グレイス・グレイス 最終回

――匂いがわかった気がする。
その言葉に駆り立てられるように、私はモバイルバッテリーの改良に没頭した。
昼間は変わりなく、グレイスと過ごしつつ自分に与えられた仕事を行う。そして研究員が帰宅しグレイスが眠ってから、私は夜ごと研究に取り組んだ。
私の身体に充電の必要はない。人間のように、睡眠をとれば自然と体力は回復する。
ボルトフ先生は、どうやって私を作ったのだろう。
私の知能部分は生まれつき搭載された多種多様な巨大データ群とそれに基づく自学で成り立っている。ロボット工学分野はボルトフ先生の見様見真似。見て学ぶことは得意だけれど、自分自身の筐体内部がどうなっているのかはよく知らずにいる。
先生は私を、七十年代における最高傑作だと言った。今は一九八二年。先生はいったい、次の私をどう作るのだろう。
私は先生を超えたかった。先生よりも先に、次のグレイスを作りたかった。
私はウラール・ボルトフのアンドロイド。グレイスαはボルトフ先生の基幹開発をもとに、イリヤが生み出した自律型アンドロイド。私にとってグレイスαは庇護すべき観察対象であり、手のかかる妹。そのうえで、競争相手が生み出した先行開発品でもあった。
グレイスは匂いを知った。本来備わっていなかった嗅覚を、自分の力で手に入れたのだ。
彼女は間違いなく、進化の過渡期を迎えている。
グレイスは最近、しきりと施設の外へ出たがるようになった。
「ノアと出かけたい。スケートを教えてもらう約束もしてるし、それに、ノアは今度試合があるのよ」
「記者会見まで、施設から出るのは難しいです。試合をビデオで録画して、研究所のテレビで見るのはどうですか」
「それもいいけれど……。でも、ノアが試合に出ているところを会場で見てみたい」
しょんぼりとつぶやいたグレイスに、私はかける言葉が見つからなかった。
外に出てみたい。外の世界を知りたい。大好きな人と一緒に、ふたりで新しいことがしたい。
グレイスの友人として、その希望を叶えてあげたいと思う。だが、現実的な厳しさもよくわかる。今の状況では、グレイスの願いは夢物語に等しい。
イリヤが許さないという以前に、私にも許可は出せない。彼女に何かあったとき、手の打ちようがないからだ。
まずはセキュリティ面。拉致の可能性、機密の漏洩。ふとしたきっかけからグレイスの存在が公式発表よりも早く世間に知れたら、この研究所の対応も追いつかなくなる。
それに耐久面でも、グレイスはまだ不安だらけだった。ノアと出会ってから、彼女の意識は少しでも起動時間を延長しようと勝手にプログラムに作用してしまう。当初はバッテリー消費の低燃費化かとも思われていたが、いまでは対処方法不明のシステムバグという認識で研究チームの見方は一致していた。
グレイスαの駆動と充電は人間を模して、概日リズムの周期でプログラミングされている。連続駆動時間と充電状態の合計が二十四時間。朝の八時に起動して、夕方十六時から充電状態に入る。だから連続駆動時間が大幅に延びると、充電状態の継続時間はおのずと減ってしまう。充電をフルに完了しないまま、次の起動開始時刻を迎えてしまうのだ。疲労が蓄積された状態で駆動し続けることで、グレイスの筐体は異状発熱を発生させるようになった。
私はグレイスといるとき、常に保冷剤を携帯するようにしている。ハンディクーラーの風を当てても、なかなか熱暴走は収まらない。そもそも充電と駆動を過度に繰り返すと、グレイス内部のバッテリー自体が摩耗する。
でももし彼女のシステムに支障をきたさないような充電を、短時間で行うことのできる携帯用充電器があれば――
グレイスは安心して、好きなことを思いきり楽しめるのではないか。
疲れたと思えばどこでもすぐにエネルギーチャージができるのだ。熱暴走の発生リスクは減り、外出許可もおりやすくなるかもしれない。
先生の作った端末を、ただ小さくするだけではだめだ。グレイスの仕様に合わせて、彼女を構成するハードウェアとソフトウェアのどちらにも負荷をかけずに充電できる機器であること。充電にかかる時間は短く、消耗は最小限に。その上で、グレイス自身が簡単に使えるような製品にしたい。
