きみが金魚を盗んでも
私にとって、小学校のころのゲンジは甘ったれで面倒くさい泣き虫だった。分かれ道の十字路にさしかかると、いつも帰りたくないひとりは嫌だとぐずる。
ゲンジのお母さんは帰りが遅い。お姉さんのようにもおばさんのようにも見える人で、たまにすれ違うときつい香水のにおいがした。暗いアパートにひとりで帰るのが嫌なゲンジは、しょっちゅう私相手に「時間稼ぎ」をした。
「お留守番が多くてかわいそうだから優しくしてあげて」と家族からも担任の先生からも言われていた私は、家が近いというだけでゲンジの寄り道に付き合わされたり、ゲンジのアパートまでグーパージャスで送ったりした。
ゲンジは民家の生垣になった木苺や、所有者不明の木から桑の実や、他にもそのへんにある果物を勝手にもいで私の気をひき、ひとりぼっちの時間を少しでも減らそうと画策していた。
木苺と桑の実は簡単にとったと思えないくらい甘かった。広場の木になっていたきんかんはすっぱくて涙が出た。駐車場に落ちていた柘榴は食べるところが少ない。スーパーには置いていないいろんな果物を私はゲンジで覚えた。おいしいと言うと、ゲンジはガタガタの歯で笑い、際限なくそれらを収穫した。泥で汚れたゲンジの手は同い年とは思えないくらい小さく、涙と汗と鼻水で湿っていた。
そんな泣き虫でも、つるむ相手次第でずいぶん変わる。中学にあがり、一学期の序盤にはもう、ゲンジはかなり悪い先輩たちのグループにいた。未成年なのをいいことに度を過ぎたいたずらを繰り返す先輩たちはゲンジが放つひとりぼっちのにおいを敏感に嗅ぎつけ、自分たちの中に取り込んだ。
ゲンジが自販機やコンビニまでパシられるところは何度も見た。グループの中心人物である三年生のリュウキ先輩には名前を覚えてもらえないらしく、チビと呼ばれていた。一方でみんなからかわいがられてもいた。似合わないじゃらついたネックレスは先輩にもらったお下がりだったし、髪も先輩に染めてもらっていた。なにより先輩たちは夜までゲンジと一緒にいる。どんなに夜遅くてもコンビニ前の駐車場で、駅前のロータリーで、公園で、ひとりぼっちの時間を一緒につぶしてくれる。
先輩たちに混ざって笑うゲンジはひとりだけ小柄だったが、態度だけはどんどんでかくなっていった。いつのまにか一人称は「ぼく」から「俺」に変わっていたし、私の呼び方は「ナナちゃん」から「ナナ子」になった。
「よっ、ナナ子」と馴れ馴れしく肩を叩かれた日。
私はゲンジと縁を切ることにした。
縁を切る必要があると思った。
先輩たちの目を盗んでゲンジを呼び出し、約束させた。
私たちの憩いの場である、たま爺の金魚小屋には金輪際近づかないこと。
「なんで!?」
ゲンジは威勢よく噛み付いてきたが私は流した。
理由を話してもどうせゲンジにはわからない。ついでに学校で会っても私に話しかけないでほしいとも言った。
ゲンジは不服そうだったが、昔からの力関係は健在で、「つべこべ言うな」と私が威圧すると泣き虫時代のおろっとした表情を一瞬見せ、わかったよ、とサマにならない舌打ちをした。
ローファーが濡れないように、水溜まりを避けて私は小屋の奥へと進む。水槽をのぞくと、たま爺が撒いた餌を金魚がぱくぱくと食べていた。どの金魚もぎりぎりのところでぶつかり合わずに上手に自分のぶんを見つける。子どものころから何百回と見てきた光景なのに、どれだけ見ても不思議と飽きない。
「ほら、お前にもこれやろう」
じっと見ていると、たま爺が隣の母屋からアイスをとってきてくれた。たま爺は小屋と軒先がくっつく近さの小さな母屋にひとりで暮らしている。うんと昔はお弟子さんが金魚小屋を手伝っていたらしいが、今はもういない。
「たま爺、これ半分食べない?」
いつもの細長いアイスを真ん中のくびれでパキッと折って、片方をたま爺に差し出す。
「いらん」
