第1話 ちくちくという名のソリューション~恋を裁つ~(前編)

どれだけ待っても彼は戻ってこなかったので、真衣もいい加減認めざるを得なかった。
私、深山真衣はふられた。
悪役令嬢よろしく婚約を破棄された。
貴族の令嬢ではなく埼玉生まれの庶民だし、悪役というほど悪いことをした覚えはない。でも、結果的に陥ってしまったこの状況を客観的に見れば、『ザマァ』をくらいましたとしか言いようがないと思うのだ。
ともかく、一緒に住んでいた豊洲のマンションは、家賃の問題もあって引き払わざるを得なかった。一人暮らしには大きすぎる家具や家電の一部をフリマアプリで売りさばき、現在わずかな家財だけを持って引っ越しを敢行しようとしている。
(だめ。全然わからない。どれが日暮里中央通り?)
新しい引っ越し先は東日暮里で、最寄り駅はJRの日暮里駅になっていた。
入居当日、契約した不動産屋で鍵を受け取り、日暮里駅の東口に出たはいいものの、駅前はタワマンと飲食店が混在し、バスロータリーを中心に、細かい道が放射状に走っていた。いったいどの道に入るのが正解か、土地勘がない真衣にはさっぱりわからない。
自慢ではないが方向音痴気味で、初めての場所は地図を使っても迷う自信がある。考えてみれば以前に一度内見で来た時は、営業の人の車に乗っていたし、しかも一日に複数の物件を回ったのだ。こうして駅から直に行くのは、今日が初めてのことだった。迷うわけである。
あまりもたもたしていたら、午後便の引っ越しトラックの方が先に到着してしまう。それだけはなんとしても避けたいと思った真衣は、観念してタクシー乗り場に並んだ。そして恥をしのんで運転手さんに住所のメモを渡し、アパートまで連れていってもらうことにした。
「すみません、大した距離じゃないとは思うんですけど……」
「ああ、別にかまいませんよ。それじゃ出しますよ」
どこかけだるげな運転手の声に、身が縮まる思いだった。
そもそも彼が出ていきさえしなければ、あのマンションを引き払う必要もなかったし、逃げるように知らない街で暮らすことにもならなかったのだ。ひどいよ良樹と、恨み言の一つも呟きたくなる。
「──桜、そろそろ見頃ですかね」
疲れのあまり後部座席で半分目を閉じていた真衣は、運転手の言葉にはっとした。
慌てて周りを見てみれば、タクシーはロータリーを出ており、知らない通りを低速で走っていた。街路樹の桜が、ちらちらと咲きこぼれている。
「そうですね、綺麗……」
「桜といえば上野公園は鉄板中の鉄板だし、谷中霊園の桜も見事だし、このあたりは花見の名所にことかかないですよ」
花見なんて、とても今の精神状態で行く気にはなれなかった。人目につくのも、その中で孤独を感じるのも勘弁してほしい。
むなしい気持ちで満開のソメイヨシノから目をそらそうとしたら、かわりに飛び込んできた看板の言葉に真衣は一瞬目を奪われた。
『ちくちくするカフェ』
路面店の入り口に置かれた、スタンドタイプの黒板だった。すぐに通り過ぎてしまったけれど、確かにそう書いてあったような。
(ちくちくするカフェ、か)
変。とても変な店名。
でも心がちくちくとささくれ立ったままの自分には、こちらの方がよほどふさわしいなと思った。
それからすぐにタクシーは目的の番地に到着し、真衣は路地裏にある小さなアパートの前に降り立った。
前より部屋も狭くなるし、オートロックどころかエレベーターもない。でも今はここで暮らしていくしかないのだと自身に言い聞かせた。
『世の中ほんとわからないわよねー。まさかあんたと西村さんが別れるなんてさ。ねえ、あれだけラブラブだったのに何があったのよ』
引っ越し業者が置いていった荷物を必死に荷ほどきする中、友人の凜々子から様子うかがいの電話がかかってきた。
凜々子は学生時代の友人で、婚約していた良樹とも面識があった。通話のスピーカーボタンを押して両手も動かしているので、顔は見えないが同じ部屋で詰問されているような気分だった。
「何がって、理由は前にも言ったよね」
『農業王に俺はなる、だっけ? そんなん納得できっこないわよ。ルフィかよ』
「それは私が言いたい台詞。あとそんな海賊王の話じゃなくて、会社辞めて就農したいとか言ってただけだから」
『いかれ具合は似たようなもんでしょ。あの人の履歴書のどこに〝農〟の字があるっていうのよ』
その通りなので反論できなかった。言葉は段ボール箱を開ける真衣に、そのまま突き刺さった。
真衣がつきあっていた西村良樹は、大学こそ一年留年したものの、国立大学から大手の広告代理店に入社し、バリバリ活躍するハイスペ男子だったはずなのだ。肩書きを鼻にかけず物腰は紳士的で、デートのリードに不満を持ったことは一度もない。プロポーズは真衣の希望通りに、浦安にあるアミューズメントパークのホテルでしてくれた。それが入籍直前になって会社を辞めたいと言いだし、ついには『真衣を巻き込めない。俺は夢を叶える』的な書き置きを残して出奔してしまった。
どうしてこうなったと、本人の襟首をつかんで揺さぶりたいのは真衣自身なのである。
(好き嫌い多くて、椎茸いつも残してたのに。それが農業?)
