Hello! Expo Ring 後編

2 丈子
蒼ちゃんは赤ちゃんの頃から、ウチの顔になんとなく似とった。そやけど、子供って顔変わるっていうから、然程、責任も感じてなかったし、心配もしてなかった。
ところが、どっこい! 大きくなればなるほど、蒼ちゃんはウチにどえらい似てきて、「誠に申し訳ございません」と謝罪したいほど、気がとがめた。
ウチは自分の顔が、嫌いや。
そやけど、ウチに似てる蒼ちゃんの顔は、可愛らしくて大好きやから不思議に思う。
ウチは子供の頃から普通の顔してるだけやのに、「愛想がない」とか「不機嫌なんか?」とか言われて……時には、𠮟られた。そやから、いつでもどこでもニヤニヤ笑って過ごすようになった。
ウチがこの顔だから経験した嫌なことを、蒼ちゃんも経験するんちゃうか? そう思うたら、なんや、苦しくなる。
2024年
――今まで長いこと気ままに一人で暮らしてきたウチが上手いことやっていけるんか?
蒼ちゃんと暮らす前は、不安になったりした。
いざ暮らし始めると安心感があって――そうか、今まで一人で寂しかったんや。と、気がついた。気がついてしもうたら、驚くほど急に人恋しさが溢れてきた。
――四六時中、蒼ちゃんの近くでお喋りしたい。
そんな気持ちとは裏腹に蒼ちゃんとウチの間に流れる空気はトゲトゲしい。
蒼ちゃんは、どうやら反抗期真っ只中みたい。それに、ウチのことが嫌いなんかも……。
嫌われた心当たりは……ある。登校初日の朝の出来事や。
蒼ちゃんは、ちゃぶ台に鏡をセットし、アイピチをし始めた。ウチにしてみれば、かなりの想定外の男子高校生の行動やった。
「……そんな、女の子みたいなことして」
軽くパニックになったウチは、頭で言葉を確認する前に口走ってしもうた。
「決めつけるなよ! ウザッ!」
見たことない怖い顔の蒼ちゃんに睨まれてドキリとして、そして落ち込んだ。カワイイ蒼ちゃんに嫌われたという落胆だけやない。身に覚えのある指摘やったからや。
――ウチの本質は、子供の時のままや……断片だけで勝手に決めつける。
心の奥の古傷がヒリヒリと傷んだ。
その出来事は、55年経った今も鮮烈に記憶されていて、時折、ウチをやりきれない苦しい気持ちに引き戻す。
お父ちゃんとお母ちゃんと万博へ行ったんは、小学校5年生の夏休みの最後の週やった。
モノレールから太陽の塔が見えたときは、はるばる未来へやって来たような感動があった。
広大な万博会場に、犇めく人、人、人。
気温も高かったんやけど、会場は多幸感に満ちた人の熱気で異様な暑さやった。
とりあえず、テレビで言うとったアメリカ館へ行った。入るんに並んで、入ってからも、月の石を見るために並んで、何時間もかけて、やっと、月の石見てんけど……ズルズル列になって、歩行しながら見なあかんかった。チビのウチが見えたんは、ホンマにチラッとやった。
――なんや、茶色い石……へえ~こんなモンなんか。
感動というより、『万博に行って、月の石を見る』という、日本中で掲げられたスローガンを果たした達成感で満たされた。
アメリカ館を出た後、なんとなく人の流れのままにウチら一家は歩いて、動く歩道に乗った。着いたんは大きな屋根のある広場で、その中央には、燦然と太陽の塔が建っとった。
間近で見る太陽の塔。
正面に据えられた厳つい顔で、両手を空に向けてバーンと存在を誇示するように広げとった。桁外れに大きくて、奇抜で……威風堂々とした姿にウチは圧倒された。引き寄せられるようにフラフラと近くへ歩いていった。ドンッと、誰かにぶつかって転びそうになって――途端、ウチは、気がついた。
「お父ちゃん、お母ちゃん、どこ? お母ちゃん! お父ちゃん!」
――ウチ、迷子なってもうてるー‼
ついさっきまで、人が仰山おるんが、めっちゃ楽しかったのに、迷子の視点で見たら、知らん人が仰山おるんが、めっちゃ怖かった。
パニックになって、景色が歪んで見えた。泣きながら、闇雲に歩いて、もう、自分がどこにおるんかも分からんなって、更にパニックになった。
第三者から見たら『分かりやすく迷子』やったと思う。リレーみたいに次から次へ、いろんな大人に手を繋がれて……頭の中では、ドナドナが流れ続けとった。
親切な人たちの手を経て、辿りついた迷子センターで、最後にウチの手を繋いでくれたその人が――綿貫麗香さんやった。
彼女の柔らかい手と笑顔で、物凄く安心した。
迷子センターで働く女の人はひよこみたいな色の帽子に抹茶みたいな色の奇抜な制服を着とった。個性的なユニフォームもあいまって、麗香さんが未来から来た女神に見えた。
だいたい『綿貫麗香』って名前が、もう、美しい。ウチなんて『丈子』やで!
