グレイス・グレイス 第二回


 会いたいと思うと、なぜかボルトフ先生は捕まらないのだ。
 私はひとまず日次報告として、イリヤにグレイスの希望について相談した。いわく、彼女はお菓子作りを気に入っていて、見ていてなかなかぎわも良い。本人はコンロを使ってもっと本格的にやりたいと言っているが、火を使う作業もさせてみていいだろうか。
 照明をしぼったグレイスの部屋、こんじょうの暗がりにグレイスが眠る。私とイリヤは最近の習慣で、充電中のグレイスのソファから少し離れた位置のデスクセットで話していた。
コンロか」
 デスクにもたれ、イリヤは悩ましげに腕を組んでいる。グレイスの部屋のデスクは他の部屋の机と材質が違う。部屋のインテリアがかんそうにならないよう、あえて天然木で揃えたのだ。
 子どもと一緒だな、とつぶやきながらグレイスを眺める。いとおしげなイリヤの横顔を見て、私は意識的に目を伏せた。
 知らない表情だった。見たいのに見たくない。自分でも、よくわからない。
 コンセントにつながれたグレイスは、初期起動前に返ったようにこんこんと眠り続けている。私はデスクから離れてグレイスのそばへ行き、手の甲でほおや肩に触れた。
 グレイスは充電中にじょう発熱を起こしがちなので、きょうたいが熱くなりすぎていないか心配だった。ボディが熱くなっていたら冷風機で冷まさないといけない。いまのところはまだ、発熱の兆候はないようだった。
 それにしても彼女の充電がどの程度進んだのか、その目安となるメモリが外部ハードウェアとして附属できるとより良いかもしれない。
 かわぐつの足音がして、私の隣にイリヤが並んだ。私の隣ではなく、グレイスの前に立った。
 イリヤは毎夕、その日の活動を終えたグレイスから短い報告の時間を持っている。私は同席しないで、グレイスとイリヤがふたりきりで話しあう。
 グレイスはイリヤに呼ばれたら、それまでどんなにはしゃいでいても、落ち着いた声で「はい」と答えてきびきびついていく。ハリウッド映画のオフィスのワンシーンみたい。まるで、あどけない子どものお芝居のようだ。
 さっきその姿を見たルスランは、グレイスはミス・ボルトワを真似まねているんですねと感心していた。それはわからないけれど、なぜかグレイスはイリヤの前では大人っぽく振る舞おうとする。私といる時の方が、ずっと甘えん坊かもしれない。
「今日、コンロ周りと包丁はミス・ボルトワがやったんだよね?」
「ええ。スキッパーは使ってもらいましたが、包丁はまだ怖かったので。だけど包丁の方が、ハサミよりは彼女に使いやすいかもしれません」
 イリヤも先日のかみざいが失敗だったことは理解している。彼は自分の八歳の娘にできるのだから、グレイスもできるのではないかと考えた。だけど八歳の人間と、十八歳に設定したアンドロイドでは、のうずい機能からしんたいこうぞうまでまるきり異質なのだ。アンドロイドと人間はけして、同じ速度でとしを取らない。
「君に、グレイスはどう見える?」
難しいですね、まずは治験対象、そしてこの研究所の大切な企業秘密で妹がいたら、こんな感じなのかなとも思います」
 聞いていたのかもあいまいな様子でなるほどねと言って、イリヤはソファの背もたれに回った。解き下ろしたグレイスの髪を片寄せる。けいつい部のコード接続部分を確かめているらしい。
 コードの導線を整理しながら両肩のしょうもう具合を点検し、イリヤはグレイスの前に片膝をついて屈んだ。おぎょうよく膝に置かれた手をそっと包みとる。まだ課題の残る指関節のジョイントをやわらかく曲げて動きを見た。表面をおおうシリコンが、ジョイントや空気圧アクチュエータで構成される骨格部分からはくしていないか。今日の活動で、グレイスに支障はなかったか。
