが上がって落ち込みやすくなるし、気温の変化だってメンタルヘルスに影響を与える。複数の要因が重なった結果だった。
 やがて扉が開き、店から銀が出てきた。無事に質入れを済ませたようだ。
「お金を見せて」
 僕は階段から立ち上がった。看板の文字のこともあったし、自分の脳が作り出した架空の文化について、もっと知りたくなったのだ。銀は小さい麻袋にそれをしまおうとしていたが、見やすいように手のひらを開いてくれた。
 びんふたくらいの立派な金貨が六枚と、ひと回り小さな白っぽい銀貨が四枚。金貨には女王らしき人の横顔、銀貨にはライオンが彫られていて、裏はどちらもつたみたいな植物の模様だった。やっぱり怖いくらいにリアルだ、と僕は思う。こんな細かいデザインを、まるで絵心のない僕が空想で作れるだろうか?
仕方ないんだよ」
 銀がいじけたように言った。何のことかと思えば、僕があまりにじっとコインを見つめるから、彼は得られた額が少ないと責められていると思ったらしかった。僕はこれが日本円でどのくらいにあたるのか知らないし、あの手袋の値打ちもわからない。ただ、銀が「これでも粘ったんだ」とくやしそうにするので、しょっぱい結果なのだろうと理解した。
「金貨六枚って、ぱっと見だとすごい金額な気がするけど」
へいの価値が低くなったんだ。数日は困らないが、あまりぜいたくはできない」
「へえ
 治安が悪いのは戦時中だからかも、とさっき街を歩きながら銀は言ったが、どうやらそれは違うようだった。だったら武器の生産に使われる金属の価値も上がるはずだからだ。
「どうかしたのか」
 訊かれて僕はこの考えを銀に話した。「ふうん」と彼は頷く。
「まあ、ひとまず宿場に行こう。お前は元気がないから、食事をるべきだと思う」
「そうだね」
 来た道を戻り、広場まで引き返してから、今度は反対側の門をくぐった。さっきの道と似たふんだったが、地下に入り口を構えた店が多かった。窓がなく、明かりがれてこないので、どこが営業しているのかわからない。しかし銀は慣れた様子で、わき目もふらずに進んでいく。
「ここだ。名前は〝山羊やぎなみだ〟という」
 彼は立ち止まり、頭上を示した。山羊の横顔がデザインされた看板が下がっている。
「案内ありがとう」
 僕が言うと、銀は黒い扉を肩で押し開けた。入れ、とあごで促してくる。
 現実では一度も行ったことがないけれど、パブといえばこんな感じなんだろうと想像するそのままの雰囲気だった。薄暗くてかびくさい。黄色っぽく揺れるランプの下、チェスの駒みたいな脚付きのテーブルとが所狭しと並べられ、二人組の男と、子どもを三人連れた母親が、背中を丸めて食事をしていた。カウンターには店主と思しき四十代くらいの男がいて、僕らにじろりと目を向ける。
 銀は近くの席を軽く叩いて「座っとけ」と僕に言い、店主のもとへ歩いていった。
 黒いテーブルは汚れていないものの油っぽく、部活の帰りに二人でよく寄ったラーメン屋を思い出させた。回転率が命の狭い店にしては珍しくテレビがあって、僕は自分が食べ終わった後、画面に釘付けになってはしを止めてしまった銀の隣で居心地の悪い思いをしたことが何度もあった。銀は音楽を聴きながら勉強したり、テレビを観ながら食事をしたりといったことができない。麺が伸びてスープが冷めるのを見かねた店員に、電源を切られてしまったこともあった。真っ黒になった画面を見て、銀は瞬きを一つしてから、湯気の立たなくなったラーメンを無言ですするのだった。
 銀は普段、何を考えて生きているのだろう。パズルと、本と、青い宝石の剣のレプリカ。幻滅して離れていく周囲の人たちと、小さい頃からちっとも会いに来ない父親。それらが大部分をめているはずだった。僕は銀に相談されたり、悩みを打ち明けられたりした経験はない。それでも一度だけ、その脳内をかいたことがあった。ラーメン屋のテレビで、ニュースを観て彼は泣いたのだった。
 自宅で孤独死した老人が、アパートの管理人によって発見されたニュースだった。見つかった時、死亡から既に数か月が経過しており、遺体は白骨化していたという。
 痛ましいニュースには違いなかったが、少し調べれば似た事例が何百件も見つかりそうな出来事だった。いちいち胸が張り裂けるほどなげいていたら、とてもじゃないが現代を生きてはいけないだろう。
 僕が味玉を口に運ぼうとしていると、隣のどんぶりに透明なしずくが落下したのが見えた。びっくりして顔を上げると、銀が箸を握ったまま、静かに涙を流していた。しゃくりあげたり顔を歪めたりはしない。ただじゃぐちをひねったような泣き方だった。画面を見上げたまま、目をぬぐおうともしないので、ラーメンがどんどんしょっぱくなっていた。