そういう小さな欠点も、ギャップがあって可愛いと思っていた。彼に合わせて、料理を作る時はいつも椎茸抜きのレシピにしていた。
人生はままならない。まさか失踪されるとは思わなかった。
『連絡、まだつかないの?』
「そうだよ、ずっと未読のまんま──ああもう、やっぱり大きすぎた」
前の家から持ってきたカーテンを、アパート唯一の窓に取り付けてみたが、案の定丈が余りすぎてしまったようだ。
仕方ない。あちらは分譲賃貸で、リビングの天井も高かった。南向きの大きな窓に合うよう、カーテンも全部オーダーでそろえたのだ。
ニュアンスのある北欧柄の遮光カーテンも、おそろいのレースカーテンも、余った裾が床でだぶついていて、格好悪いことこの上ない。だが、カーテンなしで暮らすのはさすがに物騒すぎた。とりあえず外から見えなければよしとして、このカーテンはここに吊っておくことにする。
『まああんたも辛いとは思うけどさ、気持ちは切り替えていきなさいよ。真衣なら次があるわよ必ず』
「お気遣いどうもありがとう……」
振り返れば、まだまだ荷物は残っていた。今夜は徹夜だろうか。そういえばシングルのシーツを買い忘れていたことも思い出し、真衣はまた自然と長いため息をついた。
新卒で入った勤め先は、介護や福祉用具を取り扱うメーカーで、事務職ゆえに給料は安いが、残業も少なく安定している方だろう。
今回結婚するにあたって、仕事は続けても続けなくてもいいと良樹は言っていた。迷った末に、子供が生まれるまでは今の仕事を続けることにしたわけだが、こうなると辞めなくて本当によかったと思っている。
「――おう、深山。ちょっといいか」
こちらがパソコンに向かっていたら、隣の部署の管理部長に声をかけられた。
部署違いとはいっても、以前の真衣はその管理部にいた。今の総務の仕事よりは、部下として働いた経験も長い。恰幅のいい『ざ・おじさん』といった雰囲気の人で、役職のわりにはざっくばらんに接してくるタイプだ。
「なんでしょうか」
「今おたくの部長いる? 捕まりそう?」
スケジューラーを見ればわかるだろうと思いつつ、やんわり伝える。
「三分待っていただければ。社内ミーティングが終わります」
「そうか――どうだ深山。仕事は慣れたか?」
どうやらこのまま、雑談で三分使いきるつもりらしい。
「……まぁ、ぼちぼちですね」
「それでいいそれでいい。なんでも自分のペースでやりゃあいいんだ。東都エージェンシーの旦那と結婚しても、辞めたりはしないんだろう?」
その瞬間、真衣の近くで働いていた全総務部員が凍りついた。
異様な雰囲気を感じ取った管理部長が、今さらのようにうろたえはじめる。
「すまん。私は何かまずいことを言ったか?」
氷点下に冷え切ってしまった場の空気を代表して、同じ島の上司が、沈痛な面持ちで回答する。
「すみません。深山はその……結婚の話自体がなくなったそうで……」
「……あ、そう。そりゃあその、すまないね。風の噂で聞いただけのもんだから……」
管理部長はおまじないのように「コンプラ、コンプラ」と呟きながら、ちょうど会議室から戻ってきた総務部長のところへと移動していった。
(お願いだから、そんなに大げさにしないでよ)
頭痛をこらえる真衣を案じ、隣の席の女子社員も声をかけてくる。
「……先輩、大丈夫ですか?」
「別に……平気。大丈夫大丈夫」
「本当に無神経すぎますよね。信じられない」
結婚式には同僚も呼ぶつもりだったし、新婚旅行にも行くつもりだったから、会社に知らせないわけにはいかなかった。相手がどんな人かも、聞かれれば正直に答えた。それがすべてご破算になったことも報告しなければならなくて、以後はみんな腫れ物に触るように真衣に接してくる。たとえばこんな風に。
(辞めなくてよかった。よかったけど……)
こういう時は猛烈に思う。もうわたしかいしゃいきたくない。
心を無にして平日を乗りきり、休みが来たらアパートの床に転がって、死体のように過ごした。
(……無)
