第1話 ちくちくという名のソリューション~恋を裁つ~(後編)

 アパートに戻ってきたら、埼玉の実家にいる母から、電話がかかってきた。
 いったい何事かと思えば、からゆずってもらったすいはんの調子が悪いので、修理の依頼先を教えてほしいという、わりとしょうもない用件だった。
「ちょっと待ってね。説明書と保証書、渡してなかったっけ」
『ないのよ。本体とコードだけしか入ってなかったわ』
 一人暮らしに五合きはさすがに大きすぎたし、かといって知らない人に主食を炊いていたものを譲るのも抵抗があったので、実家で引き取ってもらったのだ。
 確かまだ一年保証の範囲内のはずだ。捨てられない書類関係は、紙袋にまとめて突っ込んできたので、クローゼットから引っ張り出して中をあさってみる。
ああ、あったあった。ごめんね、すぐにそっちに送るから」
『そう。それでね真衣ちゃん。やっぱりちゃんとした方がいいと思うのよ』
「ちゃんとって?」
『ほら、西にしむらさんのことよ。この間法律に詳しい人に相談してみたんだけど、真衣と西村さんは、しっかり婚約関係にあったって認定できるって。それを一方的にされたんだから、少なくても慰謝料は請求できるんじゃないかしら』
 おそらく母の本命は、壊れた炊飯器ではなくこちらだったのだろう。この話ができる機会を、たんたんとうかがっていたのだ。
っていってもさ、連絡もずっと取れないし、どこにいるかもわからないのに、請求も何もないでしょ」
『そこはほら、探偵でもなんでも使って。別にお金がほしいわけじゃないのよ。私は真衣ちゃんの名誉のことを思って言ってるの。今のままじゃ、あんまりみじめじゃないの』
 ──みじめ。
 露骨な単語に胸が締まって、息がつまる。勝手にしゅうほおが熱くなる。
「不名誉で穴があったら入りたいのは、お母さんたちでしょ」
『そんなわけじゃ』
「ごめんね! もう放っておいて!」
 真衣は電話を切った。
 せっかく少しずつでも苦しさが消えていたところだったのに、こんなところで思い出させないでほしかった。
私は、ちゃんと切り替えてる。離れていった人に追いすがるような、そういうみじめな真似まねは、絶対にしない」
 実際、一人でアパートを借りた。週末も引きこもらなくなった。ヒール付きのパンプスではなくスニーカーやスポーツサンダルをいて、自分の足で知らない街を探険して回っている。
 なのに説明書を探すつもりで引っ越しの荷物を探れば、結婚式の見積書が出てくる。新婚旅行のパンフレットが出てくる。
(全部捨てたと思ったのに)
 あの頃は、週末ごとに良樹とでかけていた。未来を想像するのが楽しかった。
 どれだけ忘れようとしても、他でもない自分の過去が追いすがってくる。
 ──来るな、鬱陶うっとうしい。
 真衣は床に散らばった過去のざんがいを踏み越えて、窓辺のカーテンを手に取った。
 引き寄せるように顔を近づけると、少しだけ煙草たばこくさかった。これも良樹のせいだろう。たまににおいをさせて帰ってきて、接待の相手がきつえんしゃだったからと言い訳していた。だけど、そんな彼のかばんにいつも一箱入っていたのを真衣は知っていた。まるで何かのおまじないのようだった。
 背伸びをして、フックからカーテン本体を乱暴に外す。レースカーテンも一緒に全部がすと、一番大きなトートバッグに詰め込んで、それをかかえて玄関へ向かった。
けっこう重い)
 布の意外な重量を感じながら、それでもスニーカーを履いて家を出た。行き先は、昼にも行った『ちくちくするカフェ』だ。


 真衣が無言でドアを開けたら、客のいない店内で、店員が一人テーブルをいていた。
忘れ物ですか?」
 開口一番これである。笑えとは言わないが、せめていらっしゃいませぐらい言ってよと言いたい。
 重さでずり落ちてくるトートバッグを、肩の上まで揺すり上げる。
「いえ。違います。ミシンスペース、貸してください。カーテンい直したいんです」
