千鳥と水琴窟
「浦安さん」
さざ波のようだった無数の絃の音が、その一言で止んだ。
和室の天井に気まずい余韻が浸透していく。
「間違うのは仕方ないけれど、弾く手を止めるのはおやめなさい」
白髪交じりの髪を引っ詰めた顧問の目は鋭く、すみません、と千鳥はうつむく。
膝の前には、自分の背丈より大きな十三絃の箏が横たわっている。他の部員たちも皆一様に箏を前にして、畳の上に一定の間隔を保ち並んでいた。
「もう一度、頭から」
最前列に座る部長が頷き、右手で箏の龍額を叩いて、拍を取る。
千鳥は譜面をひと睨みすると、絃に親指の箏爪をあてがった。
息をつく暇もなく、再び絃の音が奔流となって押し寄せ、渦を巻いた。必死に指を動かし、小舟にしがみつく思いで糸番号を追う。視線は譜面と絃との間を忙しなく往復するが、絡まり合う漢数字の群れに次第に頭が追いつかなくなってくる。
一音、歪な和音が響いた。心臓がすくみ上がる。
指が迷ったその一瞬のために、音の波は容赦なく千鳥を呑み込んだ。
もがくように手を動かした。自分がどこにいるのかも分からないまま、不協和音の濁流に押し流されていく。やっとのことで元の流れへ戻れた頃、曲は終わりを迎えた。
練習から解放され、セーラー服の学生たちは首飾りを切ったように散開する。
「千鳥お疲れ。清枝ちゃん、容赦なさすぎない?」
顧問が茶室を後にしたと見るや、同じ一年生部員の由佳が駆け寄ってきた。早々に片付けを終えた彼女は、まだ畳に脛を貼りつけている千鳥を見て首を傾げる。
「痺れたの?」
千鳥は首を横に振ると、ちょうど近くを通りかかった部長にひと声掛け、木札のついた鍵を借り受けた。部長は特に気にした素振りもなく「遅くならないようにね」と言っただけだったが、万事了解しているらしき様子に却って気分が沈む。由佳が目を丸くした。
「まさか残って練習?」
「仕方ないよ。叱られたの、聞いてたでしょ? それに私だけ最後ぐだぐだ」
「ええ? 誰が間違えたとか普通分かる?」
「……とにかく練習する」
「真面目だなぁ。――あ、でも気をつけてね?」
そこでなぜか、由佳はニヤリと口角を上げた。
「ここ、出るらしいから」
「え」
「たまーにあるんだって。夕方、誰もいないはずの茶室から、絃の音が聞こえてくること」
思わず辺りを見回す。部員たちは片付けを終え、一人また一人と茶室を出てゆく。
奥の砂壁には花模様の油単に包まれた箏が立て掛けられ、整然と沈黙していた。
「……由佳ぁ」
「ごめん、ごめん! 頑張ってね」
ひらひらと手を振って、由佳が最後に敷居を跨いで出ていった。板戸が閉まる。
広い和室に静けさばかりが取り残された。
怖がらせるだけ怖がらせて、薄情な奴だ。ため息をつき、千鳥は箏に向き直る。
わずかにずれた琴柱の位置を戻し、調絃を取り直すと、しばらくは黙々と練習を続けた。
ぎこちない音が数寄屋造りの茶室に響いていく。下手が一人で練習して上手くなるとも思えないが、少なくとも練習しなければ上手くなる可能性は皆無なのだ。
入部してひと月半。呑み込みの早い由佳に比べ、千鳥はてんでいけなかった。
比較的簡単なパートを渡されているはずだが、たまに突如として登場するエキセントリックな指運びに、千鳥の頭は毎回混乱してしまう。合奏となると、もうお手上げだ。緊張するほど絃を間違え、爪は滑り、音はすっ転ぶ。
びよん、と間抜けな音がした。また間違えたらしい。堪らなくなって弾くのをやめた。
足の痺れを取りながら立ち上がると、丸窓の方へ歩み寄り、障子を薄く開ける。
鮮やかな新緑が目に染み、土の香りがした。雨が細く降りはじめていた。
風変わりではあるが、校舎と裏山との間にあるこの茶室「水月庵」は、れっきとした学校施設だ。その昔、この高校が女学校だった頃には、ここで茶道や華道の授業もあったそうだが、今となっては箏曲部が練習に使うのみだった。
ふと、何か聞こえたような気がして、千鳥は振り返る。
薄暗い和室には、自分のほか誰もいない。
聞こえてくるのは雨音ばかりだ。――気のせいだろうか。
しかし先ほどの話も思い出され、そろそろ箏を片付けようと、窓辺を離れた。
その時だ。
びぃん……。
今度こそ、千鳥は凍りついた。
濡れ縁に面した障子戸の手前に、一面だけ残された千鳥の箏。仄白い障子紙の光を受けて凜と際立つ、張りつめた十三本の絃。そのうちの一本だけ、輪郭が霞み――震えている。
びぃぃん……。
背筋が粟立った。気のせいなどではない。
間違いなく、箏がひとりでに鳴っている。――いや、見えない誰かが爪弾いているのだ。
驚愕に震える千鳥の瞳には、箏に向き合う靄のような人影が、確かに映っていた。
びぃん、びぃん、と絃は鳴り続け、音に呼応するように人影が鮮明になっていく。
若い男性、だろうか。浅緑色の着物に縞の袴をつけ、箏に斜めに向かう生田流の姿勢で正座している。余韻に耳を傾け、何か思うところのある様子で、彼は濡れ縁の方を見ていた。
端整な横顔を透かし、障子の格子が見える。
――間違いない。おばけだ。
急に現れたし。なんと言っても透けている。
こういう時は悲鳴を上げるものと思っていたが、声は喉の奥に絡まって出てこなかった。
ゆっくりと、男が、千鳥の方を振り向く。やや青みがかった、不思議な色あいの瞳と目が合い、心臓が止まるかと思った。
男の薄い唇が、泡沫を紡ぐようにして動いた。
『君は――』
呼びかけられて、ビクリとする。幽霊は、驚いた、という顔をした。
『もしかして、僕の声が聞こえるのか?』
