吸血鬼と炎の雨 第一回

予言
昼下がりの公園は、日射しに溢れて暖かかった。
「十二月とは思えないね」
と言ったのは、大月千代子。
「毎日寒いんだもの。たまにはこんな日もないと」
神代エリカは力一杯伸びをした。
「空気が乾いておるな」
と、フォン・クロロックが言った。
エリカの父、トランシルヴァニア出身の正真正銘「吸血鬼」である。「鬼」とつけるのは本人が不本意かもしれない。
心やさしい吸血鬼と言うべきか。
こうして公園を散歩する姿は――映画の〈ドラキュラ〉みたいな長いマントをまとってはいるが――あまり吸血族の祖先には見せたくない様子だ。
可愛い赤ん坊の〈虎ちゃん〉こと〈虎ノ介〉をベビーカーに乗せて押していたからである。母親で、かつクロロックの妻の涼子は大学生のエリカより一つ年下で、この公園へやって来るなり、
「じゃ、虎ちゃんのことはお願いね」
と、エリカに任せてしまった。
「お母さん、どこ行くの?」
と、エリカが訊くと、
「Kデパートで、ブランド品の大放出があるの! これは見逃せないわ」
「でも――」
「買い物がすんだらスマホへかけるわ」
と、涼子は遮って、
「じゃ、よろしくね!」
と、小走りに行ってしまった。
涼子には勝てないクロロックは、ベビーカーを引き受けたのだった。
「――お待たせ!」
と駆けて来たのは、エリカたちと同じ大学の橋口みどり。
みどりも千代子も、高校時代からの「仲間」である。
「ワアワア」
と、虎ちゃんもご機嫌がいい。
「あれ? 涼子さんは?」
と、みどりが言った。
「あ、特売に行っちゃったの。しばらく帰って来ないと思うわ」
「何だ」
みどりは紙袋を手にしている。
クレープを、人数分買って来たのである。
「涼子さんの分が余るのね」
と、みどりはためらわなかった!
みどりがクレープを二つ食べても、誰も文句は言わなかった。
クロロックの「人間離れ」した血をひいているのか、虎ちゃんもクレープ一つ、ペロリと平らげて、クロロックは、
「涼子が見たら、『太っちゃうわよ!』と怒りそうだな」
と、エリカの方へ、
「内緒だぞ」
「うん、了解」
クロロックを「恐妻家」と言う人もいるが、夫婦とは、それぐらいがちょうどいいのである(作者の家も……かな?)。
広い芝生の広がる公園の中を歩いて行くと、
「やめてよ! 変なこと言わないで!」
という甲高い女性の声がした。
振り向くと、子供の手を引いた母親が、くたびれたコートをはおった男に文句をつけていた。
「子供をおどかすようなこと言って、どういうつもり?」
「いや、決して悪気があって言うのではなく――」
「向こうへ行って! つきまとわないでちょうだい! この世が危ないのなら、あなたが勝手に隠れればいいでしょ」
「今の大人は仕方がない。でも、この子のような、未来のある子たちは何とか救わなければ」
「言いたいようにわめいてなさい! ついて来ないでね!」
と言い捨てて、母親は七、八才かと見える男の子の手を引いて、ほとんど走るような勢いで行ってしまった。
コートの男は、深くため息をついて、
「危険が……危険が迫っているのだ」
と、呟くように言った。
エリカは、そのまま行ってしまおうとしたが――。
「お父さん?」
クロロックが、そのコートの男の方へ近寄って、
「どうかされたのかな?」
と訊いたのである。
お父さん、放っとけばいいのに、とエリカは思った。
しかし、訊かれた男はハッと我に返ったように、
「聞いてくれるか!」
と、クロロックの腕をつかんだ。
「危険が迫っている、とおっしゃったな」
「ええ。――私には分かる。危険が迫ると、心臓が苦しくなるのです。今は正に……」
「どういう危険が、いつ訪れると?」
「いつかははっきりしない。しかし、もうじきだということは分かる。一か月は先でないでしょう」
「で、どんな危険が?」
クロロックは真剣に訊いている。エリカは、どうやらただごとではなさそうだと感じた。
男は空を見上げて、
「降って来るのだ」
と言った。
「空から降って来る。恐ろしい地獄の日がやって来る。天からは〈炎〉が降って来るのだ」
「炎だと? それは具体的にはどういうことかね?」
「いや、それは分からないんです。ただ私の心の中では炎が雨のように降って来る光景が、はっきり浮かんでいます」
「炎の雨か……」
クロロックは考え込みながら、
「火山の噴火でしょうかな」
「分かりません」
古ぼけたコートをまとっているので、中年男かと見れば、意外に若いようだ。
しかし、「炎が降って来る」なんてこと、あるだろうか?
エリカは首をかしげた。
「その〈炎の雨〉は、避けることができるのかな?」
と、クロロックが訊いた。
「分かりません」
と、男は首を振って、
「私は無力です。雨は止めることができない」
「あなたの気持ちは分かる。何かもう少し詳しいことが分かったら、連絡してくれないか」
クロロックは内ポケットの札入れを取り出し、名刺を一枚抜き出すと男に渡した。
「フォン・クロロック……。あなたはどこの方ですか?」
「それはどうでもいい。ともかく、もっと具体的なことが分かれば、何か私にもできることがあるかもしれんのでな」
「――分かりました。僕は菊池といいます。M大学の研究所にいます」
「すると、大学の先生かな?」
「そうじゃありません」
菊池という男は、弱々しく微笑して、
「研究するのでなく、される方です。研究対象の――モルモットみたいなものですよ」
と言った。
「聞いていただいて、ありがとうございました……」
と、クロロックにていねいに礼を言って、立ち去った。
「お父さん、今の人……」
「うむ。声に、どこかふしぎな響きがあったのでな」
「響き?」
「遠い昔に、トランシルヴァニアで聞いた予言者の声を思い出したのだ」
「じゃ、あの人の言ってるのは本当のこと?」
「分からんが……。少なくとも当人はそう信じている」
「〈炎の雨〉か……」
エリカは空を見上げて、
「降って来たら、傘さしてもむだだね」
「今は大丈夫だろうがな」
と、クロロックは言って、再びベビーカーを押し始めた。
エリカのスマホに着信があった。
「――もしもし」
「あ、神代さん? 木村妙子よ」
「ああ、先生。何か?」
「これから成田に行くの」
エリカの通っている大学の准教授である。
「あ、そうか。フランクフルトでシンポジウムでしたね」
「そう。それでね、娘に本を一冊持って行ってやると約束したけど、忘れちゃったの」
「娘さん、アリスちゃんでしたっけ」
「そう。私の自宅、知ってるわよね」
「一度伺ったことがあります」
「悪いけど、その本を娘に届けてやってくれない?」
「いいですよ。じゃ、研究室の中に?」
「ええ。机の上に、分かるようにして置いておくわ」
「了解です。明日にでも」
「お願いね。急がないから、手の空いたときに」
「分かりました。お気を付けて」
エリカはそう言って、通話を切った。
「――ドイツ語の先生なの。とってもすてきな、いい人なのよ」
と、エリカは言った。
「娘はアリスというのか」
「父親はドイツ人らしいけど、シングルマザーなの。今、中学生かな。とっても可愛い子よ」
のんびりした散歩は、〈炎の雨〉とは無縁のようで、みどりが早くも、
「ねえ、お昼はどこで食べるの?」
と言い出したのだった……。
【つづく】