第2話 アオハル・マジカル(後編)

「それじゃあね、紬さん」
「どうぞお気をつけて」
午後五時五十分。最後の利用客が、『ミシンとボビン』を出ていく。
紬は客を見送りがてら、ドアノブにかけた『オープン』の札を返し、『クローズド』にした。
本当ならここで鍵も閉めて、のんびり閉店の準備を始めるところだが、最近はそうもいかなかった。
すぐにどやどやと騒がしいキッズたちが、集団でやってくるからだ。
「──紬さん、こんばんは!」
「ちわっす」
「今日もよろしくお願いします!」
漫研部員たちのコスプレ衣装作りは続いていて、閉店と同時に我先にミシンやアイロンを使いはじめる。
「これ、足りなくなった追加の布です。さっきお店行って買ってきました」
「今度こそ慎重にいこうね。袖を二枚一緒に縫っちゃうのはよくあるけどさ」
「……わかります!」
無茶な使用方法で店のミシンを壊されるのも怖いので、紬はそこだけ気にしながら見守りに徹している。
「ちょー歪んだ! でも隠れるところだから知らない!」
「よっしゃ、本体完成! 次はメイドエプロンだ……!」
「ねえねえ、けっこうよさげな感じじゃない? 『ユッカ』になれてない?」
ミシンを縫いながら実況を始めたり、仮縫いした上着を着て浮かれてみたり、毎日が文化祭前日のようだ。
(……ま、私は参加したことはなかったけどさ)
彼らの邪魔にならないよう、紬はカフェコーナーに避難して自分の作品作りも進めることにした。
「──やっぱめちゃくちゃうまいのな、紬は」
ふと顔を上げれば、武流が通りがかりにこちらの手元に見入っている。
紬は帆布に刺繍糸で花の図案を刺していた。今は黄色いミモザの花だけだが、ラベンダーや鳥も追加して賑やかにするつもりだ。そして最終的には、ネットかフリマで売ることになるだろう。
「どうするのそれ」
「ちゃんと決めてないけど……たぶんバッグになるのかな」
「ふうん。売れそうだな」
「……どうでもいいから、君は自分の衣装を仕上げなさい」
「褒めたんだぞ。ちょっとは喜べよ」
なんのためにこちらが居残りで残業していると思っているのだ。
そしてどれだけ盛り上がったとしても、作業自体は八時過ぎには必ず切り上げさせた。そこは高校生相手なので、けじめだと思っている。
武流以外は電車通学らしいので、日暮里駅前で解散し、そこから先は武流と二人で谷中の商店街まで帰ることが多い。
「にしても毎日元気だね、君ら」
「そうか? もっと騒がしい奴なんて、いっぱいいるぞ」
いや元気だよ本当に。
谷中霊園の石垣沿いを、通学用の自転車を押して歩く武流に続き、紬も自前のアシスト自転車を押して歩いた。このあたりはだらだらだらと続く上り坂なので、地味にきつい。本当はこのためにアシスト付きにしたのに、歩くのでは意味がない。武流はまったく気にしていないようだ。
「……あのさー、武流君。やっぱり今回の件、菱田さんに言っちゃだめ?」
「はあ? なんだよ今になって。汚えぞ!」
武流が猛然と振り返る。裏切られたと思ったようだが、違うのだ。
「そうじゃないから聞いて。どうどう」
「オレは馬じゃない」
「私は告げ口したいわけじゃないんだよ。君たち悪いことなんて、なんにもしてないし」
「じゃ、なんなの」
「……だってさ。菱田さん、あれでもずっと心配してるみたいなんだよ。君が毎日、退屈でつまんない思いして学校行ってるんじゃないかって」
「そんな風には見えないけどな」
「日頃からちゃんと言ってる? 学校であった楽しいこととか、面白かったこととか」
武流がまた前を向いて黙り込む。痛いところをつかれたようだ。
(だろうと思った)
何せ、部活に入っていることすら隠していたぐらいなのだ。格好つけの秘密主義。
「どうせ高校は通過点だ、キリッ、なんてことうそぶいてたんでしょ。で、かったるそーな顔して通学して、それが格好いいと思ってた」