ただいまの深山真衣。よれよれのTシャツにハーフパンツ姿で顔すら洗わず、朝から口に入れたのはポテチ三枚のみ。死体のようというか、すでに死んでいるのと変わらないのではないか。
これでも一応、身ぎれいにして過ごす意義は知っていたし、その恩恵も受けていたはずだ。だが今はどこに出しても駄目なゾンビ、生ける腐乱死体になっているような。
なんだこの体たらく。やる気というものがどこにも見つからない。
(……なんか、すごくすごく駄目な気がする)
気がする理由もよくわからないけれど。死体は思考を鈍化させるのだ。
こうしてただただ仰向けに寝転がり、フローリングに両手両足を投げ出す週末。むしろ終末。
掃き出し窓にかかる、カーテンが目に入る。
(やっぱ……裾が余ってるの気になるな)
ここに来てからずっと閉めきったままで、今は十センチほど開いた隙間からさんさんと陽光が差し込み、空気中を舞う細かな埃を浮かび上がらせている。そしてサイズの合わないカーテンの裾が、床をだらしなく掃除しているのをいったん認識してしまうと、気になって気になってしょうがない。
だからといって、買い直す気力もないのだけれど。だってゾンビだから。
真衣は乾き気味の唇を動かした。
「…………そと、か」
出ようか、外。
ふとそんなことを思った。こうやっていつまでも引きこもっていないで。あの、みっともないカーテンの向こうへ。
たとえなんの思い入れもなく引っ越してきた場所でも、探険すれば何かしらあるかもしれないし。
そうだ。運動。歩くのだ深山真衣。このまま芯まで腐りたくはないだろう。
本物のゾンビらしく、「あー」とか「うー」とか呟きながら起き上がり、緩慢な動作で服を着替えると、最後にくまができた顔を隠すつもりでキャップを目深にかぶり、玄関を出た。
(まぶし)
土曜の昼間に外出したのは、久しぶりかもしれなかった。
しかしいざ散歩となっても、この土地の知識がない真衣には、どちらに進めばいいかもよくわからなかった。
生まれはショッピングモール以外は工場と畑しかなかった埼玉の郊外で、実家から長時間電車に揺られて都内に通勤通学していた。その次に良樹と暮らした豊洲のベイエリアは新しい街で、休日に散歩する場所も整備されて歩きやすかった。人も街もきらきらしていた。
その点で言えばこの日暮里界隈は、新しさはまるでない。
接続路線が多いわりに大きな商業施設があるわけでもなく、大通りから一歩奥に入れば牧歌的な住宅街が広がっている。大型のイオンモールもららぽーともないかわりに、個人商店が集まる商店街や、その中にある地元密着系のスーパーマーケットで日用品を買う。少し足をのばせば相撲部屋もある。東京の下町的な風景というのだろうか。
(……そういえばここに来る時、変なお店があったよね。なんだっけ、ぐさぐさくるカフェじゃなくて)
──ちくちくするカフェ。
そうだ、思い出した。
今の自分にぴったりだと思った、店の名前。
タクシーの中から見たスタンド式の黒板と、街路樹の桜だけはよく覚えている。
こうしてアパートの前であてもなく立ちつくしているよりは、目標があった方がいいだろう。あの店に行ってみることにした。
記憶はかなりあやふやだったが、まず日暮里中央通りに向かい、そこから駅方面へ歩いていったら、ようやく見覚えのあるスタンド式の黒板が現れた。
歩道の植え込みには、すでに葉桜になったソメイヨシノがあり、旺盛に枝をのばしている。よかった。やはり幻ではなかったのだ。
古いマンションの一階に入った、カフェのようである。
外壁の古さに比べて、庇のテントはまだ新しさがあった。窓からはカウンター席や、人が寝転べそうなほど大きなテーブル、木製の什器にディスプレイされた雑貨などが見えて、なんとなく居心地はよさそうだ。ドアにオープンの札が下がっていたので、迷った末に入ってみることにした。
(お邪魔します……)
中途半端な時間帯だったせいか、客は一人もいなかった。
カウンターキッチンの向こう側に、店員らしい女性が一人いて、無遠慮にこちらの顔を見つめ返してくる。