大丈夫か」
 ティッシュを差し出しながら尋ねたら「花粉が」と返ってきた。雪がちらつく二月のしょじゅんだ。銀が嘘をついたのを僕は初めて見た。
 どうして急に泣いたのか、きっとその瞬間が一番訊きやすかった。けれども僕は恩をあだで返す真似まねはしたくなくて、いつも通りに振る舞うことを選んでしまった。銀の深く踏み込んでこないところに僕は助けられたから、僕だって銀に深く踏み込まない方がいいと、そう思ってしまったのだった。僕らは黙ってラーメンを食べ「寒いな」と言い合いながら家に帰った。
「肉だよ」
 ドン、という音で我に返った。イマジナリー銀が店主の元から戻ってきて、じゅうじゅう音を立てている鉄板をテーブルの上に置いたのだった。続いて、バスケットに入ったパンと、木製のジョッキに注がれた飲み物も。僕の腹が情けない鳴き声を上げた。
 焦げ目のついたソーセージは舌を火傷やけどするほど熱く、笑ったようなカーブを描いていて、むとこってりした肉汁が弾けた。刻んだハーブが混ぜ込んであり、後味がさわやかでいくらでも食べられそうだ。硬く分厚い皮付きのパンは、もちもちしていて小麦の豊かな香りがした。薄く切ったチーズが添えられていて、載せて食べてみたら目がくらむくらいしょっぱかった。銀に訊いてみると、山羊のミルクで作ったチーズだという。〝山羊の涙〟という店名の由来が僕はわかった気がした。涙のせいでチーズがしょっぱくなったか、大事なミルクでこんなしょっぱいチーズを作りやがって、と山羊が悔し涙を流したかのどちらかだ。
 最後に少しだけ残ったジョッキのベリージュースをちびちびめていると、店主が食器を片付けに来た。銀がテーブルから身を引く。食事中も、彼はずっとフードを被ったままだった。
「思い出したんだろ」
 店主がいなくなった後で僕は尋ねた。
「ここの場所も質屋の場所も知っていたし、魔法についても詳しいし。きみ、本当は自分が誰だかもうわかってるだろ」
 銀はフレーメン反応を起こした猫みたいに固まった。
違うんだ」
 小さく首を振り、ジョッキを置いて座り直す。
「確かにお前と歩き回るうちに、城内や街についての記憶はよみがえってきた。でも俺が何者なのかはわからないままだ。何かきっかけがあれば、思い出せるかもしれないが
「じゃあ、どうしてずっとフードで顔を隠してるんだよ」
「それは
 銀は口ごもる。
なんとなく、そうした方がいいと思ったからだ」
「また〝なんとなく〟ね
 どうもさんくさかった。イマジナリー銀は何度か、僕がこの世界について意見を述べるのを聞いてひどく考え込んでいたし、玉座の間で揃いのマントをまとった兄妹を見た時は、明らかに不機嫌になっていた。なのに自分のじょうは思い出せないだなんて、そんなことがあるだろうか? 何か隠していることがあるんじゃないだろうか。
「剣を見せてほしい」
 僕は彼がマントの下で腰に下げている剣を示した。どうやらこちらの世界の銀は、あちらの銀がレプリカを大事にしているのと同じく、それをとても大切に思っているようだ。調べれば手がかりを得られるかもしれなかった。
いいだろう」
 銀は頷いてベルトからさやごと剣を外し、ゴトリとテーブルの上に置いた。「何かわかっても騒がないでくれ。目立ちたくない」そう念を押してくる。
 薄暗がりの中で見ても美しい剣だった。窓から差し込んだ光のようにまっすぐで、空気さえ両断できそうなほど鋭い。つばまった宝石は目がめるようなまばゆさだったが、ツメの部分には黒ずみが目立った。
「冬馬、何か思い出したか?」
 銀に訊かれた。
「僕が? 思い出すのはきみの方だろ」
 僕はおかしくなって笑ってしまう。自分が何者なのかわからなくなって、銀も混乱しているのかもしれなかった。
みがくための道具って持ってる?」
 れいなだけに、汚れが気になったから尋ねた。
「ない。とりあえず刀身がいであれば問題ないと思って、つかには何も」
「でも、こんなにった装飾なんだからもったいないじゃないか」
 シルバーの黒ずみは、硫黄いおう成分との化合によるりゅうが原因だ。硫黄と聞くと温泉のイメージが強いが、空気中にもわずかに成分が含まれている。放っておくとひとりでに化合してしまうから、こまめな手入れが不可欠なのだ。
「もしきみが気にしないなら、塩と湯で磨いてもいいかな。あとはレモンの果汁か、お酢かじゅうそう、それから柔らかい布も。お店の人に言って、買うかもらうかできないかな。ちょっと訊いてくるよ」
