グレイス・グレイス 第三回

「グレイスさん」
遠くから呼ばれた名前が、自分のものだと認識するまでに少し間があった。
芝生で行方不明になったピンポン玉を探す私よりも早く、グレイスが声の主を振り返る。花壇の向こうで小さな黄色い球を振ってみせる少年に、彼女はすまして微笑んだ。
「あら、ありがとう」
あれ? というような顔をしつつ、ノアがもう一度私の名前を呼ぶ。
「これ、投げていいですか」
「ありがとう、もらいにいきます」
いつもより大きな声を出しながら、私は少し焦っていた。
ノアはまだ知らない。世界初の自律型アンドロイド『グレイスα』が誕生したことを。
グレイスはいまや国際記者会見を控える研究所の最重要機密だ。彼女の完成を聞きつけて、すでに賊の侵入も受けている。
「グレイス、ここで待っていてくださいね」
私はグレイスに言い置いて、十メートルほど先に立つノアに駆け寄った。
ノアの距離からならば、グレイスがアンドロイドであるとは気がつかないだろう。
十六歳のノアはアイスホッケ―の強化指定選手だ。その高い運動能力を生かして、この研究所のアンドロイド開発に協力してもらっている。
人間の日常動作、および特殊状況下における運動反射、スポーツ中の骨格と筋肉の働きについて詳細なデータをとって、自立型アンドロイドの動きをより人間らしく進化させる。ボルトフ工学研究所ではノアのような研究協力者を常時十名前後キープしていた。性別や年齢、職種もランダムにして、幅広い層のデータを集めている。
いつもの如くノアはクラブチームの練習前に研究所を訪れたらしい。薄いグレーのウィンドブレーカーに、練習道具一式を収めたエナメルバッグを掛けている。
「ごめんなさい、ノア」
「ううん。今日は卓球ですか?」
高校生だからまだひょろりと薄いものの、頑強そうな骨格を感じさせる長身だった。その骨張って大きな手が、小さなボールをそっと私の手に載せて返した。
「いいえ、ノアは今日もダッシュとジャンプ中心のメニューですね。あと体幹も。……トレーニング室でユーヌスが待ち構えていますよ」
「あー、聞くだけできつそう」
陸上練習のシーズンに入り、早くも淡く日に焼けた顔がくしゃりと笑う。
ノアたちから運動データをとるのは、研究所内にある運動施設――通称・トレーニング室。設備装置もそこで彼らが行うトレーニングや競技内容も、ふつうのジムと大差ない。トレーナーよろしく、研究員がそばに立ってストップウォッチやカウンターを構えているのも同じ。
「ノアのデータはとても貴重なんです。筋繊維重量と運動能力の比率が他に類を見ませんから。もうじきリンクの都合もつくので、氷上での実験もやっていきましょうね」
ノアは黒い眸を輝かせた。身体を動かすのが好きなノアは、とりわけ氷の上だと水を得た魚のようにいきいきする。氷で泳ぐ魚というのも変な喩えだが。
「じゃあ、頑張ってきます」
「はい、終わる頃にまた軽食を用意しておきますね」
そう言って、九十分間の過酷なプログラムへと向かうノアを送り出そうとしたときだった。
「……ミス・ボルトワ!」
怒ったグレイスの声がして、私は慌てて卓球台を振り返った。グレイス、と思わず口をついて出るが、痺れを切らしたらしい彼女はもうすでに走り出していた。
あっという間に私の隣に並んだグレイスは、頬を紅潮させる代わりにボディ筐体を発熱させている。
「ごめんなさい、待たせてしまいましたね」
拗ねた頬に手の甲で触れながら、まずいことをしたと思った。色白のシリコン越しに熱疲労が伝わってくる。バッテリー残量はまだ一時間以上の余裕があるけれど、はじめての卓球で消耗が早かったのだろうか。
「……これ、ロボットなんですか?」
半信半疑よりも疑いの勝る問いだった。私は観念してうなずいた。
「……ええ、研究所の新型アンドロイドです。まだ公表前なので、どうか内密に」
わかりました、と真面目に請け負いながら、ノアはしげしげとグレイスを眺めている。
十六歳という年齢以上に、彼はしっかりしている。そもそも研究所に出入りできるのは、機密保持や法務管理に信頼がおける人物であるかを精査されて、すべてクリアしている人だけだ。ノアなら大丈夫。そう言い聞かせても失策は失策で、数分前の自分の選択を悔やんでしまう。何事もなくこの顔合わせを終えられますようにと私は内心祈っていた。
「さっき向こうにいたとき、ふつうの人間だと思ったんです。俺みたいな、運動データ用の人なのかなって」
ノアはわずかに身を屈め、私の腕にしがみつくグレイスと視線を合わせた。黒い眸が興味深げにグレイスを見つめる。その視線のあまりの真っ直ぐさに、私は彼がグレイスを人ではなく物体として捉えているのだとわかってしまった。
「SF映画だとロボットって、もっと銀色のメカじゃないですか。すごいな、こんなに人間そっくりなんだ」
たいていの人間は初対面の他者に、こんなにもあからさまに観察する目を向けはしない。グレイスを見るノアの目は、おもちゃ屋や電気店で気になる商品を見つけたときと同じ目だった。
「違うわ!」
ふくれっ面で黙っていたグレイスが、ふいに強い声を発した。
グレイスは私の腕を離し、ノアに向かって一歩近づいた。身につけたブラウスと同じ淡いブルーの瞳が、凜と光ってノアを見据える。
「私が人間そっくりなんじゃないわ。人間が私にそっくりなのよ」
予想外の台詞だったのだろう。ノアは黒い双眸を見張った。そして私も、彼女の言葉の意味を考えこんでしまった。
面白いな、とつぶやいて、ノアは私に訊ねた。
「ボルトフ先生が作ったんですか?」
「いいえ、私のマスターはイリヤよ。私はドクトル・リューロフのアンドロイド」
間髪容れずに答えたグレイスは、わずかに顎をあげてみせた。どう? と誇るようにノアを見返す。私はドクトル・リューロフのアンドロイド。この世でもっとも新しく、この世でもっとも高性能な、イリヤ・リューロフの奇跡の発明。
「イリヤ先生なんだ。めずらしいですね」
「そうでしょう。世界で私しかいないもの」
高飛車といえるほど勝気な言い方なのに、なぜかとても可愛らしく聞こえた。きょとんとしていたノアも吹き出し、苦笑している。
イリヤにもこの場にいてほしかった。イリヤがいまのやり取りを聞いていたら、どれほど幸福に感じただろう。
今日の報告のときに必ず言おう。そう思いながら、私はグレイスに「グレイス、ノアはこのあとお仕事があるんですよ」と声をかけた。
「お仕事?」
「彼の運動データをとらせてもらっているんです。アンドロイドの身体機能を、今よりもさらに向上させるために」
私がそう言っても、グレイスはつんと顔を背けてにこりともしない。
「グレイスっていうの?」
今度は私ではなくグレイス本人に訊いた。私に訊ねたつもりの言葉に、先に『ロボット』が答えてしまう。はじめ、ノアは自律型アンドロイドに少なからず戸惑っていたようだが、少しずつ慣れてきたのかもしれない。
「知らない」
