四堂蓮人のお弁当事情

俺の朝は、弁当用の卵焼きを焼くことから始まる。卵2個を割ってかきまぜ、砂糖と市販の麺つゆを少し。いわゆるだし巻き卵というやつだ。簡単な割に美味いし、弁当箱の中でも存在感を発揮する優秀なおかず。
「でも、ワンパターンだよな……」
焼き上がった卵焼きを切り分けた俺は、ひとり、つぶやいた。
時刻は朝6時半。弁当作りと朝食は同時進行で、7時前には登校の準備が終わる。
母は四年前、俺が中二のときに他界した。たったひとりの弟は障害があり、現在は施設に入所している。父は仕事が激務で、平日は帰宅しない日もある。
そのため、食事に関することは、基本的に自分でやっている。
弁当も高校入学時から当たり前に自分で作っているので、今まで、内容について深く考えたことはなかった。
しかし最近は彩りなんかも気にするようになっている。
まあ、原因はわかっている。
「うわあ、四堂君のお弁当、今日も美味しそうだねえ!」
宇野麻莉亜が、人の弁当を必ずチェックし、大袈裟に褒めてくるから。
「おお、よしよし。今日も定番の卵焼き、と」
とか言いながら、必ず一切れは取っていく。
宇野は学年一可愛いと言われ、友人も多い。そんな彼女と俺はひょんなことから「付き合っているフリ」をすることになり、昼食も二人で食べている。
場所はたいてい、体育館倉庫裏。そこには枯れたソメイヨシノの大木がある。景観的にも昼食を食べるのにベストな場所とは言えないが、人が滅多に来ないのが、俺たちにとっては都合がいい。聞かれては面倒な話をすることが多いから。
「四堂君、そろそろ女子が苦手じゃなくなってきた?」
「……いや。まだ」
俺は病的な女嫌いであることを宇野に打ち明けている。そして、来年の誕生日までに、誰かに恋をしなければならないことも。
18歳までに恋をした経験がないと、死んでしまう可能性が高いから。
「今日はこの、アスパラの肉巻きをあげよう」
彼女は自分のおかずもくれる。もっとも彼女の弁当は、毎日、父親が作っているらしい。
宇野は俺の作る卵焼きがひどくお気に入りだ。それを知っているから、卵料理は必然、同じものが続いている。
しかし、そんなある日、事件は起きた。
朝、いつも通りに卵焼きを焼くべく、冷蔵庫を覗くと、卵が切れていた。
そうだ……昨日、買い物に行く予定でいたのに、忘れていた。
どうするかな、と空の弁当箱を前にしばし悩む。昨夜の残りの肉野菜炒め、ウィンナー、作り置きしてあるきんぴらごぼう……まあ、作れるな。
でも、宇野は、がっかりするだろうな。
俺は、唐突に、すべてが面倒になってしまった。毎日まいにち、焼き続けている、同じ卵焼き。
なんだか自分が滑稽な気がしたんだ。
なにをそんなに、神経質に、同じものを作り続ける?
俺は、なにを恐れてるんだ?