「俺が行く」
 銀は僕を制すと、店主の方へ歩いていった。しばらくして、ティーカップと薄切りのレモン、塩が入ったびんとタオルを手に戻ってくる。
「これでいいか?」
 ありがとう、と僕は品物を受け取る。タオルは普段手を拭くときに使うようなものとは違い、ぺたんとして堅かった。吸水性には期待できなさそうだ。本当は湯もたらいに並々欲しかったが、さすがに無理だろう。狭い店内で大掛かりなことはするものじゃない。
 僕はレモンの断面にタオルの端を押し付け、果汁を染み込ませた。上から塩を少々振ってませる。剣を取り、ツメの部分を布で力を込めて磨いた。材料が充分じゃないので上手うまくいくかわからなかったが、徐々に黒ずみが落ち始めた。
「すごいな」
 銀がつぶやいた。
「別にすごくない。きみだってサイエンス部だから知ってるだろ。硫化してできたまくを化学反応でかんげんしただけだよ。普通のジュエリークリーナーと原理は一緒」
自分の力や知識を生活に役立てられるのは、すごいことだ」
 銀がめてくれるのを聞きながら、ずっとこうしてやりたかった、と僕は思っていた。僕はたった一人の大事な友達の、大事な宝物をピカピカにしてやりたいともう何年も思っていた。現実世界の場合、それはこの剣ではなく、似たデザインの小さなレプリカだったが。喜ぶ顔が見てみたかった。
 黒ずみが取れてすっかり綺麗になってから、湯で湿らせた布で拭き、水気を取った。銀が剣を鞘に納める。ランプの灯りに反射して、鍔の宝石が誇らしげに輝いた。
「二階に部屋を取っている。カップや小瓶を店主に返したら、今日はもう休もう」
「わかった」
 僕は席を立ち、銀の後について二階へと続く階段を上る。背中にふと視線を感じて振り返ると、母親と一緒に食事をしていた子どものうちの一人がこちらをじっと見つめていた。幼稚園児くらいの女の子だ。目が合うと、火に触ったみたいにぱっとらされた。
「どうした、冬馬」
「なんでもないよ」僕は前に向き直った。
 二階のろうは狭く、二人横並びになったら通れないほどで、両側に部屋が三つずつあった。「ここだ」銀が示した扉には、び付いたノッカーがついている。一階よりほこりっぽいな、と思った瞬間にくしゃみが出た。銀が扉を開けた。
 想像していたよりも中は広かった。とはいえそうが行き届いているわけではなく、天井には蜘蛛くもの巣が張り、石壁がところどころひび割れている。小ぶりな書き物机が一つと、細いベッドが二つ。肘置きのついた揺り椅子が一脚と、傾いたコートハンガーが一つあった。それぞれが部屋の四隅に、警戒して距離を取るように配置されていた。
「風呂に入りたい」
 夢の中でこんなに疲れたのは初めてだ。湯舟の中で脚を伸ばして、こわった筋肉をほぐしたかった。
「無理な相談だな」笑い混じりの答えが返ってきた。
「この宿場は古いから、二階まで水道を引いてない。体を拭きたかったら、下でまたもらってくるといい」
 銀はコート掛けの方へつかつかと歩いていき、音を立ててマントを脱いだ。街へ下る時に泥がねたのか、すそに点々とついてしまったシミを軽くこする。
 僕は彼に言われた通り、一階でまた湯をもらい、濡らしたタオルで体を拭いた。魔法が存在している割に、インフラはあまり発展していないらしい。この世界はひょっとしたら、魔法に頼りすぎて文明の発展が遅れ、相対的に、魔力を持った人間にものすごい負担がかかっているんじゃないだろうか。もしそうなら、城の時間を止めて逃げ出した人の気持ちも理解できる。
 体を拭き終えた後、次に使うであろう銀の方へおけを押しやった。肌寒くなって震えが止まらず、素早くまた服を身に付けてベッドに潜り込む。下着を替えられないのが嫌だった。部屋の床や家具と違って、マットレスと枕は清潔そうなのが救いだった。
 隣のベッドで横になっている銀が、寝返りを打ってこちらを向いた。
「銀のことを教えてほしい」
 彼は静かな声でそう言った。
「俺ではなく、冬馬の知り合いの銀のことを教えてほしい。今日一日、何度もお前にその名前で呼ばれたからさ。気になったんだ」
いいけど」
 銀はどんな奴なのか? ぼんやり、という言葉が真っ先に頭に浮かんだが、しょっぱなからそれは口にできなかった。もっと別の、似ていると言われてイマジナリー銀が嬉しいと思ってくれそうなことを言いたかった。
ちょっと長くなるけど、いい?」
「ああ」