ロボットと言われて、グレイスはすっかりつむじを曲げてしまったようだ。ノアへのこの態度についてはあとで諭さなければ。それにしてもグレイスは私とふたりきりでも、これほどわかりやすく不機嫌な顔をしてみせることはなかったのに。
グレイスにばれないようこっそりとノアに謝ると、ノアは照れたように首を振った。
「彼女はグレイスといいます。これから、私のことはミス・ボルトワと呼んでください」
「えっと、ボルトワだと先生の……?」
「娘です。ボルトフは父なんです」
「あ、後継者なんですね」
「後継者……。はじめて言われました」
立ち去りかけたノアはふと、「俺がここでやってることって、グレイスみたいなアンドロイドの一部になってるんですかね」と言った。
「ええ、とても。いま開発中の個体なんかはまさにそうですね」
「なんか、嬉しいですね」
なんのためにやってるとか、全然考えたことなかったけど。そう言ってはにかむように笑ったノアに、私も胸がじんわりと温かくなった。
「そう言ってもらえると、私たちも嬉しいです」
今日の実験へ向かうノアが言葉をかけても、グレイスは唇を嚙んでなにも言わなかった。睨むように強い瞳でノアの背中を追いかける。その横顔はまだ強張っていた。
グレイスは見送る私の手をとって、早く行こうというように引っ張った。
「グレイス?」
痛いですよと窘めても、グレイスは強く頭を振って唇を嚙むだけだ。
「……私は嬉しくない」
うつむきがちな顔を覗き込むと、青い炎のように潤む瞳にぶつかった。その瞳が中央演算処理装置に転送している撮像はおそらく、視線の先の芝生ではない。
「あんな人いなくたって、私はなんでもできるもの」
*
伝えるべき内容、私の落ち度をどう言葉にすべきだろう。逡巡しているとイリヤが先に「今日、なにがあったの?」と口火を切った。
つめたい声ではなかった。だからより胸に重たく、言葉に詰まる。
ノアとの邂逅はグレイスになんらかの異変をもたらした。それは最早、私にとって疑いようのない事実だった。
デスクランプひとつに照明を絞ったグレイスの部屋。ソファに腰掛けて目を閉じたグレイスは、深い充電のさなかにある。
あのあとグレイスは定刻通りにイリヤと日課の面談をして、充電用のソファで眠りについた。けれど、数十分もしないうちに目を覚ましてしまったらしい。彼女は日中用の洋服に着替え、身支度をして自室を出ようとした。
それなのに、ドアが開かない。
この部屋は一度施錠してしまうと、ドアの内外どちらからでもナンバーロックと挿し込み錠の二つを利用しないと開けられない仕組みになっている。ナンバーロックの開錠数列は毎朝七時にリセットされ、挿し込み錠は事務所の金庫の中だ。金庫を開けられるのはイリヤと私のふたりだけ。
私の知るかぎり、グレイスは彼女ひとりでこの部屋から出ようとしたことはない。
びくともしないドアに不安を搔き立てられ、グレイスは呼出しのベルを鳴らした。グレイスの部屋で非常ベルが取り扱われるのははじめてで、もちろんグレイスはそのボタンを押したことがなかった。
非常ベルが鳴ったとき、私は研究所の事務室にいた。グレイスの部屋へ向かいながら、私のデータ処理装置は最悪の状況をいくつも想定してせわしなく演算を繰り返した。
けれど駆けつけた私にグレイスは開口一番、「明日の分のレッスンを今晩のうちにやってしまいたいの。いまからしてもいい?」と訊ねた。やっと来てくれた、どうしたのかと思ったの。ホッとしたような表情のグレイスに、私はへなへなと力が抜けていくのを感じた。
グレイスは小一時間ほど前に一緒に用意したはずの明日の洋服を着て、エプロンまで身につけていた。
何が起きているのかわからない。でも、グレイスは無事だった。
――ねえ、いいでしょう? そうすれば、明日は明後日の分ができるわ。もっと沢山、できることを増やしたいの。
熱っぽく訴えるグレイスは、あきらかに興奮し思い詰めていた。抱きとめて背中をやさしく撫で、言葉をかけても落ち着かない。
止める私を振り切ってでもキッチンに行こうとするグレイスをなだめながら、私はボルトフ先生の教えと自分自身の経験をもとに、彼女の主電源を落とした。
いま、グレイスは消え入りそうにひっそりと眠っている。けれどそれは、私が強制的に眠らせたからだ。
充電中に自発的に起動してしまうケースは、初期起動から一度も見られなかった。それも充電完了間際ではなく、七時間分のバッテリーを使い切った直後である。自ら身支度をして部屋を出ようとしたのもはじめてだ。
遠慮のない他者との邂逅は、彼女に重大なバグを引き起こしたのかもしれない。
このバグは私の責任だ。
もしもこのまま、グレイスが目覚めなかったらどうしよう。
コンセントに充電プラグを挿し、ボディ筐体からモーターの振動音が低く響いていてもなお、私はその『もしも』がたまらなく怖かった。
「申し訳ございませんでした」
私はデスクトップのキーボードを弾くイリヤに頭を下げた。
「私の不手際で、グレイスを他者とイレギュラーに接触させてしまいました。接触があったのは運動データ被験者のノアです。グレイスの様子が変化したのは、ノアとの接触時からだと思われます」
「ミス・ボルトワ」
顔を上げると、面食らった表情のイリヤがいた。
「そんなに恐縮しなくていいよ。起きてしまったことは仕方ないんだ」
でも、と口のうちで言いかけ、私は情けなさに目を伏せた。
「完全な外部と接触したわけじゃないから、機密保持の面も手が打ちやすい。ノアはちゃんとした子だしね。だけどグレイスの反応があまりに予想外だから、具体的な情報が欲しいかな」
眠るグレイスに顔を向けて眉を曇らせる。グレイスとの面談を終えてすぐ、イリヤは打ち合わせで外出した。グレイスの異状起動は、マスターであるイリヤの留守中に起きたのだ。
私は今日のグレイスの様子を、朝から時系列に沿って振り返った。できるかぎり詳細に、わかりやすくイリヤに伝わるよう、順を追って話すようにする。
午前中、グレイスは昨日から仕込んでおいたパンを捏ね、焼いた。まだコンロの使用許可は下りていないが、書庫の料理本から火を使わなくても作れるレシピを自分で探したり、作り方の工夫を私に相談するようになった。午後からはこのところ継続して行っている球技の適性実験。種目に卓球が選ばれたのは、サッカーやテニスといった代表的な球技のなかで、まだしも安全な方だから。それに、卓球なら私とふたりでできる。
けれどグレイスは、あまり卓球に向いていないのかもしれない。子供の手のひらにのるような小さなボールを、広げた大人の手のひらほどのラケットで打ち返すのが難しいのだ。サーブを打つのも二回に一度は失敗する。
そして打ち損ねたボールが芝生に落ち、ノアの足元へと転がった。
「卓球をしているあいだの様子には、とりたてて変化が見られませんでした。苦手だから投げ出そうとするのではなく、上達したいと思って練習しているようです。実際、ほんの少しずつですが、反復練習によってラリーが続く回数が増えてきました」