どう考えても、この状況で驚いていいのはこちらであって、逆のはずはない。しかし、怪異にしては毒気のなさすぎるその表情に、気がつけば千鳥の方もコクコクと頷いていた。
幽霊は嬉しそうに目を細める。
『そうか。そうか、聞こえるか』
空気が震える。箏が話すとしたらこういう声だろうかと、呑気にもそんなことを思った。
見た目は二十代前半くらいだろうか。柔らかそうな前髪を緩い七三に分け、幽霊に似合わず人の好さげな、柔和な顔立ちをしている。
『稽古の邪魔をしてすまなかったね。そんなところに立っていないで、ここへおいで』
箏の前を退き、幽霊は自分の座していた畳の上をとんとんと音もなく叩いた。
どうにも幽霊らしくない幽霊だ。
冷静に考えて逃げだすべきだと思うのだが、いかんせん、ただの良い人にしか見えない。
悩んだ末、おっかなびっくり近づいていくと、幽霊が空けてくれた場所に腰を下ろした。心もち、畳がひんやりしている気がする。『君を知っている』と幽霊は言った。
『この春からいる子だね。糸を間違えてオロオロして、すぐに弾く手の止まる子だ』
「見てたの?」
気味悪さと決まり悪さで眉根を寄せるが、幽霊は『聴いていた』とニコニコ頷く。
『どの子がどんな音を奏でるのか……君たちの稽古を聴かせてもらうのは実に愉しい。話しかけてくれたのは君が初めてだが』
「……箏が好きなの?」
『好きだね。人生そのものだよ』
なるほど、好きどころではないらしい。死んだ人間の口から出る「人生」は重みが違う。
しかし、やっと話せた生身の人間が千鳥とは、この幽霊も運がない。
『どれ、何か弾いてみてくれないか』
「……私が下手なの、知ってるんでしょ?」
『おや、失敬な。下手とは言っていないよ。ぼやっとしてないで、いいからお弾き』
全くどちらが失敬か分かったものではない。
なんだか変なことになってしまったと思いながらも、千鳥は意を決し、爪を嵌め直した。
――結果は言うまでもなく、惨憺たる出来だった。弾き終えて、さすがにこれは祟られるかなと恐る恐る隣を見ると、幽霊は顎に指を添えて一言、ふむ、と呟く。
『固いな。力が入りすぎてる』
隣で聞き耳を立てている幽霊がいるのに、力を抜けという方が無理な話ではないかと思うのだが、当の幽霊はそんなことなどお構いなしだ。
『ご覧、人差し指が伸びっぱなしだろう。手の形は自然に、人差し指は中指に添えるようにして……そう。何小節か弾いてみてごらん』
仕方がないので今度は言われたとおり弾いてみると、心なしか先ほどより弾きやすくなったようだった。幽霊はほんのり微笑む。『いい感じだ。その感覚を忘れないように』
端的だが冷たくはない、指導し慣れた口ぶりは、どこか清枝先生に似ていた。
「いつからここに居るの?」
もはや恐怖と緊張を通り過ぎている千鳥は、足を崩しながら訊ねる。
『さあ……時間の感覚が曖昧でね。僕がこうして居るのは、雨の降る日だけのようだし』
「雨の日だけ?」
『ああ。晴れの日は寝ているようなものらしい』
「起きてる間ずっと雨ってこと? なんか気が滅入りそう」
『そんなことはない。雨は好きだからね。しかし――』
そこで言葉を切り、幽霊は障子の方を振り向いた。スイキンクツ、と彼は呟く。
『僕はあの音が好きでね。雨の降る日は、この茶室が思い出されたものだが……いつ壊れたのか、鳴らなくなってしまったらしい』
幽霊がもどかしそうに障子を見つめるので、千鳥も気になって障子戸を開けてみた。
軒先は小さな庭になっており、雨に濡れて、濃い緑の匂いが漂ってくる。
庭と言っても手入れされている様子はなく、庭木は半ば雑草と区別がつかなくなっている。中央には玉砂利が敷かれ、その上に苔むした手水鉢が置かれているが、水ではなく枯れ葉が溜まり、それが雨に濡れてみすぼらしく見えた。
「あそこから音がするの?」
『知らないかい? 手水鉢の下に壺なんかを埋めて、その空洞に落ちてくる水の音を響かせるんだ。雨の日には澄んだ音がしきりに鳴ってね。まるで水が絃を爪弾いているように聞こえるので、水琴窟と言う。琴というのは、中国の琴だね。日本の箏とは少し違う――』
夕刻の庭には濃い影が落ちている。辺りは小雨が葉を打つささやかな音で満ちていた。
この荒れた庭にそんな音が秘められているというのは、不思議な感じがした。
それにしても、どうやら彼は生前、この茶室へ足を運んだことがあるらしい。とすると、この学校の生徒か教師だったのだろうか?
ぼんやりとそんなことを思いながら視線を戻して、どきりとした。
青みがかった目が、千鳥を捉えていた。
『僕が怖い?』
やや焦点のぶれた瞳は、どこか別の場所を見ているようでありながら、同時に心の内側までも見つめられているような、不思議な気分にさせる。
少し考えてから、千鳥はゆっくり首を横に振った。
君は良い子だ、と幽霊は微笑む。
『良ければ、僕が君に箏を教えよう』
「え?」
『代わりと言ってはなんだが、一つ、頼みを聞いてほしくてね。……おかしなもので、長い人生のほんのひと時のことが、胸に留まって離れない。まさか、そのせいで迷い出るほど気にかかっていたとは、生きていた頃は思わなかったが』
あの水琴窟の音をまた聴きたいのだと、彼は言った。
『幽霊的な言い方をすれば、未練というのかな』
それはつまり、水琴窟の音を聞くまでは成仏できないということだろうか。
『君に、僕の頼みを聞く義理などないのは分かっているが、どうか直してもらえるよう、学校に掛け合ってみてはもらえないだろうか』
大真面目な幽霊を前に、千鳥は呆気に取られたが、そのうち段々と可笑しくなってきた。
「脅したりしないんだ?」
『脅す? なぜ?』