改良版のモバイルバッテリーを完成させたら、グレイスはいまよりも広い自由を得る。
イリヤにはまだ、モバイルバッテリーの提案はできていない。ボルトフ先生からもらった機器のことも、彼や研究チームのメンバーには伝えていなかった。
チームのメンバーはモバイルバッテリー開発を応援してくれるだろう。だが、気がかりなのはイリヤの反応だった。お互いにグレイスが大切だからこそ、相容れない考え方を持っている。
他のことならすべてイリヤに従うけれど、これについては譲れない。
私を駆り立てるものの名前を、私はまだ知らなかった。グレイスへの愛情なのか、イリヤへの憐憫と紙一重の恋情なのか、偉大なるボルトフ先生への、尊敬に似た怒りなのか。
私は父を超えたいと思っているのだろうか。まるで人間の親と子のように。
いいえ、私がより強い怒りを感じているのは、先生ではなくマダムなのだ。私の父をうまく煽り立て、途方もない発明へと立ち向かわせている。
叩いても壊れない〝人間〟なんて。
私はただ悔しかった。人間が私たちを作った気でいるということが。
人間は猿から進化した。そして人間は猿を超えた。超えたという認識でいる。
ならばアンドロイドが、人間を超えても文句はあるまい。
ドクトル・ボルトフ製機器の、五分の一サイズ互換機。ボルトフ先生をしてこのサイズが限界だった、高機能モバイルバッテリーのサイズ縮小。
ずいぶんと、私は考え続けている。眠たいとも食べたいとも思わず、電卓を弾きキーボードを叩く指先から、私は機械に還っていた。
私の筐体に格納されたさまざまな電子装置が発熱している。回路が焼ききれるような感覚すら心地よかった。この世に生み出されてようやく、私は生きているのだと実感した。
私は生きている。何かが私を衝き動かしている。
手のひらに収まるほどの薄い充電器が完成したとき、ふわりと身体が軽くなるのを感じた。ホワイトアウト。手の中の充電器を見つめる私の脳裏は白い闇になり、私はその闇に包まれて泥のような眠りについた。
デスクに突っ伏して眠っていたらしい。机の上は試作機や図面、工具類が散乱していた。ひどい有り様。なにより、もうグレイスの起床時間を過ぎてしまっている。
私は慌てて身支度を直し、グレイスの部屋へと急いだ。完成したモバイルバッテリーの固さを手の中に感じながら、私はグレイスの部屋をノックした。
ふたつの声で返事があった。よく知った、でもこの時間この場所では意外な声。イリヤだ。
すっかり身支度もすませたグレイスと話していたイリヤは、入室した私に笑いかけた。
「おはようございます。すみません、少し寝坊して」
「ミス・ボルトワにはめずらしいね。このところ、疲れてるなとは思ったけど」
「いえ、そんなことは……」
私はどぎまぎと目を逸らした。イリヤの労りの言葉を後ろめたく聞くのはなぜだろう。
剥き出しで持ってきたモバイルバッテリーをこっそりとエプロンのポケットに隠そうとしたら、ひと足早くグレイスに見つかった。
「ミス・ボルトワ、それはなあに?」
首を傾げるグレイスは興味深い目をしている。グレイスの視線を辿ったイリヤも、私の手のなかのリップケースほどの黒い物体に気がついた。
「……グレイスの、新しいモバイルバッテリーです。接触タイプなので、肌に当てれば充電ができます。モバイルバッテリーの充電方法は電源または太陽光。この機体ひとつをフルに充電した状態で、まる三日分のバッテリーが保証される……充電時の熱暴走はありません。頻繁に充電を行った場合の、彼女の筐体内部と根幹プログラムへの支障も最大限抑えてあります。いつでもどこでも充電ができて、彼女の外出の助けになるように」
説明していくうちに、声は自然と力を帯びていった。不思議だ。話し出す前は、あんなに心細かったのに。