だから余計に悔しかったのだろうか。打ち返せなかったピンポン玉が遠くへ転がり、それを拾った少年に『ロボット』とひと括りにされたことが。ましてや彼はアンドロイドのための運動データ提供者で、彼のような人間の高度な身体能力がアンドロイドの身体機能の基礎になっていると知らされた。
「グレイスはアンドロイドであることに誇りを持っています。それで……それなのに、自分の運動機能が運動に秀でた人間の機能をなぞらえたものだと聞いて、もっとなんでもできるようになりたいと思ったのかもしれません。ただ、彼女のそうした〝感情〟が、システム制御を乱すほど強いものだとしたら、それは一度きちんとシステムデータを解析してみる必要があると思います」
――あんな人いなくたって、私はなんでもできるもの。
この言葉が、彼女の異変を説明するすべてではないか。
イリヤは私の話に耳を傾けながら、じっと考えこんでいた。
「……アンドロイドに、システムを誤作動させるほどの感情って持てるのかな」
疑わしげな声は、暗に否定を示していた。自らが生み出したグレイスの可能性を、イリヤはきわめて限定的に考えている。
「グレイスの思考反応は、基本的には分岐対応型のシナリオに沿ったプログラムなんだ」
彼女には自己学習の機能が搭載されている。けれどそれはあくまで、会話と行動パターンの領域を対象とした試験的な機能だった。
グレイスはヒトの感情に類した何かは持っているだろう。そうなるように、イリヤが設定した。だがそれは生物的な感情ではなく、あくまでヒトの感情を模した疑似的なものだ。ようは、高度なソフトウェアのひとつに過ぎない。
「グレイスの様子を聞いた感じだと、これは今日だけの一時的なものかもしれない。思いがけない他者との接触が、彼女に突発的な異変を起こした。先週のガーデンパーティーの後みたいにね」
研究所職員の家族を招いて行ったグレイスのプレお披露目会は成功した。招かれた誰もがグレイスの完成度の高さに驚き、彼女を褒めたたえた。グレイスもよく頑張っていたと思う。グレイスの名にふさわしく、気品ある姫君のようだった。
けれどその翌朝、彼女は充電終了時間を四時間もオーバーするまで起動できなかった。
「人間の身体は感情に負ける。だけど彼女はアンドロイドだ」
「でも、彼女は自律型アンドロイドです」
そもそもあれが誤作動であるかどうかも、まだわからないのだ。モーターの寝息を立てて眠るグレイスを見て、私はさっきよりも考え方の視界が開けた自分に気がついた。
異変は必ずしも悪い結果ばかりを呼び込むわけでもない。そして機械だって、言いようのない個人的な原因で、完璧に制御されたシステムを乱してしまうことはある。
「感情、という点でいうなら、ミス・ボルトワをノアにとられたようで拗ねたというのはあるかもしれないけどね」
「え?」
「人間の……とくに思春期までの子どもの感情になぞらえると、そうとも考えられる。母親が他人を褒めておもしろくなかった。だからノアをライバル視した」
「……彼女が私を母親だと思っているかは別として、そういう感情は一般的ですか?」
「ある程度は普遍的なんじゃないかな。母親に限らず、信頼している近しい人とか、恋人でも」
私は返事に困ってイリヤを見上げた。イリヤは空気を変えるように笑ってみせた。
彼は意識的に、あまり深刻にならない話題を持ち出したのかもしれない。
「……ボルトフ先生といると、そんなこと考えていられなくなってしまいますね」
イリヤはうなずいて「明日のグレイスの起動に大きな問題がなければ、研究員以外との接触を増やしていく方がいいかもしれないな」と言った。
「記者会見までに人に慣れさせないといけないし、いずれ彼女をモデルに製品化するには、今よりも順応性を高めないと難しいだろう」
誕生から三週間、グレイスは彼女を最新型の高性能アンドロイド、重要国家機密と認識して大切にしてくれる人としか触れ合ってこなかった。
グレイスの今日の様子を見るかぎり不安はある。でもたしかに、それは彼女の進化のために必要なステップかもしれない。
秘密保持が大前提だから無作為に人と交流させることはできないし、施設外への持ち出しも引き続き厳禁。だけど現在施設に出入りしている人には、これまでのようにグレイスの存在を隠そうとしなくていい。
「あくまで様子見だから、どの程度触れ合わせるかはその時々のミス・ボルトワの判断に任せる。君に任せておいたら、グレイスに支障はないだろうから」
今日の感じでいいよ、と言われて私はうなずいた。イリヤの意図はわかる。
「……さっきまで、明日グレイスがちゃんと目覚めてくれるのか、すごく怖かったんです」
「ガーデンパーティーの次の朝も、めずらしいくらい焦ってたね。真っ青だった」
私は無意識に頬に手で触れていた。
私の肌は青ざめるのか。この肌の下に赤い血は流れていないのに。
「充電時間が四時間も超過してしまうと、やはりどこかに故障があったのかと……」
パーティーの前にモバイルバッテリーを届けてくれたボルトフ先生は、会が始まるとふらっと消えて、翌朝の騒動のときも姿を見せなかった。
「万が一故障しても私が直すから、問題ないよ」
イリヤはやさしく言って微笑んだ。私も微笑み返しながら、ちょっと胸が詰まるような感じがした。
さっき彼が言った母親と子供の喩えは、彼自身に染みついた実感なのかもしれない。
「グレイスは今日の面談のとき、ノアとのことを何か言っていましたか?」
「いや。はじめての人と出会って話したことすら言わなかった。ただ、できることをもっと増やしたいって。どうしてって訊いても、理由ははぐらかして」
グレイスは私とふたりだと、あまり素直に話してくれないからね。寂しいのと物足りないのを軽い口ぶりで紛らわすイリヤに、私は言った。
「グレイスはノアに、私はドクトル・リューロフのアンドロイドだって言ったんです。世界で私しかいない、イリヤ・リューロフの最高傑作だって」
私を見つめて、イリヤはふっと真顔になった。私に向けられた目は私を見ていない。いま、彼の脳裏に私は存在しない。
「……そう」
嚙みしめるようにつぶやいて、彼はグレイスを穏やかに見た。
――私はドクトル・イリヤのアンドロイド。
イリヤに伝えたかった。イリヤは喜んでくれた。だから、これでよかった。
愛おしげな横顔に、私の身体は少し傷んだ。
グレイスの『異変』は次の日も続いていた。
予定よりも早く起き出し、カリキュラムを多くこなそうとする。その日の分を終えると、バッテリーの限界まで翌日の分を先取りしたがる。いかにもつまらなさそうだったピアノも真面目に練習するようになったし、ハサミが怖くて嫌がっていた切り紙細工にも、もう一度取り組むようになった。そしてなにより、身体を動かすことに熱心になった。
「もっとたくさん、なんだってできるようになりたい」
そう勢い込む彼女をなだめて無理させないよう気をつけるのに、私はほとほと手を焼いた。
なんでもできるようになりたい。人間を超えたい。
それは自律型アンドロイドならば、ごく自然な感情なのかもしれない。グレイスαは生まれながらに、学習し進化するようプログラムされた機械なのだから。
