1 蒼馬

僕、間山蒼馬は、自分の顔が嫌いだ。
特にこの、腫れぼったい一重瞼は耐え難い。
肉づきがよい一重瞼を引っ張り上げながら、鏡に映る自らを気の毒に思う。
小学生の頃、普通の顔をしているだけで「なんか、怒ってる?」と友人に絡まれたし、「言いたいことがあるなら言ってみろ!」と、教師に凄まれた。
このような目に遭うたびに、家で一人、鏡を見て他人を不快にさせない表情を研究した。どうにか『穏便で害のない、いい子』であることを周知させようと努力した。
しかし、どんなに、口角を上げてみても、その表情は、友人や教師の言うように、不機嫌で不服そうに見えた。『根源は、一重の目だ』という潜在的に持っていた仮説を事実として受け止めた。
――どうにかして、二重瞼を手に入れたい! 手にいれなければ、輝く未来はないぞ!
そんな思いで小、中学生時代、僕は同世代の男子たちよりか非常に多く鏡を見て過ごした。
やがて、不思議なことが起こった。
自分の顔を『ブサイクだなぁ』と思う一方で、『ぶちゃカワイイ』と思う気持ちが拮抗し始めたのだ。そのため、整形という土台の改造の分野には、興味のベクトルが向かなかった。『ぶちゃカワイイ』自分のために、できることを必死で考えた。
僕の美意識は日々成長し、底知れぬモノに育っていった。
スキンケアを研究し、中学の頃にはまったく毛穴の目立たない陶器肌を手に入れていた。しかし、当時の友人は誰ひとり、僕の肌を褒めなかった。気にもとめていなかった。
小、中学校と僕は、明るく、よく喋り、友人は多い方だった。一見、賑やかで健やかな学生生活を送っていた。しかし、実際のところ、僕は、満たされない思いを抱えて寂しかった。
2024年
高校生になった僕の一日は、アイピチをすることから始まる。
ティッシュペーパーで瞼の上の皮脂を丹念に拭き取り、はけノリのタイプのアイピチで片方ずつ瞼の肉を伸ばしながら、なにかしらの伝統工芸の職人のような筆さばきでサッと一息に塗る。右手は瞼を引っ張り上げ、左手でハンディファンを持って風を当てノリの色が白から透明になるのを待つ。直風を当て続けたつぶらな瞳がドライアイで痛くなる頃、ノリは透明になる。
さすまたを極小サイズにしたようなプッシャーを理想の二重の位置にグーと押し込むが、一瞬の二重を瞼の肉がパンッと押しのける。
僕の瞼はこのノリだけでは二重にならない。
次の工程では、なりたい二重のラインにファイバーと呼ばれる透明の糸を、目の上で橋をかけるようにして押し込む。羊羹を糸で切る様を彷彿させる工程である。
毎朝、コンプレックスと戦って、納得がいく目の大きさをゲットする僕の姿を見守る人がいる。母方の祖母、月本丈子。通称、丈ちゃんである。
僕はこの家でいちばん照明の明るい居間でアイピチをしているのだけど、丈ちゃんは居間の隣、台所のエリアから、じ~ッと僕を見ている。この妙な距離は、なんのつもりなんだろう。
妙な距離をとっておきながら大きくなった僕の目を見て「凄ッ‼ 魔法みたいやわぁ~」と、毎朝のことなのに新鮮な驚きを口にする。
そして、嬉しそうに笑う。
今日、それが、どーしても我慢できなくて、「ウザッ」と小さく吐き捨ててしまった。言ったところで、スッキリはしない。むしろ、ムカつきは増した。