「僕たちの通学路に、公園があるんだよ。ショートカットできるから、いつもそこを突っ切ってる。出入り口に、小鳥のオブジェが上に付いたポールが立っててさ」
 銀は何も言わない。僕は話を続けた。
「小学生の頃、銀はその小鳥が、魔法でオブジェにされてるって思い込んでた。カチカチにされてわいそうだって、僕に言ってきてさ。僕も馬鹿だったから、魔法じゃないのは知ってたけど、本物の鳥を金属の中に閉じ込めてると勘違いしたんだ。だから、二人で助けることにした」
 僕は家の道具箱からかなづちを持ち出した。今思うと完全なぶつそんかいだし、実行する前に大人にしかられるべきだったと思うが、当時は本気だったのだ。銀は学校の図書館から『だれでもできるくろまじゅつの本』というのを借りてきて、精霊の力で小鳥を自由にしようとしていた。
 結果として、ひょろひょろの僕が金槌を振るってもオブジェはちっとも割れなかったし、銀がぶつぶつ呪文を唱えても、精霊どころか風ひとつ力を貸してはくれなかった。僕らは小鳥を助けるのは諦め、登下校時にでて慰めてやることできょうしようと決めた。
「でもその直後に僕は学校に行かなくなって、また通うようになった時には、小鳥のことは忘れちゃってたんだ」
 加えてその頃には僕はもう、金属の中に本物の生き物が閉じ込められるはずはないと理解していた。勉強して知識をつければ色々なことがわかるようになるけれど、きっと想像力というのは、賢くなればなるほど衰えるものなのだと思う。
 高校生になったある日、いつものように公園の中をショートカットしようとすると、銀が後ろ手にさっと小鳥を撫でたのが目に入った。どうしてそんなことをしたのか訊くと、「慰めるって約束しただろ」と答えが返ってくる。それで小学生の時の出来事を思い出した。
「銀は僕が学校を休んでいる間も、僕が小鳥のことを忘れてからもずっと、一人で約束を守ってたんだ。あいつはそういう奴なんだ」
 イマジナリー銀は頭の後ろで手を組んで天井を見つめ、何か考え込んでいた。やがて「つまり」と口を開く。
「お前は、銀が魔法をかけられた鳥と石の鳥の区別もつかないようなどんな奴だって言いたいのか」
「違うよ。そりゃ、そういうぼんやりしたとこもあるけど
 僕が伝えたいのは、流れる時間をものともしない銀の丈夫さだった。何年も前にかわしたさいな約束を、僕が忘れてしまってもずっと覚えていてくれている。僕が不登校になった時だって、二人で過ごす部屋の外で何日も、何か月も時間が経って、季節が変わっても彼はまったく気にしないようだった。過ぎ行く時間に対する焦りを感じない性格らしい。銀がそういう性格だから、僕はまた学校に行こうと思えたのだ。本当に感謝していた。
銀はいい奴なんだ。ぼけっとしてるし、面白くないし、何か秘密があったとしても、きっと僕には話してくれないけど
 言いながら、なぜだか僕は泣きそうになる。僕が銀を友達だと思っているほど、銀は僕を友達だと思っていないかもしれない。そう感じて不安になってしまった。退屈な奴だなと思いながら一緒にいるせいだろうか。内心ちょっとあきれているのが、普段の会話や行動ににじみ出てしまっているのだろうか。銀のトロい部分が嫌いなわけじゃないのだ。むしろそういう性格だから僕は今日までやってこられたわけで、でも、だからこそ一緒にいるとほっとしてつい、馬鹿だなきみは、と思ってしまうのだった。
 イマジナリー銀は頭の後ろで組んでいた手を解くと、腹の上の毛布をあごまで引き上げた。「よくわかった」ささやくようにそう言う。
「お前が思っているよりずっと、銀はお前の思いを理解していると思う。それがお前に伝わってないのは、銀がそういう奴だからだ」
知ったようなことを言うね」
「信じていい。顔が似ている俺が言うんだから」
 筋は通っていなかったが、妙な説得力があった。僕は毛布の中で手足を丸める。慣れない場所で落ち着かなかったが、このまま眠れそうだった。
「なあ、銀。明日はどうしようか?」
 このまま眠って次にまぶたを開いたら、僕は夢から覚め、現実に戻っているかもしれない。銀だって自分のじょうを思い出してここから去るかもしれない。けれども訊いてみたかった。一緒に旅をしている気分に浸りたかったのだ。
「そうだなあ」
 銀は僕の質問をにしなかった。
「街の外れまで足を延ばしてみようか。朝食は、パンとまたあのしおからいチーズにしよう」
 静かな声だった。「そうだね」僕は満足して目を閉じた。


 翌朝は頭がかゆくて目が覚めて、シャンプーさせてくれ、とまず思った。熱い湯が流れ落ちる滝のようなシャワーが恋しかった。銀は既に顔を洗ってマントをっていて、僕も慌ててたくをする。二人で一階へ下りた。