「……えらそーに」
「は、やっぱりね。小出しでいいから情報開示は大事だよ。でないと私みたいに、本気で友達いなくて話すことがなかった奴と、一緒にされちゃうよ」
「……いやえらくねえ。めちゃくちゃだせえよ」
うるさいよ。
そこでドン引かれると少々傷つくだろう。
「ま、それは単にそういう時期じゃなかったってだけで、今はそこまで気にしてないんだけどさ。武流君の場合は……違うでしょ?」
間違えてはいけない。ちゃんと居場所があって友達や先輩がいて、彼らのために一生懸命になれるのだから。
紬の念押しに似た質問に、武流はそっぽを向いた。
「知るかよ。勝手にしたら」
おお、そうか。
たとえ吐き捨てるような台詞だとしても、言質は言質だ。
(よし言ったな。勝手にするよ)
武流が自分の自転車のサドルにまたがり走り出したので、紬もようやくアシストの恩恵を受けて後に続いた。商店街までやってくると、どこかの居酒屋から炭焼きのいい匂いがただよってくる。
ここが武流の育った街であり、紬が変わることができた場所でもあった。
そして、ついにやってきた六月最初の土曜日。
天気はまだ梅雨入り前の快晴で、校門の前では菱田セドリックが手を振っていた。
「――ここです、紬さん!」
場所は上野公園にもほど近い、都立上野東高校だ。白いTシャツにコットンパンツの私服姿で、大型のトートバッグとクーラーバッグを持った白人青年は、インバウンドの観光客とも違って非常に目を惹いた。
「朝早くすみません。できれば開門と一緒に席を取りたくて」
「いえ、こっちも保護者の方がいないと入れないので……」
本当に、臨時休業までして何をやっているのだと思う。店に休みの看板を出しているのは、『竹善』を経営しているセドリックも同じだろうが。今日は武流の学校の体育祭なのだ。
一応紬としては、完成した衣装に責任があることと、万一トラブルがあった時用に裁縫道具を差し入れる名目はあった。
「いやー、本当に楽しみですね。武流がリレーの選手とは!」
「選手とはまた違うような……」
「そうだ。動画に撮って、横浜のお義父様にも送らないと。バッテリーの予備を確認しておきましょう」
いかん、目がきらっきらだぞこの人。テンションぶち上がってしまっている。
「まあ菱田さん、武流君ももう大きいんですし、応援は控えめにしましょうか……」
「もちろんですよ。私もそれぐらいは承知しています。声援は心で! ハートですね」
「そうなんですけど、ちょっと前のめりで暑苦しいというか……」
「レモネードを作ってきたんです。紬さんお好きでしたよね」
喋りながらも終始笑顔で、常時三センチぐらい浮き足だっている感じで、こうなると武流があまり多くを語りたがらなかったのも、少しわかるなと思ってしまった。セドリックには申し訳ない話だが。
(──あ、でもおいしいや)
グラウンド後方のシート席に陣取って、始まった競技を観戦しながら飲むレモネードは大変美味であった。
恐らく店で作っている、定番メニューだ。スライスしたレモンとグラニュー糖と蜂蜜を、保存瓶に漬け込んでお湯や炭酸で割る。『竹善』の場合はそこに季節や行事によってスパイスやハーブを加えるので、毎回ちょっと深みのある味と香りになる。
気温はこのままいくと夏日になりそうだが、あえてホットのお湯割りなのも正解だと思う。周囲で見ている保護者にも売ったら儲かりそうだ。
流行の曲にのった五十メートル走や、集団ダンス発表などを見物しつつ、紬はふと疑問に思って訊ねた。
「イギリスにも体育祭とか運動会って、あるんですか?」
「そうですね……一応、スポーツデーと呼ばれるものはあります」
「あ、あるんですね」
「ただ本当に走ったりするだけなので、二時間ぐらいですぐに終わりますよ。玉入れや騎馬戦のような競技もやりません」