太るなあと思いながら、私は両方を平らげる。ゲンジがいるときは半分ずつにできてちょうどよかった。一本まるまるだと少しだけお腹が冷える。
ゲンジに来るなと言ったことは、たま爺には伝えていない。来るもの拒まず去るもの追わずなたま爺は、ゲンジの足が遠のいたことをとくに気にしていないようだ。
「さてと」
たま爺がジョウロを持って小屋の外に出る。
ゼラニウムの花に水やりするのだ。金魚によく似たその赤い花はバスケットボールくらいの大きさの鉢から溢れるように咲いていて、だいたい小屋の外の、日の当たる場所に置かれている。それも昔から変わらない。
ここにくるようになったきっかけは、ゲンジの回り道だった。
小学校二年生だった。私はほとんど毎日ゲンジの「時間稼ぎ」に付き合わされていた。
あの日、ゲンジはとつぜん立ち止まった。
「ぼくのママ、赤い花好きって言ってた」
譫言のようにつぶやいて、開け放たれた門扉の向こうにあるゼラニウムの鉢に近づいていった。ゲンジは桑の実や木苺をとるときと同じ、だけどそれ以上に切実な目をしていて、私は焦った。
「ゲンジ、やめよう」
「でも、いつもぼく果物をとってるから」
ゲンジの両手はすでに鉢に添えられていた。
「果物はいいけど、花はダメだよきっと」
ほんとうは両方ダメなのだが、そのときの私は花を盗むほうを大罪のように感じ、必死で止めた。
揉み合う気配を聞きつけたのか、それとも偶然か、とつぜん、小屋の扉が開き、老人が顔を出した。
「花より綺麗なもん見ていくか」
それがたま爺だった。たま爺は表情を変えず、身をこわばらせる私たちを小屋の中へと促した。
小屋の中にはたくさんの水槽が並んでいた。私が最初に見たのは、病気のように両目の下が腫れた魚だった。
「水泡眼だ」
たま爺は言った。中国から来た高級金魚で一匹五万円くらいの値打ちがあるらしい。泳ぐたびに目の下でくらげのような袋が揺れる。その隣の水槽にいる鯉のように大きな魚も金魚だし、さらにその隣にいる小さいふぐのような魚も金魚。ここはほうぼうから集められた金魚たちを育てる小屋で、いつかまたほうぼうへと散らばっていくのだと聞いた。
ほんとうに花より綺麗かどうかは置いておいて、その日から私たちは学校が終わるとまっすぐたま爺の小屋へ行くようになった。ゲンジはもう余計な「時間稼ぎ」をしなくなった。桑の実や木苺をとることもなくなった。ゼラニウムの鉢のことは気にしていたが、一度鉢ごと持って帰ろうとして、たま爺からゲンコツを食らいあきらめた。
「この鉢がなくなると困る奴がいるからな」
たま爺がそう言って鉢をずらすと、鉢の受け皿に錆びついた鍵が乗っていた。かつてお弟子さんが使っていた小屋の鍵で、当時からそこが定位置だったという。
「だらしないやつだったからな。鍵を忘れたときのためにここに置いてた。ここに置いときゃあ水やりも忘れないなんて言ってな」
今ごろどこかでのたれ死んでるかも知らん、そんなふうに言いながらも、たま爺はその人のために鍵を置いたままにしていた。
夏休みが始まると、ゲンジの髪は茶髪から金髪に変化した。また先輩たちに染めてもらったのかもしれない。遠くから見てもわかるくらいきらきらだった。
相変わらず溜まり場はコンビニの駐車場や駅前ロータリーと目につきやすい場所で、私はたびたびゲンジを見かけた。とうぜん知らんぷりする。ゲンジもいちおう約束を守る気はあるのか、声をかけてくることはない。ゲンジの視線はいつも先輩たちのほうを向いていた。
夏になると不良は加速するものらしく、あの先輩が万引きしたとか、あの先輩がタバコで補導されたとか、しょっちゅう物騒な噂が流れてきた。
『先輩、警察つれてかれたって』
七月が終わるころ、クラスのグループラインに速報が入った。リュウキ先輩の指示で二年生の先輩二人が、近くの畑から野菜を繰り返し盗み、フリマサイトで転売したらしい。たまりかねた農家の人が監視カメラを設置し、ようやく彼らの蛮行は止んだ。
『あのへんの農家みんな監視カメラつけたって兄貴が言ってた』
