【最終選考作品】奇天烈な一日(著:山口夏人)
午前十一時二十五分。大さじ三の水。大さじ二のしょうゆ。大さじ一の酒。大さじ一の砂糖。大さじ一のオイスターソース。小さじ二分の一の鶏がら。小さじ二分の一の小麦粉。これがレバニラの味付け。スマホで調べたレシピをそのまま書かれている通りに再現すれば料理は勝手にできていく。
「今日は何を作ってくれるのぉ」
足の悪い祖母が杖をコツコツと鳴らしながらキッチンを覗きに来た。
「レバニラだよ、ばあちゃん」
「あら珍しい」
珍しい、祖母の口癖だ。自身に馴染みのないものは全て珍しいのだ。珍しい、という言葉を僕は、祖母本人と同じように愛していた。
調味料をさじで量って混ぜ合わせていると、しょうゆを大さじ一入れたところで使い切ってしまった。あともう一さじ必要なのに。今から買いに行くのも面倒なので僕はこのまま作ることにした。もやしとニラを炒め、ニンニクとショウガも入れて香りを付け、良い具合になったら揚げ焼きしていたレバーを入れて、そこにさきほど混ぜ合わせた調味料を加える。火を止め、味見すると少し塩気が足らなかったので塩胡椒を軽く振って再び味見した。味に満足した僕はそれを大皿に移し食卓へと運んだ。
「ばあちゃんご飯できたよ」
「ああ、ありがとうね」
介護ベッドに座りテレビを見ていた祖母は、ゆっくりと立ち上がって食卓についた。
「美味しくできたよ」
「ほんとぉ、楽しみやわぁ」
祖母は震える箸で大皿からレバニラを取り、一度小皿に置いた。祖母は大皿から自分の口まで食べ物を運ぶだけの筋力がもう無い。自分もレバニラを大皿から取って食べた。しょうゆは一さじ足りなかったが味は問題なく美味しい。祖母もレバニラを口に運んだ。
「うん、美味しいわ」
「ほんと? やったね」
僕が祖母の褒め言葉に喜んでいると、それに被せて祖母が言った。
「けど……」
「けど、何?」
「しょうゆがもう一さじ足りないねぇ」
「えっ、」
ギクリとした。何でそれが分かったんだ。驚きすぎて何も言えずにいると祖母が立ち上がって固定電話で誰かに電話を掛けた。
「あ、もしもし、孫なんですけどね、レバニラのしょうゆをもう一さじ入れなかったみたいで、はい、はい、そうなんですよ、はい、お願いしますね、よろしくどうぞ」
訳が分からず立ち上がると祖母が叫んだ。
「なんてことしたのっ。おとなしくそこに座ってなさい」
「おばあちゃ……」
「お黙りっ」
一体何が起きてるんだ。僕はただレバニラにしょうゆをもう一さじ入れなかっただけだぞ。祖母に命令されるがままじっとしていると、少ししてからインターホンが鳴った。祖母が、はいはい、と返事をして居間から出ていく。玄関の方が賑々しくなったと思うと、祖母が大男を五人引き連れて戻ってきた。全員が青い制服を身に纏っていた。警察かと思ったがどうも違うらしく、皆、腕に黄色いバンドを巻いていて、そこには生活秩序取締委員会と書かれていた。
「あいつです」
祖母が僕のことをあいつと言った。あの優しいばあちゃんが孫の僕をあいつ呼ばわり? 信じられない。大男が二人、僕の腕を硬く締め上げた。
「どういうことだよっ。離せよっ。おばあちゃん、これどういうこと? 僕はただしょうゆをもう一さじ入れなかっただけだよ。なんでこんなことになるのっ」
しかし祖母は何も言わず俯いて頭を左右に振っただけだった。まるで失望したように。一体僕の何のどこに失望したんだ? 腕を摑む二人の大男が玄関へ引っ張るから、僕は足をばたつかせて抵抗した。椅子や食卓の脚に足の甲を鉤のようにして引っ掛け暴れると、二人の男は僕の身体をすっかり持ち上げ宙に浮かしてしまった。玄関を出ると家の駐車場に軽トラが停められていた。荷台部分に材木で組まれた十字架が立て掛けてあって、まさかと思っているうちにあれよあれよと手首足首を紐で結ばれて磔にされた。