丈ちゃんに対して、どういう風に喋ったり接したりしたらいいのか、正直、分からない。だから、塩対応してしまう。そんな僕に丈ちゃんはニコニコと世話を焼いてくれる。
僕と丈ちゃんの顔の造形はよく似ている。腫れたように肉付きのよい一重瞼。左目の方がより逞しい瞼なところまでそっくり同じだ。
両親とも綺麗な二重瞼なのに、僕の遺伝子は丈ちゃんの顔を完璧にコピーしてしまった。隔世遺伝は僕の枷でしかない。僕が毎朝こんなに苦労しているのに、いつも、化粧もせずに素材のままの顔を晒して生活している丈ちゃんに、なんだかムカついた。お得意の笑顔も、能天気な感じがして、癪に障る。
子供の頃の僕は丈ちゃんのニコニコ顔が大好きだったのに……。
小5の夏休みに、大阪のじいじが亡くなった。
早朝、丈ちゃんが、寝床で冷たくなったじいじを見つけた。死因は、心不全だった。
当時、関東に住んでいた僕ら一家(僕と両親)は大阪へ駆けつけた。
お父さんの仕事が特に忙しかったせいもあり、僕と丈ちゃんが、会うのは確か……2年ぶりくらいだった。
葬儀場の広い控室で、じいじの棺の前に丈ちゃんはポツンと一人座っていた。小さな背中は力なく丸まっていて……それは、小5の僕にとっては人生初の『とびきり物悲しい光景』だった。
仕事があるお父さんはすぐに家に帰ってしまったけれど、専業主婦のお母さんと僕は残りの夏休みの間(2週間ほど)、大阪の丈ちゃんの家で過ごした。
二階建てのボロボロの一軒家。砂壁は落ち、あちこちヒビが入っていた。時々、家は悲鳴を上げるようにパンッと梁を軋ませた。
ボロい家だけど、丈ちゃんが家を丁寧に掃いて拭いて磨いているから家の中を流れる空気はとても清潔で清々しかった。
丈ちゃんはビル清掃のスタッフとして働いていた。午前5時に家を出て仕事をこなし午前10時くらいに帰宅した。そして、「座ったら動きたくなくなる」と言って、すぐに自宅の掃除を始めた。その姿を見て僕は――丈ちゃんは掃除が趣味なんだ。と、思った。
夏休みの間、僕は、よく階段の中途に座って過ごした。家の中央にある階段からは、家の様子が見渡せたし、二階の開けた窓から、一階の玄関に向けてコンスタントに風が流れ込んで吹き抜けていく。この頃の8月は、暑いは暑かったが、冷房のない場所でも生命の危険は感じる暑さではなかった。
特にすることもなかった僕は階段から丈ちゃんを観察するのが日課になっていた。いちばん興味深かったのは、風呂場を掃除する姿で、初めて見たときは、衝撃を覚えた。
一心不乱にタイルを磨き、鏡を磨く。その様はオカルト的で正気の沙汰ではなかった。けれど、圧巻だった。
丈ちゃんが「あ~、綺麗になった」と、言うのが掃除終了の合図だ。
磨いたタイルや、鏡は丈ちゃんを労うように光を放った。輝きは新品のモノが放つピカッピカッというものではなくて、とても控え目な輝きで僕はそれが、美しいと思った。
自分によく似た顔した丈ちゃんに親しみを覚え、両親に言えない話をした記憶がある。
僕はいつものように階段に座っていて、丈ちゃんは短い手をワイパーの様に動かして廊下に雑巾をかけていた。
「僕、『土偶饅頭』って呼ばれてるんだ」
なるべく、深刻さのない口調で言ったのは、心配をかけたくないからというより、泣いてしまいそうな自分を誤魔化すためだった。
社会の教科書に土偶が登場した時、ギョッとした。
――物凄く僕に似ている! なんなんだよ、土偶! どこの誰なんだよ、土偶!