彼女が自分から、いろんなことに挑戦したいと前向きになるのは私も嬉しい。
でも、心配は心配なのだ。予定を詰め込み過ぎて彼女が疲弊――もとい、熱暴走するようなことにならないか。
グレイスと過ごす日中、私はつねにタオルに包んだ保冷剤とモバイルバッテリーを携帯し、タイミングを見て彼女に短い休憩をとらせた。ボルトフ先生が作ってくれたモバイルバッテリーはとても重宝している。保冷剤のように首や額に当てるだけで彼女の体力が補填されるのだ。機能性は充分。もちろん、もっと改良することはできる。だからこそ私は先生に宣言した通り、文庫本ほどのボディの小型化と機能向上に本腰を入れて取りかかるようになった。
「グレイス、ケーキが焼きあがるまでは休憩にしましょう」
「でも、焼きあがりまで四十分もあるのよ。その時間があれば洗い物をしてブールの仕込みができるでしょう? そうしたら器械体操の時間にブールを寝かしていられるから……」
壁の時計を眺めて、分刻みのスケジュールを立てる。グレイスの手はパウンドケーキのバターと粉で白っぽくなっていた。その手をエプロンで拭い、手元に近寄せた計量器の針を基準値に合わせている。
ブールなら一昨日はじめて作って失敗した因縁のパンだった。焼き色だけが完璧なしぼんだ丸パンに、グレイスは悔しがり落ち込んだ。だからリベンジを急ぎたいのだろうけれど、この隙間の時間に焦ってやり直してもきっとうまくいかない。
「手を空けておかないと、ケーキが焦げそうなときにすぐ対応できないですよ。それに、ケーキが焼けるまで、グレイスに新しいレシピを紹介しようと思っていたんです」
「新しいレシピ?」
「はい。冷たいチョコレートドリンクです。次回、ひとりでできるところまでチャレンジしてほしいので、今日はまず私がやってみますね」
グレイスは興味を引かれたらしく、青い瞳を瞬かせて私を見た。
「ひとりでやっていいの? チョコレートを?」
「ええ。イリヤから、コンロと包丁の許可はもらいましたから」
「ほんと?」
「ただし、私が一緒にキッチンにいられるときに、よく気をつけて使いましょうね」
グレイスの表情が一瞬で華やぐ。思いがけないプレゼントをもらった子供のように目をきらきらさせて、グレイスは私の手を握った。
「ありがとう、すっごくうれしい!」
「グレイスが頑張っているからお許しがでたんです。さあ、やってみせますから、グレイスはここに座ってしっかり見ていてくださいね」
「はい。……ああ、本当に楽しみ」
用意しておいた椅子にご機嫌で腰かけたグレイスに、私は濡れタオルを渡した。まずは手の汚れを拭かせて、使い終わったタオルと交換にさりげなく保冷剤と充電器を渡す。
彼女は素直に保冷剤を首に当て、充電器をブラウスの襟に入れた。黒くて薄い接触型モバイルバッテリーに、緑のランプが点滅する。
「包丁の扱い方とコンロの使い方については、次に詳しく説明しますね。まずは全体の流れを摑んでください」
そう言って、私は頭の中で組み立てていた台本の通りにチョコレートドリンクのデモンストレーションを行った。
グレイスは興味津々の表情で私の説明に耳を傾け、時折笑顔も見せている。途中、温くなった保冷剤を新しいものと都度取り替えながら、私は内心ほっと息をついていた。
あまり頻繁に休むように言うと反発して、私の身体は粗悪品じゃないと怒ってしまう。ここ数日の失敗から、私も少しはグレイスへの交渉術を学んだらしい。
「チョコレートを溶かすときは、温度調節がとても大切です。けして小鍋の中身が沸騰しないように、温度計の目盛りと火加減にはよく気を配るようにします」
「私にもできる?」
「ええ。グレイスならきっとすぐにコツを摑めますよ」
グレイスはちょっとはにかみ、じっと私の手元を覗きこんだ。
「ミス・ボルトワはチョコレートドリンク、好き?」
「好きですよ。温かいホットチョコレートも好きですし、コーヒーと合わせたカフェモカも好きですね」
「おいしい?」
「おいしいですよ。うんと甘くするのも、ビターテイストのものも好き。チョコレートは奥が深いです」
初夏らしくつめたいチョコレートドリンクのレシピをと思いついて、はじめ私は包丁とコンロを使わないやり方を考えていた。だが包丁で刻む代わりに綿棒で叩いて砕くのも、コンロで湯煎する代わりにポットで沸かしたお湯を使うのも、どちらも同じような危険を伴う。それならグレイスがずっと熱望していた包丁とコンロを解禁する方が、彼女の逸る気持ちもある程度落ち着くのではないか。
そうイリヤに持ちかけると、彼もそろそろ潮時かと思ったのかもしれない。必ず私がそばについているという条件付きで、グレイスが火と包丁を使うのを許してくれた。
――イリヤはチョコレート、そんなに好きではなかったですね?
――まあね。だけど、グレイスが作るなら飲むよ。
――彼女が作るとき伝えておきます。張り切ってくれると思いますよ。
生クリームと混ぜたチョコレートを目の細かいこし器で漉し、段階を踏んで冷やしながら、私はイリヤとの会話を思い出していた。
グレイス、と呼びかけようとしたら、グレイスが先に私の名を呼んだ。
「どうしました?」
「ううん……なんでもない」
グレイスは眉をひそめ、まだ口ごもっている。
そうしているうちにオーブンのブザーが焼きあがりを告げた。ときどきドアの窓から庫内を確認していたが、ふっくらとよく焼けている。
「よさそうな仕上がりですね。取り出してみましょうか」
「うん。……あのね、あの人っていつ来てるの?」
立ち上がってミトンを嵌めながら、グレイスは私を見ないで訊いた。
「あの人?」
脳裏にノアの面影がよぎった。ノアなら週に二回、平日の午後にここに来る。
「ノアのことですか?」
返事が、ない。
オーブンの前に腰を屈め、ドアを開ける。慎重に天パンを取り出したグレイスの頬は、黙り込むうちに徐々に赤くなっていった。
ぽかんとしている自分に気がついたのは、グレイスが首まで真っ赤に染めてからだった。
「グ、グレイス?」
「……変にとらないで! ただ、この前私の態度が悪かったから、今度はちゃんとしたいっていうだけ! ミス・ボルトワが言ったのよ、あんな振る舞いは失礼だって」
天パンをキッチン台に置き、なんでもないように竹串を取り出しながら、グレイスは必死に訴えてくる。
ノアが去ってから、私はグレイスに少しばかり注意をした。彼がロボットと言ったことに、あなたが腹を立てるのはわかる。でも、ノアはグレイスを蔑む意図でそう言ったのではない。初対面の人の前で不機嫌な態度をとるのは相手に失礼だし、結局は自分が損をする。
そのときグレイスは青い瞳で私を睨み、細い肩を怒らすばかりだったのに。
「……あらためてノアに会って、お話してみたいということですか?」
問いかけるとグレイスは唇を嚙んだ。また無言。そしてパウンドケーキに竹串を刺し、息を詰めて焼きあがりを確認している。相変わらず耳まで赤い。丁寧に作業をすることで、答えるまでの時間を稼ぎたいのかもしれない。