彼女は、ショートカットで、顔が小さくて、目がクリクリッと大きくて。肌が抜けるように白くて、笑うとエクボが凹んで。抱き着くと柔らかくて、甘い香りがした。
迷子センターには、ウチと同じように迷子になってる子がたくさんおって――迷子って、なんや、ウチだけやないんや。って、精神的に楽になったウチは、せっかくの迷子センターを堪能した。
麗香さんが、本を読んでくれたし、お人形で遊んでくれて。
――迷子のまま、ここにずっとおりたい。
ありえへんことを思うくらい麗香さんと離れたくなかったウチは、お願いした。
「お礼のお手紙書きたいから、住所教えて下さい」って。何回もしつこくお願いするウチに根負けして、麗香さんは、住所と名前を紙に書いてくれた。
迷子センターにお父ちゃんとお母ちゃんが迎えに来たんは、もう、夕方頃やった。
お母ちゃんはウチを見て大泣きして、ウチも泣いたんやけど……迷子センターを出る前に、お世話になった麗香さんと並んで写真を撮ったときには両親が引くほど、溢れんばかりの笑顔やった。
『月の石を見た』より、『麗香さんに出会った』がウチの中で万博いちばんの思い出になった。
翌日、麗香さんへのお礼の手紙を書いた。文面は、定かじゃないけど――とても、お世話になり、ありがとうございます。万博で迷子になったんは、嫌な思い出ですが、麗香さんに、出会えたんは、良い思い出です――まあ、ざっくりこんな内容やった。
毎日、学校の帰りに郵便受けを覗き込んだ。麗香さんからの返事は、待っても待っても来なかった。彼女に焦がれる思いを積もらせていった。
そして、現像された麗香さんとウチのツーショット写真を見ながら――なんで、こんな顔に生まれてきてしもうたんやろ。と、神様の不公平を感じた。
それでも、なんとか彼女の顔に近づくようにと、鏡を覗いては肉厚な瞼の肉をつまんで引っ張って目を大きくしてみたり、グーっと押し込んでみたり……そんなこと、夜な夜なしとった。
麗香さんからお返事が来たんは、9月に万博が終わって、確か一カ月ほどした頃やったな。
ウチが想像した通り綺麗な字やった。黒やない、濃紺の万年筆で、線が細くて流れるような字で感激した。
ただ、ちょっと……思うてたんと違う部分もあって……。
わざわざ、お礼の手紙をホンマにすんません。万博期間中は、めちゃめちゃ忙しゅうて、返事書けへんかってん。ホンマ、ごめんなぁ。
文体の関西弁が、物凄い濃かった。
ある程度年配になって、使う関西弁が煮詰まって濃くなっちゃった……みたいな濃さがあった。彼女の容姿に夢中で気にしてなかったけど、思い返してみたら、迷子センターで遊んでる時、麗香さんの関西弁は、もっちゃりしとった。
それでも憧れの人から来たお返事が嬉しくて、嬉しくて。麗香さんから来た手紙を何回も何回も読んだ。そして、汚れたり破れたりせえへんように、丈夫な赤い缶カンに保管した。
もちろん、すぐに返事を書いた。たしか――お返事ありがとうございます。麗香さんが大好きです。麗香さんの顔になりたい。将来は、綺麗な顔の大人になって、万博で働きたいです。それが、私の夢です――みたいな内容やったと思う。この手紙については、一週間もしないうちに返事が届いた。そやけど……これまた、思うてたんと違う手紙やった。
毎日毎日、体力の限界を超えて働いとってんかぁ。もう、気力だけで、仰山、子供ちゃんの相手しとったからなぁ。ごめんなぁ。しょうみ、丈子ちゃんの顔って、覚えてないねん。
そやけどな。丈子ちゃんは、そのまんまの顔で、ええやん。ウチの顔を褒めてくれるんは、ごっつい、うれしいねんけど。丈子ちゃんがウチの顔になりたいなんて、やめとき。
それとな。日本で万博は、もう、開催されへんのちゃう?