「サイズが小さいですから、たとえば袖口に差し込んで袖の中で充電したり、服に隠すことも可能です。いくら充電しても、この充電器が発熱することはなく、むしろひんやりとした状態を保つようにしました。耐火、耐熱、耐水、すべて国際規格をクリアしています。なによりも強みは徹底的にグレイスαの電源仕様に合わせたことですね。つまりは彼女専用なんです」
言葉を切ったとき、グレイスとイリヤはぽかんと口を開けて私を見つめていた。
唖然としたふたりの表情に一瞬で我に返ると、とたんに動悸が襲ってきた。この振る舞いはまずかっただろうか。脈拍に似た体内の駆動音があきらかに乱れていた。
「……ちなみに外部は樹脂製です。試作機としてひとまず三体作っています」
「それ、ボルトフ先生が?」
「えっと……」
表情をなくしたイリヤの視線とぶつかって、私はまごついた。
返事ができない私に近づき、イリヤは「見せて」と言ってモバイルバッテリーを受け取った。彼の手だとすっぽりと隠れてしまう大きさの機体を表裏と返して、慎重に眺めている。
イリヤはグレイスをそばに呼び、彼女の手にバッテリーを握らせた。緑のランプが三つ同時に点灯し、彼女が充電完了状態であることを知らせている。
そのままイリヤはしばらく、彼女の筐体を詳しく調べていた。充電は正常に行われているか。本当に身体に支障はないのか。
「グレイス、気分は?」
「静かな感じ。充電器はひんやりしています」
グレイスのいう通り、彼女の身体は静かだった。これまで充電時に必ず聞こえてきた、モーターの振動音がしなくなったのだ。
イリヤの掠れたため息が、無音の部屋に重たく響く。
モバイルバッテリーを手にしたときには強い光を放っていた目が、諦めの色を浮かべていた。
「たまらないな、こんなものを作られたら」
「……イリヤ?」
「先生は天才だよ」
イリヤは力なく笑い、私を振り向いた。
「先生がいつからこれを作ってたかわかる?」
先生がいつから作っていたかはわかりません。ガーデンパーティ―の当日に、前作を渡されました。そのあと私が改良のため開発を引き継ぎ、この製品を完成させました。
――イリヤ、私もこれを作ったんですよ。
言いたい言葉を言えないまま、私は曖昧に首を振った。
「いえ……ガーデンパーティーの前でしょうか。その後、改良もしていました」
「そうか、多く見て四週間……」
実際にはもっと、短いでしょうね。
いまの私はイリヤと同じように、諦めた目をしているのだろう。諦めた対象は違うけれど。
どうすることもできずにイリヤを見つめていたら、イリヤの前でそわそわ視線を彷徨わせているグレイスと目が合った。戸惑った顔のグレイスは私を見つめ、こっそりと微笑みかけた。
このとき私は、彼女がなぜ表情を綻ばせたのかわからなかった。そしてすぐ、彼女を止めなかったことを後悔する。
グレイスはちょっと首を傾げ、イリヤの名前を呼んだ。
イリヤは年長者の仮面を纏い直し、グレイスにやさしく微笑み返す。
「どうしたの」
「ええ、イリヤ。あの……」
グレイスはひとつ息を吐いて、気持ちを立て直すように笑顔になった。
「イリヤ、これがあれば、私は外に出てもいいでしょう?」
「グレイス?」
「前にお願いしていた、ノアの試合……今日なの。もう第一試合は始まっているわ」
間に合って本当によかった。うれしい、ボルトフ先生のおかげね。
弾んだ声でそう言ったグレイスは、凍りついたイリヤの表情に気づこうともしなかった。
「研究所の前からバスで四駅だって、ちゃんとノアに教えてもらったのよ。切符の買い方も聞いてあるし、会場の地図も。第一試合はもう始まっているけれど、今日はオープン戦だから、ノアのチームは対戦相手を入れ換えて二試合……」
「グレイス」
叱るように低く名前を呼ばれる。浮足立っていたグレイスはやっと、いつでも穏やかで優しいマスターの異変に気がついた。
「十分以内に戻ってくるからここにいなさい。……ミス・ボルトワ」
この先に続く言葉を半ば予期しながら、私は「はい」と答えた。
「話がある。ちょっと来て」
怯えた表情のグレイスが追い縋ろうと足を踏み出しかけた。それを押しとどめ、イリヤはグレイスを残して部屋のドアを閉めた。
