グレイス・グレイス 第一回


 わたし。あたし。いいえ、私?
 何度か脳いわゆる『顔』? 中央演算処理装置に画像認識処理装置、そのほかもろもろのプラットフォームが埋め込まれた重さ五キログラムほどの頭部きょうたいにパチパチと軽く弾けるような感覚があって、そして私は目を覚ました。
 まぶたを開ける。私はそれをまぶただと知っている。まつに縁どられた、眼球を保護するとても薄い。でも、私のまぶたはシリコンで、本当の皮膚ではないらしい。
 私のもうまくは目の前にある男の人の姿壮年というには老けて、老人と呼ぶにははばかられるとしかっこうの男性を捉えた。
「あなたがマスターですか?」
「いや、私はドクターだ。ドクトル・ボルトフ」
「ボルトフ先生」
 基本設定の通りに瞳を輝かせ、口角を上げてみる。はじめまして。こんにちは。
「私は、グレイス」

     *

 グレイスは優雅に微笑ほほえみながら、細くて長い手足を他人にあずけていた。
 ひとり用のソファに浅く腰かけて、スリップ一枚のしどけない姿で。白衣をまとった先生たちをひざまずかせかしずかせる、長い眠りからやっと目覚めたお姫さま。
「初期起動はすべて正常に完了。現時点で異状は見当たりません」
 グレイスの設計と管理の責任者であるドクトル・リューロフが言った。アンドロイドの管理責任者はマスターとして、そのアンドロイド個体に対する最終的な指示決定権を有している。
 私は「はい」と答え、手元のカルテにチェックを入れた。グレイスα、初期起動問題なし。
 そう、シングルソファに座ってこちらを見上げる少女は人間ではない。我がボルトフ工学研究所の新発明・自律型アンドロイドだ。
 自律型アンドロイド『グレイスα』は人間そっくりのがいぼうを持ち、人間そのものの柔らかな肌を有する。あらかじめプログラミングされたシナリオ内でという制限はあるけれど、言葉や文字でコミュニケーションをとり、人間のように身体からだを動かすこともできる。
 人工衛星が生き物を乗せて宇宙空間へ飛び立ち、アメリカの大企業が大きくてとても高価なパーソナルコンピューターの一般向け販売に踏み切ってもなお、これほど高性能なヒト型アンドロイドを完成させた国は未だかつてない。
 地中海を臨む大陸の端に位置するこの国は、共和国ユサチェクという。どこまでも広がる平原と険しい山脈が、この国に豊かな天然資源を恵んでくれる。石炭に天然ガス、そしてウラン。不毛平原と呼ばれたユサチェクのせた大地は、第二次産業革命とともにドル箱に変わった。だが皮肉なことに、その変身は当時ユサチェクを植民地として統治していた欧州のある国の、支配と依存を強めることになった。
 じつに百年近く他国に支配され続けたこの国を、独立に導いた立役者のひとりがマダム私たちのスポンサーでもあるマダム・プレジデントだった。祖国独立軍で華々しい活躍をげた彼女は大統領に就任後、ごわい東西の強国ににらみをかせて中立を守りながら、この国に新しい指標を描いてみせた。
 ユサチェクの大地に眠る、めど尽きない天然資源を使った科学立国。
 わけても人型アンドロイド開発はマダム・プレジデントきもりだ。ロボット工学分野の権威であるボルトフ先生を中心に、この研究所がマダムの支援を受けて極秘で研究を重ねていた。
 人間であること。人間とともに暮らしていけること。家族、友人、やしとして。それから、あともうひとつ。
「あなたは?」
 グレイスが私に問いかける。私は彼女のかたわらに立つ上司のイリヤを振りあおぎ、指示を待った。イリヤはうなずく。打ち合わせの通りに。はい、かしこまりました。
「私は、グレイス」
「グレイス?」
「はい。私もグレイス。グレイス・ボルトワ。ドクトル・ボルトフは私の義父です」
 まあ、と驚きを映した瞳を丸くしてくちもとほころばせる。やや芝居がかっているけれど、とても愛くるしい反応だった。
 ドクトル・ボルトフと私の姓が違う理由を説明すべきだろうか。ボルトワはボルトフの女性形。私はボルトフ家の娘なので、グレイス・ボルトフではなくグレイス・ボルトワなのだ。
 けれどグレイスに、女性名詞の説明は不要だったらしい。
 ボルトフ先生と私のつづきがらをすぐさま理解した彼女は、次の質問を投げてくる。
「では、あなたは私にとって叔母おばか姉のような人ですね? 年が近そうだから、お姉さん?」
 自分よりも若いまるで子どものような存在が思いがけず聡明な発見をしたことを、嬉しく思う気持ちをなんと呼ぶのだろう。
 私は知らずに微笑んでいた。
 ボルトフ先生は私の戸籍上の父親で、イリヤ・リューロフは先生の教え子。つまり、イリヤと私はボルトフ先生という同じ〝父〟を仰いでいる。そしてグレイスの主任設計者および管理責任者はイリヤだから、グレイスはイリヤの子どものような存在と言えた。
 この前提を家系図に当てはめると、グレイスと私はめいと叔母ということになる。
 彼女は私たちが望んでいた『正解』を易々と導き出したのだ。
「そうですね。でもグレイス、私はあなたと友達になりたい」