文句のつけようのない仕上がりのパウンドケーキは洋酒の匂いを豊かに漂わせ、香ばしく照り映えていた。
「……そうね。私だけが悪いとも思わないけれど、でも……今度はちゃんと」
ノアと仲良くなってみたい。
薔薇のような頬に睫毛を伏せ、グレイスはささやくように口にした。
オレンジとラムの芳醇な香りに、胸が焼けるようだった。私はしばしあっけに取られ、そして苦笑した。なるほどと思いながら、なぜか気持ちはほろ苦い。
わかりました、と私は励ますように言った。グレイスからそういう申し出があったと、ノアに相談してみます。
弾かれたように顔を上げ、グレイスは目を見張った。なにか言いかけてはやめ、でもまた唇を開きかけてを繰り返す。
「……ありがとう」
氷水のボウルはすっかり汗をかいている。ようやく冷えたと思ったチョコレートは、また温度が上がってしまったようだった。
グレイスが会いたいそうなのですが。運動データを取りにやってきたノアに切り出すと、ノアはまったく屈託なく「いいですよ」と答えた。
「嫌われたなって思ってたから、嬉しいです」
ノアはこの前のことをそれほど印象深く記憶していなかっただろうが、彼もグレイスと再会するのが嫌ではないらしく、私はひとつ胸を撫でおろした。
ノアが来所するのは平日で、だいたい週に二度ほど顔を出している。ひとまず次の治験の日、三十分ほど早く来てもらえないかと頼んだ。ノアは快く了承してくれた。
イリヤにはどう伝えようか。
ノアとの折衝より、それはよほど難問だった。
グレイスがノアにもう一度会いたいと言いました。ノアも受け入れてくれたので、明後日の治験前に約束を持ちました。
そう言えば、さすがにイリヤも気づくだろう。グレイスの異変は、ノアとの出会いによるものだと。
彼女の〝心〟に芽生えたものの正体はまだわからない。けれどほんのひとときのノアとの邂逅が、彼女のプログラムすら変えたのだ。
イリヤにこれが許せるだろうか。
かといって、その場しのぎで誤魔化されて、ひとり後から知るのも業腹だろう。
鬱々と頭を悩ませていたら、かえってイリヤのほうから「グレイスから聞いたけど、ノアと会わせるの?」と言ってきた。
「はい、そうなんです。グレイスから聞きました?」
「ああ、さっき日次報告で言ってたんだ。明日、ノアにあらためて会うんだって」
「ええ、グレイスが申し出たんですよ。ノアとはじめて会ったとき、彼女が少し不機嫌だったので私が注意したんですね。それから、グレイスも色々思うところがあったようです」
やけにすらすらと口が回る。自分の言葉が違う誰かの台詞のように、他人事めいて耳に流れた。そんな私にイリヤは訝しげな目を向けたが、とりたてて何か言うことはなかった。
「……ノアとばかり会う必要があるとも思えないから、万遍なくいろんな人と会うようにしてね」
「ええ、そうですね。老若男女、いろんな人と交流を持つようにします」
笑顔を作る唇は乾いていた。まだなにも起こっていないのに、いやに冷や汗をかいている。私はイリヤに傷ついてほしくないのかもしれない。この人の何気ない言葉や振る舞いで、私は何度となくすり減った気がするのに。
だけどそんなことは、グレイスには関係のないことだった。
翌日、ノアがいつもよりも早く研究所にやってきたとき、空はあざやかな快晴だった。短い夏へと駆け上がるこの数週間だけ見ることのできる、透きとおるような空の青。
「ノア! ごめんなさい、お迎えにもいかないで」
グレイスのいる場所がわからないだろうから、ノアの来る時刻に門まで迎えに行こうと思っていたのだ。緊張しているらしいグレイスの気を紛らわそうとギリギリまで卓球に付き合っていたら、ノアが先に私たちを見つけてしまった。
ゆるい傾斜のある芝生を踏んでこちらにやってくるノアは、いつも通り飾り気がない。
「ううん、ちょっと早くついちゃったんです」
そう言ってから、ノアは卓球台の反対側に顔を向けた。そこではグレイスが、おずおずとノアを見つめている。
ふいに目が合ったのか、グレイスの肩がびくっと震えた。
「……こんにちは」
「こんにちは、グレイス」
視線を彷徨わせてラケットを握り直す。気まずそうなグレイスの様子に頓着せず、ノアは「ラケット、もう一本ある?」と訊いた。
「え?」
「俺もやりたい。対戦してよ」
「どうぞ。片面と両面と、どちらがいいですか?」
「両面のやつでお願いします。なんでしたっけ? シェークハンド?」
「そうですね。片面はペンホルダーです」
ノアにラケットを選ばせ、私は卓球台のサイドに移動した。ネット際、なんとなく審判めいた位置につく。
サーブ権はグレイスから。グレイスは二度サーブを失敗したけれど、ノアはサーブ権の交代を求めずにグレイスの打球がネットを越えるまで待った。
ようやく放たれたボールは瀕死の態ながらノアのエリアにたどりついた。よろよろの打球を彼のラケットが軽い音を立てて打ち返す。ボールはグレイスが構えたちょうど手前でリズミカルにバウンドした。グレイスが慌ててラケットを振るう。今度は勢いよくボールが飛び、大きな軌道を描いてサイドラインのすれすれで跳ねる。
ノアは慌てるそぶりもなくそれを捉え、またグレイスの手元にボールが返ってきた。
対するグレイスが打ちやすいように、ノアはてんでばらばらの乱れ球を器用に調整して打ち返しているようだった。なんでもないようにやっているから目立たないけれど、彼の首筋には汗が光っていた。
グレイスも真剣な表情で、一心にボールについていっている。
ノアとグレイスのラリーは三分以上続いた。
往復二三〇を越える頃、打ち返すグレイスの動きがやや遅れはじめた。疲れが出てきたのかもしれない。
ノアはさりげなく打ち損じ、長いラリーにやっと終止符が打たれた。
「疲れた。ひさしぶりにやるとしんどいですね」
白い歯を見せて笑うノアに、私は保冷剤を差し出した。つづけてグレイスにも。グレイスに先に渡せば受け取らないだろうと思ってのことだった。
「うわ、つめたい」
ノアが喜んでいるので、グレイスも素直に保冷剤を首に当てた。彼女の筐体はじんわりと熱を放っている。触れて熱伝導の具合をたしかめたいところだが、ノアの前ではグレイスが嫌がるだろう。
「なにか飲み物をとってきますね、座っていてください」
サンルームの小型冷蔵庫を覗いて、ボトルに伸ばしかけた手が止まった。
ノアにはアイスティーかフレッシュジュース。でも、飲食できないグレイスはどうしよう。
ふたりいるのにノアにだけ飲み物を持っていったのでは、グレイスは切なく思うかもしれない。
私はちょっと考えて、パックジュースを二つ取って中庭へ戻った。
緑の芝生に広げた青い卓球台にもたれるように、高さの違う黒と金が並んでいる。
グレイスの束ねた亜麻色の髪が風に揺れ、緩やかに波打った。話す言葉は聞こえないけれど、ノアを見上げるグレイスの横顔からは頑なさが消えていた。
ノアが私を振り返る。シンクロするようにグレイスもこちらを振り向いた。