地元警備会社の息子である田中くんが「関係者筋」の情報を発信すると、いっそうメッセージが活発に交わされる。
『野菜盗むってださいね』『最低』『犯罪者だよ』『先輩たちのおかげで田中んちがもうかった』『風が吹けば桶屋がもうかる』『なにそれどういう意味』
誰かの問いに対してガリ勉くんから長文解説ラインが届いたあとで、
『あいつも時間の問題だよな』
誰かが言う。あいつとはゲンジのことだ。ゲンジは唐突すぎる中学デビューで、みんなからバカにされていた。賛同のスタンプが続々と流れていく中、私はきゃっきゃと笑う猫のスタンプだけ送る。
時間の問題、その通りだと思う。
桑の実や、木苺やゼラニウムを狙っていたゲンジの目を私は覚えている。時間の問題。やっぱり誰が見てもそうなんだ。
私はゲンジを疑っていた。
ゲンジがあの塊の中に取り込まれたときから疑っている。
そのうちゲンジはあの鍵を使い、たま爺の金魚を盗むんじゃないかと、誰にも言えずに疑っている。
学校のない日々はあっというまに過ぎ、七月最後の日になった。
私が小屋に行くとたま爺が電話で話していた。
「そうか、いや、問題ない、お大事に」
少し深刻なようすで電話を切ったたま爺は、くるりと私のほうを向いてたずねた。
「ナナ子、八月三日空いてるか」
「いつでも空いてるけど」
「手伝い頼めるか。駄賃ははずむ」
地元の河原で開催される縁日のことだった。たま爺は毎年金魚すくいの出店をやるのだが、いつも手を借りている取引業者の人がぎっくり腰で動けなくなってしまったらしい。
二つ返事で引き受けた。アルバイトをできない中学生にとって、お駄賃のでる縁日なんて魅力的でしかない。
縁日当日、河原は日が高いうちから出店の準備をする人々で賑わっていた。
今年でもう三十回以上の参加になるたま爺は手際がよく、大変そうに思えた設営はすぐ終わった。老人と女子中学生の組み合わせが珍しかったのか、周りの人たちも手を貸してくれた。
祭囃子が流れ始めた。
開始すぐは落ち着いていたが、三十分もすると徐々に客足が増えてきた。小銭を差し出す子どもたちからはソースやシロップのにおいがする。
私はたま爺と順調に店を回した。
乱暴な子どもが金魚を追い詰めているときはやんわりなだめ、すくわれた金魚は扱いに気をつけてビニール巾着に移す。元気のない金魚を見つけたら、そっと小さめの水槽によける。自分でもおどろくほど手に迷いはなく、だてに金魚小屋に通ってきたわけではないのだとうれしくなった。
やがて客が途絶え、人々は河川敷に移動し始める。そろそろ花火が上がるのだ。
「もー喉からから、今のうちに飲み物買ってくるね」
「おう、そこの小銭持ってきな」
汗を拭い、釣り銭入れから五百円玉を一枚つまんで店を離れる。並ぶのが嫌で目指した遠くの自販機は売り切れだらけでけっきょく無駄に高い出店のペットボトルを買った。
人を避けるように出店の裏側を通って戻ると、たま爺の隣できらきらの頭が光った。ゲンジだ。
「あ、ナナ子」
ゲンジが私に気づき、たま爺が忙しそうだったから、と弁明する。たしかにたま爺はゲンジの隣で、話が長い町内会長につかまっていた。
「お兄さーん、お願いしまーす」
「あ、はーい」
新たにやってきた親子づれにゲンジが対応し始め、私はゲンジを追い払うタイミングを完全に逸した。
仕方なく私も接客に入る。金魚を逃して嘆く小学生に「残念だね」と声をかけつつ、心は不安でいっぱいだった。これをきっかけにゲンジがまた金魚小屋にくるようになったらどうしよう。いや、それより今のこの状況をゲンジの先輩たちに見られたらどうしよう。
「あ、やばい、先輩だ」
客の切れ目にゲンジがつぶやく。不安が的中した。人がきの向こうに先輩たちがいた。相変わらずリュウキ先輩を中心に、塊になって動いている。
「ゲンジ! 頼んでた飲みもんどうした!?」
先輩のひとりが、めざとくゲンジを見つけて叫ぶ。
