【特別試し読み】荒野は群青に染まりて ―暁闇編―
序章
この景色を目に焼き付けておくのよ、群青。
この世界に確かなものなど何もない。信じていいものとそうではないものを見分けることは、どんなに生きても、難しい。
私たちは、根無し草。
たやすく引き抜かれて、投げ捨てられる。そんな私たちが持てる財産というものは、お金や土地ですらない。
国は、守ってくれない。守るどころか、私たちから何もかもを奪っていった。
疑うのよ。群青。そして考えるの。
大地に根づかない雑草が本当に手に入れなければならないものとは何なのか。
私のようになってはいけない。
あなたは手に入れるの。
あなただけの、大地を。
引揚船の中はやけに静まりかえっていた。
釜山を出港して、二日が過ぎた。
船は遅々として進まない。一日もあれば日本の港に着く距離だと聞いていたが、海にはまだ機雷があるため、速力をあげられないのだという。
船室に入りきらない民間人が、通路や階段にまで溢れている。
昔は貨客船として就航していただろうその船は、軍事徴用で内装も簡素にされていたが、アールデコ調の階段装飾には、かつて日本の船が世界の海で活躍していた華やかな時代の名残が見いだせる。
人々はその下で疲労を濃く滲ませてうずくまっている。荷物にもたれて眠る者、腕を組んで横になる者、先ほどまでひっきりなしに泣いていた赤ん坊も泣き疲れたのか、いつしか沈黙した。今はただ、床越しに伝わってくるディーゼル機関の重低音がゴオンゴオンと唸り続けるのみだ。
阪上群青は深夜になっても、まんじりともせずにいた。
船は揺れ続ける。右舷へと深く沈み込んでは、ふわりと持ち上がる。また右に重く引きずり込まれては、押し上げられる。延々と繰り返す規則正しい船体運動を数え、気の遠くなる果てしなさに、ただ膝を抱えて耐えている他なかった。
群青がいる通路から海は見えない。
わかるのは、この不快な永久運動が終わる時、見知らぬ「祖国」での暮らしが始まるということだ。
そこに知っている人間はひとりもいない。
不安しかない。
阪上群青は十四年前、朝鮮半島で生まれた。外地で生まれた居留日本人二世だ。
母子ふたりで、京城(現在のソウルのあたり)に暮らしていた。
三ヶ月前──。ラジオから流れる玉音放送を聞いて日本が戦争に負けたと知った。
生まれた時には戦争が始まっていて、戦争をしているのが当たり前だったから、それが終わるとはどういうことなのか。それによって自分たちの身に何が起こるのか。全く見当もつかなかった。
周りの大人たちは騒ぎ始めた。
帰国するか、留まるか。
ふたつに分かれて紛糾していた。このまま大陸に残って今の暮らしを続けるか、内地(日本の本土)に戻るか。
群青は京城を離れたくなかった。生まれ育った街だ。母にもそう訴えた。内地なんて行きたくないよ。ここに残ろう。これからもこの家で暮らそう。
母は、だが曖昧な表情で「そうね。それができればね」と答えるだけだった。
母の言葉通りだった。敗戦のあとに「今まで通り」などありえなかった。日本人と朝鮮人が住み、日本語の看板が立ち並ぶ「日本の一地方都市」だった京城に溢れたのは、「独立万歳」を叫ぶ朝鮮の人々の声だった。太極旗が街のそこここに翻り、進駐してきた米兵がパレードを始める頃、日本人は銀行に殺到し、闇市には日本人が売り払った家財道具が溢れた。ラジオをつければ当たり前に聞こえていた日本語は日に日に減っていき、ついにはほとんど朝鮮語になって、そこから流れてくる言葉は全く意味がわからなくなっていた。
当たり前のように同じ街で暮らしていた、なじみの店のおじさんやおばさん。昨日まで「グンちゃん」と自分を呼んで可愛がってくれた人々が、日本人がいなくなることを喜んでいる。そうなるまで気づかなかった。自分が当たり前のように「日本」だと思って過ごしていた場所は、元はといえば「彼らの街」であり、自分たちこそが「異国人」だったことを。
頭では知っていても、思い知るまで、わからなかった。
ここは大地の上ではなく、浮島だったのか。
日本人は早く去れ、という有言無言の圧力に囲まれ、それまで大手を振って歩いていた日本人は肩身狭く息をひそめ、街を彩る日本語看板が虚しくなる頃、米国の軍政庁から下された一斉送還の指示を聞かずとも、群青は理解したのだ。
ここにはもういられないのだと。
戦争に負けるとは、この地においては、何もかもがひっくり返ることだった。所有する土地も、築き上げた財産も、全ては幻となって消えることだった。
京城の街から真っ先に消えたのは、総督府の高級官僚や警察官、大企業幹部の家族だったと聞く。
群青たちに帰国の順番が回ってきたのは、冬が訪れる頃だった。リュックと両手に持てるだけの身の回り品と少しの食料、それ以外は皆、家に置いてきた。教科書も本も毎日使っていた茶碗や箸、使い慣れた日用品、大切にしていた野球のグローブだけはなんとか持っていきたかったが、母に咎められた。
一般市民が持っていける金額は、たった千円。少しでも多く現金を持ち出そうと必死だった人々は、服に縫い込んだり、ステッキの持ち手に隠したりした。
貨車に乗せられて釜山に移動し、上船の順番を待つため収容所に数日入れられた。ようやく乗りこめたのは、おんぼろの貨客船だった。
出港してから、二日目の夜。
船内は寝静まっていた。母親のスイは群青の顔色が悪いことに気づいたようだ。船酔いのせいだろう。体調を気遣って「水筒に湯をもらってくる」と言い、階下へと下りていった。
群青は、褪せた国防色の中学制服の中に、下着やシャツを何枚も重ね着している。衣類を一枚でも多く持ち出すためだが、夏でなくてよかった。それでも船内は大勢の人いきれで蒸し暑く、群青は船酔いを和らげるため、窮屈な重ね着を脱ごうと思いたち、ボタンに手をかけようとした時だった。
どぼん。
何かが海に落ちる音がした。
不吉な響きだった。
「……ああ。誰か、やっちまったな……」
呟いたのは、隣に座り込んでいた山高帽の老人だった。
「やっちまったって、なにを」
群青が問うと、灰色の外套にくるまった老人は口周りに蓄えた白ひげの下から短く告げた。
「身投げだよ」
群青はぞっとした。
「なんで。やっと船に乗れたっていうのに」
「内地が近づくほど、お先真っ暗だと気づいたんだろうさ」
老人は山高帽のつば越しに、白く濁った目を上げて言った。
「そうでなくたって向こうはどこも焼け野原で、食うに食われんそうじゃないか。そんなところに身ひとつで帰っていったところで、どうやって生きてく。ここで死んじまったほうが楽だと思ったんだろうさ」
「……気持ちはわかるよ」
右隣でうずくまっていた中年の女が、ぽつりと呟いた。
「あたしみたいに内地と縁を切ってた女は、どうにもお先真っ暗だからね」
埃だらけの外套を羽織った女は、少年のように髪を短くしている。北から逃げてきた者たちの中には、野卑なソ連の兵隊から身を守るために男装する女も多かった。
「それでも、あたしみたいな独り身はまだマシさ。内地にろくな身寄りもなく、若い身空で父なし子のいるような境遇だったら、心中のひとつもしたくなるだろうね」
群青は内心、どきり、とした。
他人事ではなかったからだ。
「身ぐるみ剝がされて文無しで、住処もなくて身寄りもなくて。ないないづくしで、どうやって生きてくっていうんだい」
「でも内地につけば、とりあえずは安心だって……」
「安心? ばか言っちゃいけないよ。大日本帝国があたしらになにをしてくれたっていうんだい。正直者が馬鹿をみるってことは、ここまでの道のりでよーくわかっただろうさ。身寄りがなくたってそこそこやってけるような連中は、そもそもこんな船に乗っちゃいない。闇船に財産一式載っけて、とっくにオサラバしてる」
引揚者の中には、内地への帰還に私船を用いる者もいた。それらは「闇船」とか「密航船」とか呼ばれている。
群青たちが乗っているのは、占領軍が指定した「公式送還船」だ。持ち込む荷物も財産も限られていて、必ず厳しい検査を受ける。
だが闇船を用いる者は、当然のことながら、検査を避けられる。荷物も載せ放題だ。むろん船賃はべらぼうに高いが、裕福で目端の利く者の中には、早々に不動産を売却した金で貴金属や美術品を買いまくり、闇船に載せて日本に帰る者もいた。やむにやまれぬ事情で闇船を頼る者も多かったが、財産を少しでも持ち出そうとするがめつい日本人の足元を見た闇船業者が、日本と朝鮮半島の間で荒稼ぎしているという。
「坊主、おまえさんも京城生まれかい?」
と老人が訊ねてきた。うなずくと、
「そうかい。わしはこっちに来て三十年になる。内地には親戚もいるが、とうに疎遠になってしまった」
復員兵は内地に帰る場所もあるし、外地に来てほんの数年の居留者なら、まだ生活再建の足がかりも残っているだろう。だが根を下ろして長い者は、内地の社会との繫がりも断たれていて、向こうでの暮らしは先が見えない。
「親類縁者を頼ったところで、厄介者扱いされるのが関の山だ」
「いいえ。お互い様という言葉もあります。こんな時だからこそ助け合うのよ」
今度は、斜向かいにいた老婦人が声をかけてきた。白髪を毛糸帽子で包み、外套を毛布代わりにしている。
「暗闇ばかり見ていたら、暗闇に吞まれてしまいます。……坊ちゃん、あれは身投げなんかじゃありませんよ。きっと内地までもたなかった重病人がいたんですよ」
そういえば、担架で乗船した者も見かけた。心労で衰弱した高齢者かもしれない。
「水葬……」
「……ふん。そんならそれで幸せだ。この先の地獄も味わわずに済んだわけだからね」
群青が抱える不安は、女の言葉でますます膨らんだ。
「母さん、遅いな……」
給湯所に行ってからもう三十分は経つ。船の厨房には機関室ボイラーのスチームで沸かされた湯がいつでも用意されていると聞いて、もらいに行ったのだ。
──身投げだよ。
胸騒ぎがした。
群青はいてもたってもいられなくなり、
「すみません。母を捜してきますので、荷物を見ていてもらえますか」
と老婦人に声をかけた。見ず知らずの他人に頼むのは気が引けたが、今は母のことが心配だ。代わりに答えたのは男装の女のほうだった。
「安心しな。あたしがそのじーさんら見張っといてやるから」
「ふん。こんなところで人のもんに手を出すほど、落ちぶれちゃおらんわい」
群青は立ち上がった。
母親を捜して階段を下りたが、給湯所がどこかわからない。大きな船はどのデッキも作りが似ていて、自分がいたフロアがどこだったかも見失いかける。個々の船室だけでなく、通路や階段も人で溢れ、船が左右に揺れるたび、座り込む者の投げ出した足に引っかかって転びそうになる。
見れば、屋外デッキにまで人が座り込んでいるではないか。かろうじて風防と屋根で覆われてはいるが、外気に晒されているため、ずっといられるような気温ではないはずだ。
船員から「給湯所はセカンドデッキにある」と言われ、階段をあがってみたが、見つからない。船の構造に疎い群青は、セカンドデッキが上甲板(アッパーデッキ)の下の階を指すことも知らなかった。
寝静まった船内をうろうろしているうちに、胸騒ぎはひどくなるばかりだ。
群青の母親──阪上スイは、京城にある軍の慰安施設で働いていた。
父親は、いない。父親は死んだと聞かされているが、養育費が毎月払い込まれているところを見ると、名乗り出られない事情があるのだろう。ずっと母ひとり子ひとりだった。
母の故郷は、和歌山県にあるという。
だが、家族や親戚とやりとりしている様子を見たことはない。祖父母が生きているのか、兄弟はいるのか。それすらも不明だ。
一度だけ、故郷の神社の話をしてくれたことがあった。学校帰りに友達と境内で木登りをしてとった柿が渋柿だったという、他愛のない話だ。向かいの家のいとこが同級生で、ずっと仲良しだった、と。
──内地に行った後、どうするの?