「二種類ありますから、お好きな味をどうぞ」
パックジュースを載せたカゴを差し出すと、ノアは明るく礼を口にした。
「ありがとうございます。……どっちが好き?」
「ノアが好きな方を選んで」
「私、食べたり飲んだりはできないの」と付け足したグレイスは、そこに引け目を感じているようでもなかった。ノアもとりたてて驚いた様子はなく、そうなんだとあっさり言っている。
なんだ、これだけのことだったのか。ひとつの懸念があまりにも簡単に片付いて、私は安堵と拍子抜けを同時に感じていた。
ノアはクランベリーのジュースを取った。赤紫の果実がプリントされた紙パックにストローを刺すノアの手元を眺めていたグレイスは「左手なの?」と訊いた。
「うん?」
「さっき、ラケットを持つのも左手だったわ。向かいあって、私と同じ側の手だったから」
翳した自分の右手を生真面目に見つめて訊ねるグレイスに、ノアは合点がいったというように笑った。
「ああ、左利きなんだよ」
「いつも左手なの? 文字を書くのも、ラケットを持つのも?」
「うん、ホッケーしてるときも。ホッケーはあんまり利き手関係ないけどね」
グレイスは左手で卓球台の上のラケットに手を伸ばした。ペンホルダー型のグリップを神妙な面持ちで握る。違和感に眉をひそめながら、数回スイングした。
「……私も左で打てるようにならないとだめかしら」
思い詰めた顔でそんなことを言うので、私はつい笑ってしまった。
だがグレイスに慣れていないノアは、思いがけない発言に目を丸くしている。
「え、どうして?」
「ノアが左手を使えるのなら、私も両方使えるようにならないと……」
「いや、俺は両方使えるわけじゃないよ? 左利きだから右手で何かするのは苦手なんだ。グレイスが右手でやってることを、左手でやってるだけだよ」
「そうなの?」
淡いブルーの瞳がノアを見上げた。何度か瞬きして、ホッとしたように笑う。
「よかった」
グレイスはラケットを右手に持ち替えた。左手よりも収まりがいいのか、指はすんなりとグリップを握っている。
その時私はグレイスを見るノアの眼差しが、万華鏡を回すように変わるのを感じた。
唇を離すと白いストローに歯型がついている。ノアの手のなかで、飲みかけのパックジュースはすっかり忘れられていた。
ノアと会うようになって、グレイスにはいくつも変化が訪れた。
目覚ましいのは運動機能の向上。ノアと一緒にスポーツをするたびに、彼の動きを学習していくらしい。彼がグレイスのレベルに合わせてプレイしてくれるおかげで、グレイスも無理することなく楽しめているようだ。
「ミス・ボルトワ! ねえ見てくれた? 五回もできたわ!」
はしゃいだ声に慌てて顔を上げる。サッカーボールを抱えて、グレイスがにこにこと笑っていた。
傍らにはノアがいる。ノアは最近、高校の帰りに毎日研究所を訪れるようになった。
グレイスに会いに来ているのだが、ふたりがしていることは子どもらしくて他愛がない。たいてい芝生の中庭で、ボブリーもふくめてふたりと一匹で遊んでいる。ノアの提案で、卓球以外のスポーツもするようになった。柔らかいボールを使ってキャッチボールしたり、サッカーボールでリフティングをしてみたり。はじめの頃、グレイスよりもボブリーの方がよっぽど上手にボールを扱ったものだが、最近はグレイスも追いついてきた。
そうしてノアは小一時間ほどグレイスと過ごし、その後チームの練習に向かうか、曜日によってはここでデータ取りをする。どちらにしてもノアと別れる時間帯はグレイスのバッテリー残量のデッドラインだ。ノアと出会ってからずっと、彼女は本来の駆動時間を超えて活動している。本来であればフル充電から八時間連続して活動したら電源が消えてしまうはずなのに、九時間十時間と駆動しつづけてしまうのだ。
イリヤや研究チームの仲間たちは、グレイスのこの進化をいぶかしみながらも興味深くみている。ソフトウェアの自動修正ならともかく、システムそのものの自発改良機能はまだ、グレイスαには実装されていない。普通に考えると、おかしい。でも開発試作段階で一見説明のつかない不可思議なことを見つけては、それに仮説を立てて検証していくことに麻薬のような面白さを覚えるのは、研究者の性らしかった。
バッテリー充電残量の限界を超過して活動するグレイスの内部では、どうやら電気消費の燃費がよくなっていると解釈するのが近いだろうとイリヤは言った。残量ゼロで駆動しているのではなく、彼女を動かす各機能部分が、ひとりでに低燃費化を成し遂げつつある。
私はこの仮説を概ね正しいのだろうと思いながら、なぜか納得できないものを感じていた。グレイスの進化には、どこかに落とし穴がある気がする。この現象を彼女の成長だと手放しで喜ぶのは、彼女に対してあまりにも無責任だと思う。
だからこそ私はモバイルバッテリーの改良を急いでいるのだ。いま膝に広げたノートに書き込んでいたのも、改良版端末の計算式だった。
もともと、無駄なものをそぎ落として設計された製品である。これをさらに小型化するには内部の基板を書き換えて、ボルトフ先生が組み込んだ機能は損なわずに縮小しないといけない。
私は膝のノートにペンを置いた。せっかくの瞬間を見ていなかったと察したグレイスが唇を尖らせる。
「もう、見ていてほしかったのに」
「ごめんなさい、もう一度やってみせてくれますか?」
グレイスはうなずき、ふたたびボールに足をかけた。
リズミカルに白黒のボールが弾む。ノアが励ますようにカウントする。
七回目で取り損ねたボールをノアの足が押さえ、跳ね上げてグレイスに返した。ふわりと軌道を描いて届いたボールを、グレイスは難なく受け止める。
「すごい、新記録じゃないですか」
「まだできるわ。もっと長く続けられるようになる」
グレイスは熱心に言って、ノアを振り仰いだ。ノアはとてもやさしくグレイスを見た。
「ねえノア、やってみせて」
グレイスが手渡したボールを受け、ノアは軽やかにボールと遊んだ。それを見つめるグレイスの瞳は、青い星のように輝いている。
彼らの邪魔をしないように、ボブリーは白い巨体を揺らして私のそばに近寄ってきた。お利巧だねと褒める代わりに、私は芝生に腹ばいになったボブリーの柔らかな背中を撫でる。
視線の先で、ノアの身体は絶えず躍動している。毎回の動作はそう大きな動きではないのに、それはたしかに躍動という表現がぴったりだった。留まらず、よどみなく、的確にボールを捉える。ノアのリフティングを見ていて、そういえばリフティングとは手以外ならどこを使っても良かったのだなと思い出した。彼は器用に胸や額でボールを受け、足首に戻した。
「何回やればいい?」
「限界まで」
ノアが吐息で笑った。グレイスの表情はあくまで真剣である。
「それはしんどいよ」
「ノアならできるでしょ」
ノアは答えずに、高く上げたボールを肩甲骨で弾いた。ボールを追いかけるグレイスの瞳が煌めく。まぶしそうに細めた目は、目の前の少年を一心に見つめている。
運動データ収集担当のユーヌスから、興味深い話を聞いた。