ほどなくして、クラスメイトは、名前の代わりに僕を『土偶』と呼び始めた。
最悪な気分を偽って、僕は笑った。
――泣いたり、怒ったりしたら……めんどくさいことになる。
自分の気持ちより、逃れようのない小学校のクラスという、小さな社会の平和を保つことが大事だった。
捻りがないと思われた『土偶』という呼び名は、いつからか『土偶饅頭』という、銘菓のような呼び名に改名された。小学生の頃の僕はぽっちゃり男子で、饅頭を頬張っていそうでもあり……間違いなく人間なのに、どういうわけか饅頭本体にも見えた。なにより、『土偶』より『土偶饅頭』の響きの方が、悪意が薄まるし、面白くキャッチーだ。
だから、この言葉のチョイスはとても意地悪だと思った。
「なんと、美味しそうな」
丈ちゃんは廊下を拭きながら、ニコニコ顔をこちらに上げて言った。
――その、美味しそうな感じが腹立たしいんだけど。
思いながらも、丈ちゃんの朗らかな笑顔につられて、笑ってしまった。そして、その笑顔は、僕よりはるかに土偶っぽくて心強く感じた。
お葬式の日以来、丈ちゃんはじいじのことで泣いたりしなかった。
もちろん仏壇に、毎日手を合わすのだけど……その時の丈ちゃんの動作は、感情のないマシーンのように僕には見えた。
丈ちゃんは、じいじの話題を避けていた。だけど、よく喋りよく笑っていた。時々やけに静かになって心配して探すと、家の中の何かをクレージーな感じで磨いていた。
丈ちゃんはいつも、キビキビと動き、ニコニコと笑って、そして僕の話を聞いてくれた。
丈ちゃんの家を離れる日。
階段に座った僕は吹き抜ける清潔な風に吹かれながら、丈ちゃんが独り、ず―――ッと、風呂場の鏡を磨いている姿を想像して……泣いてしまった。
中3の12月。お父さんの希望が通り、関西への転勤が決まった。しかし、関西といっても広く、勤務地は丈ちゃんが暮らす大阪ではなく兵庫だった。なかなか、思い通りにはいかないものだ。
近い将来、大阪のボロ家は二世帯住宅に建て替える予定だ。
とりあえず、両親は神戸にある社宅マンションで暮らし、大阪の高校に進学する僕は丈ちゃんと二人暮らしすることになった。
大阪に住むと決まった後、嬉しくて成長ホルモンが活性化したのか、急に身長が竹の子みたいに、にょきにょき伸び、僕の身長は一気に182センチになった。ぽっちゃり少年は、縦にビヨーンと長く成長した。
僕は幾分か、丈ちゃんから隔たった人種となって大阪に見参した。
高校生になった僕の心では、かつて涙を流した丈ちゃんに対する心配のウェイトはすっかり小さくなっていた。そんなことより、『土偶饅頭』と呼ぶ輩がいない街で暮らせる喜びでいっぱいだった。
だから毎朝気合を入れて二重瞼を作成して、無双の心待ちで学校に登校した。
それが、良くなかったのかもしれない……。
とりあえず友人が欲しかった僕は、出席番号の近いクラスメートに片っ端から声をかけた。しかし、誰もが僕の話に「で、オチは?」と聞いてくるもんだから、目を白黒させて「えッ?」としか言えなかった。
噂には聞いていたが、マジで関西人は常設で、オチを要求してきた。
郷に入っては郷に従えと、僕なりの、オチを考えて話してみても「それオチなん?」「弱いわぁ」などと、批評されていた。
――こ、これは……毎日がお笑いのネタみせじゃないか? もう、怖い……小中の友人たちと、オチを気にせず話したい!
そんな気持ちになったけれど、僕のバキバキの二重の顔を見たら、小中の友人は間違いなくバカ笑いするはずだ。
僕は「こんなはずじゃ……」と、知らないうちに呟いた。
会話することが怖くなってしまった僕は、すっかり卑屈になってしまった。
休み時間は、かっこつけてスマホを弄り倒した。かっこつけてとは、『僕は! 端から誰とも喋りたくない。友人なんて、いりませんけど、何か?』という、雰囲気を、おびただしく出すということだ。
スマホに集中する僕はSNSに、嘘の自分を呟きまくった。閲覧数、フォロワーの増加は、僕の孤独を幾分か希釈してくれた。SNS上での僕は、高校デビューに見事成功し、心から分かり合える友と出会っていた。自分は嘘をついているくせに、高校デビューに失敗したリアルエピソードを探した。そして、投稿に共感したり、あるいは、自分の方がマシだと見えない誰かにマウントを取ったりした。
「ちょっと、聞きたいことあんねん」
「ふぇッ……」
急に声をかけられた僕は、マヌケな音で返事した。声の方に顔を上げると、色黒でワイルドな男子が立っていた。
コイツ、オチは? って言いそうな顔してる。
僕の恐怖を知ってか知らずか、彼は顔をグッと寄せてきた。
――そんな、近くで、なに? ヤバい、アイピチがバレる! いじられる!