「だって幽霊なんだし。祟るとか呪うとか」
幽霊はややむっとした顔つきになる。
『そんなものより、箏を弾いたり聴いたりしてる方が、ずっと楽しいだろう。……それに、君が上手くなれば、僕ももっと良い音が聴ける』
目を細め、陶然と呟く幽霊の様子に、千鳥はちょっとだけ身震いする。
『それで、引き受けてくれるのかい?』
勿論、聞いてみるくらい簡単なことだ。分かったと答えると、彼は満足げに頷いた。
『そう言えば、名前を聞いていなかったね。教えてくれるかい?』
「……浦安千鳥」
『ほう。風雅でよい名前だ』
風雅、と胸の中で繰り返す。そんな言葉で褒められたのは初めてだ。
『では、千鳥。雨が降ったら、ここへおいで。稽古をつけてあげよう』
そう言いながら、幽霊の姿は水を足したように薄くぼやけてゆく。
外に目をやると、雨は止み、草葉の先から雫が滴っていた。千鳥は急いで訊ねる。
「あなたは?」
『何?』
「だから、名前」
薄れてゆく幽霊の青白い唇は少し迷い、ミナト、という音を残して、消えた。
和室の中には、千鳥と無言の箏だけが元どおり残されていた。
「水琴窟ねぇ。知らなかったなぁ」
そう言ったのは担任の村上先生だ。
奇怪な出来事があった翌日、千鳥の集中力はほとんど使い物にならなかった。
帰りのSHR後すぐ、鍵を借りるために職員室へやって来た千鳥は、水琴窟の件について相談してみることにした。当然、幽霊から頼まれたということは伏せてだが。
「森本くん、こういうのって誰の担当?」
事務じゃないですか、と隣の席にいた英語科の森本先生が答える。
「設備の修繕になるから。でも、ちょっと厳しいかもしれませんね。誰も困ってないし、ただでさえ経費削減って僕らも……ねえ?」
「世知辛いよなぁ」
やれやれと村上先生は首を振る。先生も大変らしい。
「募金でもしてみたら?」
「生徒だけで集まる額ですかね。それより、PTAか卒業生に寄贈してもらうとか」
「そこは森本くんが自腹切りなよ」
「懐事情は村上先生も同じでしょ?」
ひとしきり冗談を言い合ってから、二人の教師は申し訳なさそうに千鳥を見る。
「まあ、教頭先生にでも訊いてみとくよ」
「でも浦安さん、すごいね。水琴窟があるなんて誰に訊いたの? 清枝先生?」
まあそんな感じです、と苦笑いしながら言葉を濁し、千鳥は職員室を後にした。
早くも雲行きが怪しくなってきた。学校に言えばなんとかなるだろうというのは、少々読みが甘すぎたようだ。思案しながら、千鳥は茶室に続く外廊下を歩く。
幸か不幸か、天気は昨日に引続き雨模様だった。そろそろ梅雨入りだろうか。
『やあ。来たね』
そっと茶室に入ると、果たして幽霊――ミナトはそこにいた。
相変わらず、庭に面した障子の前に姿勢よく座っている。千鳥はホッとした。幽霊に会って安心するなどおかしな話だが、半分くらいは夢かもしれないと思っていたのだ。
水琴窟の修繕が難航しそうだと伝えたところ、彼は思ったほど落胆した顔はしなかった。
『そこにあることを思い出してもらうだけでも意義がある。地中にあって見えないものなど、忘れられてしまえば無いも同じだからね』
それでも、障子の外に向けられた瞳に寂しげな色が湛えられているのを見ると、簡単なことだと安請け合いしたことが申し訳なくなってくる。何せ向こうは成仏が懸かっているのだ。
どんな言葉をかけてよいか分からず、黙々と箏の用意をするしかなかった。
ひととおり絃を鳴らして音を確かめ、微妙な調絃のずれを直していると、ミナトが振り向いて『おや』と意外そうな顔をする。
『その差が気になるか。君は耳が良いんだな』
「え?」
箏を挟んで向かいに座ったミナトが指を差し伸べ、巾から一の絃までなぞってゆく。
朧げで儚いその音は、幽霊そのもののようだった。
『十分だ。さあ、始めようか』
稽古が始まった。静かな和室に、絃の音が流れ出してゆく。
時たまミナトが制止しては、弾き方の誤りを正した。ほんの一言のアドバイスで、弾きづらく感じていた指番号が魔法のように弾きやすくなり、千鳥は驚く。
しかし、ミナトの方は度々、歯痒そうな表情をしていた。
『弾いてみせるのが一番早いんだが』
聞くに、どうやら先ほどの音が、霊体の彼に出せる限界らしかった。
ミナトの教え方は非常に分かりやすいのだが、言葉で伝わる情報に限りがあるのも確かなことだ。言われたとおりに弾いているつもりが、何度も止められる箇所もあった。しまいには、彼はまた昨日のように千鳥の隣へやってくると、自分の手で弾き方を示しはじめた。
浅緑色の袂が、目の前で煙のように揺れる。
骨ばった手が透けて、薄っすらと向こう側の絃が見えているのを目にした千鳥は、ふと興味本位で、「こう?」とその手の形に沿うように自分の右手を重ねてみた。
枠線の中に自分の輪郭を収める程度の軽い気持ちだったが、その瞬間、冷えた空気が肌から染み込む感触に震えが走る。慌てて手を引っ込めようとするが、何故か金縛りに遭ったように動かない。その間にも、冷気は手首から肘へと徐々に這い上ってくる。
おもむろに手が動き、親指の箏爪が九の絃にかかった。
千鳥の意思ではない。とすれば、動かしているのは、隣の幽霊以外に有り得ない。
ああ、とミナトが耳元で驚嘆の声を上げる。そこに、わずかな喜悦の表情が滲んでいるのを聞き取り、千鳥はさすがにぞっとした。
はたと気がつく。水琴窟の音を聞けないのが未練だと彼は言ったが、普通に考えれば、もっと強い未練があるはずではないか。――もう一度、箏を弾きたいのなら、ちんたらと千鳥に箏を教えているより、取り憑いてしまった方が早いのではないか?