「どういうことだ、これは」
手近な会議室に入るなり、イリヤは怒りに背中を震わせた。
「……電話して。ノア・ナーシュの高校とクラブチーム、それから保護者に」
「イリヤ、そんなことは……」
「うるさい、黙ってやれ!」
怒鳴りつけてからハッと振り返り、彼は唇を嚙んだ。
「……ノアと保護者を呼んでくれ。話したいことがある」
「できません、イリヤ」
「どうして」
どうして。そんなことあえて訊ねなくても、イリヤにはわかっているだろう。
ノアひとりが悪いわけじゃない。ノアが悪いのならグレイスも悪い。そして、止めなかった私が一番悪い。
「彼は保護者を呼んで罰せられるほど悪いことはしていません。それに、これから試合なんです。せめて試合が終わってから、彼だけを呼んで私と話をするのではいけませんか」
「君がなにを話すというんだ」
せせら笑うように言って、イリヤは首を振った。
「君に任せたのが間違いだった。君じゃなければ、グレイスを危険にさらすことはなかった」
危険。そう、危険ね。
笑う気力も起きなくて、私はため息をついて言った。
「ノアに怒るよりも、もっと怒るべき相手がいるでしょう」
温度をなくした表情が、削ぎ落としたように険しくなった。
天才を前に諦めというもっとも恥ずべき敗北を喫し、一度完成させた過去のプロトタイプにいつまでもこだわり続ける。だからあなたは、永遠に二流の研究者なのだ。
「あのモバイルバッテリーの大元を作ったのはボルトフ先生。元の製品サイズから八十パーセント縮小できるよう、内部の基板とソフトウェアを改良したのは私です」
私があれほどの機械を作れるなんて、あなたは思いもしなかったのでしょう。
私はため息のように笑っていた。昔知った絵画でも見るようにイリヤを見上げて、この人と過ごした時間よりもグレイスと過ごした日々を思い返していた。
五年追いかけたイリヤと、ひと月一緒にいただけのグレイス。それなのにいつの間にか、私はグレイスを娘のように思っている。目の前のこの人よりも、グレイスに心を砕いている。
そんなにグレイスが大切なら、あなたがずっとそばについていればよかったのに。
あなたはやさしい人だった。あなたのやさしさに、救われたことは何度もあった。
私の筐体内部の一部分、おそらく中央演算処理装置がじくじくと脈打っていた。負の感情と名付けるしかない何かが筐体内を駆け巡る。憎悪なのかもしれない、これは。
私はなるだろう、父を超えるバケモノに。私をバケモノに変えるのはボルトフ先生による機能改良ではなく、怒り。私の内側から湧き上がる、マグマのような怒り。
ああ、そうか。
だからマダムは先生に、アンドロイドの感情をなくせとは言わなかったのだ。
「グレイスが心配ですから戻ります。彼女の外出を認めるかどうかは別として、彼女をひとりにするわけにはいきません」
部屋から出ようとした私の腕をイリヤが摑んだ。私は腕を振り解こうとして、このまま引きちぎれるのでもいいかと思った。
そうすればさすがにイリヤもわかるだろう。私がアンドロイドだということが。
いくら摑まれても痛くない腕を捨てかけたとき、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
「グレイス!……」
私たちは先を争うようにして暗い会議室を飛び出した。
馬鹿なことをした。グレイスがあのまま、大人しく待っていると思うなんて。
グレイスの部屋はもぬけの殻になっていた。
ドアの内側によく見知った鍵が落ちている。蒼白の顔でそれを拾い上げたイリヤは、Yシャツの襟もとからストラップを取り出した。
まったく同じ鍵が、彼の首にもかかっている。研究所に一本しかないはずの、この部屋の鍵。ナンバーロックと組み合わせた二重鍵の片割れだった。
グレイスが、まさか。
彼女は毎朝変わるこの部屋のナンバーロックを解析し、私かイリヤしか持ち出せない鍵をコピーしたのだ。金属製品を複製するための機械なら、この研究所内にいくつもある。