万博は滅多にないから、価値があんねん。そやから、仰山の人が動いたと思うねん。
丈子ちゃん。もうちょっと現実的な将来の夢を思い描いた方がええでぇ。
――至極まっとうなご意見!
何べんもこの手紙読んでるうちに、『大人になってもお前の顔は、お前の顔のままじゃ!』って言われてるような気がしたウチは、ちょっぴり麗香さんに失望した。
この手紙を境にウチは、『ホンマ』を手紙に書かんようなった。心底思うてることを否定されると傷つくと知ったから。
そやから、手紙には――私の家は広くて、大きな犬を飼っています。アズキという名前です。餌を上げるときだけ、尻尾を振ってきます――とかね。
ホンマはな……家なんか、ちっさい平屋やったし、小豆は、尾ひれを振って餌をパクパク食べるけど、神社の夏祭りですくった金魚やった。
ウチが書く手紙は取り留めもない嘘の日記やった。
一方で……麗香さんから来る手紙の方は、『モノごっついホンマ』を、書いてくるようになった。
万博の後、麗香さんは印刷会社の事務員として働いとったらしい。
仕事っていっても、お茶くみくらいやねん。
最悪なんは、しょちゅう、部長にお尻を軽くタッチされんねん。笑ってやり過ごしてるけどな。
「エロおやじ、お前は畳の上で死ねへんぞ」と、密かに呪ってみてんねん。私に出来る抵抗は、それくらいしかないしな……。
親は結婚しろと、勧めてくんねん。結婚するしか、私は、次に進めへんみたいやわ。
万博の会場では、私は、あんなに皆に必要とされとったのになぁ。
あの場所では男とか女とか関係なかった……いやむしろ女の方が輝いとったのに、どういうこっちゃ。
あんなにカワイイ人が人生を楽しんでないことが不思議やった。
最近になって『万博』というある種、浮世離れした場所で働いていた彼女は現実の生活に対応できなくなったんちゃうか? と、考察できるようになった。
万博会場で会ったときとは別人のような手紙の内容も、今でいうたら『普段温和な人が、SNS上では、大胆な発言したり、攻撃的になったりする』と似たことが、麗香さんの中で起ことったんちゃう? と、慮れる。
麗香さんの悩みにリアクションしたい気持ちはあったんやけど、子供だったウチの手持ちの言葉では、とても返事のしようもなかった。普通、文通いうんは、互いの手紙を受けて、それに、答えを出してみたいなやり取りがあってしかりやとは、思うけど……ウチらのやり取りは、自分の言いたいことを書き合うみたいなラリーやった。
――でも、ウチが返事の手紙を書かへんかったら、この文通は、終わってしまう。
それは、絶対に嫌やった。家と学校で完結する狭いコミュニティとは違う繋がりは、とても貴重なモノやったし、何より麗香さんを手放したくなかった。
万博で出会ったときから変わらず麗香さんに焦がれとったのに……ある日、ウチの気持ちが崩壊してしまう手紙が届いた。
私、結婚することにしてん。
女はクリスマスケーキや。売れ残りは恥ずかしいし、しゃあないよな。
こんな私にも、思い人はおんねん。恋とか愛とかではないねんなぁ。憧れいう言葉がピッタリはまるかもな。取引先の出版社の女性記者やねん。男性記者さんの中で、臆することなく働いとってな。カッコええのよ!
私と彼女は時々、仕事帰りにお互いの会社の中途にある公園で、お話をして帰る仲やねん。
この前な……彼女に、私が結婚すると伝えてん。そうしたら、今まで、よう言わんかった本音が溢れてきてしもうて……。
「ホンマは、大騒ぎするような燃えるような恋をして、結婚をしたかってんけど……私の人生はしょうもないわ」
なんの涙か分からん涙がボロボロ溢れてきて……「もう帰ります」と、私が、立ち上がろうとした時な、彼女は、私にキスしてくれたんよ。
――ん?……えッ! どういうこと⁉
色々、ビックリし過ぎて、ワッと涙が溢れだした。
10歳のウチはキスの存在は知っていたけど……急に、応用問題みたいなモン出されて、混乱した。女の人と女の人がキスするなんて、どういうこっちゃ想像もできんかった。
――なんか、怖い‼ めっちゃ、怖い‼
そんな突飛な行動をする麗香さんが怖かった。ウチが麗香さんに焦がれる気持ちも、いつかは得体がしれん行動や考え方に繋がりそうで、それも怖かった。
――この話は誰にもしたらあかん!