全身が冷水に浸かったような感覚が襲う。
千鳥の身体は完全に自由を失い、視界がブラックアウトした。
びいん、と暗闇の中で力強い音が響いた。
聴いたことのない曲を、千鳥の手が典雅に紡ぎはじめる。時に早瀬を流れるが如く、時に淵を揺蕩うが如く――持ち主の意思を無視して躍動する身体に、千鳥は翻弄された。
幽霊の興奮と歓びが全身を包み込み、鳥肌が立つ。瞬間、風が吹き抜けたかのような錯覚とともに、身体の自由が戻ってきた。
はっと目を開けると、愕然とした表情で透明な手の平を見つめるミナトがいた。
その様子を見れば、彼が千鳥に取り憑く気などなかったことは明白だった。少なくとも、満足して浮かばれそうな気配は微塵もない。ひどい顔だ。
『――すまない。こんな風になるとは……』
「いや、こっちこそ……なんかごめん」
元はと言えば、千鳥が悪戯心を起こして彼に触れたせいだ。――というか、考えてみれば、他人にいきなり触られるのは幽霊だとしても嫌だろう。軽はずみな行動を反省する。
『どこか痛いところはないかい? 気分が悪いとか、おかしな感じは』
「まあ、手はジンジンするけど……あと、心臓が」
『心臓⁉️』
「どきどきする。びっくりして」
ミナトは目を見開き、その後、安堵した様子で息を吐く仕草をした。
『君は……物怖じしなさすぎる』
幽霊の方が怖がっているように見えるのが可笑しくて、千鳥はまた少し調子に乗る。
「でも、良い練習方法じゃない? こうやって教えてくれたら、すぐ上手くなるかも」
『馬鹿なことを』
機嫌を損ねたように、幽霊はそっぽを向いてしまう。
やはり触られたのが嫌だったのだろうか。その唇は少しだけ震えていた。
六月に入り、天気の悪い日も増えた。降るのだか降らないのだかはっきりしない曇天は、これまでは憂鬱そのものだったが、今では別の意味がそこに加わっていた。
雨が降れば、茶室で幽霊に箏を教わった。
実際、ミナトは雨の降る間しか姿を見せなかった。
練習している間にふいっと消えてしまうこともあれば、部活中に突然現れ、危うく声を上げそうになることもあった。そんな時、ミナトは笑って人差し指を唇にあてる。そうして千鳥の横で、袂に手を入れてゆったり座り、部員たちの演奏に耳を傾けるのだ。
音を聴けばどんな子か分かる、とミナトはよく言った。
『どれだけ練習したか、箏が好きかそうでもないか、どんな性格で今どんな気分か……それに手や身体の大きさ、男女の別まで、音はなんでも教えてくれる』
最後のは見れば分かるでしょ、と突っ込むと、『見なくてもだよ』と彼は苦笑した。
「――千鳥、上手くなったよね。明らかに」
気象庁が梅雨入りを宣言した日は、久しぶりの晴れ間だった。
部活の練習中、由佳が後ろからこっそりと話しかけてくる。
「この頃、毎日練習してるでしょ?」
由佳がちらりと見やった千鳥の手は、薬指に絆創膏が巻かれ、中指も内出血で変色している。指の腹を使う押し手やピチカートを重ねるうち、気づけばこの有様だ。
ミナトの指導は、まあまあにスパルタだった。
強く叱られたり、呆れられたりすることは全くない。と言うか、むしろ優しいくらいなのだが、有無を言わせないところがあり、出来るようになるまで絶対に許してくれない。なまじ少し弾けるようになって気が抜けると、敏感に気づいて何度も基礎を叩き直される。
おかげで稽古が終わるといつもクタクタだった。それでも次の日また練習に行くのは、後が怖いから――というよりは、純粋に箏を弾く楽しみが分かったからかもしれない。
ミナトとの二度目の邂逅は強烈な印象を残していた。
憑依されたことよりも、彼の奏でる旋律、巧みな指運びに千鳥は心を奪われ、同時に、その音を紡ぎだす機能が自分の身体に備わっている事実に、新鮮な感動を覚えた。叶うなら、今度は自分自身の力で、あんな鳥肌が立つくらいの演奏をしてみたい。
一方あれ以来、ミナトは千鳥との距離を注意深く測るようになった。よほど自分の「幽霊性」に恐れをなしたらしい。千鳥はそれが、少しだけ残念なのだが。
「先輩たちだって演奏会の前くらいしか自主練してないのに。ほら、この茶室って暗いし、幽霊の噂もあるし。嫌じゃないの?」
「わ……私は好きだけどな」
笑いそうになるのを堪えつつ答えると、由佳はいかにも感心したように頷く。
「千鳥は趣味渋いよねぇ。うちのパパ、娘が庭いじりに全然興味ないもんで、千鳥は見込みがあるって喜んでたよ? 水琴窟だっけ。あれ結局どうなったの? 諦め?」
千鳥は肩をすくめる。
結論から言えば、やはり難しいということだった。
そもそもこの学校自体古く、通常の営繕費用だけで馬鹿にならない。箏曲部しか使わない茶室は実のところ学校のお荷物状態で、緊急性のない水琴窟の修理など最も後回しだ――と、そういうことを、村上先生は極力オブラートに包みながら教えてくれた。
この残念な結果報告をした後も、ミナトは変わらず箏の手解きをしてくれるが、千鳥にしてみれば月謝も払わず自分だけ得をしているような形で、なんとなく据わりが悪い。
それで、由佳に相談してみたのだ。彼女の家は、この辺りでも名の知れた造園屋だ。費用がどの程度か訊ねると、すぐに親に訊いてみてくれた。
結果、高校生がポンと出せる額でないことだけはよく分かった。
「村上先生は募金してみたらって言ってたけど、正直、集まるか微妙だよね」
「まあね。でも、なんか意外。千鳥って大人しそうなのに、実は結構行動派?」
その時、いつの間にか背後に立っていた清枝先生に「浦安さん」と声を掛けられ、二人は慌ててピンと背筋を伸ばす。小言が飛んでくるかと構えていたが、清枝先生はしばらく黙った後、「よく練習してるのね」と言った。
「誰か先生についているの?」
鋭い指摘に、やっとのことで「いいえ」と答える。下手が一人で練習して上手くなるはずがないと、千鳥自身も思っていたのだ。清枝先生が思わないはずがない。
先生は奇妙な顔をしたが、それ以上は何も言わず、他の部員の様子を見に去っていった。
「――と、いうことがありました」
『おやおや。気が抜けないね』
ミナトは楽しげに言った。ざあざあと雨音が聞こえてくる。
クーラーの効きが悪い茶室は蒸し暑く、千鳥は庭に面した障子戸を開け放った。