「すみませんっ! 今から買ってきます!」
「今ぁ!? 遅えよ!」
「はいっ」
ゲンジは声を張り上げると、「じゃあ」と気まずそうに首をすくめ駆けていく。主人に呼びつけられた忠犬のような素早さに、自販機は売り切れだらけだと教えてあげることさえできない。
「さっきのが例のゲンジのつるんでる奴らか」
ようやく町内会長の長話から解放された、たま爺が言った。
「そう、どう思う?」
「子どものくせに悪そうだなあ」
たま爺が笑う。たま爺から見ると、凶悪な塊も子どもに見えるのか。自分自身が子どもだから、私はあの人たちを子どもだなんて思えなくて不安になるのだろうか。
空が明るくなり、遅れて音が弾けた。
最初の花火が上がった。なにかを感じ取ったように、水槽の中の金魚がせわしなく動いていた。
縁日の翌日は筋肉痛がひどかった。小銭を釣り銭入れに入れて、すくい網を差し出す反復作業が、使わない筋肉を刺激したらしかった。ごはんを挟みつつ二度寝三度寝を繰り返すうちに、夕方になり、見かねた母から買い物を命じられた。
最寄りのスーパーで、頼まれた玉ねぎとにんじんと豚肉を買って、カレーか肉じゃがかどっちだろう、などと考えながら回り道をしてたま爺の小屋へ向かう。
角を曲がると、小屋の前に人影が見えた。夕日に照らされ、躊躇するように足踏みする影は、なかなか敷地の中へ入っていこうとしない。近づくにつれ視界を遮っていたまぶしさがうすれ、私はそれがゲンジだと気づく。
「ゲンジ」
私が声をかけるとゲンジは戸惑った表情を浮かべ、それから弾かれたように逃げていく。私はゲンジを追いかける。スーパーの袋が揺れて、ごろごろとじゃがいもが太ももに当たって痛い。小柄なゲンジは歩幅も小さく、けっきょく私はゲンジに追いつく。
「ゲンジ、あんた」
住宅地の角で、ゼーゼー息をはいて私は言った。
「近づくなって言ったよね。なんで約束やぶろうとしてるの」
「やぶるとかじゃねえよ」
ゲンジは気まずそうに視線をさまよわせる。
「ナナ子がいないときなら、ちょっとだけ、いいかと思って」
「ダメだよ」
「なんで? 俺だってたま爺のところで金魚見たいよ」
懇願するような眼差しに、はあっと私はため息をつく。ほんとうはわざわざ言いたくなかった。
「ゲンジが、金魚を盗みそうで心配なんだよ」
「え?」
ゲンジが目を丸くする。
「鍵の場所だってわかるし。あれ使ったら簡単でしょ」
「俺、ほしくないよ、金魚」
「ゲンジがほしくなくても、先輩たちに、ほしいって言われたら?」
「言われないよ」
「言うよ、あの人たちなら。野菜も盗むんだから金魚も盗むよ。盗んで、売るよ」
以前のようにゲンジが金魚小屋に入り浸っていたら、先輩たちはきっと気づく。ゲンジを使って、金魚を盗もうとする。
そうなったらゲンジは抗えない。抗わない。
小学校のころ、桑の実をとりすぎたせいで桑の木の持ち主から学校にクレームが入り、朝礼で先生がみんなに注意をして、私は気が気じゃなかったけれどゲンジはけろっとしていた。
ゲンジにはそういうところがある。ひとりぼっちを遠ざけてくれる誰かのためなら、ゲンジはどんなこともできる。
「私がいないときでも、金魚小屋には近寄らないで」
スーパーの袋の中で野菜が動いてまた太ももに当たる。そろそろ帰らないと怒られる。
「約束だからね」と念押しし、私はゲンジを置いていく。
たま爺の小屋の前にさしかかると、小屋の電気はもう消えていた。いつものことだが、ゼラニウムの鉢は外に出たままになっている。私はそっと敷地に足を踏み入れ、鉢に近づき、持ち上げる。
受け皿の上の錆びついた鍵が顔を出した。
昔見たときよりもグロテスクに錆びて、苔と土ですっかり変色している。のたれ死んでいるかもしれないたま爺のお弟子さんが憎い。なにも知らないのに憎い。あんたがいきなり消えたから、こんな不用心なことになったんだ。
いつか戻すから、今、とってっちゃおうか?