「あっ、魔術師のお兄ちゃん!」
 弾むような声がして、小さな女の子が、ほとんど僕に体当たりするみたいに駆け寄ってきた。見覚えがあると思ったら、昨晩、階段を上る僕を視線で追いかけてきた子だった。
「魔術師?」
 僕がぽかんとして訊き返すと、女の子は「うん」とうなずいた。
「リサね、昨日あっちのテーブルで剣がピカピカになるの見てたの。後で真似まねして、お砂糖でやってもれいにならなかったよ。お兄ちゃんがお砂糖をみがき粉に変えたんでしょ?」
「あれは塩だよ。砂糖じゃない」
 僕はていせいしたが、リサという子は聞いていないようだった。ブリキの兵隊人形を「これ、弟の大事な人形なの」と差し出してくる。
あかさびもレモンと塩で落ちるよ」
 僕は人形の状態を確認してから言った。
「料理の後でいらなくなったレモンの皮に、塩をまぶして磨いてみるといい。クエン酸っていうすっぱい成分が、汚れを綺麗にしてくれるから」
「魔法じゃないの? リサ、魔術師に会いたいのよ」
「化学だよ。いろんな物質が始めから持ってる力を上手く組み合わせて使うから、魔法みたいに見えるだけ。どうして魔術師に会いたいの?」
「湖のこと、ありがとうって伝えてほしいのよ。魔術師なら、黒の魔術師さまのお友達かもしれないでしょ」
黒の魔術師?」
 そこへ女の子の母親がやって来て「娘がすみません」と頭を下げた。古びた花柄のスカーフを頭に巻き、短い髪を隠している。
「ママ。この人ね、黒の魔術師さまのこと知らないみたい」
 娘が腕にすがって言う。「そう」母親は小さく頷いた。
「ママ、ママ、教えてあげようよ。リサももっかいお話聞きたいもん」
 母親は気が進まない様子だった。見知らぬ人を警戒しているのだろう。「いいから」と娘の背中を押して、もう一人の子どもが待っている席へ戻ろうとする。
「でもママだって、記憶の湖に行ったじゃない。オンケーをひとめしていいの?」
 ところが娘がそう言った途端、母親はぴたりと動きを止めた。顔を上げ「黒の魔術師さまのことをご存じないなんて、よそから来た方ですか?」と尋ねてくる。
「はい」
「お話しします。こちらにいらして」
 言われた通り、僕はカウンター席で女の子の隣に腰を下ろした。母親は三歳くらいの息子を抱き上げ、膝に乗せる。僕は肩越しに後方へ目を向けた。銀は近づいてこなかったが、近くのテーブル席に陣取り、聞き耳を立てているのがわかった。今日もフードをぶかかぶっている。
「黒の魔術師さまというのは、一年ほど前に地方の村で活動を始めて、以後各地で貧しい国民の力になってくださった方のことです。この国の者は皆、生まれた時点で魔力の有無が決まっていますが、魔術師さまは十五におなり遊ばしてから、魔法が使えるようになったそうです」
「湖でおぼれて死にそうになったら、魔力が生まれたんだってー」
「静かにしてて、リサ」
 母親がたしなめた。
「近頃ようやく落ち着きましたが、女王陛下が即位されてから最近まで、この国では古代呪術で作られた熱病が流行していたのです。かかれば二人に一人は助からず、私の夫を含めて大勢が死にました。作物や家畜の世話ができなくなり、なのに取り立てられるぶんはちっとも減らなくて、えや暴動でまた大勢死にました」
 母親は唇をみ、話をじっと聞いている娘の頭を撫でた。
「国民が貧しくなっていく中、ひと月ほど前に黒の魔術師さまは革命を起こしました。あの方は、黒いマントを纏ったどうぼうを連れて城へ乗り込み、女王や女王の自由にさせていた臣下を捕らえて、新たな政治体制を打ち立てると宣言されたのです」
「ねえママ。捕まった女王さまはどうなったの?」
 女の子が無邪気な声で尋ねた。どうなったも何も、こういう時、倒された政権の人々が行く道は一つしかない。僕は小学生の時、伝記で読んだ〝断頭台の露と消えた〟という言葉の意味がわからず、インターネットで調べたことがあるのを思い出した(当時は血の遠回しな表現かと思っていたが、実際ははかない印象を与えるための言い回しらしい)。
「うーん、まだわからない」
 娘にそう答えた後で、母親は顔を上げて僕に言った。
「当初は処断されるはずでしたが、政権をゆずれば命まではと魔術師さまが温情を示されたのです。どんな処遇になるのか、詳細もじきにわかるでしょう」
 城内を探索した時、時間が止まっていたことを思い出した。あれは黒の魔術師のわざだったのか。本人らしき人の姿は見えなかったが、玉座の間にいた兄妹が同朋だろうか?
