僕の恋、思い出と勝負するのは分が悪すぎる 第一回
1
『書けない!?』
電話の向こうで、知らない宇宙人からお中元でも届いたかのような声が上がった。
それもそうだろう。
作家デビューして五年、僕はこれまでただの一度も原稿を落としたことがない。
それどころか、原稿を催促されたこともない。いつも、締め切り前に耳を揃えて差し出しているからだ。そして速やかに次の原稿に取り掛かる。何なら、余った時間で、誰にも頼まれていない物語を書いて楽しんでいたりもする。
そんな僕が、普段ならばとっくに約束の原稿を書き上げている時期に、
「途中で筆が止まって、全然書けなくなった……」
などと言い出せば、担当編集者が世にも奇妙な声を発するのは無理もない。
『書けない、って……どういうこと? 途中って、どこまで書けてるの?』
「全然序盤で止まって、そこから一行も進んでない……」
『ちょっと待って、何があったの!? 病気!? 怪我!? 推しが結婚!? ソシャゲにハマった!? それともネットで何か言われた!? 気にしなくていいのよ、そんなこと!』
「そういうことじゃないんだけど……」
『じゃ、どういうこと!?』
「どういうこと、と言われても、説明が難しい……」
『わかった、今から行くから! その難しい説明を整理して待ってて!』
2
三十分後、恐ろしい形相をしたスーツ姿の女性が僕の住むマンションへ駆けつけた。
「弥生くん!? ああ、よかった、生きてた……」
玄関先で僕の腕や背中をバシバシ叩きながら生存確認してくるこの人は、榊芽生(二十四歳)。去年から僕を担当している編集者である。
ちなみに、彼女の態度に遠慮がないのは、仕事上の付き合いが生じる以前から友人だったせいだ。同じ大学の文芸サークルに所属していた同級生なのである。
「生きてた、って何……僕は生きてるよ」
「だって、電話の声が今にも死にそうだったからさ、心配してすっ飛んできたんじゃない。大体、『書けない』なんて言葉、弥生くんの口から聞いたの初めてよ」
「……僕も、生まれて初めて言ったかもしれない」
「でしょ!? 何があったのよ、悩み事があるなら聞くから、話してよ」
「まあとりあえず、上がって……」
来客用のスリッパを出してリビングへ通すと、榊さんは感慨深げに室内を見渡した。
「そっか~、この部屋に入ったのって、引越しの手伝いの時以来だわ。何せ、家に押し掛ける必要のない作家さんだもんね、弥生くんって。見張ってなくても仕事するし、いつだって迷惑なくらい原稿早いし」
「迷惑で悪かったね……」
僕が作家デビューして知ったことのひとつは、原稿を早く上げすぎても編集者から迷惑がられる、ということである。
「その爆速作家・水嶋弥生先生が、書けない、ってどういうこと? プロットはとっくにもらってるし、構想は固まってるんでしょ?」
ソファに腰を下ろした榊さんが、早速本題に入ってくる。向かいに座って僕は頷いた。
「……話の筋は出来上がってる。細かいところまで全部」
「じゃあ、あとは書くだけじゃない」
「そう」
「それがなんで書けないの?」
「僕もそれが知りたい」
「えぇ~?」
榊さんが大きく首を傾げた。
「どこか身体の調子が悪いの?」
「別に……。直近の健康診断結果はオールA判定だったし」
「お酒も煙草もやらないだけあって、健康ね。それで、指を怪我したとかでもない、と。推しが結婚したわけでも、時間泥棒なソシャゲにハマったわけでもない?」
「うん」
「じゃあ何なの? プロットが固まれば、いつもならあっという間に書き上げるじゃない」
「そうなんだけど、今回は駄目なんだ……」
僕はがっくりと項垂れた。