「いらっしゃいませ」
真衣よりも少し年下──二十代半ばぐらいだろうか。シンプルだが仕立てのよさそうな生成りのシャツに、藍色のエプロンを着けている。細身で小作りな顔立ちは、地味なりに整っている方だろう。真っ黒なストレートヘアをほつれなくアップにして、顔の輪郭を露わにするあの髪形は、首が長くて素地がよくないと悲惨なことになるのだ。
聞こえていないと思われたのか、また一言一句同じ台詞が繰り返された。
「いらっしゃいませ」
「……あ、ど、どうも」
「今日はどういったご用件で?」
「用件というか……なんとなくお腹が減って」
「そうですか。でしたらこちらへどうぞ」
淡々と抑揚のない声とともに、カウンターの外へ出てくる。シャツとエプロンの下は、やはりシンプルな黒のワイドパンツとフラットシューズ。彼女は真衣を近くの小さなテーブル席へと案内してくれた。
そしてテーブルにお冷やを出した後、
「うち、あんまりレパートリーがないんです。ランチが全部出ちゃったんで、今お出しできるのはこれくらいです」
そう言って、手書きメニューの『トースト(コーヒー付)』の部分を指さした。
「バターか日替わりジャムかを選べます」
「……モーニングみたいですね」
「やめときますか?」
にこりともしないで聞いてくる。表情筋が弱そうなわりに目力は強い。
「……いえ、それでお願いします」
「バターとジャムはどちらにしますか」
「ジャムで」
「承知しました。少々お待ちください」
なんというか、きょうびファミレスの給仕ロボの方がまだ愛嬌があるのではないだろうか。あっぱれなぐらい無愛想な店員さんだ。
しばらくすると、彼女は銀盆に湯気の立つコーヒーのカップと、トーストの皿を載せてやってきた。
「おまたせしました」
フラットな接客態度には少々面食らったが、出てきたコーヒーとトーストは、非常においしそうである。
特に半分に切った厚切りの食パンは、こんがりとキツネ色に焼けていて、自分が空腹だったことをあらためて思い出させてくれた。
セットの小皿に入っているのが、日替わりだというジャムだろう。澄んだ黄緑色のジャムで、中にツブツブとした黒い種のようなものが入っている。
トーストにたっぷりと塗って一口かじると、表面はカリカリのさくさくで、中はもっちりとこしがあった。
(ん。これ……キウイのジャムだ)
見た目でそうではないかと思っていたが、食べて確信する。酸味と甘さの配分が絶妙だ。ツブツブはツブツブでも、苺ジャムとはまた違うフレッシュさがある。
甘酸っぱいもちもちトーストを堪能し、インスタントではないブラックコーヒーで口直しした時、心の底からほっとしている自分がいた。
(……私今、ちょっと生き返ってる)
まだ死んでいない細胞があった。それが動いて喜んでいる。
素朴な木の椅子に腰掛けたまま、熱いコーヒーカップを両手で包むように持つ。そして、あらためて周りを見回してみた。
白い漆喰の壁を照らす、優しい明かりのペンダントライト。小さくオルゴールのBGMがかかっている。木製の什器も同じく白のペンキで統一してあり、布小物やアクセサリーが飾ってあった。ハンガーラックとトルソーには、色とりどりの服がずらり。カフェというより、雑貨屋かブティックの中にでもいるようだ。
可愛い服や雑貨を見るのは、真衣も好きだ。カフェが作家の一点物の販売もしているというのはよく聞く話で、ここもそういう店なのかもしれない。
無愛想な店員さんが、お冷やを交換しに来たタイミングで、真衣は言った。
「トースト、おいしかったです」
仮にも客商売だろうに、彼女は耳慣れない言葉を聞いたように、眼力のある瞳をぱちぱちとしばたたかせた。
「……どうもありがとうございます」
「ジャムと食パンって、わざわざお店で食べること少なかったから。キウイのジャムっておいしいんですね」
「どっちも知り合いのお店で仕入れてるんです。気に入ったのならよかったです」
気に入ったもなにも。
本当に、ごく一部だが細胞が復活した感じなのだ。