彼女はいつからコピーの鍵を隠し持っていたのだろう。私はいつから欺かれていたのだろう。
グレイスは進化するアンドロイドなのだと、あれほど言ったのは私なのに。
急がなくては。踵を返そうとする身体がよろけた。目の前が真っ暗になる。
倒れかけた私を抱きとめたのはイリヤだった。さっき私を強く摑んだ手はすっかり毒気が抜けて、ふらつく私を支えている。
「グレイスを、追わないと」
どこに、と掠れた声が訊いた。
どうしてここまで現場を見てわからないの。
私は歯痒く身を捩った。イリヤを頼りにしていられない。
「……グレイスは、ノアの試合に行ったんです」
*
試合の喧噪がうっすらと届く救護室に、二つの身体が横たわっている。
ユニフォームをつけた長身の身体は時折苦しげに呻き声を上げた。だが、少女の身体は人形のように動かない。
「……で?」
どうしてこんなことになったのか。
イリヤからの電話で研究所から呼び出されたボルトフ先生が目顔で訊ねる。
グレイスの傍らに膝をついた私は、俯くだけでなにも言えなかった。
私とイリヤが会場に辿り着いたとき、すでに事件は終わりかけていた。
第一試合の途中、対戦相手の振るうスティックがノアのヘルメットに強くぶつかった。ノアは脳震盪を起こし、激しい接触プレーが原因で意識を失った。
痛ましいけれど、ホッケーではこうした接触事故は稀に起こる。ことがこれだけですんでいれば、試合中の危険行為による事故として尋常に処理されただろう。相手選手はオフサイドによるペナルティで一時的な退場。ノアは救護班によってリンクから救出され、こちらのチームは人員を補充してゲーム再開。
けれど、そのとき会場にはグレイスがいた。
氷上で横倒れになったノアを見て、客席のグレイスは悲鳴を上げた。
彼女は周囲が制止する間もなく、リンクのノアに駆け寄ろうとした。
グレイスは、氷の上に立ったことがない。
止める観客やレフェリーの腕を振り切ってパンプスで氷に上がった彼女は、足を滑らせて大きく転倒した。
客席から悲鳴があがる。
スリップして跳ね上がった身体が氷に叩きつけられる。耳に痛い衝撃音を立て、グレイスは氷上で動かなくなった。
リンクの青年たちは、目の前の光景が信じられずに固まった。
シリコンの肌を金属の骨が突き破っている。手足の関節をあらぬ方向に曲げながら、彼女は一滴の血も流していない。
試合会場は二度目の悲鳴に包まれた。グレイスは混乱状態のリンクから意識不明のノアとともに運び出され、ひとまず救護室に寝かされた。
彼女の保護者だと偽ってここに立ち入ったイリヤは、無理を押して彼女の看護を遮断した。そして師であるボルトフ先生を呼んだ。この状態の彼女を助ける手立てを持っているとすれば、ボルトフ先生しかいなかった。
私は硬い寝台に寝かされたグレイスのそばに膝をついている。私の隣ではイリヤがひび割れたグレイスを前に、呼吸も忘れたように立ち尽くしていた。
ノックの音がして、ノアのチームのコーチが入ってきた。続いて、救急隊員がストレッチャーを抱えて入室する。
「そちらのお嬢さんは」
救急隊員の問いかけに、イリヤは「我々で手配しましたから」と萎れた声で答えた。
若い救急隊員が半死半生のようなノアの肩に触れ、耳元で声をかけた。それにかすかな反応を見せたノアは、男性ふたりに抱えられてストレッチャーに移し替えられる。
「まあ、いろいろ言いたいことはあるけど」
壁にもたれたボルトフ先生が、目の前の光景にまったく斟酌せずに口を開く。
「こっちのグレイスだったら、こんな風にはならなかったな」
「先生!……」
イリヤは撃たれたように身体を震わせて先生に詰め寄った。目を血走らせたイリヤを片手でいなして、ボルトフ先生は私に顎をしゃくった。
「なあ、グレイス」
「……グレイス」
先生の呼びかけに呼応するように、動き出しかけたストレッチャーから弱弱しい声がした。
「グレイス……グレイスは?」
ノアはふらふらと手を伸ばし、グレイスを探そうとしている。その顔は右の眼元から顎にかけて、痛々しく腫れあがっていた。