 この店には何度も来ているが、カフェの利用以外で来るのは初めてだった。
 それもわかっているから、らしくない行動に店員が驚いたり、色々言ってきたりするのは織り込み済みだ。
 彼女は相変わらずのしかめっつら寄りのポーカーフェイスで、しばらく無言で固まっていたかと思うと、壁の時計を見返した。
「あと一時間で閉店ですけど、かまいませんか?」
 午後五時。残り一時間。
 かまわないと思った。真衣がやりたいのは、前のマンション仕様の長すぎるカーテンを切って、今の部屋の窓に合うよう裾上げすることである。
 どれだけ不便でも、床を引きずって見た目が悪くても、目をつむってここまできた。そのいさぎよくない態度がいけないのだ。二度と過去には戻らないという決意をこめて、この高くて分厚いカーテンにはさみを入れて、縫い直してやる。そして前に進むのだ。
「切ってまっすぐ縫うだけなら、すぐ終わりますよね」
「ものにもよると思いますが布は持ち込みですね。糸は店にあるものを使う形でいいですか?」
「はい、お願いします」
「じゃあ糸のセットまでは、こちらでやりますね。基本的なさいほう道具は、備え付けのものをお使いください。今は一人なので、アイロンやミシンもご自由に使ってくださってけっこうです。別料金でほうせい代行もしますけど、ご利用されますか?」
 真衣は少し迷ったものの、首を横に振った。
「いえ、大丈夫です」
 やりたいことはシンプルだし、この案件は人に任せてはいけない気がしたのだ。
そうですか。ではどうぞ」
 店員の静かな『』が気になったが、真衣はカーテン入りのバッグとしょうもうひん類を抱えてミシンスペースへ向かった。
(さてと)
 時間もないのだから、手早くやらないといけない。
 広々とした作業テーブルに、しゃこうカーテンを広げてみる。生地は厚手で、だいたんがく模様が全面に入っていた。
 裁縫道具は、脇のワゴンに、大きいものから小さいものまで整理して並べてあった。
 筆立てに印付け用のチャコペンも入っていたので、そのペンとじょうを使ってまずは裾からの長さを測って線を引く。
 切るべき線と、折り返す線。そしてその線に沿って、今度はちばさみでいらない部分を切り落とせばいい。
 お借りした裁ちばさみは、文房具のはさみとは明らかに重さと鋭さが違った。これはステーショナリーではなく、包丁や刀剣と同じ部類の『刃物』だ。それで布を切る、切ってしまうという行為が、いざやろうと思うとものすごく怖い。一度切ったら取り返しがつかないし。
 でも、いつまでも迷ってはいられない。ままよとばかりにざくざくと切っていった。
 裾の折り返しの部分をほぼ切り落とし、さらに三つ折りにして、まち針でとめる。
(あとはミシンで縫い合わせればできあがりだ)
 窓際のミシンコーナーへ持っていく。
 そしていざ縫おうと思った真衣は、椅子に腰掛けようとして固まった。
 このミシン、真衣が知っているミシンではない。なんだか異様に寸足らずだし、糸こまを差し込む糸立てが四つぐらいくっついているし、ミシン針が二本ある。
(な、何これ。どうやって縫えばいいの?)
 嫌だ嫌だと家庭科から逃げ回っているうちに、ミシンも形が変わってしまったのか。知らない型のミシンに手も足も出ず、じりじりと固まっていたら、店員がやってきた。
「それ、ロックミシンですよ」
「ろ、ろっくみしん?」
はしかがりをするためのミシンです。直線縫いはこっちです」
 そう言って案内してくれた先に、見覚えのあるミシンがあってほっとした。相当緊張して視野が狭くなっていたようだ。
「基本操作のレクチャー、いりますか?」
「あははよろしくお願いします」
 本当に情けない。実際ミシンは職業用のようで、細かい操作が家庭用と違っていた。便利な機能もついていたが、いきなりだとまどうだけだっただろう。
 気を取り直して生地を押さえの下に差し込み、針と押さえを下ろして、フットコントローラーを踏み込む。モーターが急にうなりをあげる。
(は、速い速い速いい!)