「それはそれで楽そう……」
「日本式の運動会を知ったのは、武流の小学校の時が初めてですね」
そこでセドリックが、いきなり意味深に笑って口の端を上げた。
「なんだか思い出しますね。前に武流の運動会を見に行った時のことを。紬さんは覚えていますか」
「ああ……あれですか」
さすがに忘れるわけがない。あれはまだ紬が大学の一年生で、武流が小学校の四年生ぐらいだったはずだ。
何がおかしかったって、あの当時武流はバリバリの不登校児だったのだ。
「武流君もいないのに」
「そうです。なのに大人三人で応援に行って……考えてみるとシュールですよね」
「今さら気づかないでくださいよ」
「今日も虎太朗を呼べればよかったですね」
隣のセドリックはレモネードのコップを持ったまま、機嫌がよさそうに青い目を細めている。紬は思わず口をつぐんだ。
「……いない奴の話をしても、しょうがないですよ」
そう。とにかくその一言につきる。
あの男の住所はもう谷中にないし、呼んだところで来るわけがない。
だからいちいちもやもやするな、傷つくな。
「あの頃を知っているからこそ、私は嬉しいんですよ。武流には、沢山の人と触れ合って、自由と愛することの喜びを知ってもらいたい」
その時、グラウンドにかかる音楽が、運動会の定番『天国と地獄』から、縦乗りが激しいヘヴィーメタルの洋楽に変わった。
『かあもおおおん、えぶりばでぃ、決戦の時間にようこそおおおお!』
放送席から、やたらとテンションが高いアナウンスも入る。
「これは……なんの時間でしょう」
「たぶん始まったんですね。例のリレーが」
セドリックから借りたプログラムを見直して、紬は言った。
『今年もやってまいりました。毎年恒例、上野東高校名物部活対抗リレー! 活動内容を問わず、部員四人でバトンを繋いでゴールを目指す、部活の異種混合クラブワールドカップ! 与えられるのは勝利の美酒か敗者の屈辱か。実況は僭越ながらわたくし、放送部の山田が。解説は当校副校長の、八頭先生でお送りいたします』
『どうもこんにちは、八頭です』
『まずは入場ゲートより、選手入場です。トップは前回優勝のサッカー部!』
BGMが全国高校サッカー選手権大会でお馴染み『ふり向くな君は美しい』に変わる。ユニフォームとサッカーボールを手に、日焼けした選手がゲートから登場すると、リレーのはずなのにフィールドで試合が始まりそうな錯覚を覚えた。
四人のサッカー部員は観客席の生徒の声援を浴びながら、トラックをランニングしていく。
『選手はトラックを一周してから、スタート地点へ移動します。ここでのパフォーマンスも、出来映え点に影響します』
『審査員へのアピールですね。サッカー部はフィジカルの強さが圧倒的ですからね。出来映え点の方はさほど重視していないようですが……おっと。さすがにリフティングはうまいですね。さりげない加点です』
審査はテント内にいる来賓と教職員によって行われるらしい。一周し終わるとすぐに得点が発表されるので、続くチームは緊張するだろうと思った。
そのサッカー部に続いて登場したのは柔道部で、全員柔道着姿なのはともかく、最後尾が畳をかついでいるのは何事かと思った。
『おおっとおお! いきなりここで乱取りの開始!』
審査員席前で人を投げはじめたのはすごかった。
「いいんだあれ……」
「ジュードーですね。素晴らしいアピールです」
セドリックが手を叩いて喜んでいる。
その後もバレー部やテニス部など、ユニフォーム姿の運動部の入場が続き、『スパ魔女』の軽快なオープニングテーマがかかったのは五番目だった。
「菱田さん」
「ええ、武流の番ですね」
いよいよだ。ゲートをくぐって現れたのは、四人の魔法少女──ならぬ、男女混合の漫研部員だ。
(よし、ちゃんと完成してる!)