救急隊員が彼の身体を押さえようとする。だがノアはグレイスを探して寝返りを打ち、いまだベッドに寝かされているグレイスを見つけた。
「待ってください、グレイスを先に……」
「そのグレイスは壊れたんだ」
ボルトフ先生の言葉に、ノアは強く首を振った。
「壊れたんじゃない!」
「壊れたんだよ、テレビだって、落としたら潰れるだろ」
信じられないものを見る目で先生を見、ノアはストレッチャーから身を起こそうとした。
「お願いします、グレイスを助けてください。俺は後でいいから、先にグレイスを」
「助けることはもう無理だ。修理するにも、彼女はコストだけがかかる」
暴れるノアを制しかねて、救急隊員はストレッチャーのタイヤを足で固定させた。ノアの身体に覆いかぶさるようにしつつ、いたずらに患者を刺激するボルトフ先生を険しく咎める。
「あなた、黙っててもらえますか。彼を興奮させないでください」
ボルトフ先生は顔をしかめ、ゆっくりと首を振った。
「ボルトフ先生、先生ならグレイスを治せるでしょう? どうして? どうしてグレイスを治してくれないんですか?」
「……新しいものを作ることならしてやれる。どうかな、ここにいるグレイス・ボルトワのアップグレード版なら、グレイスαよりも格段に人間らしく仕上がるが」
「先生、それはあまりにも失礼です。私にも、ノアにも、ミス・ボルトワにも」
憤りに満ちた声でイリヤが言う。ボルトフ先生は長年の忠実な教え子に、憐れむような目を向けた。
「失礼はおまえだよ。ミス・ボルトワはアンドロイドだ」
いつ言ってくるかと待っていたが、おまえはまったく気づかないもんな。ほとほと呆れたというように肩をすくめたボルトフ先生は、もたれていた壁から身を起こしてストレッチャーのノアに近づいた。
「君には、可哀想なことをしたと思っている。どうだい、君が実戦に復帰できる頃、グレイスよりも人間に近いグレイスをプレゼントしようか」
それはボルトフ先生らしくもなく、真心から出た言葉のようだった。
呆然と先生を見上げていたノアの目に涙があふれ、吹きこぼれるように頬を伝う。
「……いやだ」
痛みに歯を震わせながら、ノアははっきりとそう言った。
「グレイスを助けてください」
「……あのさ、そのグレイスはものすごく単純なプログラムだぞ」
ちょっとよく見ればわかるだろ。グレイスαはグレイス・ボルトワの格落ち品だ。
ボルトフ先生は若干の困惑すら感じている。どうしてノアが旧式品を求めるのか、まるで理解できないのだ。
ノアはぼろぼろと涙を零しながら、先生をきつく睨みつけた。黒い眸に怒りが燃えている。
救急隊員が身体を押さえていなければ、ノアは先生に殴りかかっていたかもしれない。
「俺は、グレイスが人間みたいだから好きだったんじゃない。グレイスじゃなきゃ……グレイスじゃなきゃだめだったんだ」
グレイスを助けてください。
泣きじゃくるノアをなだめ、救急隊員は今度こそボルトフ先生にこの救護室からの退室を要求した。
「グレイス、帰るぞ」
先生は私を呼んでいる。
わかっていたけれど、私はグレイスのそばから立ち上がれなかった。
私の隣に呆然と立っていたイリヤが、呻くようにボルトフ先生を呼んだ。
「どういうことですか。ミス・ボルトワが、まさか……」
「さっき言ったことが全部だよ。このグレイスは俺が作ったアンドロイドだ」
イリヤの視線を横顔に感じる。だけど私は、イリヤを見返すことができなかった。
「……もし本当にミス・ボルトワがアンドロイドなら、なぜいままで隠していたんですか」
「隠してねえよ。おまえの目が節穴だっただけだ」
先生はイリヤを見やって「手もか」と興味なさげに付け加えた。わからないことがわからないと言いたげに肩をすくめる。
「でもこれを明かしていてくれれば、グレイスプロジェクトのときだって」
ふたりの会話が耳から、身体を通って素通りしていく。
私はだらりと垂れたグレイスの手をとった。硬く握られた右手を包む。