 あっという間に布送りが進んでしまい、 コントローラーから足を離すと、すでに三センチ以上縫い進んでしまっていた。
 慌てて後ろを振り返る。店員がじっとりとしたはんがんでこちらを見つめている。
「大丈夫です。問題ないです」
 真衣は今さらながらノープロブレムをつらぬいた。
 とにかく、踏み込みすぎは厳禁だ。力加減はわかったので、以後はそろそろと慎重に縫い進めた。
 かたかた、かたかた、広い布の上を針が上下し、通り過ぎた跡は一本の点線となる。
 さすがは職業用ミシンか、カーテンの厚い布地にも負けないパワーがあり、危なげなくどんどん縫ってくれる。息をつめて集中しているうちに、BGMのオルゴールもいつしか聞こえなくなった。
 ──よし。なんとかできた。
 最後は糸切りボタンを押して、ミシンからカーテンを外す。
 椅子から立ち上がって、縫い終えたカーテンを広げてみる。アパートの床ぎりぎりになるよう丈も詰めて、きれいなひだが揺れる──はずだった。
(なんかもこもこしてる?)
 もとの状態は、こんなに裾のあたりのひだも、もたついていなかったと思う。裁ちばさみで切った時も、折り目自体はちゃんと残っていたはずだ。それが縫いしろにミシンをかけただけで、こんなにだらしなく伸びきるものなのか。
 これならなんの手出しもしなかった方が、まだましだったかもしれない。
 やってしまったカーテンを抱えて青ざめていたら、店員が寄ってきた。
「トラブルですか?」
 真衣は唇をむ。
「ちょっと思ってたのと違う感じで
 裾の部分を見せると、店員はわずかにまゆを寄せた。
「これじゃよくわからないです。ちょっと実際にかけてみていいですか」
 彼女はそう言って、店の奥へ向かった。バックヤードと店内を仕切るカーテンをフックごと外し、かわりに今縫ったカーテンを取り付けていく。
 あらためて店内にかかったカーテンは、やはり裾のあたりのひだが取れて、不格好にふくらんでしまっていた。
「切った部分の布って、残ってますか?」
「あ、これです」
 ちょうど布の折り返し部分を、そのまま切った形だった。
「深山さん。これオーダーカーテンですよね。形状記憶加工あり?」
「わからないけどたぶんそうだと思います」
 店員は渡した切れ端を、小難しい顔でチェックしている。
「裾のウエイトは、元からついてないんですね。じゃあやっぱり加工のせいかな。ひだの形に加工された布を後から折り込んだから、山折りと谷折りがケンカして、ひだがなくなっちゃったんだと思います」
 そんな単純な理屈。
 説明されれば明快だが、すべては後の祭りだった。
「私の馬鹿
あの。やっぱり有料になっちゃうんですけど。こちらでなんとかしてみましょうか?」
 己の浅知恵と無駄な行動力を呪っていたら、店員が救いの手をさしのべてくれたのだった。


 テーブルタイプのアイロン台に、プリーツを全て閉じてたたんだカーテンを置き、上からアイロンのスチームを強めにあてていく。
 そしてある程度くせきょうせいできたら、次はひだの一つ一つにスチームアイロンをかけていった。
 大きな布地とアイロンを扱う店員の手つきは慣れたもので、あれだけごわついていたカーテンが、しだいにおとなしくなっていく様は魔法を見るかのようだった。
「縫い物って、針を動かしてる時間よりも、アイロンかけてる時間の方が長いぐらいですよ。とにかく一工程ごとにしわという皺をのばして、折り目はしっかりつけるのが大事だから」
「すみません」
「別に怒ってはないです。これでどうですか」
 スチームアイロンをかけ直したカーテンを、あらためて店の窓にかけてみた。
 するとどうだ。どきのパーマのようにだらしなく伸びきっていた裾のプリーツが、完全に復活しているではないか。
「すごいすごいすごい。れいに戻ってる!」
「これ一枚だけですか? たぶん二枚一組ですよね」
「あっ、まだ縫ってないだけです。レースカーテンもあるんで、ちょっと待ってください」
 慌ててミシンのところに舞い戻り、まち針を打った残りのカーテンを、一息に縫っていった。できた端から店員がスチームをあてて、プリーツを整えてくれた。
 無事最後の裾上げが終わった時、店員が言った。
「──コーヒーでも飲んで、休憩しますか?」