そう思うたら、自分がとんでもない悪いことをしているような気分になって、もっと怖くなった。
気がついたら、ウチは麗香さんからきた手紙を破いとった。そやけど、破いたくせに、その手紙に未練があって捨てることもできず、赤い缶の中に封印した。
そして、これっきり、麗香さんへの返事は書かへんかった。ウチが、麗香さんとの文通を終わらせた。
それから、鏡を見る回数が激減した。自分の顔を見ても、そこに映る顔をどうにかしたいとは思わなくなってしまった。その代わり、鏡自体を磨くことに、ウチはハマった。
薄汚れた鏡は、磨けば磨くほど、美しく輝いた。
「あ~綺麗になった」
そう口にすると、内面の醜い部分が少しだけ浄化されたような……一時、爽快な気持ちになれた。
あの手紙を読んで以来ウチの美意識は、掃除に振り切ってしもうた。
ウチと蒼ちゃんとの気まずい空気が立ち込めて、息苦しい中、新風が吹き込むように慎平君が家に来るようになった。大阪に馴染めてるんか心配しとったから、蒼ちゃんが友達を連れてきて安心した。
そして、慎平君はめちゃめちゃええ子やった。
蒼ちゃんと慎平君は、基本的に居間でダラダラとおる。かまへんねんけど、ウチは居場所に困るようになった。慎平君は気を遣って、「丈ちゃん、歳いくつ?」とか、「趣味は?」とか、「好きな芸能人、誰なん?」とか、絶対興味ないのに見合いみたいな質問で話しかけてくれて、仲良く喋るようになった。
その間、蒼ちゃんはスマホに目を落としたままや。
慎平君は不快感のないええ感じのタメ口で、話してくる。
慎平君との会話が弾むほど――孫ともこんな風に話せたら。と、切実に思うようになった。
子供の頃は蒼ちゃんと何時間でもお喋りしとったのに、今では「おはよう」言うんも、一回息継ぎせんと言われへん。
そんな息苦しい毎日が続いて、蒼ちゃんに「女の子みたいなことして」と言ってしまったことを反省した。自分を見つめ直すために、しばしば麗香さんからの手紙を読み返すようになっていた。
ある日、ウチはうっかり台所のテーブル上にあの赤い缶を置いたまま出かけてしもうた。
放置されたままの缶に気がついたとき「ヒッ」と軽く悲鳴をあげるほど驚いた。慌てて蓋を開けて確認すると、そこには、セロハンテープでツギハギされた手紙があった。
――蒼ちゃんは缶の蓋を開けて手紙を読んだんや……と、いうことは蒼ちゃんのほうから「この手紙、なに?」と聞いてくるのでは?
蒼ちゃんとの会話のきっかけが欲しいウチは――どんな風に麗香さんとの思い出を語ろうか。と、悩みながら待った。しかし、いつまで待っても質問されることはなく、ウチと蒼ちゃんは数カ月経っても相変わらず妙な距離感を保ったまま生活していた。
初夏のある日、清掃会社の事務所に『2025 関西万博の清掃スタッフ募集』というポスターがバーンと貼り出された。
――万博がウチの前に戻ってきた!