と群青が訊ねても、母は言葉を濁すだけだった。故郷や実家に帰る、という一言は出ず、知人や友人の話も出てこない。
群青がずっと不安でいるのは、帰国後のあてが、母の口からいっこうに出てこないためだった。
だから胸騒ぎがした。
まさか母に限って……。
「子供連れだったそうじゃないか……」
ちょうどそこへ機関室の水密隔壁の向こうから船員が連れ立って出てきた。
「ああ。子供を紐で自分の体に縛りつけて、海に飛び込んだんだ……。誰も止められなかった。子供は泣き叫んでいて……」
聞くともなしに会話が耳に入ってきた。群青は思わず振り返った。
「子供と一緒に心中か……。やりきれんな」
暗い面持ちの船員たちを、群青はたまらず呼び止めていた。
「あの……、女のひとだったんですか。いくつくらいの」
「若かったねえ。まだ二十歳をいくつか越えたくらいかね……」
群青の母親はもう四十近いし、赤ん坊連れということもない。思い過ごしだったらしい。
安堵して頭を下げた。母でなかったことは幸いだったが、あの「どぼん」という音はやはり身投げだったと知り、少なからずショックを受けた。
身投げした母親も痛ましいが、泣き叫んでいた子供こそ憐れだ。
気が塞ぐとまた船酔いがぶり返してきた。群青は風に当たろうと思い、屋外デッキの扉を開けた。
強い風が吹き込んできた。
冷湿な海風に首筋がわななき、襟元を思わず引き寄せた。
ざざああん、ざざああん、という波音が闇の中に轟いている。船が蹴り立てる波は想像以上に迫力があって、その音しか聞こえない。喫水線から噴き上がる飛沫が白い霧になって肌を濡らし、ここが海のど真ん中であることを思い知らされる。
黒い、と思った。
漆黒の海は見渡す限り広がり、墨汁の上に浮かんでいるかのようだ。海上はうっすらと霧が出ているためか、どこにも陸の明かりは見えず、闇を低く揺さぶるように響く波音と風音に晒されて、群青はひどく心細い気持ちになった。
それでも怖いもの見たさに駆られ、おそるおそる手すりへと近づいていくと、海面を覗き込んだ。白い波が一定間隔で盛り上がっては飛沫を上げて砕けていく。物凄い迫力だ。見つめていると今にも引きずり込まれそうだ。
船明かりに浮かび上がる波は、闇に溶けるまで延々と生まれ続ける。砕けた波はどんどん後ろへ去っていき、また新たな飛沫が上がる。海面から吹き上がる風は猛烈で、群青は身を竦ませた。
港で見上げた時は大きく感じたこの船も、寄る辺ない大海原の真ん中では、木の葉のように揺れている。こんな心細いものに守られてうずくまっていた自分が、恐ろしくちっぽけに思えて、手すりを摑んだまま立ち尽くしてしまう。
身投げした女は、もしかしたら、絶望のためなどではなく、ただただこの烈しい波濤に心ごと吞まれたのではないだろうか。巨きな力の前に足を踏ん張って堪えるよりも、いっそ体ごと吞まれてしまいたいという誘惑に駆られる。身も心も疲れ果てたその人は、足元から呼びかけてくる巨大な声に負け、いともたやすく身を明け渡してしまったのではないか。
手すりを摑んでいなければ、自分も、あの白い波飛沫の中に飛び込んでいってしまいそうだ。
身を乗り出して覗き込んでいた群青は、はっと我に返り、手すりから離れた。後ずさって通路の壁にもたれ、座り込んだ。
船酔いも忘れてしまった。
これが海というものか。
群青、という名は母がつけた。海の色だと母は言った。
若い頃、内地を出た母は、船上から見た海の色が忘れられなかったのだという。深い青は、澄み渡った秋の空を映したようで、この上なく美しかったという。
その話を聞いてから群青は、いつか船に乗ることがあったら、その海の色をこの目で見てやろうと思っていた。
だが、目の前に広がるのは漆黒のみだ。
海は、……ちっとも青くなんかない。
母ひとり、子ひとり。
父親は死んだと聞かされてきたが、本当はちがう。おそらく生きている。幼い頃。ある夜、家に陸軍の将校らしき男がやってきた。その将校は寝ていた群青の頭を、声もかけずに撫でていった。
──群青、か……。よい名だな。
たぶん、あれが父親だったのだろう。その後、二度と現れることはなかった。
母はお座敷仕事に就いていたので夜遅くまで帰らなかったが、朝、群青が目を覚ますと食卓にはいつも温かなごはんと味噌汁が並んでいて、その湯気の向こうには明るい母の笑顔があった。休みの日には野球の試合を応援しに来てくれた。女学校では成績一等賞だったという母は勉強もよく見てくれた。躾は厳しく、お国のために役に立てる男になれ、と教えられた。
そんな母を守るのは自分の使命だ。幼い頃からずっと自分に言い聞かせていた。早く一人前になって、苦労ばかりの母に豊かで穏やかな暮らしをさせてやりたい。
内地がどんなところかは知らないが、誰も助けてくれなくても、この自分がこの手で母を守るのだ。学校なんて行けなくていい。すぐにでも働いて働いて楽な暮らしを……。
「母さんに……」
その時だ。
何かが海に落ちる低い音がした。
余程、重たいものが落ちたのだろう。反射的に振り向くと、船の後方に水柱のあがった痕跡が見えた。
身投げ──? また?
群青は音がした船尾へと走った。その不吉な「音」の正体を確かめようとしたのだ。
倒れたデリックブームをくぐり、救命艇を吊るしたあたりから身を乗り出して海を見た。が、スクリューの生む白い航跡が、闇の向こうに遠ざかっていくばかりで、落ちたものの正体はわからない。
そして群青は気づいた。
右舷側の船尾付近に、男がひとり、佇んでいることに。
若い男だ。軍服を思わせる黒い外套に包まれた体は上背があり、広い背中は鍛えられた兵士のようだ。だが五分刈りではなく、米兵のように伸ばした癖のある髪をオオカミのように海風になびかせて、何かを見送るように、航跡の果てをじっと見つめている。
ここに立って海上を見ていたなら、今の「音」にも気づいたはずだ。
今、落ちたものは何?
訊ねようとして、近づきかけた時──。
こちらの気配に気づいたのか。男が勢いよく振り返った。
群青は立ち竦んだ。
男の眼光の鋭さに驚いて、思わず尻餅をついてしまった。真夏の午後、校舎から飛び出して頭上から太陽光線の束をくらった時の、あの一瞬を思い出した。白熱のかたまりを浴びて思わず手をかざした、あの感じにそっくりだった。
だがそう感じたのはほんの刹那のことで、間もなく視界には闇が──闇に包まれた海が戻ってきた。男の肌は浅黒く汚れ、骨張った頰と尖った鼻が野犬めいている。たくましい顎と肉厚の唇はいかにも頑強で、黒々とした眉はこちらを警戒して鋭角につり上がっていた。その身にまとう気配は冷たい殺気というよりも、むしろ何かの熱源めいていて、ここが暗く寒い船上だということを数瞬忘れさせた。
男は索敵するような目線でこちらを凝視していたが、その口は何も紡ごうとはしなかった。やがて視線がそらされると、不意に太陽が翳ったかのように冷湿な風が戻ってきた。
いま、何が落ちた?
とうとう訊ねることはできなかった。
立ち去っていく男の姿が通風筒の向こうに消えると、群青は今しがたまで男がいたところに、紅い袋が落ちていることに気がついた。
御守だ。
見覚えがある。
拾い上げてみると「熊野神社」と刺繡されている。
母が肌身離さず持っていた、故郷の神社の御守ではないか。
なぜ、ここに?
まさか。
「うそだ……」
黒い海面に生じる白い航跡は、闇の彼方へと溶けていく。
海は、霧の向こうで闇夜と混ざり合っていく。
*
悪い予感は的中した。
いくら待っても母は戻ってこなかった。船内をくまなく捜したが、どこにもいない。
やがて船は博多港に到着し、群青は舷門の前で母を捜したが、最後のひとりが下りる時になっても母の姿はない。船員に訴えたが、船内にもう乗客は残っていないという。荷物を残したまま、自分をおいて先に下りてしまったとでもいうのか?
群青は急いで船を下り、埠頭を捜し回ったが、港のどこにも母の姿はない。
「僕の母さんを見ませんでしたか。阪上スイを見た人はいませんか!」
写真を掲げて叫ぶ。京城の家から持ち出した思い出の写真には、赤ん坊だった群青と若い母の姿が写っている。だが誰も目をくれようとはしない。重い荷物を背負って疲れ果てた様子で、埠頭から検疫所に向かってぞろぞろと歩いていく人々の顔を、ひとりひとり覗き込み、群青はほとんど半狂乱の態で声を張り上げ続けたが、母は見つからない。
混乱する頭で必死に考えた。先に下りたのか? 俺をおいて? 単にはぐれたわけじゃない。荷物は船の中にあった。まさか誰かに連れ去られた? それとも……それとも……。
俺をおいて母さんはどこに行ってしまったんだ!