「自分、顔ツルツルやん! なんでなん? 髭、どうしてん?」
「ヒゲ、ハエナイ」
なぜか、カタコトで返事した。
「やっぱりかぁ! スゴッ! 肌綺麗やし……めっちゃ、ええなあ。羨ましいわ」
――よくぞ、気がついてくれた! 僕の肌はキメ細かくて美しいんだ!
「なんかしてんの?」
「まあ……色々、スキンケアは、してるかな」
まだ、オチの件を警戒しながらドギマギと答えた。
「やっぱりかぁ! スゴッ! 美意識高ッ!」
そう言って、彼はごく自然に前の席に座った。ワイルドな男子は、スキンケア方法を根ほり葉ほり質問し始めて、僕はカチコチで面接を受けているような感じで丁寧に回答した。
これが、赤松慎平との出会いであった。
慎平は、ナチュラルボーン的なコミュ力の高さで人気者だった。
中学時代はサッカー部で活躍していたらしく、高校でも、サッカー部に入らないかと勧誘されてるのを何度も目撃した。
――きっと、サッカー部に入って模範的なアオハルを手に入れるんだろうな。
慎平の陽気さが疎ましかった。毎朝、コンプレックスと向き合って身支度している僕より、明らかにキラキラしていて理不尽だと思った。
僕は密かに妬み嫉みがギンギンだった。しかし、彼は僕に――なにか、思惑があるのでは? と疑いたくなるくらい親切だった。そして、サッカー部に入らず、放課後は、僕の家に入り浸たるようになった。
二階の僕の部屋(昔はお母さんの部屋だったらしい)は、日当たりが悪く、昭和感漂う紐を引っ張るタイプの照明を点けても、なんだか、陰気で暗い。
そのうえ、慎平がこの部屋の天井にある大きな波紋のような木目を見て「あれ、人間の目みたい」なんて、怖いこと言うもんだから……僕らは、日当たりがよく明るい一階の居間に居着いた。
当初、丈ちゃんは定位置の台所からジーッと僕らのことを見つめていた。
害はないけれど、とても、気まずい。
ここでもコミュ力の高さを慎平は見せた。丈ちゃんにさり気なく話を振って自然に会話を始めた。結果、慎平と丈ちゃんは急速に仲良くなり、僕を差し置いて、2人でお喋りするようになった。
慎平とお喋りするとき丈ちゃんは、とても嬉しそうに笑う。
――なんだか、とても、ムカつく。
丈ちゃんに対して息苦しい態度しか取れない僕は、昔のように屈託のない孫として振る舞えるきっかけを探していた。
その日、珍しく家には僕しかいなかった。
丈ちゃんは、職場の懇親会で、慎平は、中学時代の友人の集まりがあるらしい。
僕は、帰宅後すぐに台所へ向かった。最近、唐突に腹が減って何か口にしないとイライラしてなにも手につかない。
食品がストックされているカラーボックスの前に座って、カップラーメンを一旦手にとり、思い直して、スナック菓子の袋を開けた。無心で頬張ると、思考が活動的になった。
――丈ちゃんも、慎平も、僕抜きで成立する世界を持っている。
対して僕は、丈ちゃんと慎平によって、なんとか孤独を回避している。2人に対しての感謝の気持ちよりか、自分の不甲斐なさに情けなくなった。
止め時が分からず機械的にお菓子を口に放り込んでいく。あっという間になくなった空の袋を手に立ち上がった。見るとなし見たテーブルの上に見慣れないモノが視界に入った。
ところどころ錆びた朱色のお菓子の缶。
軽い好奇心で古めかしい缶を手に取り、蓋を開けた。中に入っていたモノは――。
色褪せた手紙が10通ほど。送り主は全て『綿貫麗香』……って、誰?