 グレイスの手に目を落としたまま、イリヤは「コンロのことならグレイスから聞いていたんだ」と言った。ミス・ボルトワみたいに料理ができるようになりたいって。言うともなしに口にしながら、彼はグレイスが指に怪我けがをしていないか心配している。
 このタイプのシリコンならたとえ傷ついても、部位ごとに取り替えが可能なのに。
「その場では考えておくと言ったけど、ミス・ボルトワが何も言わなければしばらくそのままにしようと思ってた」
「どうしてです、イリヤ?」
 問いかけた私を振り返らず、イリヤは打ち消すように小さく首を振った。なんでだろうね、とつぶやく声は、わかっている答えをしているだけだ。
「自分の娘や息子なら、一緒にやろうと言ったと思う。彼らは私が辿たどってきたのと同じように成長するだろうから。でもグレイスには、危ないことはさせられない」
「グレイスだって、成長しますよ」
 あなたが言ったのだ。自律型アンドロイドとは、成長してゆく人工知能なのだと。人間にみ、人間のように、人間と共に暮らせるロボットだと。
「今日、グレイスはとても楽しそうに調理をしていたんです。表情もいきいきしていました。ここ数日いろいろ彼女は挑戦しましたが、自分からもっとやりたいと言ったのは今日のお菓子作りがはじめてでした」
 私は何かにき動かされるように、イリヤのそばに両膝をついて訴えていた。
「油菓子はやっぱり危ないと思うんです。油が跳ねますから。フルーツの飾り切りもまだ怖いです。だけど、今日みたいなババロアやチョコレートのせんだったら、やらせてあげてもいいんじゃないでしょうか。私や、研究所の誰かがそばできちんと見ていたら
 イリヤはやっと私を見たけれど、とてもいぶかしげな表情だった。まるで知らない人が、いきなり肩に手を置いて話しかけてきたかのように。
明日は、しぼり出しクッキーを作るんだって言っていたよ」
「それは、私が
 それは、私がグレイスに言わせた良い子のお返事だ。
 心に似たくうどうに、寒々しい風が音を立てて吹き抜けていく。絞り出しクッキーに不満な顔をしていたグレイスは、マスターであるイリヤにはお利口ぶった。イリヤの気持ちを読み取って、彼が望むように振る舞った。
 そんなところまで、私を真似なくても良かっただろうに。
 やりきれない思いでグレイスをあおいだ。膝をついた私より、ソファのグレイスの顔は高い位置にある。寝息のひとつも立てずに眠る彼女のきょうたいから、かすかに振動音がする。モーターがうなる低い音。彼女の身体が電子機器である証拠。
「グレイスは、においを知りたいと言ったんです」
「匂い?」
「甘い香りは本当に甘いのか、甘くていい香りって、どんな香りなんだろうってお料理は匂いがつきものですから」
 彼女は食べられないのだ。どれほど上手じょうずに料理をして、それを周囲がめても自分では味わえない。ならばせめて、匂いだけでも知れるようにならないか。嗅覚が与えられれば食べ物の匂いのみならず、花や木々、干したてのシーツの香りも知ることができる。彼女はより一層、人間という特異な生き物に近づけるだろう。危機管理のためだけでなく、こうとしても匂いを楽しむ人間に。
「匂いってさ、芳香ばかりじゃないでしょう。よだれの出そうな肉汁の匂いをげるようになる代わり、シュールストレミングに鼻が曲がることもある」
 見るからにイリヤは気乗り薄だった。
 匂いがわかれば、グレイスはより高性能なアンドロイドになる。それなのに、消極的になるのはなぜ?