祖母が号泣しながら三人の男たちに背中をさすられて軽トラの傍に立った。
「この馬鹿孫っ」
そんなに罵られることをしでかしたっけか。もしかすると気付いていないだけで、僕は重大な罪を犯したんじゃないか。
「おばあちゃんっ、僕が一体何をしたっていうんだよっ」
「それはあんたが一番よく分かってるはずだっ。しょうゆをもう一さじをレバニラに入れなかったんだろっ」
やはり僕の罪は、たったそれだけのことらしい。
ならますます今の状況が解せない。僕を磔にした二人の男が軽トラに乗り込み、祖母を慰めていた三人の男たちも荷台部分、僕の足元に乗った。クラクションが数秒鳴らされ、トラックが前進しはじめる。まるで出棺じゃないか。クラクションの音を聞いた近隣住民が軒先に顔を覗かせて僕を見ている。恥ずかしくって体をよじるけど手足が縛られていて大して動けない。なら自由な顔をと首を廻らすが、廻らしたさきにも人の顔があって目が合う。堪らなくなって目を閉じた。軽トラは唸りを上げて走って行く。
そろそろ良い頃合いだろうと目を開いた。だがどうだ、なんとまだ僕は自分の家から数十メートルの場所にいるじゃないか。家々の外観も、塀から溢れた木々の膨らみも、色褪せた飛び出し注意の人型看板も、全てに見覚えがありすぎる。それにさっきまで軒先で顔だけしか覗かせていなかったご近所さん一向が、今は列を成して軽トラを追いかけ、今に追いつこうとしている。しかし彼らは走っているわけではない。気持ち早歩きなぐらいだ。その気持ち早歩きな徒歩の人間に追いつかれてしまうほど軽トラが遅い。僕は足元にいる三人の男たちに尋ねた。
「ちょっと遅くないですか」
男たちはけれど何も言わず黙っていた。すると一人の男が荷台の脇に置かれていたビニール傘三本を他の二人にも配った。三人が傘を広げた。何が起こるのだろうと思っていると答えはすぐに分かった。いや、分かったというより飛んできたのだ。
「この野郎っ。罪を償いやがれっ」
軽トラを追いかけて来る人の群れの先頭の男、顔を知ってる、名前も言える、森本さんだ、森本さんが、僕に暴言と卵を投げつけてきたのだ。
「森本さんっ。僕何もしてませんっ。助けてくださいっ」
「馬鹿野郎っ。何もしてねえ奴が磔にされるかよっ」
「それはそうだけどぉ、そうじゃないんですよぉっ」
森本さんの真後ろの女性、主婦の東山さんが普段あんなに穏やかな表情を浮かべている顔をこんがらがった折り紙みたいにくしゃくしゃにして、怒気のこもった声で叫んだ。
「よくもこんなことしてくれたなあっ」
トマトが飛んできて僕に当たり弾けて潰れる。
「こんなことって言うけど、僕がしたこと皆さん知らないでしょっ。僕がしたことは、レバニラにしょうゆをもう一さじ入れなかっただけですよっ」
僕がそう言った瞬間、東山さんが悲鳴を上げてぶっ倒れた。間違えて魔法の呪文でも唱えたかと思い焦ったがすぐにそんなはずはないと考え直した。
「てめえ大罪じゃねえかっ」
叫んだのは元警察官の中川さんで、退職後は小物DIYに余生を費やしている人だ。
「どこが大罪なんですかっ。六法全書のどこにレバニラはレシピ通りに作らなければ磔刑って書いてあるんだっ。たとえ書いていても僕は認めないぞ。そんなトンデモ法律っ」
「くらいやがれっ」
ペッと言ってガムを吐き飛ばしてきたのは、今年小学五年生に上がった信吾くんだった。
「信吾くんまでそんな。一体何なんだよっ。説明しろっ。誰か説明しろっ、この僕にっ」
すると軽トラが加速しだした。僕に罵詈雑言をぶつけていた人の群れがどんどん離れて小さくなっていく。足元の男が背後に回り僕へ目隠しを付けて言った。
「ここからの道のりは極秘だ。よって目隠しをしてもらう」
そうして僕は真っ暗な視界の中、十字架越しに地面の凹凸を感じて揺られ続けた。
「着いたぞ」
目隠しが外され、日射しに目が眩んだ。慣れてきて周囲を見渡した。