そんな考えがよぎる。
それでゲンジが盗まずに済むなら、金魚が盗まれずに済むなら、いちばん平和じゃない? たしかにはっきりとそう思うのに、土と苔は粘土のように鍵と受け皿を一体化させ、思うほど簡単に鍵は動かない。
私は断念し、そっと鉢を戻して家に帰った。
遅かったじゃないと怒ったお母さんが作ったのは肉じゃがでもカレーでもなく生姜焼きとポテトサラダだった。食事をしながら私は自分の爪のあいだが緑っぽく汚れていることに気づく。
土か苔かサビかカビか、あるいはその全部か、その汚れはお風呂に入ってもなかなかとれずしばらく私の爪は汚れていた。
夏休み最後の日、朝ごはんを食べて部屋に戻ると、たくさんラインが来ていた。クラスのグループラインを開くと、また先輩の悪行の件で持ちきりだった。今度は駐輪場から自転車のパーツを盗んで売ろうとしたらしい。リュウキ先輩ではなくまた他の先輩がやった。片方は野菜の件で警察の注意を受けた先輩だった。
『自転車のパーツって売れるんだ』
『最悪すぎる』
『怖すぎ』
最悪すぎて怖すぎても、みんな身近で遠い人たちの悪行に強い関心を持っている。ひっきりなしに流れてくるメッセージをミュートすると、今度は私個人にメッセージが届いた。
『金魚小屋でなんかあったっぽいよ』
送ってきたのは、小学校から一緒の友達だ。私がたま爺の小屋に通っていることを知っている。メッセージのあと、今度は写真が送られてきた。
たま爺と警察らしき人が小屋の前で話していて、野次馬らしき人々が遠巻きにそれを見ている。追加のメッセージがくる。
『窃盗だって』
まさか。
「たま爺んとこ行ってくる!」
リビングのお母さんに声をかけ、着のみ着のまま玄関を飛び出す。一回も立ち止まらずにたま爺の小屋まで走りきり、人ごみをかき分けて敷地に入った。
「たま爺、大丈夫」
「ああ」
声をかけると、たま爺はおどろきの抜け切らないような顔でうなずく。
「一匹持っていかれた」
「どれ」
「水泡眼だ」
目の下に大きな袋がある、中国の高級金魚だ。たしか今は二匹しかいなかった。よりにもよって高いのを――頭を抱える私を、やる気のなさそうなお巡りさんが「お孫さんですか」と一瞥する。
「近所の中学生です」
「なるほど」
お巡りさんは軽く眉だけ上げ、「それでそのスイなんとかいう金魚は」とすぐに話をもとに戻す。
ふたりの会話に耳を傾けつつ、私はたま爺の足元に置かれたゼラニウムの鉢を見た。すでにたま爺がどけて確認したようで、鉢と受け皿は並んで置かれていた。鍵は変わらず、受け皿の上にある。私が見たときと同じように苔と土で受け皿にへばりついている。
犯人は鍵穴を壊して侵入、旧式のシリンダーキーは最近狙われやすい、典型的な空き巣の手口……お巡りさんが淡々と発する言葉を私は反芻する。合鍵はおそらく使われていない、動かした形跡もない。
ゲンジじゃないんだ。
肩の力が抜けた。
「こちらとしても見回りは強化しますが、あとは個々での防犯対策もお考えいただいて」
要約すると「これ以上はなにもできません、自分で頑張れ」という意味合いの言葉を残し、お巡りさんは帰っていった。それに伴って野次馬も散り、顔見知りの何人かがたま爺に労りの声をかけて去っていく。
「あのお巡り、金魚を舐めてるようだったな」
「水泡眼って言えてなかったね」
「そうだな」
急に静かになり、私もたま爺もなんだかぼうっとしてしまう。ひとまずは鍵を直さないといけないので、私はクラスのグループラインから警備会社の息子である田中くんにメッセージを送ってみた。すぐ連絡がついて、午後には田中くんそっくりの男の人がトラックでやってきた。お父さんにしては若いから、たぶんお兄さんだろう。
「元の鍵と同じタイプだとピッキングのリスクが高いです」
田中兄は深刻な表情で説明した。
「価格は上がりますがディンプルキーをお勧めします。防犯面で最近みなさまにご好評いただいているのがこちらの駆けつけオプションつきの監視カメラでございます、今なら一ヶ月無料お試しキャンペーンをご利用いただけます」
田中兄は流暢に契約をまとめ、「実は一式持ってきてます」とちゃっかりハシゴと工具セットをトラックから出してきて、その日のうちに鍵交換も監視カメラの設置も終わった。動作確認が行われたあと、門扉のすぐそばと小屋の入り口には『監視カメラ作動中』のシールがべったり貼られた。夜になると発光するブラックライト仕様らしく、まるで魔除けだ。