「君が、阪上群青か……?」
岸壁のビットに真っ青になって座り込んでいた群青へと、声をかけてきた者がいる。
「……あなたは……」
ゆうべ、船尾の屋外デッキで見た男ではないか。
伸ばしっぱなしの前髪の奧から鋭い眼がこちらを見ている。風に乱れた癖のある黒髪は野生のオオカミを思わせる。リュックを背負い、頭陀袋を胸にかけ、トランクをふたつ両手に持っている。
なぜ自分の名を知っているのか。群青が当惑していると、男はトランクを片方おろし、胸ポケットから一通の手紙を差し出した。
「君のお母さんから頼まれた」
群青は手紙を開いた。そこには母の細い字で、短い言葉が記されている。
〝ごめんね。群青。
強く生きていくのよ〟
頭の中が真っ白になった。
たったそれだけの文章の意味が全く理解できなかった。
「母さんは……母さんはどこだよ……。今、どこにいるんだよ!」
「君のお母さんは、戻ってこない」
こちらを見下ろす男の眼差しは、臨終を告げる医師のように厳粛だった。
「もう二度と」
「……うそ、だ……」
群青は、男の言葉を払いのけるように何度も首を振った。
「戻ってこないって……。一緒にあの船に乗ってきたのに、戻ってこないってなんなんだよ……。なら、どこ行っちゃったんだよ。俺をおいて母さんは一体、どこに……!」
闇雲にくってかかっていった群青の耳に、あの時の「どぼん」という重い音が甦った。
船から何かが暗い海に落ちた──。
「………。あの『音』は、母さんだったっていうのかい」
男は答えない。
群青は引きつった笑いを浮かべ、
「うそだ……そんなはずないよ……。そんなこと……あってたまるか!」
たまらず男の服を摑んで強く揺さぶった。
「なあ、あれは母さんだったのか? なんで母さんが身投げなんかするんだよ。そんなことするわけないだろ。あんたそれを見てたのか。なんで止めてくれなかったんだよ! なんで……! どうして!」
男は傾ぎもしないで黙って立っている。凪の海のような眼差しをしている。その揺るぎなさが余計に不安を搔き立てて、群青は声を荒らげた。
「母さんが自殺したっていうのか! なんで! 答えろよ、理由を教えてくれよ! なあ、なんとか言えよ!」
男の胸板を拳で何度も叩いたが、やがて、その手はしがみつくように男の服を握りしめ、ブルブルと震え始めてしまう。とうとう膝から崩れ落ち、呆然と座りこんでしまった。
それから後のことは──。
深い霧の中の出来事のようだった。
博多港は上陸した引揚者や復員兵たちでごった返していた。待ち構えていた係の者に誘導され、大きな噴霧器をもった衛生係らしき女たちの前に並ばされ、DDT消毒の煙を服の中にまで噴き入れられる。米兵もいる検問所で持ち帰った品目を書かされ、両替をし、引揚証明書やらと共に支給の食料や衣服を受け取っていく。各地の戦災状況を知らせる案内所に復員兵が群がっている。彼らには帰る家があるが、引揚者には行き先すらさだかでない者もいる。引揚を援護する人々が孤児の手を引き、茶を振る舞い、身を休ませるための施設へと案内する。
群青は放心しながら、周りの大人に言われるまま、機械的にその流れに身を任せていたが、母の「消失」を受け容れられず、頭がまるで働かない。そんな群青を横から手助けしたのは、あの男だった。本来ならば母がなすべき手続きをどうにかこうにか済ませて、汽車に乗るための引揚乗車票を受け取った。
だが、ここから一体どこに行けばいいのか。
「………。あてはあるのか」
男に問われて、初めて現実に直面した。
「行くあてはあるのか、と訊いてる」
母はいない。内地には知り合いもない。
ぞっとするほど、何もない。
立ち尽くしている群青を、男は同情するように見下ろしていたが、やがて、
「なら、俺と来るか」
「え」
「一緒に来るか」
思いがけない申し出だった。茫然としている群青を目の端で捉え、男は焼け野原になった街のほうを見やって言った。
「俺も何にもあてはないが、右も左もわからない君よりは、多少内地のことはわかっている。俺の名は、赤城壮一郎。一緒に来い、群青」
赤城と名乗ったその男が、何者なのか。
詮索する余裕もないまま、ふたりは「連れ」となり、引揚列車が待つ駅に向かうことになった。
あたりは一面、焼け野原だ。
内地は空襲で大方の都市は焼けたと聞いていたが、博多の街も建物らしきものといえば、かろうじて焼け残った洋風の石造りか、あとはトタンを寄せ集めたバラックくらいだ。細い炊煙がいくつもあがって、果ての見えない荒れ野のように遠くの景色をかすませる。
引揚者と復員兵は博多駅まで続くまっすぐな大通りをぞろぞろと歩いていく。
群青と赤城も黙って歩き続ける。
このやたら眼光の鋭い、オオカミみたいな男がどこの誰なのかもわからない。わかるのは、同じ船に乗ってきて、消えた母から「伝言」を託されたということだけだ。
だが、いまの群青には頼りにできる者が誰もいない。この男の他には誰も。
この男と行動するしか手立てがない。
重いリュックに押し潰されそうになりながら、ほんの二、三歩先の地面だけを見つめて歩き続ける。その姿は今の群青が置かれた境遇そのままだ。赤城は少し先を歩く。何も話さない。その背中についていく群青は、赤城の汚れてすり減った靴の踵だけを見つめている。
博多駅にはたくさんの引揚者や復員兵がたむろして座り込んでいた。駅舎には汽車を待つ長い行列ができていた。
「次の列車の行き先を聞いてくる。ここで待っててくれ」
赤城は荷物を群青に預けて駅舎へと向かった。
群青はリュックをおろして、しゃがみこんだ。
ここからはもう港は見えない。自分たちが乗ってきた引揚船の船影も。まともに働かない頭でぼんやりと思った。本当にここから離れていいのだろうか。まだあの船に母が乗っているような気がした。ここを離れてしまったら、母の手がかりは途絶えてしまう。もう本当に母とは二度と会えなくなるのではないか。港にはまだ大勢の引揚者がいる。ここに留まって母を探すべきではないのか。
群青の迷いを断ちきるように、赤城の声が脳裏に響いた。
──君のお母さんは、戻ってこない。
黒い海面にあがった水柱の残像が重なる。
──もう二度と。
「あいつについていくことにしたのか?」
声をかけられて、群青は驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、国民服を着た中年の男だ。擦り切れた帽子、げっそりとこけた頰、驚いたのは、その男の右目が潰れていたことだ。明らかに眼球のない不自然にへこんだ瞼には、醜い傷があった。
「……なんですか。あなた」
「俺は見たぞ」
独眼の男は暗く湿った声で、群青の耳元に告げた。
「この目で確かに見た。あの船の上で、あいつがおまえの母親を海に突き落としたのを」
群青は耳を疑った。
今……、なんて言った?
「あいつが、母さんを……」
「あれは人殺しだ。おまえさんのこともどこかに売り飛ばす気かもしれん。せいぜい気をつけることだ」
そこへ赤城が戻ってきた。独眼の男はさっと身を翻して、人混みの中へと去っていく。
「今度の汽車は門司行きだそうだ。あれに乗って……、どうした?」
言いかけた赤城は、群青の異変に気づいたようだ。
「何かあったか?」
群青は警戒心を剝きだしにして、睨みつけている。
第1章 見知らぬ祖国へ
汽車は一路、東へと向かって走る。
車内は、引揚家族と復員兵で寿司詰めになっていた。ぎゅうぎゅうの車内は網棚も足元も人と荷物でいっぱいで、どの席も対面の客と膝が触れ合うほど狭い。
硬い背もたれに身を預ける群青の心は不信感でいっぱいだった。
正面に座る男。
赤城壮一郎、と名乗った。
今は腕組みをして眠っている。
どこの誰かもわからない。同じ引揚船で帰ってきた、というだけの赤の他人だ。
埃だらけの黒い外套は、ボタンもとれかかっていて、あちこち糸がほつれている。整髪もろくにしておらず、癖のある後ろ髪がうなじを覆っている。
年齢は、中学生の群青よりも一回りは上のように見えた。
彫りが深く、くっきりとした目鼻立ちで、瞳が大きく白目の面積が大きいためか、浅黒い肌とのコントラストでいっそう眼光の鋭さが際立つ。オンボロの風体でまともな職業についているようには見えないが、遠方からの引揚者なのだろうか。北のほうから逃避行同然で引き揚げてきた人々の中にはまさに着の身着のままで、ろくに靴さえ履いていない家族もいたが、そういう人々とも違うようだ。目を閉じていると、絡まりまくった癖のある前髪から長いまつげが覗く。放浪者、という表現がしっくりくる。使い古したトランクもくたびれ果てているが、汽車に乗ってからの振る舞いは旅慣れているようにも見えた。
疲労はしていても振る舞いに弛みがない。眠っているのに姿勢は崩れず、隣で泥のように寝崩れている復員兵とは大違いだ。
──あいつがおまえの母親を海に突き落とした……。
独眼の男が、駅で残した言葉が、群青の耳から離れない。
母さんを殺した? こいつが?
何かが海に落ちた音がした──あの時。
確かに赤城は、船尾側の右舷甲板上にいた。ずっと海のほうを見ていた。
あの時の「どぼん」という低い音も右舷側から聞こえた。水柱の痕跡も、船の白い航跡の右舷よりに見えたから、あの位置にいたなら何が落ちたか、目撃していたはずだ。
普通、船から人が落ちるのを見たら、居合わせた者はうろたえて、船員を呼ぶとか何とか対応しようとするはずだ。が、赤城はそうしなかった。ただそこで「見ていた」だけだった。むしろ駆けつけた群青に驚き、強く咎めるように睨みつけてきた。「船員を呼べ」と叫ぶでもなく、何事もなかったかのように立ち去ったのだ。
あれは殺人者が犯行をやり遂げた際に見せる反応ではなかったか。
船縁は胸の高さまであって、ただ突き飛ばされただけでは簡単に人は落ちない。相手の体を持ち上げて、頭から落としたはずだ。
明確な殺意がなければ、できない。
何よりその足元には、母が肌身離さず持っていた「熊野神社」の御守が落ちていた。あそこに母がいたという動かぬ証拠だ。
その御守は今、群青のポケットにある。
錦糸もすりきれて色褪せた、御守。
母の故郷にある神社の。
どうして母さんを落とした?
どうして母さんを落とす必要があった?
「どうした。眠れないのか?」
てっきり眠っているものと思っていた赤城が、声をかけてきた。目を閉じていたくせに、なぜわかったのだろう。
「……先は長い。寝られるうちに寝ておいたほうがいいぞ」
機関車から吐き出された煙が後方に流れていく。群青は全身で警戒し、
「………。どこまで行くんです」
「東京だ」
驚いた。東京? 東京は皇居以外はひどい空襲で「壊滅」してしまい、今は焼け野原だと聞いていたからだ。
「養父母がいる」
赤城は遠い目をした。
「もし奇跡的に生きのびていたなら今度は俺が養わないといけない。おまえとも引き合わせないとな」
──おまえさんのこともどこかに売り飛ばす気かもしれん。
独眼の男の言葉が耳にこびりついている。
群青は、これ以上この男と一緒にいてはならないと思った。
「……俺、次の駅で降りる」
赤城は軽く驚いた。
「降りてどうする」
「港に戻る」
「戻ってどうする」
「母さんを捜す」
「捜しても無駄だ。おまえの母さんは戻ってこない。そう言ったはずだ」
「あんたが突き落としたから?」
赤城は答えるかわりに、大きな目でぎろりと睨みつけてきた。
「おとといの夜中。あんたが甲板にいたところを見た」
「………。ああ。いたな」
「母さんは身投げなんかじゃなくて、あんたに突き落とされたんだ」
赤城は群青を見据えたまま、黙り込んでしまう。気味が悪いほど冷静だ。その眼球の揺れすら見逃さないよう、群青は凝視し返した。
「………。誰かから聞いたのか?」
「本当なのかい?」
「ちがう」
即答したので、群青は驚いた。
赤城は腕組みを崩さないまま、
「……と言ったら、おまえは俺を信じるのか?」
試すようにこちらを見ている。イエスかノーか、ふたつの手札を相手の鼻先に突きつけたつもりが、逆に突き返されてしまった。
それも然りだ。たとえ真実だったとしても、突き落とした女の息子の前で認めるわけもない。
このまま、母を殺したかもしれない男と行動を共にするのか。
だが、内地に身を寄せる知人も持たない群青にとって、頼みの綱はこの男しかいないのだ。
明日からを生きるために。
「くだらん詮索してる元気があるなら、握り飯でも食って寝ろ。明日からはまともな飯にありつけるかどうかもわからんからな」
赤城の言いぐさに、群青は涙が出そうになった。
ただただ自分が情けなかった。
母を守る、と息巻きながら、何もできなかった。それどころか、母がいなければどこにも行けず、食べることさえできないのだ。船上から忽然と消えた母。母を失った途端に路頭に迷った行き場のない子供だ。まるで荒野に放り出された幼子も同然ではないか。
やはり次の駅で降りようか。あの港に戻って、次の引揚船で誰か知っている者たちが下りてくるのを待とうか。引揚援護所で受け取った冊子には「行先の無い方は落着先をお世話しますから係に申し出てください」とある。援護局を頼れば、なんとかなるのでは。
いいや、ちがう。
本当はあの港から離れたくないだけだ。母がいなくなったなんて信じたくない。今だって、母が隣にいないのが不思議でたまらない。悪い夢の中にでもいるようだ。なにがなんだかわからない。
母さん……!