「えっ、ここ学校じゃん。三之山小学校だろ。ここ通ってたからわかるって。なあ、ここ三之山だろ」
僕は男の一人に尋ねた。
「答えることはできない」
「何だよそれ。だから知ってるってここ。絶対に三之山小学校だよ。目隠しされてたけど道順も言えるぞ。駄菓子屋を右に曲がって、右側にアパートが見える道をまっすぐ進んで坂道を上ったら着くよここ」
「答えることはできない」
二人の男が僕を十字架から外し下ろした。そしてまた僕は腕を持たれ宙吊りにされた。学校の敷地に入っていく。碑文が刻まれた巨大な石も、黒くくすんだコンクリート造の校舎も、広いグラウンドに置かれたミニチュアみたいな鉄棒も、全て知ってる。
「やっぱ三之山だなここ」
僕はもう男たちに尋ねることはしなかった。確信したからだ。どうやら僕は体育館に連行されているみたいだった。これも見覚えのある体育館に僕は担がれて入っていった。
体育館の中には学生机が一辺数台で四角形に置かれ、その四角形の中央に椅子が一つだけぽつんとあった。僕は中央のその椅子にちょこんと座らされ、後ろで手を縛られた。体育館の左右の両開きの扉が同時に、大袈裟な音を立てて開かれ、小さな子供たちがぞろぞろと入ってきた。子供達は僕を中心として机で組まれた四角形に着席していく。皆黙って静かに腰を下ろす。不気味なくらいに静かにだ。全員が座り終えた。僕の目の前の一席だけが空いている。左側の外廊下から呻き声が聞こえた。
「ゔぅぅ、ゔぁぁ、ゔぁぁぅぅ」
声の主人が姿を現した。僕を取り囲んでいるのが子供だから、次も子供だろうと考えていたのが、そいつはおっさんだった。しかもそいつは紙おむつしか身に着けていない。紙おむつのおっさんは体育館に入り、僕の目の前の席に歩いてくる。足裏が湿っているのか足を踏み出すたびにぺちゃぺちゃ鳴る。おっさんは派手な音を立てて椅子を引き腰を下ろした。というか尻が落ちたというべきか、とにかくずっと鼻が笛みたいに鳴っているし、幽霊のように静かな子供たちの中で、おっさんだけが常に音を発し続けていた。
「開廷ぃぃぃ」
おっさんが気怠げに言うと子供たちが一斉に立ち上がり礼をした。
「ええとまずは、被告人の起訴内容を読みますわ。被告人は、祖母と自分のために作った昼食のレバニラに、しょうゆが大さじ二必要だったにもかかわらず、大さじ一しか入れなかったということらしいです。被告人、間違いないですかいな」
「ひこくにん? まあ、そうです、はい」
おっさんは左乳の下を搔きながら言う。
「では検察の西野くんどうぞ」
右列の体操服の男の子がすっと立つ。
「はい、被告人は令和七年七月七日午前十一時二十五分、しょうゆ大さじ一を入れたところでしょうゆを使い切り、無くなったのを視認したにもかかわらず、しょうゆを新しく買いに行くなどの行動を取りませんでした。被告人が作ったレバニラを鑑識に送って結果が出ましたが、やはりしょうゆは一さじしか入れられていませんでした」
その西野なる名の男の子の話を聞いているうち、やっと自分が裁判に掛けられていることを知った。そしてやはり罪状はしょうゆ一さじのことらしい。
「ふんふん、なるほど。そりゃやばいな。へー、そんなヤヴァイやつなんだ、こいつ」
とするなら、相槌を打ってるあの変態おっさんが裁判長か。
「……以上のことから、被告人は死刑が妥当だと考えます。私からは以上です」
「え、死刑?」
今、西野くんは死刑と言ったか? 僕はレバニラにしょうゆをもう一さじ入れなかっただけだぞ。
「おいっ、死刑って何だよ! たったしょうゆ大さじ一だぞ、い! ち!」
「静粛に。被告人静粛に。まあ仕方ないやろ。ここまできたら受け入れたらどうや」
裁判長のおっさんが言う。
「受け入れられないっ。到底受け入れられないっ」
「ああ、はいはい。今から君を弁護してくれる娘が喋ってくれるから、静かにな」