「冒頭からラストシーンまで、一冊分の筋は組み立て終わってるのに、どれだけ机に向かっても、集中出来ない。言葉が文章にならない。言葉が出てこない。キャラが動かない。物語の中に入れないんだ……」
「弥生くん――」
知らない宇宙人でも見るような顔で榊さんが僕を見つめた。
「いつからそんな状態なの? 先月プロットもらった時は、やる気満々だったわよね?」
「うん……」
「前の巻がとんでもないところで終わってるから、可及的速やかに次を出そう、読者を待たせないようにしよう、って張り切ってたわよね?」
「うん……」
今、途中で止まったまま書けなくなっている原稿は、シリーズで書いているファンタジー作品の七巻目である。二ヶ月前に刊行された六巻が渾身のヒキで終わっており、読者からは阿鼻叫喚の感想が届いている。
「あんなところで『つづく』にしたまま、ばっくれていられる人だとは思わなかったんだけど?」
「書きたいのは山々なんだよ……! これから美味しい場面の連続なんだから。そこへ持ってくために、ここまでの展開を引っ張ってきたんだから」
「だから、それがなんで書けないのよ?」
「それが僕にもわからないんだよ……」
「推しが結婚したわけじゃないのよね?」
「うん」
というか、なぜそればかり何度も確認するのだろう。そういった理由で書けなくなる作家が多いのだろうか?
「じゃあなんで書けないのよ?」
「わからない……」
不毛な問答を繰り返していると、不意に背後で引き戸の開く音がした。
「お兄ちゃん――原稿進んでないってほんと?」
納戸から顔を出したのは、妹の皐月(中学二年生)だった。
「あれ? 妹さん? 来てたの?」
榊さんが面喰らった顔で玄関を振り返る。
「え、でも、玄関に女の子の靴とかなかったような――」
慌てて上がり込んできたように見えて、そんなところはしっかりチェックしてるんだな――と僕は苦笑して答える。
「靴はベランダに隠す習慣になってるから」
「へ?」
「人が来た時、自分がここにいるのを知られたくないらしい」
「……それは、お兄ちゃんっ子なのを知られたくない思春期のアレ的な何か?」
僕に齢の離れた妹がいることは榊さんも知っているが、顔を合わせたのはこれが初めてのはずである。
「や、そんないいものじゃなくてね――」
「すみません、話の腰を折って」
僕の言葉を遮るように、皐月が榊さんに謝った。そして自己紹介する。
「初めまして。水嶋弥生の妹の、皐月です」
「こちらこそ初めまして。弥生くんの担当編集をしている榊芽生です」
「兄から聞いてます。今の担当さんは大学の同級生だって」
「そうなの。思いがけず長い付き合いになっちゃって。――ところで、皐月ちゃんてもしかして五月生まれ?」
「はい」
僕は三月生まれで弥生。我が親ながら、わかりやすい命名法である。
「私も五月なのよ。だから芽生なの。でも、字面の見た感じは弥生くんの名前と見間違えられやすくて、学生時代はなんかいろいろ取り違えられてたよね~」
「一部の人たちには、僕らの名前が紛らわしいみたいだったね」
水嶋弥生と榊芽生。五十音順は離れているし、フルネームの字数も違うのに、下の名前の『生』という字が共通しているのが時として人の錯覚を誘うらしい。ついでに『弥生』が女性の名前だと思われやすいのもあり、お互いに何度か取り違えて扱われるうちに親しくなった。そして彼女が入っていた文芸サークルに誘われたのである。
「そんな縁でもないと、友達が出来そうにない人なんでよかったです」
「おい……」
兄をなんだと思っている。
憮然とする僕に対し、
「あはは、手厳しいわね、皐月ちゃん!」
榊さんは噴き出して笑う。
「黙って立ってればモテるのよ、弥生くんも」
「あ、お茶も出さないで、すみません。コーヒーでいいですか?」
