吸血鬼と海辺の秘密 第三回

砂浜
海風は少し冷たかったが、立っていて辛いほどではなかった。
波が、ほとんど足先までやってくる。靴に水が入りそうになったが、構わなかった。
「――散歩ですか」
声をかけられて、工藤祐子は振り返った。
「ああ、朝食の席で……」
「私、神代エリカです。工藤さんでしたか」
「工藤祐子です。――ご存じですね、今朝のことは」
エリカが自己紹介すると、
「じゃ、あの吸血鬼のようなスタイルの……。すみません、失礼なことを」
「いえ、誰でもそう思いますよ」
何しろ本物の吸血鬼なのだから。
「父はトランシルヴァニアの出身なので」
「まあ! それじゃ本場ですね」
と言って、工藤祐子はまた、
「変な言い方をしてごめんなさい!」
と謝ってから、二人は一緒に笑い出してしまった。
「――私ったら、笑うような気分じゃなかったのに」
と、祐子は言って、水平線へ目をやると、
「どなたもお分かりでしたよね。私と泉先生のこと……」
「個人的なことはあまり気にしません」
「でも、もし私が反対に、不倫らしいカップルを見かけて、その一方がTVでよく顔を見てる人だったら……。きっとスマホで友人たちに速報を流しますわ」
祐子は皮肉っぽく、
「もちろん、奥様は以前から私と先生のことをご存じでした。いつかこうなると覚悟はしていましたけど……。でも、先生が叙勲される、せっかくのおめでたいときに……」
「ホテルを出るんですか?」
「いえ……。私も泊まっていないと、TV局や記者が押しかけて来たときに、先生一人では対応できないと思います」
「でも――」
「奥様も、そんなこと、面倒で、やられませんから。食事の席で一緒にならなければ大丈夫です」
エリカは祐子が自分の立場をよく分かっていると思った。
「そろそろ部屋に――」
と言いかけて、祐子は、
「あら。あれ、何かしら?」
エリカも気付いていた。――波の向こうに、浮かんでいるものがある。
「人が浮かんでる!」
と、エリカは言った。
「そのようですね。誰か呼んで来ましょうか」
だが、エリカは素早く靴を脱ぎ捨てると、真っ直ぐに波に向かって飛び込んで行った。
「まあ……」
祐子は抜き手を切って泳いで行くエリカを啞然として眺めていた……。
「水は吐かせたわ」
エリカはホテルのロビーで、カーペットの上にその女性を寝かせた。
「よくやった」
と、クロロックは言って、その女性の首筋に指を当てた。
「うむ。大丈夫だ。脈を打っておる」
「救急車を呼んでもらおうと思ったんですけど」
と、工藤祐子がやって来て、
「救急車がここへ来るまで時間がかかるそうです。ホテルの車で、一番近い総合病院へ送ってくれると」
「それがいい」
と、クロロックは肯いた。
「私が付き添って行きますわ」
と、祐子は言った。
「エリカさんが助けに行ったのに、私、ただぼんやり見ていただけで」
「気にすることはない」
と、クロロックは首を振って、
「しかし、エリカはずぶ濡れで、着替えねばならん。あんたに任せていいかね」
「はい! この人はこのホテルの泊まり客でしょうか」
「私、知ってます。〈504〉のお客です。確か中林さんといった」
「分かりました」
祐子は、自分が役に立ちたいらしく、ホテルの人に車を回してもらって、中林美佐子を乗せて行った。
「あの分なら、じき意識が戻るだろう」
と、クロロックは言った。
「私、部屋でシャワーを浴びて着替えるわ」
「それがいい。――あの女は自殺しようとしたのか?」
「分からないけど……。でも、私に妙なこと言ってたよ」
「あのボールペンのこともあるしな。後で話を聞こう」
エリカは、さすがに寒くなって、
「ハクション!」
と、派手にクシャミをした。
「あら、エリカさん、風邪ひいたの?」
と、ロビーにやって来たのは涼子。
「ちょっと海で泳いだだけ」
「そう。虎ちゃんに風邪うつさないでね。できるだけ離れてて」
涼子としては、エリカに邪魔されないので都合がいいのかもしれない。
ともかく――エリカは部屋へ戻った。
エリカは、みどり、千代子と泊まっている〈305〉へ戻った。
エキストラベッドを入れてもらって、三人で泊まっているのである。
みどりがベッドで大の字になって眠っていた。起こしても可哀そうなので、エリカはバスルームに入ってから濡れた服を脱いだ。
さすがに体が冷えて来ている。
バスタブの中で、熱いシャワーを浴びることにした。冷えた体に、シャワーがチクチクと突き刺さるようだ。
それでも、少しすると体が暖まって来て、ホッと息をつく。そして――シャワーの音で、エリカは部屋のドアが開いたのに気付かなかった……。
その人物は、そっと入って来ると、バスルームでシャワーの音がしているのを耳にして、足を止めた。
すると、みどりが深々と息をついて、
「あーあ」
と、声を上げた。
しかし、目は覚ましていない。
その人物はナイフを取り出すと、ベッドへと近付いた。――ぐっすり眠り込んでいるみどりを、少しの間見下ろしていたが、シャワーの音が上がると、ナイフを振り上げ、みどりの心臓めがけて――。
が、みどりはタイミングよく、ヒョイと横向きになった。ナイフは、たった今みどりが眠っていたあたりへ深々と突き刺さった。