紬は監修者として、まずそこに安堵した。
芦屋部長の『アカリ』は、ピンクのワンピースにボリュームのあるパニエを仕込み、ウィッグも小道具もギリギリまで粘って仕上げたので、予算のわりに安っぽさがない。
武流も小柄な体を活かして、ゴシックメイドな『ナナキ』の衣装がはまっている。ちょっと引くほど美少女をしている。緊張のせいか笑顔がまったくないが、かえってそれが神秘的なキャラらしさを引き立てていた。
二年生女子部員の佐伯はすらりとしたスタイルのよさで、明るく中性的な『ユッカ』をうまく着こなしているし、長身の安藤の体格でふりふりドレスの『メイ』を着るのはもはやネタだが、彼が驚異的な集中力でティアードスカートを完成させたのを紬は知っている。
「紬さん! こんにちは!」
「──あ、長峰君」
ジャージ姿の長峰少年が、紬たちのところにやってきた。
「来てくれてたんですね。ありがとうございます」
「君こそ、こんなところにいていいの?」
「僕はもともと見学ですから。応援するのはどこからでもいいんですよね」
彼はそう言って、グラウンドの仲間に目をやった。
トラックを練り歩く四人に飛ぶ声援は、思っていたよりも明るい。武流の美少女ぶりに「あれ誰?」と噂する者あり、安藤君の勇姿に爆笑と拍手を送る者あり、保護者席の小さい弟妹たちも「ユッカちゃんだ!」と喜んでいる。
(けっこういいじゃないの。受けも悪くなさそうだし)
定休日と閉店後の『ミシンとボビン』に、連日通い詰めたのも報われたか。
『今回初出場の漫画研究部。人気アニメ『スパイラルダンス~魔法少女連盟~』より、ヒロインたちのコスプレ衣装でアピールです!』
『いやあ、凝ってますね。資料によると全部お手製らしいですよ』
『大きなお友達から小さなお友達まで、これは出来映え点の加算が期待できそうです!』
『先生はアカリたん推しです』
審査員席でいったん立ち止まり、練習したであろう合わせの決めポーズを取ると、今までで一番大きな拍手が上がった。
そしてふと横を見たら、セドリックがスマホを構えたまま、はらはらと涙をこぼしていた。
「菱田さん」
「武流……なんて綺麗になって……」
だいぶ誤解を招きそうなので、気を確かに持てと言いたかった。
喝采を浴びながらトラックを一周し、スタート地点に到着したところで曲が終わる。審査員の出来映え点は──思わず拳を握る。いままでダントツのトップだ。
(よしよしよしよし)
だが、今度は別のところでどよめきが湧き上がった。
見れば入場ゲートから、モーツァルトの荘厳な協奏曲にのり、十八世紀ヨーロッパのお姫様と王子様の集団が入場してくるところだった。
「な、なにアレ」
真っ白いカツラに、クリノリンのドレスまで再現した本格派だ。
どう見てもたかだか二週間そこらの準備期間で、用意できるものではない。ずるいだろう。いったいどんな裏技を使ったのだ。
『選手入場のトリを飾るのは、演劇部! どうだ本物のコスチュームプレイを見ろ!』
一緒にあっけにとられていた長峰少年が、「そうか」と呟いた。
「文化祭だ……」
「長峰君?」
「去年の劇部の文化祭公演が、フランス革命の劇だったんです。僕、学校見学で観ました……」
つまりあれは、舞台衣装の使い回しということか。ならば見栄えがするのも納得がいく。予算や製作時間を無視できるという点では、チート技と紙一重だが。
(……いや、違うか。試合のユニフォームで走る運動部と一緒だと言われたら反論できない……)
それにしても、圧倒的な華だった。審査員席の前でワルツを踊り、アニメキャラに喜んでいたお子様も、すっかり本物のお姫様に目を奪われている。
「でもあれじゃ、ろくに走れないよね。全員女子みたいだし」
「それは武流たちと同じ作戦だからじゃないでしょうか」
だいぶ理性を取り戻したらしいセドリックも、心配そうに眉根を寄せている。
漫研同様、走りよりは出来栄え点重視。こちらもひいき目に見たいところだが、恐らく向こうは漫研の出来映え点を超えてくるだろう。
確かに想定外だ。しかし――。
「……諦めるのはまだ早いかもしれない、です」
「なぜです?」
「なんでって……」
全ての部が入場し、第一走者がスタート地点に立つ。この時点で演劇部の出来映え点は、漫研を超えた。そして漫研のトップは芦屋だ。体格に恵まれた運動部の横で、小柄な彼女はますます頼りなく見える。
『さあ、泣いても笑っても一発勝負。みんな明日に向かって走りやがれ――っ!』
パアン!