うち、1通はビリビリに破られていた。
そして、古めかしい昭和感満載の写真。
写った女性を見て「うわ~。カワイイ」と思わず声が出た。
その女の人は少女漫画を実写化したみいな顔立ちだった。大きい目も、小ぶりな鼻も、ポテッとした唇も、正しい位置に配置されている。
――この人、なんで、変なかっこうなんだ?
全身ミントグリーンの服は妙に体にピチピチにフィットしているし、穿いてるパンツは極端に短い。かぶっているクリームイエローの帽子は、バッターボックスに立つときのヘルメットみたいな形をしている。
制服にしては突飛だし、着せられてる感が半端ない。
――これは……宇宙警察のコスプレ? 昭和ってコスプレ文化あったけ?
カワイイ女性と手を繋ぐ、小学生の少女。ニンマリ笑うその顔は、『土偶饅頭』と呼ばれ始めた頃の僕に瓜二つだった。
僕は旧姓の丈ちゃんに宛てて書かれた手紙を、手に取った。誰も居ないシンと静かな家の空気に後押しされて、封筒から取り出して手紙を読み始めた。
手紙の内容から推理できたこと。
あの写真は昭和の大阪万博で撮られた。
写っているのは、万博で働いていた女性と少女・丈ちゃんのツーショット。
丈ちゃんは彼女と文通していた。
――どうして、2人は出会って文通するようになったんだろう?
丈ちゃん側からの手紙はないので、どういったやり取りだったか、はっきりとは分からないけれど、とても子供に宛てた手紙とは思えなかった。やさぐれた大人の女性のリアルな愚痴、悩みが僕の感覚としてはヤケッパチを言うように書かれていた。
――写真に写ったカワイイ女性が、この手紙を書いたのだろうか? あのビジュアルなら、人生楽勝じゃないのか? 見た目の美しさと、幸福度は相乗効果があるって、思っていたのに……違うの?
興味がかきたてられた僕は、最後に残った破れた手紙をセロハンテープで修復した。パズルを組み立てるような作業だったが、集中していたので、すぐに、出来上がった。
そして、読んだ手紙の内容に……僕は激しく困惑した。
数日経っても僕は、手紙について丈ちゃんに聞けなかった。
――聞くなら今だ。と、思ったすぐ後に――どんな顔して? どんな口調で? と、悩んで体は動かなかった。
屈託ないカワイイ孫の僕をどう考えても召喚できそうにもない。
――缶を開ければ、僕がセロハンテープで修復した手紙がある。丈ちゃんから「見たやろ」と、言ってきてくれるまで待とう。
僕は、丈ちゃんを妙な距離間で、じっと見るしかできなかった。
結局、丈ちゃんからのリアクションはいつまで待ってもなかった。
天気予報では「今年、初めて真夏日」を伝えていた。
学校は最寄り駅からなだらかな坂道を20分ほど上りきった所にある。
朝から日差しがきつく、汗で顔がドロドロと崩壊していくのが鏡を見なくても分かった。
学校に到着したときには、一ッ風呂浴びたみたいに汗だくだった。僕は人目を避けて化粧直しのためにトイレへ急いだ。が、トイレの手前の廊下で――。向こうの方からクラスの女子がやって来るのが見えた。よりによって、ヤンキーっぽい5人くらいの集団だ。
踵を返そうかと一瞬迷ったが、それも不自然に思い、顔を前髪で必死に隠しながら進んだ。
嫌な予感がして身を強張らせて、彼女たちの横を通り過ぎた時だった。
「アイピチ剥げてるやん。キッショッ」
「アイピチお化けやん」
聞こえるギリギリを攻めたボリュームの声でディスってきた。
――『アイピチお化け』って……もはや『土偶饅頭』に物凄く愛を感じる。
僕は、聞こえている悪口を聞こえないふりをして、そのまま歩き続けた。
「お前ら、待てや‼ なんて言うたッ⁉」
背後からの大声に、僕は驚いて跳ねた。振り返ると、登校してきた慎平が立っていた。