皐月は僕のモテ情報を無視していそいそとキッチンへ入り、
「あ、お構いなく~」
榊さんは笑顔でそう答えてから僕を見た。
「中学生だっけ? しっかりした妹さんね~」
「……」
猫を被っているだけだ。
皐月は優等生の皮を被った漫画オタクで、僕の部屋の納戸に蔵書とグッズを保管している。いつも人目を忍んでこの部屋へ来て、すぐに靴を隠し、もし万が一、親や知り合いが訪ねてくるようなことがあれば、ベランダから外へ逃げる手筈まで整えている。そうまでして外面を守らなくても……と僕は思うのだが。
ともあれ、来客の気配を察知した時は絶対に納戸から出てこない皐月が、自分から顔を出すなんて珍しい。どういう風の吹き回しだろう。
気になって僕もキッチンへ立つと、皐月に睨まれた。
「――お兄ちゃん、原稿書いてないなら、このフラワーフェスティバルは何なわけ?」
皐月が忌々しげに見渡すキッチンには、色とりどりの花が咲き乱れている。テーブルの上、調理台の上、食器棚、窓辺、とにかく物が置けそうな場所にはすべて花が咲いている。
「こんなんじゃ、料理するどころかコーヒー淹れるのだって一苦労だし、でも原稿頑張ってるなら仕方ないと思って我慢してたのに、書いてないってどういうこと?」
「書こうとしても書けないだけで、わざと書いてないわけじゃないよ……」
「なんで書けないの? これだけキッチンを花で埋めといて、原稿の方は進んでないってどういうこと」
「それがわからないから、榊さんがわざわざ来てくれたわけで……」
「で、書けそうなの?」
「……」
ここでもまた不毛なやりとりが始まりかけた時、
「何これ!?」
取り残されて退屈だったのか、こちらを覗きに来た榊さんが大声を上げた。
「花だらけ! ていうか、これ――」
榊さんは皿に載せられた大輪の花に手を伸ばし、花びらをつまむ。
「もしかして、大根?」
皐月が頷く。
「全部、大根の桂剥きです。食紅で色を着けて、それを花の形にして」
「和食の料理人が飾りに作るやつ……? 皐月ちゃんが作ったの?」
皐月は首を横に振り、そのまま横目で僕を見た。
「え、弥生くん? が作ったの? なんかすごい芸術作品みたいな大作もあるけど」
「兄は、小説書いてる時はいつもこんな感じなんです。気分転換に、文章を書くのとは違う細かい作業をしたくなるみたいで」
僕は小説を書くのが好きだ。物語を創るのが好きだ。
これまで、アイディアが出てこなくて筆が止まった、という経験をしたことがない。いつだって書きたいネタは溢れるほどに湧き出てくる。
けれど物語を書くのが楽しすぎて、テンションが上がりすぎると、疲れを感じなくなる。眠れなくなる。そうなると、興奮だけが空回りして、脳の出力調整がおかしくなる。頭の中にあるアイディアが、文章として上手く形にならなくなるのだ。
人との会話に喩えれば、言いたいことがたくさんありすぎて、気が逸って興奮しすぎて口籠ってしまい、何を言っているのかわからなくなる――そういう状態に近いだろうか。
そんな時、頭の熱を冷ますためには、単純作業に没頭するのがいい。ひたすら鍋を磨き続けるとか、ビーズ細工の人形を作り続けるとか、細かい作業をしていると、肩が凝り、目が疲れてくる。眠って休みたくなる。一晩寝れば、上がりすぎた熱もいい具合に下がり、執筆を再開するのにちょうどいいテンションになる。上がりすぎたら冷ます、その繰り返し作業が僕には必要なのだ。
ただ、今回はいつもとは違い、あまりに原稿に集中出来ないことが不安で、別の意味の気分転換として大根の桂剥きに手を出したのが運の尽き。
薄すぎず厚すぎず、花びらに成形するのにちょうどいい剥き加減を追求しながら、さらに着色料を使って理想の色合いを作り出す実験に嵌まってしまい、キッチンが大根の花だらけになってしまった。