連日の雨で、手水鉢にはたっぷりと水が溜まっている。先日、放課後に落ち葉を搔き出しておいたので、少しは見られるようになったものの、やはり殺風景な感は否めない。
『でも、清枝先生の言うことも分かるよ。最近の君は、とても上手だ』
「どうも。良い先生がツいてるもので」
庭を見ながら何気ないふうで答えても、口がムズムズするのを抑えきれない。一緒に胸のあたりまでむず痒くなってくるので困る。
「……でも、もっと上手くなりたいなぁ。前に、私の身体で弾いてくれたみたいに」
そう呟いて振り返ると、なぜかミナトは驚きと困惑の混じった複雑な表情をしていた。
そんな顔をされるとは思っておらず、何かまずいことを言っただろうかと案じていると、ミナトはすぐに表情を改め、澄まし顔で言う。
『それなら、目を瞑っても弾けるくらいにならないと。箏が身体の一部になるほど弾き込んで、暗闇の中でも絃の位置が分かるくらいにね』
「ハードル高すぎない?」
『どれ。息抜きに少し遊んでみるといい。手拭いか何か、持ってるかい?』
「持ってるわけないでしょ。いつの時代だと思ってるの」
『ハンカチでもなんでもいい。試しに目隠しして弾いてみてごらん』
「ええ?」
ミナトはたまにこういう突飛なことを言う。しかし、千鳥は小さなタオルハンカチしか持っていないし、手拭いは論外だ。別に目を閉じるだけでいいか……と思いかけたところで、セーラーの赤いスカーフが目に入ったので、それを解いて目を覆った。
案外しっかり見えなくなるものだ。しかし、視界を奪われると思いのほか心細い。
『大丈夫かい?』
右隣でミナトが窺うように覗き込んでくるのが分かり、やけに緊張した。
見えないせいか、いつも以上に聴覚が研ぎ澄まされる。
雨の降りしきる世界に、ミナトと二人、閉じ込められてしまったようだった。
千鳥はおずおずと弾き始める。曲の旋律は覚えているが、肝心の絃の位置が分からない。少し離れた絃へ飛ぶと、途端にぽろぽろとおかしな音が出る。
ちょうど以前の千鳥そのままという感じで、思わず笑いが溢れた。
「あはは。全然だめ」
集中力が切れ、後ろへ寝っ転がる。畳の青い匂いが鼻をくすぐった。
ミナトが、困ったように笑うのが聞こえた。
雨音が和室を満たしている。
こうして聞くと、ひとつの雨音にも驚くほどの奥行きがあるのが分かった。草木を打つ音、庭石を打つ音。軒先を雨水が伝い落ちる音。無数の雨粒が裏山の林をざわめかせる音。
各々が各々のパートを奏でて、まるでひとつの曲を演奏しているようだ。
「いいね、雨も」
『うん?』
「ちょっと分かったかも。こうしてると音楽みたいで、ずっと聴いていられそう」
『……ああ』
ひとつ、深く息を吸い込む。からっぽな身体の中に、音が響いていくような気がする。
「そっか。雨だけじゃないね……本当はぜんぶ、音楽なのかも」
かすかに息を呑む気配がした。
手水鉢に溜まった雨水に、雫が落ちる。高く澄んだ音は、どこか絃の音に似ている。
水琴窟、と千鳥は呟いた。
あの庭に埋まった琴は、一体どんな音色を奏でるのだろう。
「私も聴いてみたいな……」
不意に、左頬をひんやりとした空気が撫ぜる。
風だろうか。肌触りのいい布のような感触が、ほんの一瞬鼻先をくすぐり、消えた。
どこかで、雨を逃れた小鳥が囀る。
『千鳥』
「え……?」
そっと、スカーフを目から外した。
目に映った天井は、実際以上に明るく見えた。ミナトは視界の端の方に座り、控えめにこちらを見下ろしている。その目元は、なぜかひどく寂しそうだった。
「どうしたの?」
身を起こしながら訊ねると、はっとした表情で咳払いする。喉などないはずだが。
『いや……知っているかなと思ってね。君と、同じ名前の曲があるから』
誤魔化されたような気もするが、興味が湧いたので、千鳥は「どんなの?」と訊く。
『吉沢検校という人が書いた曲だよ』
「ケンギョウ……」
確か、優れた盲目の音楽家などに与えられる称号だったはずだ。音楽の授業で習った。
『地歌が付くんだ。千鳥を詠んだ和歌が二首』
節をつけずに、ミナトが詞を諳んじる。
塩の山 差出の磯にすむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞ鳴く
淡路島 通う千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守
「ふたつ目は知ってる。百人一首でしょ」
千鳥にしてみれば自分の名前が入っている歌だ。だから、嫌でも覚えている。
「悲しい歌じゃなかった?」
闇夜の中、波の音とともに聞こえてくる鳥の声を思うと、なんだか心が塞がれる。
盲目の作曲者も、そういう想いに駆られることがあったのだろうか。
『そうでもないと、僕は思うけどね』
微かに笑みを含んだ声でミナトは答える。
『それに一首目は寿ぎの歌だ。変わらぬはずの千鳥の声が、己の心を映して、喜ばしくも悲しくも聞こえる……そういう曲だよ』
そう語るミナトの表情も、微笑んでいながら、苦しみを隠しているように見えた。
『――少し、遊びすぎたね。稽古に戻ろうか』
うん、と答えてスカーフを元通りに結び直しながら、千鳥は、その胸の内側の柔らかい部分を、さざ波が撫ぜてゆくような感覚に襲われていた。
「浦安さん」
日曜の学校で、清枝先生とばったり会った。
いつも通り茶室の鍵を借り、職員室を出たところだった。清枝先生は非常勤の外部講師で、普段は箏の教室で教えている。部活の時間以外に会うのは初めてのことだ。
「うちは大会に出るわけでもないのに、本当によく頑張るわね。でも、少し心配してたのよ。村上先生から『取り憑かれたみたいに練習してる』なんて聞いたものだから」
どう反応していいものか困って、千鳥は曖昧に笑う。
なるほど、確かに自分は取り憑かれてしまったのかもしれない。部活もないのに休日に登校するだなんて、以前の自分では考えられないことだ。しかし今の千鳥には、家でぐうたらするより、友だちと遊びに出かけるより、ミナトから箏を教わる方がずっと大事だった。
もはや箏の練習に行っているのだか、ミナトに会いに行っているのだか分からない。
その二つは同じことだし、あまり深く考えてはいけないような気もする。
「そうだわ、ちょうど良かった。浦安さんに伝えておくことがあるの」