馬鹿馬鹿しい。
たかが弁当だ。たかが卵焼きひとつだ。
その日の昼休み、俺は購買でパンを買い、体育館倉庫裏まで行った。宇野はすでにそこにいて、ひとり、段差のところに腰掛け、例の、枯れた桜を見上げていた。
離れた場所から見る宇野は、いつもと様子が違う。背筋を伸ばし、なにか厳粛な面持ちで桜を見ている。
ちょっと声がかけられない雰囲気だった。
しかし、宇野の方が先に俺を見つけた。
「遅かったね、どうしたの?」
普段通りの宇野の笑顔。俺はなぜかほっとして、彼女のそばまで行く。
「購買寄ってきた」
「え、お弁当じゃないの、初めてだね」
「あー……、寝坊しちゃって」
宇野はじっと俺を見つめてくる。大きな瞳にはいつも、不思議な光が宿っている。
「わたし、予備の割り箸、持ち歩いてるよ」
「え?」
「だから半分こしよう」
宇野は自分の弁当箱を開くと、蓋の方におかずや白米をどんどんと豪快に乗せはじめた。
「いや、いいって」
「君がうちのおかずを食べられることは、とっくに実証済みだよ」
それは、普通に美味いから。
「そうじゃなくて、なんか悪……」
「前に言ってたじゃん。購買のパンとか買えば楽だけど、お弁当の方が好きだって」
「まあ、たまにはパンの日があっても……」
「それはそう。でも、四堂君、なんだか落ち込んでるっぽいから」
俺はバツが悪くなった。彼女の隣に腰を下ろすと、ややぶっきらぼうに訊く。
「……高三男子が弁当のことで落ち込むとか、本気で思ってる?」
「わたしだって、前にお弁当家に忘れた日、一日中パワーが出なかったもんね」
「どんだけ食いしん坊なんだよ」
「それだけじゃないよ。パパががっかりするとも思ったよね。せっかく作ってくれたのに」
俺は返す言葉を失い、笑っている彼女から目を逸らした。
「さ、食べよ食べよ。あ、今日唐揚げだから、わたしの方が一個多いけども」
言えなかった。弁当は普通に作れたけど、卵が切れていたために、すべてのやる気が失せてしまったのだと。
カッコ悪すぎて、つい無言になってしまう。それでも、彼女がわけてくれた弁当に、ありがたく箸をつけた。
二人でしばらく無言のまま、半分にした弁当を食べていたのだが、やがて彼女が前を向いたまま、言った。
「わたしさ、こんなふうに、四堂君とは、なんでも半分こできる関係でいたいよ」
俺は顔をあげて彼女の横顔を見た。
「どういう意味?」
「いいものだけじゃなくて、困ったことや苦しいこととかも、半分わたしに、わけてくれたらいいのにって思う。お弁当の卵焼き、ひょいって、わけてくれるみたいに」
宇野とこうして話すようになって、二ヶ月―――俺は彼女に、自分の過去のことを、まだ全部は打ち明けられていない。
「あ、重く受け止めないでよ? 四堂君、優しいからさ。人に、いいものしかシェアしないんじゃないかと思って」
「……優しいからじゃないよ」
正直でありたい。宇野には―――そして、自分自身にも。
「宇野を失望させたくない」
たかが卵焼きひとつのことではなかった。
彼女に、ほんの少しでも、弱みや、ダメなところを見せたくなかった。
がっかりさせたくなかった。
それは、彼女が弁当を作ってくれる父親を慮った理由とは明らかに違う。ただただ、身勝手な理由。
宇野はきょとんとした顔をしたのち、柔らかく笑う。
「そんな心配いらないのに。わたしは、一度近しくなった人を自分から嫌いになったり、がっかりしたりしない」
「……卵焼きがしょっぱくても?」
俺が抱えているのが、どんなに重いものでも? 宇野は俺を見つめたまま頷く。
「うん。しょっぱくても、苦くても、甘すぎても。がっかりしない。そうしたら、わたしの卵焼きをあげる」
「……お父さんが作ってんのに?」
「それ言っちゃう? パパの唐揚げ返せ」
宇野は、俺の手元から唐揚げをかっさらった。俺は文句を言い、宇野は朗らかに笑う。
「あ、お弁当半分あげたんだからそっちのパンも半分こね」
「……全部やるよ」
「えー、だから半分こだって!」
宇野は笑いながらコロッケパンを半分にしている。それがまた下手くそで笑う。
「……おっきい方もらっていい?」
「どうぞ」
大口を開けてコロッケパンに齧り付く宇野の横顔を見て、俺はふと、一人で桜を見上げていた彼女の様子を思い出した。
半分こ。
さっき、宇野は何を考えていたんだろう。少しだけ悲しそうで、苦しそうで―――それなのに、感情を抑え込んだような静かな横顔。
彼女の方こそ、その思いを、半分、俺に分けてくれるといいのに。
そんな風に考える自分がまた、不思議だった。
この感情に名前がつくのは、もう少し先の話だ。
【おわり】