 一仕事終えた虚脱感でぼうぜんとしていた真衣は、そこで我に返った。
「でも、もう閉店時間
「がんばった人には、アディショナルタイムっていうのがあります」
 入り口の『オープン』の札を、『クローズド』にひっくり返しながらの台詞だった。
 あまり冗談を言うタイプには見えなかったが、そういう人なりの思いやりが嬉しくて、真衣はお言葉に甘えることにした。


 カウンター脇のカフェコーナーに移動すると、店員がコーヒーと小さなラスクを出してくれた。
「お疲れ様です」
 真衣は椅子に座ったまま、深々と頭を下げた。
「おかげで助かりました」
「私は大したことはしてないです」
「いえいえ、初動からばたばたしてしまって」
「深山さんこそ、ミシンスペースを利用してみてどうでしたか?」
 店員の質問に、真衣はあらためて考えてみた。
 布を裁つ。ミシンを踏む。どれも久しくやっていなかったことだ。
 あのまま無事に良樹と結婚していれば、この店の利用客のように必要にかられて出番があったかもしれないが、それはあくまで仮定の話だ。きっと自分のことだから、なんとかわない方向で立ち回っていた可能性の方が高いだろうなと思う。
 テーブルの向かいの席には、しゃこうとレース合わせて計四枚の裾上げ済みカーテンが畳んで置いてある。今のところは達成感がすごい。
「別に死ぬわけじゃないけど、不便なことってあるじゃないですか」
「まあありますね」
「小指にできた痛いささくれとか、音がうるさいかんせんとか、開け閉めするたびに床をそうしちゃうカーテンとか、会社に報告した後で婚約者にしっそうされるとか」
「すみません。さらっとクソ野郎エピソードを聞かされても対処に困ります。修行不足なもので」
「店員さんてば口悪すぎでも、彼だけが悪いんじゃないとも思うんですよ。私はずっと、あの人のSOSを無視してた」
 休日のデートは真衣が行きたいところが優先され、彼自身の希望を聞いたことはなかった。何が好きなのか、何を考えているのか、本当のところは何もわからないまま。実際に会社を辞めて就農したいと言いだした時でさえ、真衣は冗談だと思ってとりあわず、そんなことより挙式のセッティングの方が重要だと話題を変えた。
 もっと言うなら、わかっていても気づきたくなかったのだ。彼が世間でいう『エリート』のわくから外れたがっていることを。
 失望させた。追い詰めた。そして彼は真衣についてきてくれとは言わずに、真衣の前から消える道を選んだ。
 長い長い永遠に続くような縫い代を、ただミシンでまっすぐ縫い進めていく作業は、自分自身の心に向き合う時間でもあった。
 ちくちくするカフェは、心がやさぐれた人向けではないそうだが、それでも一仕事終えた真衣の気持ちは幾分ましになっている。けっこうな効能だろう。
「気まずいのはもうどうしようもないけど、カーテンは自分でどうにかできました。それがすごい嬉しい」
 真衣の答えを聞いた店員が、ふっとくちもとをゆるめた。
(あ、笑った)
 嬉しいことは重なるものだ。
 れてもらったコーヒーはほろ苦くいい香りがして、砂糖とバターが芯まで染みたラスクはさくさくと甘かった。疲れた体に染み渡る、とても素敵なごほうタイムだった。


 日が落ちたアパートの部屋は真っ暗で、窓のカーテンを全て剝ぎ取ってしまっていたので、近くの建物の明かりだけがダイレクトに入ってきてしまっている状態だった。
 真衣は電気をつけると、あらためてその窓に、調整したカーテンを取り付けてみた。
よし」
 思わず手を握る。サイズぴったり。
 レースカーテンも遮光カーテンも、床から二、三センチのところで綺麗におさまっていた。開け閉めしても床を引きずらないのが嬉しくて、何度も意味もなく開閉を繰り返してしまう。
 カーテンのひだも、上から下まで綺麗にすとんと落ちていた。
 数歩後ろに下がるだけで、壁にぶつかる狭い部屋だが、そうして見てもカーテンはこの部屋にぴったりだった。もう前の部屋のお古を、渋々使っている感はない。
 やってのけた達成感にうなずいていると、トートバッグのポケットに入れていたスマホが、急に震えだした。
 確認したら、通話の呼び出しである。しかもアドレスにない番号だった。
(0155ってどこの市外局番?)