水琴窟の件で、という言葉に、千鳥は耳を疑った。
「どこで聞かれたんですか?」
「教頭先生からよ。清枝先生から聞いたみたいですね、って言われたけど、覚えがなくて驚いたわ。浦安さんこそ、水琴窟があるなんて話、どこで聞いたの?」
千鳥は口籠もる。そう言えば、村上先生たちに話を出した時、適当に誤魔化したのだった。
こんなところでツケが回ってこようとは。
「えっと、知り合いに、ここの卒業生がいて」
苦し紛れについた嘘に、清枝先生は「まあ」と目を瞬かせる。
「もしかして箏曲部の方かしら? 実は、私もここの部員だったのよ。もう五十年も昔の話だけど……この学校がまだ女子校だった頃ね」
初耳だった。いよいよ深掘りされるわけにいかなくなり、仕方なく話題を逸らしにかかる。
「その頃は、水琴窟も鳴っていたんですか?」
「ええ。でも、そんなに大きな音ではなかったし、鳴るのも雨の日くらいでしょう? その上、お箏の音で、ほとんどの人は聞こえないのよ。だから鳴らなくなっても、誰も気が付かなかったのかもしれないわね……私自身、教頭先生から聞かされるまで、すっかり忘れていたわ。浦安さんがいなければ、そのままになっていたかもしれない」
ミナトの寂しげな表情が思い出された。そこに在るのに、気付かれなければ、忘れ去られてしまえば、無いことになってしまうというのは、なんだかやるせない。
「だから、これを機に直そうという話になったの」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「でも、学校の予算じゃ難しいって……」
「箏曲部の同窓会にカンパを募ることにしたのよ。お庭屋さんに見積もりを出してもらって、あの額ならなんとかなりそうだったから、もう皆さんにご案内してあるわ」
急転直下の展開に、気持ちの整理が追いつかない。もちろん千鳥とて完全に諦めていたわけではないが、もっと気長な話になるものと思っていたのだ。
これが大人の力か。全校生徒が募金してくれたとして一人何百円……などと考えていたことがバカバカしくなってくるが、この際、そんなことはどうでもいい。
清枝先生は、建前としては同窓会から学校への寄付になること、寄付へのお礼の形で記念の演奏会を開くことなどを細々と教えてくれたが、正直半分も聞いていなかった。
気もそぞろに、視線は窓の外へ向かう。
雨脚は先ほどより弱まり、よく見ないと分からないくらいの雨がか細く降っていた。
「長いこと引き止めてごめんなさいね」
そわそわしている千鳥に気がついたのか、清枝先生の方から話を切り上げてくれた。
「これから練習でしょう? よかったら、付き合いましょうか?」
「いえ、大丈夫です、ありがとうございます!」
強めに遠慮して頭を下げると、踵を返して駆け出した。走るんじゃありません、と咎める声は聞かなかったことにした。
早く伝えなければ。この雨が上がってしまう前に。
水琴窟が直る――ようやくミナトの望みを叶えることができるのだと。
ただ、その事実だけを抱きしめるようにして、脇目も振らずに茶室へ急いだ。それが意味することを、逸る気持ちで覆い隠したまま。
湿気で滑る床で転びそうになりながら、山側の棟へ続く渡り廊下を抜ける。突き当たりの窓が裏山の緑を四角く切り取って、薄暗い校舎に光を投げかけていた。
通用口を出る。雨の匂いと湿った空気に包まれた外廊下を駆け抜け、茶室の木戸へ辿り着くと、息を整えながら鍵を開けた。
扉を開くと、上がり框のところに幽霊がいた。
両の袂に手を入れて腕を組みながら、彼は懐かしそうに千鳥を見上げる。
『当てようか? 何か、とても良いことがあったんだろう』
微かに首を傾け、優しげに目を細めてそう訊ねる。
彼の声は、土を温かく湿らしてゆく、この柔らかな雨に似ている。
「……分かる?」
『分かるよ。君の足音を聞けば』
どうしてか、鼓動が鳴り止まない。
自分の中で、抑えつけていた何かが窮屈そうに暴れているのが分かる。
その感情の正体がなんなのか、千鳥は必死で考えないようにした。分かったところで、良いことなんてただの一つもなさそうだから。
「水琴窟、直せることになったの」
そう告げて、満面の笑顔を浮かべる。
今にも喉が震えて、涙が零れてしまいそうだった。耳の奥がきいんとする。
雨音は聞こえなくなっていた。
ミナトの驚いた表情が、次第に透明さを増してゆく。暗い茶室が向こうに透けて見えた。
『……そうか。君のお蔭だね』
微笑みながら、空気に溶けていく。いつものことだ。雨が降れば、彼はまた現れる。
――それなのに、咄嗟に手を伸ばしていた。
ミナトの姿は煙のように搔き消え、千鳥の手は空を摑んで、力なく落ちる。
半分はずれ、と呟いた。とても嬉しいことだ。そして同じくらい、悲しいことだった。
さんさんと照る太陽が恨めしい。
朝から嫌になる暑さだが、それでも通学路は活気づいて見えた。青空が広がっているためか、生徒たちの夏服の白さがそう見せるのか……いや、単にテスト期間が終わったというのが理由かもしれない。
期末テスト後の学校なんて消化試合みたいなものだ。夏休みまでのカウントダウンに皆が浮かれ立つ中、千鳥だけが沈んでいた。
テスト期間と前一週間は部活動禁止で、当然、茶室へも足を運べなかった。
ようやくテストが終わったかと思えば、今度は連日の快晴だ。まだ梅雨明け前だというのに、もう駆け足で夏が来たような、青く晴れ渡った空にうんざりする。
勿論、雨が降らずとも、放課後は茶室へ通っている。練習できなかった分を取り戻したかったし、何より、少しでもサボるとミナトには分かってしまう。
部の方では、例の記念演奏会に向けた準備が進んでいた。本番が夏休みに入ってすぐということもあり、千鳥以外にも部活後に残って練習する部員がちらほらいた。誰かと練習できることは有り難い部分も多かったが、やはりどこか物足りなさが拭えなかった。
動画サイトのおすすめも、いつの間にやら箏曲ばかりだ。登下校中も、放っておくとイヤホンから絶えず涼しげな箏の音色が流れてくる。
一学期も終わらぬうちに、気づけば千鳥の生活は箏一色だった。
そして箏のことを考えている時、必ずミナトもそこにいた。
これでは本当に、幽霊に取り憑かれてしまったみたいだ。