 友達? と彼女が繰り返す。問いかけというよりも自問。友達。友人。親友。彼女はおそらくいま、頭部筐体内に格納された膨大ぼうだいなデータベースをひいている。
 ほどなくして、グレイスの表情はつぼみが綻ぶように明るくなった。
「私のお友達になってくれるの?」
 一緒に遊んで、おしゃべりをして。それがどんなことかはまだ知らないけれど、きっととても楽しいわ。細い指を夢見るように組んで、グレイスが声を弾ませる。淡いブルーの瞳がきらきらと輝いた。見る人をつい引きこむような、魅力的な表情だ。
「ええ、よかったらぜひ」
「嬉しい。私たち、きっといい友達になれるわね」
 グレイスはにっこりと微笑んで右手を差し出した。ドキドキしながら、私は慎重に彼女の手を握った。
 吸いつくように柔らかなシリコンの指が、そっと私の手を握り返した。柔らかな香りがこうかすめる。人肌程度の体温を保つよう設定された彼女の皮膚は、私の冷えた手よりもずっと人間らしかった。
「でも、私とあなたの名前が一緒では、あなたをなんと呼べばいいのかしら」
「そうね、ええっと
 私の呼び名はずっとグレイスだけ。幼少期から子ども時代を過ごした養育施設でも、先生と出会ってこの研究所に勤めはじめてからも。
 どうしようか。いまの彼女にはまだ、好きなように呼んでというのは難しいだろう。
「ミス・ボルトワにしよう。呼べるね、グレイス」
 そばで私たちの会話を観察していたイリヤが、あっさりと決めてしまった。マスターの言葉にグレイスがうなずく。このうなずきは理解ではなく反応で、これから情報を中央演算処理装置に落とし込こんでけんとう、判断が下される。人間が無意識に行っている思考と判断を、グレイスの場合は中央演算処理装置がになうのだ。
 ミス・ボルトワ。ミス・ボルトワ?
 何度か口のうちでつぶやいて、彼女はふたたびうなずいた。
「ミス・ボルトワ」
「いいですね、はじめて呼ばれました」
 どことなく気恥ずかしい。保母さんのような気持ちで笑っていると、イリヤはやや驚いたように「本当?」と訊ねた。
「本当です。でも、マドモアゼルならありますよ」
「ああ、マドモアゼルでもいいけれど。先生?」
 グレイスの背後で若い研究員の質問に答えていたボルトフ先生は、どうでもよさげに手を振った。たぶん、こちらの会話はなにも聞いていない。
「ミスが可愛かわいいわ。ミス・ボルトワにしましょう」
 無邪気な声が私の呼び名をひとつ選んでひとつ除外する。私もミスの方がよかった。二十五歳にもなって、お嬢さんと呼ばれるのはやはりおもゆい。
 初期起動と点検を終えたグレイスに、仲間の研究員たちが準備していた服を着せはじめた。まずは下着のスリップから、一枚ずつていねいに。
 そうか、彼女は裸だったのだ。お姫さまのように前と後ろからドレスを着せられるグレイスの姿に、いまさら実感する。
 私はいまこの瞬間まで、彼女がき出しの裸であることに疑問を持たずにいた。おそらく私だけでなく、グレイスの誕生に立ち会ったすべての人が。
 グレイスは自分を取り囲む全員が服を着ている公的空間に、おおう布一枚ない裸で立っていた。まるで開店前のショーウィンドウのマネキン人形のように。
 グレイスはアンドロイドなので、その裸は当然人形めいている。理想的に均整の取れた裸体は、透きとおるような肌の白さもあいまって服を取り払ったビスクドールそのものだった。けれど人間としてグレイスをプログラムするのなら、彼女の身体を人形として扱ってはいけない。
 修正しないと。裸でいることを恥ずかしいと思う設定の追加。いや、小さい子どもにするように、まずは教えてみよう。私たちも恥ずかしがらないといけなかったのだ。うら若い少女が、ボッティチェリのヴィーナスの誕生よりもあけすけな姿で突っ立っているのだから。
 けれど、くびれたウエストに結ばれたリボンの形を振り向いてたしかめようとする仕草は、女らしく可愛らしい。
 彼女はふとまゆをひそめた。
「もしかして、私もミス・ボルトワになるのかしら?」
 ここはボルトフ工学研究所だ。だからここで作られたアンドロイドのファミリーネームはボルトフになるのではないか。グレイスはそう考えたらしかった。
「いや、グレイスが名乗るならリューロヴァにしてほしいな。ミス・リューロヴァと」
 そんな機会はあまりないと思うけど。そう言って苦笑するイリヤは、彼が実の子供たちを見る時と同じ目をしていた。いとおしくてたまらない、いつくしみに満ちた目。
 なぜだろう、私はイリヤの横顔から目を伏せていた。手元のカルテに目を落とし、ふたたびグレイスに視線を戻す。
 グレイスのたくはもうじき完成しそうだった。コミュニオンドレス風の白いワンピースをまとい、おなじ色のメリージェーンに足を入れる。背後に立つ研究員がネックレスをつけた。
 亜麻あま色の髪をくしでやさしくかされながら、グレイスは少し退屈そうにあくびをした。私に気づき、親しい人を見つけたように笑いかける。
 グレイス。
 彼女のデザインは私の容姿を元に考案された。