田中兄が帰ったあと、たま爺は鍵のへばりついた受け皿を逆さまにし、古い鍵をとろうとした。だけど逆さまにして振っても、鍵は強固にはりつき、剥がれない。
「やむを得んな」
たま爺は苦笑いし、鍵がくっついたままの受け皿の上に鉢を戻す。新しい鍵を置くことはさすがにしないらしい。
私は少し、ほっとしていた。
大事な水泡眼が盗まれたのはショックだし、のたれ死んでいるかもしれないお弟子さんはとうとう締め出されてしまったが、鍵が強力なものに変わり、監視カメラがついた。
農家のときもあの人たちは監視カメラで撃退されたのだ。これで先輩たちがゲンジを唆し、ゲンジが金魚を盗むことなんてないだろう。
夏休みが終わり、二学期が始まった。私は学校でゲンジの姿を探していた。たま爺の小屋に泥棒が入ったことをゲンジは知っているのだろうか。知っておいてほしかったし、もう盗みようがないことも伝えておきたかった。
だけど数日経ってもゲンジは現れなかった。
いつもは髪の色ですぐに見つけられるのに、一年生の廊下に明るい頭が見当たらない。コンビニ前や駅前ロータリーには相変わらずリュウキ先輩を中心とした塊がいたが、そこにもゲンジの姿はない。
まあいいか。解決したし。そうたかを括った私は、ある日クラスの子たちに誘われてカラオケに行った。受付を済ませ、ドリンクコーナーでサイダーをくんでいると、奥の個室の扉が開き、先輩たちが塊で出てきた。
「てか最近、チビは?」
中心のリュウキ先輩がだるそうな声で隣の先輩にたずねる。
一緒にドリンクコーナーにいた友達はさっと個室に戻っていったが、私はサイダーをくみ続けた。プッシュボタンを押し続け、背後を通過する彼らの声に耳を傾ける。
「ゲンジこないだボコしたんで」
二年生の先輩が言う。
「ボコ? あいつなんかしたんだっけ」
「急に付き合い悪くなったんですよ。呼んだら出てくるけどずーっと動画ばっか見てたり、最近だとずっとぼーっとして話聞いてねえし」
「動画ってエロ動画?」
「いや、なんかハウツー系っていうか、なんでしたっけ、あれ。鍵の」
「鍵?」
「鍵をこうヘアピンとかで開ける方法的な」
「へえ、勉強熱心だね」
「やるにしても勝手にやるなって話っすよ。それ見てどうすんのかって訊いても答えねえからボコです、ボコ」
ひゅっと先輩の拳が空を切る音まで聞き届けると、私はコップを置いた。
ソーダは溢れ、私の手はべたべたになっていた。ストローと一緒に置かれているお手拭きで手を拭く。一枚だと足りなくて、捨てて、もう一度手を拭く。
個室に戻ると、みんなすでに盛り上がっていて、備えつけのマラカスを振っている子までいた。
「ナナ子ちゃんも入れなよ」とデンモクを渡され、端っこに座る。タッチパネルに指を伸ばしかけて、デンモクを置く。
「ごめん、ちょっとお腹痛くなってきたから帰る」
「えっ」
「ごめんね、とりあえずお金」
「明日でいいよ! 下まで一緒に行こうか?」
みんな心配そうに私を見る。曲もマラカスもいつのまにかやんでいる。
「大丈夫、またリベンジさせて」
頑張ってお腹が痛そうな顔を作って、私は部屋を出た。エレベーターに乗って地上に降り、しばらく歩いて、走り出した。
クラスの子たちは優しかった。嘘だと気づいていないから優しいのか、気づいているのに優しいのか、どっちにしても優しかった。
そんな優しい人たちを置いて、私はゲンジのところへ走っていた。夏休みが終わっただけで夏はまだ続いているから、制服にはどんどん汗が染みていく。
ゲンジがぐずっていた分かれ道にぶつかり、グーパージャスで送っていった道を直進する。たま爺のところに通うようになってから、ゲンジは「時間稼ぎ」をしなくなったけれど、家に帰ってからもゲンジのひとりぼっちは続いていた。私はそれに気づいていて、だけどどうにもできなくて、そんなゲンジの前に現れたのが先輩たちだった。駅前のロータリーで、コンビニの駐車場で、あの人たちは夜でもゲンジといてくれる。あの人たちくらいしか、いてくれない。
錆びついた鉄の階段を駆け上がり、ゲンジの家の扉を叩く。インターホンを押す。