その時、イヤホンから聞こえてきた音に、ふと引っ掛かりを覚える。どこかで聴いた気がするなと思いながらスマホの画面を見た千鳥は、直後、ゆるやかに驚愕した。
「千鳥、おはよ!」
肩を叩かれ振り返ると、夏らしくショートカットになった由佳が、ニカニカと笑っていた。
「……びっくりした。おはよ」
「耳寄り情報なんだけど、聞く?」
「勿体つけるなぁ。どうしたの?」
「茶室の庭の施工、今週末だって」
足を止め、固まってしまった千鳥をよそに、由佳は得意げに話を続ける。
「実は清枝ちゃんちの庭もうちがやってて、それで茶室の話が来たんだよね。ほら、前に私が千鳥の話したでしょ? パパ、相当嬉しがってて、どうせなら庭ごと綺麗にしようって……千鳥? 聞いてる?」
覗き込まれ、千鳥はなんとか頷く。
「うん……教えてくれて、ありがと」
「いいってことよ」
グーサインを出すと、由佳は通りがかった別の同級生のもとへ駆け出していく。その背中をぼんやりと見送りながら、千鳥は、ついに来るべき時が来たことを悟った。
ミナトに会う機会は訪れないまま、由佳が教えてくれたとおり、その週の金曜には庭に工事が入った。
放課後、茶室へ行くと作業は終わっており、庭は見違えるほど美しく整えられていた。庭石や樹の位置は変わらないが、松は綺麗に剪定され、雑草や手水鉢の苔は除かれている。
帰りがけの由佳の父が、千鳥に気づいて声をかけてくれた。作業着姿のおじさんは日に焼けた顔を和ませ、「古いもんだが、壊れちゃいなかったよ」と教えてくれた。
「長いことメンテされてなくて、壺に泥が溜まってたんだな。掘り返して中を綺麗にしてやったら、また鳴るようになったよ。いや、良い音だ。千鳥ちゃんも一杯やっとくかい?」
お酒でも勧めるように柄杓を渡してくれたので、手水鉢に湛えられた綺麗な水を汲み、敷き詰められた石の上にぱたぱたと零す。
ぴぃん、ぴぃん、と硬質な音が響いた。水が、絃を爪弾いていた。
ミナトの言ったとおりだと思った。
その音は千鳥の心を甘く震わせ、同時に引き裂かれそうなほど切なくした。
それが喜ばしくも悲しくも聞こえるのは、すべて、千鳥の心のせいだった。
その日の朝、ささやかな音に目を覚ますと、考えるより先に制服に着替え、家を出た。
傘を差し、ローファーで浅い水たまりを撥ね上げながら、人通りの少ない通学路を学校へ向かう。雨の中でも、グラウンドからは運動部の生徒たちの声が聞こえてきた。
職員室にいた森本先生が、驚きつつもキーボックスから木札のついた鍵を出してくれた。
校舎はまだ眠りの中にあるようだった。
通用口を出て外廊下を渡り、茶室の木戸をくぐる。
屋内は薄暗く、障子を透過した仄白い光で、畳の目地だけが浮かび上がって見えた。
しとしとと耳を濡らす雨音に混じり、ぴぃんと、どこかで透き通った音が響いている。
『久しぶりだね』
その人は障子の傍らで、聞こえてくる音に耳を澄ましていた。
「……まだいたんだ」
『おや、失敬な。君を待っていたのに』
聞き親しんだ声が、今日はいつにも増して優しく聞こえた。障子を開けてくれないかな、と言うので、千鳥は濡れ縁に出る障子を左右に開いた。
雨のおこす涼しい空気が、水と草木の匂いを庭から運んできて、部屋の中までが庭に取り込まれてしまったようだ。また、ぴぃんという音がして、ミナトは目を細める。
『お礼を言いたくてね。ありがとう、千鳥。……良い音だ』
ともすれば、すぐにでも消え入ってしまいそうな声に、堪らなくなる。
深く息を吸うと、千鳥は言った。
「どういたしまして――湊路夫さん」
彼は心底意外そうな顔をした。千鳥は手にしたスマホの画面を開く。
「これ、あなたでしょ?」
そしてスピーカーから流れだしたのは、箏の音色だった。動画サイトにアップされた音源は、レコードから再録音されたものらしく、端々にパチパチとノイズが走っている。
サムネイルは和服姿の男性が箏を弾く姿を映した、時代がかったカラー写真だった。
その温和そうな面差しは、いま目の前にいる幽霊によく似ている。
違う点と言えば、二十歳過ぎくらいのミナトに対して写真の男性は四十前後に見えること、そして、その瞳が、閉じられていることだった。
タイトルには、「水の変態/演奏・湊路夫」とあった。
先日、登校中にたまたま流れてきたこの曲は、以前、ミナトが千鳥に乗り移って弾いた曲と同じだった。――あの時も、彼は目を閉じて弾いていた。
ミナトは頷かなかったが、その反応が答えだった。千鳥は重ねて訊ねる。
「どうして黙ってたの?」
『――それは、箏の奏者だったことを? それとも、目が見えなかったことをかい?』
ミナトは困ったように肩をすくめる。
『わざわざ改まって話すようなことでもない。……最初に会った時、君が言っただろう? 見てたの、と。それが嬉しくて、つい、ね』
少し恥ずかしそうに、彼ははにかんだ。
『君と話していると、まるで自分が、目の見える普通の若者になったようで、楽しかった』
最後が過去形になっているのが、千鳥には悲しかった。彼は続ける。
『小さい時分、熱病が原因で視力を失ってね。僕の家は貧しかったから、早く手に職をつけられるようにと、箏の道に入った。それから死ぬまで、箏を弾いて生きてきた』
「この学校にも、来たことがあるの?」
『ああ。三年ほど、箏曲部の生徒を教えたよ。僕は学校に通えなかったから、形は違えど初めて学校という場所へ行けるようになって、嬉しかったものだ。彼女たちの中にいると、賑やかな学校生活を僕も味わうことができた。……それに僕は、この茶室が好きでね。遠くで聞こえる、少女たちの話し声や歌声、裏山の木々のざわめき、鳥たちの囀り。そして、雨の日に鳴る水琴窟……世界の美しいものすべてが、ここにあるような気がした。どれほどの時を経ても鮮やかに思い出される。僕はもう一度、自分の青春の音を、聴きたかった』
愚かなものだ、とどこか皮肉げな響きを帯びた声で、ミナトは言う。
『過去ばかりを想うから、こうして迷いでることになる。僕も、あの鳴らなくなった水琴窟と同じ……ここでは僕のことなど、もう誰も知らないというのに』
青みがかった瞳が、ひたと千鳥を捉えた。
『だから、君が僕に気づいてくれて、嬉しかった』