「あの飾ってあるワンピも、すごく可愛い。試着とかできるんですか?」
「あー……すみません。あれ、売り物じゃないんです」
調子にのって聞いただけに、落胆も大きかった。
一番目立つトルソーに着せられた、マキシ丈のキャミソールワンピースだった。とろりとした布の質感も、胸元に寄せられたギャザーもすごく好みだったのに。まさか店のインテリアの一部だったのか。
よくある勘違いだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。またやってしまった。
「……あれはワークショップで、生徒さんが作ったもので」
「ワーク……ショップ?」
今度は真衣が不意を衝かれる番だった。店員は神妙な顔でうなずいた。
「うち、裁縫ができるミシンカフェですから」
「そうなんですか?」
「……一応、看板に『ちくちくするカフェ・ミシンとボビン』って書いていたと思うんですけど……」
ごめんなさい。そういう意味とはつゆ知らず。
店員はやはり淡々としていて、店は自由にミシンや裁縫道具を使えるレンタルミシンスペースと、一服できるカフェスペースに分かれているのだと教えてくれた。
窓際のカウンター席に置かれたミシンはインテリアではなく実際に使うもので、人が寝転べそうだと真衣が思ったテーブルは、型紙を広げたり布を切ったりするための裁断台だったらしい。
「ちくちくってそういう……」
「どういう意味だと思ったんですか?」
「すみません。こっちの話です」
心がささくれた人間向けとは、口が裂けても言えない。
さりげなく展示してある布小物や服は、ここで毎月開催しているワークショップで製作しているのだそうだ。
「お客さんも参加したら、このワンピースだって縫えますよ」
「え。私? いや無理ですよ。服作りなんてとても」
「いきなりは難しくても、簡単なものから始める手もありますよ。私が今着ているエプロンもそうなんですけど、ほんとまっすぐ縫うだけでできあがるんで」
「無理無理。ぜったい無理です」
真衣は笑って断った。自慢ではないが家庭科は万年『3』で、被服は料理裁縫パーフェクトな実家の母に毎度手伝ってもらって、なんとか提出日に間に合わせていたくちだった。
「でも、ミシンのカフェなんてあるんですね。私は無理ですけど、需要はあるところにはあるんでしょうね……」
あまりに自分とは縁遠い、まったく知らない世界を見せてもらった気分だった。
「うちは……繊維街の中にあるんで、ハンクラ――いわゆるハンドクラフトが好きな人が集まりやすい部分はあると思います」
「センイガイ? 日暮里中央通りですよねここ」
「日暮里繊維街でもあります。日暮里中央通りを中心にして、布や手芸用品なんかの店が九十軒以上集まっている問屋街なんです」
「へえ……知らなかったです……」
よく通る道だったが、朝晩の通勤時は店も開いていないし、看板などもあまり注意して見ていなかったのだ。そんなに特徴のあるエリアだったとは思わなかった。
「どうりでお店の数は多いのに、入れるお店が少ないと思った……」
「……一応、ハンクラ民にとっては聖地で……歴史もあるんですよ……」
店員はそれきり押し黙ってしまった。きっとあまりの無知と無関心さに呆れて、言葉が出ないのだろう。
真衣は苦笑した。
「なんかだめですね。最近このあたりに越してきたんですけど、たまたま通勤に便利そうだから決めたってだけで、特に思い入れとかがあるわけじゃないんです。それにしたって限度があるだろって感じですが」
ただ良樹との思い出が重ならない、できるだけ関係のない場所ならどこでもよかったのだと思う。
「いえ……わかりますよ」
意外にも店員は、こちらの自嘲を否定しなかった。
「私も住む場所なんかは、かなり適当に決めましたから」
「そういうものですか?」
「繊維街が近ければ、あとはなんでもよかったんです。実はプチ観光地だったらしくて、周りに言わせれば『もったいない』そうですけど、そんなの知るかって話じゃないですか」