仁王立ちで、ポスターを睨みつけながら、「これ」と、ウチはポスターを指さした。
「ああ、来年の万博の募集。人、集まらんで困ってて、あちこち貼りまくってんねん」
事務の女性が言い訳するように言った。
「これって……年齢制限はありますか?」
「……確かなかったはずやけど」
「じゃあ、ウチでも万博で働けるってことですか?」
「希望を出せば、たぶんすぐ決まるんちゃうかな」
ウチは押し黙って拳を握りしめた。そして、フンッと踏ん張った。
家に帰ったウチは、赤い缶を開けた。色褪せた写真の麗香さんの横で笑う自分を見つめた。その顔は、いつもの作って張り付けたニコニコ顔じゃなくて、心底嬉しそうな笑顔やった。
私は将来、麗香さんみたいな綺麗な顔の大人になって、万博で働きたいです。それが、私の夢です。
ただ、働きたいんじゃない。ウチの夢は『綺麗になって』やねん。
幼い頃に描いた夢が55年という年月を経ても自分の原動力になるなんて、想像もしてなかった。
蒼ちゃんにアイピチを教えてもらおう。そうすることで何かがスタートするような気がして、ウチは玄関で蒼ちゃんの帰りを待った。
2025年
万博が開催されるまで、あと1ヶ月を切った。
家では、毎日のように蒼ちゃんによる、アイピチ講習が行われていた。
蒼ちゃんは丁寧な手つきでウチの瞼の肉を伸ばしながら、はけノリのタイプのアイピチをサッと塗る。ウチは、いつもこの時、ノリの冷ッとした感じに身を竦めてしまう。
蒼ちゃんに教えてもらいながら、プッシャーで、瞼の肉をグーと押し込む。すると――。
ウチの目は、見違えるほど、ぱっきりと大きくなる。
「魔法みたいやなぁ‼」
初めて、蒼ちゃんにアイピチをしてもらった日は、感動して泣いてしまった。
そして、見慣れた家の景色が、アイピチをした目で見るといつもと違って見えて驚いた。瞼の肉が上がったおかげで視界が広がってん。ウチは新しい世界を見た。
アイピチ講習はウチと蒼ちゃんの距離を物理的に近くした。そして、2人の間に流れとったトゲトゲしい空気は自然と消えていった。
蒼ちゃんと何度も『昭和の万博』と『麗香さんのこと』をお喋りした。
「麗香さんにキスした相手の女の人は、どんな感情でキスしたんやろ? 麗香さんが、好きやったってことやんなぁ?」
「好きっていうか……もっと、軽いノリというかさ。結婚する麗香さんへの餞のキスだったんじゃない?」
「……ハ、ナ、ム、ケ⁉」
――そうかも知れない! なんて、鋭い考察なんや!
子供やと思っていた蒼ちゃんの成長に驚いた。ウチの思考は、子供のころのまま時を止めているというのに……『女性とキスした』という一面だけで麗香さんを怖いと拒絶して、態度を手の平返しした自分を未だに許せなかった。
「あの時、怖がらんと聞けばよかった……」
「子供だったんでしょ。それに、今と昔じゃ、考え方が違うじゃん」
ウチの中にあった蟠りを柔らかい考え方で癒やしてくれた。
実は蒼ちゃんのことを、思春期と反抗期をこじらせて、その上、自分が大好きで自己中心的で……困った孫だと思っていた。
けれど、蒼ちゃんはいい感じに変わった。
驚くことに最近、蒼ちゃんはアイピチをしなくなった。理由を聞くと――。
「丈ちゃん見ててさ……僕は、二重にして他人からの評価を上げることばっか気にしてたけど、やっぱさぁ自分をアゲる魔法じゃなきゃ、あんま意味ないなぁって。だから、僕の気分でアイピチしたい日はするし、ナチュラルに生きたい日はしないことにしたんだ」
繊細な感情を語る面持ちは自分に酔うように悦に入っている。
ウチに素直な気持ちを話すということは、こじらせた思春期と反抗期から抜け出したんだろう。孫へキャッチフレーズをつけるなら昔は『困り者ナルシスト』で、今は『賢人ナルシスト』に格上げだ。揺るがないナルシストっぷりは蒼ちゃんの個性なんやと思う。
――ナルシストな孫を見習ってみようかな?