今もまだあの港にいるかもしれない。今ならまだ間に合うかもしれない。何か理由があって一緒にいられないだけかもしれない。引き返せば再会できるかもしれない。母の気配が残るあの港からこれ以上遠ざかりたくない。今引き返せば、まだ──。
「前を向け。群青」
心を読んだように、赤城が𠮟咤した。
「次の引揚船が同じ港に着く保証はない。港に戻って知人に会えたところで、おまえの食い扶持を助ける余裕があるやつなんかひとりもいない。未成年のおまえに援護局がしてくれることなんか、せいぜい孤児院送りだ。おまえは明日からも生きてかなきゃならん。昨日にしがみつくな。前に進むしかないんだ」
「……んたに……言われたくなんか……」
群青の目から涙がこぼれ落ちた。一粒落ちると、いろんな気持ちが一気に溢れてきて、抑えられなくなった。こらえてもこらえても嗚咽が漏れる。涙が止まらない。しだいに肩を震わせてしゃくりあげ、しきりに洟をすすり始めた群青に、赤城が差し出したのは配給の握り飯だ。
「……昨日からろくに食ってないんだろう。食え」
自分の分を群青の鼻先に突き出す。
「でも、これ……」
「いいから食えよ」
押しつけられるままに受け取った。食欲など皆無だと思われたが、空腹はいかんともしがたかった。群青はかぶりついた。泣きながらかぶりついた。わかめの入った握り飯は、水っぽくてべちゃべちゃで、ろくに塩も入っておらず、まずいとしか思わなかったが、喉に押し込むようにして夢中で食べた。嗚咽しながら食べた握り飯は、涙でいつしか塩辛くなっている。
汽笛が響く。
焼け野原となった街を縫うように、夜汽車は走り続ける。
*
初めて見る「内地」は、拍子抜けするほどあっけらかんとした青空が広がっていた。
これが戦争に負けた国の空なのか。
母を失った悲しみと、失う理由すら与えてもらえなかった悔しさと。
膨れあがる理不尽を呑み込むこともできないまま、自分の意志とは関わりなくどこかへと運ばれていく自分が小さな家畜のように思えてきて、群青は半ば捨て鉢になっていた。
車窓を流れていく風景は、だが、瑞々しい。
街らしき街はあちらこちら空襲で焼けていたが、国土の多くを占める山林は皆、手つかずで美しく紅葉している。樹木が多いのは、水が豊かだからか。これが「内地」か。すぐそこまで山が迫り、青い海が広がる。
「〝国破れて山河あり〟……か」
赤城が呟いた。
「まぶしいな……」
群青はろくに口もきかない。
それが「母を海に突き落とした」かもしれない男への精一杯の抵抗だとでもいうように。
──おまえさんのこともどこかに売り飛ばす気かもしれん。
人身売買で稼ぐつもりか。東京で俺を売り飛ばすつもりか。そんなことさせてたまるか。母さんの仇をとるのが先だ。
いつやる?
どうやって、やる?
一睡もできなかった。
車内の混雑はひどいものだ。駅には乗客が溢れ、窓からも乗ってこようとする。ぎゅうぎゅうの人の隙間から外を見る有様だ。横浜駅に着いた。あたりは港を残して徹底的に焼かれてしまい、一面、更地になっている。あちこちにおんぼろの小屋が建ち並んでいて、その周りで人が蠢いている。
焼け野原になったと聞いていたが、鉄道は走り、ホームには人が溢れ、皆、列車に乗ろうと必死だ。戦争に敗れてうちひしがれた人々の青白い顔を想像していた群青は、その熱気と執念に度肝を抜かれた。
引揚列車は、終着駅に着いた。
品川駅八番ホーム。
すし詰めの乗客が雪崩を打つようにして降りていく。人いきれでむせかえるようだ。ひどく混雑した駅に、群青と赤城も揉まれながら降り立った。
「ついてこい。はぐれるなよ」
下関を出てから丸二日。疲労の溜まった体は軋みをあげている。一刻も早く横になりたかったが、どうやら当分許されそうもない。人混みをかき分け、さらに列車を乗り継いで、ある駅にたどりついた。
錦糸町駅、とある。
人で山盛りになった列車から降りて、茫然とした。
あたりは瓦礫とおんぼろのバラックと全壊した建物の土台のみ。視界を遮るものはなく、焼け跡が延々と広がっている。街だったというが、ここにかつて何があったのか、全く想像ができない。
駅舎も崩れ、ホームがかろうじてあるだけだ。
赤城も、立ち尽くしていた。
今まで何にも動じなかった男が、初めて茫然としている。
「………。こっぴどくやられたもんだな」
そう独りごちると、赤城は重い足取りで歩き出す。群青も重い荷を背負い直し、ついていく。
「このへんは昔、菓子屋が並んでいた。ポン菓子や飴の甘い匂いがして……」
誰に言うでもなく呟きながら、赤城は歩いていく。そうやって動揺を抑えているようにも見える。駅前にはバラックが軒を並べ、まるで貧民街だ。
リヤカーに荷物を積んでいる年配の男を呼び止めて、赤城が住所を訊ねた。
「……ああ、そのお寺なら、もう二本先の通りだね。でも焼けちまったよ」
ランニングシャツ姿の年配は手ぬぐいで顎を拭って、更地の向こうを指さした。
「このへん全部、空襲でやられちまってね。俺は錦糸公園に逃げこんで、なんとか生き残ったが、建物はあらかた焼けた。知り合いでも訪ねてきたのかね」
「はい。ずっと連絡が」
「ああ……、なら、もしかしたら、錦糸公園かもなあ」
赤城の隣で群青は首を傾げた。……公園に住んでいるのか?
「埋められてるんだよ」
「え」
「三月十日の空襲のあと、このあたりには黒焦げになって誰ともわからなくなった遺体が数え切れないほど道ばたに転がってた。他に埋葬する場所もなかったから、公園に大きな穴を掘って、まとめて埋めたんだ。このリヤカーにも山のように積んで何度も何度も運んだもんだ。毎日毎日……」
群青は絶句してしまう。
赤城は覚悟していたのか、沈痛な面持ちになった。行こう、と言い、歩き出した。
一帯はまだ瓦礫がそのままになっている。敷地と道の境が無く、家の土台がかろうじて残るのみで、ハンドルのねじまがった黒焦げの自転車が放置してある。住民たちは廃材を寄せ集めた小屋を建てて暮らしているようだが、主が戻らないところも多いようで、遠くの山並みまでよく見渡せる。
目的の場所には、トタン屋根のみすぼらしいバラックが建っている。
赤城はハッとして、わずかな期待とともに駆け寄っていくと、玄関の板戸を勢いよく開けた。
「親父、いるのか!」
中には、男がひとり、煙草を吹かしている。
復員兵と見える若い男だ。ふてぶてしそうな馬面が、きょとんとこちらを見ている。
「誰だ。あんた」
と訊ねたのは、赤城のほうだった。
「ここで何してる」
身内との再会、とはならなかったようだ。剣吞な顔つきに戻る赤城に、男は薄笑いで答えた。
「何してるって……、煙草吸ってんだよ」
「なんで人んちの敷地に家建ててんだって訊いてる」
馬面の男は一瞬、応答に詰まったようだが、すぐに居直った。
「ここは元から、あたしんちですけども?」
「ここには赤城という名の老夫婦が住んでたはずだ」
ぎろり、と馬面男は赤城を睨み、煙草を空き缶に押しつけた。
「どなたさまです?」
「その夫婦の息子だ」
「ああ、引揚さんですかい。ご苦労様です。でもここは三軒先までもう持ち主がいないんですわ」
赤城は暗く目を据わらせた。東京大空襲で町内の住民全てが犠牲になったところもある。男は親指で後ろを指さし、
「そっちの防空壕で折り重なって死んでた仏さんたちが大勢見つかったっていうから、今頃はきっと公園ですよ」
赤城が物も言わず男の胸ぐらを摑みあげた。
「空襲で住人が死んだのをいいことに、勝手に家を建てたってわけか」
「ちょちょ。乱暴はよしてくださいや」
「出ていけ。ここは両親の家だ」
「罹災証明書は持ってますかい。あるんなら見せてくださいよ」
そんなものは、ない。すると、男は、へら、と笑って、胸ポケットから封筒を取りだした。
「こういうやつなんですがね」
赤城は封書を奪って中を取りだした。罹災証明書、とある。そこには確かにここの住所が記してある。空襲で役所も燃え、戸籍謄本から何から焼失したのだろう。役所の職員はろくな確認もなく、請求者に言われるまま発行したとみえる。
名前は〝近江勇吉〟とある。
「おまえの名か?」
赤城は引き下がらなかった。
「ここから出ていけ」
「ふん。外地から引き揚げてきて親のスネかじろうと思ったら赤の他人がいたもんだから腹立てたってわけかい。迷惑なんだよな。配給も足りなくてみんな腹ペコでやせ芋かじってるとこに、海の向こうからのこのこ戻ってこられても」
どきり、としたのは群青だ。近江は歯に衣着せず、
「焼け出されて汲々な身内に、自分らの面倒まで見てくれなんて、引揚者はどんだけ面の皮が厚いんだか」
「ひとの土地に勝手に家建てて居直る輩よりはマシだと思うぜ」
「後からやってきて、地主ヅラされてもねえ……」
近江はふてぶてしく笑った。
「周りを見ろ、不法占拠なんてみーんなやってる。早いもん勝ちなんだよ。きれい事言ってるうちに目の前でもってかれる。戦争は終わったが、俺らにとっちゃあ、今が生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ。とっとと海の向こうに帰りやがれ!」
赤城が力任せに近江の顔を殴りつけた。ふっとんだ近江は、井戸のポンプにしがみついた。はずみで水が盛大に出て、ずぶぬれになってしまう。
「……ここを狙ったのは井戸があるからか。目の付け所はいい。だがおまえのじゃない」
赤城が言うと、近江は腰から何か抜いた。
軍用ナイフだ。
群青はギョッとして赤城にしがみついてしまう。
「も……もういいよ、よそに行こうよ」
「いいや。こんな土地泥棒、ほったらかしにはできん」
「殺されちまうよ!」
「出てくのはそっちだ。よそもん」
と近江は腰だめにナイフを構えて言った。
「ここは俺の家だ。横取りはさせねえ!」
突進してくる。赤城は群青をかばうようにしてかわした。
「下がってろ、群青!」
ぶん、と空気がうなり、近江がナイフを振り下ろす。赤城は髪一筋かわした。さらに切りつけてくる。赤城は後ろにステップを踏んでかわし、足元に転がっていたバケツを摑むと、底で刃を受けた。ブリキが乾いた音を発し、近江が手首のしびれに思わずひるむと、赤城はすかさずバケツを投げつけ、反撃に出る。
殴り合いになった。
赤城には喧嘩の心得があるのか、身のこなしが鋭く場慣れしている。間合いを読んだ足さばきで拳と刃をスイスイかわし、ついには近江の顎に豪快な右フックを決めた。
「この、野郎……っ」
キレた近江が闇雲に襲いかかる。群青が物陰で竦みあがっていると、玄関のほうから、唐突に声がした。
「……兄ちゃん、お客さん?」
可愛らしい声だった。