ピストルが鳴り、走者がいっせいに走り出した。
まずスタートダッシュを決めたのは、第一のコーナーの常勝サッカー部。
『やはり瞬発力は桁違いですね』
『そこにバスケ部とバレー部、やや遅れて柔道部が続きます。漫研と演劇部は……とにかくがんばれ!』
実況がフォローする通り、芦屋部長の足は遅かった。平均的な女子と比較しても、遅い方なのではないだろうか。横でセドリックが、悲観にくれた声を出すのもわかってしまう。何せ一緒に走っているクリノリンドレスの女子と、さして速度が変わらないのだ。まだレースは始まったばかりだというのに、トップのサッカー部とは半周近い差、ほぼドンケツに近い位置で第二走者の安藤にバトンが渡った。
しかしその安藤、芦屋からバトンを受け取ったとたん、ぐんと弾丸の速さで走り出した。
(お)
速い。誇張なしにとにかく速い。あっという間に柔道部に追いつき、バレー部をとらえてバスケ部とサッカー部を抜き去った。
『こーれーは、漫研安藤、速い! なんというごぼう抜き!』
『実は彼の体力測定結果は、校内上位という資料もあります』
爆走の安藤から、三番手の佐伯へ。彼女もかなり速かった。女子ゆえ筋力的な差はあったが、思ったよりも優位がキープできている。何よりフォームが美しい。
「紬さん、ご存じだったんですか?」
セドリックがこちらを向くが、別にそういうわけでもないのだ。
紬はレモネードの残りを飲みながら説明した。
「……コス衣装作ってる時に、パターンの調整とかで何回か体を触らせてもらう機会があったんですけど、まあ二人とも筋肉質っていうか。たぶんなんかしら体動かすことはやってるんだろうなって」
安藤は特に広背筋と下半身が発達していて、一般的な原型図からかなりの修正を要された。佐伯も細い体で腹筋やふくらはぎの硬さが突出していて、あれは一朝一夕のトレーニングで作れる肉体ではないと思ったのだ。
「安藤先輩は、サッカーのユースチームに入ってるんですよ。佐伯先輩はずっとフィギュアスケートを」
「あ、なるほど」
長峰の補足に、謎が解けた気がした。
外部のクラブチームなどでスポーツをしている生徒は、運動部のような長時間拘束されるハードな部活には入れないのだろう。結果的に、漫研のようなゆるい文化部が受け皿になっているのだ。
「ある意味脱法部活なのか」
「ですね」
長峰は苦笑する。
「校則の抜け穴みたいなものですし……真面目に練習出てる運動部にしてみたら、面白くないのもわかるんです」
「でも部員は部員だもんね」
結果的に、校内最速の漫研部員が誕生してしまっているわけだが。
そしてバトンは、僅差ながらも一位のままアンカーの武流へ。
(よし、こうなったら勝て武流君!)
受け渡しのテイクオーバーゾーンに、三人の選手がなだれ込んでくる。サッカー部とバスケ部に挟まれ、唯一女子の佐伯の足がもつれた。
(あ)
ほんの一瞬の出来事だった。漫研のバトンが弾き出される形で、トラックの上を転がっていく。
『あーっと、これは痛恨のパスミス!』
何がミスだ。そんなこと気にしている暇があるなら走れ!
受けるはずの武流が必死に転がるバトンを追い、拾って前を追いはじめる。今までで一番大きな歓声があがった。
「菱田君!」
「がんばれ菱田武流!」
「GO! 武流!」
セドリックも声を張り上げる。長峰も負けずに叫ぶ。
菱田武流は、残念ながらスポーツマンではなかった。もともと体格に恵まれているわけでもないし、こういう時に、格好よく追い上げられる運動神経なども持ち合わせてはいない。
順当に先頭集団から引き離されていったが、それでも皆の声援がやまなかったのは、走る武流が必死だったからだろう。バレー部にも抜かされ、柔道部の猛追を受けながらも、腕を振って懸命に走る魔法少女。
(行け!)