 この会話を早く切り上げたいらしいイリヤは、私の視線から逃げるように横顔で、グレイスだけを見つめている。
 そんな目で彼女を見るくせに。
 彼女をヒトとして作ったのなら、最大限ヒトに近づけてあげてほしい。私の容姿をえんりょなく加工し、私から名前を取り上げたのなら。
 私はあなたの決めたことだから、グレイスに自分をゆずったのだ。
 イリヤは私の肩のあたりをちらりと見て、気まずく目を伏せた。
プログラム認識を編成し直そうか。対象物と嗅気情報を紐付けして」
「それでは、だめです」
 思いがけず強い口調になって、耳から聞こえた自分の声で我に返った。頭から血の気が引いていく。
ごめんなさい、過ぎたことを言いました」
「いや、そんなことはないよ」
 やさしく言われて、私は余計に情けなくなった。イリヤは私の上司で、私よりもよほどアンドロイド開発に詳しい。そのイリヤがグレイスの嗅覚プログラムを再編成しようかと言ってくれたのに、私は自己中心的な感傷でとっに拒絶してしまった。
「すみません、イリヤの指示に従います」
ミス・ボルトワはグレイスが完成してから、人間らしくなったね」
 彼の言葉の意味がわからずに見つめ返した。ひさしぶりに目が合う。
 イリヤは少し笑ってみせた。
とし相応というか、感情の幅が出た気がする。これまでは、いつでも冷静だったでしょう。まるで君こそがコンピュータ制御のロボットみたいに」
「よく言われます。ボルトフ先生にしかられるときなんか、しょっちゅうです」
「私もいまだに怒られるよ。もう、折れる心も残ってない」
 冗談めかして口にするイリヤは、私よりも長い時間、先生と季節を過ごしてきた。二十一の夏の終わりから、二〇年近く。
 イリヤが私とはじめて引き合わされた時、彼は先生に「先生もりない人ですね」と言った。相手が若過ぎます、犯罪になりますよ、とも。彼は私のことを、先生の四人目の妻だと思ったのだ。
先生なら、いくらでも火を使わせろと言えるだろうな」
 そうですね、と私は答えた。ボルトフ先生ならなんの躊躇ためらいもなくグレイスに火を使わせ、包丁を扱わせるだろう。彼女が匂いを知りたいと言えば、何らかの方法でその願いを叶えていた。その結果、グレイスαが負荷に耐えきれず故障するとわかっていても、ボルトフ先生ならやってしまう。
壊れたら作り直せばいい。それだけじゃないか。
 それは確かにそうなのだけれど。アンドロイドは、機械なのだから。
 私は膝を抱えて床にしゃがんでいた。イリヤも同じような格好で、じっと考え込むようにグレイスを見つめている。私たちはしばらく、無言で肩を並べていた。
「イリヤ、先生がどこにいるかご存じですか」
 イリヤは横顔で苦笑した。
「お嬢さんが知らないんだ。私もわからない」
「探すといないんです、先生は」
どうして先生を探しているの?」
 イリヤの問いにわずかな不審が混じる。私は嘘がバレかけたときのようにひやりとしたものを感じた。そしてこの人は私のさいな行動を気にするほどに研究に行き詰まっているのだと、彼の内心を冷静に観察してもいた。
 彼は最愛のグレイスを、どこまで人間に近づけていいのかがわからなくなった。自分の才能が師に足りないのはよく知っている。だから部下にあたる私が、自分を飛び越えてボルトフ先生に頼るのではないかと気にかかる。
「父親ですから、いなくなられると心配なんです」
 私がそう言った瞬間、けたたましい警報音が鳴り響いた。耳にドリルが差し込まれるような、激しいベルアラート。
「グレイスのそばにいてくれ、様子を見てくる」
 それだけ言って、イリヤは部屋を駆け出していった。研究所の方々から、せわしない足音や怒鳴り声が聞こえる。
 私は腰が抜けたのか、しばらく立ち上がれなかった。なんとかグレイスの手を握り、彼女を隠すように自分の身体で覆う。
 これだけの大騒ぎでも、グレイスは身じろぎひとつしない。黙ってコンセントにつなげられ、翌朝八時の起床を待っている。
 熱伝導で温かみを帯びた彼女の筐体が、私の腕のなかで細く頼りなかった。