赤城も、動きを止めた。
振り返ると、玄関口に立っていたのは、十歳くらいの少女だ。
裸足の寝間着姿で中途半端に伸びたおかっぱ頭は寝癖がついている。血色のない白い顔をしていたが、大きな瞳は黒蜜のように潤んでいた。
「佳世子」
と近江が呼んだ。
「ダメじゃないか。おとなしく寝てないと」
「そのひとたち誰? 兄ちゃんのお友達?」
近江は咄嗟に落としたナイフを足で蹴りやり、引きつった笑いを浮かべてみせる。
「あ……ああ。仕事のひとだ」
「中に入ってもらわなくていいの?」
「いいんだ、いいんだ。もう済んだから。外は寒い。体に障るぞ。いいから奧で寝てなさい」
佳世子と呼ばれた少女は群青たちにちょこんと頭を下げると、バラックの中に戻っていった。その時にはもう赤城も戦意喪失して立ち尽くしている。
「妹か?」
「………。唯一生き残った末っ子だ。疎開先から引き取ったはいいが体を悪くして、今は一日中、臥せってる」
近江は無念そうに背を向けた。
「借家が焼けて住むところがない。病院で治療させてやりたいが、ままならん。ここで養生させてるが、せめて栄養のあるもんでも食わせてやれたら……」
赤城は最後まで聞かず、リュックとトランクを持ち上げた。
「行くぞ、群青」
「え……。でもあの土地は」
「もういい」
と言うと、背を丸めて元来た道を引き返していく。やけにあっさりと引かれたものだから、近江は拍子抜けしたようだ。群青も慌てて赤城の後を追いかけた。
「あきらめるのかよ! 親の土地なんだろ? 親が死んじゃったなら、持ち主もあんたになるんじゃ」
「あんな病気の子供を見て、出ていけなんて言えるか。どの道、両親の安否を確かめて駄目だとわかったら、すぐ去るつもりだった。……もういいんだ」
結局、野宿になった。
瓦礫となった駅の、かろうじて天井が残っている部分に身を寄せて、一晩の宿とする。
博多港で支給された外食券は使わず、自前の鍋で自炊する。朝鮮から持ち帰った米を雑炊にして分け合った。塩気は薄く腹一杯とはいかなかったが、仕方が無い。
日が落ちると冷たい空気がおりてくる。東京は京城ほど寒くないにせよ、焚き火がないと野宿は厳しい。うずくまって震える群青に、赤城は自分の毛布をかけた。赤城は壁にもたれて、じっと何事か考えている。
「明日からどうすんだよ」
「……そうだな。まずは夜露をしのげるところを探さないと。引揚者用に宿舎を斡旋してくれるところがあるらしい。そこをあたるか、さもなくば……」
小さな焚き火は消えかかっている。
「俺たちも主のいない土地に小屋でも建てるか」
思案に暮れる赤城の横顔を、群青は見上げている。
──母親を突き落としたのは……。
〝親の仇〟と火を囲む。母を殺したかもしれない男が、今はたったひとりの頼れる相手だ。どこの誰ともわからない。自分からは語ろうともしない。養父母がいた、ということは、実の親はずいぶん早く亡くなったのだろうか。
群青は拾った紙くずをちぎって火に投げ込みながら「……あんた、外地では何してたの?」と訊ねた。
「俺か? 満鉄に勤めてた」
群青は驚いた。南満州鉄道のことだ。
日露戦争でロシアから譲り受けた「鉄道」を運営するために日本政府が設立した鉄道会社だ。朝鮮の鉄道も満鉄に業務委託されていたので、群青の同級生にも親が満鉄社員だった者が何人もいた。赤城の放浪者のような風体は、そんな〝まとも〟な大企業の社員にはとても見えなかったので、思わず目を丸くしてその顔をまじまじと見てしまった。
「駅員とかかい? ああ、わかった。整備士だろ? まさか機関車も動かせるのかい?」
「いや。運行業務とは別部門だった。……そうか、運転士だったなら国鉄で雇ってもらえたかもしれないんだな」
満鉄は鉄道の他にもたくさんの関連企業を持っていた。炭鉱や製鉄業、農林業からガス・電力事業、新聞社や学校、航空会社からホテルチェーンまで抱える巨大コンツェルンだ。社員の総数は十万人に及んだという。
「……もっとも運転士はみんな、ソ連側の指示で居残りを強いられたそうだから、鉄道関係者は当分日本には帰れないだろうな」
改札口があったあたりを眺めて、赤城はぼんやりと呟いた。海の向こうに置いてきた街の記憶を、なぞるように。
「……降ってきやがった」
晩秋の冷たい雨だ。濡れると体温を奪われる。
大粒の雨はやむ気配がない。
「何か雨よけになるものを探してこよう」
と赤城が立ち上がろうとした時だった。
雨に煙る視界の先に、軍袴を穿いた男が、おんぼろの傘を差して立っている。
近江勇吉ではないか。
「なにしに来た」
「………。妹が」
と近江は言いづらそうに鼻をかいた。
「屋根の無いところで寝泊まりするのは気の毒だから、家につれてこい、と」
群青は赤城と顔を見合わせた。
「小屋は狭いが、おまえらふたりが寝るくらいの場所はある。来い」
「いいのか」
「今夜だけだ」
ぶっきらぼうに近江は言った。
「おまえはともかく、そこの坊主はもうくたくただろう。雨で死ぬガキもたくさんいる。いいからついてこい」
確かに群青は同い年の少年と比べると小柄で線も細いが、掌を返したように気遣いをみせる近江には違和感しかない。人助けするような男にも見えなかったので、半信半疑のままふたりは先ほどのバラックへと戻ってきた。
佳世子は手製の炉で湯を沸かして待っていた。どうぞ、というように頭を下げ、
「うちも雨漏りひどいけど、そこだけよければ大丈夫」
「なんで俺たちが宿無しだってわかった?」
「大きな荷物担いでたから」
引揚者の出で立ちは見ればわかる。背中にリュック、両手にトランク、袈裟懸けに頭陀袋。持てるだけの荷物を背負い込んだ者は、行くあてがあるならば、まっすぐにそこに向かっている。近江は「仕事相手だ」などと取り繕ったが、言い争いは聞こえていただろうし、その相手がこの出で立ちなら、確かに自ずと状況は窺える。とはいえ、まだ十かそこらの少女だ。かしこいんだな、と群青は感心した。
「毛布ないけど、我慢してね」
地べたでないだけマシだ。六畳ほどのバラックは焼けた家の土台の上に廃材で床を拵えてある。船や汽車の中を思えば、この空間に四人はまだ広いほうだと思えた。
横になれば小柄な群青は手足を伸ばせる。何日ぶりだろう。雨がトタン屋根を打つ音がやかましかったが、くたくたの体はおかまいなしに一瞬で眠りに落ちた。
*
目を覚ますと──そこはいつもの布団の中だった。京城の我が家にいた。
見慣れた時計、鴨居にかけた国防色の制服、枕元には洗いたてのシャツ。ちゃぶ台には愛用の茶碗と箸、ごはんと味噌汁が並んでいて窓から差し込む朝の光に湯気が光っている。その向こうに割烹着を着た母の笑顔がある。
おはよう、群青。今日は野球の試合でしょ。母さん、うんと大きなおむすびを握ったわ。
応援しているから、がんばって満塁打を打ってくるのよ。
なあんだ。やっぱり全部夢だったんだ。母さんはここにいるじゃないか。なんだい、悪い夢を見たもんだなあ。戦争に負けるとか母さんが消えるとか、そんなのは全部……。
──夢ではない。
群青はあまりの寒さに凍えて目を覚ました。冷たく固い床にうずくまるようにして寝ていた。驚くほどすぐそばに赤城の背中がある。近江のいびきがゴオゴオ響いている。ここは廃材を寄せ集めたみすぼらしい小屋なのだ。
隙間風が吹くバラックにはまともな家財すらない。家とも呼べない小屋でつい昨日まで知らなかった人たちと雑魚寝する。現実はこっちだ。
目なんか醒めなけりゃよかった、と思う朝がこれから何度もやってくることを、群青は覚悟することになる。
今夜だけだ、と言いながら、近江は翌日もふたりを追い出す気配を見せなかった。翌々日も、その次の日も。
赤城は日中、群青をバラックに置いて、どこかへ出かけていった。荷物は置いていくのでひとりでどこかに消えるつもりはないようだが、住処を探しているのだろうか。
近江も昼間はどこかへ出かけていき、群青は佳世子とふたりで留守番だ。
気がつけば、四人での奇妙な共同生活が始まっていた。
東京は大きな街で京城以上に栄えていたというが、群青はその景色を知らない。ここが「大日本帝国の首都」だと言われても、ぴんとこない。ここからは天皇陛下がいる宮城の石垣も英霊が眠るという靖国神社の鳥居も見えない。見えるのは枯木のように並ぶ電柱と茫漠たる焼け野原だけだ。
駅前の配給所に長い時間並んでやっと手に入れたわずかな米を雑炊にして、四人で分けあって食いつなぐ。育ち盛りの群青には空腹が何よりつらい。どうにか井戸水で腹を膨らませて飢えをしのぐ有様だ。内地の都市部はとにかく食糧事情が悪い。群青がいた京城は戦時中にあっても比較的穏やかで、幸い空襲にも遭わず、「戦争で負けた」と聞いても直前までそんな空気は感じられなかったくらいだ。まさか終戦後、「大日本帝国」の栄えある首都に来て、みすぼらしいバラックでのサバイバル生活をするはめになろうとは。
だがこれが現実だ。
母がいてくれたなら少しはマシだっただろうか。母のふるさとは和歌山の田舎だったという。田舎には食料もあるようだから、少しは飢えずに済んでいただろうか。そんな思いがチラと脳裏を横切って、なにもかも恨めしくなるが、親族との縁を切って生きていた母の身の上を思えば、それも甘い考えだというのも群青にはわかる。
先のことも皆目わからない。今はとにかく一日一日を生き延びるだけだ。
「あのひと、グンちゃんのお兄さん?」
佳世子が物干し紐に靴下を吊るしながら、訊ねてきた。赤城のことだった。
群青はいまだ赤城に心を許していない。話しかけるのはもっぱら赤城のほうで、必要以外はまともに目も合わそうとしない群青の態度は、佳世子にも奇妙に映るのだろう。
群青は庇の下で洗濯用のタライに水をくみながら、
「いいや。赤の他人」
「なら、なんで一緒にいるの?」
「母さんがいなくなったから」
引揚船での話はさすがに口にするのが憚られた。佳世子は「ふうん」と小首を傾げ、
「兄弟に見えるけど、ちがうのね」
「他人だよ」
「ひとりだって大変なのに、知らない子の面倒をみてくれるなんて……優しいひとなのね」
群青ははっとした。言われてみれば確かにそうだ。この明日をも知れない状況で、普通に考えれば自分はお荷物でしかない。
「……あ、あいつは俺を売り飛ばす気なんだよ。だから面倒見てんだよ」
「そんなのうそよ」
「うそじゃない。今日だって俺を売る算段をつけに行ったに決まってる」
「なら、なんで逃げないの?」
佳世子は大きな瞳で覗き込んでくる。群青は思わず言葉に詰まった。
「そ……それは」
「売られるとわかってるなら逃げればいいのに」