「記憶の湖っていうのは、結局なんなんですか?」
「魔術師さまが溺れて魔力を得た湖のことです。その水を飲めば大切な記憶が鮮明によみがえり、まるで昨日のことのように、永遠にいろせぬまま記憶しておけると言われています。数年の間に多くの国民が家族や友人を亡くしましたから、策を案じられたのでしょう。お優しい方なのです。湖の利用者相手に商売をするために、ここらにいた商人も大半がそちらへ移ったと思います」
 僕は心臓が一拍強く脈打って、それきり奇妙なほど静かになってしまったのを感じる。母親の膝に乗った男の子が、こちらに手を伸ばしてきた。小さな手のひらが僕の手の甲に触れる。その体温も感じられないほど、ある予感が心の中でうずいていた。
ありがとうございました。聞けて良かったです」
 僕は礼を言って立ち上がった。「なんで怒ってるのー」女の子の声が追いかけてくる。怒っているのではなかった。僕はテーブル席へ向かった。
「銀」
 黒い布のかたまりのような姿に声をかける。ほおづえをついていた彼が、ゆらりと顔を上げた。
「記憶の湖に行こう。そこの水を飲めば、僕もお前も忘れていたことを思い出すはずだ」
「わかった」
 銀は頷いた。やはり後ろで話を聞いていたらしかった。
なあ」
 僕はせきばらいをした。「もしかしたら、きみは」言葉がのどに引っかかって、上手うまく出てこなかった。
「俺がなんだ?」
 銀は被せるように尋ねてきた。何も考えていない、ぼんやりした本物の銀の声ではなく、僕が言いかけたことを理解していて、なおかつそれを止めようとしている知らない男の声だった。言えるものなら言ってみろ。そうすごまれたみたいで僕はひるんだ。お前は一体、誰なんだ? これまでとは違った意味で、同じフレーズの疑問が浮かぶ。これが現実ではないことはもはや無関係だった。ここが夢でも、夢じゃなくても、僕が出口のない空間に閉じ込められていて、記憶を通してこの男とたいしていることに変わりはなかった。
「行こうか」
 僕が黙っていると、銀はしびれを切らしたように立ち上がった。黒いマントのすそが、死神みたいにひるがえる。秘密をおおい隠す色、魔術師の臣下たちが身に付けていたのと同じ色だ。
「わかった」
 僕は従った。心臓の脈打つ感覚が、静かな緊迫感と共に体内に戻ってきていた。


 母娘に教えてもらった大まかな情報を頼りに、記憶の湖を目指した。
 一週間で少なくとも二百キロは移動しただろう。馬車を借りるお金はなかったが、時々荷馬車に乗せてもらえた。干し草や果物が積まれた荷台の後ろから景色を眺めるうち、ふと違和感を覚えた。文明が発展しているところとしていないところの差が激しいのだ。
 ある街では線路が敷かれており、荷馬車の持ち主に尋ねたら、貨物を運送するための蒸気機関車が隣町まで走っているのだと言われた。ボイラーには、黒の魔術師が灯した永遠に消えない炎が燃えているのだという。その夜泊まった宿は飲み物に氷が入っていて、喉を滑り落ちていく冷たさを久々に味わうことができた。けれども次に訪れた街では、トロッコどころか水道さえ通っていなかった。水が欲しければ井戸を探す必要があり、僕らはしばらくかわきに耐えなければならなかった。
 つまりは、魔法が絶大な権力を握っているのだった。魔術師が手をほどこした街はあっという間に栄え、そうでない街は地道に後を追うしかないようだった。
 僕らは時に荷馬車を降りて、荷運びをしたり、畑を耕したりして路銀をかせいだ。銀はいつもフードを目深に被っていた。その姿を見ると大半の人はまゆをひそめたが、腰に差している剣に目を留めると、大人から子どもまで誰もが打って変わって興味を示した。理由を訊いたら「黒の魔術師さまも剣を使うから」だと、ある家の少年が教えてくれた。威圧的に翻る黒いマントと、冷たい風が光ったように鋭い剣。片方だけではごくありふれたものだが、二つが合わさると救世主の象徴になるらしい。