 私という土台をねて潰して、イリヤが気に入る要素だけを残した美しい顔。髪の色。骨格。肉付き。
 したがって、グレイスと私はまるで似ていない。

 当初イリヤは、自律型アンドロイドに『エヴァ』と名付けるつもりでいた。けれど、研究企画書の段階で、アンドロイドの個体名だけが大統領府から差し戻しとなった。
 我が祖国は現在、マダム・プレジデントが軍事独裁政権を敷いている。この国のすべての事業の承認者はマダム。つまり自律思考型アンドロイド製作にゴーをかけたのもマダムなら、『エヴァ』というイリヤの名付けを否決したのもマダム・プレジデントなのだ。
 国家プロジェクトとして承認されると、都度つどごとにしんちょく状況を提出し、大統領府のチェックを受けることになる。だがマダムの性格上、その過程でストップがかかることはめっにない。だからこの差し戻しはかなり異例だった。
 ちなみに差し戻しの理由は、『とうがいの名称はあまりに安直で普遍的過ぎると思われる。要再考』
 なかなかのショックを受けたイリヤは大いに悩んだ。そして結局、しびれを切らしたボルトフ先生に半ば押し切られるように『グレイス』と名付けた。
モデルから採ってグレイスでいいだろ。名前なんてなんでもいいんだ。
 イリヤは納得できず、だけど再提出の日限は迫ってくる。
でも。そうですね、グレイスはいい名前だから。
 イリヤはエヴァという名を気に入っていた。サハラ砂漠の砂の数ほど試作と失敗を繰り返しても、まだ見ぬ自律型アンドロイドを夢見ていた。そんなイリヤをボルトフ先生はからかって、じゃあ完成のあかつきには、おまえがアダムに改名しろよと笑っていた。
 ヒト型アンドロイド研究の第一人者といえばボルトフ先生で、自律型アンドロイドはもともとボルトフ先生が長く研究してきたテーマである。グレイスに係る開発の基礎部分は、この研究が国家プロジェクトに格上げされるずっと以前にボルトフ先生が完成させていた。たとえばグレイスの関節部分に使われた空気圧アクチュエータの形状であるとか、肌に使うシリコンの成分配合、内蔵する人工知能のプログラムの根幹部分など。そういう、グレイスαのアンドロイドとしての背骨の部分は、先生がこれまでに生み出した技術や理論を基盤にしている。
 これほど自分の研究を下敷きにした開発であれば、どこかに自分の名前を出したいと思うものかもしれない。新規発明は、研究者の汗と涙とあかの結晶だ。
 だが先生は今回のチーム主任にドクトル・リューロフを指名し、自らは完全に第一線を退いた。求められたら気まぐれにアドバイスする程度。はっきりと明言はしなかったけれど、先生は自らの老いについて考え始めたのかもしれない。いくら人型ロボット分野の神様でも、ボルトフ先生も人間だから。
 イリヤは長い開発期間中、プレッシャーと激務が祟って肋間神経痛が持病となり、ついでに睡眠不足による階段からの転倒でろっこつを二本骨折した。
ボルトフ先生が人間と見間違うくらい精巧に仕上げて、先生を驚かせたいよね。
 あんちゅうさくの開発の日々なかで、苦しみながらも楽しげにイリヤはそう言っていた。
 それを聞いたとき、目の前の重たい霧がほんの少し、輝かしいものに見えたのだ。霧の向こうに虹がある。その虹を研究所のみんなで見てみたい、そして誰よりも、イリヤに見てほしい。
 霧が晴れるまで三年かかった。
 霧の向こうには美しいグレイスがいた。この国の言葉を話し、人間のように滑らかに動く自律型アンドロイド。
 私たち私を主語として語るとおこがましい気がする。ドクトル・リューロフひきいるチームは、ついに奇跡を生み出したのだ。
 大統領府に完成の連絡をして、製作発表の日取りが決まった。およそ二週間後、彼女は全世界に向けた記者会見にとうだんする。
「ユーヌスは初期起動のデータをまとめて提出できる状態にして。ルスランには広報関連を一任する。ミス・ボルトワは前から言っていたように、グレイスのそばについて経過観察を。発表の日まで、段階的にグレイスを人間とのコミュニケーションに慣れさせていきたいから」
 実験室を防犯仕様に改装したグレイスの部屋で、イリヤは終礼代わりのミーティングをした。普段はそれぞれの作業のキリがつくまで仕事を続けるから終礼の習慣はないのだが、グレイスが完成した今日は全員で揃って退勤しようと決まった。長い苦闘の日々にひとまずの終止符が打たれて、研究チームはあんと開放感に包まれている。みんな、今日くらいは早く帰りたいのだ。ボルトフ先生と私はこの研究所に住んでいるので、もしも夜のあいだにグレイスに異変があっても対処できる。
 いま、グレイスは彼女専用のソファで瞳を閉じている。電源を落とし、シャットダウン状態になった。ソファで眠り込んだような彼女のうなじとようつい部からはそれぞれ電源コードがのびて、壁のコンセントにつながっている。
 眠るようなかっこうは、グレイスの休息バッテリー補給中の姿だった。
 彼女に内蔵されているバッテリーは、通常なら八時間連続で使用ができる。今日は初期起動で余計に負荷がかかったせいか、四時間を超えたあたりから反応が鈍くなった。明日からは八時間の規定いっぱいまで体力が持つか確認して、難しいようならバッテリーを工夫くふうするか、行動パターンを変更した方がいいだろう。