 私は彼女の後頭部をゆっくりとでた。電子的な熱を放ちながら、彼女はひたすら沈黙している。その身体から鼓動を感じられたら、まだしも安心できただろうか。
 十数分後、私のエプロンのポケットでトランシーバーが鳴った。黒いマイクフォンに応答すると、イリヤは短く「侵入者だった」と告げた。
「前みたいなタイプの犯罪請負集団だと思う。身柄の引き渡しはすんで、これから施設内に捜査が入る」
「わかりました。グレイスに異状はありません」
「よかった。誰か、至急そちらに向かってもらうから」
 私は了解を伝えた。視線の先で、グレイスはやはり深々と眠り続けている。
「あと、ボルトフ先生は大学の研究室らしい。ガーデンパーティーには戻るから、って」
 だから、大丈夫だよ。そのひと言が付け足されて、通話は終わった。
 私は無音のマイクロフォンを見つめ、イリヤにすまなく思った。そして、居所が判明した義父のことがまたわからなくなる。
 企業秘密が狙われたというのに、どうしてボルトフ先生は飛んで帰ってこないのだろう。

 ボブリーは荒い息を吐きながら、しばに鼻先を突っ込んでいた。くるんと巻き上がった太くて真っ白な尻尾しっぽがリズミカルに揺れ、せんさいな毛先が風にそよいでいる。
「ボブリーはなにをしているの?」
 私の腕に手を絡めてグレイスが訊いた。
「なにか、気になるものを見つけたんでしょうね。ボブリー?」
 ハフハフといいながら、ボブリーは私たちを振り返った。満面の笑みを浮かべているように見えるくちもとに、青い草とつちくれがくっついていた。
 彼と向かい合うように腰を下ろして、彼の汚れた口許をぬぐった。ボブリーは嬉しそうに私の手に鼻先を擦り付けてくる。けれど興奮しながらも、彼はきちんと後ろ足を折ってお座りのポーズをとった。
「ボブリー、よくできました。いい子ですね」
 巨体に見合わない甘えた声で鼻を鳴らす。そんなボブリーを眺めながら、私の隣にしゃがんだグレイスは「ボブリーはにおいがわかるのよね」とつぶやいた。
「犬やねずみは、臭いが嗅げる。とくに犬は鼻がいい」
「そうですね。生き物にとって嗅覚は危険察知の器官でもあるので、とても大切なんです」
いいなあ」
 火器類の使用許可が下りないまま、グレイスはガーデンパーティーの日を迎えていた。
 雲のない空はスモーキーブルーに染まっている。今日の晴天は少しだけ肌寒い。
 この国の五月は遅くささやかな春だ。リラの花が薄紫にほころび、が小さくつぼみをつける。その薔薇が咲く頃に短くも激しい夏を迎え、夏が燃え尽きると冬が待っている。肌を切るような凍える風と垂れこめる寒さ。ユサチェクの冬はれつな巨人のように私たちの前に立ちふさがる。
 だからこそ、私たちは春が待ち遠しいのだ。
 春の香りは雪解け水の香り。にぎやかな花の香も打ち消すほど、長い冬は雄弁に沈黙する。その硬い氷を破ってかおる薔薇が私は好きだった。
 ボブリーはさっきから私の膝にあごを乗せている。グレイスはそんなボブリーに自然と手をのばし、耳の後ろをいてやっている。ほんの一週間ほど前、グレイスは白くて大きなボブリーを怖がっていた。けれどもう、すっかりボブリーを仲良しの友達だと思っているらしい。
 ボブリーもグレイスに打ち解けている。いや、手のかかる妹ができたと思って面倒を見てやっているのかもしれない。
「ウサギの耳が、進化の過程で発達したのは知っていますか」
 グレイスは首を横に振った。手を止めたグレイスに顔を向けたボブリーは、前足を彼女の膝に掛け替えた。つまらなさそうなグレイスのほおをペロリとめる。
「彼らは長い歴史のなかで、発汗に頼らない温度調節や自分の身を守るという必要のために身体を進化させていきました。キリンの首もそうです。最初から長かったわけではありません」
 こんなことを言うのが、彼女にとって何になるだろう。めた声が耳元で吐き捨てる。それでも私は私と似た似てはいないけれど同じグレイスに伝えたかったのだ。
 アンドロイドは進化する。あなたはそのように作られている。