ウチは意識して、鏡を頻繁に見るようにした。そうするうちに、鏡に映る自分が愛おしくて、もっと、綺麗になりたいという欲が湧いてきた。
3 蒼馬
2025年 8月
夏休み最後の週、僕と慎平は夢洲駅に降り立った。
夕方からの入場券は、少し価格が安くなると知り、僕らはそのチケットを購入した。
広大な万博会場で僕と慎平の目的は、イベントでもパビリオンでもない。『丈ちゃんを探せ』であった。
僕らは家の中では、何度か丈ちゃんのユニフォーム姿を見ていた。
上下ブルーのユニフォームはいわゆる作業着というより、スポーツウェアに近い印象だった。スタイリッシュで、普段着の丈ちゃんよりカッコよく見えた。
キャップもセットされていて、僕と慎平の提案で、丈ちゃんはお団子にまとめていた長い髪をショートカットにした。
アップグレードされた丈ちゃんで万博に出勤している。
実際に働くその姿を一目見ようと僕らは万博にやって来たわけだが……。
「広い広いとは、聞いてたけど、ここまで広いとは……トイレの掃除を担当してるって言ってたけど……」
「蒼馬、トイレっつてもめっちゃあんで〜。どのエリアで働いてるん?」
「……知らない」
「ええ~、お前、一緒に住んでるんやから聞いとけよ」
「サプライズで会いに行こうって言ったの慎平だろ」
「そこはさ~。それとなく探っとけって」
僕らは互いに昨日ダウンロードした万博のアプリで、会場の地図を見ながら歩いた。スマホの画面を見ながら人込みを歩くだけで目一杯で、丈ちゃんの捜索にまで至らない。
「今、俺らどこにおって、どこに向かってん?」
「さあ……知らない」
一旦、顔を上げて周りを見渡した。僕の目はある場所に吸着された。
「上から、探そう」
僕は目的地を見つけたキャプテンのようなポージングで、大屋根リングを指さした。
屋根の上から見る景色の方が会場の壮大さがより実感できた。パビリオンの間を行く人を僕らは身を乗り出すようにして見た。
「ギリ、人の顔、見える!」
「見えんねんけどさ……人多いし……これ、無謀ちゃう?」
「う~ん……」
唸りながら僕らは果たせそうにない目的を持てあまして、無言で歩いた。
奇抜なパビリオンの建物。
パビリオンの壁面に設置された巨大ビジョンに映る映像。
前に前に歩を進める度に大屋根リングから見える景色は万華鏡のように美しく、僕らは万博を普通に堪能していた。
粘り強く僕らを照射し続けていた西日もギブアップしたようで、空も万博会場も夕焼けに赤く染まり始めた。エモい光景に焚きつけられたように、横を歩く慎平が「俺な、実は……」と、らしくないシリアスな口調で切り出してきた。
「丈ちゃんが、麗香さんに憧れとったんと一緒やねん。実はな……俺、蒼馬に憧れてんねん」
「んッ? えッ? どういうこと?」
驚いて慎平を見ると、真剣な表情だ。
「……なにを言い出すかと思ったら、僕のどこをどう憧れるんだよ。揶揄ってんの?」
「違うねん。そんなんちゃうねん。慎平は肌、めっちゃ綺麗やん。俺は脂性やから、ニキビも多いし、小中とサッカーばっかしとったから、紫外線で、何やっても肌は黒いし。ホンマ、嫌やねん……それに……」
言葉を躊躇って一回呑んだ慎平は、足を止めて、そして吐き出した。
「それに……一番のコンプレックスは毛深いことや! 蒼馬は、髭も生えてないし、腕の毛もない。わき毛も殆ど生えてない」
「な、な、なんで、僕のわき事情を知ってるんだよ」
「Tシャツの袖の隙間から……チェックした」
僕はぎょッとして思わず、両手をクロスして自分の肩を抱きしめた。
「子供の頃から毛深いんイジられとって……揶揄う奴らに怒るんも寒いと思って笑ってごまかしとってんけど……中学の時もサッカー部の部室で毛のことイジられるんが、めっちゃめっちゃ嫌やってん‼」
どういうことだ。こんな陽キャでキラキラしている慎平が、僕のしょっぱい思い出に酷似した過去を話している。
「子供のころからコツコツ貯めたお年玉で高校入る前に髭の脱毛に行ってんけど」
顎をワザとしゃくって僕の方に突き出す。
「けっこう、生えてるやろ?」
「まあ、なぁ……」
「子供の時から、貯めたお金で夢叶えに行ってん。一週間くらいは、ツルツルやってんけどな。芝生みたいに髭が生えてきて、俺の毛根には照射ビームは効かんのかって……ショックで……そんなときに教室で蒼馬を見つけてん。綺麗な蒼馬の肌とか、髭が生えてこない体質とか。全部がもう、羨ましくて羨ましくて」
慎平がサッカー部に入らなかったのも、僕にやたらと親切だったのもやっと腑に落ちた。僕は、友達からコンプレックスの話をされるのは初めてで、どういうリアクションをすればいいか戸惑った。
「その髭、男らしくていいじゃん」
「なんぼ、男らしくても俺は嫌やねん!」
慰めの言葉をかけたつもりが、かえって慎平を傷つけてしまったようだ。慎平は、不貞腐れて僕を置き去りにするように早足で歩き出した。その後ろ姿にシンパシーを感じた。
――僕はバカだ。悩んでいるのは自分だけだと思ってた。
前を行く慎平が、急に立ち止まったと思ったら、飛び跳ねて騒ぎ出した。
「えッ、えッ、えッ! おった! おったー! おった、おった――ぁ!」
慎平は手すりから身を乗り出し指さした。僕は会場を行き交うジオラマみたいな小さな人を、目を凝らして見た。
「どこ、どこ、どこ! 孫より先に見つけるなよ!」
「ほら、あれ!」
慎平の指す方向に、こちら側に歩いてくる女性を発見した。キャップをかぶっているから、はっきり顔は見えない。しかし、手足が短く、あの胸を張って歩く感じ。丈ちゃんに違いない!