 でも、充電が少なくなるとグレイスの表情が眠たげになるのは可愛らしかった。この反応は、イリヤがとても苦労していたプログラムだ。
「グレイスの正常充電が確かめられたら私がセキュリティをかけるよ。君はもう上がって」
 まぶたを閉じたグレイスを観察していたら、イリヤに声を掛けられた。他のメンバーは晴れ晴れとあいさつをして早々に帰ってしまっている。
 イリヤは彼女の充電が完了するまで残って、セキュリティの最終チェックをして帰るという。この部屋は金庫室並みに頑強な防火防犯対策がなされているし、そもそも研究所自体もセキュリティが厳しい。ボルトフ工学研究所のアンドロイド研究が国家プロジェクトに認定されてから、安全保障面が補強された。グレイスαは、国家機密に等しい重要性を認められている。
「私、もうしばらくこの部屋に残ります。ボルトフ先生もいますし、イリヤこそ早く帰ってあげてください」
 イリヤには八歳と五歳の子供がいる。男の子と女の子。完成に向けて業務が立て込んでいたここ数か月、イリヤは子どもの起きている時間に家へ帰れなかった。
 ちょっと困ったように、イリヤは視線を巡らせた。部屋にはイリヤと私、そしてグレイスしかいない。
「ミス・ボルトワは笑うかもしれないけど、先生とグレイスをふたりきりにしたくないんだよ。先生、機械と仲良くなるのが上手うまいでしょ」
 内緒話みたいにこっそりと打ち明けられる。先生、たぶんグレイスともあっという間に打ち解けちゃうだろうから。ほとほとりょしているというように白衣の腕を組むイリヤは、年頃の娘を心配する父親のようだった。それとも、魅力的な恋人をひとめしたい青年だろうか。
 私は肩をすくめて吹き出した。おかしいようなふりをした。
「大丈夫ですよ、先生が抜け駆けしないように、私がちゃんと見ておきます」
 そう言ったのに、イリヤはグレイスの充電完了を見届けて、自分の手で部屋にかぎをかけた。グレイスの部屋は二重ロックになっている。挿し込みじょうとナンバーロック。ナンバーロックの開錠数列は毎朝リセットされる。挿し込み錠は金庫に収めて、簡単に触れられないようにするととり決められていた。
 この研究所では四年前、外部からの侵入者が開発途中の機体データを盗み出そうとする事件があった。犯人は他国の研究機関から依頼された犯罪グループの男だった。男は裁判の末、我が国の法律にのっとって処刑された。
 所長のボルトフ先生を入れても八人という少数精鋭でいとなまれているこの研究所が、機密保持に神経を尖らせるようになったのはその事件からだ。
「じゃあ、おつかれさま。グレイスをよろしく」
 白衣を脱いで帰宅するイリヤは、相反する感情で気もそぞろだった。早く家に帰って家族に会いたい、でも、グレイスを置いて帰りたくない。それはグレイスαの盗難やデータ流出を心配するのもあるけれど、なによりもグレイスという少女を片時も手放したくないからだ。
「はい、任せてください。お気をつけて」
 小さくお辞儀じぎをしてイリヤを見送る。子どもたちと奥さんにケーキでも買って帰るかなと笑ったイリヤの後ろ姿は夜目にもまぶしくて、胸の底がちりちり焼ける気がした。
 イリヤ、私もグレイスという名前です。グレイスとは髪の色も目の色も違うけれど。
 ため息を押し殺す。誰もいないエントランスで、私は真っ暗な夜空を見るともなく見上げていた。
 霧が晴れたはずなのに、星は見えない。

「疲れちゃった。手がしんどくなってきたわ」
 バターをる腕を止めてグレイスが言う。ボウルの中のバターは、クリーム状というにはまだ少し柔らかさが足りないようだった。
「代わりますよ。グレイスは休んでいてください」
 ボウルを支えていた私は彼女からあわて器を受け取り、ほどよくなるまでバターを混ぜた。そろそろかな、と思う加減でグレイスの様子を確認する。腕や肩に触れても発熱はない。私は彼女に泡立て器を返して、あらかじめ軽量しておいた粉砂糖とグラニュー糖を取り出した。
「粉砂糖から先に入れます。混ぜ方にコツがあるので、一緒にやってみますね」
 私は彼女の手の上から泡立て器を支え、クリーム状になったバターと粉砂糖を混ぜた。何度か一緒に混ぜたら、グレイスにバトンタッチする。
 ボルトフ工学研究所の共有キッチンは、私のほかにあまり使う人のいない空間だった。使い勝手は充分すぎるほどいい。広々とした作業スペースに、本格的なガスオーブンまで備えてある。けれどそれが職場にあったところで、どうしても無用のちょうぶつになりがちだった。
 私も共有キッチンを使う機会といえば、ボルトフ先生や研究所の仲間に頼まれて休憩時間にしっかりとした食事を振る舞うときくらいだ。同じ敷地内にあるボルトフ先生の居住部分にもキッチンはあって、同居する私はその自宅キッチンを使うことの方が多いかもしれない。手の届く範囲に必要最小限の道具と調味料を置いておけるこぢんまりした空間の方が普段使いには便利よく、気楽でいい。