「ボブリーはいま、グレイスを見て笑っていますね。でも犬は、あまり視力が良くないんです。ぼやけた視界を、ばつぐんの嗅覚と聴覚でカバーしているんですよ」
私に、ボブリーの鼻の代わりはないわ」
 私はそれをいくらか思いつけたけれど、教えることはしないだろう。ウサギだって違う種の生き物から、耳を伸ばせと命じられたわけではあるまい。
「これから探したらいいんです。探して、進化させればいい」
 グレイスは黙っている。ボブリーの白いおでこに額をくっつけて、まぶたを閉じて。ツンと尖らせた唇に不機嫌の色が見えた。そのことに私はホッとする。
 濡れたようなボブリーの黒い目が私を見た。わかっているよというように、小さく鼻を鳴らしてみせる。
 私はボブリーのふわふわした背を撫で、手首にめた時計を見た。十時二十分。グレイスの本日の起床から二時間二十分経っている。残りのバッテリー持続時間は、およそ五時間四十分。
 ガーデンパーティーは十一時からだ。十三、四時にはお開きの予定。内輪とはいえはじめて会う人がたくさんいる場所で、彼女がイレギュラーな電力消費をするかもしれないと想定しておくべきだろう。携帯充電用のモバイルバッテリーはまだ完成していない。
 気の早い招待客はもうぽつぽつと研究所に着く頃だろうが、彼女は登場予定の十一時になる直前まで充電しておいた方がいいかもしれない。
 そろそろ、と声をかけようとして、私は背後に立つ人の気配に気がついた。ギョッとしたのはつかの間で、振り向いてみると驚きはすぐさまあきれに変わる。
「先生、いつからそこに?」
 黒いジャケットに黒いズボンのそうは、いつものごとく死神のようだ。濡れたような黒一色は、紳士服の中で白の次に汚れが目立つ。お手入れに気を遣うから私はあまり好まないのだけれど、自分ではせんたくもアイロンがけもしない先生は黒い服ばかり身に着ける。
 私の声で顔を上げたグレイスは、振り向くやいなや歓声を上げた。先生! と弾む声そのままに立ち上がって、ポケットに手を突っ込んで立つ先生に抱きついた。
「ボルトフ先生! 会いたかった!」
 グレイスは先生の首に両腕を巻きつけて甘えているのに、先生はとくに嬉しそうなそぶりも見せない。わかったわかったと言ってグレイスの背を叩いているが、ちょっと離せよというのが本音だろう。当初のイリヤの危惧きぐは半分当たっていて半分はゆう。先生はロボットや人間以外の生物、および一部の人間からは熱烈に愛される。けれど彼は極めて利己的な人なので、自分以外を愛することはありえない。つまり、グレイスをめぐってイリヤのライバルにはなりえない。
 先生はグレイスを抱きつかせたまま、私に顔を向けた。
「ボブリーがカタツムリを食ってるときからいた」
 さっきの質問への答えだ。先生は私とグレイスのやりとりをずっと観察していたらしい。
 慣れてしまって、ため息をつく気にもなれなかった。この人は本当に人が悪い。
 ボブリーが芝生に顔を突っ込んで何をしていたか、私は早々に気がついていた。でも、口には出さなかった。割れて崩れたカタツムリのから紫陽花あじさいの葉陰に隠し、ボブリーの口を拭って証拠を消した。
「カタツムリ? ボブリーはそんなもの食べないわ」
「食うよ、ちくしょうだからな」
 どうでも良さそうにそれだけ言って、先生はグレイスの髪に手を滑らせる。亜麻あま色の髪を搔き分け、ゆったりとフリをして、彼女の電源を落とした。
「エスカルゴなら人間も食べます。それに、畜生という言い方はよくありません」
 ぐったりと先生の胸に身を預けるグレイスを抱き取って、一応は抗議を試みる。この人にどれだけ言っても、なんのつうようもないことは重々承知ではあるが。
 弾んだ足音がもうひとつ聞こえた。さっきよりも音が大きくて激しい。
「ボブリー!」
 先生の黒い服に、ボブリーが大きく前足を掛けた。心なしか先生はグレイスが抱きついてきたときよりも嬉しそうだ。
 先生はボブリーの白い顔を両手でんでいる。
「エスカルゴか。美食家だなあ、おまえは」
わん! わん、わん!