グレイスと接するようになってから、ノアの身体技能にも変化が見られるという。全体的に記録が更新された。若い新芽がぐんぐん伸びるように、ノアもわずかな期間でデータ平均を引き上げたのだ。
開始から十八分を迎えようという頃、ノアの靴紐が解けてボールが芝生に零れた。
「あー、くそっ」
ノアは不測のミスを悔しがっているが、グレイスはノアに飛びついて笑顔になった。
「すごい! 九六七回よ!」
「え、数えてたの?」
「ええ! タイムは十七分三四秒、回数は九六七回!」
さすが、というべきか、グレイスのカウントは極めて正確だった。時計もカウンターも持たずに約十八分間のリフティング回数を数え上げてしまうのだから、アンドロイドの面目躍如かもしれない。
ノアはちょっとまごついて目を伏せた。首筋の汗を拭い、恥ずかしそうにはにかんでいる。
屈んで靴紐を結び直そうとするノアの隣に、グレイスもすとんと腰を下ろした。
私の傍らで、大人しくしていたボブリーが白い尾を大きく揺らした。ぴくぴくと耳が動き、なにかを探すように顔を上げる。
ボブリーが鼻を鳴らす先にはボルトフ先生がいた。手に折鞄を抱えた先生は出かける途中らしい。芝生を横断する最短ルートで施設玄関に向かっていたのが、ふと目を留めてこちらにやってくる。
「先生」
ボルトフ先生は黙って私の横に腰を下ろし、ボブリーを撫でた。私と並んで芝生に座るボルトフ先生に、ふたりの若者はしばらく気づかなかった。後ろ姿の彼らに声をかけようか、少し迷う。
顔を寄せて何かを話しているふたりの瞳が、風になびくようにこちらを見た。
「ボルトフ先生!」
どこからともなく現れた(ように彼らには思えた)黒ずくめの先生に驚いて、慌てた様子で駆け寄ってくる。グレイスとノアは先生への挨拶に朗らかな笑顔をみせた。そしてまた彼らの世界に戻り、他愛ない言葉を大切そうに交わしている。
「アイスホッケーって、練習したら私でもできる?」
「できないことはないけど、危ないよ」
「どうして?」
「氷の上でやる競技だし、接触プレーで怪我も多いから。イリヤ先生もボルトワさんも許してくれないと思う」
「私、スケートしたことない。氷の上に立つなんて、想像もつかないわ」
「うそ。この国でそんなことある?」
「だって、まだ冬を知らないもの」
「じゃ、一緒に行こうよ」
「ほんと?」
「近くにいくらでもリンクがあるし、バスに乗ったらスキー場もあるし」
「行く! 行ってみたい!」
約束よ、と嬉しそうに微笑むグレイスに、ノアが大げさだよと笑う。でも彼らは知らない。グレイスがこの施設から出られないことを。
彼らを眺めるボルトフ先生は何を考えているのかと、私は固唾を呑んでいた。
「……先生?」
ボルトフ先生はちらっと横目だけ走らせて、すぐにまた若いふたりを観察している。そう悪どいことを考えているのではないだろうとその目の色から察せるけれど、かといって先生のことだ。少年と少女の語らいに心が洗われているとは思い難い。
この人の脳裏にいま存在している思考はどういったものだろう。何を見て、何を考えている。この人は次に、いったい何をしようとしているのか。
ボルトフ先生は単純なようでとても複雑な人だと思う。毒を以て毒を制すではないけれど、先生のような規格外の怪物をうまく御せるのは、マダム・プレジデントくらいかもしれない。
どうしてだろう。そう思った瞬間、私のどこかが軋んだ気がした。
「いや、おもしろいもんだね。この歳になっても、まだ驚くことばかりだ」
「なにがです?」
ボルトフ先生は意味ありげに首を横に振った。
「それ、いいじゃんか。頑張れよ」
私の膝のノートに顎をしゃくり、先生は言い忘れたように付け足して立ち去った。
痩軀の背中を目で追いながら、私は唇を嚙んでいた。
――それ、いいじゃんか。
大したことないね。私の設計図を見て、先生はそう言ったのだ。
これでは、だめだ。
私はノートのページを新しくめくった。それから、ノートと共に膝にのせていたモバイルバッテリーを手にとりかける。
その前に、そろそろノアがデータ取りに向かう時間だった。
グレイスはノアをトレーニング室まで送ろうとするだろう。それに付き添うために立ち上がると、グレイスがそばに駆け寄ってきた。背伸びをして、私の耳元でこっそり訊く。
「ミス・ボルトワ、これから少しだけキッチンを使ってもいい?」
私の腕に触れるグレイスの手は、とても熱くなっていた。
危険ですよ、グレイス。それにそろそろ、充電が。そう言おうとしたものの、訴えかけるようなブルーの瞳とぶつかって、私はとっさに言葉に詰まった。
「ね、チョコレートを作りたいの。いいでしょう? だめ?」
九十分間のきつい体力測定を終えたノアをねぎらいたい。それも、こっそりと準備をして驚かせたい。グレイスのお願いはそういうことだった。
あれから、チョコレートドリンクは三回作った。作業時間が短いから、体力的なしんどさは少ない。包丁とコンロだけが難点だけど、彼女もずいぶん慣れてきてはいる。
だが本来、午後四時は彼女のバッテリー連続駆動を終了する時刻なのだ。
私のなかで天秤が揺れる。手にした黒い充電器を見やり、私はうなずいた。
「わかりました。いいですよ」
グレイスは春の薔薇のように笑い、ノアのもとに駆け戻った。ふたりが並んで歩く後ろで、私は重ねたノートとバッテリーに目を落とす。
早く、モバイルバッテリーの改良に成功しなくては。
ボルトフ先生の作った現行機を凌ぐ製品。なんの躊躇いもなく新規発明を私に開示したボルトフ先生を悔しがらせることのできるような、そしてこの国のマダム・プレジデントに、ほんの少しでも畏怖の感情を呼び覚ますことのできるような。
グレイスのシステムがひとりでに進化した原因を、私はおそらく正確に言い当てることができる。もし人間だったら、それを微笑ましく感じたのかもしれない。でも私はアンドロイドで、穴に落ちる痛みを知っている。
そのこと自体は止められないし、止める権限を私は持たない。
私が止めないといけないのは、グレイスの〝感情〟に作用して無意識的に発生しているシステム内部の異状改変だった。
性能がよく使いやすいモバイルバッテリーが完成すれば、グレイスはバッテリー駆動時間の制限からは解放される。自らを縛るもどかしさからひとりでに発生するソフトウェア修正や、ハードウェアの過剰消耗が起きることはなくなるだろう。
私の太ももに鼻先を擦りつけ、ボブリーが小さく鳴いた。大きな身体が甘えるように震え、私を先導して歩き出す。彼に励まされたようで、私は自然と微笑んでいた。
そしてふと疑問に思う。ボブリーは私が、機械だと知っているのだろうかと。
サンルームの窓に稲光が走るまで、雨が降りだしたことに気づかなかった。
私ははっとしてデスクトップのモニターから顔を上げ、近くにグレイスを探した。いない。ついさっきまで、この部屋のソファで本を読んでいたはずなのに。
「グレイス?」
椅子を引く高い音がやけに不安を煽る。グレイスはどこに行った?