 でもグレイスに料理を教えるとなると、やはりこの設備の充実した本式のキッチンが役に立つのだ。
「すごい、さっきよりも混ぜやすいわ」
上手じょうずです。その調子でうん、いいですね。では、グラニュー糖を入れてみてください」
 こうかしら、と言いながら、グレイスはガラス容器のグラニュー糖をおそるおそるボウルに落とした。
 一生懸命にバターを混ぜながら、グレイスは嬉しそうに笑顔を見せる。お菓子作りって楽しいのね。けれどそう言った彼女は、完成したクッキーを食べることはできない。
「次はどうするの?」
 私が計量した牛乳を数度に分けて流し、混ぜた。私は続く手順を説明する。
「さっきザルでふるった粉がありましたよね。あの粉をいれて、また混ぜます。今度は泡立て器ではなくこのゴムべらを使うので、こちらに持ち替えて
 彼女の背中から支えるようにゴムべらを持つ手を支え、練らないように生地を混ぜていく。混ぜるというより、へらを縦に使ってボウルを回すようにするといい。慣れてしまえばなんでもない基本の動作だ。
 これを切るように混ぜるというんです、と言うと、先日かみざいに苦戦したグレイスは不思議そうに私を振り返った。
「これはハサミじゃないわ」
「ええ、そうです。でも、生地に切れ目が入ったようになるでしょう? 練らないように生地を混ぜたいとき、お菓子作りではよくこのように混ぜるんです」
「ハサミよりもこっちの方が好き」
「そうですか。これは楽しい?」
「うん、ハサミは嫌よ。怖いもの」
 グレイスはちょっと舌を出してみせた。私も思い出してつい苦笑する。彼女がハサミを嫌がるように、私も隣で見ていて本当にひやひやした。怪我けがをしなかったからよかったけれど、やはり手先を細かく使う動作は苦手らしい。指関節に当たるジョイントのどうが滑らかではないのだ。
 初期起動から今日で四日、彼女は日々をとどこおりなく過ごしている。初日のねんてんだったバッテリーも二日目からは問題なく駆動した。
 昨日ははじめてだったから緊張しちゃったの、とは二日目の起動時に彼女自ら語った言葉だ。機械ゆえのトラブルに可愛かわいらしく言い訳をする。そんなさいな部分まで、人間らしくできている。
 起動二日目から、彼女が段階を踏んで人間の暮らしに馴染なじむよう実験をしてきた。暮らしというよりも、その一部。特化した技能的なもの、または人間が思う人間らしさ?
 アンドロイドなのにこんなに高度なことができるんだという驚きを与えたいと、イリヤは常々言っている。自律型アンドロイドは人間のパートナーとなって、人間の暮らしを豊かにするのだと。
 たとえば明るく気立てのいい性格を兼ね備え、かんぺきな家事と財務管理の腕前を持つメイド。老いた夫婦に行き届いたケアをほどこしながら、愛情たっぷりな気さくさで接する同居人。子どもたちそれぞれの能力に合わせ、忍耐強く勉強を教え成長をサポートする教師。どんなときでも変わらないやさしさでそばにいてくれる親しい友人。こういう人がいてくれたらと多くの人が望みながら、なかなかそう都合のいい人は見つからない、そんな存在。
 ゆくゆくはいくつかの基本になるパターンから、ある程度オーダーに応じてカスタマイズできるようにしたい。その第一歩として、イリヤはグレイスαを家族の一員になれるアンドロイドとして設計した。彼女グレイスαは、この先展開されていく自律型アンドロイドシリーズ『グレイス』の母体となる重要なプロトタイプなのだ。
 だから私たちはグレイスの特技を作る上で、アンドロイドである彼女の能力適性を見てみたかった。色紙を折りたたんでハサミを入れ、雪の結晶やレース模様を生み出す切り紙細工もその一環。手先は問題なく器用に動くか、手芸や工芸に向いているか。もっ改善中の指関節の性能が向上したら、ピアノやヴァイオリンも弾かせてみることになっている。それにダンスも。パーティーで楽しく手をとりあって踊るようなチークダンスと、舞台で見せるための踊りの両方。なおグレイスのボディは簡単な屈伸運動なら難なくこなせるものの、激しすぎる動作や高い重量負荷への耐性は備わっていない。そのため今回のグレイスのダンスレッスンはあくまで参考、次回作のアンドロイドにかすための実験的な要素が強かった。
 研究所で飼っているサモエドと触れ合わせたのは、将来的にアンドロイドが一般家庭に普及したときに、ペットの動物と仲良くできるのかを見極めるためだった。
 ボブリーという名のその犬はサモエドの成犬で、穏やかな気性のやさしい個体だ。しつけもよくされている。でも、グレイスは当初、ボブリーをひどく怖がっていた。
 なんといってもサモエドはサイズが大きい。にこにこと笑ってみえる顔が愛らしいけれど、開いた口はヒトよりずっと大きくて、鋭い歯も見え隠れする。はじめて出会うヒト以外の動物としては、少しハードルが高かったのだろう。