佳世子の言う通りだ。だが逃げるのも怖い。大体、どこに逃げればいいのか。日本語が通じるというだけで、右も左もわからない「異郷」だ。逃げた先はもっとひどいことになるだろう。いま以上にみじめで悲惨な目に遭うのは間違いない。ここを離れたら野垂れ死にする、という現実が目の前にある。何より、それ以上に──。
逃げて、ひとりぼっちになってしまうのが怖いのだ。
「か……かたきを討つためだよ」
振り払うように、群青は言った。
「母さんの仇を討つために、逃げちゃいけないんだ」
佳世子は不思議そうにしている。そうだ。そのためだ、と群青は強く思い込んだ。赤城が母さんを手にかけたという証拠を見つけて必ず仇を討つ。そう自分を奮い立たせることで、ひとりになる勇気もない「か弱い自分」を正当化した。
「帰ったぞ、群青」
どきり、として振り返ると、赤城が戻ってきたところだった。手には重そうな頭陀袋を持っている。それを佳世子に渡した。ずっしりと重たい。
「米だ。居候代のかわりに」
「うわあ。こんなたくさん。どうしたの?」
「そいつは聞かない約束だ」
闇米というやつだ。正しいルートを経ないで売られている。食料難に苦しむ都会の人々はわざわざ地方に出向いて農家と直接、物々交換で手に入れているという。警察に見つかれば捕まるが、皆、やむにやまれぬ事情がある。駅が激しく混むのは、買い出し組が汽車に殺到するからだ。
群青は赤城の手首から腕時計がなくなっているのに気づいた。ぼろに身を包んだ赤城が唯一、身につけていた金目のものだった。腕時計と交換してしまったのか。文字盤は黄ばんでいたが、決して安物には見えなかった。それを数日食いつなぐ米のために交換してしまったのか?
「近江はどこ行った」
「兄ちゃんなら上野の闇市にお店を出しに」
「店?」
そこに近江も帰ってきた。手には掌に余るほどの牛肉を抱えている。
「どこからこんなもの!」
「進駐軍のまかないから、ちょっくらね」
「盗んだのか?」
「人聞き悪いこと言うな。譲ってもらった」
そうは言うが穏便にとはいかなかったようだ。顔には殴られたような赤黒い痣がある。
「おまえの体を丈夫にするためには、肉を食うのが一番だからな。待ってろ、佳世子。いまから焼いて……ん? この米はどうした」
佳世子が経緯を話すと、近江は赤城の律儀さに驚くよりも呆れた。呆れすぎて絶句していた。自分と群青の分だけでなくあくまで四人で食いつなごうというのか。身内の土地で勝手に家を建てた相手に、こんな配慮をしてくるとは、どれだけお人好しなのか。
近江自身、不法占拠に後ろめたさがないわけでもない。病弱な妹への気遣いにもほだされていたのだろう。近江はとうとう赤城に内心、降参したようだった。
「なあ、赤城よ……。おまえ、仕事のあてがないなら俺と一緒に商売しないか」
「商売だと? なんの?」
「でかい声では言えないが」
近江は秘密の計画を打ち明けるように耳打ちした。
「ワケアリの商材で一発稼げる手がある。おまえらにも手伝わせてやるよ」
*
近江が持ってきた麻袋の中には、ずっしりと白い粉が入っている。
覗き込んだ赤城と群青は、それがなんなのか、すぐにはわからなかった。
床下に隠した木箱に入っていたそれは、一見砂袋のように見えたが、中身の白い粉は何かの結晶だろうか。塩か砂糖かと思ったが、粒が奇妙に細長く、顆粒の薬にも見える。
「誰にも言うなよ」
近江はふたりの後ろから暗く囁いた。
「腹を空かせた日本人なら皆、こいつの虜になる。一度味わったらやみつきだ。喉から手が出るほど欲しがるはず」
麻袋はひとつ五キロほど。それが三袋もある。
「こいつを量り売りして闇市で売りさばく。このご時世だ。うまくいけば、家が建つくらいは稼げるぞ」
「ワケアリって言ったな。何なんだこれは」
さすがの赤城も顔を強ばらせている。
「もしかして非合法で手に入れたのか」
「……入手先は言えん。与那国にいた時に材料を手に入れて、隠れて精製した」
「与那国島にいたのか? 台湾の隣の」
「とある任務でな。そこから密かに持ち込んだ」
ますます不穏な言い回しに、赤城は警戒をあらわにした。
「こんなものを闇市で売るつもりか。何を考えてるんだ」
「欲しがるやつはいっぱいいるぜ。足元を見て高く売りつけりゃ、派手に儲けられる。こんなご時世だからこそ」
「ふざけるな!」
赤城は近江の胸ぐらを摑んだ。
「いくら食料難だからって、阿片なんかで稼いだ金でメシを食おうなんて、どれだけ……!」
近江は真顔になった。きょとんとしている。次の瞬間、破裂したような笑い声をあげた。
「阿片だって? はは、ばか言うなよ! おいグン坊、こいつを舐めてみろ」
群青が白い粉に指を突っ込んで、おそるおそる舌にもっていく。赤城が止めようとしたが、寸前で口にくわえた。途端──。
「うまい!」
群青の目が輝いた。
「なんだよ、これ。うまいよ」
「グルタミン酸ナトリウム」
近江は理科の教師のように言った。
「昆布なんかの旨味成分を抽出したもの。いわゆる、化学調味料だ」
赤城はぽかんとした。
「調味料……」
「近江のアニキ、これ〝味乃源〟だよね? 出汁取る手間が省けるやつだろ」
文明の味というやつだ。出汁の代わりになる便利な調味料として重宝されていたが、戦中から統制品のひとつになり、純度の高い一級品は原料不足や戦況悪化により、なかなか入手できない代物となっていた。
「おまえが作ったのか?」
「俺じゃない。詳しい知り合いがいてな。原料はサトウキビだ。原料糖があれば、大がかりな工場なぞなくても作れる」
「特許に引っかかるぞ」
「このご時世に特許もラッキョウもねえだろ。こいつを〝味乃源〟と呼んで高く売って儲けるんだ。ふたりとも手伝え」
赤城も群青も半信半疑で気も進まなかったが、食いつなぐためには手段など選んでいられない。そうでなくても引揚者である自分たちには、生活基盤が皆無なのだ。
本土の人々は家にあるものを売って食いつなぐことを、たけのこの皮を一枚一枚剝ぐのになぞらえて「たけのこ生活」などと言って自虐しているが、リュックの中身だけが全財産である引揚者には、剝ぐ皮すらない。
背に腹はかえられない。
ふたりは「偽調味料」売りにのっかることにした。
*
今この東京で商売を始めるのは簡単だ。
青空の下に物を並べれば、それが「店」になる。通りがかりの者が覗き込めば客となる。焼け野原に生きる人々はそうやって食い扶持を稼ぐようになり、かつての繁華街や駅前には自ずと小さな「店」が集まってきて「闇市」のできあがりだ。
錦糸町にも闇市は立っていたが、このあたりで最もひとが集まるのはなんといっても「上野」だろう。赤城たちもそこに「店」を出すことにした。
「すごい……」
群青は賑わいに圧倒された。
物資不足とさんざん言われていたのに、どこにこれだけ物があったのか。「闇市」などと字面はいかにも暗く秘密めいているが、実際は青空のもと、賑やかなものだ。
物が溢れる光景は人心も活発にするのだろう。行き交う人々で道はいっぱいになり、店先を覗き込む者、値段交渉する者、呼び込みする者。どこからかうまそうな匂いも漂ってくる。大人気の〝進駐軍の残飯〟で作ったシチューには腹を空かせた復員兵たちが群がっている。「あれだけは食うな」と忠告してきた近江は一度それを食べたらしく、こんにゃくと思って食べたものがなかなか嚙みきれず、口から出したらコンドームだった、という笑えないオチを披露して自分で笑い飛ばしていた。
闇市の活気に、群青は興奮していた。物を手に入れるには配給の列に黙って並ぶのが当たり前だったから、商品がよりどりみどりでその気になれば何でも手に入る闇市は、夢のような場所だ。
どこもかしこも焼けていまだ瓦礫は手つかずのまま放置されている。荒廃した街に皆無だったものといえば、活気だ。ひとの活力だ。人々は空きっ腹を抱えて元気もなく、歩調も緩慢で、目にする群衆といえば殺気立っているか、さもなくば疲れきって虚ろげにうつむく人々ばかりだったから、ここはたとえるなら、暗雲から陽が差し込んだかのような場所だ。群青は高揚した。
内地に来てからずっと暗く塞いでいた群青も、場の熱気にあおられて、気がつけば、めまぐるしく立ち働いている。
「おい、群青。次の袋も開けとけ」
赤城が大きな声で呼びかけた。彼に対しては相変わらず気を許そうとしない群青だったが、忙しすぎて、もはやそれどころではない。
「毎度あり」
赤城は生き生きとした表情だ。決して商売人というタイプではないが、それまでの鬱屈を吹き飛ばすように笑顔で客に向かう。こんなにも快活に笑う男だったとは。
近江勇吉の狙いは当たった。
それまで出回っていたのは質の悪い旨味調味料ばかりで、純度の高い「一級品」は、工場が焼けたりして昨今なかなかお目にかかれなかったから、闇市に現れた「味乃源もどき」にはひとが群がった。戦時中からヤミ価格が高騰していたほどの人気商品だけに面白いほど売れた。
はじめは量り売りしていたが、近江がどこからか古紙を手に入れてくると、あらかじめ個包装したものを用意できるようになり、客の回転もあがって、さらに手にする者が増えた。店にはいつしか客が群がるようになっていた。
売り切れると群青は胸のすくような達成感に震えた。満塁打を打ったような最高の気分だ。
完売御礼で店じまいをした後は闇市をぶらつく。露天商の顔ぶれは様々で、中には復員兵や引揚者たちも見受けられた。自分たちのような行き場の無い人々が食い扶持のためにヤミ商売に手を染めたのだろうが、誰ひとりとしてそれをやましく思う者なんていないのだ。
そんな中、目につくのは「浮浪児」と大人たちが呼ぶ身寄りのない子供だ。おんぼろの服と饐えた臭い、戦争で親を亡くした孤児たちが上野には大勢いる。飢えた孤児たちは地下道に棲みついて闇市におこぼれをもらいに来ているのだ。雑踏の中で吸い殻を拾う子、ゴミあさりをする子。靴磨きをする子もいれば、大人さながら煙草を吸って花札に興じる子もいる。食べ物を求めて媚びる子もいれば、懐の財布を狙う子もいる。
一瞬、その孤児たちに自分の姿が重なった。
飢えやつれて「残飯シチュー」に群がる大人を物欲しげに見ている自分自身の姿が。
「蒸かし芋でも食うか。群青」
赤城の声で我に返った。
「駄賃代わりだ。腹減ったろう」
そうだ。この男がいるおかげで、自分はああはならずに済んでいるのだ……。
芋屋の店先には甘い匂いが漂っている。並ぼうとした時だった。向こうからやってきた国民服のいかつい男が、突然、立ちはだかるようにして止まった。
「赤城? 赤城壮一郎じゃないか」
国民服の男からそう呼びかけられた赤城は一瞬棒立ちになったが、すぐに破顔した。