 黒の魔術師は自身の魔力を込めた不思議な剣を持っていて、一振りすれば雨が降って大地が潤い、二振りすれば永遠に消えぬ火が灯り、おまけにもう一振りすれば、ひんの者の傷がえるとのことだった。多くの物語では、魔法を発生させるのはつえと相場が決まっている気がするが、この世界では違うようだ。
 子どもにせがまれた銀が剣を振っても、雨が降ったり傷が癒えたりすることはなかった。彼はいつも無口で、魔術師と呼ばれると眉をひそめたが、やめてくれとは言わなかった。間違われることを喜んでいるわけでもないのに、マントだって決して脱がなかった。
 銀の正体は黒の魔術師ではないか? 僕の疑念は日に日に強くなっていった。玉座の間であの兄妹の前に立った時、パズルのピースがまったようにしっくりきたのが忘れられなかった。銀は魔術師頼りのこの世界にうんざりして、時間を止めて同朋の元から逃げ出し、自分自身に魔法をかけて、過去や魔法のいっさいがっさいを忘れた。そうなんじゃないか?
 何日もかけて移動している間に秋は深まり、陽が沈むと城に置いてきたマントが恋しくなった。ある日の夕暮れ時、僕らはまた親切な人の荷馬車に乗せてもらってさっぷうけいな道を揺られていた。せた馬が走る速度はゆるやかで、時折埋まっている小石で尻がねる以外は快適な旅だった。それまでは土砂降りにったり、ふんを踏んだりして散々だったのだ。僕も銀もひどく疲れていて、しばらく黙ったままでいた。
 僕は投げ出した自分の足をぼんやり見ていた。地面が前へ流れていく。電車で進行方向と逆向きの席に座っている感覚を思い出した。馬車の持ち主は年老いた庭師で、荷台にはせんていした木々の枝が積まれ、植物のあおくささで満ちていた。
 頭の上に落ちてきた、自分のくつほどの大きさをした葉を僕は手に取った。軽く力を込めると、ぱりっと軽い音を立て、ようみゃくに沿って二つに破れた。僕はそれを重ね、また二つに破った。それを重ねてまた破る。単なる暇つぶしだった。
「くれ」
 ぬっと手を差し出された。銀がばらばらになった葉を見ていた。求められるまま、僕はそれを渡した。おわんみたいに丸められた手のひらに、緑色の欠片かけらが降る。
 銀は受け取った葉を膝の上に広げると、向きや裏表を変えて元の形に戻そうとし始めた。僕が自分の部屋で何度も見た光景と同じだった。「パズルをしてると、時間が過ぎるのを忘れられる」かつての言葉が耳に蘇った。
 その瞬間、僕は時間も空間も一気に飛び越えた感覚におちいって、ああ、この銀は僕のよく知る銀だったのだと、どっと安心してしまった。自分でも変だと自覚するくらい、最近の僕はおかしかった。銀に対して、お前は誰だと思ったり見知った友達だと思ったり、ちっとも落ち着かないのだった。記憶の湖に着いたら、何か思い出せるかもしれない。その可能性だけが頼りだった。
 しばらくして僕らは荷馬車を降りた。持ち主の目的地に到着したからだった。ここまで運んでくれた礼に僕らは葉を枝から外し、ようを作るための塚に運ぶのを手伝った。別れ際に庭師は「人の流れに合わせて歩きゃじきに湖だ」と教えてくれた。
 庭師の言葉通り、街道沿いに進むうち、人通りが増え始めた。僕らをらすように走っていく豪華な馬車に乗った人もいたし、ぼろきれを身に纏い、顔の周りにたかるはえを払いながら歩いている人もいた。やがて並木が林になり、林は深い森になった。道の両脇にはくいが打ち込まれ、通されたロープによって人の流れが整備されている。草が生い茂り、木々に囲まれた森の中で、そこだけ人工的な不自然さがあった。
 杭の内側に足を踏み入れた瞬間、僕は頭の芯がぼんやりして、うっとりした気分になるのを感じた。まるでサトウキビのくきを奥歯で嚙みしめて、せんから染み出た甘い汁を、脳へ直接吸い上げているようだった。銀もこうこつとした目をしていた。周りを見れば、さっきまで蠅をしきりに気にしていた人も両手をだらんと垂らし、馬車に乗っていた人も自分の足で歩き始めて、老いも若きも富める者も貧しい者も、一様に黙って湖を目指していた。きっと水をめぐった争いが起きないように、訪れる人の感情を制御しているのだ。