君は耳が良い、とミナトは悪戯な笑みをそっと浮かべた。
『良い奏者には、良い耳が欠かせない。これから君は、きっと、もっと上手くなるだろう』
それは、否応もなく別れを告げる言葉のようで、千鳥はくしゃりと顔を歪める。
「……もう、教えてくれないの?」
幽霊は微笑んで答えない。代わりに『さあ、早くお弾き』と言う。
『箏を弾きに来たんだろう? 聴かせておくれ』
千鳥は唇を引き結んだ。そうでなければ、この口から何が飛び出すか、分かったものではない。――彼に聴いてもらうのは、千鳥の弾く箏の音だけで良かった。
いつもの位置に琴台を置き、箏を横たえる。
爪を嵌めて顔を上げると、開いた障子の間に、庭を背にしてミナトがいた。
彼はまっすぐに千鳥を視ている。目ではなく耳で、彼は千鳥のすべてを捉える。
音を聴けば分かると、ミナトは言った。それならば。
――一つ、呼吸とともに、絃を強く弾いた。
どうか聴いてほしい。教え込まれたこと、幾度も幾度も指に傷をつくりながら練習してきたすべてを、今、返したい。そして、この想いのすべてを伝えたい。
一心に、千鳥は絃を搔き鳴らす。
指先から迸る音色のそこかしこに、ミナトの気配を感じながら――もはや、千鳥の奏でる音のどこにも、彼の影の差さぬところはなかった。
彼が消えてしまったあとも、この音は痕となり、千鳥の身体に残り続けるだろう。
視界が滲む。まだ曲は終わっていないというのに、手が震え、音が揺らいで――消えた。
ぱたり、と雫が一滴、箏の上に落ちた。
顔を上げると、ぼやけた視界の中、ミナトはひどく衝撃を受けた表情をしていた。
あとからあとから、涙が頬を伝ってゆく。彼は静かに言った。
『続きを』
ふるふると、千鳥はかぶりを振る。ミナトの顔を見ていれば分かる。
これを弾き終えたら、彼はきっと、行ってしまう。
すると、ミナトは困ったように笑い、箏の向こうからそっと両手を差し伸べて、千鳥の頬を包むように触れた。ひんやりした感触はちょうど、涼しい風が頬にあたったようにしか感じられないくらい、微かなものだった。
『仕方のない子だ』
さすさすと、親指が目の下を撫でる。ミナトはそっと顔を近づけ、千鳥の額に自分の額をあてた。泣いてぼうっと熱した頭に、冷気が流れ込んでくる。
目蓋がそっと閉じられる。前と同じ、身体から自由が奪われてゆく感覚も、今は穏やかで心地よいものに感じられた。いっそ取り殺されてもいいかな、などと考えていると、『馬鹿なことを』とミナトの呆れた声が頭の中に響いた。
続きを弾いてくれるのかと思っていると、左の手が琴柱をずらし、調弦を変えていく。
『弾きはじめた手を止めてはいけない。君の曲は、君が最後まで弾くんだ』
そう言うと、彼はおもむろに絃を弾いた。
四と九の絃の合わせ爪から始まるその曲を、千鳥は知っている。
盲目の箏奏者が書いた、自分と同じ名の曲――「千鳥の曲」だ。
絃の揺らぎも美しい、妙なる箏の調べ。それは、庭で鳴るもうひとつの琴の幽玄な音と響きあい、雨空の彼方へと溶けてゆく。
音色とともに、ミナトの唄う声なき声が聴こえてくる。
悲しげな響きであるにもかかわらず、そこに含まれているのは、くすぐったくなるような温かさだった。眠りを覚ます千鳥の鳴き声を、手にとって、慈しむかのような。
塩の山 差出の磯にすむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞ鳴く
淡路島 通ふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守
余韻とともに、身体の中を風が吹き抜けてゆく。ゆっくりと、千鳥は目を開けた。
開いた障子の間には、もう誰もいない。ただ細い雨が、優しく草木を揺らしていた。
――そして、最後の一音を、千鳥は弾き終えた。
弦に手をあて余韻を止める。畳に手をつき頭を下げた千鳥を、無数の拍手が包んだ。
「あなた、素晴らしかったわ。まだ一年生なんでしょう?」
演奏会が無事終わり、茶室では箏曲部同窓会に現役部員を交えた茶話会が催されていた。
障子戸は外され、生まれ変わった庭が一望できた。
裏山では蝉の合唱が聞こえ、季節はすっかり夏だ。
そんな中、年配のご婦人方に囲まれて、千鳥は演奏会よりも緊張していた。
「清枝ちゃんから聞いたけど、水琴窟があるだなんて、本当によく知ってたわねぇ」
ギクリとして冷や汗が首筋を伝う。なんと答えたものか困っていると、ちょうど輪に入ってきた清枝先生が「お知り合いが卒業生なんですって」と助け舟を出してくれた。
「まあ、そうなの。知ってる方かしらね」
どうかしら、と言って、清枝先生はちらりと千鳥を見る。
「ひょっとすると、『検校先生』をご存じの方かもしれないわね」
言葉を失う千鳥とは対照的に、その場にいた同年代の女性たちは高い声を上げた。
「検校先生! 懐かしいわねぇ」
「そうだわ。確かに、あの人はお好きだったものねぇ、あの水琴窟が」
あの、と千鳥は口を挟む。「検校先生って……?」
「ほんの短い間だったけれど、若い男の先生がいらしたのよ。目の見えない方でね。誰が呼んだか検校先生。すごく優しくて良い方だったのだけど――」
「辞めさせられちゃったのよね。ひどい話だったわ。なんにも問題なんて起こす人じゃなかったのに、婦女子の学校に若い男がいるとはいかがなものかって」
「まあ、その後、立派な演奏家になられたのだけどね。残念なことに、五十にもならないうちに、ご病気で」
しみじみと思い出を語り合う大先輩たちに、そうだったんですねと、千鳥は呟く。
「見えないせいか、とっても耳の良い方でね」
清枝先生が懐かしそうに目を細めた。
「この世のすべての音には音楽があって、水の音や鳥の鳴き声の奏でる曲が、自分にとっては何よりの楽しみだと仰っていたわ。……ほら、前に話したでしょう? 雨とお箏の音で、ほとんどの人は水琴窟の音に気づかなかったって。でも検校先生にはこの音がよく聴こえたそうよ。雨の日の検校先生は、それはもう楽しそうにされていたわ」
その光景が目蓋の裏に浮かぶようで、千鳥は思わず笑みをこぼした。その時だ。
どこかで、絃を弾いたような澄んだ音が鳴った。
賑やかな茶室の中、その音に気がつくことができたのは、千鳥だけだった。
【おわり】