 ボブリーは今日、はじめて鳴いた。穏やかな気性の彼はよくしつけられていて、ほとんど吠えることがない。それでも動物の本能として、感情が抑えきれなくなったときには吠える。ボブリーは先生に会えて、嬉しくてたまらないのだ。
 先生はボブリーを片手で撫でまわしながら、私にポケットから出した何かを押しつけた。文庫本大の薄くて黒いきょうたい。つるりとしたボディはじゅ製かもしれない。
「接触対応型のモバイルバッテリーだ。αの充電がなくなってきたらこいつを使え」
「ありがとうございます。これ、先生が?」
「俺以外に誰が作れるんだ」
 先生は薄く頬を歪めた。笑っているのだ。
「性能が心配なら試してみろよ、グレイス。いや、ミス・ボルトワ?」
 腕に抱きかかえたグレイスが、一瞬でひどく重たくなったように感じた。伸し掛かる身体からだの重みにふらつく。
 まるでなまりぶくろおおいかぶさっているようだった。グレイスの重量が変化したのではなくて、私の身体から力が抜けたのだ。
 私は思い直してグレイスを芝生に座らせた。このまま抱いていたら、なにかの弾みでグレイスを取り落とすかもしれない。
現在の状況下では、私にバッテリー充電の必要性はありません」
 自分の半分以上の重量を有するボブリーに寄り掛かられて平然と立ち、先生は「そうだな」と言った。
「そうなるように、俺が設計したからな」
 私は黙ってまぶたを伏せた。
 緑の芝生に立つ、どのくつにも売っていそうなパンプスのつまさきせい色のロングスカート、白いシャツ。まくったそでからのぞく手首には、かすかにいつかの打ち身の痕がある。誰の身体にもある、いつどうして作ったかもわからない古傷の名残なごり
 先生は私を、どこにでもいる女として作った。飛び抜けた美人でもしこでもない、あらゆる点で十人並みのただの人間。語ることのできる整合性のとれた過去も、データとして蓄積されている。
 だけど私は人間ではない。ドクトル・ボルトフのアンドロイドだ。

     *

 わたし。あたし。いいえ、私?
 何度か脳いわゆる『顔』? 中央演算処理装置に画像認識処理装置、そのほかもろもろのプラットフォームが埋め込まれた重さ五キログラムほどの頭部筐体にパチパチと軽く弾けるような感覚があって、そして私は目を覚ました。
 まぶたを開ける。私はそれをまぶただと知っている。まつに縁どられた、眼球を保護するとても薄い。でも、私のまぶたはシリコンで、本当の皮膚ではないらしい。
 私の網膜は目の前にある男の人の姿壮年というには老けて、老人と呼ぶにははばかられるとしかっこうの男性を捉えた。
「あなたがマスターですか?」
「いや、私はドクターだ。ドクトル・ボルトフ」
「ボルトフ先生」
 基本設定の通りに瞳を輝かせ、口角を上げてみる。はじめまして。こんにちは。
「私は、グレイス」

     *

 私は、グレイス。そう、グレイスだったのだ。
 五年前にボルトフ先生にともなわれて研究所に現れてから、誰も私の正体を疑わなかった。私がアンドロイドだと知っているのは設計者である先生と、この国のマダム・プレジデントだけ。
私が作ろうとしているのは、ロボットではなく人間です。
 ある賞の授賞式でボルトフ先生は、はじめて顔を合わせたこの国の最高権力者にそう言った。紹介者が先生を指して、世界に誇るロボット工学の権威だと語ったことを受けての発言だった。
人間は叩けば壊れるだろう? どうせなら、叩いても壊れない人間を作ってみてくれ。
 その要求は植民地支配から第二次大戦、独立戦争、かいらい政権下とこの国の動乱の時代を身体ひとつで生き抜いて現在の地位にまで昇りつめた彼女にとって、ごく自然な望みのようだった。
 叩いても壊れない人間。たとえばそれはマダムが幼少期に従事したこくな鉱山労働や、まだ十代はじめだというのに戦場で課されていた死と隣り合わせの肉薄攻撃をだいたいさせるには、うってつけの存在かもしれない。自分の頭で考えて判断する、高い身体能力を備えたヒト型アンドロイドを量産できれば、この国が中立を保っていくうえで、東西両陣営に向けた大きな脅威になる。危険性ゆえに開発を進められずにいる、あらたな資源の採掘にも踏み出せるだろう。
 だが、彼女の望むような『人間』は、人間と正しく共存しえる存在だろうか。そもそもボルトフ先生の創造欲求からして、人間に許された領分を越えている気がする。
 人間を作りたい。強い人間。壊れない人間。人間よりも優れて役に立つ人間。
 ヒトよりも強い『人間』は、はたしてヒトの手に負えるのだろうか。ボルトフ先生の目指すその先の光景を先生の隣で見ようとするとき、私は考えこんでしまうのだ。
 ボルトフ先生の発明は、この世界を踏みにじるのではないか。
 私自身が機械である分、よけいに悩むのかもしれない。ただ、ひとつ確かなのはマダムもボルトフ先生も、新たなる『人間』を作り出したその後について、なんの責任も負う気がないということだけだった。
壊れない人間が壊れる人間を壊してしまう。何か問題でも?