小さな拳の中に、私の作ったモバイルバッテリーが握り込まれていた。
「じゃあ、グレイスはなんだったんです。どうして俺に、グレイスを作らせたんですか」
「そりゃあ、おまえ」
――グレイスはグレイスの捨て石だよ。
私はおそるおそる先生を振り返った。
「……先生?」
私はなにも考えられなくなって、ただ先生を見上げていた。先生は私を点検するように眺め、軽くため息をついた。
「そうだな、もしおまえがグレイス以上のものを作っていたら、結末は違ったかもしれないが。……イリヤ・リューロフは極めて優秀な学生だった。だけど、生徒以上にはなれなかったな」
見上げる私と見下ろすイリヤの目が合う。きっと鏡合わせのように虚脱した顔を晒していた私たちは、目があった瞬間に決裂した。イリヤはおそらくはじめて私を憎み、対する私は無になった。
グレイス、グレイス。
私のものでありながら、私のものではなくなった名前を私は呼んだ。
応えてください、グレイス。
「――グレイス」
私の呼ぶ声に応える人は、誰もいなかった。
*
暗い舞台袖から見える舞台は、スポットライトで白く反射していた。
まぶしく目を射る光に、そっと手を翳す。白いドレスを着て美しく装っても、心が浮き立つことはない。
グレイスなら、どうしただろう。
――ミス・ボルトワ! ねえ、大丈夫かしら? いまさら緊張してきちゃった。
頭部筐体に納められた中央演算処理装置が、この日を迎えるはずだったグレイスの姿を思い描く。緊張したといいながら舞台に上がってしまえば彼女は可愛らしく微笑み、拍手の渦を巻き起こすのだろう。
私は静かに息を吐き、ドレスの裾を捌いてステージに上がった。
あの日の雨のようなフラッシュの音が、一斉に襲い掛かってくる。まぶしいと感知しつつもまぶしさに負けることはない目で、私はうつくしく微笑んだ。
スタッフが引いた椅子にそっと腰を下ろすと、隣の席からボルトフ先生が客席に向かって私を示した。先生は私よりも先にこのテーブルに着き、製作発表のイントロダクションを行っていたのだ。
「こちらが彼女――グレイス」
この会見のプロデューサーはドクトル・ボルトフで主役は私。それから客席の最前列には、私と先生の最大のスポンサーだったマダム・プレジデント。
男仕立てのスーツに身を包み、長い足を組んだマダムは観察する目で私を見た。艶やかな黒髪に黒い眼帯。自由になる左目は魅力的な形をしているけれど、暗闇の刃のように危うく光る。
かつての宗主国や東西の大国は、マダムを悪魔と呼ぶという。皇帝。隻眼の悪童。吸血蝙蝠。あの女。悪魔。在位中でありながら、彼女ほど二つ名の多い国家元首はそういない。
たしかに彼女は悪魔だった。でもこの国の最高権力者として君臨する彼女はもはや、悪魔などという可愛らしい邪悪ではない。
バケモノ。私のもうひとりの生みの親であるマダムを、あえて私はこう讃えよう。
彼女のあるひと言から私の筐体はダイヤモンドよりも硬度に造られ、グレイスは私と同じ名を付けられた。
――私は、グレイス。イリヤ・リューロフのアンドロイド。
グレイスの声が、私の耳朶に甘く響く。
グレイス。
私のもとにふたたび返ってきた名前。けれどそれはもう、私のものではなくなっている。
もはや私はドクトル・ボルトフのアンドロイドにも、ミス・ボルトワにも戻れない。
私はふたりの怪物から生み落とされた。だから私は、ふたりを凌ぐバケモノになろう。
私を超えるアンドロイドを作るのは私だ。
隣の席のボルトフ先生が黙ってマイクを差し出してくる。私は細身のマイクを受けとり、最愛の父にうなずいた。
誕生からいままでの数年で蓄積された膨大なデータが、私の情報処理機関を駆け巡る。
ミリ秒の沈黙を不思議に思う人間はいない。
私はいまこの瞬間、何を演じればいいか。エヴァ? ニーナ? いいえ、安直で普遍的な意趣返しは短絡に過ぎる。
導き出した解に基づいて、私は私の設定を終えた。
そして私は彼女を見つめ、彼女の期待どおりに微笑みかける。
「私は、グレイス。叩いても壊れない人間よ」
【おわり】