「昔、ひたすら包丁を研ぎ続けてた時もあったよね。表情のない顔で刃の一点だけを見つめて手だけを動かして、完全に危ない人だったし。それ見られて、彼女に振られたでしょ。まあ彼女の判断は正しいと思うけど」
「そういう余計なことは覚えてなくていいよ……」
「要するに、これは弥生くんの苦悩が咲かせた花なわけね」
榊さんは改めてキッチンを見渡す。
「そんな文学的な表現しなくていいですよ。ただの大根サラダの原料です。夏場にこんな大量に作られてもとても食べ切れないんで、何だったらもらっていってください。きんぴらや切り干し大根にもなりますから」
「そりゃ、大根で花を作れば原稿が書けるというなら、担当編集として三食カラフル大根サラダにも甘んじるけど――結局進んでないのよね?」
榊さんの崇高な覚悟に申し訳なく思いながら僕は頷く。
「……うん。一行も」
項垂れる僕に、榊さんはそれ以上何も言わず、皐月の方へ矛先を向けた。
「ねえ――皐月ちゃん。皐月ちゃんは、何か心当たりない? 最近、弥生くんに何か変わったことあった? 本人は何もないって言ってるけど」
「さあ……私も別に兄を見張りに来てるわけじゃないので……」
そう、皐月はここへ来ても、納戸へ直行して趣味の時間を過ごし(よく不気味なぐふぐふ笑いが漏れ聞こえる)、部屋を使わせてもらっている礼代わりに時々食事を作って帰る。それだけの妹である。
「あの、確認なんですけど――」
皐月は眉根を寄せて考える素振りを見せたあと、榊さんに問い返した。
「今ってどういう状況なんですか? このままだと締め切りに間に合わない、誌面に穴が空く緊急事態、とかってことですか?」
「うーん……雑誌連載じゃなくて、書き下ろしの文庫だから、刊行自体は延期しようと思えば出来るのよ。でもそうすると、表紙をお願いしてるイラストレーターさんのスケジュールを押さえ直すのがねぇ……。忙しい人だから、いったんキャンセルすると、こっちの都合で次の刊行予定を勝手に決められなくなるというか」
表紙に絵が入る装丁の場合、それを売れっ子イラストレーターさんに担当してもらっていると、刊行予定は作家の都合ではなく向こうの都合で決まることも多い。まあ僕としては、とにかく原稿はどんどん書いてしまって、あとはイラストさんのスケジュール次第で絵が上がってきたら完成して刊行、になるだけのことなのだけれど。
「原稿は常に完成済み、待たせないでイラストさんに渡せる、というのが弥生くんの強みだったのに……こんな調子じゃ、先の予定が全然立たないし、なんとか原稿が上がるのを待ってからイラスト発注なんてことになったら、それこそ刊行がいつになるかわからないわ。あんなヒキで終わっておいて、どんだけ待たせるんだふざけるな――! って読者の罵声が聞こえるっ! ああっ、私の真っ白な良心が耐えられない――!」
「前の巻、そんなに気になるところで終わってるんですか?」
身を捩って悶えていた榊さんは、皐月の反応にふと首を傾げた。
「――あれ、皐月ちゃんって、もしかしてお兄ちゃんの本を読んでない?」
「すみません。読んだことないんです」
「一冊も?」
「一冊も」
皐月曰く、「身内が書いた話だと思うと、こっ恥ずかしくて読めないもん!」だそうだ。
「ここへ来ると新刊が転がってるから、タイトルとか帯のアオリを見て、ファンタジー書いてるんだな~くらいは把握してるんですけど、詳しい内容は知らないです」
「あらあら。無償で読めるのにもったいない」
無償でもなんでも、興味がないものには一切手を付けないのが皐月の性格である。僕も同じなので、文句は言えないが。