 いや、やはりこれもジョークなのだろうか。彼女が、彼女であるための。
 それにしてもマダムが、壊れない〝人間〟と指示したのはなぜだろう。余分な感情など持たない方が、ヒトは強くあれるはずなのに。
 叩いても壊れない、感情を持たない人間私は、人間のように作られた私から、感傷的な感情を取り除いてしまいたい。気持ちなんかない方が、私はきっと強くて理性的だった。
 人間を作ろうとしていたボルトフ先生と、叩いても壊れない人間なら協力しようと申し出たマダム・プレジデント。無論マダムはウラール・ボルトフという人間を見極め、この男ならやるだろうと確信したからポケットマネーから援助をし、先生は先生で私を作る以外の研究開発でもこの国に貢献した。私を作るのにかかった費用は、今日までにすっかりペイされている。そんなこと、ボルトフ先生でなければ不可能だっただろう。
 作りたいという欲求があり、見てみたいと面白がる希求があった。私を生み出す過程で得た知見を先生は次作に利用しているけれど、人間として〝造られた〟私に、確固たる開発目的はなかった。何をするために作られたわけでもなく、何を課されているわけでもない。はたには完成している開発途上の試作品。そのひとつ。
 私という個体はふたりの怪物が生んだ、ある種の狂気なのだろう。
 私が完成してから、マダムはボルトフ先生に新たなプロジェクトを指示した。グレイス・プロジェクトの目標は人間と共存できる自律型アンドロイドを作ること。こちらのプロジェクトはボルトフ先生個人ではなく研究所に与えられた指令で、極秘は極秘でもプロジェクトの規模が私のときとは違う。ボルトフ先生は先行開発グレイス・ボルトワの正体を近しい周囲にも伏せたまま、長年の教え子であるイリヤをとうかつ責任者に据えた。
 そのプロジェクト開始当時、すでに私は研究所に住み、研究所で働きはじめていた。義父であり所長である先生の統括のもと、直属の上司イリヤ・リューロフの指示に従って。この研究所での私の明け暮れは、すぐに自分の研究に没頭してしまう先生ではなく生真面目きまじめで責任感のあるイリヤとともに過ぎていった。私はイリヤの研究に発生する事務作業をし、プロジェクト始動後はほぼ毎日、彼と行動を同じくした。
 だけど。
 イリヤはただの一度も、私の存在に疑問を抱かなかった。
「グレイスの方が、イリヤよりよっぽど知的だね」
そんなことはありえません」
「なんで?」
 先生はずいぶんとひさしぶりに、本心からげんな顔をした。
「俺が作ったグレイスが、平均的な人間に劣るわけないだろ。おまえだってさっき、αに言おうとしたじゃないか」
アンドロイドは進化する。あなたはそのように作られている。
「少なくともイリヤ・リューロフという年上の男を見る目は冷静だ。スマートそうな男振りに心かれてもお前があいつを見極める目が曇ることはない。反対にいうと研究者としてのあいつの限界は知りながら、それでもれている」
 私はグレイスのそばに屈み込んで、先生から顔を隠した。先生はいまこの瞬間も、私を冷ややかに観察しているのだろう。私がどんな表情でいるか、私がなにを思っているか。
 先生からもらった四角い板のようなバッテリーをグレイスの首筋に当てた。膝を折って座るグレイスを支えて、かたちの良いうなじにバッテリーを触れさせる。グレイスはぴくりとまぶたをけいれんさせ、また眠った。
 デバイスの側面に緑色のランプが光った。三つ並んだうちの一つ。三段階でグレイスの充電具合がわかるようになっている。
 間違いなくグレイスは充電できているのだ。こんなこころもとない仕様の充電器で。
 グレイスと毎日一緒に過ごして、私はこういう充電器があればいいのにと思っていた。持ち運びやすい小さなきょうたいでグレイスの体力を回復させられたら、彼女の望むことをもっとたくさんさせてあげられるのに、と。