荒れた空の薄曇りを映したように暗いサンルームには、私のほかに誰の姿もない。
日曜日の今日は研究所もお休みだ。イリヤ以下、研究員たちは出勤していない。ボルトフ先生とは朝食の席で顔を合わせたけれど、それきり研究室に籠もってしまった。
轟音のような雨の音が耳になだれ込む。乱れ打つ雨粒がガラスを震わせる。
なにかにせき立てられるように、私は廊下へ走り出ていた。キッチンにもいない。グレイスの部屋にもいない。
無人のサンルームに戻った瞬間、私の頭は真っ白になった。
どうしよう――
もう一度玄関から施設を見て回ろう。そう思ったとき、ガラス越しに濡れそぼった白い巨体が横切った。
「ボブリー!」
わん! わん!
ガラスの前で吠えるボブリーは、激しい雨に打たれながら笑ったような顔をしている。
急いで窓を開き、中に入るよう促した。だがボブリーは反対に、私に庭へ降りるよう訴えかけてくる。
「だめですよボブリー、早く中に入って」
ボブリーは首を振り、私のスカートを咥えて引っ張った。
「どうしたの? なにがあったの?」
ボブリーは鼻を鳴らしながら、なおも私を庭に下ろそうとする。
ボブリーはとても賢い犬だ。意味もなくスカートを引っ張り、激しい雨の中へ連れ出すことはしない。
私は首に掛けたセキュリティカードを確かめ、ボブリーについて芝生へ降りた。その途端、髪や肌に鋭い雨が降りかかる。
私が外に出るやいなや一目散に走り出した彼が案内した先は、サンルームからほんの十数メートルの距離だった。
施設の外壁。三〇センチもない狭い軒下に、ノアがいた。
ノアの黒い髪から水が滴り落ち、Tシャツが肌に張りついている。狭い屋根の下、ノアの背中には弱まることのない雨と軒先から垂れた水が流れていた。けれど彼はこれ以上雨を避ける様子もなく、腕のなかに何かを抱いている。
彼の腕のなかにはグレイスがいた。ノアの紺色の上着を頭から被り、彼にしがみついている。
「グレイス!」
ノアがこちらを振り向いた。驚いた顔が、だんだんとホッとしたものに変わっていく。
「ノア、どうしたんですか。いったい何があったんです」
私は軒下のふたりに駆け寄りながら訊ねていた。
「すみません、俺のせいです」
「なにがあったの?」
ノアとグレイスの話を総合すると、こういうことだった。
ノアはグレイスに会いに研究所にやってきた。今日は日曜日で約束はしていなかったけれど、ノアはここの入館証を持っているのですんなりとゲートを越えることができた。サンルームの窓からやってくる彼を見つけたグレイスは、私に声をかけずにノアを追って外へ出た。
そしてふたりが庭先で落ち合ったとき、急なスコールに見舞われたのだ。
アンドロイドのグレイスを水に濡らしてはいけないと焦ったノアは、彼女を連れて手近な軒下へ避難した。
ノアの上着に守られたグレイスは、たしかにノアやボブリーほどには濡れていなかった。だが彼女は、ノアに水濡れを心配されたことが気にいらなかったらしい。ショールのように頭からかけられた紺色のウインドブレーカーの下で、拗ねたような顔を見せている。
「私は半端なラジオじゃないのよ。シャワーだって浴びるし、プールにだって入れるわ」
「でも、何があるかわからないだろ。雷が落ちたらどうするんだよ」
消えたグレイスの行方、そして彼らふたりのやり取りに、私は膝から崩れ落ちそうな虚脱感を覚えていた。若いという言葉で笑ってすませるには、私はずいぶんと肝も身体も冷やされてしまったのだ。
「ミス・ボルトワ。私は濡れても大丈夫よね」
グレイスの防塵防水は性能上、ほぼ万全と言ってもよかった。
グレイス、そういう問題ではありません。私がそう言いかけたとき、ノアが「だって」と小さく言った。
「だって、大事なものは雨に濡らしたくないよ」
押し殺したような声に、グレイスの表情がさっと変わった。紅でも刷いたように頬が染まり、青い瞳が零れそうになる。
睫毛を伏せ、グレイスは消えそうな声でノアの名前を呼んだ。
私はそっと踵を返し、彼らの傘とタオルを取りに玄関に向かった。ふたりを叱るのは後でいい。あの場所にずっと佇んでいるほど、私も厚顔にはなれない。
いいえ、違う。
本当は彼らを見ていると、数年前の光景を思い出してしまうからだ。
あの日私は、人工知能の国際シンポジウムに参加するボルトフ先生とイリヤについて、首都の街を歩いていた。すると急に夕立が来た。ボルトフ先生は太い錐のような雨を物ともせずに足早に交差点を目指し、イリヤは先生が急ぐので重要な書類とハードが入ったカバンをコートに包んで小走りになり、そして私は荷物を抱えて先を行く男性ふたりの足に必死でついていった。
私の防塵防水性能は、規格上ならグレイスと同様。でもおそらく、グレイス以上に私の筐体は水の支障を受けない。
だから私は、嵐の中に投げ出されても構う必要はないのだ。いくら強い雨が打ちつけても、大雪に腰まで埋もれても、私の身体は規律正しく駆動し続ける。ヒトの肉体よりもよほど頑強にできている、鋼鉄のような私の身体。
叩いても壊れない人間。私はそう作られた。
ボルトフ先生は、私が完全防水だと知っていたから水濡れに頓着しなかった。そしてイリヤは、私を人間だと思っているから私よりも書類と機材を優先した。
それでいいのは、私が一番よくわかっている。現に今の今まで、私は何も思わなかった。
一方のグレイスは私ほど丈夫にできていない。私よりも機械で、私よりも人形だ。けれど。
ノアに守られたグレイスを見て、私は生まれてはじめて虚しさの味を知った。
ふたりを研究所の屋内に入れ、それぞれの身体を乾かしたあとで注意はした。だがこの一件について、私はイリヤに報告を上げることはしなかった。ノアもグレイスも反省している。それにこの出来事をイリヤに告げれば、ノアが出禁になるのは必定だったからだ。
ノアには、休日に研究所を訪れるなら私に連絡してから来ること。グレイスは、その場を離れるなら必ず私に言ってからにすること。それを約束させて、この話は不問に付した。
グレイスのボディ筐体と同等かそれ以上に、雨に濡れたノアが風邪をひかないか心配だった。私はノアに熱い紅茶を淹れてパンケーキを焼き、グレイスには時期外れの温風器を出した。これは甘やかしだろうかとも思ったが、ふたりは素直に謝ったのだし、なにより無事でいてくれたのだ。これ以上、私は指導のために厳しさを演じる必要を見いだせなかった。
雨が止み、夕方からはじまるクラブチームの氷上練習へ向かうノアを見送ってから、グレイスはおずおずと私を呼び止めた。
「ねえ、ミス・ボルトワ、まだ怒ってる?」
私は少し笑った。怒ってはいない。とても心配したけれど、それは怒りではない。
「怒っていませんよ。どうしたんです」
指先で唇に触れながら、グレイスはかすかに頬を染めた。
「……私、匂いがわかった気がする」
私は驚いてグレイスを見返した。けれどグレイスは私の視線から逃れるように顔を背け、それきり口を噤んでしまった。
【つづく】