 リードをつけたボブリーを彼女の前に連れてきた途端、グレイスは目を丸くして後ずさった。ボブリーに伏せの体勢を取らせて声をかけても、なかなか近づこうとしない。事前に動物、とりわけ犬の生態を図鑑やビデオで教えていたが、実際の犬に会うと得体のしれない生き物に対する恐怖が先に立つらしかった。
 私が屈んでボブリーの耳や首をでていると、グレイスは私の腕をつかんで私ごと犬から遠ざけようとする。容姿は若い少女でも、グレイスの内面はまだ生まれたての子どものようなものだ。ともするとしゃがんだ私が、ボブリーの大きな口に食べられそうに見えたのかもしれない。
 やはりラットやヤギから徐々に触れ合わせたほうがよかったのではないか。私はそう思い、仕切り直して後日ふたたびチャレンジしてみることにした。その後、人慣れしているボブリーのあいきょうと忍耐力のおかげもあって、徐々にグレイスはボブリーに親しんでいった。
 次第にグレイスはボブリーの柔らかな白い体を撫でたり、ボールや犬用のおもちゃで楽しく遊べるようになった。いまではボブリーのことを、私のはじめてのお友達とまで言っている。犬には個体差があるからいちがいに断じられないが、自立型アンドロイドはその家のペットとも仲良くなれる可能性が高いとみていいのだろう。
 ただ、今朝もグレイスと一緒にボブリーの散歩に行ったけれど、やはり彼女を動物と触れ合わせるのは神経をすり減らす。アンドロイドと動物と、双方に怪我があってはいけないから。
 それに比べるとお菓子作りはまだ、私が気をつけていれば危険を防ぎやすいからいい。もちろん、完全に安全というわけではないが、生き物よりは。
「疲れていませんか? 頭や肩は重たくない?」
「平気よ。早く次のお菓子も作りたい」
「よかった。でも、疲れたと思ったら教えてくださいね。まだ本番までは余裕があります」
 彼女がお菓子作りをしているのは、研究所内で行われるプレお披露目会のためだった。今週末、研究所メンバーの家族や関係者を招いてグレイスを正式に紹介する。ガーデンパーティーを予定しているその会で、彼女が作ったお菓子をデザートとして振る舞うことになっていた。
 その事前準備が、このお菓子作りだった。グレイスは楽しそうにしているけれど、私はややこくな取り組みのような気がしてしまう。彼女は飲食ができない。においをぐこともできない。食べたこともなく、そして食べられもしない料理を人にきょうするために何度も練習するのは、もしも人間だったらどんな気持ちだろう。仕事だと言ってしまえばそれまでだが、人間の仕事のように給金が発生するわけでもない。
「次に作るお菓子はなあに?」
「ババロアというお菓子です。柔らかくてつめたい、口当たりのいいお菓子ですよ。初夏にぴったりですから、当日は季節のフルーツとソースを添えて提供します」
 愛用のレシピブックからババロアのページを見せると、グレイスの淡いブルーの瞳は興味をそそられたようにきらめいた。彼女の瞳にはセンサー付きのカメラが内蔵されていて、視野の範囲内の物を撮像処理することができる。その撮像が中央演算処理装置に常時転送されるシステムは、人間のもうまくの働きとほとんど同じだった。
「素敵! この写真、リングピローみたいね」
「リングピローですか、よく知っていましたね。面白いたとえですたしかに似ているかも」
 とっな発想のように思ったけれど、言われてみれば似ているかもしれない。ふんわりとした白くて小さいクッション。それにしても、彼女はリングピローもババロアも、まだ実物を見たことはないはずだ。いったいどこで名称や形状を知ったのだろう。
 グレイスといると、こうした新鮮な驚きがたくさんある。危なっかしくてハラハラさせられたり、反対にびっくりするほど上手になにかをやってみせたり。彼女のソフトウェアはまだ再現性に不安があって、教えたことを三分後には忘れて、知るはずのないことを言い当てたりもする。予測のつかないな存在。そんなグレイスに振り回されるとき、私はドキドキしながらも楽しんでいる。このドキドキは実験のだいであり、子育ての深い味わいでもあるのかもしれない。
 私が自分の子供を育てることは、きっとこの先もないだろうけれど。
「あれ、今日もグレイスはキッチンですか。頑張ってますね」
 若い研究員といっても私よりも少し年上のルスランが、ろうから顔をのぞかせた。
「楽しいわ。いま、ババロアを作ってるの」
 棒ゼラチンを水でふやかしながらグレイスが答える。弾んだ声だ。表情も明るい。
「グレイスはお菓子作りのセンスがありますよ。とても上手です」
「すごいなあ。僕、料理はてんでだめなんですよ」
「大丈夫よ。これからは私が毎日あなたに作ってあげる」
 その言葉を聞いたルスランは目をみひらき、少しほおを赤くした。手にしていたコーヒーカップの湯気が揺れる。
 私も火にかけたなべ攪拌かくはんしながら目を見張っていた。
 にっこり笑いかけながらプロポーズめいた台詞せりふを口にしたグレイスは、無言の私たちを不思議そうに見た。どうしてルスランはなにも答えないのだろう。小さく首をかしげながら、でもゼラチンをちぎる手はとめない。
まいったな、一瞬恋に落ちそうになりました」