「ゲンジ! 私! ナナ子!」
ゆっくりと扉が開いてゲンジが顔を出す。
「……なに」と発したゲンジは、先輩が「ボコした」だけあって、ひょっとこのように顔半分が腫れていた。
「さっき、先輩たちが喋ってるの聞いた」
呼吸を整える。すうっと息を吸って、吐き出す。
「たま爺の金魚、盗んだの」
ゲンジがびくっと肩を震わせる。目を逸らし、
「盗んでない」
消え入りそうな声で言う。
そのときとつぜん玄関の扉が大きく開き、押されたゲンジが前につんのめった。
「ちょっと、邪魔邪魔」
かすれた声がして、中からお姉さんなのかおばさんなのかよくわからない女の人が出てきた。ずいぶん久しぶりに見る、ゲンジのお母さんだった。
「あ、あの子か、近所の」
私を見て、頬にくを盛り上げて笑う。香水のにおいがする。ゲンジのお母さんは、私の名前を思い出すことに失敗したらしくそれきりなにも言わない。きっとこの人はなにも知らないのだろう。ゲンジがたま爺の小屋に通い続けていたことも、ゲンジが桑の実を大量にとったことも、ゼラニウムをとろうとしていたことも知らず、ゲンジにひとりぼっちを与え続けている。
「てかさあ、ゲンジ、あれ持ってってよ」
お母さんが思い出したように言う。
「ずっと置いといたら、部屋ににおいとかつきそう」
聞こえてんの? なにも言わないゲンジを睨み、私に向かってにっこり微笑むと、お母さんはカンカンと階段を降りていった。
「ねえ、『あれ』ってなに」
私はゲンジに訊いた。ゲンジは目を逸らす。それが答えな気がして、私はゲンジを押しのけて扉を開け、中に足を踏み入れた。
探すまでもなかった。
それはすぐそこにあった。
土間の脇にある靴箱の上に、小さい水槽が置いてあった。
その中に水泡眼がいた。外の騒がしさなんてどうでもいいみたいにひらひらと泳いでいる。だけど水泡眼がその身をひるがえしたとき、私はあっと息を呑んだ。
水泡眼の目の下の、袋が片方なくなっている。
リンパ液の入ったその袋はけっこう繊細で、破れやすい。命や視力に別状はないが、一度破れると元には戻らず、その個体は市場的な価値を失う。
「すぐに返すつもりだった」
ぱたんと扉を後ろ手に閉め、ゲンジが言った。
「すぐ返しにいくはずだったのに、気づいたらそうなってて」
うつむいたゲンジがすんっと鼻を鳴らす。
「戻らなくて、どうしよう……」
「なんで」
声が震えた。
「なんで、盗んだのよっ」
ゲンジがバカすぎて涙が出てくる。
「だって、盗みたくなかったから」
「ならなんで盗んだの。おかしいじゃん」
「だって、だってさあ」
ゲンジも涙声になっていく。大粒の涙がひょっとこ顔をどんどん濡らしていく。
「ナナ子の言う通り、先輩に盗めって言われたら、盗んじゃうかもしれないって思ったから」
「言われたの」
「言われてない。先輩たちはなにも知らない、勝手にやった」
すぐ返すつもりだったのだと、ゲンジはもう一度言った。鍵が付け替えられて、監視カメラがついたら返すつもりだった。監視カメラさえついたら先輩たちはもう狙わなくなるから。それがいちばんいいと思った。水泡眼ならたま爺も対処してくれると思った。そんなようなことを言って、
「なのに破れちゃった、ああ、ああー」
と泣き叫んだ。子どもの頃にさえ聞いたことのないような泣き声だった。私もだんだん、取り返しがつかないほど涙が出てくる。なんで、なんで、と繰り返すうちに声が大きくなっていって、私も大声で泣いた。
ほんとうは少しわかる。私だって、鍵をとろうとした。鉢の下にある大事な鍵を盗もうとした。私は実行に移せなかったけれど、ゲンジは実行に移した。私は鍵を受け皿から剥がせなかったけれど、ゲンジは鍵穴を壊せてしまった。どうしてそんなことだけ器用なんだろう。
たま爺、ごめんなさい、金魚を盗んで、ごめんなさい。
聞き取りにくいが、ゲンジは泣じゃくりながら謝っている。
ここで謝ったって意味ないよ、そう思うのにゲンジの泣き声に私の泣き声がかぶさり二重奏になる。ごめんなさい、ごめんなさい。私も、たま爺に言えばよかった。監視カメラをつけてほしい、鉢の下の鍵をしまってほしい、ゲンジに金魚を盗らせないでほしい。自分たちだけでなんとかしようとしたせいで、ゲンジは金魚を盗み、水泡眼の袋は破れた。