「では私が教えてあげましょう。ストーリー展開的に今がどういう状況かというとね――」
榊さんは皐月をリビングへ引っ張って行き、シリーズ既刊を手に、あらすじを説明し始めた。
自作の説明を聞かされるのはそれこそこっ恥ずかしいので、時間を潰しながらゆっくりコーヒーを淹れて、頃合いを見てから運んでゆくと、
「お兄ちゃんは鬼なの!? 悪魔なの!? 血の色緑なの!?」
皐月に人類の敵でも見るような目で睨まれ、危うくお盆に載せたコーヒーを引っ繰り返すところだった。
「な、なんだよ急に」
「これまでのあらすじを聞いたの! とんでもないところでブツッと切って、待たされる読者の気持ちがわからないの!? つべこべ言ってないで、早く原稿書きなさいよ!」
「だから、書きたいのは山々なんだけどね……」
「スランプとか甘えんじゃないわ、お兄ちゃんみたいな夢見がちで理屈っぽいファンタジー脳の社会不適応者がせっかくその短所を逆手に取って小説家になれたんだから、有り難くその仕事を全うして、他人様に迷惑かけるんじゃないわよ!」
「社会不適応者って……」
ファンタジー脳なのは認めるが、そこまで言われるほど社会に馴染めていないつもりはない。と、自分では思っているけれど、傍から見るとそうでもないのか……?
俄に自信を失う僕の傍らで、
「なんか急に熱くなっちゃったけど、皐月ちゃん、どうしたの?」
榊さんも皐月の剣幕には少し引いている様子だった。
「……すみません。続きを待ってる読者の気持ちがわかりすぎて、つい興奮しました」
我に返った様子で皐月は頭を下げ、コーヒーに口を付けてからぽつぽつと語り出した。
「少女漫画なんですけど……続きが出なくて待ち焦がれてる作品があるんです。それも、とんでもない展開になったところで突然雑誌連載が止まっちゃって、そのまま二年近く再開されてなくて……。でも、同じ作者が別の雑誌で連載してる作品は続いてるんです。だから作者が身体を壊したとかってことじゃないと思うし、その止まっちゃった作品は作者の出世作で、メディアミックスもされてて、不人気で打ち切りってことはないはずで、でもどういう事情で中断してるのか説明がなくて、ネットでは無責任な憶測がいろいろ飛んでるけど本当のところはわからないし、もうファンとしてはいつ続きが読めるのか、まさかもう読めないなんてことはないよね――と毎日じりじりしながら暮らしてるのに……まさか自分の兄まで、こんな思いを他人様にさせようとしてるなんて、申し訳なくて割腹して果てたい気持ちで……!」
コーヒーカップを持つ手をわなわなと震わせる皐月を榊さんが宥める。
「ま、まあまあ落ち着いて」
「もし発売が延びることになったら、公式に理由を告知してください。スランプでも推しの結婚でもなんでもいいので、ちゃんと本当のことを。なぜ続きが出ないのか、出す気はあるのか、もう出ないのか、それがはっきりしないでいるのが読者として一番辛いんです」
「や……いやぁ……スランプ告知はさすがに……」
榊さんが苦笑する。
「というか、弥生くんがスランプになるなんて初めて見るんだけど、原因とかきっかけとか、そういうものさえわかれば、相談に乗ってあげられるし――今だってそのためにこうやって来てるわけだし」
「スランプの原因――」
そうつぶやいた皐月が、次の瞬間にはっとした顔で僕を見た。続けて榊さんの方を見る。
「そういえば、兄は前にもこういうことありました。やらなきゃならないことが何も手に付かなくなって、全然使い物にならなくなったこと」
「えっ、その時の原因は何だったの?」
榊さんが身を乗り出す。
「恋です」
「こい」
榊さんはぱちくりと瞬きして僕を見た。