おっさんは左を向き言った。
「ほな弁護士の坂田ちゃん、どうぞ」
左列、赤いオーバーオールでメガネを掛けた女の子が立ち上がる。
「はい、確かに被告人はしょうゆが無くなったことを視認したうえでしょうゆを買いに行きはしなかった。ですがそれも仕方がなかったと言えます。なぜなら、一さじのためだけにこの暑い陽の下、わざわざスーパーなどまで赴きしょうゆを買うというのは、心理的葛藤が生じて然るべしと考えられるからです。今日の十一時二十五分は、気象庁からすでに熱中症注意報が発令されていました。実際、気温計は三十七度二分を記録していました。このことからも、被告人がしょうゆを買いに行かなかったのは、必然であると言え、無罪が妥当だと考えます。私からは以上です」
「三十七度二分ってほとんど微熱やん、アッツ〜」
おっさんが呟く。僕はもう弁護士の坂田ちゃんを応援するしかない。というか、死刑と無罪の振り幅は何だ。普通こういうのは死刑か無期懲役かじゃないのか。いや死刑も無期懲役も絶対に嫌なんだが。
僕は坂田ちゃんに頷いてみせた。頑張れの意を込めた頷きだったが、いくら頷いてみても坂田ちゃんは手元の資料に目を落としていて、僕の気持ちは届かなかった。
「じゃあ西野くん、反論はありますかいな」
「はい。気温が三十七度二分あったことは確かですが、被告人の家からしょうゆが買える最寄りの食料品店までは、自転車でおよそ五分程度であり、たったの五分程であれば、三十七度二分の暑さに曝されても人体には何らの影響もありません。つまり、被告人がしょうゆを買いに行かなかったのは、単なる怠惰なのです。身勝手で独りよがりな理由のために、被告人はしょうゆを買いに行かなかったと推察できます」
坂田ちゃんが乱暴に立ち上がった。
「そんなの暴論だ! 五分程度であっても体調を崩してしまう人はいるだろっ!」
子供らしからぬドスの効いた怒鳴り声に僕は肩を震わせてしまった。二十歳なのに、十歳近く離れているだろう子供にビビらせられるなんて。
「まあまあ落ち着いて坂田ちゃん、発言の許可はわてが与えますから、それまではおとなしくね」
おっさんに宥められて坂田ちゃんが腰を下ろした。
「続きいいですか」
西野くんが言う。
「はいどうぞ」
「そもそも料理を作る前にレシピを確認して、必要な調味料をひとところに集めておくことをしておけばいいものを、被告人は向こうみず無計画無思考で突発的に調理を始めてしまった。その時点で犯罪的です」
「おいっ、む三連続は被告人に対する侮辱だろっ、撤回しろっ」
坂田ちゃんがまたまた乱暴に立ち上がり、椅子が倒れた。肩で息をしている。目で人が殺せるぐらい恐ろしい顔をしていて、僕は思わず顔を伏せた。
「坂田ちゃん落ち着いて、ね」
おっさんは両手を開いてどおどおと言う。
「……下等な弁護士はすぐ感情的になるからいけない」
西野くんがぼそっと呟いた。背筋に寒気が走る。余計なことをっ。聞こえていないでくれ。坂田ちゃんに届いていないでくれ。心の中で僕は両手を固く合わせて祈った。
「なんて言ったっ、今っ!」
駄目か。坂田ちゃんは机を薙ぎ倒し僕の背後を駆け抜けていった。僕はその惨状を見ないようにと顔を背けた。音がする。机が倒れ椅子が吹き飛ばされる。雄叫びが聞こえる。雄叫びはしかし坂田ちゃんのものだから、じゃあそれは雌叫びなのか。まるでライオンが猛り狂っているみたいだ。
「やめなさい! 警備員止めろっ。早くっ」
勢いよく立ち上がるおっさんの両乳が揺れた。もうむちゃくちゃだ。
「こんなんなったんはお前のせいやからな」
おっさんが僕に向かって言う。
「やから死刑やっ。即刻死刑ぇぇぇぃ。あの世で反省せえ!」
「むちゃくちゃだっ!」