私たちは埃っぽい土間にへたり込んで延々泣き続け、「うるさいぞっ」と騒音を聞きつけた人に扉を叩かれようやく泣き止んだ。
「……行こうか」
かぴかぴの涙を拭いて、ようやく私は立ち上がり、ゲンジの手を引いた。
「行くって、どこに」
「たま爺に返しにいこう」
水槽を指差すと、ゲンジは小さくうなずき、そっとそれを抱える。
涙と鼻水と汗でふたりとも手が湿っていた。アパートの階段を降りて歩いているとすれ違う人たちがギョッとしたように私たちの顔を見た。
ふたりとも大泣きしたことが明らかで、ゲンジに至ってはひょっとこのように顔を腫らしている。私が殴ったと誤解されても仕方ない。恥ずかしくて、走って行きたいくらいだけれど、もう片方の袋も破れたら大変だ。
水槽を揺らさないように、私たちは一歩一歩慎重に踏み出したま爺の小屋へと向かう。
「お前ら、どうした」
たま爺はまず、私たちがふたりで現れたことにおどろいたようだった。次いで私たちのひどい顔におどろき、最後にゲンジが抱いている水槽を見て、さらに目を丸くした。
「おい、これ」
「ごめん、たま爺」
ゲンジが口を開く。
「き、気をつけてたのに、破れちゃって」
「それより、なんでお前が水泡眼を持ってるんだ」
「あ、そうだ、ごめん、あの」
ゲンジの目にまた涙が溜まっていく。謝るときに泣くなんてずるい、そう思うのに、たま爺の顔を見ていたら、私までまた涙が出てきてふたりとも止まらなくなる。土間でさんざん泣き尽くしたのに、けっきょく、さっきとほとんど同じ状態になる。
ごめんなさい、と水槽を抱えたままゲンジが叫ぶ。高いの盗んだら監視カメラつけてくれると思った、すぐ戻すつもりだった、ごめんなさい。泣きながら懺悔するゲンジの声に、でもそれは先輩たちから金魚を守るためで、私が余計なことを言ったのも悪くて、と弁明する私の声がぐちゃぐちゃに絡み合い、小屋にこだまする。
自分たちの泣き声を鼓膜で拾い、子どもみたいだと私は思う。いやたぶん子どもなんだろう。中学生なんてどうしようもないくらい子どもで、だからゲンジはあんな人たちに心酔するし、私はそれをどうにもできない。
涙で霞む視界にたま爺の顔が映る。しわの刻まれた肌や、白い髪が映る。怒っているのかも呆れているのかもわからない。
「そんなに大声で泣いたらもう片方の袋も破れる」
たま爺はそう言って、泣きじゃくるゲンジから水槽を取り上げ、水槽のほうへと持っていく。戻ってきた水泡眼を受け入れるために、たま爺は金魚のいない水槽の水温調整し、水面のゴミをすくい始めた。
「ああ、いつまでもうーうーうるさい」
それでもゲンジと私が嗚咽を漏らし続けているので、たま爺は網を放って小屋を出ていき、母屋からアイスを持ってきた。
「お前らこれで頭を冷やしてけ」
ぱきっと真ん中で折って、私たちに半分ずつ渡し、首から下げたタオルでぐしぐしとゲンジの顔面を拭く。
私はすぐさまアイスにかぶりついた。こんな状況だけれど、さっきから泣き通しで口の中がしょっぱく、体が水分を欲していた。ゲンジもそうなのか、泣きながらアイスにかじりつく。
たま爺が用意したばかりの水槽へ、そっと水泡眼を移す。穏やかで用心深い一連の動作を眺め、金魚は昼も夜もここにいられていいなと思う。ゲンジにも、夜でも入り浸れる金魚小屋があればいいのにと思う。それか夜でも一緒にいてくれる、たま爺や私のような誰かが現れたらいいのに。
ひょっとこみたいにされても、ゲンジはきっと先輩たちから離れない。先輩たちはいつかそれを利用しようとするだろう。ゲンジはそれに抗わない。そのときゲンジは、壊したら取り返しのない鍵穴を壊すのかもしれない。どうかそうなる前に、その誰かが現れたらいい。現れてほしい。
丸投げだけれど、友達だからそう思う。
「まあ、どこにも行けないとしてもなあ」
たま爺が背中を向けたままこぼす。
「なんかしらある奴はずっとここにいればいいだけの話よ」
袋の破れた水泡眼に言ったのか。それとも今の無様な私たちに言ったのか。今日たま爺のくれた半分のアイスは私のお腹を冷やすことはない。やっぱりまるまる一本は多かったのだと気づいて、私はひと知れず誓う。
これからゲンジがなにをしでかしたとしても、それがどんなにどうしようもないことでも、アイスくらいは一緒に食べる。
【おわり】