身も蓋もないぶった切り方に、ちょっと笑いそうになった。でもわかる。
「そんな成り行きでも、暮らしてみたらそれなりに面白いところはあったし、面白い人にも会えたし。慣れると案外悪い場所じゃないって、今は思ってますよ」
無愛想な店員さんは、たぶんお愛想を言うのも得意ではないと見た。だからこれもたぶん本音に近く、やさぐれた今の真衣でも反発することなく聞けたのだと思う。
勘定を終えて店を出て、あらためて黒板の内容を見直してみた。
(ちくちくするカフェ、ミシンとボビン……)
チョークで書いたゆるい文字も、ミシンとコーヒーカップの絵もなんだか決まったところがなくて、和んでしまう。そのわりに店員はカチコチで、あまり人慣れしていないようなのがおかしかった。
なんの思い入れもない場所だとしても、探険すれば何かあるかも。あの時、むりやり自分を動かすためだけに、そう思った。
(うん)
確かにあった。ちゃんとあった。
それからは少しずつ、アパートと会社の往復以外にも、行く場所を増やしてみた。
例の笑わないカフェ店員が言っていた、ハンクラの聖地としての日暮里中央通りも覗いてみた。
問屋街は日曜休みが多いというのを知らず、うっかり日曜に行った時はシャッター街かと目をこすったものだが、次からはもう大丈夫だった。あらためて見れば、本当に生地や手芸関係の店が多かった。
門外漢の真衣には敷居が高い部分もあったが、メインストリートはおろか脇道にいたるまで、ずらりと並ぶ専門店には圧倒されてしまった。
「ちょっと長すぎるかな」
「穴を二個空ければいけない?」
「すいません、このシーチング二メートル買えます?」
店ごとに得意分野が違うらしく、反物の生地以外にも革だけ、ビーズだけ、ベルトのバックルだけを扱う店があったりするのだ。そして店の大小を問わず客はいて、老若男女みな真剣に選んでお買い上げしていく。
(……ワゴンセールの目玉が肩パット五組三百三十円……そんなに肩パットって沢山いるものなの……?)
真衣の人生で、そこまで肩パットが必要になったことはない。こういうのも需要と供給の一致というのだろうか。この街ではミシン糸が段ボール箱に山積みで売られているし、完成した服のかわりに型紙がどんどん手に取られているし、バッグに取り付ける前の持ち手だけをお買い上げするのが普通のようだ。
こちらも周りの熱気にあてられ、路面のワゴンで売っていた端布や、バラ売りのボタンを買ってしまったぐらいだ。いったいどうするのだ、これ。
次の休みは日暮里駅の向こう側、西口に広がる谷中や上野公園にも行った。
こちらは日曜でも賑やかなようだし、最初にタクシーのおじさんが勧めてくれたからだ。高台にある寺町と、広い墓地に馴染む地域猫を撮り、上野公園の池で蓮を愛で、商店街の精肉店でテイクアウトのメンチカツにかぶりついた。動物園にも美術館にも立ち寄らなかったが、自分は案外一人で時間が潰せる人間なのだと知った。
そのまま週末の習慣になった、ご近所ぶらり散歩。
本日は日暮里駅方面へは行かず、真衣が暮らす東日暮里からさらに東へ、地下鉄の三ノ輪駅界隈を攻めてみた。駅前の屋根付き巨大商店街を冷やかして、また戻ってくるプランだ。
(あ。神社がある)
そのお散歩ルートの帰り道。真衣は並木道を抜けたのどかな住宅街の一角に、小さな神社があるのを見つけた。
(……いいわ。いいわ。小さいけどご神木も手水舎もあって、手入れは行き届いてる感じ)
さぞかし地元のご愛顧を受けた神様とお見受けした。
倉庫とビルの間に挟まれるように建つお社は、さながら狭小住宅ならぬ狭小神社だ。こういうけなげな神様にはぐっとくるので、積極的にご挨拶をすることにしていた。
しかし『神々森猿田彦神社』という、入り口の名前にまずつまずいてしまう。
下の方の『さるたひこ』はなんとか読めるが、上はさっぱりだ。『かみがみのもり』でいいのだろうか。
「ん?」
そこで真衣はピンときた。
今自分がいる場所を、スマホに出してみる。この頃は地図アプリの見方も、だいぶ慣れた。