どこからか現れた屈強な男たち四人が僕のことを椅子ごと持ち上げた。僕を神輿として担ぐ四人の男たちは校舎内に入り階段を登っていく。僕はというと、死刑なんて嘘だろうと考えている気持ちが半分と、いや実際ここまで連れてこられてきたからにはおそらく死刑も本当か、と考える気持ちとが半分で、叫びたいし、逃げ出したいし、けれど後ろ手に縛られて、たとえどうにかこうにか紐が解けたとしても僕を担ぐこの四人の強そうな、そうそれは確かに僕なんかより数倍数十倍も強そうな男たちが、僕のことをいとも簡単に捕らえてしまうのだろうと思って、感情が押し寄せてきすぎて泣いていたし笑っていた。
「ええ、僕死ぬのぉ。死にたくないよぉ。まだ二十歳だよぉ。早いよぉ。ねぇ、早いと思わないぃ。ねぇぇってぇぇぇ」
男たちは僕の嘆願を意にも介さずどんどん階段を上がっていく。階段の踊り場に掲げられた習字には、希望、と書かれていた。学期目標も貼ってあり、仲良く話し合うクラスを作ろう! と書かれている。僕はそれを見て、ああ、この素敵な感性は大人になっていく過程のどこで無くしてしまうんだろうと思った。大人たちはまともに話を聞いてくれない。
四人の男たちと僕は屋上に出た。
「おいっ、もしかして落とす気じゃないだろうなっ」
男たちは柵へと近づいていく。空が青い。日差しが強くてまともに目が開けていられない。
「死刑、シッコオオオ!」
一斉に叫んだ男たちは僕を椅子ごと柵の向こうに放り投げた。
「うわああああああああっ」
僕は仰向けに落下していく。校舎の窓に僕の姿が反射する。屋上の柵が遠くなっていく。それなのに、空だけは変わらぬ距離で青いままだ。遅い。時間が遅い。死ぬ時というのは本当にスローモーションになるものなんだな。なんでレバニラにしょうゆをもう一さじ入れなかっただけで死ななくちゃいけないのか。それは最後まで分からなかった。きっと答えを知れたとしても、納得はできないのだろうと、僕は思った。
その時だ。
僕の体は思ったよりも早くに地面へ落ちた。その地面は柔らかかった。
「間に合ったぁ」
「へっ?」
首を廻らすと僕は色とりどりのビーズクッションの海に包まれていた。見たことのある顔が僕を椅子から解放してくれた。
「し、信吾くんっ?」
「はい、信吾です」
「なんでここに?」
それですよ。そう言って信吾くんは僕のズボンを指差した。見るとガムがべったりと張り付いていた。信吾くんが僕に吐き飛ばしてきたガムだ。
「実はそのガムの中に小型の発信機を入れてたんですよ。それを追ってきたんです」
そう言って彼は胸を張った。
「すごい! すごいよ信吾くん! 君は天才だ。アインシュタインなんかよりも、ホーキングなんかよりも断然賢い! 君は大大大の大天才だっ」
僕は周りを見渡して言った。
「でもこの大量のビーズクッションはどうやって集めたんだい?」
「クラスのみんなに呼びかけて、あるだけのクッションを集めたんです。それにこれも」
彼はビニール袋を差し出してきた。袋の中には百円硬貨がパンパンに詰まっていた。
「お、お金っ。これももしかして」
「はい、クラスの子たち、それに他のクラスの子からも一人百円ずつ集めたんです。六千円以上はあります」
「でもこのお金で何をすれば良いの?」
「それは決まってるじゃないですか」
信吾くんは僕の胸にビニール袋を力強く押し付けて、まっすぐ目を合わせて言った。
「レバニラを作り直すんですよ」
僕はビニール袋を受け取った。そうか、レバニラを作り直せば良いんだ。そうすれば全てが元通りになる。
「ほら行ってっ!」
背中を叩かれて僕は走り出した。駆けながら僕はレバニラの材料を思い出した。まず当然レバー、それにニラ。レバーの臭みを消すための牛乳が必要で、レバーを揚げ焼きするときに使う小麦粉や油はまだ家にあるから買わなくてもいい。レバニラに入れる材料は、しょうゆ以外はある。しょうゆだ。絶対に忘れてはならない、これだけは。