 ルスランは額をぬぐって照れているけれど、グレイスにその意味は伝わっていない。会話の相手が自分は料理ができないと言った。それを受けて、じゃあ自分が作ると申し出た。彼女の思考回路の中では、たったそれだけの単純な話なのだ。
「ルスラン、二時間後にまた来てください。グレイスの作ったクッキーとババロアが出来上がっているでしょうから」
 私は笑ってルスランに言った。ぽうっとグレイスを眺めていたルスランも、気恥ずかしそうに頭をいてうなずいた。
「みんなに声をかけて来ますよ。僕だけで来たら、リューロフさんに怒られそう」
「ふふ、賢明ですね」
 私は肩をすくめた。ルスランはグレイスに手を振って仕事に戻った。
 グレイスの誕生から、私は笑うことが増えた。そしてなぜか、作り笑いも上手うまくなった。
「ねえミス・ボルトワ、恋に落ちるって何かしら? 恋はするものだから、落ちるものじゃないでしょう」
 落ちるというなら階段や穴よね。計測器の目盛りを真剣な目で見つめてつぶやく彼女は、心底疑問に思っているらしい。
「私もわからないんですよ。どうしてそんな言い方をするんでしょうね」
 小さな泡がミルクの表面に沸々と湧いている。数度に分けて溶き卵を流し、木べらでゆっくりと混ぜた。しんじゅのような泡が湧いては消え、小鍋の中身はもったりととろみを増す。
「痛いのなら、落ちたくはないわ」
 え? と訊き返しながらグレイスを見ると、グレイスは桃色の唇を尖らせていた。
「恋よ。落ちて痛いなら、落ちたくないわ。落とし穴も試験も、なんでも、落ちるなんていや」
 またおかしなことを言う。プリンセス・グレイスはなかなか負けず嫌いだ。私には、ねたようなグレイスの表情がいとおしかった。
「そうですね、私もグレイスが痛い思いをするのは嫌です。さあ、お鍋の火を止めたので、ゼラチンを持ってきてください」
 落ちて痛いのなら、落ちたくはない。
 誰だってそうだ。私も同じ。
 でも、痛みを知って、落ちてしまった自分にはじめて気づくこともある。
「ねえミス・ボルトワ、私もコンロを使ってみたいんだけど」
 アングレーズソースにほぐしたゼラチンを混ぜ合わせながらグレイスが言う。せっかくなのだから、すべての行程を自分でやりたい。火を使ったお菓子、たとえばチョコレート菓子やドーナツなんかも作ってみたい。
「それに、お料理だって作れるようになりたい。スープに、羊肉のソテーに。お料理の本は何度も読んでるのよ。キッチンに立つのに火を使ってはだめなんて、それではなんだかくやしい? 物足りないというのかしら?」
「物足りない、かも。それにしても、そうですね
 木べらを扱う彼女の手を見つめて、私は考え込んでしまった。
 彼女の肌に使われている柔らかなシリコンは、およそ二〇〇℃までの耐熱性が認められている。だから彼女がコンロやストーブの近くにいて、すぐさまボディに支障があるかというとそうではない。だがそれはあくまで、シリコンを素材として限定的にとらえた場合の話だ。シリコンにおおわれた彼女のきょうたい内部には金属部品やアクチュエータ、そして中央演算処理装置と画像認識処理装置が格納されている。それらの機器類が火にあぶられたとき、彼女は確実に故障する。だからイリヤは私に、グレイスをまだ火に近づけないでほしいと厳命したのだ。ショア10以下の特別に柔らかなシリコンは、当然ながら衝撃への強度が低い。動作制御の性能が未知数の現時点では、危険の度合いが計れないから、と。
「あとでイリヤに相談してみましょう、私からも話してみます」
 グレイスの気持ちはすごくわかる。こんなに料理を楽しいと思っているのに、作業の全工程に関われないのではたしかに物足りないだろう。
 私の言葉に、グレイスはパッと瞳を輝かせた。ご機嫌になった唇から白い歯がこぼれる。モノをむことはできない、清潔で美しいセラミックの歯。
 つられて表情をゆるめたものの、私はもうオーケーが出たと確信しているらしい彼女をたしなめた。
「でも、人間でもはじめのうち火や包丁は慎重に、大人の監督のもとで使うんです。だから、焦らないでやっていきましょうね」
「わかった。ミス・ボルトワと一緒だったらいいんでしょう?」
「まだですよ、イリヤが良いと言ってから。すぐには許可が出ないかもしれないけれど、練習しながらゆっくり待ちましょうね」
 火を使わないでも、できることはたくさんある。明日は今日のクッキーの材料を少し変えて、しぼり出しクッキーを作ってみよう。そう言うとグレイスはちょっと不満そうになめらかな頬をふくらませた。だけどツンと結んだ唇には、新しいレシピを試せる待ち遠しさもうかがえる。
 私はグレイスにステンレスの型を手渡し、水に軽く濡らすよう伝えた。どうして? と訊ねるグレイスに、出来上がったババロアを型から外しやすくするためだと教える。新しい謎に、グレイスの瞳は輝きを変えた。
 グレイスは水に濡らした型を、どこか誇らしげにこちらに見せてくれる。内側についた水滴の加減はいい具合だった。私が微笑ほほえんでうなずくと、グレイスはそろりそろりとアングレーズソースを型に流し込んだ。