「霧島じゃないか! こんなとこで何してる」
互いに肩を叩き合って再会を喜び合う。
「名古屋に帰ったんじゃないのか」
「家は空襲で焼けちまった。今はノガミ(上野)で満鉄の仲間と商売をやってる」
「商売だと?」
「俺も用事が済んだところだ。一杯どうだ」
霧島に誘われて、飲み屋に立ち寄ることになった。
飲み屋といっても木箱をテーブルと椅子代わりにした青空食堂だ。出てくるのはカストリ焼酎なる密造酒だった。
男の名は、霧島大悟という。満鉄の元社員で赤城の同僚だった。
群青は今に至るまで「赤城が本当に満鉄社員かどうかは怪しい」と半分疑っていたが、ふたりの会話を聞くにどうやら噓ではなかったようだ。同期だというが、霧島はずっと年上に見える。弁当箱みたいな四角い顔、よく張った鳩胸はいかにも鉄道屋の制服が似合いそうだ。低く太い声は騒がしい場所でもよく通り、一度笑うとやんちゃな子供のように人なつこくなる。
大人ふたりが近況報告をしあう隣で、群青はようやくありついた芋雑炊にがっついた。
「その少年は誰だ? おまえ、弟なんかいたか?」
「血は繫がってないが、弟分みたいなもんだ。名は群青」
いつのまにか弟分になっていることに群青は物申すべきところだが、芋雑炊に夢中だ。
「駅でアイスキャンディーを売っていた? おまえが?」
霧島のいかつい顔に似合わぬ「可愛い商売」に、赤城はぽかんとした。霧島はうなずき、
「仲間の実家が山手の料亭でな、進駐軍に店を接収される前に氷を持ち出してたんだ。みんな甘いもんに飢えてるからな。なかなか儲かったんだが、ここんとこ急に寒くなってきたせいで、さっぱり売れなくなってしまって」
かくかくしかじかと状況を語る。
「……実はな、国鉄の知人が俺ら満鉄の引揚者のためにガード下を提供してくれることになってね」
「へえ。うってつけじゃないか」
「そこに作業場兼店舗を出すつもりだったんだが、こう売れないとなると……何か他の商売を考えなくてはならん。おまえは何を売ってるんだ」
「化学調味料だ」
「味乃源か? よく手に入ったな」
「本物じゃない。もどきだ。同居してる友人が仕入れてる」
ふーん、と霧島は感心したようにうなずいた。
「販売はおまえに任されてるってわけか。ずいぶん信用されてるんだな。おまえが売上を持ち逃げするとは思わないのか?」
言われてみれば、確かに。ついこの間まで赤の他人だった男を(いくら地主と借り主のような間柄とはいえ)よく信用できるものだ。
「面白い男なんだ。手先が器用で何でも自分で作っちまう。発想力と洞察力がある」
「その洞察力でおまえを信用したわけか」
「少なくとも俺は売上金を持ち逃げしたりしない」
ただ、と赤城は言葉を継ぎ、
「調味料は知り合いが製造してると言っていたが、実はよくわからない。軍の横流し品かもしれん」
「ああ、よく聞く話だな。旧軍のおえらいさん方は軍の物資を大量に横領して儲けてるそうだ。目端の利く官僚どもも、戦時中から禁制品をたくさん隠してたそうじゃないか。物が無いなんて噓だよ、噓。あいつら、今頃は笑いが止まらないだろうな。ったく、庶民が食うにも困ってる時に」
人間の本性は非常時にこそ表れるというが、まさにそれだ。そいつらに比べれば庶民のヤミ商売など可愛いものだ、と霧島は茶碗の焼酎をあおった。
「俺らみたいな住むとこもない引揚者や復員兵は、毎日寝床を探して食いつなぐだけで必死なのに。ふざけんなよ」
全くだ、と赤城も焼酎をあおった。
「お国のためお国のため、とさんざん国民をあおって脅してきた連中は、一体どこに行っちまったんだろうな」
「大真面目にお国のためと思ってきた連中は飢えて、そう仕向けた連中は今頃悠々と札束を数えてるのさ。世の不条理ってやつだ」
だが、妬んでも詮無い。問題は目の前のことだ。
「アイスキャンディーがダメなら、一体なにを売ったらいいのやら」
「甘いもの、か。……群青。おまえなら何が食いたい?」
赤城に水を向けられ、群青はきょとんとした。
「寒くてアイスキャンディーが売れないなら、ただのキャンディーを売ってみたら?」
「飴か」
と霧島が身を乗り出した。
「そりゃいい考えだな。飴か、そうか。飴なら売れるぞ。原料は仕入れ先のメドが大方ついてるが、問題は製造方法だな」
「錦糸町の菓子屋街を頼ったらどうだ?」
赤城が閃いたように言った。
「菓子工場をやってた知り合いが空襲で生き残ってたのがわかって、数日前に連絡がとれた。近々、仮工場を再開すると言っていたから、なんなら紹介してやろうか?」
「そりゃ助かる」
霧島は大きな声をあげた。
「渡りに船とはこのことだ。ぜひ頼む」
また数日後にここで落ち合うことを約束し、霧島は別れ際にこんなことを言い残した。
「赤城よ。もしこっちで仕事に就こうとするなら、加藤さんを頼れ。面倒見ると言ってくれてる」
「加藤さん……もう釈放されたのか?」
「ああ。色々あったから声はかけづらいかもしれんが、戦争は終わりだ。水に流せ」
「………。ああ」
ふと赤城の顔が曇った。
「心配かけて悪いな。ありがとう」
会話の意味は、群青にはわからなかったが。
霧島を見送る赤城の表情には、それでも数日前にはなかった活力が漲っている。生きる算段がついたわけでは全くなかったが、細いながらも先に繫がる糸をたぐり寄せた。
先が見えない今、どんなにか細い糸でも手放せない。失えば奈落に落ちる怖さが常にある。
抜け目なく行動せねばならないこの状況で、赤城という男の言動には裏がない。少なくとも群青にはそう見える。自分より困っている者を見ると損得抜きで動くし、そうすることに迷いがないのは危なっかしくもあるが、度胸の証ともとれた。そんな性分が人を惹きつけるのか、赤城を慕って顔を出す同業者や馴染み客まで現れ始めた。
出会った時は寡黙でいつも重苦しそうな顔をしていたから、なんだか別人みたいだ。もっともあの状況で明るい顔をしていられる者などいるわけもないが。
ただ、赤城を「重苦しく」させていたのは、先の見えない不安だけではないはずだ。
〝ごめんね。群青。
強く生きていくのよ〟
あれから母のことには一言も触れていない。
母からの「遺言」を受け取って死の瞬間に立ち会ったなら、なぜその時のことを教えてくれないのか。やましいことがないなら語れるはずではないか。あの時、甲板にいた赤城は暗くギラついた目で群青を睨み返してきた。𠮟責するかのように。
獰猛なオオカミのようだった。
どっちが本当の赤城なのだ?
赤城は俺を人買いに売り飛ばすためにわざわざ連れて歩いていたのではないのか?
この男が母を突き落とした? 本当に?
そんなことができる男なのだろうか。
できたのだとしたら、なぜ。
*
「おかえり、グンちゃん」
バラックでは佳世子が夕飯の支度をして待っている。人なつっこい笑顔は、内地に誰も知り合いのいない群青を何より安心させてくれる。
ついこの間まで赤の他人だった者同士の、奇妙な同居生活は、そろそろ一ヶ月になる。
集めた資材でバラックも「建て増し」し、「小屋」からだいぶ「家」に近づいてきた。建具も据え付けられ、戸ができ、棚ができ、部屋もできた。薄い雑炊には芋が入り、ねぎが入り、きのこが入り……と日に日に具が増えていく。
おかげで佳世子の顔色も少しずつよくなってきた。
「おーい、グン。ちょっと手伝え」
近江に呼ばれて表に出ると、赤城と共にリヤカーから大きなドラム缶をおろしているところだった。
「今からドラム缶風呂を作るぞ」
待望の風呂だ。小屋の裏手にブロックを積んで薪をくべられるようにしてある。五右衛門風呂を作ろうと思い立った赤城たちだ。
「もうすぐ正月だしな。せめて、さっぱりと身ぎれいにして迎えたいじゃないか」
営業している銭湯は限られている。そこに皆が押しかけるから芋洗いどころの騒ぎではない。湯船はお世辞にもきれいとは言えないし、脱衣場で下着を持っていかれた群青は、こりごりだと思っていたところだ。
「待ってろ、佳世子。風呂であったまってから寝られるようにしてやるからな」
赤城と近江の間には、いつしか運命共同体の絆が芽生えている。共にこの焼け野原でサバイバルをする仲間なのだ。いつもああでもないこうでもないと言いながら、少しでも住み心地がよくなるよう工夫を重ねている。
「試しに沸かしてみるか。グン、一番風呂に入れてやるから水くみを手伝え」
「わかったよ。カヨちゃん、待ってて」
露天のドラム缶風呂は火加減が難しく、熱すぎたりぬるすぎたり大騒ぎだったが、肩まで浸かれる湯を独り占めできるのは格別だ。
「どうだ。群青。湯加減は」
赤城が薪をくべながら訊ねる。湯にはドラム缶にこびりついていた油が浮いたりもしているが、気にしていられない。ドラム缶に収まった群青は半分、とろけた餅のような気分でへりにもたれ、
「うん、ちょうどいいよ……」
「気持ちいいか」
「もう最高……」
ぐんにゃりとなりかけて、ふっと我に返る。いけない。風呂ごときでほだされてたまるか、と姿勢を正す。
「星がきれいだなあ」
赤城が夜空を見上げて呟いた。焼け野原の下町はまだ電灯が少ない。上野や銀座、山手のほうの明かりが遠くに見える。
以前……、と赤城が口を開いた。
「ソ連との国境近くの村を訪れた時を思い出す。あの時も満天の星だった」
「国境の……? なんでそんなとこに?」
「まあ、仕事だ。なんにもない平原に星の光だけが溢れる光景は、押し潰されそうで少し怖かったが、自分は地球という船に乗って宇宙を旅してるんだって実感した」
見かけによらずロマンチストなのか。赤城はしみじみと言った。
「だが、その船の中じゃ乗客同士が殺し合ってる。俺たちは……何をやってんだろうな」
途方に暮れたように、赤城は遠くの明かりを眺めている。
「あんたの会社は、なくなっちゃったの?」
「満鉄はマッカーサーの命令で解体された。鉄道は中国の長春鉄道に引き継がれて、同僚の中にはそのまま留用されたやつらもいるが、進駐してきたソ連軍はひどいもんだ。ありゃ接収なんてもんじゃない。機関車も機械も使えるもんは根こそぎ国にもってっちまうくらいだからな。惨状は推して知れだ。残るも地獄、帰るも地獄……ってとこかもな」
木枯らしに吹かれる赤城の横顔を、焚き火が照らしている。パチ、パチ……、と薪が弾ける。湯気に滲むその顔はいつになく無防備を晒しているように見えた。
「ねえ……。あのさ」
なんで母さんは……。
問いは喉までこみあげたが、続く言葉がうまく出てこなかった。真実にこれだけ飢えているのにどうしてはっきり問いかけることができないのか。それとも知るのが怖いのか?