思わず手を握って祈ってしまう。
ぎりぎりで柔道部を振り切り、転がるようにゴールへ飛び込む。
『漫画研究部、四位でゴオオオル!』
ウィッグを吹っ飛ばし、砂まみれのまま武流が拳を突き上げる。芦屋や安藤、佐伯たちが歓声を上げて武流のもとへと走っていく。
(なんだよもう)
どんな青春ぶりだ。保護者席から仲間のもとへ走る、長峰少年の背中がにじんで見える。こちらまで目に汗が入ってしまったじゃないか。
***
──ゴオオオル!
白線に飛び込むのと転倒するのがほぼ同時で、頭から飛んでいった『ナナキ』のウィッグを拾い上げる間もなく、部員たちが飛んできてもみくちゃにされた。
「やったな菱田!」
「ごめん、マジごめん。私バトン落としちゃって!」
「あたしこそドンケツだった! みんなすごいよ!」
それより痛いんだって。
武流はようやく見つけたウィッグを、頭にかぶり直した。
「んでも、けっきょく四位だろ……これじゃ斉城の条件には全然」
「大丈夫だよ菱田君」
見学していたはずの長峰まで、いつのまにか合流していた。
「僕が集計したかぎりじゃ、出来栄え点を加えればバレー部と同点で三位になる!」
「マジか!」
武流が周りを見回すと、同じようにゴール地点に乱入して大騒ぎする生徒に交じり、実行委員の斉城本人がいた。
彼女が射殺すような目でこちらを睨んでいたので、反射的に武流は姿勢を正した。
「――っ、本当にムカつく奴らね!」
どすどすと、地響きがしそうな勢いで去っていった。
武流は部員たちと顔を見合わせる。
「……これって、賭けに勝ったって思っていいんすかね」
「じゃねえの? ここで難癖つけたら、自分がいるバレー部まで貶めることになるだろうし」
ならばよかった。しばらくあの部室も安泰ということだ。
毎日落ち着いて勉強ができて、信頼できる仲間もいるあの場所が、武流にはとても大事なのだ。たとえ傍目からはそう見えなくても、自分でわかっていればそれでいいだろう。どこかの元家庭教師に言ってやりたかった。
***
「紬さーん」
部活対抗リレーが終了すると、そこで午前の部も終了だった。午後の部が始まる前に、約一時間の昼休憩が入る。
休憩中、衣装を脱いでジャージに着替えた武流と漫研部員たちが、そろって紬たちのシートにやってきた。
「こんにちは!」
おお、来たか本日の主役たち。
セドリックが立ち上がり、自分の息子を出迎えた。
「武流……」
彼の場合、もともと肌の色素が薄いので、顔全体が紅潮して気が高ぶっているのがすぐわかる。
「……今のあなたを、笑子さんにも見せたかったです。どれほど喜んだでしょう」
「よせよクソ親父……」
武流は照れたようにそっぽを向く。
「本当に、本当に感動しました」
「ギャー!」
ひしと抱きしめられ、武流が絶叫した。
紬が振り返れば安藤君や長峰君はやや引き気味、逆に芦屋さんや佐伯さんは目を輝かせはじめたので、ここは説明が必要だと思った。
「あのね、あんまり見えないかもしれないけど、親子なんだよこの人たち」
「それにしたって熱すぎません……?」
「とりあえずさ、お弁当食べてかない? ほら、菱田さんいっぱい作ったみたいだから。食べてあげて」
勝手にランチボックスの料理を勧めるおせっかい女になった。たぶんそれぐらいしかできなかったから。
かれこれ十年以上日本に住み、日本語や日本文化にも精通しているセドリックだが、コミュニケーションの取り方だけはあちらの人だなと強く思う。
そして一緒に住んでもちっとも染まらない武流もまた、不思議といえば不思議なのだった。
「──なんかもう、致死量の青春浴びてお腹いっぱいな気分です」
グラウンドでは、再び午後の競技が始まっている。
物心ついた頃から『偏屈な子』と呼ばれてきたし、制服を着ていた時分はとにかくこの手の行事から逃げ回っていた。日焼けが嫌、団結が嫌、そんなことより家で縫い物でもしていたいと呪いの言葉を吐くのが常だったのである。