「凄いよ! よく、見つけたね」
「青い塊が目に飛び込んできてん。俺、視力2・0やねん!」
「えッ! 狩猟民族じゃん!」
僕らは、互いにスマホの写真画面をズームアップして確認した。
丈ちゃんは上下共にブルーのユニフォームもあいまって、ミャクミャクの親戚みたいだ。
僕らの存在を知る由のない丈ちゃんだが、立ち止まって帽子をかぶり直した。丈ちゃんの顔を確認して、僕らは「フューッ!」と、ぶちアガった。
――運動会の保護者の気持ちってこんな感じかな?
スマホの画面と肉眼を駆使して丈ちゃんを注視した。会場の歩道をキビキビと掃き掃除しながら歩く姿は、とんでもなくカッコいい。間違いなく万博スタッフとして働く丈ちゃんを見て僕の胸は熱くなった。
やがてエキセントリックなトイレの建物に丈ちゃんは吸い込まれるように入って見えなくなった。
興奮した僕は、思わず身を乗り出し叫んだ。
「ドリームズカムトゥルー! コングラチュレーション‼ 丈ちゃーん!」
「ビバ、丈ちゃん! コングラチュレーション‼」
僕に続いて、慎平が叫んだ。
んッ? あれ? 拍手が聞こえる――振り返ると、僕らは、いつの間にか外国の人たちに囲まれていた。一瞬の戸惑いの後、事態を呑み込んだ。
「この人ら、絶対、なんのこっちゃ分かってないで」
慎平の言う通り彼らは、『なんのこっちゃ』分からないまま、祝ってくれている。「Congratulations!!」の歓声と拍手は、どんどん増えていく。これは、なかなか気分がいい。僕と慎平は多国籍な人々とハイタッチすると、ハッピーが伝播した。今の僕はきっと、見ず知らずの彼らとも、分かり合える気がする。
「おい、慎平! コンプレックスって、恥ずかしくないよ‼」
思いが溢れ出して叫んだ。ポカンと僕を見る慎平に向かって、更に大声で叫んだ。
「この感情は失くしちゃいけない向上心なんだ‼」
「おいおい……大声、恥ずいって。うわッ! ……俺ら、撮られてんで」
悪びれることなくスマホを掲げる人、人、人……。ワイワイしている僕らに『なんのこっちゃ』と、日本人も足を止め始めたようだ。
「こ、これはヤバいね……逃げる? そうだ、丈ちゃんのとこ、行こう!」
「そうやな! あの辺のトイレ掃除してんちゃう?」
僕らは、人垣を抜けて走り出した。「ヒューヒュー」という、意味不明な歓声と拍手に送られる。
丈ちゃんを目指して駆け出した僕らの目の前には、圧倒的な存在感で辺りを照らしている夕陽があった。
真っ赤に染まった大屋根リングと、暖色のグラデーションで彩られた空が融合して、時間限定の絶景となっている。
僕の体も景色と一体化するように赤くライトアップされていた。見れば、隣で笑う慎平の顔も、赤く輝いている。
そして、行き交う万博会場に集う人々の笑顔も、赤く染まって輝く。
――なんて、みんな美しいんだろう。
自然と溢れてきた涙をTシャツの裾を引っ張り上げて、こっそり拭う。感情を昂らせた僕は、丸い輪郭を滲ませながら沈んでいく夕陽に向かってピースサインを掲げた。
【おわり】