群青の胸中に気づいているのか。湯気の向こうの赤城は黙って何か考え込んでいる。母のことを思い浮かべている。そんな気配がした。今問えば答えが得られそうな気がした。群青はもう一度、声を発しかけたが──。
遠くで響いた列車の警笛に妨げられた。
赤城は我に返ったように顔を上げ、群青のささやかな勇気はあっさり挫けて、縮こまるように首まで湯に浸かった。
赤城は腰を上げると、ポケットから白い固まりを取りだした。
「ほら、石鹸だ。これでよく体を洗え」
「配給品? よく手に入ったね」
「いや。闇市で調味料と物々交換した。石鹸も近頃どんどん値上がりしてるから大事に使えよ」
と言うと、群青の掌に石鹸を渡した。
「……それと。今はまだそれどころじゃないが、春にはどうにか学校にも行けるようにしてやるから、それまで辛抱してくれ」
群青は驚いた。……学校?
学校に行けるのか?
「俺のことも〝兄ちゃん〟って呼んでいいぞ。いつまでも〝あんた〟呼ばわりじゃ、他人行儀だしな」
よくあったまれよ、と言い残し、ポケットに手を突っ込んでバラックに戻っていく。その後ろ姿には木枯らしが似合う。
──おまえさんのこともどこかに売り飛ばす気かもしれん。
群青を惑わせてきた「博多駅の男」の言葉は、オイルの浮かぶ湯に溶けて、消えた。
焼け跡には三角形の小屋が並ぶ。夕闇に炊煙が幾筋も立ちのぼっている。焼け跡でもここを暮らす場にできる者はまだいい。行くあてのない引揚者は防空壕や橋の下、寺や神社の境内を住処にしているという。
群青の身の上も彼らと同じだ。赤城がいなければ孤児院にいた。さもなくば、博多の浮浪児になっていた。今だって生きることもおぼつかない浮草だけど、こうして「おかえり」と言ってくれる妹のような子がいて、自分たちだけの風呂にも浸かれている。こんな自分はやはり幸運なのだ。ありがたいと思うより後ろめたいのはなぜだろう。
ドラム缶風呂から上野方面の明かりを眺める。闇市でこちらを見つめていた浮浪児は、風呂なんか入れない。あの明かりのもとで今も寒さに震えている。
赤城がこんなにも甲斐甲斐しく自分の面倒を見てくれるのは、罪滅ぼしなのか。
いくら面倒見がいい男だとはいえ、ただの親切なはずがない。
今日まで赤城には心を許さず、言動の裏にある真意を読み取ろうと必死に目をこらしてきたが、どこをどう解釈しても「博多駅で会った男」が言っていた赤城像と、目の前にいる赤城が重ならない。
赤城は母の「最後の伝言」を持っていた。あれは確かに母の字だ。少なくとも母はあれを赤城に託してから消えたのだ。それを書いたのがどの時点だったかはわからないが「自分が息子の前から去って二度と戻らない」ことを覚悟していた証だ。赤城が殺意をもって母を船から突き落としたなら、そもそも「伝言」があること自体おかしい。
やはり自分から身を投げた? 赤城のような面倒見のいい男が他人の身投げを止めないはずがない。それをしなかったのなら、なぜ? 見て見ぬふりをした? それとも身投げを「幇助」した? 母が死ぬ理由を知っていたからか? 死ななければならない理由も知っていたのか? まさか何かの「粛清」ではあるまいか。あのふたりの間に何があったのか。母の「消失」の経緯には、きっと群青には言えない「理由」がある。
だから自分の面倒を見てくれるのか?
「……〝兄ちゃん〟……か」
呟いてみると、胸の奥にマッチの火がぽっと灯った感じがした。
いいや、ちがう。俺は仇を討つためにあいつのそばにいるんだ。俺はあいつを許してはいけないんだ。……そう思い込むことで堂々巡りを押さえ込む。この「後ろめたい幸運」を享受している自分を受け容れる。
「あいつのおかげだなんて、誰が思ったりするもんか……」
群青は無心で石鹸を体にこすりつけた。
*
その日も闇市の調味料屋は繁盛した。
赤城は知人に会うと言って出かけ、店先には近江が立った。赤城よりも小器用で商魂たくましい近江は物価高騰に乗じてちゃっかり値上げを重ねていく。文句を言う客もいたが、それでもよく売れた。
「大丈夫なのかい? 近江のアニキ」
「売れる時が商機。逃す手はないってね」
そんな店先を物陰からじっと見ている子供がいる。おんぼろの服と汚れた裸足……この界隈の浮浪児だろう。数日前も、ああしてこちらを見つめていた。やけに思い詰めた目つきをしていて気にはなっていたのだが。
群青たちが客の応対でほんの少し、目を離した時だった。
「おい盗ったぞ!」
誰かが叫んだ。店先に並べていた調味料の袋をごっそり抱えて、逃げ出したのは、さっきの浮浪児だった。
「追え、グン!」
近江が叫ぶより早く走り出している。人の波にまぎれこんで逃げていく子供を、群青は追いかけた。だが雑踏の流れに押し負けてなかなか追いつけない。
「おい待て! 誰かそいつを捕まえてください!」
小さな体は群衆の隙間を縫っていく。どんどん距離を離される。露店の並ぶ界隈からガード下に逃げていき、ほどなくして見失ってしまった。
「くそ……っ。どこだ」
頭の上を列車が通過する。轟音にまぎれて雑踏の声も途切れたその時だった。
人混みの向こうに、群青は見た。
見覚えのある復員兵がいる。片眼を眼帯で覆った中年の男だ。やせこけた頰、やけに骨張った鷲鼻に、皺に押し潰されそうになっている小さな目。
あの時の男だ。
博多駅で群青に声をかけてきた、あの。
──俺は見たぞ。あいつがおまえの母親を海に突き落としたのを。
「おじさん、待って!」
群青は叫んだ。盗んだ子供を追うのも忘れて、今度は独眼の復員兵を追いかけ始めた。
「待ってくれよ、おじさん! 訊きたいことがあるんだ!」
人混みをかきわけて追いかける。だが声はまた列車の轟音にかき消され、届かない。
本当に見たのか?
本当に赤城が母さんを突き落としたのか?
それは本当に赤城だったのか?
もっと詳しく聞かせてほしい。ここで見失ったら二度と会えないかもしれない。群青は必死で追いかけた。
「待ってくれ、話聞かせてくれよ! おじさん!」
だが復員兵の後ろ姿は人混みに飲み込まれていく。人の流れを体で押しのけ強引にかき分け、群青は必死で手を伸ばす。
とうとうその腕を摑んだ。
振り返った男を見て、群青は固まった。
「なんだい? 君」
あの男ではない。摑んだ腕は別人のものだった。
独眼の男はもう姿も見えない。群青は一瞬惚けて、すぐに頭を下げた。
「すいません。人違いです」
結局、商品を盗んだ子供も取り逃がしてしまった。近江にどやされるのを覚悟して店に戻った群青を待っていたのは、信じがたい光景だった。
店が荒らされている。
商品を並べていた台はひっくり返り、めちゃめちゃだ。商品はひとつ残らずなくなっている。誰かと争ったに違いない。
しかもそこに近江の姿はない。
「何があったんだ。近江のアニキは!」
「連れてかれたよ」
隣で店番をしていた漬け物売りの年配の女が面倒くさそうに言った。巻き添えを食ったらしく、店先がさんざんな有様だ。迷惑そうに倒れた箱を直しながら、
「お宅の兄さんなら連れていかれたよ」
「連れてかれたって、誰に」
「ありゃ、パクの旦那んとこの若いのだね」
パクの旦那? と群青が訊き返す。
「このシマを仕切ってるヌシみたいなもんだよ。顔を貸せって言い争って、一暴れした挙げ句、この有様だ。あんたんとこの兄さんはちょっと儲けすぎたみたいだね」
群青は絶句した。
大変なことになってしまった。
*
「なんだと! 近江がパクの舎弟に連れてかれた!?」
話を聞いた赤城は血相を変えた。
群青はおろおろするばかりだ。佳世子には聞かれたくなかったから、帰宅する赤城をバラックの前でずっと待っていた群青だ。
「どうしよう。こんな時間になっても帰ってこないってことは、きっとまずいことになってるんだ。ひどいことされているかも」
「パクのとこの若いの……か」
赤城は記憶を辿るように口元に手を当てた。
「もしかして、あの男か……?」
「知ってるの?」
「ああ。パクの子飼いで強面の若頭がいると。みかじめ料の取り立てが容赦ないらしい」
赤城たちが店を出している界隈は、決して自由な市などではない。場を取り仕切る者がいて出店者から場所代をとっている。その分、用心棒として手下の若い男が配置され、客やよそ者とのトラブルから守ってくれるのだが。
「パクのとこはアガリがいいところからの取り立てがきついらしい。近江のやつ、それで何か面倒なことになったのかもしれん……」
あたりはもう真っ暗だ。夜になっても帰ってこない兄を佳世子が心配し始めている。
「なんとかするさ。とりあえず、カヨちゃんには、近江は泊まりがけの急な用事で遠出してると伝えておいてくれ」
「伝えて、どうするんだい?」
「俺が行く」
赤城は毅然と言った。
「おまえはカヨちゃんのそばにいてやれ。俺が話をつけてくる」
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