「弥生くん――もしかして、恋わずらい?」
「え……そういうわけじゃ、ないと思うけど」
僕の返事に対し、皐月が嚙みつくように反論した。
「うそ! だってあの時と同じじゃん! あの時だって受験勉強が完全にストップして、絶体絶命状態にまで行ったでしょ」
「何それ、その話初耳。聞かせて聞かせて」
榊さんがさらに皐月の方へ身を乗り出す。
「兄が高三の時、突然様子がおかしくなったんです。心ここにあらずって感じで日常生活がボケまくり始めて、塾へ行ってるはずなのに学校の成績も下がり続けて、親が心配して事情を訊いても何も答えないし、仕方ないから私が一肌脱いで、兄の同級生に探りを入れてみたんです」
「そしたら?」
「塾の事務員のお姉さんに片想いしてるらしい、っていうんです。だから塾にはいそいそと出かけるけど、陰からこっそり事務のお姉さんを見つめるだけで、勉強が手に付かない。それじゃ何のために塾へ行ってるのかわからないから、思い切って告白して振られてきなよって言ったんですけど」
「振られるの確定なのね」
榊さんが苦笑いを嚙み殺す。
「だって、こんなうじうじした年下の男子高校生が相手にされるわけないじゃないですか。どんな人か見に行ったら、テキパキしたデキる感じの綺麗なお姉さんだったし、絶対もう彼氏いるだろうって思ったし」
「塾まで覗きに行ったの?」
「小学生の部もあったから、見学と称して」
「すごいわね……」
まったくだ。小学校低学年の行動力ではない。
末恐ろしい妹を持った兄の複雑な心中など知らぬげに、皐月は横目で僕を睨む。
「でもこの人、告白する勇気もなければ、諦める決断力もない。とにかくひとりでうじうじ片想いしてるだけで、埒が明かないわけです。これはもう浪人だなって親も覚悟を決めた頃――その事務のお姉さんが来年結婚するって情報が流出したんです」
「おお! それでどうなったの?」
「その話を塾で聞いて、ぶっ倒れて、救急車で運ばれました」
「……それで?」
「三日三晩寝込んで、目が覚めたらスッキリしたみたいで、憑き物が落ちたみたいにバリバリ勉強し始めて、受験もなんとかなって現在に到ります」
「へぇ~~……」
榊さんは僕の顔を見ながら頻りに頷いた。
「……僕を見てにやにやするのやめてくれる」
あの時は、今とは逆に小説を書く趣味だけが捗って、勉強にはまったく集中出来なくなっていた気がする。気がする――というのは、今となってはその頃の記憶が曖昧で、自分で整理して話すことが難しいのだ。傍から見れば、皐月が説明した通りなのかもしれないが、僕の中にはただ、切ない恋の味と、その恋が砕けた痛みだけが残っている。
「弥生くん、今度はどんな人を好きになっちゃったの? また叶わぬ恋の予感なの? それで恋わずらい?」
榊さんの顔が、とても楽しそうだ。
「あの時と同じ感じだから、今回も絶対不毛な片想いですよ。ほらお兄ちゃん、素直に吐けば楽になるから、言っちゃいなよ」
「いや、別に……恋とか、そういうことでは……」
小さな声で反論する僕に、皐月が詰めてくる。
「じゃあどういうことなの?」
「その……ちょっと……気になってる女性なら……いる……けど」
「「どこの誰!?」」
皐月と榊さん、ふたりに詰め寄られて僕はソファの上に脚を折り曲げて縮こまった。
「わ、わからない……」
「わからない、って何。夢の中に出てくる女性、とかファンタジーなこと言わないよね?」
「夢じゃない! ちゃんと現実に存在する人だよ。――名前はわからないけど」
「何それ? 一方的に見かけただけの人とか?」
「話はしたことある。ちょっとだけど」
「どこで知り合った人?」
「そこの公園……」
尋問されるまま、僕は彼女のことを話す羽目になった。
【つづく】