「……やっぱりそうだ。カンカン森通りだった」
地図上に表示された、現在地の名称をじっと見つめる。
初めは『××ハッピーロード』的な、商店街でもあるのかと思っていたのだ。だが実際に来てみればそこまで賑やかな道というわけでもなく、どうしてこんな名前がついているのか不思議に思っていたのだ。カンカン森のカンカンがフレンチカンカンでもカンカン帽でもなく『神々』なら、神社由来の地名ということでつじつまが合うだろう。外国語はまったく関係なかったわけで、これはちょっと面白い。
神社の縁起いわく、その昔、この神社の周りには深い森があり、その森にちなんで『神々森』の名がつけられたのだそうだ。
今はどこを見回しても森の気配はなく、閑静な住宅街でしかないので、こんなギャップが生まれてしまうのだろう。
一連の謎がとけてすっきりして、真衣はご機嫌な気分で小さなお社に手を合わせると、次は日暮里繊維街まで足をのばした。
お目当ては、最近よく訪れるようになった例のカフェだ。
愛想のない店員さんが、ドアを開けた真衣を無遠慮に迎えてくれる。
「――今日もカフェスペースのみのご利用で?」
「ええ。カフェのみで」
真衣は笑って首肯する。今のところミシンを利用するつもりは、まったくない。
「別にそれでもいいんですよね。ここのご飯おいしいし」
お冷やとおしぼりを置きに来た店員に、あえて聞こえるように呟いた。
「……まあ……本家で食べるとけっこう並ぶんで、うちで食べるのは穴場かもしれませんけど……」
「今日の日替わりはなんですか?」
「チキンカレー、です」
「じゃあそれで。食後にコーヒーもつけて」
「かしこまりました」
店員がさくさくと去っていく。
カフェスペースの客は真衣のみだが、ミシンスペースは何人か利用者がいた。広い作業テーブルで型紙を切ったり、窓際のミシンを動かしたり、皆様精が出ますねといった感じだ。
真衣は午前中いっぱい散歩をして謎解きもして、ここで腹ごしらえができれば満足だった。
期待した通り、出てきたカレーはとてもおいしい。
飴色玉ネギをたっぷり使ったとおぼしき中辛のルーは、スパイスと野菜の甘みのバランスが絶妙で、付け合わせの大根ピクルスがまたよく合うのだ。ただの酢漬けではなく、乳酸発酵的な甘酸っぱさ。このピクルスだけお持ち帰りしたいぐらいである。
「つむぎさーん、ここどうすればいいと思います?」
ふと見れば、カウンター内のミニキッチンで洗い物をしていた店員が、ミシンスペースの客に呼ばれていた。若い母親らしい女性が、恐竜柄の布で子供用の袋物を縫っている。ミシンの処理の仕方が難しいらしく、店員が淡々とした調子でアドバイスを始めた。
最初はアルバイトかと思っていたが、どうも彼女がこの店の責任者らしい。「つむぎさん」「つむぎ先生」と言われて、客からも頼りにされているようだ。
カレースプーン片手に、真衣の考察も捗る。
(色々、謎)
このカレーといいピクルスといい、言葉は悪いがおいしすぎるのだ。はっきり言ってこんな小さな店の、さらに片手間で営業しているカフェスペースで出てきていい味ではないと思う。クオリティの秘密は谷中の方に提携している店があって、食品関係はそちらのものをそのまま使っているとのことだが。変に噂になると困るといって、具体的な店名は教えてもらえなかった。
見た感じ真衣より年下のようだし、いったいどういうカラクリが働いているのか、謎はいっそう深まるばかりだ。しかし繁盛店のランチが待ち時間ゼロでいただけるのは、店員が言うようにお得ではあるのだろう。数が少ないので、たまに品切れで食いっぱぐれることだけが残念である。
「……ねえ、安浦さん。あんまり無理しない方がいいですよ。限界なんですよ」
今度は別の一人掛けデスクに突っ伏すお客に、店員が声をかけている。
こちらは真衣と同年代の女性で、自分の身長よりありそうな長さの真っ白いチュール──よくバレリーナのチュチュなどに使われる、透け感のある布だ──の端に、同じ色のレースを縫い付ける途中で事切れていた。