「グレイス」
 ボブリーをでながら、先生は私のそばにしゃがんだ。
「それ、もうひと回り小さい方がいいよな? 改良するよ」
「私がやります」
 なめらかな樹脂に苦い気持ちで指を滑らせて言った。
「できるの?」
「ええ。私も、機械ですから」
 先生はにやっと笑って肩を揺らした。がらの悪いことに、足を広げて地面すれすれまで腰を落としている。この人は六十の声を聞いて、どうしてこうもほうなのだろう。そしてこの、老年男性にはめずらしい足首とかんせつの柔軟性。グレイスの関節のどうもこれくらい滑らかにしたいものだけれど。
 先生はボブリーを撫でまわすときのように私の頭を撫でた。
「そうだな、グレイスは七〇年代における俺の最高けっさくだ」
 いまは一九八二年。進化しなければ、私はすぐに追い抜かされる。
先生のほかに、私を作れる人はいないでしょうね」
 ボルトフ先生は私を見る目を少しすがめた。不思議なものだ。こうして向かい合っていると、私はこの人を父だと思う。先生と呼んでいても、この人は私の父親であると。
「べつに不可能じゃない。そりゃあ馬鹿には作れないけどさ。でもそんなこと以上に、人間にはどうしても越えられない壁があるんだよ」
 壁、とはなんだろう。予算? りんかん? 人としての良心?
「先生は、その壁を超えたんですか」
「人間の壁は俺の壁じゃない」
 鼻で笑うようにごくあっさりと言い捨てる。ボルトフ先生にとって、技術革新以上の壁は存在しないのだろう。そして熱が出るほどの産みの苦しみも、この人にとっては苦痛ではない。
 熱を出した子どもの世話をするようにグレイスのうなじにバッテリーをあてがいながら、私は頭部筐体の画像認識処理装置に新しい映像イメージが浮かぶのを感じていた。夜明けのような紫のもや。その紫をくだくように、燃えるような炎が遠くに見える。その光はまだ遠いけれど、冷たくて激しい。
 私の中に何かが突き上げてくる。竜巻のようにうずを巻いて。
 腹が、立つ? いいえ、それだけじゃない。
 私は隣の先生を見た。上質な黒いジャケットをボブリーの白い毛とえきで汚しながら、涼しい顔をしている。
 くやしい、とは、こういう気持ちか。
 この人を超えたいのだ、と思った。私はこの人を超えなければならない。アンドロイドである私の生みの親、私の管理所有者を。
 充電器にはもう緑が三つ点灯している。バッテリーのしょうもうは二割弱程度だった。追加分だけの充電だから早かったのだろうか。それともこの充電器を作った、ボルトフ先生の開発技術の成せるわざか。
 もしくは、グレイスの機体が電力に適合した。つまり、機能的な進化。
 グレイスは黙々と電力をんでいる。腹部筐体でモーターが振動する。いまはにこびりつくこの音も、いずれ少しずつ目立たなくなって、やがては無音になるかもしれない。
 私たちはそれぞれグレイスとボブリーを抱きかかえ、寄り添うようにしばに腰を下ろしていた。よく晴れた日曜日にピクニックに出かけた、幸福な家族の写真のように。
 透きとおるような風が裏庭に吹き込んだ。青い空を写し取った、シルクジョーゼットに似た風が私たちを包む。
 そよぐ風が熱を持つほおをひんやりと冷ました。ボブリーが白い綿毛を揺らして身震いする。
 さわやかな風にグレイスの髪がなびく。亜麻あま色の髪は枕にした私の膝へ、絹のように広がった。
 私はグレイスの長い髪をかし、ほどけかけたリボンを整えた。先生の服装も気になるけれど、この人は大人なので自分でたくしてもらおう。
「グレイス」
 私は彼女の名を呼んだ。
 彼女はゆっくりとまぶたを開く。淡いブルーの瞳が私を見つけ、きらきらと瞬いた。

【つづく】