しかし走っているうちに段々と疑問が湧いてきた。信吾くんの熱量に押されて飛び出してきたはいいものの、レバニラを作り直したところで本当に全てが元通りになるのだろうか。あの瞬間は命をぎりぎり繋いだのもあって脳みそが沸騰したみたいになっていた。まともな判断力を失っていたのが、徐々に落ち着いてきて冷静に考えてしまうと、そんな根拠がどこにもないことに気がついてしまった。途端にスーパーへ向かっているのが怖くなった。けれどもう選択肢はこれ以外に無い。それにあの大大大の大天才の信吾くんがレバニラを作り直せと言ったのだ。従うしかないじゃないか。僕は行く。僕は行くぞ。
「レバニラああああああああああああ」
僕は絶叫しながらスーパーに突入した。
レバニラの材料を買うのは二回目なので無駄の無い動きで店内を移動し、レバーとニラとをカゴに入れた。そしてしょうゆが売っている場所の前に辿り着くと、僕は一度深く頷いてから手を伸ばした。手に取ったしょうゆが、僕には輝いて見えた。
セルフレジに行きカゴを置くと手早く商品を読み取った。支払いに現金を選ぶと、硬貨受け取り口に、信吾くんその他の英雄たちから受け取った大量の百円玉を一枚ずつ確かに飲み込ませていった。
「どんだけ〜」
近くを通った男子高校生の集団がそう言い捨てて行く。必要金額を満たしたところで支払いを選択した。ビニール袋の中の百円玉はまだいくらか残っていた。僕は買った商品を持って今し方通り過ぎていった男子高校生の集団に追いつき、その背中へビニール袋を投げつけて言った。
「こんだけ〜!」
啞然としている高校生を横目に通り過ぎて僕は帰宅を急いだ。
「おい待てよっ」
高校生が追いかけてきたので、僕は歩きから、早歩きときて、とうとう走り出して、一目散に家へと向かった。
「ただいまっ」
家に着いて居間へと入って行くと祖母が目を丸くして、顎が外れてしまったみたいに口を開いて動かなくなった。そりゃそうだ。祖母からすれば墓場から亡霊が戻ってきたのと同じなのだから。
僕はキッチンに立つと買ってきた食材を広げ、必要な調味料などもひとところに集めてから調理を始めた。まずレバーを牛乳につけ臭みを取っているうちに調味料を合わせておく。大さじ三の水。大さじ二のしょうゆ。大さじ一の酒。大さじ一の砂糖。大さじ一のオイスターソース。小さじ二分の一の鶏がら。小さじ二分の一の小麦粉。これらをボウルで混ぜ合わせてから次にニラを適当に切る。ここまで準備ができたら牛乳につけてあるレバーを取り出し、しっかり水気を拭き取ってから小麦粉を軽くまぶして揚げ焼きする。揚げ焼きができたらフライパンからレバーを出してニラともやしを炒めニンニクとショウガも入れて香りを付ける。良い具合に炒まったらそこへ揚げ焼きしたレバーを入れて合わせておいた調味料を加える。そしてとろみがでるまで火をいれたら完成だ。僕は完璧にできたレバニラを大皿に移して食卓へと持っていった。
「おばあちゃん。僕、完璧なレバニラを作ったよ」
箸を差し出すと祖母は無言で頷いて受け取り椅子に腰を下ろした。僕は唾を飲んだ。祖母がレバニラに箸を伸ばす。摑み、そして小皿で小休憩を挟むことなくそのまま口に運んだ。
「うん、美味しい。全部入っているよ。全部ね」
僕は膝から崩れ落ちた。
「良かったぁっ」
するとインターホンが鳴った。祖母がはいはいと言って立ち上がり玄関へと向かう。僕はぎくりとした。もう僕には願うことしかできない。戻ってきた祖母は手にビニール袋を持っていた。
「高校生の男の子が落とし物だって持ってきてくれたよ。優しい子たちやね」
僕は胸を撫で下ろした。涙が溢れてきて止まらなくなり呼吸がしゃくり上がる。
「なに泣いてるんよ。ほら白ごはん入れて一緒にレバニラ食べよう。食べへんかったら痩せるよ」
「うん」
また正しく時間が動き始めた。全てが正常に戻った。僕は笑った。生まれたてのキリンみたいに膝が震えることがおかしくって、いつまでも笑っていた。
【おわり】