「これ魔法なのか」
 思わず声に出していた。銀が音を立てずに笑う。「そうだ。これが魔法だよ」ぼんやりした口調で言われた。
 くねくねした道を進んだ。汗がこめかみを滑り落ちていったが、不思議と不快ではなかった。しばらく経った頃、木立の合間にようやく湖が見えてきた。上空をさえぎっていた木々もやがてなくなり、透き通った水面が、陽の光を浴びて輝いていた。
あれが」
 僕がつぶやくと、銀はうなずいた。彼は期待のもった瞳で、腰に下げた剣に視線を落とした。
 バケツやおけを持っている人はいなかった。道中で湖水が売られているのを見かけなかったことも踏まえると、自ら手ですくって飲まなければ、効果は得られないのかもしれない。
 貧しい身なりをした女の人が、いたすきに滑り込んで水辺に膝をついた。杭で整備された道に足を踏み入れるまで、顔の周りにたかる蠅をずっと気にしていた人だった。彼女は両手をお椀のようにすると、揺らめく水面にそっと沈め、一杯の水を掬い上げた。一息にそれを飲み干し、まだ濡れている手で顔を覆って泣き出す。泣きながら、肩を震わせて笑っていた。
 似た様子の人があちこちにもいた。痛みや悲しみではなく、懐かしさや喜びの涙だと表情からわかる。スキップしそうな勢いで、ようようと来た道を引き返していく人もいた。
 僕は横目で銀を見た。彼がこれから思い出すであろう己の正体を、それを創り出した僕自身の脳の不思議を思った。自分がどんな記憶を取り戻すかにも興味があった。夢とは、記憶を整理する際の副産物である。そのメカニズムと今の状況がみ合っていることに感動してもいた。
「行こう」
 銀が耳元でささやいた。僕は落ち着くために喉の奥で咳払いをし、岸辺へ歩み寄った。ひざまずき、指先から触れる。これまでの人生で数えきれないほど顔を洗ったし、風呂にだって入ってきたはずなのに、初めて水を柔らかいと感じた。程よく冷たく、顔が映り込むほどれいで、何よりとても美味うまそうだった。
「飲まないのか」
 銀にかされた。「きみこそ」僕はまだ水を掬ってもいない銀に言った。
「銀こそ、早く飲みなよ。きみのためにここまで来たんだから」
ああ」
 銀は短く笑い、それからなぜか一瞬、この世の何より憎いものを見るような目で僕を見た。気のせいのはずなのに、反射的にびくりとしてしまう。彼を待っていては自分の手の中のぶんをこぼしてしまいそうだったので、先に試してみることにした。
 冷たい水を一口飲んだ。
 液体が喉を滑り落ちていく時、目の奥で小さな火花が弾けた。まぶたの裏でそれはみるみる大きくなり、打ち上げ花火がどーんどーんとこちらに向かって歩いてくるようだった。うるさい、と僕は耳をふさごうとしたが、どーんどーんと音はようしゃなく脳内で響いていた。振動が伝わり、内臓までもが共鳴し始め、もだえるほど体中がうるさかった。
「ああ」
 僕は頭を抱え、を破って己の中から花火を取り出そうと試みた。「ああ、ああ」ああ、ああ、ああ! このままでは爆発してしまう。打ち上げ花火がいや、何が? 僕が僕ではない昔、この湖でおぼれて死にそうになった時、目の奥で火花が弾けたことを覚えている。
 溺れて死にそうになったことを覚えている?
 はっと瞼を開いた時、目の前にはぎらついた表情を浮かべた銀がいた。
「思い出したか」
「僕僕は」
「そう。お前が黒の魔術師なんだよ」
 彼はひとっとびで僕に迫り、剣を振り被ってきた。
「光よ!」
 僕は叫んだ。次の瞬間、あたり一帯にせんこうが走り、人々が動きを止めたのが見えた。
 この野郎、と叫びながら銀が目を見開く。僕の剣が、彼方の城から空を切ってやってくる気配がした。

【つづく】