 いつもの真衣なら、知らない番号はスルーするが、今回は思うところがあって出てみることにした。
「もしもし?」
 スピーカーに耳をすましても、なんの声も聞こえてこない。無言電話。やはり悪戯いたずらか。
 いいや──どうも違うような気がする。
もしかしてよし?」
 疑念を口にする。電話の相手は無反応だ。でも奥の方で確かに、人の息づかいのようなものは感じられた。
「ねえ、お願い切らないで。良樹でいいんだよね。聞いてくれるだけでいいの。ずっと心配してたから」
 祈るような気持ちで、一方的にまくしたてた。
「私はたぶん、良樹のことを追い詰めてた。私にとって良樹はいい彼氏だったけど、たぶん良樹はそうあるためにかなり無理してたんじゃないのかなって。そのことはすごく謝りたいの。ごめんね」
 だからきっと何も言えずに、消えるしかなかったのかもしれない。
 そしてこれだけしゃべっても、まだ通話は切れていない。望みはある。
「こっちのことは、気にしなくて大丈夫だよ。仕事は続けてるし、式場とかのキャンセルもきちんとできたから。良樹は何も気にしなくていい」 
ごめん』
 小さな声に、息をのんだ。
 ごめん。今ごめんって言った?
「だから気にしないでって、言ったでしょ。今何してるの?」
 床に座り直し、努めて明るく聞いたら、おびひろのジャガイモ農家で働いているという返事が返ってきたから驚いた。
「ほんとに農家の星やってるんだ」
『昔、政府関係の広告の仕事やって、撮影でお邪魔したところなんだ。ずっと忘れられなくて、なんでもやるって言って働かせてもらってる』
「いいね。ちゃんと良樹の夢が叶ったんだ」
 地平線まで続く広い農地と、そこでトラクターを動かす良樹を想像しようとしたが、うまくできなかった。どうしてもスーツかネクタイがくっついてきてしまう。そこが自分の限界かもしれなくて、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
「ジャガイモって、収穫いつなの?」
『このあたりは、八月の末から九月の頭スタートかな。れたら真衣のところに送ろうか?』
「ううん、いいよ。良樹に悪いし、それに私引っ越したから」
 ただあなたの無事がわかっただけで充分。言うことはなかった。
 笑って通話を終えて、真衣は思った。このれきは消してしまおう。
 カーテンはもう部屋の窓に合わせて切ってしまった。そしてやま真衣は、二度と後ろを振り返らないのだ。

   ***

(あー、残業しんど
 毎日毎日何かしら文句は出てくるが、仕事は休まず続けている。
 今日は後輩のやらかしのフォローで、久しぶりに最後まで居残りになってしまった。
 日暮里駅に降り立った時点でくたくただったが、閉店間際のスーパーでビールとそうざいを仕入れて、アパートの前まで戻ってきた。百点満点だろう。
(まあ、後輩ちゃんも感謝してくれてたし、終わりよければすべてよし
 気がつけば婚約のネタをこすられることも、ほとんどなくなっていた。このまま平穏に忘れさられるといいと思う。
 二階にある自分の部屋の鍵を開け、スーパーの袋と一緒に、一階ポストに入っていた郵便類をローテーブルに置く。
「毎度いらないのばっかり
 どれも必要のない投げ込みのチラシで、機械的にゴミ箱へシュートしていくが、その中に葉書が一枚入っていた。
 ある意味これも、広告ではあった。『ミシンとボビン』の、ワークショップのお知らせだ。
 けっきょくあれから、ミシンスペースを利用していない。愛想がない店員の、目力が強い顔が思い浮かぶ。諦めていなかったらしい。
「ふーん。すずかけつむぎさんって、こういう字書くんだ
 当日は彼女が講師のようだ。いかにもハンドメイドな仕事に向いていそうなお名前だと思った。
 二時間半かけてワンピースをうのはともかく、面と向かって『紬先生』と言った時の彼女の反応は、ちょっと見てみたい気もした。

【つづく】