「ずいぶんと寂しいことをおっしゃいますね」
「いえいえ。こういうのは、用量と用法を守って摂取するもんですよ」
紬は大仰に肩をすくめてみせた。
現役の時に経験しなかったことを、後から摂取しようとしても体がついていくわけないのだ。砂漠の民が、準備運動なしにプールへ飛び込むようなものである。
「この二週間ちょっと、なんだかんだコーコーセーにつきあいましたけどね。私にはこうやって、遠めに見学するぐらいがちょうどいいというか」
「いた鈴掛ポンコツ──っ!」
いきなりの暴言に、紬の中の暴言センサーが発動する。
「はあっ? だからその言い方なんとかしろって」
「いいから来い!」
条件反射で顔を上げたら、体操服の武流が目の前にいて、ぐいぐいとこちらの腕を引っ張った。
「ちょ、ちょっと待って。なんなのいったい」
「借り物競走だよ! 早く!」
どうやら部活対抗リレーとは別に、武流が参加している競技のようだ。グラウンドの雰囲気的に、今がそのレース中らしい──というのはわかったが。
「待って、なんで私なの」
「説明は後!」
「靴が、靴はどこ!」
「ここです紬さん」
「いいから行くぞ!」
セドリックが転がっていたスニーカーを差し出してくれたのに、履く暇もなくシートから引っ張り出され、靴下のまま走るはめになった。
(冗談でしょ!)
午後の西日は暑く、音割れがひどいスピーカーから流れる『夢の中へ』は別の曲のように聞こえ、「探しものはなんですか」のフレーズが走る人間を急き立てる。全力疾走の中で拍手や歓声が混じり合って目眩がした。だからこちらは耐性のない砂漠の民だというのに。
(死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ)
他の選手は椅子をかついだり、三歳ぐらいのお子さんを肩車したりしながら走っていた。その中で紬は武流に引きずられるまま、ほうほうのていでゴールにたどりついた。
武流に一言何か言ってやりたいと思うが、完全に息が上がってしまって声が出ない。当人は実行委員らしい腕章のスタッフと話している。
「えーっと、借り物のお題は……そちらは……何先生でしたっけ」
「カテキョで教えてもらってたんで。別にこれでもいいですよね」
武流が見せたメモには『先生』と書いてあり、目と耳を疑った。
教師ならそのあたりに一山いくらで転がっているだろうに、わざわざ紬を引っ張り出してくる必要などないだろう。
「あ、あ、あんたね」
「……なんか、すげーかったるそーな顔してたから、巻き込んでやった」
これも彼なりの仕返しなのだろうか。
こちらを見返す武流の顔が、してやったりとばかりに笑顔になったので、紬はとりあえずその頭をはたいてやった。このばかもんが。
***
おかげ様で砂漠の民は、翌朝かつてないレベルの筋肉痛で目覚め、二日後の月曜になってもまだ節々が微妙に痛かった。
「それは大変でしたね」
「……言ってくれていいんですよ、運動不足って」
開店前の『竹善』で、紬はカウンターの椅子に座りながら本日分のランチができあがるのを待っている。セドリックからは見えないだろうが、ふくらはぎには湿布が貼ってあった。実に情けない。
(くそー、菱田武流め)
思えば昔は交通費の節約のため、地元茨城にいた頃はチャリンコで農道を走っていたし、上京してからも大学までの長い坂を徒歩で越えて通っていた。陰キャのインドア派なりに、あれが筋力を維持してくれていたのかもしれない。社会人になったとたんに活動量が下がり、今は通勤の自転車にアシスト機能までつけてしまった。
「紬さん、準備ができましたよ」
「いやでも、これ持って坂往復するのきついしなあ……」
セドリックが用意した蓋付き鍋とホーロー容器を受け取りながら、思わず言い訳の独り言が漏れる。ちなみに本日の『竹善』ランチはおでんときんぴらゴボウ、店で漬けたラッキョウ漬けらしい。