「私も、何度も火傷やけどしたんですよ。オーブンのパンに素手で触れてしまったり、フライの油が跳ねたりして」
「パンって?」
「これからクッキーを焼くのに使います。このガスオーブンで加熱するとき、食材をのせる板ですね」
 私は備え付けのガスオーブンを振りあおいだ。予熱中のオーブンのドアから、ほんのりとオレンジの光がれている。
 グレイスはまた笑顔になった。今度は満足の笑顔。それに、クッキー生地の休憩が終わって成型行程に移れるのが嬉しいのだろう。
「オーブンは使ってもいいの?」
「ええ。私と一緒に、ミトンもちゃんとはめましょうね」
 ミトンも私物の布製のものではなく、グレイス用に耐熱が万全のものを用意してある。
 彼女の赤く染まった頬と額に触れて頭部筐体がヒートを起こしていないかをチェックし、ついでに鼻先についた白い粉を拭う。小麦粉かと思ったら、粉砂糖のようだった。グレイスはくすぐったそうに身をよじる。恥ずかしげに首を縮こめ、目を細めた。白くやわらかな子猫を思い出させる仕草だった。
 プログラムでパターン化されたグレイスの表情に、プログラムのはんちゅうにはないせんさいな陰影が潜んでいるような気がしている。そう思うのが四六時中行動を共にする私だけなのか、初対面の人でも思うことなのか、それは今度のガーデンパーティーで調べてみたい。
「これって、甘くていい香りがしているものなのよね?」
 大型冷蔵庫内のいたスペースにババロア型をそっと置き、代わりにクッキー生地を取り出しながらグレイスが私を振り返った。
「甘い香りって、どんな匂いなのかしら。このクッキーやババロアは、本当に甘い匂いなの?」
 ラップで包んだクッキー生地に鼻を近寄せ、匂いを感じとろうとしている。大切そうに両手にクリーム色の生地をのせて、まつを伏せて。
 ああ
 一見とてもれんなその姿に、胸が締めつけられるように切なくなった。子猫のようだと微笑むには、匂いを探すグレイスは悲しかった。
 グレイスに嗅気収集機能はない。彼女の形のいい鼻は呼吸せず、香りもぎとれないのだ。
 私はペストリーボードに打ち粉をはたく手を止めて、冷蔵庫のグレイスのもとへ向かった。
「そうですね、甘いお菓子は砂糖やバターの香りがすることが多いです。さっき、ババロアにバニラビーンズを入れましたよね。だからバニラの良い香りもします。レシピによってはチョコだったり、果物のあまっぱい香りだったり。でも
 キッチンには砂糖とバターのまろやかでほうじゅんな香りが満ちていた。幸福で裕福な昼下がりの家庭を連想する香り。いまの私はこの匂いを嗅ぐとやさしく包まれる気がする。おいしそう、と反射的に思う。でも実際に幸福で裕福な家庭を築いているイリヤは甘いお菓子はあまり好きではなくて、なんなら香水の香りも嫌いらしい。いくらほうこうでも、不自然に甘い香りが苦手だという。でも薬品系の刺激臭やガスの臭気、ゴムの焦げる時のような、一般的に嫌われる嫌なにおいでは表情も変えない。くさいとは思うが、慣れているから。
 一方、家庭を三つ壊したボルトフ先生はどんよくなまでに甘いものをせっしゅする。そう、食べるというよりも摂取、補給。その食べっぷりから若者のようなけんたんに見せかけて、味がまずいとえんりょなく食べるのをやめてしまう。わがままな人なのだ。そして開発に没頭していると、何日間もろくに食事をとらないこともざらにある。先生はどこにいても無意識にその場の匂いを分析しているのだろうけれど、はたして香りを風味として味わっているだろうか。
「同じ匂いを、甘いと思うか苦いと思うかはその人によって違います。香りにも好き嫌いがあるんです。だから
 生真面目きまじめに私を見つめるグレイスは、そもそも匂いを知らないのだ。甘みも苦みも知らず、酸っぱさも知らない。花の名前は覚えられても香りを嗅ぐことはない。言葉で学んで、想像するのが精一杯だ。
 どうすれば彼女は匂いを感じることができるだろう。かぎりなく人間そっくりでも、生物ではない彼女に。
 これは火を使いたいと言われた時より、ずっと難しい問題だった。
 つい考え込んでしまった私の腕にグレイスが触れる。私の肌はグレイスよりも温度が低い。
「ミス・ボルトワはクッキーの香りは好き?」
好きですね。とくに焼き上がりの甘い匂いを嗅ぐと、しあわせな気持ちになります」
「いいなぁ、私も知りたい」
「やってみましょう。焼けていく様子は、オーブンの窓から見られます」
「見ていてもいいの?」
「ええ。火傷をしないように、気をつけて見ましょうね」
 ポニーテールを揺らして、グレイスは大きくうなずいた。
 私の髪や指先には、バターのぜいたくな風味が染みている。まったりと濃厚で、わずかに甘さを感じさせる香り。同じ匂いはグレイスからも漂ってくる。
 人型アンドロイドであるグレイスの感覚器官。その、必要性の有無。
 イリヤに相談してみなければ。研究所の内部統制に照らした良識ではそう思いながら、私は偏屈でぶっきらぼうなボルトフ先生のせた顔を思い浮かべていた。

【つづく】