あわてたように、その人物は急いで部屋を出て行った。
――エリカはドアの閉まる音を聞いた。
千代子が入って来たのか? ――エリカはバスローブをはおってドアを開けた。
「――みどり」
と、エリカはベッドへ近付いて、シーツに傷がついているのを見た。
これって……。
「みどり!」
と、揺さぶって起こすと、
「うん……。まだ食べてないよ……」
と、みどりは夢うつつの様子。
「呑気なこと言って! この傷、分かる?」
と、エリカがシーツの傷を見せると、
「どうなってんの? 私、シーツにかみついたのかな」
「下のマットレスまで達してる。これって、刃物で刺したあとよ」
「へえ……」
みどりは一向に分かっていないのだった……。
やれやれ、やっと着いた。
――小型の中古車は、ホテルの前に停めるには少々みすぼらしいが、ともかく夜中まで走って来て、やっと着いたのだ。
しかし、もう夜中の三時。ホテルの玄関に案内してくれるような人間はいない。
適当に駐車して、貫井は車を降りて、重いバッグを肩に、ホテルへ入って行った。
ロビーは照明もほとんど消えている。
都心のホテルなら、24時間、人がいなくなることはないだろうが、リゾートホテルはそういうわけにはいかない。
フロントにも人の姿はない。――呼び鈴が置いてあるので、それを鳴らせば誰か出て来るのだろうが……。
貫井はためらった。
実のところ、貫井が勤める〈M新聞〉は経営が苦しく、「余計な金は一円も使うな!」と言い渡されていた。
ここで人を呼べば、部屋を頼まねばならなくなる。一泊いくらか知らないが、ビジネスホテルではないのだから、そう安くはあるまい。
午前三時ってことは、どこかで時間を潰せば、部屋を借りずに、朝起きて来た泉公彦を取材できるだろう。
「よし、その辺でちょっと一眠り……」
と思ったが、その辺にベッドがあるわけもなく、ウロウロしていると、地下へ下りる階段があった。
下りたら何か……。貫井はためしに下りてみることにした。
すると、一画がポッと明るくなっていて、飲み物の自販機がある。そして、その向こうにベンチが……。
え? ――まさか。
そのベンチに、女性が一人、腰かけていた。そしてウトウトしているようで、体がグラッと揺れて目を覚ました。
「ああ……。眠っちゃったんだわ」
と、ひとり言を言ってから、立っている貫井に気付いて、
「キャッ!」
と、飛び上がりそうになった。
「――誰? 泥棒?」
と、声を震わせる。
「違いますよ! あなたの方こそ、何してるんです、こんな所で?」
貫井はムッとして言った。
「私は……泊まり客です」
「客? じゃ、どうしてここにいるんです? こんな時間に」
「こんな時間って……。まあ、もう三時過ぎなのね」
と、女性は息をついて、
「ここで考えごとしてたら、眠ってしまったようですわ。――あなたは?」
「僕は……記者です。〈M新聞〉の。取材に来たんですよ」
すると、女性はまじまじと貫井の顔を眺めて、
「もしかして……貫井君?」
「え?」
「貫井正士君でしょ。私、高校で一緒だった、工藤祐子よ」
――ああ、と思い出して貫井が肯くまで、しばらくかかったのは仕方ないことだったろう。何しろ二人とも二十八才。高校を出て十年もたっているのだ。
「――じゃ、泉先生の取材に?」
と、話を聞いて、祐子は言った。
「君が泉さんの秘書だったとはね! 朝食に来るところを捕まえて、写真、撮らせてくれよ。いいだろ?」
「TV局も来るのよ。取材はたぶんまとめてすると思うわ」
「それじゃ面白くない。何かこう――よそが知らないネタ、ないかな?」
「ネタ? そうね……」
と、祐子は微笑んで、
「泉先生が愛人を連れて来たところへ、奥さんが乗り込んで来た、って話はどう?」
それを聞いて、貫井は少し考えていたが、
「それって……君のことか」
と言った。
「ええ、そうよ」
と、祐子は肯いて、
「でも、できれば記事にしてほしくないわ」
「そうだよな」
貫井は少しためらってから、
「うちは芸能週刊誌じゃないんだ。そんな話、書けないよ」
「ありがとう。――一応勲章をもらって、そのお祝いの会をするまでは黙ってて。私、そこでクビになるから、そしたら書いてもいいわ」
「よせよ、そんなこと言うの」
と、貫井は打ち消すように言った。
「そんな女性のことを載せたら、あちこちからクレームが来るよ」
「どうかしら。今は当事者が傷つくことなんか何とも思ってない人が多いから、私のことを叩く人もいると思うわ」
「でも、泉さんのことは責めない? おかしいよな」
「SNSは攻撃しやすい人がやられるわ。泉先生も実は色々書き込んでるんだけど」
「僕はAIとか、さっぱり分からないんだ。記者失格とか言われてるよ」
「いいじゃないの。人の気持ちを無視するのが現代的って思われてそうだけど、私はいやだわ」
「で――君はこれから寝るの?」
「ええ。大丈夫。いつもこうだから」
と、階段を上りながら、
「貫井君はどこか部屋取ったの?」
「いや、そんなむだ使いはできないんだ。あのベンチで寝るよ」
「でも――起きられなくても知らないよ」
貫井はちょっと笑って、
「そのときはけとばしてくれ」
と言った……。
【つづく】