「余裕があるなら、炊くご飯を茶飯にするといいですよ。出汁醤油で炊くんです」
「了解です……だめなら赤じそふりかけでなんとかします……」
クーラーバッグを筋肉痛の肩にかつぎ、暖簾が出る前の千本格子戸から外に出ようとしたら、「そうだ紬さん」とセドリックが呼び止めた。
まだ何かあるのだろうか。紬は振り返った。
セドリックは、例の意味深と慈愛が紙一重のような笑みを浮かべている。
「彼が帰ってくるそうですよ。よかったですね」
こちらが喜ぶものと、信じて疑わないような。
「……は?」
「ご存じないですか」
「いえ全然」
まったく。かけらも。
「そうですか……では何かの手違いでしょうか」
「わかりません。失礼します」
ぶっきらぼうに言って、店を出た。
自分でも一瞬動揺してしまった。紬はその場で軽く頭を振ってから、電動アシスト自転車を漕ぎ出した。
(だって何も聞いてないよ)
最近はいないのが当たり前すぎて、もはやいた頃がどうだったか、どれだけ前かすぐには思い出せないぐらいだ。
日暮里の『ミシンとボビン』についたら、気を取り直して開店準備をし、客が来るのを待った。だが、こういう時にかぎって一人目がなかなか来ない。落ち着かないまま一時間が過ぎた頃、ようやく入り口のドアが開いた。
(……深山さん?)
現れたのは、かなり珍しい客だった。
黒のキャップにUVパーカーと綺麗めのスウェットパンツを穿き、足下は厚底の白スニーカーを合わせている。まるで休日はジムかホットヨガに通っていそうな雰囲気のイマドキ美人で、『ミシンとボビン』の客層とは少々ずれている。実際、ミシンスペースよりもフード目当てでやってくる常連さんの一人だ。名を深山真衣という。
大抵は会社が休みの土曜日に、近隣の散策がてら来ることが多いが、今日は平日の月曜である。
「お仕事は……?」
「休出で代休取ったんです。そんなことより鈴掛さん!」
真衣は深刻な顔つきで寄ってきて、紬に耳打ちした。
「警察呼んだ方がいいかもしれませんよ」
「──え?」
「あれ絶対カタギじゃないです。雰囲気がやばいです。ヤクザとか反社……なんか地面師のドラマに出てきそうな感じの男が、お店の側で延々スマホいじってて……」
ちょっと待て。
見返す紬に、彼女は至近距離でこくりとうなずいた。
「私も入るかかなり悩んだんですが、鈴掛さんが知らないのも怖いなと思って」
店内の窓からも、往来の様子は見えるが、それらしい人の姿はない。だが言われてみれば、妙に人気がないような──。
「やっぱりこのマンション、詐欺とかに狙われてたりするんですか──あっ、鈴掛さん駄目ですよ危ない!」
紬はエプロン姿のまま、店の外へ出た。
商店街の街灯には、『布の街 布の道』とキャッチフレーズが書かれたフラッグが下がり、初夏の風に揺れている。通りの反対側には、大きな荷物を抱える通行人もそれなりにいた。みんな何かしら目的を持って訪れる、マニアックかつ牧歌的な通りだ。
そんな中、明らかに異質な人間が交じっていた。
(あんただあんた)
限りなく黒に近いボルドーのスーツに、玉虫色の光沢を放つ黒のシャツを着た長身の男。ネクタイのかわりに、襟元からは金のネックレスが覗いている。革靴のつま先もやたらと尖っていて、ボールを蹴ったら刺さりそうだ。常に睨んでいると称される目つきの悪さをごまかすために、そのサングラスをかけているのだとしたら、頭が悪いとしか言いようがない。
「……また一段と悪そうな方向に進化したね」
こちらに気づかずスマホをいじっていた斜森虎太朗が、ようやくサングラスをずらしてこちらを一瞥した。
「おめえな……二年ぶりに会った人間に対する言い草がそれか?」
「あっちでどんな巨悪に触れてきたのよ」
紬はひるむことなく言い返したのだった。
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