女子グループに今にも、殴りかかっていきそうな剣幕だ。
「今、キショッって、言うたやんなッ⁉」
「……はあッ?」
慎平に気圧された様子で女子たちは走って逃げていった。幾分離れた場所から「ウケる~」と、笑い声が聞こえてきた。
登校時間の廊下は、往来が多かった。
なのに慎平はあろうことか大声で「お前ら、なんやねん! アイピチの何が悪いねん!」と、女子たちに向かって怒鳴りつけた。
行き交う生徒たちは、ギョッと慎平を見て、そして、僕を一瞥した。
僕には、ここにいる皆が、笑いを堪えているように見えて……恥ずかしさで、心臓が強く速く鼓動を打った。
僕は居たたまれず、逃げ出すようにトイレに駆け込んだ。
暑く薄暗いトイレの個室に籠もって鏡を見た。
アイピチのノリが剥がれてビローンとなった僕の顔があった。それは、すっぴんの顔より醜かった。汗ばんだ顔を修正する、僕の手は震えていた。
朝から恥部を晒した気分で、無性に腹が立った。腹立ちの矛先は、女子集団ではなくて慎平に対してだった。
慎平に対して怒るのはお門違いだと、分かっていた。だから僕は、どう振る舞ったらいいのか分からなくなって、不貞腐れた。
僕の態度に「俺、なんか、悪いことした」と、慎平はしつこく聞いてきたけれど、無視した。無視するしかできなかった。
そして、一日中不貞腐れ続けた僕は、慎平から逃げるようにして一人で家に帰った。
建て付けの悪い引き戸を開くと、玄関先で「お帰り」と、正座した丈ちゃんが待っていた。イレギュラーな出迎えに僕は――良くない出来事でもあったのか? と、たじろいだ。
「えッ、なにッ⁉ 何かあったの?」
「蒼ちゃんに、お願い事があります! アイピチのやり方教えてください!」
丈ちゃんは三つ指をついて、恭しく頭を下げた。
「はぁッ⁉」
困惑する僕の背後で引き戸がガタピシと開いて、慎平が立っていた。
「俺、納得いかへん! お前の態度なんやねん。何、キレてんッ⁉」と、パッション漲る慎平の目が、僕に向かって土下座する丈ちゃんで留まった。
「蒼馬、なにしてんねん……お前、なに、丈ちゃんにアタってんねん!」
「いやッ! 違う!」
驚いて否定する僕に向かって「どうしたん?」と、丈ちゃんは聞いてくる。一方で慎平は凄んでくる。
「朝のこと、怒ってんの? お前さぁ……理想の自分になるためにアイピチしてるんやろ? それって、すごい自分を大事にしてるってことちゃうん? ふざけたイジリ方されて、なんで黙ってんッ⁉」
「偉そうに……コンプレックスのないお前には僕の気持ちなんて分かんないよ!」
口にしたら、惨めで泣きそうになった。
「はぁ? もう、ええわ……」
踵を返した慎平が立ち去ろうとした――その時、突然、丈ちゃんが叫んだ。
「蒼ちゃんのアホッ! コンプレックスのない人なんて、おらへん!」
驚いて丈ちゃんの顔を見ると、両手で顔を覆って、ワッと泣き出してしまった。
僕と慎平は困惑して、顔を見合わせた。
色々な感情が渋滞した玄関は尋常じゃない暑さだった。
その後、僕ら3人は居間でちゃぶ台を囲んだ。
「……ウチ、ちょっと、興奮しすぎたな」
泣き止んで落ち着いた丈ちゃんは、少し恥ずかしそうだった。
「蒼ちゃんも、慎平くんも喧嘩はあかん……なにより、大事な人を拒絶したらあかん」
言いながら、あの赤い缶の蓋を開けてちゃぶ台の上に置いた。僕は、声を出さず「あッ」と口を開けた。丈ちゃんは、セロハンテープで修復した手紙をなでて「ありがとう」と、僕の方を見た。
「手紙と写真? これ、なんなん?」
初見の慎平が疑問を口にした。
「1970年の万博での出会いから始まる話やねんけど……聞いてくれる?」
少し泣きそうな声のその問いに、僕らは黙って頷いた。
【つづく】