「で、でも、まだまだやることいっぱいある……」
「ウェディングベールとヘッドドレス自作して、充分がんばってますよ。あとまだ何作るつもりなんですか」
「ウェルカムボードと席札と席次表と、メニュー表。あとリングピローとウェルカムベア……」
「無理。減らせ。物理的に無理」
「でもお、せっかく一生に一度のお式だし、後悔とかしたくないっていうか」
「その式の前に頓死しますよ。花嫁が不審死していいんですか。科捜研の出番ですよ」
店員は店員のくせに、真顔で客を脅した。結婚準備中らしい安浦さんとやらは、冴えない顔色で『いやいや』を繰り返した。
「──あのー。ちょっと質問なんですけど……」
真衣はつい口を挟んでいた。
チュールの海に埋もれていた安浦と、横で彼女を説得していた店員が、同時にこちらを向いた。
「すみませんカレー食べてるだけの人間が。ただちょっと気になって」
「なんです?」
特に店員の場合は、ほとんど睨むに近かったので、いっちょ嚙みしてしまったことを後悔しそうになるが、今さら後には引けない。咳払いをして続けた。
「そのあげていたウェディンググッズの類って、本当に全部作る必要あるんですか? ──あ、いえ、ベールとかを自作したい気持ちはわかるんですよ。私もウェディング小物のお店に行って、インナーはともかくベールもレンタルじゃなくて買い取りだって言われてびっくりしましたから。やっぱり手作りだと安く作れたりするんですか?」
安浦が、困惑気味に首をかしげた。
「安い、のかな……これ向かいの生地屋さんで、コームと合わせて材料費三千円ぐらいでしたけど」
「うわ安っ。それは羨ましい。でもそういう利点があるものはともかく、グッズの手作りってけっこう罠もあるじゃないですか」
真衣もあれこれ情報収集する中で、色々と怖い話を沢山聞いてしまったのだ。
「たとえば会場の荘厳な雰囲気にほっこり具合が合わなくて浮いちゃうとか、搬入中にボードが壊れて修復不能とか」
「そ、それは」
「今まで聞いた中で一番怖かった怪談は、はりきって自作したウェルカムボードの『Thank you』の『T』の字がいつのまにか取れてて、終始関西の某鉄道会社名になっていたとかいないとか」
「ひー」
しかもライバル企業の社員が参加する披露宴だったらしい。本当に怖い。
「私はいかにもそういうポカをやりそうだったし、テクもないから全部外注でいいやって思ったんですよね。紙関係は、今印刷所もわりと安いですよ」
「……確かに……」
「あ、でもリングピローだけは自作してもいいかもと思った」
「な、なんでですか?」
安浦は、この時点でかなり前のめりになっていた。
「ほら。挙式の指輪交換だけじゃなくて、披露宴のウェルカムスペースに、指輪と一緒に飾っておけるじゃないですか。やっぱり一個ぐらいは、手作り感ある立体アイテムはほしいですよ。ペアのぬいぐるみとかなくても見栄えがするし、クッションタイプなら赤ちゃんの最初の枕に使うと、幸せになるって言いますよね」
安浦と店員は、そのまま顔を見合わせた。
「……安浦さん。あと一個です。リングピローにしましょう」
「合点です!」
「ディスプレイに耐えるようなの作りましょう。うちの刺繍ミシン使っていいですから」
花嫁は燃えてきたらしく、「ハラショー」と言いながらチュールにレースを高速で縫い付けはじめた。
「すみません。私もカレー食べ終わったんで、コーヒーいただけますか」
真衣が手をあげたら、店員がテーブルまで食後のコーヒーを持ってきてくれた。
「助かります」
「え、何がですか?」
「安浦さんです。経験者の言葉は、私なんかより重みがありますから」
無愛想のクールキャラなりに、常連を説得できなくて忸怩たる思いがあったようだ。悔しそうなのが見てとれて、真衣はなんということのない顔でカップを口へ運んだ。
(──経験者っていうかね)
ブラックコーヒーの表面に、なんの感情もない自分の顔が映る。
真衣の場合、そうやって準備を進めたあげく、全部台無しになってしまった人間だった。
【つづく】